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{{Infobox baseball player
| 選手名 = 小笠原 道大
| 所属球団 =
| 役職 =
| 背番号 =
| 選手写真ファイル名 = Michihiro Ogasawara 2010.jpg
| 写真のコメント = 巨人時代(2010年10月5日、[[横浜スタジアム]])
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1973|10|25}}
| 没年月日 =
| 身長 = 178
| 体重 = 84
| 利き腕 = 右
| 打席 = 左
| 守備位置 = [[一塁手]]、[[三塁手]]、[[捕手]]
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1996}}
| ドラフト順位 = ドラフト3位
| 初出場 = 1997年4月8日
| 最終出場 = 2015年9月21日(引退試合)
| 年俸 =
| 経歴 =
* [[暁星国際小学校・中学校・高等学校|暁星国際高等学校]]
* [[NTT関東硬式野球部|NTT関東]]
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ<br />北海道日本ハムファイターズ]] (1997 - 2006)
* [[読売ジャイアンツ]] (2007 - 2013)
* [[中日ドラゴンズ]] (2014 - 2015)
| 経歴補足題 = 監督・コーチ歴
| 経歴補足 =
* 中日ドラゴンズ (2016 - 2019)
* 北海道日本ハムファイターズ (2020 - 2021)
* 読売ジャイアンツ (2022 - 2023)
| 代表チーム = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本]]
| 五輪 = [[2004年アテネオリンピックの野球競技|2004年]]
| WBC = [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006年]]、[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|2009年]]
}}
{{MedalTop}}
{{MedalSport|男子 [[野球]]}}
{{MedalBronze|[[2004年アテネオリンピック
{{MedalCompetition|[[ワールド・ベースボール・クラシック]]}}
{{MedalGold|[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006]]|野球}}
{{MedalGold|[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|2009]]|野球}}
{{MedalBottom}}
'''小笠原 道大'''(おがさわら みちひろ、[[1973年]][[10月25日]] - )は、[[千葉県]]
[[日本野球機構|NPB]]の現役選手時代は{{by|1997年}}から{{by|2006年}}まで[[北海道日本ハムファイターズ]]({{by|2003年}}までは「日本ハムファイターズ」)で、{{by|2007年}}から{{by|2013年}}までは[[読売ジャイアンツ]](巨人)で、{{by|2014年}}から{{by|2015年}}までは[[中日ドラゴンズ]]でプレーした。日本ハム時代には[[パシフィック・リーグ]]の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]2回、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]1回、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]1回などのタイトルを獲得、また日本ハム時代の2006年にはパ・リーグのMVPを、巨人時代の2007年には[[セントラル・リーグ]]の[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]をそれぞれ受賞している。[[2004年アテネオリンピックの野球競技|2004年アテネオリンピック]]野球の銅メダリスト。
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[千葉市立緑町小学校]]・[[千葉市立磯辺第一中学校]]を卒業した<ref>『中日ドラゴンズ 公式サイト』[[中日ドラゴンズ]]、2018年、2018年9月26日時点のアーカイブ「[https://web.archive.org/web/20180926130758/http://dragons.jp/teamdata/coach/ogasawara_m.html 監督・コーチのプロフィール > 82 小笠原道大]」</ref>。7歳から野球を始め、千葉西[[リトルリーグ]]でプレーする。
{{by|1989年}}に[[暁星国際小学校・中学校・高等学校|暁星国際高等学校]]に進学したが、入学時は全く無名の選手で、当時の同校野球部監督だった[[五島卓道]]曰く「千葉西リトルの(中学)2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった」という<ref name="tochu110506">『[[東京中日スポーツ]]』2011年5月6日付 20面</ref>。それまでは[[遊撃手]]・[[三塁手]]・[[外野手]]の複数のポジションをこなしていたが、高校進学後に[[二塁手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]され、2年生に進級した翌{{by|1990年}}にはチーム事情から[[捕手]]を兼ねる(ただし、本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという){{R|tochu110506}}。同年には同期の[[エース (野球)|エース]]・[[北川哲也]]を擁し、二塁手、[[打順#五番打者|五番打者]]として夏の[[全国高等学校野球選手権千葉大会|千葉大会]]決勝に進むが、[[成田高等学校・付属中学校|成田高校]]に敗れ甲子園出場を逸する。3年生だった{{by|1991年夏}}の千葉大会では主将を務めたが<ref>『[[朝日新聞]]』1991年7月18日東京朝刊千葉版「「全員野球ができた」 暁星国際(夏空の下で) 高校野球千葉大会」([[朝日新聞東京本社]]・千葉総局)</ref>、2回戦で[[千葉県立銚子商業高等学校|銚子商業高校]]に6対0で敗退した<ref>『[[読売新聞]]』1991年7月18日東京朝刊高校野球A面19頁「野球 全国高校地区予選17日 千葉」([[読売新聞東京本社]])</ref>。高校通算[[本塁打]]は0本で、県内でも注目された選手ではなかった<ref>{{Cite news|和書 |title=「普通の選手」が球界を代表するまで 巨人・小笠原の成長の裏は |newspaper=イザ! |date=2011-05-15 |author=小川寛太 |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/npb/507042/ |publisher=[[産経デジタル]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20110517222129/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/npb/507042/ |archive-date=2011年5月17日}}</ref>。
コツコツと努力を続ける愚直な小笠原の姿を見た五島が「高校通算30本塁打を打った選手」という嘘の推薦をしたことにより、卒業後は[[社会人野球]]の[[NTT関東硬式野球部|NTT関東]]に入社、{{by|1992年}}から{{by|1996年}}まで同チームでプレーする。出生から社会人時代までを千葉県で過ごした<ref name="スポーツ報知20061028"/>。ポジションは「仮に選手としてダメでもカベ([[ブルペン捕手]])で残れるから」という理由{{R|tochu110506}}で捕手を続ける。この間、[[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年]]・[[1995年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1995年]]と2年続けてNPBドラフト会議の指名候補に挙がるが<ref>『朝日新聞』1994年11月5日東京朝刊第一スポーツ面23頁「社会人 関東に実力派投手 右は[[北川哲也|北川]]、左は[[富岡久貴|富岡]](ドラフト展望)」(朝日新聞東京本社)</ref><ref>『朝日新聞』1995年11月9日東京朝刊第三スポーツ面31頁「社会人 [[仁志敏久|仁志]]ら「五輪よりプロ」(ドラフト展望)」(朝日新聞東京本社)</ref>、指名は受けられなかった<ref>『[[中日新聞]]』1995年11月23日朝刊運動1面29頁「プロ野球ドラフト会議 即戦力なし 育成に力を 中日総括 [[福留孝介|福留]]、[[原俊介|原]]を外しショック 新たな補強に総力」([[中日新聞社]])</ref>。NTT関東では[[沖原佳典]]とともに中心打者として活躍し、後に日本ハムでも同僚となる[[立石尚行]]と[[バッテリー (野球)|バッテリー]]を組む。1996年の[[第67回都市対抗野球大会|第67回都市対抗野球]]に、沖原、立石とともに[[日本製鉄かずさマジック|新日鐵君津]]の補強選手として出場。[[JR東海硬式野球部|JR東海]]との1回戦では[[打順#二番打者|二番打者]]として起用され、3本の二塁打を放つなど活躍、立石、[[森慎二]]らの完封リレーで勝ち上がる。[[ヤマハ硬式野球部|ヤマハ]]との2回戦でも勝ち越しの本塁打を放ち、準々決勝に進むが[[朝日生命硬式野球部|朝日生命]]に敗退した。この時のチームメイトに[[打順#四番打者|四番打者]]の[[松中信彦]]がいる。
1996年11月21日に開催された[[1996年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|NPBドラフト会議]]で[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]から3位指名を受け<ref>『[[毎日新聞]]』1996年11月21日東京夕刊第4版12頁「円満ドラフト [[井口資仁|井口]]ら16人〝相思相愛〟」([[毎日新聞東京本社]]) - [[新聞縮刷版|縮刷版]]834頁。</ref>、[[契約金]]7000万[[円 (通貨)|円]]、[[年俸]]1200万円の契約条件で入団に合意した<ref>『毎日新聞』1996年12月18日東京朝刊第14版スポーツ面24頁「ドラフト交渉 72人中71人が入団 契約金1億円は20選手」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版686頁。</ref>。背番号は2で<ref>『朝日新聞』1996年12月21日東京朝刊第一スポーツ面21頁「日本ハム、新人入団発表(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)</ref>、ドラフト指名を受けた当時は「プロで自分の力を試してみたい。広角打法のバッティングをアピールしたい」と語っていた<ref>『毎日新聞』1996年11月22日東京朝刊千葉地方版「プロ野球 ドラフト会議 [[日本製鉄かずさマジック|新日鉄君津]]から3人、創部以来の快挙 /千葉」「開幕1軍出場目指す! ダイエー・[[松中信彦]]内野手/西武・[[森慎二|森]]投手と[[古屋剛|古屋]]内野手」「[[NTT関東硬式野球部|NTT関東]]の小笠原捕手は日ハムが指名」(毎日新聞東京本社・千葉支局)</ref>。
=== 日本ハム時代 ===
{{by|1997年}}は開幕一軍入りを果たし、内野手登録だったものの23試合で[[捕手]]として先発出場している。このころ、チームの先輩選手だった[[落合博満]]から「オマエは将来、球界を背負って立つ打者になれる」と声をかけられていた<ref name="中日スポーツ20061106">『[[中日スポーツ]]』2006年11月6日付第5版1頁「福留、ウッズと最強トリオだ FA宣言小笠原獲り参戦 110発348打点 落合監督の「人の縁」で攻める」([[中日新聞社]])</ref>。また、小笠原も落合を尊敬する打者として慕っていたという<ref>『[[北海道新聞]]』2006年11月6日朝刊第16版スポーツ面19頁「小笠原FA 条件重視なら移籍か」([[北海道新聞社]]) - 縮刷版頁。</ref>。
{{by|1998年}}に、それまでの内野手登録から捕手登録に変更される。主に代打での出場だったが、打率.302と好成績を残す。5月22日に捕飛を取ろうとして左手人差し指を[[骨折]]し、登録抹消されたが、傷が完治する前の7月7日に一軍登録されると、その日の試合で[[代打]]本塁打を放つ(この時折れた指は当然バットを握れず、指を真っ直ぐに立てて固定した状態だった)。このことがきっかけで「ガッツ」の愛称が定着した(後述)。9月28日には代打出場した後に右翼手の守備に就いている(一軍で外野守備に就いたのはこの一度のみ)。
{{by|1999年}}は打撃を活かすため一塁手に転向。[[西浦克拓]]とのポジション争いの結果、[[一塁手]]の座を勝ち取る。足の速さを買われて[[打順#二番打者|二番打者]]を務め、一切[[バント]]をしないことから「'''バントをしない2番打者'''」として開幕からレギュラーに定着しブレイク。[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]のルーキー・[[松坂大輔]]のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となる2点本塁打を放った。打率.285(リーグ7位)、25本塁打(リーグ5位)、83打点(リーグ6位)などリーグ内でも上位の成績を残す<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_1999.html |title=年度別成績 1999年 パシフィック・リーグ |publisher=日本野球機構 |date= |accessdate=2017-03-05}}</ref>。
{{by|2000年}}に打率.329(リーグ3位)、31本塁打(リーグ4位)、102打点(リーグ4位)、リーグ新記録(当時)の126得点、球団新182安打(当時)を記録して[[安打#最多安打|最多安打]]のタイトルを獲得。またリーグ3位の24[[盗塁]]を記録、球団では[[張本勲]]以来の3割20本20盗塁を達成。同年は126得点で[[落合博満]]が持っていたパ・リーグ年間記録を更新(翌年に[[タフィ・ローズ]]が更新)。
{{by|2001年}}はシーズン当初の打順は主に2番や3番であったが、後半戦から1番に定着。[[千葉ロッテマリーンズ]]の[[福浦和也]]との首位打者争いには敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_2001.html |title=年度別成績 2001年 パシフィック・リーグ |publisher=日本野球機構 |date= |accessdate=2017-03-05}}</ref>。ただ本塁打数は32本と前年を上回ったものの同年から試合数が増加したことや飛ぶボールの影響かリーグ総本塁打数が1000本を超える打高年になったこともあり順位を落とし(リーグ8位)、打点も86打点と前年を下回った(リーグ13位)。しかしながら前年に続きパ・リーグ最多安打を記録(195安打)。195安打はシーズン安打数両リーグで歴代2位の数字(当時)であり、[[イチロー]]以来、史上2人目となる複数年での180安打以上も記録した。同年オフには推定年俸1億1000万円で契約更改した<ref name="週刊ベースボール20191202">{{Cite web |和書 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191202-12 |title=脅威の4億5000万円ダウン……年俸額の上下動が激しかった選手たちとは? |website=週刊ベースボールONLINE |date=2019-12-02 |accessdate=2024-01-10}}</ref>。
{{by|2002年}}も、[[阪神タイガース]]へ移籍した[[片岡篤史]]が抜けた打線の柱として[[クリーンナップ|3番打者]]に定着。同年の新[[ストライクゾーン]]導入もあり(翌年以降は廃止された)リーグ平均打率が.255(00年代最低値)と他の打者が成績を落とす中でそれを物ともせずに打ちまくり、打率.340で前年逃した[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_2002.html |title=年度別成績 2002年 パシフィック・リーグ |publisher=日本野球機構 |date= |accessdate=2017-03-05}}</ref>。[[打率#打率傑出度|打率傑出度(RBA)]]や攻撃力の傑出度を測る[[RC (野球)#RCWIN|RCWIN]]等は同年の数値が自身最高記録である。本塁打は32、打点は81と数値自体は前年と同程度だったが、それぞれリーグ6位、リーグ8位と順位を上げた。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶えた。同年オフには推定年俸3億円で契約更改した{{R|週刊ベースボール20191202}}。
{{by|2003年}}にはチーム事情から[[三塁手]]に転向。シーズン通して首位打者争いを繰り広げ、シーズン序盤は西武の[[和田一浩]]と争い、阪神から日本ハムに移籍してきた[[坪井智哉]]や[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の[[谷佳知]]とシーズン終盤まで繰り広げた。坪井・谷らを退けて打率.360という高打率で2年連続で首位打者を獲得すると同時に[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]({{要出典範囲|date=2020年12月|パ・リーグ歴代3位}}、{{要出典範囲|date=2020年12月|平成時代のプロ野球記録}})のタイトルも獲得。また、31本塁打(リーグ7位)、100打点(リーグ7位)を記録し2000年から4年連続で3割・30本塁打を達成。
本拠地がそれまでの[[東京ドーム]]から[[札幌ドーム]]へ移転し、球団名も「北海道日本ハムファイターズ」に改称された{{by|2004年}}は、右第12浮肋骨骨折で約2週間にわたって[[出場選手登録]]を抹消され、また[[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|アテネ五輪出場]]による離脱の影響もあり、本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。それでも、打率は.345(リーグ2位)であり、5年連続で打率3割を記録した<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_2004.html |title=年度別成績 2004年 パシフィック・リーグ |publisher=日本野球機構 |date= |accessdate=2017-03-05}}</ref>。7月24日に[[社会人野球]]出身のプロ選手では史上最速で通算1000安打を達成。また、打率.345を記録したことで4年連続で打率.330以上を記録している。なお、同年からは[[千葉県]]の自宅に家族を残して札幌に単身赴任していた<ref name="中日スポーツ20061106"/>。
{{by|2005年}}には、自己最多の37本塁打を記録するも、6年ぶりに打率3割を切った。三振も自己最多の114三振を記録。チームも5位に沈んだ。
{{by|2006年}}は主に一塁を守り、打率.313・32本塁打・100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに自身初の[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]][[最優秀選手 (野球)|MVP]]にも輝き、ファイターズの25年ぶりの優勝・44年ぶりの日本一に貢献した<ref>{{Cite web |和書 |url=https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_2006.html |title=年度別成績 2006年 パシフィック・リーグ |publisher=日本野球機構 |date=2006 |accessdate=2025-06-20}}</ref>。同年の年俸は3億8000万円で、同年までに通算4000打数以上のNPB打者の中では史上2位となる打率.3197を記録していた<ref name="中日スポーツ20061106"/>。
=== 巨人時代 ===
[[ファイル:Tokyo Dome (Ogasawara Swing).jpg|thumb|打席でスイングする小笠原(2007年)]]
2006年5月15日に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント (FA) ]]の権利を取得し<ref>『東京新聞』2006年5月16日朝刊運動1面23頁「日本ハム小笠原 FA資格を取得」([[中日新聞東京本社]])</ref>、シーズン終了後の同年11月5日、FA権の行使を表明<ref>{{Cite news|和書 |title=日本ハム・小笠原がFA権行使を表明 |newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-05 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061105-OHT1T00141.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061107051151/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20061105-OHT1T00141.htm |archive-date=2006年11月16日}}</ref>、同月8日にはNPBコミッショナー事務局からFA選手として公示された<ref>{{Cite news|和書 |title=小笠原獲りへ原監督が出馬 最大級の誠意「飛んでいく」 |newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-09 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061109-OHT1T00040.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061114132216/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061109-OHT1T00040.htm |archive-date=2006年11月14日}}</ref>。日本ハムは3年15億円程度の条件を提示したと報じられたが、同年11月13日までに行われた3度の残留交渉でも合意には至らなかった<ref>{{Cite news|和書 |title=小笠原が日本ハムと交渉も歩み寄りなし |newspaper=北海道日刊スポーツ |date=2006-11-14 |edition=紙面から |url=http://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/p-hf-tp0-20061114-116810.html |publisher=北海道日刊スポーツ新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061117155034/http://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/p-hf-tp0-20061114-116810.html |archive-date=2006年11月17日}}</ref>。一方で[[読売ジャイアンツ]](巨人)からも入団オファーを受け、翌14日に巨人と初の入団交渉を行った<ref>{{Cite news|和書 |title=巨人が小笠原と初交渉 |newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-14 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061114-OHT1T00118.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061116041513/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061114-OHT1T00118.htm |archive-date=2006年11月16日}}</ref>。当初は巨人だけでなく、現役時代から小笠原と接点があった落合が監督を務めていた[[中日ドラゴンズ]]も獲得に動くことが有力と見られていたが<ref name="中日スポーツ20061106"/>、落合は同日、小笠原の獲得を見送ることを表明した<ref>{{Cite news|和書 |title=中日撤退で巨人・小笠原22日にも誕生!…原監督の情熱伝わった |newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-15 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061115-OHT1T00042.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061130051508/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061115-OHT1T00042.htm |archive-date=2006年12月8日}}</ref>。巨人は当時、[[小久保裕紀]]のFA移籍によって三塁手が空位になることから、小笠原を新たな三塁手として起用することを構想していた一方、中日も小笠原を獲得した場合は同年に三塁手としてプレーしていた[[森野将彦]]を外野手に転向させることを検討しており<ref name="中日スポーツ20061106"/>、球団オーナーの[[白井文吾]]からも獲得資金(推定総額約20億円)のバックアップを約束されていたが<ref>『スポーツ報知』2006年11月8日付第9版プロ野球面4頁「小笠原資金20億円中日オーナー約束」(報知新聞社)</ref>、小笠原が千葉県に家族を残して単身赴任していること、金銭条件、三塁手の定位置といった観点から獲得断念を決めたと報じられている<ref name="中日スポーツ20061115"/>。また当時、落合は中日の補強ポイントは外野手であると語っており<ref>『東京新聞』2006年11月15日朝刊運動1面21頁「小笠原が巨人と初交渉 中日 動かず」(中日新聞東京本社)</ref>、「小笠原が外野手なら(自ら)動いてでも獲りにいっただろうけど…」とコメントしていた<ref name="中日スポーツ20061115">『中日スポーツ』2006年11月15日付第5版1頁「パMVP 小笠原獲り竜見送り 落合監督「外野手なら動いた」」(中日新聞社)</ref>。また地元・千葉県に[[千葉マリンスタジアム|本拠地]]を置く[[千葉ロッテマリーンズ]]も左の強打者の補強が課題だったことから、球団代表の[[瀬戸山隆三]]が獲得に意欲を見せており、また地元政財界からも獲得を求める声が上がっていたが<ref name="スポーツ報知20061028">『スポーツ報知』2006年10月28日付2頁「ロッテが日本ハム・小笠原道大の獲得を検討 瀬戸山球団社長「ぜひ欲しい」」(報知新聞社)</ref><ref>『[[スポーツ報知]]』2006年11月6日付第9版1頁「小笠原退団 きょうFA行使 ハムに別れ 巨人獲得前進!! あす改めて会見へ ドライな球団姿勢に違和感 悩み抜いて決断 巨人、中日、ロッテで争奪戦 ガッツ意思待つ」([[報知新聞社]])</ref>、当時の球団の経営事情から獲得を断念したという<ref>{{Cite news|和書 |title=【ロッテ】丸佳浩に4年20億円用意へ 千葉県出身FA権取得 |newspaper=スポーツ報知 |date=2018-10-13 |url=https://hochi.news/articles/20181013-OHT1T50003.html?page=1 |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20250620122009/https://hochi.news/articles/20181013-OHT1T50003.html?page=1 |archive-date=2025年6月20日}}</ref>。
巨人と2度目の契約交渉を行った同年11月22日、巨人への移籍を正式に表明、残留要請をしていた日本ハムには断りの連絡を入れた<ref>{{Cite news|和書 |title=小笠原が巨人と4年契約!さらば日本ハム |newspaper=北海道日刊スポーツ |date=2006-11-22 |url=https://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/f-hf-tp0-20061122-120244.html |publisher=[[北海道日刊スポーツ新聞社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20070218083635/https://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/f-hf-tp0-20061122-120244.html |archive-date=2007年2月18日}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=小笠原が巨人入り!4年契約 |newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-22 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061122-OHT1T00128.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061201060143/https://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061122-OHT1T00128.htm |archive-date=2006年12月1日}}</ref>。同年12月4日、総額16億円で{{by|2007年}}から{{by|2010年}}までの4年契約を結び、日本ハム時代のトレードマークだった髭を「男のけじめ」として自ら剃り落として入団会見を行った<ref name="スポーツ報知20061205">{{Cite news|和書 |title=小笠原ひげ剃った!…入団会見で「男のケジメ」 |newspaper=[[スポーツ報知]] |date=2006-12-05 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061205-OHT1T00027.htm |publisher=[[報知新聞社]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061208061133/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061205-OHT1T00027.htm |archive-date=2006年12月8日}}</ref>。なお、巨人球団会長の[[渡邉恒雄]]はそれまで選手が髭を生やすことに否定的な姿勢を見せていたが、小笠原の髭については「好きなようにしたらいいよ。時代が違う」と語っていた<ref>{{Cite news|和書 |title=ひげ容認!巨人14日に小笠原と初交渉
|newspaper=スポーツ報知 |date=2006-11-14 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061114-OHT1T00026.htm |publisher=報知新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20061115072954/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20061114-OHT1T00026.htm |archive-date=2006年12月8日}}</ref>。本人は「野球以外のことでネタになりたくなかった。髭で野球をやるわけではない。プレーでちゃんとすればいいので交渉時から剃っていった。ドラゴンズに行ったときは『髭が見たい』というファンや周りの方の要望が多かったので生やした」と当時のことを回顧している<ref>BS Japanext『ダグアウト』#43</ref>。背番号は日本ハム在籍時と同じ'''2'''<ref name="スポーツ報知20061205"/>。
{{by|2007年}}、開幕戦に「三番・三塁」としてスタメン出場。4月3日の中日戦(東京ドーム)にて、[[山本昌]]から巨人移籍後初本塁打を打った。5月28日の[[オリックス・バファローズ]]戦(東京ドーム)では自身初の1試合3本塁打を記録。7月24日には移籍後初めて[[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧|四番]]を任され、9月15日には史上4番目の速さで通算1500安打を達成。最終的には二年連続の3割30本を達成。前年に続いての2年連続[[最優秀選手 (野球)|MVP]]を獲得した。なおセ・パ両リーグでのMVP受賞は[[江夏豊]]以来2人目であり、野手としては史上初の受賞となった。加えて、リーグを跨いでの2年連続MVP獲得も史上初である<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/07/25/0015500301.shtml |title=ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待 |date=2022-07-25 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。
{{by|2008年}}、前半戦は左膝の手術の影響もあり、打率は.250前後に低迷。これが原因で、1999年から9年連続で出場していた[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]への出場を逃すとともに、[[2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表]]メンバーにも選出されなかった。しかし、試合に出場し続けることで7月頃になると「(本人曰く)スイッチが入った」ように復活。シーズン終盤9月の月間MVPを受賞したり、7月8日にチームが阪神に最大13ゲーム差をつけられた翌日からの残り66試合で11本の'''オガラミ弾'''<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/09/21/kiji/K20080921Z00002030.html ラミ口火40号!続く“オガラミ”弾不敗神話] スポニチアネックス 2008年9月21日掲載</ref>(自分自身と[[アレックス・ラミレス]]の[[本塁打|アベック本塁打]]のことで2008年は[[王貞治]]・[[長嶋茂雄]]のアベック本塁打ON弾をも凌ぐ15本)を記録したりするなどして復調。チームも小笠原の復調そのままに最大13ゲーム離されていた阪神に追いつき、逆転優勝を達成。前年・前々年に匹敵する成績を残し、移籍後初の全試合出場も果たした。6月8日、プロ入り後初の犠打を記録。9月3日の対[[広島東洋カープ]]戦([[大阪ドーム]])で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)となる[[サイクル安打]]を達成。更に9月19日には史上35人目となる通算300号本塁打を打った(球団史上8人目)。10月23日の[[クライマックスシリーズ]]第2ステージの対[[中日ドラゴンズ]]戦で、[[朝倉健太]]から1回裏に2点本塁打、2回裏には満塁本塁打と2打席連続で本塁打を打ち、クライマックスシリーズ新記録となる1試合6打点を記録した。
{{by|2009年}}は不動の3番打者として安定した働きを見せ、チームのリーグ3連覇に貢献。オールスターゲームにも選出された。また、移籍後初の3割30本塁打100打点を記録した(打点はキャリアハイ)。東京ドームでの通算本塁打数が[[松井秀喜]]の146号を上回る147号本塁打を打ったことで、現役最多となった。8月27日の対中日戦で通算1000打点を、9月8日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦で通算1000得点を達成した。
{{by|2010年}}は4月7日の阪神戦で苦手としていた[[阪神甲子園球場]]で[[久保康友]]から初本塁打を打ち、ヒーローインタビューでは、一軍内野守備走塁コーチである[[木村拓也]]が亡くなった日であることも受けて「本当に一人一人思うところがあって、そのなかでゲームをしたと思います。そういう意味で全員で勝利を掴みとれました。木村コーチに勝たせてもらったと思います」と語った<ref>{{Cite web |和書 |date=2010-04-08 |url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/156943 |title=木村コーチ死去、各球場で試合前に黙とう |publisher=日テレNEWS24 |accessdate=2020-10-26}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |date=2010-04-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/04/08/kiji/K20100408Z00002260.html |title=魂の一撃…小笠原「木村コーチが勝たせてくれた」 |publisher=スポニチアネックス |accessdate=2020-10-26}}</ref>。打率.359、9本塁打、29打点の好成績で通算8度目となる3、4月の月間MVPを授賞。5月30日の対西武戦で、[[岸孝之]]から史上24人目の通算350本塁打を達成。6月4日の対日本ハム戦で[[金森敬之]]からバックスクリーンへ本塁打を打ち、史上18人目となる[[全球団から本塁打]]を達成した。最終的にこの年も3割30本を記録し、移籍後4年連続の3割30本と、[[王貞治]]の18年連続、[[落合博満]]の13年連続に次ぐ11年連続の[[OPS (野球)|OPS]].900以上を達成。この年で4年契約が終わり、11月29日の契約更改で5000万円増となる推定年俸4億3000万円の2年契約を結んだ<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/11/30/kiji/K20101130Z00002170.html |title=小笠原5000万円増!“生涯巨人”宣言も |publisher=スポーツニッポン |date=2010-11-30 |accessdate=2024-01-10}}</ref>。
{{by|2011年}}は新外国人の[[ラスティ・ライアル]]の加入・原監督の意向で三塁手に挑戦した[[亀井義行]]の起用・小笠原の負担軽減などを視野に入れ、一塁手に固定された<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/101226/bsa1012260505000-n1.htm V奪回へ!巨人・小笠原、一塁固定] SANSPO.COM 2010年12月26日</ref>。5月5日には、対阪神戦の8回裏に[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]から中前安打を記録し、通算2000安打を達成した。通算1736試合での2000安打達成は[[川上哲治]]、[[長嶋茂雄]]、[[張本勲]]に次ぐ歴代4番目の早さとなる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/05/kiji/K20110505000761290.html 小笠原2000本安打!歴代4位の1736試合で達成] スポニチアネックス 2011年5月5日</ref>。しかし5月14日に左脹脛負傷で登録抹消され、8月24日にも左手首はく離骨折で登録抹消されるなど故障や不調に苦しみ、83試合の出場にとどまり、打率.242、5本塁打、20打点で、13年ぶりに規定打席に到達できずシーズンを終えた。推定年俸4億3000万でサインした{{R|週刊ベースボール20191202}}。
{{by|2012年}}は開幕スタメンで出場するも前年同様打撃不振に苦しみ、プロ入り最少の34試合の出場に留まり、打率.152、15年ぶりにシーズン無本塁打となった。2年契約が終わり、12月5日の契約更改では当時の[[日本野球機構|NPB]]史上最大の減額となる3億6000万円減の推定年俸7000万円で更改した{{R|週刊ベースボール20191202}}。これらの時期が、打者に不利と言われた[[統一球|飛ばない統一球]]の導入と重なったため、統一球が向かい風となって成績を落とした選手の一人としてよく挙げられる。
{{by|2013年}}春季キャンプ中の2月17日、フリー打撃で左手の人差し指を15針縫う怪我を負ったこともあり<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/02/17/kiji/K20130217005216510.html 小笠原 左手指に裂傷 15針縫う] スポーツニッポン 2013年2月17日配信</ref>開幕を二軍で迎えたが、5月18日の対西武戦(西武ドーム)で4回に二死満塁の場面で代打で同年初出場し、三振に倒れる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/18/kiji/K20130518005831030.html 小笠原が戻ってきた!今季初打席はフルスイングで三振] スポーツニッポン 2013年5月18日配信</ref>。6月5日の対日本ハム戦(東京ドーム)では延長11回裏無死二・三塁の場面で代打で出場し、[[増井浩俊]]から自身2年ぶりの本塁打となるサヨナラ3点本塁打を打つ<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/06/05/kiji/K20130605005951820.html 巨人 サヨナラ勝ちで首位キープ!小笠原 サヨナラ3ラン] スポーツニッポン 2013年6月5日配信</ref>。しかし同月29日に一軍登録抹消されると、怪我などもあって以降の一軍昇格はなく、この年は22試合出場で打率.250、本塁打1本に終わり、[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の出場資格枠40人にも入らなかった<ref>[https://web.archive.org/web/20131110063638/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20131107/bbl1311070721005-n1.htm 巨人・小笠原、大減俸で揺れる進退 残留かトレード要員かそれとも…] zakzak 2013年11月7日配信</ref>。シーズン終了後の11月10日にFA宣言する意思を表明<ref>[https://www.sanspo.com/article/20131111-T4PW2T5CTRM5DETKHOSUQ4CUJI/ 巨人・小笠原、FA宣言!中日が獲得参戦濃厚] SANSPO.COM 2013年11月11日配信</ref>。球団としては構想外ではあったが、功労者を戦力外として出て行かせてはならないと、残留を勧めた上で出場機会のある他球団への移籍も考えていた<ref>[https://web.archive.org/web/20200128232129/https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/203374/ 小笠原 突然のFA宣言の裏にあった「確信」] 東スポWeb 2013年11月12日配信</ref>。9月より球団と話し合いを重ね、宣言の数日前に「新しいところで挑戦」とし決断した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131110-1216395.html 【巨人】小笠原FAへ「新しいところで」] 日刊スポーツ 2013年11月10日配信</ref>。
=== 中日時代 ===
[[画像:2015D36.jpg|thumb|2015年5月5日]]
2013年11月26日に中日への入団が発表され、同日入団会見が行われた<ref>[https://dragons.jp/news/2013/13112601.html FAの小笠原選手が入団] 中日球団公式サイト 2013年11月26日配信</ref>。背番号は[[落合博満]]GM(当時)の現役時代の背番号である「3」と「6」を合わせた「'''36'''」となった。
{{by|2014年}}は、代打の切り札として起用される場面が多かったが、開幕直後は[[森野将彦]]が休養日の際のスタメン、交流戦は指名打者での出場もあった。4月9日の対ヤクルト戦で[[押本健彦]]から移籍後初の2点本塁打を打ち、また代打6打数連続安打(歴代3位)・代打9打席連続出塁(歴代2位)を記録するなど、打席数は100打席に満たなかったものの打率.301を記録する活躍を見せた。また、巨人時代に剃っていた髭もトレードマークとして再び生やしている<ref>{{Cite news |和書 |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20140108/dra14010817020001-n1.html |title=中日・小笠原、ひげたくわえ自主トレ「新鮮な気持ち」 |newspaper=SANSPO.COM |date=2014-01-08 |accessdate=2014-10-18 |publisher=サンケイスポーツ}}</ref>。
{{by|2015年}}7月に入って出場選手登録を抹消され同28日に再び一軍に昇格したが、わずか2試合で再び二軍へ降格した。一部スポーツ紙から翌年以降の去就が注目される報道がなされる中9月12日に一軍に復帰し、その日の対ヤクルト戦で[[小川泰弘]]より[[適時打]]を打った<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/13/kiji/K20150913011119480.html ガッツ 現役最多2119安打 去就は語らず淡々と…登録即代打でV打] スポーツニッポン 2015年9月13日</ref><ref>中日・小笠原引退へ…さすがの代打V打([https://www.daily.co.jp/baseball/2015/09/13/0008390957.shtml 1/3])([https://www.daily.co.jp/baseball/2015/09/13/0008390957.shtml?pg=2 2/3]) デイリースポーツ 2015年9月13日</ref>。
2015年9月15日、[[中日新聞]]の紙上において[[谷繁元信]][[選手兼任監督|監督兼選手]]とともに同年限りで現役を引退することが報じられ<ref>「中日新聞」2015年9月15日朝刊第29面「小笠原も今季限り」</ref>、同17日に[[名古屋市]]内で記者会見を行い、正式に引退を表明<ref>{{Cite web |和書 |url=https://dragons.jp/news/2015/150917_ogasawara.html |title=★小笠原道大選手が引退 |publisher=中日ドラゴンズ 公式サイト |date=2015-09-17 |accessdate=2015-09-17}}</ref>。[[引退試合]]となった9月21日の古巣・巨人戦では5番一塁手として[[スターティングメンバー|スタメン]]出場し、4回の第2打席で遊撃への内野安打(通算2120本目の安打)を打って[[前田智徳]]を上回る歴代通算安打数単独26位となる。7回の第3打席では[[スコット・マシソン]]の155km/hを強振し、左翼線に安打性のライナーを打ったが左翼を守っていた亀井に好捕され、これが最終打席になった。ベンチに戻る前に「現役引退」のアナウンスが流れると、三塁ベンチから出た巨人・[[高橋由伸]](後に現役引退を表明、巨人[[プロ野球監督|監督]]に就任)から花束を贈呈され、握手を交わした。さらに2人の娘からも花束を受け取ると、マシソンら巨人の選手らも拍手で小笠原を見送った<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1541763.html 中日小笠原が引退試合 最後まで満面の笑み] 日刊スポーツ 2015年9月21日</ref>。10月3日には{{by|2016年}}シーズンからの[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]監督就任が決定し、10月5日の[[フェニックスリーグ]]より指揮を執ることが発表された<ref>{{Cite web |和書 |url=https://dragons.jp/news/2015/15100301.html |title=小笠原選手が二軍監督に就任 |publisher=中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース |date=2015-10-03 |accessdate=2015-10-03}}</ref>。背番号は'''82'''<ref>[http://dragons.jp/teamdata/coach/ogasawara_m.html 中日ドラゴンズ 公式サイト - 監督・コーチのプロフィール 小笠原 道大(2軍監督)] - 2015年12月7日閲覧</ref>(この時点では背番号「36」を着用して指揮を執っていた)。ちなみにこの10月5日の時点では、[[一軍]]は対広島最終戦が7日に雨天順延となっていたため、全日程を完了していなかった(7日は同じく同年で引退の[[山本昌]]の引退登板であり、同年で引退する兼任[[プロ野球監督|監督]]の谷繁ももう一度だけ選手登録されたが出場はしなかった)。
=== 引退後 ===
[[ファイル: Doragons ogasawaramichihiro 20160812.jpg|thumb|[[中日ドラゴンズ]]二軍監督時代<br />2016年8月12日、[[阪神鳴尾浜球場]]にて]]
{{by|2016年}}からは中日の二軍監督を務めた。同年ウエスタン・リーグ2位、翌{{by|2017年}}も2位だったが、{{by|2018年}}には最下位となり、{{by|2019年}}は4位で全日程を終え、9月28日に同シーズンを以て中日の二軍監督を退任することが発表された<ref>[https://dragons.jp/news/2019/19092801.html 来季の契約について] 中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース (2019年9月28日)</ref><ref>{{Cite news |和書 |url=https://web.archive.org/web/20190928032926/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201909/CK2019092802100034.html |title=小笠原2軍監督、森野2軍コーチらが退任 球団から来季契約結ばずと告げられた |newspaper=東京中日スポーツ |publisher=中日新聞社 |date=2019-09-28 |accessdate=2019-10-11}}</ref>。
2019年10月9日、一軍ヘッド兼打撃コーチとして14年ぶりに古巣の日本ハムへ復帰することが発表され<ref>{{Cite web |和書 |url=https://hochi.news/articles/20191009-OHT1T50094.html?page=1 |title=【日本ハム】小笠原道大氏がヘッド兼打撃コーチで14年ぶり古巣復帰…10日に就任会見へ |publisher=スポーツ報知 |website=hochi.news |date=2019-10-09 |accessdate=2019-10-11}}</ref>、翌10日に会見が行われた<ref>{{Cite news |和書 |url=https://web.archive.org/web/20191011040250/https://www.sanspo.com/baseball/news/20191010/fig19101016230002-n1.html |title=小笠原コーチ「北海道で恩返ししたい」06年以来の日本ハム復帰 |newspaper=サンケイスポーツ |publisher=産業経済新聞社 |date=2019-10-09 |accessdate=2019-10-11}}</ref>。{{by|2021年}}10月28日、契約満了に伴い、レギュラーシーズン終了をもって退団することが発表された<ref>{{Cite web |和書 |title=コーチ退団のお知らせ |url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00003612.html |website=北海道日本ハムファイターズ オフィシャルサイト |date=2021-10-28 |accessdate=2021-10-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/10/28/0014798013.shtml |title=小笠原道大ヘッド兼打撃コーチが日本ハムを退団 球団が発表 古巣復帰から2年 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2021-10-28 |accessdate=2022-11-12}}</ref>。
{{by|2021年}}11月13日、読売ジャイアンツの二軍打撃コーチに就任することが発表された<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202111120001398.html |title=巨人2軍打撃コーチに小笠原道大氏、3軍監督に駒田徳広氏 亀井らも入閣 |publisher=日刊スポーツ |date=2021-11-13 |accessdate=2021-11-14}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.giants.jp/news/2124/ |title=来季のコーチングスタッフについて |website=読売巨人軍公式サイト |date=2021-11-15 |accessdate=2021-11-16}}</ref>。
{{by|2022年}}10月13日、2023年シーズンから三軍打撃コーチに配置転換されることが発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://www.giants.jp/news/2980/ |title=来季のコーチングスタッフ について |website=読売巨人軍公式サイト |date=2022-10-13 |access-date=2022-10-13}}</ref>。12月14日、翌年からの背番号が'''100'''になると発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://www.giants.jp/news/5237/ |title=コーチ、選手の背番号追加・変更について |website=読売巨人軍公式サイト |date=2022-12-15 |accessdate=2022-12-15}}</ref>。{{by|2023年}}10月10日、退任したことが発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://www.giants.jp/news/20208/ |title=コーチングスタッフの退任について |website=読売巨人軍公式サイト |date= |access-date=2023-10-10}}</ref>。
== 代表経歴 ==
2004年シーズン中に[[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|アテネオリンピック野球日本代表]]に選出され、9試合に出場し、打率.241、9打点を記録。銅メダルを獲得した。
[[ファイル:WBC2006 Michihiro Ogasawara.jpg|thumb|right|第1回WBCにおいて一塁守備に就く小笠原]]
2006年開幕前の3月に開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]に選出された。第1ラウンドで日本代表チーム初本塁打を打ち、決勝の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・キューバ代表|キューバ]]戦では押し出し[[四球]]や[[犠牲フライ]]で3打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。
2009年開幕前の3月に開催された[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]の[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。背番号は'''9'''([[城島健司]]が「2」を付けたためで、2004年のアテネ五輪の時と背番号が入れ替わっている)。1次リーグでは不振だったが、2次リーグに入ると復調。適時打を打つなど主に5番打者として全試合に出場し、決勝でも先制打を打って日本の2大会連続2度目の優勝に貢献した。
== 選手としての特徴 ==
=== 打撃 ===
2005年を除いて2000年から2010年まで打率.300以上を記録したアベレージヒッターでありながら、コンスタントに30本以上本塁打を打つ長打力も持ち合わせていた<ref name="Top">{{Cite book |和書 |author=[[山下大輔]]監修 |year=2004 |title=トッププロに学ぶ 野球上達テクニック バッティング |publisher=[[成美堂出版]] |pages=10-13 |id=ISBN 978-4415101415}}</ref>。現役晩年は[[統一球]]と怪我に加え、加齢による衰えの影響で成績が大きく落ち込んだが、通算打率は歴代9位(.310)、通算[[RC (野球)#RCWIN|RCWIN]]・[[RC (野球)#RC27|RC27]]傑出度(4000打席以上)は歴代10位にランクインするほどの<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www16.plala.or.jp/dousaku/rcwin.html |title=RC・WIN 通算 |publisher=日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」 |date= |accessdate=2014-04-17}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |url=http://www16.plala.or.jp/dousaku/rc27.html |title=RC27傑出度 |publisher=日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」 |date= |accessdate=2014-04-17}}</ref>強打者である。
3割30本を9回達成し、これは[[王貞治]]に次ぐ歴代2位の記録である。また11年連続OPS.900超えという記録は王貞治、[[落合博満]]に次ぐ歴代3位の記録であり、長年にわたって安定した成績を残し続けた。
打席においては日本ハム時代の打撃コーチだった[[加藤秀司|加藤英司]]から影響を受けた大きな構え([[神主打法]])からフルスイングする<ref name="Ninomiya">[[二宮清純]] [https://www.ninomiyasports.com/archives/11704 「野武士のフルスイング 小笠原道大」]</ref>。試合前などの打撃練習では左方向への打撃を繰り返すなどボールを手元に呼び込むことを意識しているため引っ張るだけの大味なスイングにならず<ref>{{Cite book |和書 |author=小関順二、西尾典文、泉直樹 |year=2010 |title=プロ野球スカウティングレポート2010 |publisher=アスペクト |pages=34-35 |id=ISBN 978-4-7572-1744-7}}</ref><ref name="ogasawara2011">{{Cite book |和書 |author=小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 |year=2011 |title=プロ野球スカウティングレポート2011 |publisher=廣済堂出版 |pages=338-339 |id=ISBN 978-4-331-51519-8}}</ref>、広角に長打を打つことができる{{R|Top}}。ただ、本人曰く神主打法においては日本ハム時代に同僚だった[[落合博満]]の影響は少ないという{{R|Ninomiya}}。例年.070以上の[[IsoD]](出塁率-打率)を記録するなど[[選球眼]]にも優れている。巨人移籍以降2010年までの対右打率.320と右投手に強い他、同じく得点圏打率.334とチャンスにも強く、苦手なコースも少なかった<ref>{{Cite book |和書 |author= |year=2011 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2011 |publisher=白夜書房 |pages=113 |id=ISBN 978-4-86191-710-3}}</ref>。
日本ハム時代は当時監督だった[[上田利治]]の方針もあり{{R|Ninomiya}}、2番で起用された時期も含めて2008年6月8日の西武戦まで公式戦で[[犠牲バント]]成功が1度もなく、1997年から1999年の間で7度の指示があったが失敗している。[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006年のWBC]]では送りバントを試み、成功させた。
=== 守備・走塁 ===
プロ入り当初は捕手、内野手の両方をこなせることから「[[コンビニ]]ルーキー」などと称されていた{{R|sankei20151223}}。1998年の落合の引退後には、捕手から一塁手に転向している<ref name="sankei20151223">{{Cite web |和書 |url=https://www.sankei.com/article/20151223-5VQNXIGJ2FO5BF6OC4IRVIZJZ4/ |title=中日2軍監督・小笠原道大(3)北海道で優勝の美酒 |publisher=産経ニュース |date=2015-12-23 |accessdate=2017-02-02}}</ref>。
三塁守備では三塁線のベース際の打球などにもうまく対処し{{R|ogasawara2011}}、[[ゴールデングラブ賞]]を1度受賞しているが、2010年は[[アルティメット・ゾーン・レーティング|UZR]]-2と平均を下回り<ref>[http://archive.baseball-lab.jp/column_detail/&blog_id=8&id=56 Baseball Lab守備評価~Third Baseman]SMR Baseball Lab</ref>、2011年は前述の事情、2012年以降は正三塁手の[[村田修一]]の加入、中日移籍以降は[[エクトル・ルナ]]や[[高橋周平]]らの存在もあり、主に一塁手として出場した。その一塁守備ではグラブ捌きが巧みで{{R|ogasawara2011}}、ゴールデングラブ賞を1999年から2002年までの4年連続を含めて5度受賞している。
走塁面では一塁到達4.2秒台前半を記録するなど平均以上の脚力を備え<ref><プロ×社会人>十番勝負『野球小僧』2006年12月号、白夜書房、雑誌18801-12、168-170頁。</ref>、2000年にはキャリア唯一の2桁盗塁となる24盗塁も記録しているが、2002年の故障後は盗塁数が減少し、晩年は年齢的なスピードの衰えもあり一塁到達4秒台後半が多くなった{{R|ogasawara2011}}。
== 人物 ==
{{スポーツ選手の出典明記|人物像|section=1|date=2011年10月}}
愛称は「'''ガッツ'''」。日本ハム時代につけられた愛称である。名づけ親は当時チームメイトだった[[岩本勉]]、[[上田佳範]]、[[片岡篤史]]、[[建山義紀]]、[[金村暁]]、[[金子誠]]の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女性に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだというが<ref>2008年12月7日放送「[[ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組]]」</ref>、その後小指を骨折した状態で本塁打を打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる{{R|sankei20151223}}。
「孤高の侍」という異名も持っていた<ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2023/10/25/0016955765.shtml |title=巨人コーチ退任の小笠原道大氏 愛娘の茉由が50歳の誕生日を祝福「応援してます」孤高の侍は穏やかな表情 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2023-10-25 |accessdate=2023-10-25}}</ref>。
野球以外では、名字が「小笠原」である縁から[[東京都]][[小笠原村]]の観光親善大使に1999年12月25日に就任し、島の少年野球チームにユニフォームをプレゼントしたり、同村の交流事業に参加したりするなどの活動を行っている<ref>[http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/sightseeing/ambassador.html 観光親善大使・小笠原道大選手-小笠原村公式ウェブサイト]、2012年6月12日閲覧。{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。他にも2008年の開幕前に巨人と同じく宮崎でキャンプを行っていた[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[鹿島アントラーズ]]の[[小笠原満男]]と対談し、それぞれのチームのユニフォーム交換を行った。
私生活では2人の娘がおり<ref group="動画" name="ドラ女">[[日高優月|ドラ女ゆづきのスクイズTV]] {{YouTube|k-_A-a8rlaM|【ドラゴンズOB】小笠原道大さん・音重鎮さんの娘と対談!お家でのプロ野球選手って・・??}}(2020年10月14日){{Accessdate|2020-10-23}}</ref>、長女の[[小笠原茉由 (女優)|茉由]]{{Efn2|[[NMB48]]の[[小笠原茉由|元メンバー]]とは同姓同名の別人。}}は女優として活動している<ref group="動画" name="ドラ女"/><ref>{{Cite web |和書 |title=小笠原茉由 |url=http://bytheway-pro.com/management_actress/ogasawara_mayu/ |website=有限会社バイ・ザ・ウェイ |date= |accessdate=2020-10-23}}</ref>。
=== 応援 ===
[[東京都]][[小笠原村]]の観光親善大使であることから、日本ハム時代には小笠原の本塁打時に小笠原村の[[ザトウクジラ]]の映像がバックスクリーンに表示されていた。このことから、一部のファイターズファンは小笠原が打席に入ると小笠原村のシンボルである[[イルカ]]の風船(または、浮き具)を持って応援していた。応援歌のイントロ部分に入るコールも小笠原村に因んだものであり、チームの札幌移転時に削除・変更が検討されたが、小笠原が観光親善大使であることから引き続き使用されていた。巨人・中日移籍後も、一部のファンが同様の応援をしている。
=== 影響 ===
小笠原の活躍により巨人は低迷期を脱することができ、その存在は周囲の選手にも影響を与えたことが2007年からのリーグ3連覇につながったとも言われる<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/11/13/0014838857.shtml |title=原巨人が首脳陣一新へ 小笠原道大氏、亀井、駒田氏入閣“レジェンド”招聘で来季再建 |date=2021-11-13 |accessdate=2022-09-14}}</ref>。2013年のシーズン中に日刊スポーツ紙上で行われたチームメイトの[[高橋由伸]]と[[阿部慎之助]]の対談<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130925-1194497.html 史上最強巨人軍/新旧リーダーが語る] 日刊スポーツ 2013年9月25日</ref>では、小笠原や[[谷佳知]]、[[古城茂幸]]といったパ・リーグから移籍してきた選手たちの、負けても「また明日だ!」という考え方が、試合に負けると誰もしゃべらずクライマックスシリーズなどの一発勝負に負けたような空気になってしまうというチームの性質を変化させたと述べている。以来負けても「明日打てばいい」という気構えで全員が臨むようになったことが、2003年から4年間続いた低迷期から巨人が脱出できた理由の一つであるとした。
== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===
{|{{年度別打撃成績|リーグ=日本野球機構}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
|rowspan="10" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]
|44||98||94||7||21||10||2||0||35||7||1||0||0||1||3||0||0||10||2||.223||.245||.372||.617
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
|71||98||86||7||26||5||0||1||34||9||1||1||0||1||11||1||0||17||3||.302||.378||.395||.773
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
|'''135'''||608||'''547'''||90||156||34||4||25||273||83||3||4||0||4||56||1||0||84||6||.285||.349||.499||.848
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
|'''135'''||'''635'''||'''554'''||'''126'''||'''182'''||23||4||31||306||102||24||6||0||5||74||2||2||91||6||.329||.406||.552||.959
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
|'''140'''||643||576||108||'''195'''||40||2||32||335||86||1||6||0||0||63||7||4||102||8||.339||.407||.582||.989
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2002}}
|135||574||486||77||165||27||2||32||292||81||8||1||0||6||76||14||6||77||6||'''.340'''||.430||.601||1.031
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
|128||546||445||83||160||34||1||31||289||100||8||3||0||3||93||12||5||65||13||'''.360'''||'''.473'''||.649||1.122
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
|101||452||377||78||130||19||2||18||207||70||3||1||0||2||70||3||3||70||10||.345||.449||.549||.998
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
|133||580||514||91||145||27||2||37||287||92||2||1||0||1||61||3||4||114||8||.282||.362||.558||.920
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|135||579||496||77||155||31||1||'''32'''||'''284'''||'''100'''||4||3||0||'''8'''||73||5||2||85||8||.313||.397||'''.573'''||.970
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|rowspan="7" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
|142||617||566||95||177||33||1||31||305||88||4||0||0||4||43||5||4||98||10||.313||.363||.539||.902
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
|'''144'''||589||520||93||161||27||1||36||298||96||0||2||1||5||56||8||7||105||14||.310||.381||.573||.954
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
|139||580||514||78||159||25||1||31||279||107||2||1||0||2||60||2||4||107||8||.309||.384||.543||.927
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2010}}
|137||591||510||83||157||24||1||34||285||90||1||0||0||5||73||2||3||101||9||.308||.394||.559||.953
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2011}}
|83||314||281||21||68||12||0||5||95||20||1||3||0||2||27||1||4||66||4||.242||.315||.338||.653
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2012}}
|34||99||92||4||14||3||0||0||17||4||0||0||1||1||5||0||0||22||1||.152||.194||.185||.379
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2013}}
|22||40||36||2||9||2||0||1||14||8||0||1||0||1||2||0||1||7||2||.250||.300||.389||.689
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2014}}
|rowspan="2" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[中日ドラゴンズ|中日]]
|81||99||83||4||25||6||0||1||34||18||0||0||0||1||14||1||1||16||1||.301||.404||.410||.814
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2015}}
|53||59||51||2||15||3||0||0||18||8||0||0||0||1||7||1||0||10||1||.294||.373||.353||.726
|-
!colspan="2"|通算:19年
|1992||7801||6828||1126||2120||385||24||378||3687||1169||63||33||2||53||867||68||50||1247||120||.310||.389||.540||.929
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
=== WBCでの打撃成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small"
|-style="line-height:1.25em"
!年<br /><br />度!!style="width:6%"|[[ワールド・ベースボール・クラシック|代<br /><br />表]]!!試<br /><br />合!!打<br /><br />席!!打<br /><br />数!!得<br /><br />点!!安<br /><br />打!!二<br />塁<br />打!!三<br />塁<br />打!!本<br />塁<br />打!!塁<br /><br />打!!打<br /><br />点!!盗<br /><br />塁!!盗<br />塁<br />死!!犠<br /><br />打!!犠<br /><br />飛!!四<br /><br />球!!敬<br /><br />遠!!死<br /><br />球!!三<br /><br />振!!併<br />殺<br />打!!打<br /><br />率!!出<br />塁<br />率!!長<br />打<br />率
|-
|style="text-align:center;"|[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006]]
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[野球日本代表|日本]]
|8||32||26||5||6||1||1||0||9||7||0||0||1||2||2||0||1||6||0||.231||.290||.346
|-
|style="text-align:center;"|[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|2009]]
|9||35||32||2||8||0||0||0||8||3||0||0||0||0||3||0||0||10||0||.250||.314||.250
|}
=== 年度別守備成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;"
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="11"|[[捕手]]!!colspan="6"|[[一塁手|一塁]]!!colspan="6"|[[三塁手|三塁]]!!colspan="6"|[[外野手|外野]]
|-style="line-height:1.25em;"
!試<br /><br />合!![[刺殺|刺<br /><br />殺]]!![[補殺|補<br /><br />殺]]!![[失策|失<br /><br />策]]!![[併殺|併<br /><br />殺]]!![[守備率|守<br />備<br />率]]!![[捕逸|捕<br /><br />逸]]!!企<br />図<br />数!!許<br />盗<br />塁!![[盗塁刺|盗<br />塁<br />刺]]!![[盗塁阻止率|阻<br />止<br />率]]!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率
|-
|style="text-align:center;"|1997
|rowspan="10" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|日本ハム
|38||128||13||2||0||1.000||2||37||30||7||.189||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|1998
|20||27||2||1||1||.967||2||8||7||1||.125||3||2||0||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||1||0||0||1||0||.000
|-
|style="text-align:center;"|'''1999'''
|1||1||0||0||0||1.000||0||0||0||0||----||135||1222||80||9||106||.993||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|'''2000'''
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||135||1157||67||5||115||.996||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|'''2001'''
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||140||1281||70||4||116||.997||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|'''2002'''
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||135||1192||76||6||92||.995||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|'''2003'''
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-||115||89||203||14||28||.954||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2004
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||5||40||2||0||2||1.000||93||70||158||15||8||.938||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2005
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-||133||100||235||12||28||.965||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|'''2006'''
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||120||917||61||4||95||.996||39||16||56||4||6||.947||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2007
|rowspan="7" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|巨人
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||7||33||1||0||3||1.000||139||90||250||11||15||.969||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2008
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||100||807||54||6||53||.993||41||27||53||3||5||.964||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2009
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||50||216||7||0||19||1.000||123||65||163||10||13||.958||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2010
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||49||310||21||2||28||.994||102||71||171||15||19||.942||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2011
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||79||679||36||1||55||.999||9||5||9||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2012
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||27||202||16||0||14||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2013
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||7||22||1||0||2||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2014
|rowspan="2" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|中日
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||5||23||3||0||3||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2015
|colspan="11" style="text-align:center;"|-||1||12||0||0||1||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
!colspan="2"|通算
|59||156||15||3||1||.994||4||45||37||8||.178||997||8115||495||37||704||.996||794||533||1298||84||122||.956||1||0||0||1||0||.000
|}
* '''太字年'''はゴールデングラブ賞受賞
=== タイトル ===
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:2回(2002年、2003年)※2年連続はパ・リーグ歴代4位タイ
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:1回(2006年)
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:1回(2006年)
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:1回(2003年)
* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]:2回(2000年、2001年)
=== 表彰 ===
* [[最優秀選手 (野球)|最優秀選手]]:2回(2006年、2007年)
** 両リーグでのMVP獲得は江夏豊以来2人目、リーグを跨いでの2年連続は史上初。
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:7回(一塁手部門:1999年、2001年、2006年、三塁手部門:2003年、2004年、2007年、2009年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:6回(一塁手部門:1999年 - 2002年、2006年、三塁手部門:2003年) ※一塁手部門を5回はパ・リーグ最多タイ(他に[[清原和博]])、4年連続もパ・リーグ最長タイ(他に[[中村晃 (野球)|中村晃]])
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:8回(野手部門:2000年8月、2001年8月、2002年4月、2003年5月、2004年7月、2008年9月、2009年5月、2010年3,4月)
* [[「ジョージア魂」賞]]:1回(2013年度第5回)
* [[東京ドーム#東京ドームMVP賞|東京ドームMVP]]:6回(1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2008年)<ref>[http://www.tokyo-dome.co.jp/dome/fan_information/mvp/ 東京ドームMVP賞] - 東京ドームシティ公式サイトより</ref>
* パ・リーグ連盟特別表彰:1回(会長特別賞:2000年)
** リーグ最高記録のシーズン126得点により受賞(両リーグ歴代5位)
* セ・リーグ連盟特別表彰:1回(功労賞:2015年)
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:1回(2000年)
* [[出身地別東西対抗戦]]優秀選手:1回(2001年)
* [[報知プロスポーツ大賞]](野球部門セ・リーグ):1回(2008年)
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・ファーザー賞 in 関西|ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」]](2008年)
* [[ゴールデンスピリット賞]](2009年)
* [[ヤナセ]]・ジャイアンツMVP賞:1回(2008年)<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081211-438942.html |title=小笠原WBC連覇で自動車不況吹き飛ばす |publisher=日刊スポーツ |date=2008-12-11 |accessdate=2024-01-10}}</ref>
* 月間[[アットホーム]]クラッチヒーロー賞:1回(2013年6月<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.giants.jp/news/17459/ |title=小笠原選手が6月度「アットホーム 月間クラッチヒーロー賞」を受賞 |publisher=読売巨人軍公式サイト |date=2013-07-08 |accessdate=2017-07-24}}</ref>)
* [[千葉市]]市民栄誉賞:3回(2004年、2006年、2009年)<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/prfmeiyo.html |title=千葉市の名誉市民・市民栄誉賞・市長特別表彰 |publisher=千葉市 |work= |date= |accessdate=2017-12-04}}</ref>
** アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得、第1回・第2回WBC日本代表メンバーとして優勝を称えて
* [[市川市]]民栄誉賞(2004年)<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.city.ichikawa.lg.jp/pla03/1111000006.html |title=市川市名誉市民・市民栄誉賞 |publisher=市川市 |work= |date= |accessdate=2017-12-04}}</ref>
** アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
* [[千葉県]]知事賞(2004年)
** アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
=== 記録 ===
; 初記録
* 初出場:1997年4月8日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]1回戦([[福岡ドーム]])、9回表に[[金子誠]]の代打で出場
* 初打席:同上、9回表に[[木村恵二]]の前に凡退
* 初先発出場:1997年4月10日、対福岡ダイエーホークス3回戦(福岡ドーム)、7番・[[捕手]]で先発出場
* 初三振:1997年5月1日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]4回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回表に[[竹清剛治]]から
* 初安打・初打点:1997年5月10日、対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]7回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回表に[[石井丈裕]]から適時二塁打
* 初盗塁:1997年9月21日、対福岡ダイエーホークス27回戦([[東京ドーム]])、4回裏に二盗(投手:木村恵二、捕手:[[城島健司]])
* 初本塁打:1998年7月7日、対[[大阪近鉄バファローズ]]15回戦(東京ドーム)、7回裏に[[井出竜也]]の代打として出場、[[盛田幸妃]]から右越同点2ラン
; 節目の記録
* 100本塁打:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム)、2回裏に[[ブレイディー・ラジオ]]から中越3ラン ※史上220人目
* 150本塁打:2003年9月14日、対西武ライオンズ27回戦(西武ドーム)、7回表に[[張誌家]]から右越ソロ ※史上127人目
* 1000安打:2004年7月24日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]16回戦(東京ドーム)、5回裏に[[具臺晟]]から中前安打 ※史上223人目(862試合目での達成は、社会人経験者では史上最速)
* 1000試合出場:2005年8月24日、対西武ライオンズ16回戦(インボイスSEIBUドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上408人目
* 200本塁打:同上、8回表に[[松坂大輔]]から右越ソロ ※史上85人目
* 250本塁打:2007年5月27日、対オリックス・バファローズ1回戦(東京ドーム)、6回裏に[[ユウキ (野球)|ユウキ]]から右越ソロ ※史上51人目
* 1500安打:2007年9月15日、対[[広島東洋カープ]]23回戦(東京ドーム)、6回裏に[[宮崎充登]]から右線二塁打 ※史上93人目(1288試合目での到達は歴代4位の速さ)
* 300二塁打:2008年7月29日、対広島東洋カープ14回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、1回表に[[ベン・コズロースキー]]から右中間適時二塁打 ※史上49人目
* 300本塁打:2008年9月19日、対[[阪神タイガース]]20回戦(東京ドーム)、7回裏に[[ジェフ・ウィリアムス]]から左越2ラン ※史上35人目
* 1500試合出場:2009年6月13日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上165人目
* 1000打点:2009年8月27日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤドーム)、3回表に[[吉見一起]]から右越2ラン ※史上36人目
* 1000三振:2009年9月2日、対横浜ベイスターズ20回戦([[福井県営球場]])、1回裏に[[三浦大輔]]から ※史上45人目
* 1000得点:2009年9月10日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、3回表に[[阿部慎之助]]の3点本塁打で生還 ※史上36人目
* 350本塁打:2010年5月30日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、1回表に[[岸孝之]]から左越ソロ ※史上24人目
* 350二塁打:2010年8月7日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、5回裏に[[ジャンカルロ・アルバラード]]から右越二塁打 ※史上29人目
* 3500塁打:2010年9月21日、対横浜ベイスターズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に[[田中健二朗]]から右越ソロ ※史上24人目
* 2000安打:2011年5月5日、対阪神タイガース6回戦(東京ドーム)、8回裏に[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]から中前安打 ※史上38人目
; その他の記録
* 両リーグでMVP獲得 ※[[江夏豊]]以来2人目
* 通算[[打率]]:.310 ※歴代9位(4000打数以上)
** 2000安打以上では歴代5位
* 通算[[長打率]]:.540 ※歴代11位(4000打数以上)
* 4年連続3割30本塁打(2000年 - 2003年)※ パ・リーグ記録タイ、史上7人目
* 3割30本:9回 ※歴代2位(両リーグで4回以上達成は史上初)
* シーズン[[打率]]3割以上:10回 ※歴代8位
* シーズン150[[安打]]以上:10回 ※歴代2位
* 14打席連続[[出塁]](2003年8月23日 - 8月27日)
* 17試合連続[[得点]](2001年8月5日 - 8月27日)※日本記録
* 60試合連続[[出塁]](2001年6月13日 - 9月9日)※歴代4位
* [[サイクル安打]]:1回(2008年9月3日、対[[広島東洋カープ]]19回戦、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]) ※史上62人目(66度目)
* [[勝利打点]]:22点(2009年) ※非公式記録
* 両リーグをまたいで2年連続MVP ※史上初
* [[全球団から本塁打]]:2010年6月4日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]3回戦([[東京ドーム]])、3回裏に[[金森敬之]]から右越ソロ ※史上19人目
** 2004年限りで消滅した大阪近鉄バファローズを含めた計13球団からの本塁打は史上6人目。
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:11回(1999年 - 2007年、2009年、2010年)
=== 背番号 ===
* '''2'''(1997年 - 2013年)
** '''9'''(2009年[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]])
* '''36'''(2014年 - 2015年)
* '''82'''(2016年 - 2019年)
* '''81'''(2020年 - 2021年)
* '''72'''(2022年)
* '''100'''(2023年)
=== 登場曲 ===
* 「Batdance」[[プリンス (ミュージシャン)|Prince]](2005年 - 2006年、2012年 - 2013年)
* 「Switch On」Paul Oakenfold(2007年 - 2012年)
* 「James Bond Theme」Paul Oakenfold(2009年 - 2010年)
* 「[[サクラ咲ケ]]」[[嵐 (グループ)|嵐]](2011年)
* 「[[Happiness (嵐の曲)|Happiness]]」嵐(2011年)
* 「James Bond Theme Remix」David Arnold(2012年)
* 「[[全力少年]]」[[スキマスイッチ]](2014年 - 2015年)
=== 代表歴 ===
* [[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表]]
* [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]
* [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]
== 関連情報 ==
=== 著書 ===
* 『魂(ガッツ)のフルスイング:泥臭く、ひたすら振りぬく!』([[KKロングセラーズ]]・2006年8月 ISBN 4845420864)
* 『二軍監督奮闘記』([[ワニブックス]]、2019年12月)
=== 関連映像作品 ===
* 『北海道にはばたけ小笠原道大 ファイターズ強力打線とともに:北海道日本ハムファイターズオフィシャルDVD』(DVD、[[ジェネオンエンタテインメント]]、2004年3月、品番:GNBW-7029、ISBN 4894527952)
=== CM ===
* [[北海道旅客鉄道]]「ダイヤ改正」(2004年)
* [[日本ハム]]「[[シャウエッセン]]」(2006年)
* [[アオキーズ・ピザ]] 「ピザ・ガッツ」(2018年)
=== 放送出演 ===
*[[東海ラジオガッツナイター]](2024年8月17日、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) - 「中日×[[阪神タイガース|阪神]]」ゲスト解説
*[[イチモニ!]](2025年5月13日、[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]) - ゲストコメンテーター
*[[S☆1 BASEBALL]]([[BS-TBS]]・[[TBSチャンネル]])
**2025年5月14日、「[[広島東洋カープ|広島]]×巨人」解説
**2025年9月26日、「[[横浜DeNAベイスターズ|横浜DeNA]]×巨人」解説
* [[晩酌の流儀|晩酌の流儀4 ~秋冬編~]] 第2話(2025年10月11日、[[テレビ東京]]) - 監督 役
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 動画 ===
{{Reflist|group="動画"}}
== 関連項目 ==
* [[オリンピックの野球競技・メダリスト一覧]]
* [[千葉県出身の人物一覧]]
* [[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[中日ドラゴンズの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Michihiro Ogasawara}}
{{NPB|21323884}}
{{BASEBALLstats|brjpn=ogasaw001mic|cube=michihiro-ogasawara|mlb=493145}}
{{Navboxes|title=業績
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{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
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{{2003 アジア野球選手権大会 日本代表}}
{{アテネオリンピック野球日本代表}}
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{{日本ハムファイターズ1996年ドラフト指名選手}}
{{デフォルトソート:おかさわら みちひろ}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:暁星国際高等学校出身の人物]]
[[Category:NTT関東硬式野球部及びその前身チームの選手]]
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:ゴールデンスピリット賞受賞者]]
[[Category:首位打者 (NPB)]]
[[Category:本塁打王 (NPB)]]
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[[Category:2006 ワールド・ベースボール・クラシック選手]]
[[Category:2009 ワールド・ベースボール・クラシック選手]]
[[Category:ワールド・ベースボール・クラシック優勝選手]]
[[Category:日本のオリンピック銅メダリスト]]
[[Category:野球のオリンピックメダリスト]]
[[Category:日本の野球監督]]
[[Category:千葉県出身のスポーツ選手]]
[[Category:千葉市出身の人物]]
[[Category:1973年生]]
[[Category:存命人物]]
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