「フランクリン遠征」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
~2025-50935-9 (会話 | 投稿記録) →陸路の捜索: 表記 |
||
(37人の利用者による、間の55版が非表示) | |||
1行目:
{{暴力的}}
[[ファイル:The Arctic Council planning a search for Sir John Franklin by Stephen Pearce.jpg|thumb|upright=1.4|『ジョン・フランクリン卿捜査を計画する北極委員会』、スティーブン・ピアース画、1851年、左から[[ジョージ・バック]]、[[ウィリアム・エドワード・パリー]]、エドワード・バード、[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]、[[ジョン・バロー (初代准男爵)|ジョン・バロウ・ジュニア]]、[[フランシス・ボーフォート]]、 [[エドワード・サビーン]]、ウィリアム・アレクサンダー・ベイリー・ハミルトン、[[ジョン・リチャードソン (博物学者)|ジョン・リチャードソン]]、[[フレデリック・ウィリアム・ビーチー]]]]
[[ファイル:Barrow3.jpg|thumb|[[ジョン・バロー (初代准男爵)|ジョン・バロウ]]卿、海軍本部副大臣として長く務めた間に北西航路の発見を提唱した]]
[[ファイル:John Franklin.jpg|thumb|[[ジョン・フランクリン]]卿、遠征隊の指揮官、バロウはその選択を躊躇した]]
[[ファイル:James_Fitzjames.jpg|thumb|ジェームズ・フィッツジェームズ、遠征隊の士官、HMS''エレバス''を指揮]]
[[ファイル:Captaincrozier.jpg|thumb|F・R・M・クロージャー大佐、遠征隊の執行士官、HMS''テラー''を指揮]]
[[ファイル:LadyJaneFranklin.jpg|thumb|ジェイン・グリフィン(後のフランクリン夫人)の肖像。1815年、24歳のときに描かれた。1828年にフランクリンと結婚、これはフランクリンがナイトに叙せられる1年前のことだった<ref>{{cite encyclopaedia | title = Franklin, Jane, Lady (1792–1875) | encyclopaedia = Dictionary of Australian Biography| publisher = Project Gutenberg Australia | url = http://gutenberg.net.au/dictbiog/0-dict-biogF.html#franklin1 | accessdate =2 March 2008 }}</ref>]]
'''フランクリン遠征'''(フランクリンえんせい、{{lang-en-short|Franklin's expedition}})は、1845年に[[イングランド]]を出発した[[イギリス]]の[[北極海]]探検航海であり、[[ジョン・フランクリン]]海軍大佐が指揮していた。フランクリンは[[イギリス海軍]]の士官であり、経験を積んだ探検家だった。過去に3回北極海に遠征しており、その2回目と3回目は隊長を務めていた。4回目がこの遠征であり、引き受けたときは59歳になっていた。遠征の目的は、[[カナダ]][[北極諸島]]を通ってヨーロッパとアジアを結ぶ[[北西航路]]の中で、まだ航海されていない部分を横断することだった。しかし遠征の初期に幾つかの問題が発生した後、遠征隊の2隻の船がカナダ北極圏[[キングウィリアム島]]に近いビクトリア海峡で、氷に閉ざされてしまい、フランクリンを含む隊員129名全員が失踪した。▼
'''フランクリン遠征'''(フランクリンえんせい、{{lang-en-short|Franklin's expedition}})は、[[1845年]]に行われた[[イギリス]]の[[北極海]]探検航海。全隊員129名が失踪する結果となった。
▲
遠征隊がヨーロッパ人によって最後に視認されたのは1845年だった。イングランドの[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]はフランクリンの妻ジェインらに懇願されて、1848年、行方不明となっていた遠征隊を捜索するための部隊を出発させた。フランクリンの名声が高かったこと、および海軍本部が遠征隊の発見者に報酬を出すと発表したこともあって、多くの者達が捜索に加わり、1850年のある時点ではイギリス船11隻、アメリカ船2隻が関わっていた。これら船舶の幾らかは、乗組員3人の墓など、遠征隊の遺物が初めて発見されたビーチー島の東海岸沖に集中した。1854年、探検家[[ジョン・レイ (探検家)|ジョン・レイ]]が犬ぞりでキングウィリアム島南東の海岸近くを調査しているときに、[[イヌイット]]からフランクリン隊の遺物を取得し、多くの白人が氷上の行軍中に飢え死に、仲間の肉を食べた跡まであったという末路についての話を聞いた。1859年にフランシス・レオポルド・マクリントックが率いた調査により、フランクリン遠征隊の隊員が船を捨てるに至った詳細を記したメモをキングウィリアム島で発見した。19世紀の残り期間も調査は続けられた。
11 ⟶ 16行目:
1981年、[[アルバータ大学]]人類学教授オーウェン・ビーティが率いた科学者チームが、ビーチー島とキングウィリアム島でフランクリン遠征隊の隊員が残した墓、遺体など物的証拠に関する一連の科学的研究を始めた。ビーチー島で見つかった墓の隊員の死因は[[肺炎]]で、おそらくは[[結核]]で死んだ可能性が強く、さらに船の食料倉庫に収められていた[[缶詰]]の[[はんだ]]付けがまずかったために、[[鉛中毒]]で健康を悪化させた可能性があることも分かった。しかしその後、この鉛の出どころは缶詰の食料ではなく、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置だったことが示唆された<ref name="Battersby">Battersby, William, "[http://www.hakluyt.com/PDF/Battersby_Franklin.pdf Identification of the Probable Source of the Lead Poisoning Observed in Members of the Franklin Expedition]", ''Journal of the Hakluyt Society'', 2008. Retrieved 25 November 2008.</ref>。キングウィリアム島で見つかった人骨の切断面からは、[[カニバリズム|人肉食]]を行った痕跡がみられた。研究の全ての結果を合わせると、低体温症、飢え、鉛中毒、[[壊血病]]などの病気、さらには適切な衣類や栄養が無いままに過酷な環境に曝されたことで、隊員全員の死に繋がったことが推測された。
ヴィクトリア期のマスコミは、フランクリンの遠征隊が失敗し、人肉食の話が出てきたにも
== 背景 ==
17 ⟶ 22行目:
ヨーロッパ人が、ヨーロッパから[[アジア]]まで最短距離([[大圏航路]])で結ぶ海の近道を探すのは、1492年の[[クリストファー・コロンブス]]の航海が始まりであり、その後は19世紀半ばまで、主にイングランドから一連の探検隊が極地を通る最短の海路([[北西航路]]、[[北東航路]])を探した。これらの航海はそれぞれ成功の程度は異なるものの、[[西半球]]、特に[[北アメリカ]]についてヨーロッパ人の地理的知識を増やしていった。その知識が深まるに連れて、次第にカナダ北極圏に関心が向くようになった。16世紀から17世紀に北アメリカについて地理的な発見をした航海者達は、[[マーティン・フロビッシャー]]、[[ジョン・デイヴィス (探検家)|ジョン・デイヴィス]]、[[ヘンリー・ハドソン]]、[[ウィリアム・バフィン]]などがいた。1670年、法人化した[[ハドソン湾会社]]がカナダ海岸と内陸、および北極海をさらに探検した。18世紀の探検家としては、ジェイムズ・ナイト、[[クリストファー・ミドルトン]]、サミュエル・ハーン、[[ジェームズ・クック]]、[[アレグザンダー・マッケンジー (探検家)|アレグザンダー・マッケンジー]]、[[ジョージ・バンクーバー]]がいた。1800年までに最終的にわかったのは、[[太平洋]]と[[大西洋]]の間の温暖な緯度の範囲内はすべて大陸でふさがれており、船が航行できるような北西航路はこの範囲内には無いということだった<ref>Savours (1999), pp. 1–38</ref>。
1804年、[[ジョン・バロー (初代准男爵)|ジョン・バロウ]]卿が海軍本部副大臣となり、その職を1845年まで長期にわたって務めた。バロウはイギリス海軍を突いて、カナダの北の北西航路、さらには[[北極点]]への航路を極めさせようとした。その後の40年間の探検家としては、[[ジョン・ロス (北極探検家)|ジョン・ロス]]、デイビッド・ブキャン、[[ウィリアム・エドワード・パリー]]、フレデリック・ウィリアム・ビーチー、[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]、[[ジョージ・バック]]、ピーター・ウォーレン・ディーズ、トマス・シンプソン等がカナダ北極圏で意義ある航海を行った。これら探検家の中にジョン・フランクリンがいた。1818年、''ドロシー''と''トレント''で北極を目指した遠征では副指揮官となり、1819年から1822年と1825年から1827年の2回、陸路カナダの北極海沿岸に進んだ遠征では隊長だった<ref>Savours (1999), pp. 39–166</ref>。1845年までに、それまでの遠征隊が発見したこと全てから、カナダ北極圏で未踏の地域は約181,300 km<sup>2</sup>の四角形が残されているだけになっていた<ref>Savours (1999), p. 169</ref>。この年にフランクリンが航海することになったのがこの未踏領域であり、[[ランカスター海峡]]から西に進み、その後は氷、陸、その他障害物が許す限り西と南に進んで、北西航路を完成させる意図があった。航行距離は約1,670 km だった<ref>Cyriax (1939), pp. 18–23</ref>。
== 準備 ==
=== 指揮官 ===
バロウはこの時82歳であり、その経歴の終わりに近づいていた。北西航路を完成させる遠征の指揮官を誰にすべきか検討していたが、おそらくバロウは[[北極点]]周辺の海には氷がない開けた水面が広がっているという理論を信じており、それを見つけることも視野にあった。[[ウィリアム・エドワード・パリー|パリー]]がバロウの第1の選択肢であったが、北極海に飽きてきており、丁重に辞退した<ref name="Sandler 1">Sandler (2006), pp. 65–74</ref>。第2の候補者は[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]だったが、ロスは新しい妻に北極には行かないと約束していたのでやはり辞退した<ref name="Sandler 1"/>。3番目の候補は{{仮リンク|ジェイムズ・フィッツジェ
=== 船、乗組員、物資 ===
34 ⟶ 39行目:
それから150年間以上にわたり、他の遠征隊、探検家、科学者、果ては好事家たちが、遠征隊に何が起こったか、情報の断片を継ぎ合せようとしてきた。
[[File:Franklin's lost expedition map.png|thumb|350px|フランクリンの失われた航海(Franklin's lost expedition, 1845年- - 1848年)の推定ルート。1845年夏、グリーンランドのディスコ湾(5)からビーチー島(デヴォン島の南西部にある小島、当地図には記載されていない)に向かい、[[コーンウォリス島]](1)を周回した。翌1846年夏、[[プリンスオブウェールズ島 (カナダ)|プリンスオブウェールズ島]](2)と[[サマーセット島]](3)の間のピール海峡を下って[[ブーシア半島]](4)の西へ出て、[[キングウィリアム島]](緑色)近くに至ったが氷に閉じ込められた。]]
船を放棄するまでの航路については、キングウィリアム島に残されたフィッツジェイムズとクロージャーの書簡の記述が全てである。いわく「ウェリントン海峡を北緯77度まで北上し、コーンウォリス島西岸に沿いて戻りし後、北緯74度43分28秒西経90度39分15秒{{仮リンク|ビーチー島|en|Beechey Island}}にて1846年から1847年を越冬せり。」「ここ(北緯69度37分42秒西経98度41分)より北北西5リーグの地点にて1846年9月12日より氷に囲まれたるにより、1848年4月22日エレバス号ならびにテラー号を放棄せり。」
つまり遠征隊は、[[コーンウォリス島]]を北に迂回せんと欲したのか他の意図があったのかは分からないが、コーンウォリス島の東岸から永久流氷の限界に近い北緯77度まで北上した。しかし何らかの理由で引き返し、コーンウォリス島を西岸から回り込み、ビーチー島で1845年の冬を宿営した。そこで隊員3人が死んで埋葬された。遠征隊が再び出航したのは、3人目の隊員が死亡した1846年4月30日以降ということになる。その後南下し[[プリンスオブウェールズ島 (カナダ)|プリンスオブウェールズ島]]を過ぎ(東岸のピール海峡を通ったのか、西岸のマクリントック海峡を通ったのかは記述がない。研究者は例外なくピール海峡と考えている。)、[[キングウィリアム島]]を西に迂回せんと欲したが、1846年9月12日に島の北西海上で氷に囲まれた。船が動けないままフランクリンは1847年6月11日に死亡した。その夏は結局流氷が動かず、もう一年越冬するはめになり、翌1848年4月22日に一行は船を放棄して陸路カナダ本土のバック川(当時はグレート・フィッシュ川とも)方向に向かうこととなった。この時点で何らかの異常な事象により士官9人と隊員15人が死亡しており、遠征隊は2割近い人員を失っていた。
確かな記録として確認できるのはここまでであり、南に向かった遠征隊の生き残りの足跡は明らかでない。ただ、イヌイットの目撃証言・遺骨や遺物がキングウィリアム島西岸・南岸・カナダ本土に渡ったアデレード半島に死屍累々と残っており、世界の探検史上例を見ない死の行軍の断片を示している。遠征隊の最期の地がどこであったかは不明だが、チャントリー湾より南に到達したことを示す証拠は発見されていない。西洋文明の最も近い前哨からは数百マイルも離れていた<ref>Beattie (1987), pp. 19–50</ref>。
エレバス号の残骸は2014年に、テラー号の残骸は2016年に発見された。[[#難破船調査(1997年–2014年)]]参照。
== 初期の捜索 ==
フランクリンから何の便りも無いまま2年間が過ぎ、人々が心配するようになり、フランクリン夫人さらには[[イギリスの議会]]議員や新聞が海軍本部に捜索隊を送るよう促すことになった。これに応じて海軍本部は1848年春には実施する3方向の捜索計画を立てた。1つは[[ジョン・リチャードソン (博物学者)|ジョン・リチャードソン]]と[[ジョン・レイ (探検家)|ジョン・レイ]]の指揮する陸路からの救援隊であり、[[マッケンジー川]]を下り、カナダ北極圏海岸に向かうものだった。海上からは2つの隊が向かうことになった。1つはランカスター海峡を抜けてカナダ北極圏[[多島海]]に入るものであり、もう1つは[[太平洋]]側から向かうものだった<ref>Savours (1999), pp. 186–89</ref>。さらに海軍本部は「ジョン・フランクリン卿の指揮下にある探検船の乗組員を助けることになった、如何なる国の如何なる隊にも
捜索には多くの者が加わった。1850年、イギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。その中にはHMS''ブレッドアルベーン''とその姉妹艦HMS''フェニックス''も入っていた<ref>Sandler (2006), p. 102</ref>。幾隻かはビーチー島の東海岸に集まり、1845年から1846年の冬季宿営地の跡と、ジョン・ショー・トーリントン<ref>{{cite news | last = Geiger | first = John | title = 'Iceman' Torrington was last of his line |work=The Edmonton Sun | date = 9 December 1984}}</ref>、ジョン・ハートネル、ウィリアム・ブレインの墓を含む、フランクリン遠征隊の遺物を初めて発見した。この場所でフランクリン遠征隊からの伝言は見つからなかった<ref>{{cite news | last = Geiger | first = John | title = Was Murder Uncovered? |work=The Edmonton Sun | date = 3 October 1984}}</ref><ref>{{cite news | last = Picard | first = Carol | title = Iceman wasn't 'iced' – Autopsy on seaman reveals no evidence of foul play |work=The Edmonton Sun | date = 10 October 1984}}</ref>。1851年春、複数の船の乗客と乗組員が[[ニューファンドランド島]]沖で巨大な[[氷山]]を視認したが、そこに2隻の船が、1つは直立したまま、1つは転覆しかかって捉えられているのが観測された<ref>Gould (1928), pp. 52–81</ref>。これらの船を近くから検証はできなかった。これらが''エレバス''と''テラー''だった可能性があると言われたが、両船が発見された現在では放棄された捕鯨船
[[ファイル:Sir Edward Belcher by Stephen Pearce.jpg|thumb|エドワード・ベルチャー]]
1852年、[[エドワード・ベルチャー]]がジョン・フランクリン卿を探す政府北極遠征隊の指揮を任された。これも不成功に終わった。ベルチャーはその部下の人気を得られず、特に北極海の航海では不幸であり、氷海を航行する艦の指揮には全く向いていなかった。遠征隊5艦の内4艦(HMS''{{ill2|レゾリュート (軍艦)|en|HMS Resolute (1850)|label=レゾリュート}}''、''パイオニア''、''アシスタンス''、''インターピッド''<ref>{{cite book |title=Ordeal by ice; the search for the Northwest Passage |last=Mowat |first=Farley |authorlink= |year=1973 |publisher=McClelland and Stewart Ltd |___location=Toronto |format=The Fate of Franklin |oclc=1391959 |page=285}}</ref>)を流氷の海で放棄することになり、ベルチャーは[[軍法会議]]に掛けられたが、無罪になった。その中のHMS''レゾリュート''のみは、後にアメリカの捕鯨船によって無傷で回収されイギリスに返還された。その船に使われていた木材を使って3つの机が作られ、うち一つはイギリス女王から友好の印として[[アメリカ合衆国大統領]]に贈られた。これが、[[ホワイトハウス]]の[[ウエストウイング]]の大統領執務室・オーバルオフィスにあり、大統領が執務する「{{仮リンク|レゾリュート・デスク|en|Resolute desk}}」と呼ばれる机である。
== 陸路の捜索 ==
55 ⟶ 60行目:
1854年、ジョン・レイがハドソン湾会社のために[[ブーシア半島]]を測量しているときに、失踪した隊の遺物を発見した。1854年4月21日、レイがペリーベイ近くで一人のイヌーク族に会い、35人ないし40人の白人一行がバック川河口近くで飢えて死んだということを聞いた。他のイヌイットもこの話は本当だと確認し、船員たちの遺体に人肉食の跡があったことも報告した。イヌイット達は、フランクリンとその隊員に属していたと同定された多くの物を示した。特にレイはペリーベイのイヌイットから銀のフォークとスプーン数本を持ち帰り、それが後に''エレバス''に乗っていたフィッツジェイムズ、クロージャー、フランクリン、シップメイトのロバート・オスマー・サージェントに属していた物と判明した。レイの報告書が海軍本部に送られ、1854年10月にはハドソン湾会社からバック川を下ってフランクリンとその隊員の他の遺物を探す遠征隊を派遣するよう要請された<ref name=Klutschak>Klutschak (1989), pp. xv–xvi</ref><ref>Savours (1999), pp. 270–277</ref>。
[[ファイル:Franklin raerels 800.jpg|thumb|left|フランクリン1845年遠征隊の遺物、「[[イラストレイテ
[[ファイル:Franklinexpeditionnote.jpg|thumb|left|1859年5月にキングウィリアム島バックベイの南の[[ケアン]]でマクリントックが見つけたメモ。フランクリン遠征隊の運命が詳述されている。用紙上方の艦名、年月日、緯度経度、報告などを書く書式の下には、[[英語
次に重要な発見は、ジェイムズ・アンダーソンとハドソン湾会社の職員ジェイムズ・スチュアートであり、カヌーでバック川河口まで北上した。1855年7月、イヌイットの1隊が、一群の「カルナート」(qallunaat, イヌクティトゥト語で白人)が海岸で飢えて死んだと告げた<ref name=Klutschak />。8月、アンダーソンとスチュアートは、バック川が海に入る所にあるシャントリー入り江のモントリオール島で''エレバス''と刻印のある木片を見つけ、「スタンレー氏」(''エレバス''の船医)と刻まれている木片も見つけた<ref name=Klutschak />。
レイやアンダーソンの発見にも
1859年4月、''フォックス''からキングウィリアム島を捜索するための橇部隊が発進した。5月5日、イギリス海軍のウィリアム・ホブソン大尉が指揮する隊が、クロージャーとフィッツジェイムズによって残された[[ケアン]]にある文書を発見した<ref>Cookman (2000), pp. 8–9</ref>。これはイギリス海軍の記録用用紙で、2つのメッセージがあった。用紙の記入欄に書かれた最初のメッセージは1847年5月28日付であり、この時点で''エレバス''と''テラー''はキングウィリアム島北西岸沖の流氷の中で越冬していること、前年にビーチー島で越冬する前には[[コーンウォリス島]]沖を北上して北緯77度にまで達したものの島を周回してもどってきたことが書かれていた。「遠征隊を指揮するジョン・フランクリン卿。『全て順調』」と記されていた<ref>Savours (1999), p. 292</ref>。2つ目のメッセージは1848年4月25日の日付で、同じ用紙の余白にびっしりと書かれており
マクリントック遠征隊はキングウィリアム島南岸で人骨も発見した。まだ衣服が残っており、それを探すと幾らかの紙片が見つかった。それはHMS''テラー''の前檣楼キャプテンとなっていた上等兵曹ヘンリー・ペグラー(1808年生まれ)の海員身分証明書であった。しかしその制服は船のスチュワードのものであり、その遺体はHMS''テラー''の銃器室スチュワードのトマス・アーミテージのものである可能性があり、シップメイトのペグラーの書類を持っていたと考えられた<ref>Savours (1999), pp. 295–96</ref>。島の西端にある別の場所では、ホブソンがフランクリン遠征隊の2つの骸骨と遺物を載せた救命ボートを発見した。このボートの中には、大量の放棄された装備があり、長靴、絹のハンカチ、香水入り石鹸、スポンジ、スリッパ、櫛、多くの本が見つかり、本の中には[[オリヴァー・ゴールドスミス]]の小説『ウェークフィールドの牧師』が入っていた。マクリントックは遠征隊の悲惨な結末についてイヌイットから証言も取得した<ref>Beattie, 1987, pp. 34–40</ref>。
[[ファイル:cfhall harpers.jpg|thumb|[[チャールズ・フランシス・ホール]]]]
1860年から1869年の間に[[チャールズ・フランシス・ホール]]が2回の遠征を行った。ホールはバフィン島の[[フロビッシャー湾]]近く、後にはカナダ本土のレパルス湾でイヌイットの中で生活した人物であった。キングウィリアム島の南岸でキャンプ地、墓、遺物を発見したが、フランクリン遠征隊の者はイヌイットの中で生き残っていないと考えた。フランクリン隊は全員死んだと結論付けたが、公式遠征記録がおそらくどこかに作られた石積みケアンの下から見つかるだろうと考えていた<ref>Schwatka (1965), pp. 12–15</ref>。イヌイットのガイドであるエビアビングやトゥクーリトの助けを得て、ホールは数百ページにもなるイヌイットの証言を集めた。それらの中にはフランクリンの船を訪れた証言や、キングウィリアム島南岸のワシントン湾近くで白人の1隊に遭遇したという証言などが含まれていた。1990年代、デイビッド・C・ウッドマンがこの証言を詳しく調査し、『フランクリン・ミステリーの解明』(1992年)と『我々の中の異邦人』(1995年)と題する2冊の書を著した。その中では遠征隊の最後の数か月を再構築している。
[[ファイル:Relief on the gravestone of Lieutenant John Irving, R.N., Dean Cemetery Edinburgh.jpg|thumb|ジョン・アービング大尉の墓、その遺体が見つかり、1881年にエディンバラに戻されて再度埋葬された]]
72 ⟶ 77行目:
失われた遠征記録文書を見つけるという期待から、[[アメリカ陸軍]]のフレデリック・シュワトカが1878年から1880年に遠征隊を組織して島に行った。[[ハドソン湾]]を[[スクーナー]]の''ヨーセン''で移動し、ホールを援助したイヌイットを含むチームを編成して、徒歩と犬ぞりで北進を続け、イヌイットの話を聞き、フランクリン遠征隊の足跡が分かっている場所や可能性のある場所を訪れ、キングウィリアム島で越冬した。シュワトカは探していた文書を見つけられなかったが、1880年にアメリカ地理学会がその栄誉を称えるために開催した晩餐会のスピーチで、自分の遠征隊は11か月と4日、距離にして4,360 km と、「時間と距離で最長の犬ぞりによる旅を行った」<ref name="Schwatka 1965, pp. 115–116">Schwatka (1965), pp. 115–116</ref>と明かし、白人がイヌイットと同じ食料に頼ったことでは北極圏初の遠征であり、フランクリンの記録が失われたことは「合理的な疑いが及ばない」ものであることを結論付けた<ref name="Schwatka 1965, pp. 115–116"/>。シュワトカの遠征隊はアデレード半島の飢えの入江と呼ばれる場所から南では、フランクリン遠征隊の痕跡を見つけられなかった。そこはクロージャーが言っていた目標であるバック川から遥か北であり[[グレートスレーブ湖]]の最も近い西洋人による前哨からは数百マイル離れていた。
なお、ウッドマンは、1852年から1858年の間にクロージャーともう1人の隊員が、約400 km 南の[[ベイカー湖 (ヌナブト準州)|ベイカー湖]]地域にいたというイヌイットの報告について記している。そこは、1948年に[[ファー
== 捜索隊の一覧 ==
92 ⟶ 97行目:
** R・マコーミックが指揮するウェリントン海峡を上るボートの遠征(HMB''フォーローン・ホープ'')
* 1854年: [[ジョン・レイ (探検家)|ジョン・レイ]]、フランクリン隊が船を失った場所を発見
* 1855年: アンダーソンとスチュワート、
* 1857年: フランシス・レオポルド・マクリントック、キングウィリアム島で遺物を発見
* 1869年: チャールズ・フランシス・ホール、キングウィリアム島
99 ⟶ 104行目:
== 科学的遠征 ==
=== キングウィリアム島発掘(1981年–1982年) ===
1981年6月、[[アルバータ大学]]の[[人類学]]教授オーウェン・ビーティが、1845年-1848年フランクリン遠征隊法医人類学プロジェクトを開始し、ビーティとその研究者と現場助手のチームが、[[エドモントン]]からキングウィリアム島に移動し、フランクリン隊が132年前にしたように島の西岸を移動した。このプロジェクトは現代の[[法医学]]を使って、失われた129人の死因を確定するために人工物や人骨の遺物を見つけることを期待していた<ref>Beattie (1987), pp. 51–52</ref>。
105 ⟶ 109行目:
このチームは19世紀ヨーロッパに関連する[[考古学]]的人工物と、関節で切り離された損傷を受けていない遺体の一部を発見したが、ビーティはより多くの遺物が発見されなかったことに失望した<ref>Beattie (1987), p. 58</ref>。フランクリン隊員の骨を調べると、壊血病の原因である[[ビタミンC]]欠乏の場合に見られる孔食やスケーリングが多く見られることに注目した<ref>Beattie (1987), p. 56</ref>。ビーティはエドモントンに戻ると、北極考古学者ジェイムズ・サベルの調査結果と比較して、骨の様子が人肉食を示唆していることに気付いた<ref>Beattie (1987), pp. 58–62</ref>。フランクリン隊員の健康と食事について情報を求め、骨の標本をアルバータ土壌食料試験研究所に送って、微量元素分析を依頼すると共に、ふたたびチームを編成してキングウィリアム島を訪れた。分析では隊員の骨に鉛が226 ppm と予想外のレベルで含まれていることがわかり、それは同じ地域のイヌイットの骨から採られた対照実験用標本の26ないし36 ppm と比べると10倍だった<ref>Beattie (1987), p. 83</ref>。
1982年6月、ビーティが編成したチームは、アルバータ大学人類学大学院生ウォルト・コーワル、[[ブリティッシュコロンビア州]]サイモンフレーザー大学の考古学と地理学の学生アーン・カールソン、イヌーク族の学生で現場助手のアーシーン・タンジリクであり、キングウィリアム島の西海岸に飛んで、1859年にマクリントック、1878年から1879年にシュワトカが
=== ビーチー島発掘と死体の掘り出し(1984年と1986年) ===
123 ⟶ 127行目:
ハートネルの墓とは異なり、兵卒ウィリアム・ブレインの墓はほとんど無傷だった<ref>Beattie (1987), pp. 146–147</ref>。その遺骸を取り出すと、埋葬があわただしく行われたことを示す兆候が見られた。腕、体、頭は棺の中に注意深く収められておらず、下着の一枚は前後逆に着せられていた<ref>Beattie (1987), p. 150</ref>。棺はブレインには小さすぎたようで、鼻を押さえつけて蓋が閉められていた。彼の名前と個人的な情報を刻印した大きな銅板が棺の蓋に付けられていた<ref>Beattie (1987), p. 148</ref>。
=== NgLj-2 発掘(1992年-1993年) ===
1992年、考古学者と法医人類学者のチームが、キングウィリアム島西岸のある地点を同定し、「NgLj-2」と呼ぶことにした。この場所はレオポルド・マクリントックの言う「ボートを見つけた場所」に関する具体的記述と合っていた。翌1993年にそこを発掘してみると、400近い骨とその欠片、さらに粘土のパイプからボタンや真鍮の部品にいたるまでの人工物が出てきた。遠征隊の法医学者アン・キーンレイサイドがこれらの骨を検査し、鉛の含有量が高いことと、「肉を削ぎ落したとみられる」多くの解体痕があることが分かった。この調査行によって、フランクリン隊の少なくともある集団が最終段階で人肉食を行っていたことが一般に受け入れられるようになった<ref>{{cite journal | last = Bertulli | first = Margaret |author2=Fricke, Henry C. | title = The Final Days of the Franklin Expedition: New Skeletal Evidence | journal = Arctic (journal) | volume = 50 | issue = 1 | pages = 36–46 |date=March 1997 | url = http://pubs.aina.ucalgary.ca/arctic/Arctic50-1-36.pdf |format=PDF| accessdate =14 February 2008 }}</ref>。2015年6月18日、Journal of Osteoarchaeology誌に掲載された論文は、肉を削ぎ落とされたこれらの骨に加え、35本の「骨に破損と"ポット・ポリッシング"――すなわち、沸騰した湯で熱せられた骨の端部が料理鍋にこすれてできる跡があり」、これは「人肉食の最終段階の、飢えた人々が最後の一滴までカロリーと栄養分をしぼりつくすために骨髄を抽出しようとするとき、一般的に見られる」ものである、と結論している<ref>{{cite web |last=Ghose |first=Tia |title=Cracked Bones Reveal Cannibalism by Doomed Arctic Explorers |url=http://news.discovery.com/history/archaeology/cracked-bones-reveal-cannibalism-by-doomed-arctic-explorers-150722.htm |date=22 July 2015 |publisher=Discovery Communications |accessdate=20 September 2015}}</ref>。
ここで発見された遺骨は[[1994年]]にキングウィリアム島へ返還され、新設された追悼施設に埋葬された。それらの一部は[[2013年]]に[[DNA解析]]のため、歯など一部サンプルが採取され、そのうち、人肉食による切り傷の付いた下顎骨が[[2024年]]になって血縁者とのDNAの比較により、ジェームズ・フィッツジェームズのものと確認された<ref>[https://www.cnn.co.jp/fringe/35225389.html 最後は人肉食に、DNA解析が明かす北極探検隊の壮絶な末路]、[[CNN]]、2024年10月26日、2024年11月3日閲覧</ref>。フィッツジェームズは、探検隊のメンバーのうち、死後に人肉食に遭ったことが確認された最初の人物である。
=== 難破船調査(1992年–1993年) ===
137 ⟶ 143行目:
=== 難破船調査(1997年–2014年) ===
[[File:Map Remains of Franklin's Lost Expedition.svg|thumb|エレバス・テラーの発見地点]]
[[File:Ship's bell recovered from the HMS Erebus from Frankin's lost expedition, Nattilik Heritage Centre, Gjoa Haven, September 2019.jpg|thumb|海底のエレバスから引き揚げられた[[船鐘]]。カナダ・ヌナブト準州のグジョアヘイブンにある博物館「ナッティリク・ヘリテージ・センター」に展示されている(2019年)]]
1997年、フランクリン遭難150周年記念の遠征隊を、カナダの映画会社エコ・ノバが立ち上げ、1992年に見つかった磁気に反応する可能性の高い場所をソナーで調査した。考古学者ロバート・グレニアのもと、マーガレット・バーチュリが助手を、ウッドマンが再度遠征隊の歴史家と捜査調整役を務めた。捜索はカナダ沿岸警備隊砕氷船ローリアから行われた。カークウォール島近くの約40平方キロメートルの範囲が捜索されたが、結果が出なかった。分遣隊がオライリー島の北にある入り江の浜で、フランクリン隊の遺物と見られる主に銅板と小さな物体を発見すると、調査はその地域に移されたが、悪天候のために調査を阻まれ、その後遠征を中断した。この遠征に関するドキュメンタリー番組『ミステリーの大洋――失われた艦隊を求めて』をエコ・ノバが制作した。
145 ⟶ 153行目:
2008年8月、新しい捜索計画が発表された。[[パークス・カナダ]]の考古学者ロバート・グレニアが筆頭として率いるものだった。この調査は解氷し水面が出た状態でボートからサイドスキャンソーナーを使って行うことが企図された。グレニアは、口承歴史家のドロシー・ハーリー・エバーによって新しく出版されたイヌイットの証言集に基づき新発見を行うことも企図していた。エバーの情報提供者のひとりは、フランクリンの船の沈没地点を王立地理学会島の近くとしており、それ以前の遠征隊がまだ探していない海域だった。この調査には地元イヌイットの歴史家ルイ・カムーカクも加わることになった。カムーカクはそれまでにフランクリン隊の重要な遺物を発見したことがあり、先住民文化を代表することとされた<ref>{{cite news | last = Gilles | first = Rob | title = Canada to search for Arctic explorer's ships | agency = Associated Press | date = August 2008 | url = http://apnews.myway.com/article/20080816/D92J5FK00.html | accessdate =17 August 2008}}</ref>。
2010年7月25日、1853年のフランクリン隊捜索の間に、氷に閉ざされその後放棄されたHMS''インベスティゲーター''が、カナダ北極海西部バンクス島北岸沿いのマーシー湾の浅い水域で見つかった。パークス・カナダのチームの報告では、船は良い状態を保っており、水深約11 m の底に直立している<ref name="ncoll073010">{{cite news|last=Collins|first=Nick|title=Sir John Franklin search ship found|url=
2013年8月9日、パークス・カナダから新しい調査計画が発表された<ref>{{cite web|url=http://www.newswire.ca/en/story/1208845/on-the-hunt-for-a-missing-piece-of-canadian-history-parks-canada-continues-search-for-lost-franklin-ships |title=Parks Canada | On the Hunt for a Missing Piece of Canadian History - Parks Canada Continues Search for Lost Franklin Ships |publisher=Newswire.ca |date= |accessdate=2014-05-19}}</ref>。この調査は新しい重要な事実を発見できなかった。
2014年では、「ビクトリア海峡遠征隊」の旗の下に大掛かりな調査が発表され
=== 科学的結論 ===
フランクリン遠征隊法医人類学プロジェクトの現場調査、発掘、墓の掘り出しは10年以上にわたって続いた。キングウィリアム島とビーチー島の人工物および人間の遺骸を調査した結果によれば、ビーチー島の隊員の死因
== その他の要因 ==
168 ⟶ 177行目:
この失われた遠征隊の記憶のために、カナダの[[ノースウエスト準州]]の小区分の1つはフランクリン地区と呼ばれていた。高緯度の北極圏諸島を含んでいたこの行政区分は、1999年4月1日に[[ヌナブト準州]]が新しく創設されたことに伴い、そこに組み入れられて廃止された。
2009年10月29日、感謝祭の特別礼拝が[[グリニッジ]]のオールド・ロイヤル・ナーバル・カレッジの礼拝堂で開催され、そこのフランクリンの国家記念碑に再度献納が行われた。この礼拝では、イングランドに送還された唯一の遺骸であり、1873年に記念碑の中に収められていたヘンリー・トマス・ダンダス・ル・ベスコンテ大尉の遺骸を、厳粛に再度埋葬する儀式が行われた<ref>{{cite web|url=http://www.ric.edu/faculty/rpotter/temp/HLJ_Franklin_Monument.pdf |title=Article by Dr Huw Lewis-Jones |format=PDF |accessdate=19 May 2011}}</ref>。この行事には国際的極圏関係者と招待客が集まり、極圏旅行者、写真家、著作家に、フランクリン、フランシス・ロードン・モイラ・クロージャー大佐とその部下の子孫、彼らを探しに行った者達の家族、すなわちフランシス・レオポルド・マクリントック提督、ジョン・ロス代将、ロバート・マクルアー少将の家族がいた。この行事はジェレミー・フロスト牧師と極圏歴史家のフー・ルイス=ジョーンズ博士が主宰し、ポーラーワールドと[[在イギリスカナダ高等弁務官事務所]]が組織つくりをおこなった。カナダ北部の海図作りにおいてイギリスが果たした貢献を祝うものであり、地理的発見を追求して落とされた命を顕彰した。イギリス海軍はニック・ウィルキンソン提督が代表し、祈祷者はウーリッジ司教が指導し、朗読者にはグリニッジ基金の首席執行役ダンカン・ウィルソンからの雄弁な賛辞、さらにカナダ高等弁務官のH・E・ジェイムズ・ライトからの賛辞があった<ref>{{cite web|url=http://www.nunatsiaqonline.ca/stories/article/6542_taissumanni_nov._20/ |title=Online review of recent Service of Thanksgiving |publisher=Nunatsiaqonline.ca |date=19 November 2009 |accessdate=19 May 2011}}</ref><ref>{{cite web|url=
この北極礼拝に続いてペインテッドホールであった私的なドリンク・レセプションでは、パークス・カナダの海洋考古学者主任のロバート・グレニアが、失踪した遠征船について進行中の捜索を説明した。翌日、極圏著作家の一団がロンドンのケンサル・グリーン墓地に行って、そこに眠る北極探検者に敬意を表した<ref>{{cite web|url=
=== フィクションや芸術における引用 ===
1850年代から現代まで、フランクリンの失われた遠征隊は多くの文学作品にヒントを与えてきた。中でも最初のものはウィルキー・コリンズが書いた戯曲『The Frozen Deep』であり、[[チャールズ・ディケンズ]]が補助し、劇制作も行った。この劇は1857年初期にタビストック・ハウスで私的な観衆を前に興行され、さらにロイヤル・ギャラリー・オブ・イラストレーション([[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]のための御前上演を含む)やマンチェスター・トレードユニオン・ホールでの一般公演も行われた。1859年にフランクリンの死の知らせが、[[アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン]]のものなど、哀歌をうまれさせた。
[[ファイル:'The English at the Noth Pole' by Riou and Montaut 002.jpg|thumb|left|[[エドゥアール・リウー]]による[[ジュール・ヴェルヌ]]の『ハ
フランクリンの最後の遠征に関するフィクションでの扱いは、[[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[ハ
フランクリンの最後の遠征は多くの音楽にもヒントを与えた。その最初のものは『フランクリン夫人の嘆き』というバラード(『ロード・フランクリン』とも呼ばれた)であり、1850年代に始まり、その後多くのアーティストが録音した。例えば、[[マーティン・カーシー]]、[[ペンタングル]]、[[シネイド・オコナー]]、パールフィッシャーズ、ジョン・ウォルシュなどである。他にフランクリンがヒントになった歌としては、[[フェアポート・コンヴェンション]]の『I'm Already There』、[[ジェームス・テイラー]]の『Frozen Man』(ビーティのジョン・トーリントンを写した写真に基づく)がある。
185 ⟶ 194行目:
[[ファイル:Manproposesgoddisposes.jpg|thumb|[[エドウィン・ランドシーア]]による絵画『人は提案し、神は処置する』、1864年]]
ゲーム「Dread Hunger」は、フランクリン遠征から約12年後に捜索のために出発したフォックス号が舞台である。その乗組員がプレイキャラとなり、ゲーム内に「廃船」となったエレバス号とテラー号も出てくる。
== 年譜 ==
202 ⟶ 213行目:
* 1850年(?): イヌイットが放棄された船に乗船、キングウィリアム島沖で氷に捕まっていた
* 1850年(?): イヌイットが、40人がキングウィリアム島の南を歩いているのを目撃
* 1851
* 1852年-1858年 (?): イヌイットが、かなり南のベイカー湖地域でクロージャーともう一人を見たと証言
* 1854年: ジョン・レイが土地のイヌイットを面接、イヌイットは遠征隊の物品を渡し、人々が人肉食に訴えた後で飢えて死んだと告げた
221 ⟶ 232行目:
* McGoogan, Ken (2002). ''Fatal Passage: The True Story of John Rae, the Arctic Hero Time Forgot''. New York: Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-0993-6
* McGoogan, Ken (2005). ''Lady Franklin's Revenge: A True Story of Ambition, Obsession and the Remaking of Arctic History''. Toronto: HarperCollins. ISBN 978-0-00-200671-2.
* {{cite book|url=
* Potter, Russell (2007). ''Arctic Spectacles: The Frozen North in Visual Culture''. Seattle: University of Washington Press. ISBN 978-0-295-98680-7.
* Sandler, Martin (2006). ''Resolute: The Epic Search for the Northwest Passage and John Franklin, and the Discovery of the Queen's Ghost Ship''. New York: Sterling Publishing Co. ISBN 978-1-4027-4085-5.
246 ⟶ 257行目:
== 外部リンク ==
{{Commons category|Franklin Expedition}}
* [
* [
* [http://historicmysteries.com/events/the-doomed-franklin-expedition Doomed Franklin Expedition], Historic Mysteries
* [http://www.ric.edu/faculty/rpotter/woodman/mainpage.html Expedition reports for Woodman-involved efforts], Russell Potter
253 ⟶ 264行目:
* [http://www.biographi.ca/EN/ShowBio.asp?BioId=37516 Franklin biography], ''Dictionary of Canadian Biography Online'' <!-- Accessed 10/31/2012 -->
* [http://collections.rmg.co.uk/collections.html#!csearch;searchTerm=john_franklin Franklin collection], Royal Museums Greenwich <!-- Accessed 10/31/2012 -->
* [
* [http://blogs.abc.net.au/tasmania/2012/07/the-life-and-times-of-sir-john-franklin.html Life and Times of Sir John Franklin] (audio file from 936 ABC Hobart) <!-- Accessed 10/31/2012 -->
* [http://www.llanellich.org.uk/Files/llanellis-lost-arctic-explorer.html Llanelli’s Lost Arctic Explorer], Llanelli Community Heritage
261 ⟶ 272行目:
* [http://nationalgeographic.jp/nng/article/20110927/285308/ 第3回 グレートフィッシュ川――クロージャーの決断]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふらんくりんえんせい}}
[[Category:北極探検]]
[[Category:北極の歴史]]
[[Category:イギリスの歴史]]
270 ⟶ 282行目:
[[Category:カニバリズム]]
[[Category:1840年代]]
[[Category:カナダの失踪事件]]
[[Category:鉛中毒]]
|