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{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 =
|公式国名 = {{native
|建国時期 =
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|先代1 =
|先旗1 = State
|先代2 =
|先旗2 = State
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|国旗リンク =
|国章画像 = Coat of arms of
|国章リンク = 紋章<ref>{{cite web |author=Hubert de Vries |url=https://www.hubert-herald.nl/Hellas.htm |title=HELLAS |website=heraldica civica et militara De Rode Leeuw een site over heraldiek en verwante onderwerpen Hubert de Vries |date=2017 |access-date=2023-10-13 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230629234212/http://www.hubert-herald.nl/Hellas.htm |archive-date=2023-06-29 }}</ref>
|標語 = {{lang|el|Ελευθερία ή θάνατος}}{{el icon}}<br>''自由か死か''
|標語追記 =
|国歌 = {{lang|el|[[自由への賛歌|Ύμνος εις την Ελευθερίαν]]}}{{el icon}}<br>''自由への賛歌''<br/>[[File:Greece national anthem.ogg]]
|国歌追記 =
|位置画像 = Hellenic State (1942).svg
|位置画像説明 = ギリシャ国の位置(1942年)
|公用語 = [[ギリシャ語]]<br>[[ドイツ語]]<br>[[イタリア語]]
|首都 = [[アテネ]]
|宗教 = [[ギリシャ正教]]
|元首等肩書 = ギリシャにあるドイツ国全権代表<ref>Bevollmächtigten des Reichs für Griechenland</ref>
|元首等年代始
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|元首等氏名
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|
|
|
|首相等氏名1 = [[ゲオルギオス・ツォラコグル]]
|
|
|首相等氏名2 = [[コンスタンディノス・ロゴセトプロス]]
|首相等年代始3 = 1943年4月7日
|首相等年代終3 = 1944年10月12日
|首相等氏名3 = [[イオアニス・ラリス]]
|面積測定時期1 =
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|変遷1 = [[ギリシャの戦い]]
|変遷年月日1 = 1941年4月6日
|変遷2 = ギリシャ軍降伏
|変遷年月日2 = 1941年4月23日
|変遷3 = 政権の建立
|変遷年月日3 = 1941年4月30日
|変遷4 = [[メルクール作戦]]
|変遷年月日4 = 1941年5月20日
|変遷
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|通貨 = [[ドラクマ]](₯)
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|注記 =
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{{ギリシャの歴史}}
'''第二次世界大戦中のギリシャ'''(だいにじせかいたいせんちゅうのギリシャ)では、[[第二次世界大戦]]時に枢軸国によって分割占領され、傀儡政権が建てられたギリシャについて述べる。
第二次世界大戦中、[[ギリシャ王国]]は
1940年10月、イタリアはギリシャに侵攻したが撃破され、反対に[[ギリシャ軍]]の[[アルバニア]]侵攻を許していた。このため、ドイツ軍は[[バルカン半島]]への[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の上陸を懸念せざるを得なくなり、[[ソビエト連邦|ソ連]]侵攻作戦である「[[バルバロッサ作戦]]」の延期を余儀なくされた。1941年4月、ドイツ軍はギリシャ侵攻を開始し、迅速な電撃作戦の前に5月半ばにはギリシャは枢軸国ドイツ、イタリア、ブルガリアの占領下
==降伏==
{| class="infobox" style="width:25em; float:right;margin:0 0 1em 1em;font-size:95%;clear:right;" cellspacing="2"
! style="background:#ccf;" colspan="2" align="center" | ''' ギリシャ国時系列'''
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1939年4月7日
|style="font-size: 90%;"| イタリア軍アルバニア侵攻、イタリア政府ギリシャへの枢軸国参加とイタリア軍の受け入れを要望
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1939年9月1日
|style="font-size: 90%;"| 第二次世界大戦勃発
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1940年10月28日
|style="font-size: 90%;"| メタクサス、イタリアの最終通告拒否。イタリア軍ギリシャ侵攻開始
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1941年4月27日
|style="font-size: 90%;"| ドイツ軍、アテネ占領。以後、ギリシャはドイツ・イタリア・ブルガリアによる3分割占領に
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1941年9月27日
|style="font-size: 90%;" | 民族解放戦線(EAM)結成
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1942年2月
|style="font-size: 90%;"| 民族人民解放軍(ELAS)結成
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年3月
|style="font-size: 90%;"| 国民解放政治委員会結成
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"|1944年3月
|style="font-size: 90%;"| エジプトにおいて民族解放戦線シンパ反乱を起こすが、イギリス軍がこれを鎮圧
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年5月20日
|style="font-size: 90%;"| レバノン協定合意
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年9月
|style="font-size: 90%;"| カゼルタ協定締結される{{#tag:ref|民族人民解放軍のゲリラ部隊をイギリス軍指揮下に組み込むことを求めた協定<ref name="G337">[[#桜井|桜井(2005)、p.337]].</ref>|group=注}}。<br/>民族人民解放軍、ギリシャ全土で一斉蜂起
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年9月
|style="font-size: 90%;"| イギリス軍ギリシャ上陸
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年10月
|style="font-size: 90%;"| ドイツ軍、バルカン半島より撤退開始。11月4日までに終了<br/>パパンドレウ、帰国<br/>イギリス・ソビエト連邦間で『[[パーセンテージ協定]]』合意
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1944年12月
|style="font-size: 90%;"| アテネにおいて民族人民解放軍蜂起、イギリス軍が鎮圧に乗り出すが市街戦に発展する
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1945年2月12日
|style="font-size: 90%;"| ヴェルキザ協定締結
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"|1945年
|style="font-size: 90%;"| [[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|第二次世界大戦終結]]
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1946年3月31日
|style="font-size: 90%;"| 右翼連合、総選挙において圧勝
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"|
|style="font-size: 90%;"| 人民党政権発足、首相にはツァルダリスが就任
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1946年10月28日
|style="font-size: 90%;"| 左派武力勢力の統一司令部結成される
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1947年2月
|style="font-size: 90%;"| アメリカ合衆国が介入開始
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1947年3月
|style="font-size: 90%;"| アメリカ、軍事経済援助と軍事要員派遣を行い、本格介入を開始する
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1947年3月31日
|style="font-size: 90%;"| パリ条約締結によりドデカネス諸島、ギリシャへ編入される
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1947年4月1日
|style="font-size: 90%;"| 国王ゲオルギオス2世死去、ハウル1世即位
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1947年12月24日
|style="font-size: 90%;"| ギリシャ北の山岳部において自由ギリシャ自由政府設立、共産党が非合法化される
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1949年8月
|style="font-size: 90%;"| ギリシャ国内における左派武装勢力がほぼ一掃される
|-
|style="font-size: 90%; white-space:nowrap;" align="center"| 1949年10月16日
|style="font-size: 90%;"| ギリシャ民主軍(DSE)指導者ニコラオス・ザカリアディス停戦を発表。ギリシャ内戦終結
|}
[[1940年]][[10月28日]]の早朝、ギリシャ駐在イタリア大使[[エマヌエーレ・グラッツィ]]
[[ギリシャ軍]]はイタリアが考えていたよりも優秀であり、[[エピルス]]の山がちな地形を利用して有効な戦闘を行った。イタリア軍は当初は内陸部への進撃に成功したがギリシャ軍はこれに反撃、[[西マケドニア]]では[[コルチャ|ゴリツァ]]を占領するなどイタリア軍を押し戻した<ref name="KG110">[[#スボロノス|スボロノス、(1988)p.110]].</ref>。12月中旬、イタリア軍の増援と厳しい冬によりギリシャ軍の攻勢が止まるまでに、ギリシャはアルバニアの4分の1を占領していた。1941年3月、イタリア軍による大規模反撃は失敗に終わり、結局小規模な地域を保持する事態となった。その後ドイツの介入でギリシャ軍が敗北、枢軸国の勝利に終わったとはいえ、イタリアに対するギリシャ軍のこの初期の勝利は、第二次世界大戦中の連合国にとって陸上における初めての勝利といえる。
181 ⟶ 168行目:
==3分割占領==
{| class="wikitable" cellspacing="0" cellpadding="0" align="right"
|[[Image:Greece-1941-1944.png|250px|center]]
|-
| 三分割占領されたギリシャ<br/>
<span style="background:#00f;border:1px solid #000; font-size:xx-small;"><sup> </sup></span>{{fontsize|x-small| イタリア占領地域}}
<span style="background:#f00;border:1px solid #000; font-size:xx-small;"><sup> </sup></span>{{fontsize|x-small| ドイツ占領地域}}
<span style="background:#0c0;border:1px solid #000; font-size:xx-small;"><sup> </sup></span>{{fontsize|x-small| ブルガリア占領地域}}
|}
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Mayr-033-33, Griechenland, Heinrich Himmler mit Sepp Dietrich.jpg|thumb|right|ギリシャを訪れたヒムラー1941年]]
ギリシャはドイツ、イタリア、ブルガリアの3国で分割占領されることになった<ref name="S269"/>。ドイツ軍は戦略的に重要な地点、すなわち、[[アテネ]]、[[マケドニア]]中部の[[テッサロニキ]]、クレタ島を含むエーゲ海の島々を占領した。また、ブルガリアは以前より、その領有を主張していたギリシャ北東部(エヴロス県を除くマケドニア東部とトラキア西部)を占領、併合した。そして、イオニア島、及びギリシャの3分の2はイタリア軍が占領することとなった。1943年9月、連合国のイタリア侵攻によりイタリアが連合国に降伏、イタリア方面からの連合軍の侵攻を恐れたヒトラーは素早くイタリア本土を占領、さらにイタリアが占領していた地域もドイツ軍が占領したが、その際にイタリア軍との間で戦闘が発生することもあった<ref name="I79-112">[[#山野|山野、吉川 (2006), pp.79-112]].</ref>。イタリアの降伏に伴ってエーゲ海へ侵攻しようとするイギリス軍の目論見は{{仮リンク|レロス島の戦い|en|Battle of Leros}}により失敗に終わった。
186 ⟶ 181行目:
===ドイツ占領地域===
====ナチス・ドイツのギリシャ観====
ナチス・ドイツにおいて[[古代ギリシャ]]は憧れの的であった。そのため、ギリシャを占領していた時期、ドイツの政府要員、将兵たちがギリシャへ『戦争観光』に訪れていた。その中には[[親衛隊全国指導者]]である[[ハインリヒ・ヒムラー]]も含まれていた。しかし、古代ギリシャへの憧れは存在していたものの、近代ギリシャ人が古代ギリシャ人の後継者であるという点には疑問を抱いており、
====経済搾取と大飢饉====
ギリシャは占領のために、大規模な損害を受けた。ただでさえ経済基盤の弱いギリシャは6ヶ月の戦いですでに経済危機に陥っており、さらに、ドイツの占領のため、厳しい経済的搾取が行われた。原材料と食料の厳しい要求が行われ、親独政府は多額の占領費用を負担することを強いられ1942年には国家収入の90%がその費用とされた<ref name="S271">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.271]].</ref>。そのためにインフレーションが発生、さらにドイツの戦時公債の負担を強いられ、さらなる経済の悪化を引き起こした。しかし、その要求も連合軍による経済封鎖、破壊された国の基盤、強力なコネで形成された闇市場の出現により、1941年から1942年にかけての極めて厳しい寒さとなった冬に大飢饉({{lang-el-short|Μεγάλος Λιμός}})が発生<ref name="G335">[[#桜井|桜井(2005)、p.335]].</ref>する元となり、約300,000人が餓死することとなり、この飢饉はギリシャ人を全滅させるために仕組まれたものと噂されるほどであった<ref name="S271"/>{{#tag:ref|1941年から42年にかけてギリシャ厚生省が統計を取り始めて以来初めて、死亡率が出生率を上回り、アテネの死亡率は前年の5〜7倍、島々では8〜10倍に達した<ref name="S272">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.272]].</ref>。|group=注}}。[[スウェーデン]]、[[トルコ]]などの中立国からの援助にもかかわらず、援助物資のほとんどが親独政府の官僚の手に渡り、彼らから援助を「買う」ためにドイツ占領当局とのコネを持っている売人がそれを入手して闇市で売買、その値段を吊り上げて利ざやを稼いでいた。このために、ギリシャ亡命政府がこの多大なギリシャ人たちの苦痛を訴えを行い、結局、イギリス政府は部分的ながら、封鎖を解くことを強いられた。そして1942年夏より[[国際赤十字委員会]]により、民需品配布が十分にできる体制が整った<ref name="M544-8">[[#Mazower1995
{| class="wikitable"
|+ style="font-size: 0.9em" |飢饉による死亡者数(国際赤十字社の数字に基づく)<ref name="Hondros71">À partir de Hondros, ''op. cit.'', p.71</ref>
249 ⟶ 244行目:
{| class="wikitable"
|+ style="font-size: 0.9em" |インフレの進行(単位は[[ドラクマ]])<ref name="Hondros66">D'après Hondros, ''op. cit.'', p.66</ref>
! style="font-size: 0.9em" |商品 (1oka当り)<br />(1oka=1.
! style="font-size: 0.9em" |1940年10月1日
! style="font-size: 0.9em" |1942年9月1日
316 ⟶ 311行目:
イタリアはギリシャ本土とエーゲ海の大部分の島を占領した。ギリシャの領土を併合する提案が[[ローマ]]でなされたが、結局実行されることはなかった。これはイタリア国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]からの圧力によるものであり、また、ドイツがブルガリアによるギリシャ領土併合を強く否定していたことも関係している。
イタリアが長くその標的としてきた[[キクラデス諸島]]、[[イオニア諸島]]のギリシャ行政当局は、イタリアに併合されることを考え、行政権をイタリアへ譲渡した。アルバニア国境近くのエピルスにはアルバニアの少数民族、チャム=アルバニア人が在住しており、その地域を[[チャメリア]]としてアルバニア統一主義者が権利を主張していた。第二次世界大戦以前、イタリアはチャメリアと[[コソボ]]の民族主義を煽ることにより、アルバニア人の支持を得ようとしており、ギリシャに対するイタリアの中傷はチャメリア問題を大きく取り扱っていた。<ref name="F70-5">[[#Fischer
ギリシャ内でイタリアが支援を行っていた少数民族のもう1つの例が、[[アルーマニア人]]であり、マケドニア西部、テッサリア北部、エピルスを含んだ[[ピンドス公国]]が<ref>Poulton, Hugh. 2000. Who are the Macedonians? Indiana University Press. p. 111</ref>、[[アルキヴィアド・ディアマンディ]]([[:en:Alchiviad Diamandi di Samarina]])、[[ニコラ・マトゥーシ]]([[:en:Nicola Matushi]])、 [[チェスネキー・ジュラ]]らによって建国された。しかし、アルーマニア人の大部分が統一を拒否、また、公国はディアマンディの支持者である、いわゆるローマ帝国の再来を夢見るイタリアの属州以上になることはなかった。<ref name=
しかし、イタリアの占領区域はドイツ、ブルガリアの占領区域と比べて穏やかなものであった。ドイツ軍とは異なり、一部を除くイタリア軍は大規模報復を行わず、また、ユダヤ人保護も行った。しかし、イタリアがギリシャの大部分を占領していたため、イタリアは1942年−1943年から始まったギリシャパルチザンの活動に直面したが、それに対処することができなかった。1943年中頃までには、パルチザンはイタリア軍が駐屯していた町を含む山岳地帯からイタリア軍を追い出すことに成功、そして自由な地区「自由なギリシャ(Free Greece)」を作り上げた。
1943年9月、イタリアが降伏するとドイツ軍が占領を開始した。その結果、ドイツ軍によるパルチザン掃討作戦と[[反ユダヤ主義]]政策が行われた。
===ブルガリア占領区域===
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ブルガリアは「領土問題」を解決するために、第二次世界大戦に枢軸国側で参加しており、[[バルカン戦争#第二次バルカン戦争(1913年6月-1913年8月)|第二次バルカン戦争]]で失ったマケドニア西部、[[ヌイイ条約]]で失ったトラキア西部を取り戻し、「[[大ブルガリア (政治概念)|大ブルガリア]]」の回復を目指していた。1941年3月1日、ブルガリアは枢軸同盟に参加、ギリシャにおけるブルガリアの領有権主張へのドイツの支持を要請した。
1941年4月20日、ブルガリア軍はギリシャへの侵攻を開始、ドイツ軍の後衛として進撃し、ギリシャ北東部のストルマ川以東のマケドニア東部、西トラキア(トルコ国境のエビロスはドイツ軍が占領した)を占領した。ドイツ、イタリアと異なり、ブルガリアは1941年5月14日、ブルガリアの民族主義者の悲願であった同占領区域を正式に併合した。<ref name="MazowerB276">[[#
Group, p.19, ISBN 0275965449</ref>
1943年5月、ブルガリア占領区域からのユダヤ人追放が始まった。1943年、ギリシャからイタリア軍が撤退した後、ドイツの管理の元、マケドニア中部にブルガリア軍が駐屯した。<ref>[http://www.balkanalysis.com/2005/11/29/the-holocaust-in-greece-1941-1944-part-1/ Carl Savich, Balkanalysis article]</ref> しかし、1944年10月、[[赤軍|ソビエト赤軍]]がブルガリア方面へ進撃し、また、ドイツ軍がギリシャより撤退、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとソビエト連邦書記長[[ヨシフ・スターリン]]との間で取り交わされた『(勢力範囲における)[[パーセンテージ協定]]<ref name="R133">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.133]].</ref>』により、ブルガリア軍はマケドニア、トラキアから撤退することを強制された。そして、戦後のブルガリア占領地区の回復の困難を残してギリシャは再出発することとなった。
===傀儡と協力===
[[ファイル:Ioannis Rallis.jpg|サムネイル|防衛大隊を視察するイオニアリス・ラリス]]
ドイツとの降伏交渉を行った[[ゲオルギオス・ツォラコグル]]将軍は、ドイツ傀儡政権の首相に任命され<ref name="S270" />、アテネに滞在した。その後、首相の座はドイツに協力した著名なギリシャ人、{{仮リンク|コンスタンディノス・ロゴセトプロス|en|Konstantinos Logothetopoulos}}、{{仮リンク|イオアニス・ラリス|en|Ioannis Rallis}}らに後を継がれる事となる。なお、イオアニス・ラリスはギリシャのドイツ協力部隊「{{仮リンク|ギリシャ防衛大隊|el|Τάγματα Ασφαλείας|label=防衛大隊}}」の創設に責任を負っていた。抵抗運動の強かったギリシャではあったが、対独協力者は存在しており日和見主義的な実利を動機としたドイツへの協力を行った者が存在した。さらに反共主義やファシスト・右翼人士や政党にも協力を求め、{{仮リンク|ゲオルギオス・メルクーリス|el|Γεώργιος Μερκούρης}}に率いられた{{仮リンク|ギリシャ国家社会党|el|Ελληνικό Εθνικό Σοσιαλιστικό Κόμμα}}や{{仮リンク|ゲオルギオス・ピュロス|el|Γεώργιος Πούλος}}らの{{仮リンク|ギリシャ国民連合|el|Εθνική Ένωσις Ελλάς|label=ギリシャ国民連合(EEE)}}・{{仮リンク|国家社会主義愛国組織|el|Εθνική Σοσιαλιστική Πατριωτική Οργάνωση|label=国家社会主義愛国組織(ESPO)}}や反ユダヤ主義の'''Sidira Eirini'''(「'''鉄の平和(Iron Peace''')」)などの小派閥も利用した。
ギリシャの少数民族の中ではチャム=アルバニア人がエピルスにおいて枢軸国軍に協力した。<ref>Russell King, Nicola Mai, Stephanie Schwandner-Sievers,The New Albanian Migration, p.67, and 87</ref><ref name="MazowerChams">M. Mazower (ed.), After The War Was Over: Reconstructing the Family, Nation and State in Greece, 1943-1960, p. 25</ref> そのため、その後の1944年、ギリシャ解放後、'''民族協和ギリシャ連盟'''('''{{lang|el|Εθνικός Δημοκρατικός Ελληνικός Σύνδεσμος}}'''、 '''EDES''')はこれを口実として、チャム=アルバニア人をギリシャから追放した<ref name="MazowerChams"/>。
マケドニアにおいてはスラブ系少数民族は'''Ohrana'''のような準軍事組織を創設して、ギリシャ人の追放を行い、ブルガリア軍に協力した。
==抵抗活動==
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-164-0389-23A, Athen, Hissen der Hakenkreuzflagge.jpg|thumb|right|200px|ドイツ軍将兵によってアクロポリスに掲げられるドイツ軍旗、のちにこれは引きずり降ろされ、初の抵抗運動となる<ref name="S270">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.270]].</ref>。]]ほとんどのギリシャ人はドイツへ協力をせずに、それを仕方なく受け入れるか、抵抗を選んだ。多くのギリシャ人が山岳地帯へ逃亡したため、抵抗活動は早期に開始され、そしてそれは組織化された<ref name="S272"/><ref name="G335">[[#桜井|桜井(2005)、p.335]].</ref>。[[1941年]][[4月27日]]にドイツ軍が[[アテナイのアクロポリス]]に侵攻した時、ひとつのエピソードが発生した。ドイツ軍は、アクロポリスでギリシャの旗の護衛を行うエウゾネス(Evzone)のコンスタンチン・コウキィデス(Konstandinos Koukidis)にギリシャの旗を降ろすよう命令した。ギリシャ兵はそれに従いはしたが、旗を降ろした後に旗を胸に抱いて、アクロポリスから飛び降りた。数日後、ドイツ軍の軍旗(Reichskriegsflagge)が翻っていたが、それを愛国的な二人の若者マノリス・グレゾス(Manolis Glezos)とアポストロス・サンダス(Apostolos Santas)らは夜間、アクロポリスに侵入し、旗を降ろし破棄した。これはギリシャにおける最初の抵抗活動の1つであり、それを知ったドイツ支配下の他の国々の人々を奮起させることとなった<ref name="S270"/>。
さらに5月以降、共産党員は無党派層の人々が捕虜となっているイギリス軍将兵の逃亡の手助けや非合法文書の配布、サボタージュ活動などを通じて抵抗運動を開始、8月にはレムノス、キオス島などで電話線の切断、9月には[[テッサロニキ]]での電話線切断など自発的な抵抗運動が開始されていた。さらにブルガリア占領区では武装ゲリラも発生していたが、これらは組織だって行われたものではなく、やがて小康状態に陥った。一方、カイロに亡命していたギリシャ亡命政府も共和派、反王党派などへの対処に忙殺されており、抵抗運動を組織化する余裕はなかった<ref name="T177-8">鳥飼(2000)、pp.177-178.</ref>。
347 ⟶ 342行目:
これらの状況により、メタクサス体制下で非合法化されていたギリシャ共産党はこれらの組織化を画策、[[1941年]][[7月1日]]、第6回中央委員会においてギリシャ全土の抵抗運動組織化を呼びかけることを決定、[[9月10日]]の第7回中央委員会ではその具体的行動や抵抗運動の戦術を決定、さらに党派を超えた呼びかけを行いその結果、9月27日、民族解放戦線{{#tag:ref|指導者はアテネ大学教授、アレクサンドロス・スヴォロス。1941年5月に結成された地下組織『EA(民族の団結)』、7月に結成された『EEAM(民族労働者解放戦線)』の統括する組織として1941年10月に結成された。参加総数は150万人と推測されており、ギリシャ国民の5人に1人が関与していたが、これらは全てが共産党支持者ではなく、社会民主主義者、ナショナリスト、リベラリストらも参加していた<ref name="S273">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.273]].</ref><ref name="G283">[[#桜井|桜井(2005)、p.283]].</ref>。このように民族解放戦線は共産主義勢力というよりは愛国者勢力という形となっており<ref name="S276">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.276]].</ref>、元々から抵抗活動を行っていた諸組織の集合体であった<ref name="T180">鳥飼(2000)、p.180.</ref>。|group=注}}が結成された<ref name="T178">鳥飼(2000)、p.178.</ref>。
ギリシャパルチザンの中で最も勢力が強かったのはギリシャ共産党
さらにこれに拍車をかけたのがイギリスの存在であった。イギリスはギリシャの庇護者を自任しており、戦前よりイギリスの[[特殊作戦執行部]](SOE)がギリシャが枢軸国に占領された後も活動が行えるよう組織作りを進めていた。そしてその資金援助を行うために調査を行っていたが、その資金は対枢軸国対策に使用するよう厳命されてはいたものの、結局共産系の民族解放戦線もその対象とされていた{{#tag:ref|ただし、イギリス特殊作戦執行部はイギリスの方針に沿って活動するのは民族協和ギリシャ連盟のみと考えていた。しかし、イギリス外務省が受け取った報告では、民族解放戦線は外見上、共産主義的ではなく、また、政治組織でもなく愛国者組織であるとされており、さらにギリシャ亡命政府の副首相カネプロスが創設者こそ共産主義者であるが構成している人員は雑多であると報告、1942年10月の時点でイギリス外務省は愛国者的組織と考えていた<ref name="T181-2">鳥飼(2000)、pp.181-182.</ref>。|group=注}}<ref name="T181-2">鳥飼(2000)、pp.181-182.</ref>。
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結局、民族人民解放軍・民族協和ギリシャ連盟双方はドイツ軍駆逐という目標で協力、1942年11月25日、『ハーリング作戦』は決行され、テッサロニキ – アテネ間の鉄道の高架橋は破壊された{{#tag:ref|参加したのは民族人民解放軍側が100 – 150名、民族協和ギリシャ連盟は45 - 60名で民族人民解放軍の貢献が高かった。しかし、イギリスの報道では民族協和ギリシャ連盟・国民社会解放運動については賞賛されたが、民族人民解放軍のことにはまったく触れなかった<ref name="T185">鳥飼(2000)、p.185.</ref>。|group=注}}<ref name="R130">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.130]].</ref><ref name="T185">鳥飼(2000)、p.185.</ref>。
一方でドイツ軍と反共系パルチザンはお互いを攻撃しないことに同意していた。この約束により、若干の地域でドイツ軍の活動が抑制され、民族協和ギリシャ連盟が共産系パルチザンを攻撃することを可能にした。後に1944年、ドイツと民族協和ギリシャ連盟のこの約束は終了し、ドイツ軍はギリシャ撤退を開始、そこでイギリスの外交使節が内戦の即時停戦を呼びかけている<ref>[http://www.lib.msu.edu/sowards/balkan/lect20.htm ''Twenty-Five Lectures on Modern Balkan History'', by Steven W. Sowards]</ref>。しかし、イギリス政府は戦後のギリシャを担うのがカイロに存在したギリシャ亡命政府を中心として構想していたため、1943年のシチリア上陸作戦でギリシャ最大の抵抗組織である民族解放戦線を利用したにも
しかし、これには深い事情が存在し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは元国王ゲオルギオスを信頼できる同盟者とみなしていたが、共産系ゲリラ民族解放戦線、民族人民解放軍も非共産系ゲリラ民族協和ギリシャ連盟の双方ともゲオルギスの復帰を願っていなかった<ref name="R130"/>。これは占領前のメタクサスの独裁政治から続くこの苦難の原因を国王にあるとみなしていたからであった。そして、初期にはロンドンに滞在していた国王と亡命政府は1943年3月、カイロに移動したが、抵抗運動を正当化しないという立場を取っていた。そのため、イギリスの公式方針は国王ゲオルギオスの復帰支援を行うことであったが、ギリシャ国内ではそれを望むことがほとんど見られなかった<ref name="R130"/>。
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1943年10月、民族協和ギリシャ連盟がドイツ軍と通じているとして民族人民解放軍は攻撃を開始したが、これはイギリスが占領以前の国王による統治を復活させ、民族協和ギリシャ連盟を足がかりに利用していると判断、ユーゴスラビアやアルバニアのように国内唯一のレジスタンスとしての存在を確実にして、戦後のギリシャでの地位を確実にしようとしたものであったが<ref name="R131"/><ref name="G337"/>、イギリス軍は民族人民解放軍への補給を中止、民族協和ギリシャ連盟の消極的支援を行った<ref name="R132">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.132]].</ref>。しかし、これは限定的なものにしかならず、1943年9月、ギリシャ=イタリア間で停戦が合意されイタリア将兵数千名が降伏すると、民族人民解放軍はイタリア軍の装備を手中に収め、戦力を増強していた<ref name="R132"/>。しかし、この内戦状態はドイツ占領当局を利することとなり、ドイツ傀儡政府は共産主義への恐怖を抱いている人々を集め『防衛軍』の編成を行った。これらを重く見たゲリラたちは1944年2月、休戦条約を結んだが、民族協和ギリシャ連盟の勢力はイピルス地方に限定された<ref name="R132"/>。
これらの条件が存在していたにも
{{Quotation|バルカン諸国における我々の問題に答えを出しましょう。
しかし、この事は現地で抵抗を行っていたゲリラたちは知る由もなかった<ref name="R133"/>。
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2月半ば、ヴェルキザ協定{{#tag:ref|対敵協力者の公職追放、憲兵隊の粛清、民族解放戦線などの共産勢力の合法化、国民投票の実施や民族人民解放軍の武装解除が合意されたもの<ref name="G338"/>|group=注}}が締結され、民族人民解放軍は武装解除を承諾、その見返りに『政治犯罪』における特赦の約束と議会選挙を行う前に君主制の是非についての国民投票を行うことを勝ち取った<ref name="G338"/>。しかし、この協定もイギリスは守る気もなく、民族解放戦線、共産党への弾圧を強化、対敵協力者を積極的に登用して軍、警察の強化を行ったため、ヴェルキザ協定は事実上、無効化された<ref name="G339"/>。そして、アテネにおけるこの市街戦はさらなる戦闘を招く結果になっただけであり、反共産主義者は共産主義者に対して無差別な復讐を行い、事実上の白色テロが展開された<ref name="R136"/><ref name="G339"/>。
1945年末、首相にはセミストクリス・ソフリスが就任していたが、1946年3月31日に選挙を行い、その後、国民投票を行うと宣言、これも以前同意されたヴェルキザ協定に反するものであった<ref name="R136"/>。そのため、共産党はこれに抗議、ニコス・ザハリアディス指導の
{| class="wikitable floatright" style="margin:0 0 0.5em 1em;"
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これらの状況を受け、共産党は武力闘争への傾向を見せ始め、1946年2月、山岳地帯で活動する共産系ゲリラへの支援を開始、マケドニア、テッサリア、イピロスでの反政府活動を強化、さらに1946年10月28日、共産党は民族人民解放軍の指導者マルコス・ヴァフィアディスを指導者として'''ギリシャ民主軍'''(DSE)を設立、1947年12月には共産党が非合法化された<ref name="S283">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.283]].</ref><ref name="G340">[[#桜井|桜井(2005)、p.340]].</ref>。これらの状況の悪化により、イギリスでは保守党から労働党へ政権が移行、パリ条約によってイギリス軍がギリシャに駐屯する意味を失ったことや財政危機に瀕したから影響力を失い、これまでギリシャ介入に批判的であったが、『トルーマン・ドクトリン』でギリシャへの経済援助を行っていた[[アメリカ合衆国]]が介入<ref name="R138"/><ref name="G340"/>、両者の和解が最終的に閉ざされた<ref name="A93">[[#油井|油井、(1984)p.93]].</ref>。
1947年末、EDSはアルバニア国境近くの町、コニツァを首都として臨時人民政府(PDK、自由ギリシア臨時政府とも)の樹立を宣言<ref name="R138"/><ref name="G340"/>、ユーゴスラビア、ブルガリア、アルバニアの共産主義国からの支援を受けたが、ソ連はすでに合意された『パーセンテージ協定』の影響からか支援を行わなかった<ref name="S274">[[#周藤・村田|周藤、村田(2000)、p.274]].</ref>
政府軍の圧力が強ま
さらに国際情勢も悪化しており、1948年、ユーゴスラビア共産党がコミンフォルムより追放されるとギリシャ共産党はソビエト共産党の支持を宣言、このため、ユーゴスラビアは支援の打ち切りとギリシャ民主軍に対する国境封鎖を実行した<ref name="R139"/><ref name="G341">[[#桜井|桜井(2005)、p.341]].</ref>。そしてアメリカ支援をうけ、1949年1月、第二次世界大戦時、アルバニアでイタリア軍を圧倒したパパゴスが政府軍総司令官に就任して指揮が高まっていた政府軍の前にギリシャ民主軍は劣勢を強いられ、1949年夏、グランモス、ヴィツィでの激戦で敗退、アルバニアへ退却することとなった<ref name="R140">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.140]].</ref><ref name="G341"/>。さらに、アメリカはツァルダリスの極右的政策が共産勢力の支持を生んでいるとしてその改善を求め、自由主義者のテミストクリス・ソフリスが首相に就任、ソフリスは懐柔政策を採用、恩赦などを駆使して4,000名近いゲリラの武装解除に成功した<ref name="G341"/>。
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第二次世界大戦以前、ギリシャの[[ユダヤ人]]には大きく分けて、2グループが存在しており、1つ目が古代ギリシャより存在していた[[ロマニオット]]、そして中世にスペインの宗教裁判から逃れて、テッサロニキに在住した[[セファルディム]]でこちらは50,000人以上、存在した。特に後者は5世紀の間、都市において経済において顕著な活動を見せており、第一次バルカン戦争の間に各都市がギリシャの州に統合されたが、彼らはそれに統合されることはなかった。
ギリシャ降伏後、テッサロニキはドイツの管理下となり、トラキアはブ
[[Image:Bundesarchiv Bild 101I-179-1575-08, Ioannina, Deportation von Juden.jpg|thumb|left|1944年3月25日、イオアニアより追放され、途方に暮れるユダヤ人女性。これらのユダヤ人は[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]へ1944年4月11日に到着、その直後に殺害された。<ref name
その後、告示されたユダヤ人追放の予告にも
1943年9月、イタリア降伏後、ナチス・ドイツはイタリア占領区域へ侵攻、その地域のユダヤ人も標的となることとなった。しかし、ロマニオットのユダヤ人はギリシャ社会によく溶け込んでおり、ドイツはキリスト教徒と区別することが容易でなく、また、キリスト教徒の間でもドイツへ反感が強かったため、反ユダヤの宣伝も効果が少なかった。ユダヤ共同体のリーダーたちがラリス首相に訴えたとき、ラリスはテッサロニキのユダヤ人が破壊活動を行ったために、追放されたと説明することにより、彼らの恐れていることを緩和しようとした。同時に、アテネの大ラビ、エリアス・バルジライ(Elias Barzilai)はユダヤ事務部に呼び出され、ユダヤ人コミュニティのメンバーの氏名、住所のリストを提出するよう命令された。しかし、バルジライ はリストを含む書類を破棄、このため、何千人ものアテネ在住のユダヤ人は命を救われることとなり、さらにバルジライはユダヤ人たちに逃亡するか、隠れるよう要請した。数日後、バルジライは民族解放戦線、民族人民解放軍らに救出され、ギリシャパルチザン活動に身を投じることとなる。このように民族解放戦線、民族人民解放軍らは何百人ものユダヤ人の逃亡を援助したが、その多くのユダヤ人たちはパルチザンに加わった。
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戦前のユダヤ人の内、犠牲となったのはテッサロニキでは91%、アテネでは丁度50%、ヴォロス(Volos)のような少ない地域でも36%に及び、全体では約81%(約60,000人)が犠牲となった。また、ブルガリア占領区域では90%を越えるユダヤ人が犠牲となった。<ref>[http://www.afjmg.org/resources/jewingreece.pdf ''History of the Jewish Communities of Greece'', American Friends of the Jewish Museum of Greece]</ref>一方で、イオニア諸島のザキントス島ではユダヤ人はかくまわれ、275人全員が生き残った。<ref>[http://www.ushmm.org/greece/eng/intro.htm ''The Holocaust in Greece'', United States Holocaust Memorial Museum]</ref>
ギリシャ、特に島々が枢軸国に占領されたことにより、多くの書籍や映画で題材として扱われた。
* 映画『[[将軍月光に消ゆ]]』(1957年) - 実話に基づくイギリス軍特殊部隊によるクレタ強襲が描かれる。
* 小説『[[ナヴァロンの要塞]]』およびその映画化『[[ナバロンの要塞 (映画)|ナバロンの要塞]]』(1961年)
* 映画『[[オフサイド7]]』(1979年)
* 映画『[[断固戦う人々]]』(1954年) - 虚構のイギリス軍特殊部隊の活躍など、イギリスの活躍が描かれている。
* 小説および映画『[[コレリ大尉のマンドリン]]』(2001年)
== 注釈 ==
{{
==脚注==
{{
==参考文献==
=== 英語資料 ===
* {{cite book | last=Fischer | first=Bernd Jürgen | title=Albania at War, 1939-1945 | publisher= C. Hurst & Co. Publishers | year=1999 | isbn=9781850655312 | url=
* {{cite book |last=Mazower |first=Mark | title=Inside Hitler's Greece: The Experience of Occupation, 1941-44 |year=1995 |publisher=Yale University Press |isbn=0300089236|ref=Mazower1995 }}
* {{cite book |last=Mazower |first=Mark |title=After the War was Over: Reconstructing the Family, Nation, and State in Greece, 1943-1960 | publisher=Princeton University Press |year=2000 |isbn=9780691058429 |url=
* {{cite book |last=Mazower |first=Mark |title=Salonica, City of Ghosts |year=2004 |publisher=Harper Collins |isbn=0-00-712022-2 |ref=Mazower2004}}
* Karras, Georgios (1985). ''The Revolution that Failed. The story of the Greek Communist Party in the period 1941-49'' M.A. Thesis, Dept. of Political Studies. University of Manitoba, Canada.
460 ⟶ 461行目:
* {{Cite book|和書|author=ニコス・スボロノス著、西村六郎訳|year=1988|title=近代ギリシア史|publisher=白水社|isbn=4-560-05691-9|ref=スボロノス}}
* {{Cite book|和書|author=C.M.ウッドハウス著、西村六郎訳|year=1997|title=近代ギリシァ史|publisher=みすず書房|isbn=4-622-03374-7|ref=ウッドハウス}}
* {{Cite
* {{Cite
* {{Cite
* {{Cite
==外部リンク==
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* [http://historicalresources.org/2008/10/02/note-of-the-reich-government-to-the-greek-government-april-6-1941/ Note of the Reich Government to the Greek Government, April 6, 1941]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいにしせかいたいせんちゆうのきりしや}}
[[Category:近代ギリシャ史]]
[[Category:アテネの歴史]]
[[Category:枢軸国]]
[[Category:かつてバルカンに存在した国家]]
[[Category:ナチス・ドイツの従属国]]
[[Category:ギリシャにおける反ユダヤ主義]]
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