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'''池禅尼'''(いけのぜんに、[[長治]]元年([[1104年]])? - [[長寛]]2年([[1164年]])?)は、[[平安時代]]末期の[[女性]]。[[平忠盛]]の[[正室]]。[[平清盛]]の[[義親|継母]]に当たる<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 88頁。</ref>。後に[[崇徳天皇]]の[[皇子]]・[[重仁親王]]の[[乳母]]となる。父は[[藤原宗兼]]、母は[[藤原有信]]の娘。[[中納言]]・[[藤原隆家]]の後裔。名は'''宗子'''
== 生涯 ==
[[保安 (元号)|保安]]元年([[1120年]])頃、[[平忠盛]]と[[結婚]]し、忠盛との間に[[平家盛|家盛]]、[[平頼盛|頼盛]]を産んでいる。[[藤原璋子|待賢門院]]近臣家の出身だったが、[[いとこ|従兄弟]]には[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]がいたことから[[藤原得子|美福門院]]ともつながりがあった。その幅広い人脈により「'''夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者'''(夫の忠盛をも支えるほどの者)」
[[仁平]]3年([[1153年]])、夫が死去すると[[出家]]し、[[六波羅]]の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。[[保元]]元年([[1156年]])、鳥羽法皇の[[崩御]]により[[保元の乱]]が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場にあったことから[[平氏]]一門は難しい立場に立たされた。池禅尼は「'''コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ'''」と上皇方の敗北を予測して、[[平頼盛|頼盛]]に「'''ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ'''」と協力することを命じた
[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、[[源義朝]]ら他の軍事貴族が駆逐された。翌[[永暦]]元年(1160年)2月、義朝の[[嫡男]]で13歳の[[源頼朝|頼朝]]が池禅尼ならびに頼盛の郎党である[[平宗清]]に捕えられた。この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。また頼朝の助命の為に池禅尼が[[断食]]をし始めたため、清盛も遂に折れて[[伊豆国]]への[[流刑|流罪]]へ減刑したとも言われている。
上記内容を記している『平治物語』では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだったことから「宗子」が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた[[統子内親王|上西門院]](待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の[[藤原季範
その後、池禅尼は[[長寛]]2年([[1164年]])頃に61歳で死去したと言われているが、正確な没年と享年は不明である。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、[[伊勢平氏|平家]]滅亡後も頼盛の一族([[池氏]])は朝廷堂上人および[[鎌倉幕府]][[御家人]]として存続した。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; テレビドラマ
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』([[1972年]]、NHK[[大河ドラマ]] 演:[[水谷八重子 (初代)]])
* 『[[平清盛 (1992年のテレビドラマ)|平清盛]]』([[1992年]]、[[TBS]]、演:[[草笛光子]])
* 『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』([[2005年]]、NHK大河ドラマ、演:[[南風洋子]])
* 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』([[2012年]]、NHK大河ドラマ、演:[[和久井映見]])
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:いけのせんに}}
[[Category:12世紀日本の尼僧]]
[[Category:中関白家]]
[[Category:平安時代の女官]]
[[Category:乳母]]
[[Category:平忠盛]]
[[Category:1104年生]]
[[Category:1164年没]]
▲[[Category:仏教と女性]]
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