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[[Image:Konndō Sadamochi.jpg|200px|thumb|近藤貞用]]
'''近藤 貞用'''(こんどう さだもち、[[慶長]]11年([[1606年]]) - [[元禄]]9年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]([[1696年]][[3月5日]]))は、[[江戸時代]]初期の[[武士]]。[[江戸幕府]][[旗本]]、鉄砲頭。[[近藤季用]]の子。通称は登助。号は語石。金指近藤家(宗家)22代目。子に[[近藤昌用]]。
 
== 経歴 ==
慶長11年(1606年)に近藤季用の長男として生まれる。
 
[[駿府城]]にあった[[徳川家康]]に御目見えし、席上で家康の11男[[徳川頼宣]]に仕えるようにいわれ、これに仕えた。また、その頃は江戸に在住していた。慶長17年([[1612年]])、父の季用が死去すると家督を継ぐ。頼宣隊に属し[[大坂の#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]に参加。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])8月、頼宣が[[紀州藩]]に移封となったので、[[紀伊国]]に赴き領地は代官に支配させた。
 
元和6年([[1620年]])、祖父の[[近藤秀用]]より呼び戻され3140石を分知され、[[寛永]]8年([[1631年]])に秀用が死去すると一族に分知され、貞用は5450石を分知される。[[延宝]]5年([[1675年]])井伊谷と花平の山境、また金指と井伊谷の境界争いがあり、自らその箇所に出かけて内偵をし、陣屋に関係者を呼んで裁定した。このように領民の意を自ら聞いたり、道路の整備、市場の開設など善政を施した。また、[[江戸]]においては、[[明暦]]3年([[1657年]])の[[明暦の大火]]では働きに秀でて[[江戸幕府]]より賞賛され、[[水野成之]]ら旗本奴と[[幡随院長兵衛]]ら町奴達の暴挙の際にはこれを征している。
 
貞用は[[禅宗]]の[[僧]]・[[隠元隆き|隠元隆琦]]に帰依し、[[寛文]]2年([[1662年]])に[[萬福寺]]に100両を投じ、竹林精舎を建立した。また、隠元より法名を賜り、法嗣の[[黄檗宗]]の渡来僧[[独湛性瑩]]を招き、[[寛文]]4年([[1664年]])、金指および気賀両近藤家の菩提寺となる初山宝林寺を建立した。また、[[新田]]開発にも力を入れ、貞享元年(1684年)貞用自ら新田開発をした新田が青砥村として立村したほか、寛文6年([[1666年]])5月から、昔用の世代まで[[武蔵国]]小川村(現・東京都小平市小川)に抱屋敷を持ち、武蔵野の新田の開発も行った。
 
長男(嫡男)の昌用は、寛文3年([[1663年]])23歳で早世し、孫の[[近藤徳用|徳用]](昌用の長男)に後を継がせた。延宝7年([[1679年]])8月、百間四方の陣屋が10年10ヶ月かけて完成し、同年9月2日に徳用とともに新しい陣屋に入った。
 
元禄9年(1696年)、金指陣屋で91歳で死去する。[[宝林寺 (浜松市)|宝林寺]](現・浜松市北区細江)に葬られた。法名は棲雲院語石性訥居士。宗家・金指近藤家は、徳用のあと、[[近藤昔用|昔用]]、[[近藤寧用|寧用]]、[[近藤英用|英用]]、[[近藤壽用|壽用]]、[[近藤有用|有用]]と続く。
 
== 外部リンク ==
[http://www.oubaku.org/shosan/kondou.html 貞用夫妻の肖像画]
 
{{DEFAULTSORT:こんとう  さたもち}}
[[Category:近藤氏|さたもち]]
[[Category:江戸幕府旗本]]