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'''北方領土問題'''(ほっぽうりょうどもんだい、{{lang-ru-short|Проблема принадлежности южных Курильских островов}} , {{lang-en-short|Kuril Islands dispute}})は、[[日本]]と[[ソビエト連邦]]及びその継承国となった[[ロシア|ロシア連邦]]との間の[[領土問題]]・[[国境紛争]]である。
[[北海道]]の[[根室半島]]と[[千島列島]]の[[得撫島]]との間にある'''[[択捉島]]'''、'''[[国後島]]'''、'''[[色丹島]]'''、そして'''[[歯舞群島]]'''をあわせた四島が、日本では'''[[北方地域|北方領土]]'''(または'''北方四島''')と呼ばれる。また、四島が千島列島(クリル諸島)に含まれると考える立場からは'''南千島'''または'''南クリル諸島'''とも呼ばれる。本記事では単に「四島」とも記す。
2025年時点、四島を[[ロシア連邦]]が[[実効支配]]しており<ref>{{Cite news|title=アングル:ロシアに翻弄される漁業の町、北海道根室に再び試練|newspaper=[[ロイター]]|date=2022-04-15|author=Daniel Leussink|agency=[[ロイター]]|url=https://jp.reuters.com/article/japan-russia-nemuro-idJPKCN2M70EY/|access-date=2022-05-12}}</ref>、[[ロシア連邦政府|ロシア政府]]は「四島はロシアの[[領土]]である」と主張している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ru.emb-japan.go.jp/japan/JRELATIONSHIP/1992.html |title=日露関係 |access-date=2022-05-12 |publisher=[[在ロシア日本国大使館]]}}</ref>。一方、[[日本国政府]]は「四島は日本の領土であり、日本に[[返還]]されるべき」と主張している<ref name=":18">{{Cite web|和書|title=北方領土問題とは?|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html|website=日本の領土を巡る情勢|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=外務省|date=2021-03-31}}</ref>。
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== 概要 ==
[[ファイル:Hokkaido-Southern-Kuril-Islands-Japan-Northern-Territories.png|thumb|北海道と南クリルの衛星写真([[北方地域]])]]
[[ファイル:Southern-Kuril-Islands-ISS-Space.png|thumb|国際宇宙ステーションから見た[[歯舞群島]]、[[色丹島]]、[[国後島]]、[[択捉島]]、[[得撫島]]]]
[[ファイル:Kunashir01.JPG|thumb|right|[[国後島]]。[[知床半島]]の中央部の[[知床峠]]から、約40キロメートル東に位置する国後島を望む。2009年10月撮影]]
=== 地理 ===
四島([[択捉島]]、[[国後島]]、[[色丹島]]、[[歯舞群島]])は、日本の[[北海道]]本島の[[根室半島]]や[[野付半島]]から東の沖合いへ位置する。
同時に、四島は[[ロシア]]の[[カムチャツカ半島]]の南西にある[[千島列島|千島列島(クリル列島)]]の[[得撫島|得撫(ウルップ)島]]から西の沖合いに位置する。
北海道本島から四島への距離は、最も近い島で約3.7 [[キロメートル|km]]、最も遠い島で144.4 kmである。また得撫島からは最短で約40 km、最長で約370 kmである。
面積は合計で約5,000 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、日本の[[愛知県]]や[[福岡県]]の面積とほぼ等しい<ref name=":1923">{{Cite web|和書|title=北方領土の位置・面積・人口|url=https://www.hoppou.go.jp/archives/basics/islands1.html|website=独立行政法人 北方領土問題対策協会|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=独立行政法人 北方領土問題対策協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20210401.pdf|title=令和3年 全国都道府県市区町村別面積調 (4月1日時点)|accessdate=2021-08-16|publisher=[[国土交通省]] [[国土地理院]]|format=PDF}}</ref>。
[[近代]]以前までは主に[[アイヌ]]などの[[先住民]]が居住していた。[[1855年]]([[安政]]2年)から[[1945年]]([[昭和]]20年)までは[[日本人|日本国民]]が住み、1945年には約1万7300人が居住していた。それ以降は主に[[スラヴ人|スラヴ系]]の[[ロシア人|ロシア国民]]が住み、現在は約1万8000人が居住している<ref name=":1923">{{Cite web|和書|title=北方領土の位置・面積・人口|url=https://www.hoppou.go.jp/archives/basics/islands1.html|website=独立行政法人 北方領土問題対策協会|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=独立行政法人 北方領土問題対策協会}}</ref>。
詳細は下記記事を参照のこと。
{{Main|北方地域#地理|千島列島#地理|千島列島#生態系}}
=== 両国の主張 ===
四島は現在[[ロシア連邦政府]]が[[実効支配]]しており、[[日本国政府]]がその返還を求めているが、両国は異なる見解を示している。
[[日本]]政府は'''「四島(北方四島)は国際法上日本固有の領土であり、ロシアが不法占拠している」'''と主張している<ref name=":18" />が、[[ロシア]]政府は'''「四島(南クリル諸島)はロシアの領土であり、日本が不当な領有権の主張を行っている」'''と主張している<ref name=":26" />。詳細は後述する。
== 関係史(概略) ==
[[ファイル:Kurilen und Sachalin 1875-1945.svg|thumb|upright=1.4|両国の[[実効支配]]領域の変遷<br />1875年:[[樺太・千島交換条約]]<br />1905年:[[ポーツマス条約]]<br />1945年:第二次世界大戦の終結]]
[[ファイル:Kuril-Islands-Japanese-Map-千島列島の地図.png|right|thumb|300px|千島列島における実効支配領域の変遷]]
=== 日本の領有以前 ===
[[13世紀|中世]]以前、[[北海道]]の北に伸びる[[樺太]](サハリン)、東に連なる[[千島列島]](クリル列島)には、[[日本人]]([[和人]])や[[ロシア人]]よりも古くから[[アイヌ]]などの[[先住民]]が居住していた<ref name=":13">{{Cite web|和書|title=アイヌ民族とは - 主な沿革|url=https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/past.html|website=公益社団法人北海道アイヌ協会|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=公益社団法人北海道アイヌ協会}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|title=先住民族の近現代史 ~日露の狭間で翻弄された人々~|url=https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p05.html|website=知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化|accessdate=2021-08-14|publisher=国立公文書館 アジア歴史資料センター}}</ref>。
[[近世]]以降、それらの地域と近接する[[日本]]と[[ロシア]]は競って進出を行い、領土を拡張してきた<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=北方領土問題の歴史|url=https://www.hoppou.go.jp/problem-info/know/islands-history.html|website=北方領土問題対策協会|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=独立行政法人 北方領土問題対策協会}}</ref>(詳細は[[北方領土問題#関係史(日本の領有時代まで)|関係史]]節を参照)<ref group="補足情報">なお、両国の政体は北方四島との接触以降にそれぞれ二度変遷している。
日本は[[江戸幕府]] → [[大日本帝国]] → [[日本|日本国]](現行)となった。
ロシアは[[ロシア帝国]] → [[ソビエト連邦]] → [[ロシア|ロシア連邦]](現行)となった。</ref>。
[[1855年]]([[安政]]2年)、日本([[江戸幕府]])とロシア([[ロシア帝国]])は'''[[日露和親条約]]'''を結び、択捉島と[[得撫島]]の間を国境線とした。この条約により、'''択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本領'''と規定された<ref name=":4" />。また、[[1875年]]([[明治]]8年)には日本([[大日本帝国]])とロシア帝国とが'''[[樺太千島交換条約]]'''を結び、'''日本は「千島列島」の全域を領有'''した<ref name=":4" />。
=== 日本の敗戦 ===
[[1941年]]([[昭和]]16年)12月以降、[[大日本帝国]]は[[第二次世界大戦]]において[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]諸国と[[戦争]]を行っていた。
==== 日ソ中立条約 ====
連合国にはロシア帝国の領土を継承した[[ソビエト連邦]](ソ連)も含まれていたが、日本とソ連とはすでに[[1941年]]4月に[[日ソ中立条約]]を結んでいた<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|和書|title=大日本帝国及「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦間中立条約・御署名原本・昭和十六年・条約第六号|url=https://www.digital.archives.go.jp/file/150948.html|website=国立公文書館 デジタルアーカイブ|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=国立公文書館}}</ref>ため、交戦状態にはなかった。
==== ヤルタ会談 ====
しかし、[[1945年]]2月、連合国のうちソ連と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]の三国は[[首脳会談]]を行い、ソ連が[[ソ連対日参戦|日本へ参戦]]する計画と、連合国がこの戦争で勝利したあとの世界の枠組みについて議論した([[ヤルタ会談]])。この会談の中で、ソ連が参戦するための条件として、'''ソ連が「クリル諸島(千島列島)」を領有することを首脳らが合意した([[ヤルタ協定#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ協定]])'''<ref name=":28" />。
==== ソ連の参戦 ====
同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を廃棄することを通告した。同条約の規定では「翌1946年4月25日まで有効であり、その1年前に廃棄を通告しなかった場合は自動的に5年間延長される」とされたことから、同条約は[[1946年]]4月25日をもって失効する予定となった<ref>{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集]}}(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
* 28ページ目「(9)日ソ中立条約(1941年)」
* 29ページ目「(10)日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書(1945年)」</ref>。
同年8月8日、'''ソ連は当時まだ有効であったはずの[[日ソ中立条約]]に違反'''して日本に宣戦布告し<ref group="補足情報">なお、日本は1931年以降、当時有効であった[[九カ国条約]]に違反して[[中華民国]]への[[侵略]]を継続しており([[満洲事変|満州事変]]、[[日中戦争]])、[[国際連盟]]総会で非難決議を受けている。</ref><ref name=":50">{{Cite web|date=2011-07-04|title=III トラウトマン工作と「対手トセズ」声明|language=ja|website=外務省外交史料館 特別展示 日中戦争と日本外交|publisher=[[外務省]]|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/03.html|access-date=2025-08-21|quote=昭和 12 年 10 月 6 日、国際連盟総会は、日本の軍事行動が「中国に関する九国条約」(中国の領土保全や門戸開放などを確認した条約、1922 年 2 月 6 日調印)に違反すると断定し、同条約の関係国が紛争の平和的解決をめざして国際会議を開催すべきとの決議を採択しました。これによりベルギーのブリュッセルで九国条約関係国会議が開催されることになり、日本にも招請状が届きました。これに対し日本政府は、連盟決議に拘束される諸国と協議しても公正な結果は期待できないとして、10月27 日、参加招請を拒絶しました。|url-status=live|url-status-date=2025-08-21}}</ref>、翌9日から[[ソビエト連邦軍]]([[赤軍]])が日本の勢力圏および領土へ侵攻を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf|title=日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集|accessdate=2021-08-15|publisher=外務省|format=PDF|date=1992-09-29}}</ref><ref name=":29">{{Cite web|和書|url=https://www.hoppou.go.jp/archives/history3.html|title=北方領土問題の歴史|ソ連の占拠|accessdate=2021-08-17|publisher=独立行政法人 北方領土問題対策協会}}</ref><ref>{{Cite news|title=ロシアへの「兵糧攻め」の行く末は 経済制裁の予測不能な返り血|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2022-4-12|author=富田洸平, 岸善樹|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ4C34LZQ42UPQJ007.html|access-date=2022-06-10}}</ref>。
日本はこの[[ソ連対日参戦]]を受けて、5日後の同年8月14日、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対して降伏した([[ポツダム宣言]]の受諾)<ref>{{Cite news|title=「原爆投下によって日本は降伏した」説は本当か?|古谷経衡|newspaper=Yahoo! ニュース|date=2020-08-07|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4294970cfb5e3db079cf6042271800377734ed9d|accessdate=2021-08-15}}</ref>。
=== ソ連とロシアの実効支配 ===
しかし、ソ連軍は日本が降伏したあとも侵攻を続け、同年8月18日には千島列島の北端にある[[占守島]]を占領した<ref name=":17">{{Cite news|title=「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男|newspaper=読売新聞|date=2019-01-27|url=https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20190125-OYT8T50003/|accessdate=2021-08-15}}</ref>。さらにソ連軍は8月28日から9月5日にかけて'''北方四島に上陸し、占領'''した<ref group="補足情報">赤軍は同じく連合国であった[[アメリカ合衆国]](米国)の協力により艦船・武器の提供や上陸訓練などの指導を受けていた([[プロジェクト・フラ]])。</ref><ref name=":4" />。翌1946年1月29日、日本を占領していた'''[[SCAPIN|連合国最高司令官の司令]]により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が停止された'''<ref name=":1" group="補足情報" /><ref name=":30" />。その後、北方領土は現在に至るまで[[ソビエト連邦]]およびそれを[[継承国|継承]]した'''[[ロシア連邦]]が実効支配を継続'''している。
[[日本|日本国]]政府は「北方領土は日本固有の領土である」として領有権を主張しているものの、日本による施政権は一切及んでおらず、日本はその返還を求めている。
=== サンフランシスコ平和条約 ===
日本は[[1951年]](昭和26年)9月8日に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]諸国との講和条約である[[日本国との平和条約|'''サンフランシスコ平和条約''']]を締結した。同条約によって'''日本は「[[千島列島]]」を放棄した'''<ref name=":4" />。
==== 「千島列島」の範囲に関する解釈 ====
もし「千島列島」に四島が含まれる場合、日本はこれらの領有権を正式に放棄したことになる。もし含まれない場合、放棄していないことになる。
1875年の[[樺太・千島交換条約|樺太千島交換条約]]では、四島(または少なくとも択捉島)は千島列島に含まれると解釈される条文となっていた(詳細は当該記事を参照)。
'''日本政府は1951年、「千島列島」には[[国後島]]・[[択捉島]]が含まれると説明した''' <ref name="kokkai19500308" /><ref name="kokkai19511106" /><ref name="kokkai19511019" />。一方で「[[色丹島]]および[[歯舞群島|歯舞諸島]]は[[北海道]]の一部を構成する([[属島]]である)」とも説明した<ref name=":47">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000035454.pdf|title=2020年度版 われらの北方領土 資料編|access-date=2022-06-10|publisher=[[外務省]]|page=22|quote=日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんら異論を挟まなかったのであります。
(中略)
また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島および歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。|date=2021年|format=PDF}}</ref>。
しかし、この解釈は'''[[1956年]]2月に撤回され'''<ref name="kokkai19560211" />'''、'''日本国政府は「[[サンフランシスコ平和条約]]にいう千島列島のなかにも([[国後島]]と[[択捉島]]の)両島は含まれない」と述べた<ref name="www8.cao.go.jp">[https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou12.pdf 「北方領土返還要求に関する政府の公式見解」昭和31年2月11日第24回国会衆議院外務委員会]</ref>。以降、現在まで'''日本政府は「北方四島は千島列島には含まれず、日本は放棄していない」と主張している<ref name=":4" />'''<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=北方領土問題に関するQ&A|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/mondai_qa.html|website=日本の領土をめぐる情勢|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=外務省|date=2021-03-31}}</ref>。
一方、ロシアおよび英語圏では、千島列島を意味する「クリル列島({{Lang-ru-short|Кури́льские острова́}}、{{Lang-en-short|Kuril Islands}})」に択捉島や国後島までが含まれるとみなすことが一般にみられる<ref name=":3">{{Cite web|title=Kuril Islands {{!}} islands, Russia|url=https://www.britannica.com/place/Kuril-Islands|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2021-08-14|language=en}}</ref><ref name=":7">{{Cite news|title=Russia expands military construction plans on Kuril islands|newspaper=REUTERS|date=2021-08-09|url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/russia-expands-military-construction-plans-kuril-islands-report-2021-08-09|accessdate=2021-08-14}}</ref>。ただし、ソビエト連邦および現'''ロシア連邦は'''その'''[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]への署名を拒否し、調印していない'''<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=サンフランシスコ平和条約|url=https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403096_00000|website=NHK for School|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=NHK}}</ref><ref name=":10">{{Cite web|和書|title=ソ連は調印を拒否 日本が主権回復した「サンフランシスコ平和条約」の裏側|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/57d69ac6c9f46f4cf931876118e93b759338c51d|website=THE PAGE|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=Yahoo! JAPAN|date=2016-12-08}}</ref>。
== 日本政府の主張 ==
=== 「不法占拠された日本固有の領土」===
[[日本国政府]]は、北方四島(南クリル諸島)について'''「日本固有の領土であり、現在はロシアに不法占拠されている。日本に返還されるべきである」'''と認識している<ref name=":18" />。同国政府によれば、その根拠は主に次のようになる<ref name=":18" /><ref name=":4">{{Cite web|和書|title=北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html|website=日本の領土を巡る情勢|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=外務省|date=2010-12-01}}</ref>。
* 日本はロシアよりも先に北方四島を発見しており、遅くとも[[19世紀]]初めには四島の実効的支配を確立していた<ref name=":18" /><ref name=":4" />。
**ロシアも自国領土の南端が得撫島(北方四島よりも北の島)であると認識しており、ロシアの勢力が四島まで及んだことは一度もなかった<ref name=":18" /><ref name=":4" />。
* [[1855年]]([[安政]]2年)に日本とロシアとの間で平和的・友好的に結ばれた'''[[日露和親条約|日魯通好条約(日露和親条約)]]によって四島は日本の領土と確定した'''。これは当時自然に成立していた国境を追認するものだった<ref name=":18" />。
* それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはなかった<ref name=":18" />。
* しかし、[[第二次世界大戦]]の終戦後に、[[ソビエト連邦]](ソ連)は日本との'''[[日ソ中立条約]]に違反して[[ソ連対日参戦|日本]]の北方領土(四島)に[[ソ連対日参戦|侵入]]'''し、日本が降伏した後にソ連は北方四島のすべてを占領した<ref name=":18" />。
* 当時四島にはソ連国民は1人もおらず、日本国民は約1万7000人が住んでいたが、ソ連は四島を一方的に自国領に「編入」し、全ての日本人を強制退去させた<ref name=":18" />。
=== 外交方針 ===
日本政府の主張によれば、同国の基本方針は主に次の通りである<ref name=":18" />。
* 日本の基本的方針は北方四島の[[帰属]]の問題を解決してロシアとの[[平和条約]]を締結することであり、ロシア政府との交渉を続けている。しかし、北方領土問題が存在するため、いまだに実現していない<ref name=":18" />。
* 北方領土の日本への[[帰属]]が確認されるのであれば、実際の返還の時期および態様については、柔軟に対応する<ref name=":18" />。
* 北方領土に現在居住している[[ロシア人]]住民の[[人権]]、利益および希望は、北方領土返還後も十分尊重していく<ref name=":18" />。
* 諸外国および民間人が、北方領土に対するロシアの「管轄権」を前提としたかのごとき行為を行うことなどは容認できない<ref name=":18" />。
* 日本[[国民]]に対しても、ロシアの不法占拠の下で北方領土に入域することを行わないよう要請する<ref name=":18" />。
=== 教育方針 ===
==== 教科書検定による義務付け ====
日本国の[[文部科学省]]が[[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]への指導内容を規定する[[学習指導要領]]([[教科書検定]])において、日本の[[社会 (教科)|社会科]]の[[教科書]]には「北方領土は日本固有の領土である」と必ず記載することが義務付けられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/torikumi/mext.html|title=発達段階に応じた領土に関する教育|accessdate=2021-08-19|publisher=文部科学省}}</ref><ref name=":19">{{Cite news|title=「固有の領土」記述求める 北方四島「ロシア支配」は不可―教科書検定|newspaper=時事通信|date=2021-03-30|url=https://web.archive.org/web/20210818160658/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021033000815|accessdate=2021-08-18}}</ref>。また、同検定において「地理総合」や「公共」の教科書では「ロシアが北方領土を[[実効支配]]している」という表現は許可されず、「ロシアが[[占領|不法占拠]]している」と記載するように求められた<ref name=":19" />。
高等学校の「歴史総合」の教科書では、「1855年の日露和親条約で四島は日本領と定められた」とも必ず記載する必要がある<ref name=":19" />。さらに歴史総合では「[[千島列島]]」のなかに択捉島などの四島を含む記述が許可されず、四島よりも北東側にある島々のみを指して「千島列島」と記載するように修正された<ref>{{Cite news|title=教科書検定意見9549件 前回比1・5倍に 「北方領土」未記載も|newspaper=産経新聞|date=2021-03-30|url=https://www.sankei.com/article/20210330-PB6K4UILCJKEHL4B3FOKBGD2KM/|accessdate=2021-08-19}}</ref>。千島列島に四島を含むことの意義については、「[[千島列島#北方四島を含むか否かの意義]]」記事を参照。
また、1956年([[昭和]]31年)の[[日ソ共同宣言]]で日本と[[ソビエト連邦]](現在のロシア)が「[[平和条約]]を締結した後に、ソビエト連邦は歯舞群島と色丹島の2島を日本へ引き渡す」と合意したことについて、教科書が「いまだ実現していない」とした記述も同検定で削除された。その理由について文部科学省は「現在もわが国が2島返還交渉を行っていると誤解する」ためとした<ref name=":19" />。
==== 時代による地図帳の変化 ====
なお、中学校や高等学校の社会科で用いられる[[地図帳]]における四島の帰属は、時代とともに認識の変遷がみられた。以下で挙げる例はすべて[[文部省]]の教科書検定に合格した地図帳である<ref name=":21">{{Cite web|和書|url=https://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/MAP_Kyoukasho/Kyoukasho.htm|title=日本の学校地図教科書にみる北方領土|accessdate=2021-08-19|publisher=cccpcamera|website=北方領土問題}}{{出典無効|date=2021年8月19日}}</ref>。
[[第二次世界大戦]]以前の1934年([[昭和]]9年)や1938年(昭和13年)に発行された地図帳([[帝国書院]])では、四島は日本の領土であったので当然そう記載されていた。ここでは択捉島・国後島・色丹島は「[[千島列島]]」に属し、歯舞群島は「[[根室市|根室]]」に属していた<ref name=":21" />。大戦後の1946年や1950年、1952年、また1955年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、四島は「[[ソビエト連邦]]の領土」として記載され、択捉島は「クーリル列島(千島列島)」に属していた<ref name=":21" />。続いて1963年や1964年、1966年、1967年、また1969年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、四島は日本とソビエト連邦のどちらの領土であるか明記されていなかった。択捉島は千島列島に属し、択捉島や国後島は「南千島」と表現されることもあった<ref name=":21" />。
そして、1973年(昭和48年)に発行された地図帳(帝国書院)では、四島は「日本の領土」として記載された。以後、現在に至るまでこの表記が義務付けられており、これ以外の記述は学校教科書として認定されない<ref name=":21" />。また、この1973年の地図では択捉島は千島列島に属するか否か曖昧であった<ref name=":21" />。
なお、現在の日本の教科書検定では北方領土がロシアの領土であると記載することは認められていないが、外国の地図を紹介し引用する形でそのような記載がみられることもある。2005年(平成17年)の中学地理の教科書(日本書籍新社)では、日本以外の国の地図が紹介され、そのうち[[イラン]]の[[ペルシア語|ペルシャ語]]で書かれた[[世界地図]]では四島が「ロシアの領土」として描かれている<ref name=":21" />。
=== 行政機能 ===
日本は四島において[[施政権]]を有さないが、四島を「[[北海道]]の[[根室振興局]]が管轄する地域」として区分しており、法律上は[[市町村]]([[郡]])を設定している<ref>北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成20年北海道条例第78号)2条、別表第1。</ref>。
同国は四島に[[色丹郡]]、[[国後郡]]、[[択捉郡]]、[[紗那郡|紗那(シャナ)郡]]、[[蘂取郡|蘂取(シベトロ)郡]]を法的には設置しており、[[本籍]]を置くこともできる。四島へ近い[[根室市]]がそれらの事務を代行している<ref>{{Cite news|title=北方4島に本籍地移せる?/根室市に問い合わせ相次ぐ|newspaper=四国新聞|date=2004-02-13|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20040213000337|accessdate=2021-08-18}}</ref>。
詳細は「[[北方領土問題#日本の行政区分下の北方領土|日本の行政区分下の北方領土]]」節および下記記事を参照。{{See|北方地域#日本での行政}}
== 日本国政府主張の矛盾 ==
=== 千島国 ===
[[千島国]](千島國)は、[[大宝律令]]の[[令制国]]を踏襲した地方区分で、北海道11ヶ国を構成した1ヶ国である。[[1875年]](明治8年)[[樺太・千島交換条約]]締結から10年後の[[1885年]](明治18年)に色丹島が根室国から移管された事で、千島国の最終的な国境が画定している。千島国の領域は、ロシアが主張するクリル列島の内、歯舞群島([[根室国]])を除く全域。国境画定以降から1951年迄(上記参照)の日本政府は、千島国と千島列島は同一という認識であったことは明らかである。
千島国とサンフランシスコ平和条約で領有権を放棄した千島列島を同一とした場合、北方領土問題は、根室国の歯舞群島のみとなる。
=== 南千島 ===
戦前の日本で広く用いられていた千島列島(千島国)の分類であり、北東から順に、[[占守島]]から[[志林規島]]までを「北千島」、[[磨勘留島]]から[[得撫島]]までを「中部千島」、[[択捉島]]以南を「南千島」と呼ぶ。<ref>「中部千島」の分類を使わず得撫島以北を「北千島」とする場合もある。</ref><ref>南千島に[[色丹島]]と[[歯舞群島]]を含まないこともある。</ref>
戦前までの多くの国民は、北方領土を南千島、即ちサンフランシスコ平和条約で領有権を放棄した筈の千島列島(千島国)の南部と認識していた。戦後の日本政府は、南千島を[[北方地域]](北方領土、北方四島)と言い換えるようになり、戦前までの国民の認識と矛盾する。
=== 関東軍特種演習 ===
[[1941年]](昭和16年)4月13日に締結した日ソ中立条約から3ヶ月も経たない7月7日に行なわれた「[[関東軍特種演習]]」は、単なる[[軍事演習]]ではなく、6月22日から始まった[[独ソ戦]]が[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の圧倒的優位で推移していることを受け、7月2日に行われた[[昭和天皇]]臨席の[[御前会議]]で開戦決定し、そのままソ連侵攻による開戦、日独両軍によるソ連挟撃を意図した[[関東軍]]による戦争準備策であった<ref name="hata">{{Cite book|和書 |title=昭和史の謎を追う |date=1999-12-10 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=4-16-745304-5 |pages=314-315,306-307 |volume=上 |author=秦郁彦 |authorlink=秦郁彦}}</ref>。74万人以上の大兵力と膨大な陸軍の資材がソ連と国境を接する[[満洲]]に集積された。
当然、日ソ中立条約が事実上消滅する程の重大な違反行為であるが、前述の通り、日本政府はソ連政府による違反行為のみを主張している。
== ロシア政府の主張 ==
=== 「第二次世界大戦で獲得したロシアの領土」 ===
[[ロシア連邦政府]]は、南[[千島列島|クリル諸島]](北方四島)について「同国が'''[[第二次世界大戦]]の結果として獲得したロシアの領土であり、日本が根拠のない領有権の主張を行っている'''」と認識している<ref name=":26" /><ref name=":22">{{Cite news|title=ロシア外務省、日本の高校教科書検定を批判|newspaper=日テレNEWS|date=2021-04-10|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/853864|accessdate=2021-08-18}}</ref>。
同国の著述家 [[B. I. Tkachenko]] によれば、その根拠は主に次のようになる<ref name=":25">{{Cite journal|author=B. I. Tkachenko (バールィシェフ、エドワルド 訳)|year=2012|date=2012-03-31|title=南クリル諸島に対する日本の領土的要求について : ロシアからの視点|url=https://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu23.data/Tkachenko_B_I.pdf|journal=北東アジア研究|volume=23|pages=3-16|format=PDF|ISSN=1346-3810|id={{NCID|AA11551293}} }}</ref>。
* 日本は1855年の[[日露和親条約|下田条約(日露和親条約)]]に基づいた[[国境]]線(南クリル諸島を日本領とした)を要求しているが、ロシアと日本との国境線はのちに[[1875年]]の平和的な[[樺太・千島交換条約|サンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)]]および[[1905年]]の[[ポーツマス条約|ポーツマス講和条約]]で2度も変更されている<ref name=":25" />。
*そして、最も決定的かつ本質的な国境線は1945年以降の第二次世界大戦の終結によって画定されたのである<ref name=":25" />。
**よって、日本が1855年の国境線のみに基づいて領有権を主張することは正当性を欠く<ref name=":25" />。
**また、1855年の国境線では南クリル諸島のほかにも、ロシアが現在領有している[[樺太|サハリン(樺太)]]を「ロシアと日本のどちらの領土でもなく、両国民が混住する地」と規定していたため、その国境線へ逆行することで日本がサハリンについてもロシアの主権を脅かそうとする危険がある<ref name=":25" />。
* [[ソビエト連邦]](ソ連)が第二次世界大戦において[[ソ連対日参戦|対日参戦]]するための条件として、ソ連が'''南クリル諸島をふくむクリル列島を獲得することを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]および[[イギリス]]から約束されていた([[ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ協定]]'''、[[ポツダム会談]]において)<ref name=":28">{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集]}}(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
* 23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
* 24ページ目「ヤルタ協定」</ref><ref name=":25" />。
* そして'''日本はその条件([[ポツダム宣言]])を受諾し'''、[[ソビエト連邦|ソ連]]をふくむ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に降伏した。その後、日本を占領した[[SCAPIN#日本の領土問題に影響を及ぼしているSCAPIN|連合国最高司令官の命令]]により、日本は南クリル諸島を含む多くの島々への[[施政権]]を失った<ref name=":25" />。
* さらに日本は[[日本国との平和条約|連合国との平和条約]]を批准する際、'''[[国会 (日本)|国会]]において南クリル諸島の主権を放棄すると宣言した <ref name="kokkai19500308" /><ref name="kokkai19511106" /><ref name="kokkai19511019" />'''。これにより、日本は同諸島を失い、ソ連が同諸島を獲得した<ref name=":25" /><ref name=":0" group="補足情報">なお、[[ソビエト連邦]]は1991年に[[ソビエト連邦の崩壊|解体]]し、ロシア連邦が[[継承国|継承]]した。</ref>。
* ソ連およびロシア連邦が南クリル諸島を所有している法的根拠は、[[カリーニングラード州]]([[東プロイセン]])を所有している根拠と等しい<ref name=":25" />(同州は[[中世]]以降に[[ドイツ]]の領土となっていたが、第二次世界大戦の結果として現在ではロシアの領土となっている)。
=== 外交方針 ===
ロシア政府の主張によれば、同国の基本方針は主に次の通りである<ref name=":26" /><ref name=":20">{{Cite news|title=南クリルの主権にロシアが固執する理由とは|newspaper=Sputnik|date=2019-01-17|url=https://sputniknews.jp/20190117/5815267.html|accessdate=2021-08-15}}</ref>。
* ロシアは日本との[[平和条約]]を締結することを目指して日本政府との交渉を続けている。しかし、南クリル諸島についての日本側の不当な領有権主張があるため、いまだに実現していない<ref name=":26">{{Cite web|和書|url=https://tokyo.mid.ru/web/tokyo-ja/-7|title=露日関係の発展|accessdate=2021-08-16|publisher=在日ロシア連邦大使館}}</ref>。
* 日本が南クリル諸島におけるロシアの主権を否認することは、『[[1956年]]の[[日ソ共同宣言|ソ日共同宣言]](日ソ共同宣言)に基づいて、ロシアが[[歯舞群島|歯舞諸島]]と[[色丹島]]を日本へ引渡す』ことを日本が否定しているのに等しい<ref group="補足情報">ロシア連邦はソ連を[[継承国|継承した国家]]であり、[[1956年]]([[昭和]]31年)にソ連と日本の両国が結んだ[[日ソ共同宣言|ソ日共同宣言]]についても、ロシア連邦が引き継いでいる。</ref><ref name=":20" />。
** その根拠として、同条文にはロシア語でも日本語でも「両島を日本へ引き渡す」という言葉が使われている。もし「返還する」という表現ならば他人のものを本来の所有者へ返すことを意味するが、「引き渡す」という表現ならば自らの所有物を他人へ渡すことを意味するからである<ref name=":20" />。
* もしロシアが現在の日本の主張を認めれば、日本以外との諸外国との交渉でもロシアの立場が弱体化して、国境に関する協定が不利になることを懸念している<ref name=":20" />。
=== 教育方針 ===
ロシアの外務省は、日本政府が[[教科用図書検定|教科書検定]]によって同国内の[[教科書]]に四島を「日本固有の領土」と記載するように強要していることに対して、2021年4月に報道官[[マリア・ザハロワ]]を通じて批判した<ref name=":22" /><ref name=":37">{{Cite news|title=北方領土で日本は「うそ」 ロシア、教科書記述|newspaper=共同通信|date=2021-04-09|url=https://web.archive.org/web/20210818160659/https://nordot.app/753255147998658560?c=39546741839462401|accessdate=2021-08-19}}</ref>。同報道官は「日本政府が歴史的な真実と[[第二次世界大戦]]の結果に反する偽りの[[固定観念]]を若い世代に押し付けている」と延べた上で「日本が根拠のない領有権の主張を行っていることは遺憾である」とした<ref name=":22" /><ref name=":37" />。さらに四島について「ロシア連邦の主権は議論の余地がない」「(日本の行為は)両国の関係へ悪影響を与える憤りをロシア社会へもたらしている」と断じた<ref name=":22" /><ref name=":37" />。
=== 行政機能 ===
ロシアは四島において施政権を有しており、四島を[[極東連邦管区]]の[[サハリン州]]が管轄する地域と区分している。同国は択捉島に「[[クリル管区|クリル市]]({{Lang-ru-short|Курильский городской округ}})」、国後島・色丹島・歯舞群島に「[[南クリル管区|南クリル市]]({{Lang-ru-short|Южно-Курильский городской округ}})」を設置して四島での行政機能を行っている<ref>{{Cite web|url=https://sakhalin.gov.ru/index.php?id=678|title=МУНИЦИПАЛЬНОЕ ОБРАЗОВАНИЕ "КУРИЛЬСКИЙ ГОРОДСКОЙ ОКРУГ"(自治体"クリル市")|accessdate=2021-08-17|publisher=Правительство Сахалинской области(サハリン州政府)|language=ru}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://sakhalin.gov.ru/index.php?id=693|title=МУНИЦИПАЛЬНОЕ ОБРАЗОВАНИЕ "ЮЖНО-КУРИЛЬСКИЙ ГОРОДСКОЙ ОКРУГ"(自治体 "南クリル市")|accessdate=2021-08-17|publisher=Правительство Сахалинской области(サハリン州政府)|language=ru}}</ref>。
詳細は「[[北方領土問題#ロシアの行政区分下の北方領土|ロシアの行政区分下の北方領土]]」節および下記記事を参照。
{{See|北方地域#ロシアでの行政}}
== 関係史(日本の領有時代まで) ==
[[ファイル:Kuril-Chishima Ainu House 1899 (No.1057).jpg|thumb|right|[[千島アイヌ]]の[[竪穴建物]]]]
[[ファイル:Japanese-Buddhist-Temple-Iturup-Etorofu.png|thumb|right|択捉島の日本時代の[[仏教]]寺院(1939年以前)]]
[[ファイル:Shana Village in Etorofu Island.JPG|thumb|right|[[択捉島]]の[[紗那村]]。昭和初期の紗那(手前は村立病院、左奥が択捉水産の工場、中央は郵便局の無線塔)、1945年以前]]
<!--[[日本国政府]]は「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが[[得撫島]]より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張している。{{要出典|date=2013年12月}}-->
=== 古代 ===
*[[13世紀|5世紀]]ごろ
**[[北海道]]の大部分では、日本の[[本州]]と異なり、[[稲作]]が発達せずに[[狩猟採集社会|狩猟・採集]]が中心の[[続縄文時代]]が続いていた<ref name=":14">{{Cite news|title=謎の北方海洋民族の生活いきいき アイヌ文化に大きな影響|newspaper=NIKKEI STYLE|date=2015-09-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO91841700X10C15A9000000/|accessdate=2021-08-15}}</ref>。
**一方、[[樺太]]および北海道の北東部沿岸、そして北方四島にあたる[[南千島]]地域には、従来と異質な[[オホーツク文化]]が渡来した<ref name=":14" />。
*[[9世紀]]ごろ
**北海道周辺のオホーツク文化は、北海道本島内の大部分を占めていた[[擦文文化]]と融合し、中間的な[[トビニタイ文化]]となった<ref name=":14" />。
*[[12世紀]] - [[13世紀]]ごろ
**この時点までにトビニタイ文化も擦文文化に吸収された。
**擦文文化を受け継いだ[[アイヌ文化]]をもつ人々が、以後[[アイヌ]]となって北海道や樺太および北方四島、[[千島列島]]に[[先住民]]として居住した<ref name=":13" /><ref name=":14" />。
=== 中世 ===
*13世紀前半
**[[日本]]は有史以来、領土を北方へ拡張し続けており、その勢力圏は同時点までに[[本州]]島の北端(現在の[[青森県]]にあたる)へ達した。
**日本は同国の勢力圏よりも北方を漠然と「[[蝦夷地]](えぞち)」と呼称しており、同時代ごろから「蝦夷地」は北海道および千島列島、樺太へと限定されるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=百科事典マイペディア「蝦夷地」の解説|url=https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%9C%B0-36628|website=コトバンク - 蝦夷地|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=コトバンク}}</ref>。
**日本の[[鎌倉幕府]]の[[執権]]である[[北条義時]]が、本州北部を治めていた[[豪族]]の[[安藤広郎|安藤五郎]]を「[[蝦夷管領]]」に任命した<ref name=":16">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/tohoku-pdf/tohoku_2019-03.pdf|title=第5回 第1部 十三湊から解き明かす 北の中世史|accessdate=2021-08-15|publisher=JR東日本|website=東北歴史文化講座|format=PDF|date=2019-07-06}}</ref>。
**このころから本州から北海道南部([[渡島半島]]、[[道南]])へ[[日本人]]([[和人]])が進出し始めた。和人とアイヌとの[[交易]]が盛んになり、アイヌの生活に変化をもたらした<ref name=":15">{{Cite web|和書|title=第1章 北海道民のなりたち|url=https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/digest/1_syou.html|website=北の生活文化(中世から近世のアイヌの人々 )|accessdate=2021-08-15|publisher=北海道庁}}</ref>。
*[[1454年]](享徳3年)
**日本の[[武将]]である[[安東愛季|安東師季]](安藤五郎の一族)と[[武田信広]]らが、「蝦夷ヶ島(北海道本島)」に渡ったと記録された<ref name=":16" />。
*[[15世紀]]後半
**北海道南部で和人の活動領域が広まり、和人とアイヌとの対立が激化した<ref name=":15" />。
*[[16世紀]]
** ロシア([[ロシア・ツァーリ国]])は国力増大のために領土の獲得を試み、[[ウラル山脈]]を西から東へ越えて[[シベリア]]に進出した。当初はさらに南方を目指したが、[[清|清国]]に妨げられたため目標を東方に転じた。当時シベリアは[[毛皮]]の産地であったため、毛皮を求めて積極的に東へ進出するようになった<ref name=":12">{{Cite web|和書|title=ロシアの南進|url=https://www.hoppou.go.jp/archives/history1.html|website=北方領土問題対策協会|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=独立行政法人 北方領土問題対策協会}}</ref>。
=== 近世 ===
==== [[江戸時代]] ====
* [[17世紀]]前半
**日本の大名である[[松前藩]]が、[[安藤氏]](安藤五郎の一族)から独立して成立した<ref>{{Cite web|和書|title=松前藩の成立|url=http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000355.html|website=松前町|accessdate=2021-08-15|language=ja|publisher=北海道松前町}}</ref>。
**松前藩は[[北海道]]南端の[[渡島半島]]を拠点にし、アイヌとの交易圏を独占した。同藩はアイヌと和人の居住地を分割(蝦夷地と[[和人地]])して両者間の往来と交易を厳しく制限し、さらにアイヌに対して不当な価格による交易を強制した<ref name=":15" />。
*[[1615年]] - [[1621年]]([[元和 (日本)|元和]]1年 - 元和7年)ごろ
**松前藩の記録「[[新羅之記録]]<ref>{{Cite web|和書|title=新羅之記録 上 (1810651800-1)|url=http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516ea10a1a55724270001255|website=函館市中央著書間デジタル資料館|accessdate=2021-08-14|publisher=[[函館市]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=新羅之記録 下 (1810651818-1)|url=http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516ea4f61a557242700012ab|website=函館市中央図書館デジタル資料館|accessdate=2021-08-14|publisher=[[函館市]]}}</ref>」によれば、同藩の[[和人]]たちは[[メナシクル|メナシ]]地方(現在の[[根室市|根室]]方面)の[[アイヌ]]らと[[ラッコ]]の[[毛皮]]や[[鷲]]の羽などの[[交易]]を行っていた。アイヌらは100隻近い舟に物品を積載して[[松前町 (北海道)|松前]](松前藩の本拠地)まで来ており、それらの産地となる島があることが知られていたという<ref name=":11" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0314/hoppou/rekishi.html|title=北方領土問題|北方領土の歴史|accessdate=2021-08-16|publisher=埼玉県|date=2021-02-08}}</ref>。同藩主はこれを江戸幕府の[[将軍]]へ献上した<ref name=":27">{{Cite web|和書|url=https://www.hoppou-d.or.jp/cms/cgi-bin/index.pl?page=contents&view_category_lang=1&view_category=1022|title=中学生むけ読みもの「私たちの北方領土」|accessdate=2021-08-16|publisher=公益社団法人 北方領土復帰期成同盟}}</ref>。
**ラッコは日本周辺では千島列島海域でしか獲れないため、当時の和人が北方四島や千島のアイヌと交流していたと考えられる<ref name=":27" />。
*1618年(元和4年)
**[[イタリア]]([[シチリア王国]])出身である[[イエズス会]]の[[宣教師]][[ジロラモ・デ・アンゼリス]]が、[[ヨーロッパ]]人として北海道を初めて訪れた。アンゼリスは本国への報告書に「メナシ地方のアイヌが毎年100隻もの交易船で(松前へ)来る。交易品の中にはラッコの毛皮が入っている」 と記した。これは新羅之記録による記述と一致する<ref name=":27" />。
*1643年(寛永20年)
**[[オランダ]]の[[オランダ東インド会社|東インド会社]]の総督[[アントニオ・ヴァン・ディーメン]]によって派遣された探検家の[[マルチン・ゲルリッツエン・フリース|マルチン・ド・フリース]]らが千島列島を航海し、[[得撫島]]に上陸した。フリースの航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めて[[ヨーロッパ]]に紹介された<ref name=":12" />。
**フリースは択捉島をスターテンランド(国家島)、得撫島をカンパニースランド(会社島)と命名し、両島の領有宣言を行った<ref name=":12" />。
**ただし、この地図では千島列島のうち一部が示されたにすぎず、またカンパニースランドを[[アメリカ大陸]]の一部であると誤認するほど甚だしく不正確なものであった<ref name=":12" />。
*[[1644年]]([[正保]]1年)
** 日本の[[江戸幕府]]が作成した地図『[[正保御国絵図]]』([https://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouMAP/Shouho.htm 外部ページでの図示])に、[[松前藩]]が支配している「[[蝦夷地]]」として[[北海道本島]]、その北に[[樺太]]、そして[[知床半島]]と[[納沙布岬]]の東に「クルミセ」という39の島々が記された。クルミセは[[千島列島]]と考えられ、そのうち34の島は「クナシリ([[国後島]])」や「エトロホ([[択捉島]])」「ウルフ([[得撫島]])」などと現在とほぼ同じ島名で記載された<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
**ただし、この地図では[[東北地方]]や[[渡島半島|松前半島]]が比較的正確に描かれているのに対して、北海道本島および樺太は実際よりもはるかに小さく描かれており、さらに択捉島、国後島および千島列島はそれらの大きさおよび位置関係が不正確なものであった<ref name=":11" />。
** この[[地図]]は、松前藩が江戸幕府に提出したものを基礎としており、提出された原本は残っていないが、松前藩はその10年前である[[1635年]]([[寛永]]12年)に蝦夷地の探検調査を行っているため、当時得られた知識に基づいて作られたものと考えられる<ref name=":11" />。
* 1661年
** 日本の[[伊勢国]]の七郎兵衛らの船が択捉島に漂流した。日本人では初めて千島列島に漂着した記録であるとされ、当時は[[アイヌ]]らが先住する島であったという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mctv.ne.jp/~takase/E18.htm|title=伊勢国松坂の船北海を漂流する|accessdate=2021-08-15|website=長期滞在・ロングスティ記 - 北海道の名付け親 松浦武四郎の足跡を訪ねて その他諸々 }}</ref>。
*[[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]1年)
**[[ロシア人]]が初めて千島列島に進出した。[[コサック]]の反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の最北端である[[占守島|占守(シュムシュ)島]]に上陸し<ref name=":11" />、住民と戦って征服した。翌年には[[幌筵島|幌筵(パラムシル)島]]も征服した。さらに翌々年の[[1713年]]には[[温禰古丹島|温禰古丹(オンネコタン)島]]等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国した<ref name=":12" />。
*[[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年)
**松前[[藩主]]は江戸幕府への報告において「北海道本島、千島列島、[[カムチャツカ半島|カムチャツカ]]、樺太は松前藩の領土であり、自分が統治している。これらの地域にはアイヌがそれぞれ住んでおり[[酋長]]がいるが、総支配は松前藩が行っている」と述べた<ref name=":11" />。
**同藩は当初は[[厚岸町|厚岸]]を拠点として「クナシリ」や「エトロフ」などのアイヌとの交易を行った。その後「キリタップ([[霧多布湿原|霧多布]])」や「ノツカマップ(現在の[[根室市]]内)」へと交易の場所を広げた<ref name=":11" />。
==== 江戸幕府とロシア帝国との接触 ====
*1725年
**[[ロシア帝国]]海軍士官の[[マルティン・シュパンベルク]]は、日本への航路探索のため千島列島を探検船で南下した。彼は千島列島がラッコや[[オットセイ]]などの[[海獣]]に富むことを発見した<ref name=":27" />。
*[[1738年]]([[元文]]3年)
**シュパンベルクはさらに日本沿岸を航海し、房総半島や伊豆半島などにも到達した([[元文の黒船]])<ref name=":11" />。
**翌1739年には、シュパンベルクはロシア人として初めて千島列島などの地図を作ったという<ref name=":27" />。
***これは、ロシア帝国の初代皇帝であった[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)が東方に関心を持っていたことから、その死の直前に同国の[[海軍]][[大佐]]ベーリングに探検を命じて探検隊を組織させた結果であった<ref name=":11" />。
*[[1754年]]([[宝暦]]4年)
**'''松前藩は国後島に「[[場所請負制|場所]]'''(同[[藩]]が間接的に支配する交易の場)'''」を設置'''し、国後島と択捉島、得撫島に強い影響を持つようになった<ref name=":11" />。
*[[18世紀]]
**ロシアの南下勢力は千島列島に達し、島々の名をロシア名にしたほか、アイヌから税として毛皮を取り立てた。アイヌの生活は苦しくなり、ロシア人への反抗が繰り返された<ref name=":27" />。
* [[1760年代]]
** '''ロシア人の[[イワン・チョールヌイ]]が、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てた'''という記録が残されている。
*[[1778年]]([[安永 (元号)|安永]]7年)
**ロシアのラッコ捕獲事業者[[パベル・レベデフ=ラストチキン]]商会のオチエレデンは、千島列島の得撫島を根拠地としていたが、3隻の船で根室のノツカマップへ上陸した。千島列島にいるロシア人たちは本国から遠く離れているため食料や物資の不足に悩まされており、日本と交易して生活物資を得ようと考えていた<ref name=":27" />。
**オチエレデンは日本の松前藩の役人へ交易を提案したところ、同役人は「外国との交易は国法で禁じられている([[鎖国]])ので、今はどうにもならない。藩主の指示を受けて来年回答する」と回答してオチエレデンを根拠地へ帰した<ref name=":27" />。
**これは日本とロシアとの初めての接触であった<ref name=":27" />。
*[[1779年]]
**オチエレデンらは[[厚岸町|厚岸]]で再び会見し、日本の役人は「交易は許可できない。ただし得撫島のアイヌを仲介者として択捉島のアイヌと交易することは許可する。どうしても日本との交易を望むなら、[[長崎市|長崎]](当時の日本の外国との窓口)まで行って申し出なさい」と告げた<ref name=":27" />。
* [[1785年]]([[天明]]5年)
** 日本の江戸幕府はロシアの千島列島進出に危機感を持ち、もはや松前藩単独では対抗できないことから、北方四島や千島列島に役人を派遣して実地調査を行った<ref name=":27" />。
**派遣された[[探検家]]の[[最上徳内]]らが蝦夷地から[[得撫島]]までを踏破した<ref name=":11" />。最上が記した「蝦夷草子」によれば、'''最上らは国後島から択捉島に渡って'''ロシアの南下の状況を調査し、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したいう<ref name=":12" />。'''日本人では最初の得撫島への上陸'''であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.murayama.lg.jp/kurashi/gakko/bunka/mogamitokunai.html|title=最上徳内記念館|accessdate=2021-08-15|publisher=[[山形県]][[村上市]]|date=2021-08-02}}</ref>。
**その際、'''択捉島にはすでに3名のロシア人が居住していた。'''またアイヌの中に[[正教会|正教]]を信仰する者がいたことが知られており、同時期、すでにロシア人の足跡があったとされる(ただし、正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:[[ギリシャ正教会]]、[[ブルガリア正教会]]、[[日本正教会]]〉、[[正教徒]]が必ずロシア人とは限らない)。<!-- ので厳密に言えば、日本政府の説明は正しいとはいえない。--><!--(当時、ロシアでは正教を信仰し一定の税金・サヤークを支払うことが、ロシア国民たる用件であるとされていた。北方四島のロシア支配と、カムチャツカ・北千島・極東のロシア支配の様相は、あまり違わない。) 但しこれらの事実はロシアによる確固たる支配を意味するものではなく、影響力が及んでいたことを示すにとどまる。-->
*[[1792年]]([[寛政]]4年)
**[[ロシア皇帝]][[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の国書を携えた軍人[[アダム・ラクスマン]]が、日本からロシアへの漂流民であった[[大黒屋光太夫]]らを伴って[[軍艦]]で根室へ来航した<ref name=":27" />。
**国書の内容は「ロシアはこの地方で必要な生活物資を日本との交易によって得たい」というものだった。松前藩は急いで江戸幕府に報告し、指示を仰いだ<ref name=":27" />。
*1793年(寛政5年)
**日本の江戸幕府はラクスマンへ返答し、内容は「漂流民の送還については感謝する。しかし[[江戸]](事実上の[[首都]])への来航は許可できない。日本の[[法律|国法]]により通商はできない。長崎においてなら話し合う」というものだった。結局、ラクスマンは長崎への入港許可証を与えられただけで本国へ引き返した<ref name=":27" />。
**ロシアはラクスマンの報告によって、日本との交易が有望だと考えた。同国は得撫島に移民4家族をはじめ58人を送り、ロシアの基地を再建した<ref name=":27" />。
*[[1798年]](寛政10年)
**江戸幕府は大規模な蝦夷地巡察隊を派遣した。この隊の一人であった[[近藤重蔵]]は[[最上徳内]]を案内役とし、'''[[択捉島]]'''の丹根萌'''に日本領を示す「大日本恵登呂府」の標柱を建てた'''<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
*[[1799年]](寛政11年)
**江戸幕府は国防上の必要から千島・樺太を含む蝦夷地を幕府の直轄地([[天領]])として統治することとし、近藤をその処置に任命した。近藤は船頭の[[高田屋嘉兵衛]]とともに北方四島へ訪れた。国後島と択捉島との間の航路は大変困難とされており、嘉兵衛の大きな功績であった<ref name=":27" />。
*[[1800年]]
**江戸幕府はロシアとの[[国境]]を接する択捉島の開発に乗り出した。近藤は嘉兵衛らとともに、嘉兵衛が開拓した航路によって再び択捉島に渡った。本土と同じ[[郷村制]]を採用し、17か所の[[漁場]]を開いた。彼らはこのときも択捉島の[[カムイワッカオイ]]の丘に 「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てた。また航路や[[港湾|港]]を整備したほか、アイヌへ漁法を伝授し[[漁具]]を与えた<ref name=":27" />。
*[[1801年]]([[享和]]1年)
**江戸幕府は択捉島などに役人を常駐させ、[[南部藩]]と[[弘前藩|津軽藩]]([[本州]]の北端を拠点としていた。現在の[[青森県]]から[[岩手県]]北部にあたる)から100人あまりの[[藩士]]を送って国後島と択捉島の防備を固めた。こうして日本による[[色丹島]]、国後島、択捉島の本格的開発が始められた<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
*[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]1年)
**ロシア帝国の[[外交官]][[ニコライ・レザノフ]]([[露米会社]]の設立者)が、日本との通商を求めて長崎へ来航した。1793年のラクスマンの報告に基づいたものであったが、江戸幕府はレザノフらを半年近くも待たせたすえに通商を拒否した。レザノフはもはや日本の門戸を開かせるためには武力で脅かすしか方法がないと考え、部下に命じて樺太や択捉島を襲撃し、放火、暴行、略奪を行った<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
**江戸幕府はこれに対してロシア船の打ち払いを命じた<ref name=":11" />。
*[[1807年]](文化4年)
**ロシアの露米会社の武装船2隻が択捉島を襲った。露米会社は南部・津軽両藩の守備隊を破り、[[番屋]]や[[会所 (近世)|会所]]に乱入して物品を[[略奪]]し、建物を焼いた。松前[[奉行]]支配調役であった[[戸田忠太夫|戸田亦太夫]]は、責任をとって[[自殺|自決]]した。
*[[1811年]](文化8年)
**ロシアの軍艦[[ディアナ号]]の艦長[[ヴァシーリー・ゴロヴニーン]][[少佐]]らが、クリル(千島)列島の測量を命じられて国後島を訪れた際、江戸幕府によって捕縛された。ディアナ号の副艦長{{仮リンク|ピョートル・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}は報復として日本船を襲い、幕府御雇船頭の[[高田屋嘉兵衛]]を捕縛した。嘉兵衛の努力により、日本とロシアがゴロヴニーンと嘉兵衛とを互いに交換して釈放した([[ゴローニン事件]])。
**これらの事件の原因は、日本とロシアとの[[国境]]が曖昧なままであったためであった。<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
*1813年(文化10年)
**上述のような事件を契機に、日本とロシアとが国境策定の交渉を始めた<ref name=":11" /><ref name=":27" />。
**両国間の国境を「日本は択捉島以南、ロシアは[[新知島]]以北とし、その中間にある得撫島は両国の混住の地とする」とすることについて交渉する予定であったが、翌年に約束したロシア船が日本へ来航しなかったために交渉は成立しなかった<ref name=":27" />。
*[[1821年]]([[文政]]4年)
**日本とロシアとの緊張が緩和されてきたため、江戸幕府は蝦夷地を直轄支配することを中止し、再び松前藩へ統治させるように転じた<ref name=":27" />。
=== 近代 ===
==== 日本の開国後 ====
*[[1853年]]([[嘉永]]6年)
**[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]は海軍提督[[エフィム・プチャーチン]]を日本へ派遣し、通商を求めるとともに樺太と千島の国境の画定を申し入れた。両国は[[長崎市|長崎]]で交渉を行った<ref name=":11" />。
**ロシアは択捉島と[[樺太]]の領有を強く主張した。一方で日本は「北方四島および千島列島は探検や開拓の歴史からみても日本の領土である」と主張して譲らなかった。交渉は難航し、同年中には合意に至らなかった<ref name=":27" />。
*[[1854年]]([[嘉永]]7年)
**日本で「蝦夷地」全体の地図「[https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/pages/WC-1_25.html 改正蝦夷全図]」(加陽・豊島洞斎 作)が発行された。この地図には北海道本島および北方四島、[[千島列島]]の全島、[[樺太]]島の全体が描かれ、さらには[[ユーラシア|ユーラシア大陸]]の一部や[[カムチャッカ半島]]の一部までもが明記された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/pages/WC-1_25.html|title=改正蝦夷全圖|accessdate=2021-08-16|publisher=横浜市立大学学術情報センター|website=横浜市立大学所蔵の古地図データベース}}</ref>。
* [[1855年]]([[安政]]1年)
** 日本(江戸幕府)とロシア帝国は'''[[日露和親条約]]'''(下田条約)を結び、択捉島と[[得撫島]]の間を国境線とした。この条約により'''択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本領'''、得撫島から北の島々がロシア領と規定された<ref name=":11" />。
**なお、この条約は[[オランダ語]]と[[ロシア語]]が正文であり、その内容の解釈について、のちの領土問題に関連した議論がある(当該記事参照)。
==== 明治維新から日露戦争 ====
*[[1868年]] - [[1869年]]
**[[明治維新]]<ref>{{Cite web|和書|title=年表 {{!}} 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|url=https://www.kodomo.go.jp/yareki/chronology/index.html|website=www.kodomo.go.jp|accessdate=2021-08-14}}</ref>によって[[江戸幕府]]が解体し、その領土が[[大日本帝国]]へと[[継承国|継承]]された。
* [[1869年]]([[明治]]2年)
** [[蝦夷地]]を[[北海道 (令制)|北海道]]と改称。このとき[[国後島]]・[[択捉島]]の行政区分をあわせて「[[千島国]]」とし五郡を置いた。
* [[1875年]](明治8年)
** 日本とロシアは'''[[樺太・千島交換条約]]'''を結び、「クリル群島({{
**なお、この条約は[[フランス語]]が[[正文]]であり、これに基づいて日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。 ** 条約締結後、当時の日本国内の行政区分で「[[千島国]]」と定められていた国後島・択捉島に、[[得撫島]]以北を編入し、国後島から[[占守島]]までが千島国になった。
**一方、樺太および千島列島の先住民であった[[アイヌ]]は、この条約によって3年以内に自身の[[国籍]]について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた<ref name=":5" />。
*
** [[根室国]][[花咲郡]]の一部(色丹島)を、[[色丹郡]]として千島国に編入する。
*
**[[日露戦争]]。[[ポーツマス条約]]により樺太の南半分が日本に割譲された。
==== ロシア革命期 ====
* [[1917年]] - [[1918年]]
**[[ロシア革命]]によって[[ロシア帝国]]が解体し、その領土が[[ソビエト連邦]]へと継承された。
* [[1918年]] - [[1922年]]
**[[シベリア出兵]]
=== 第二次世界大戦 ===
* [[1931年]]
**[[満州事変]]勃発。
* [[1937年]]
**[[日中戦争]]勃発。日本による中国への[[侵略]]であり、『[[九カ国条約|中国に関する九国条約]]』への違反であると[[国際連盟]]総会で非難決議が行われたが、日本は解決へ向けた会議を拒絶した<ref name=":50" />。
* [[1939年]]
**[[ノモンハン事件]]。
* [[1940年]]
**11月25日
* [[1941年]]
**4月13日:日本とソ連は、[[日ソ中立条約]]を締結した。両国は、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の[[中立]]などを義務付けた。有効期間は5年間([[1946年]]4月24日まで)であり、「有効期間満了の1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は、自動的に5年間延長される」と記述された。
**6月22日:[[独ソ戦]]勃発。
**7月:[[関東軍特種演習]]。
**日米開戦前、[[フランクリン・ルーズベルト|アメリカ大統領ルーズベルト]]は[[ヨシフ・スターリン]]に、日本軍がソ連沿海州を攻撃するという情報を届けた<ref name="通訳290">{{Harvnb|ベレズホフ|1995|p=290}}</ref>。これに関連し、ソ連極東地域にアメリカ空軍基地建設許可、アラスカ経由での航空機輸送を提案した<ref name="通訳290" />。だがゾルゲなどの諜報機関から日本が対米開戦ハワイ奇襲を決意したことを知るスターリンは相手にせず<ref name="通訳290" />、米軍爆撃機基地建設を拒絶した{{Sfn|ベレズホフ|1995|p=291}}。
** 12月8日:[[太平洋戦争]]勃発。
* [[1942年]]
**6月17日
==== ソ連の対日参戦協定 ====
* [[1943年]]
** 10月
**11月末、[[イラン]]の[[テヘラン]]において、米・英・ソ首脳会談が開かれる([[テヘラン会談]])。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した{{Sfn|長谷川毅|2006|p=43}}。 ** テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の[[無条件降伏]]を目指すことが宣言された([[カイロ宣言]])。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
* [[1944年]]
**12月14日
* [[1945年]]
** 2月、ソ連の[[ヤルタ]]で連合国のうち[[アメリカ合衆国|米国]]・[[イギリス|英国]]・ソ連の3首脳が会談した([[ヤルタ会談]])。ここで、連合国がのちに第二次世界大戦に勝利した場合における戦勝国間で
***[[大日本帝国]]を早期に敗北に追い込むため、のちに[[ナチス・ドイツ]]を降伏([[ヨーロッパ戦勝記念日]])させた場合にはその3か月後に[[ソ連対日参戦|ソ連が対日参戦]]することが約束された。そのための条件として、「[[日本の降伏]]後には南樺太をソ連に返還し、'''クリル列島(千島列島)をソ連に引き渡す'''」とした極東密約を首脳らは結んだ'''([[ヤルタ協定#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ協定]])<ref name=":28" />'''。
***ヤルタ会談の直後、米国とソ連は『[[プロジェクト・フラ]]』と呼ばれる合同の極秘作戦を開始した。米国は1945年4月から8月にかけてソ連兵約1万2000人を米[[アラスカ州]]・[[コールドベイ]]の米軍基地に集め、常時1,500人の米軍関係者がソ連兵へ艦船やレーダーの習熟訓練を行った。5月から9月にかけて[[掃海艇]]55隻、[[上陸用舟艇]]30隻、[[護衛艦]]28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与した<ref name=":49">{{Cite web|和書|title=ソ連四島占領 米が援助 艦船貸与、兵訓練…極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局調査で判明:北海道新聞デジタル|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/380726|website=北海道新聞デジタル|access-date=2023-03-27|language=ja}}</ref>。
**4月5日:ソ連の外相モロトフが、[[日ソ中立条約]]の失効を日本側へ通告した<ref name=":29" />。日ソ中立条約の規約では、この条約は5年間有効であり、締結の5年後にあたる期間満了日から1年以上前にどちらかの国が失効を通告しない場合は、自動的に5年間延長されることになっていた。この通告によって、同条約は翌[[1946年]]4月25日に失効することになった<ref group="補足情報">1945年4月5日の通告により日ソ中立条約が即時に失効したのか条約の規定にある5年目の更改日46年4月25日まで有効だったのかについては定説はない。極東国際軍事裁判判決では「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。詳しくは[[日ソ中立条約]]参照。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集]}}(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
*28ページ目「(9)日ソ中立条約(1941年)」
*29ページ目「(10)日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書(1945年)」</ref>。
***この通告を、日本側は条文にもとづいて「条約は翌年の期間満了日に失効する(その日までは有効)」と解釈したが、ソ連側はのちに「条約は当日からすでに失効した」という意味の通告だったとしている。
**7月17日 - 8月2日:ソ連が占領する[[ポツダム]]で、再び米国・英国・ソ連の3首脳が会談した([[ポツダム会談]])。ここでソ連は米国と英国に対し、ソ連に対日参戦を求める内容を明文化することを要求した。理由は日ソ中立条約がいまだ有効期間内であったためである。
***7月26日、米国・英国・[[中華民国]]の3国による、日本の降伏を要求する共同声明([[ポツダム宣言]])が発表された。
==== ソ連の対日参戦 ====
* 1945年8月:ソ連による対日宣戦布告
** [[8月8日]]:[[モスクワ時間]]の午後5時([[日本標準時|日本時間]]:午後11時)、ソ連の外相モロトフは、[[クレムリン]]に[[在ソビエト連邦日本国大使館|駐ソ連日本大使]]の[[佐藤尚武]]を招致し、「翌8月9日から日本と戦争状態になる」ことを通告して[[宣戦布告]]した<ref name=":29" />。
***[[ソ連対日宣戦布告|ソ連の対日宣戦布告]]を受けた佐藤はモスクワから日本国外務省へ打電した<ref name=":29" />が、'''ソ連の'''[[モスクワ]]中央[[電信局]]の'''妨害によって日本国内へは宣戦布告の情報が伝達されなかった'''<ref name=":31">{{Cite news|title=対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書|newspaper=産経新聞|date=2015-08-09|url=https://www.sankei.com/article/20150809-JSEGCPUARVN2RLTXDYF3SNC7YM/|accessdate=2021-08-17|author=編集委員 岡部伸}}</ref>。
***1時間後のモスクワ時間午後6時(日本時間:翌9日の午前0時)、ソ連は日本との国交を断絶し、日本を侵攻するための進軍を開始した<ref name=":31" />。
***'''日ソ中立条約は当時まだ有効期間内であった'''<ref name=":29" />。
** [[8月9日]]:日本時間の午前4時(モスクワ時間:前8日午後10時)、いまだに宣戦布告は日本へ伝達されていなかったが、ソ連や米国などの[[マスメディア]]がソ連の宣戦布告を報道していた。日本はその報道によってようやくソ連の参戦を把握し、日本の[[外務省]]は各国の[[在外公館|在外日本公館]]へ参戦を告げる電報を送った<ref group="補足情報">この事実が明らかになった理由は、この電報を、[[イギリス]]の政府暗号学校である[[ブレッチリー・パーク]]が傍受して解読したことであった。
これはイギリス政府の最高[[国家機密|機密文書]]として保管され、70年後の2015年8月9日に初めて公開された。</ref>。すでにソ連軍の侵攻開始から4時間が経過していた<ref name=":31" />。
***同日は午前11時に日本の[[長崎市への原子爆弾投下|長崎市へ原子爆弾]]が投下されるなど過酷な状況でもあった。
** [[8月10日]]:日本時間の午前11時15分、ソ連の駐日大使[[ヤコフ・マリク]]が日本の外相[[東郷茂徳]]を訪問し、公式な[[宣戦布告]]の文書を通知した。すでにソ連軍の侵攻開始から35時間が経過していた<ref name=":31" />。
***なお、日本からソ連への宣戦布告は最後まで行われなかった<ref name=":31" />。このことから、日本側は「日本軍によるソ連軍への戦闘行為は、現場の日本兵たちがソ連軍からの攻撃に直面したことによる防衛行動であった」としている。
** 8月10日:午後10時、ソ連は[[赤軍]]の第2極東戦線第16軍に向けて「8月11日に樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を行ったが、ソ連側の各兵科部隊は準備不足から任務に至らなかった。
==== 日本の降伏とソ連の占領 ====
* 1945年8月:停戦とその後の侵攻
**[[8月14日]]:日本は[[御前会議]]において、米・英・中・ソの共同宣言([[ポツダム宣言]])の受諾を決定し、連合国へ同宣言の受諾を通告した。
** [[8月15日]]:日本国内では降伏と敗戦を国民へ告げる[[玉音放送]]が流され、[[日本軍]]は自発的戦闘行動を停止した。ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに[[北千島]]の[[占守島]]、[[幌筵島]]、[[温禰古丹島]]を占領するように命じた。
** 8月16日:日本領であった[[南樺太]]へソ連が侵攻した。この際、米ソ合同作戦『[[プロジェクト・フラ]]』により米国で建造された艦船および米軍に習熟訓練を受けたソ連兵も参加し、以後の千島列島や北方四島への侵攻でも同様に参加した。
** [[8月16日]]:日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定。
** [[8月18日]]:ソ連軍は千島列島への侵攻と占領を開始し、北端の[[占守島|占守]]島に上陸した([[占守島の戦い]])。ソ連軍は約2万5千人の日本軍と交戦したが、日本軍は[[司令部]]の命令により交戦を中止した。
***8月23日に日ソ両軍は現地で停戦協定を締結し、日本軍は武器をソ連軍に引き渡した<ref name=":29" />。
** [[8月23日]]:スターリンは「[[ソ連国家防衛委員会|国家防衛委員会]]決定 No.9898」に基づき、日本軍からの捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、[[強制労働]]を行わせる命令を下した。これにより日本人捕虜たちは主に[[シベリア]]などへ[[労働力]]としてソ連の各地へ移送・隔離され、[[シベリア抑留|シベリア抑留問題]]となった。
** [[8月28日]]から[[9月1日]]までに、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫島を占領した。
***ソ連軍は8月28日に択捉島に上陸し、9月1日には国後島、色丹島に、9月3日には歯舞群島に上陸した。
***9月5日までに'''ソ連軍が択捉島・国後島・色丹島を占領した<ref name=":29" />'''。
***[[9月3日]]から[[9月5日|5日]]にかけて'''ソ連軍が[[歯舞群島]]を占領した'''。
***四島の上陸占領作戦には合計17隻の艦船が使用され、うち10隻は米国から無償貸与されたものだった<ref name=":49" />。
***これら四島の占領の際には日本軍は組織的戦闘をすでに終了していたため、占領過程で死傷者は出なかったとされる<ref name=":4" />。
** [[9月2日]]:日本は、[[東京湾]]上の[[アメリカ]]戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]の[[甲板 (船)|甲板]]において、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と[[日本の降伏文書|降伏文書]]を締結した。これにより[[停戦]]となった。同文書では、連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。
***既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。
** ソ連は当時、[[樺太]]と千島にとどまらず、[[北海道]]本島の北半分を占領することを目標としていた<ref name=":17" />。
** [[9月15日]]:ソ連が千島の領有を宣言する<ref>『根室市史年表』(1988年3月20日、根室市発行)178頁。</ref>。
== 関係史(ソ連の実効支配から) ==
=== 日本の返還運動の発端 ===
*[[1945年]]([[昭和]]20年)
**12月1日:[[日本]]の[[根室町]]長(現在の[[根室市|根室]][[市長]]にあたる)であった[[安藤石典]]、また近隣の[[漁師|漁民]]代表、および[[北方諸島|北方四島]]から脱出した元島民の代表が、当時の日本を[[占領]]・[[統治]]していた[[連合軍最高司令官総司令部|連合軍最高司令官]][[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー元帥]]に対して、北方四島を[[アメリカ合衆国]](米国)が保護するようにと[[陳情]]を行った。その内容は「[[歯舞群島]]・[[色丹島]]・[[国後島]]・[[択捉島]]は日本固有の領土である。[[ポツダム宣言]]を忠実に履行する上からも、[[アメリカ軍]]の保証占領下に置いて、島民が安心して生業に付けるようにしてほしい」というものであった<ref name=":24">{{Cite web|和書|url=https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/hoppouryoudotaisakubu/hoppouryoudotaisakuka/8392.html|title=根室市と北方領土|accessdate=2021-08-16|publisher=北海道根室市}}</ref>。
***この陳情は当時から「4つの島」の返還を目指したものであり、現在まで続く日本による北方領土返還運動の発端となった<ref name=":24" />。
=== ソビエト連邦時代 ===
==== [[ヨシフ・スターリン|スターリン]] - [[GHQ]]時代 ====
*[[1946年]](昭和21年)
** [[1月29日]]:'''[[SCAPIN|連合国最高司令官司令]]により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が'''一時的に'''停止された'''<ref group="補足情報" name=":1">なお、同指令第6項には「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とある。</ref><ref name=":30">{{Cite web|和書|url=https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/takeshima/detail/t1946012900101.html|title=若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する件(SCAPIN-677)|accessdate=2021-08-15|publisher=政府の委託事業の下で地元の専門家を中心とするチーム|website=竹島資料ポータルサイト|date=1946-01-29}}</ref>(SCAPIN-677)。これらは'''ソビエト連邦の行政管轄区域となった'''。
** 2月2日:'''[[ソビエト連邦最高会議]]が、'''南[[樺太|サハリン]](南樺太)および'''クリル諸島(千島列島)を'''1945年9月20日にさかのぼり'''国有化宣言した'''([[南サハリン州]]の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令、ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。同地域はソ連の南サハリン州として新設され、[[ロシア共和国]]・[[ハバロフスク地方]]へと編入された<ref name=":29" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000035454.pdf|title=われらの北方領土2020年版(令和2年版)|accessdate=2021-08-16|publisher=外務省|format=PDF}}</ref>。
***当時、[[樺太|樺太島]]の南部(北緯50度以南)に住んでいた日本国民は1945年8月時点で約40万人であったが、彼らはソ連の占領下で生活することになり、技術者を中心とする彼らの多くがそのまま職場にとどまらざるをえなかった。
***南樺太には日本からの米の供給が途絶えたことから、ソ連は旧[[満州国]]から大豆、[[北朝鮮]]から米を移入し、日本人への配給にあてた。一方、[[林業]]などのために[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]からの[[朝鮮民族|朝鮮人]]労働者も南樺太へ送られるようになった。
** 2月11日:ヤルタ会談における極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
** 北方領土には日本国民は約1万7000人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
** 2月20日:ソ連が樺太南部と千島の全域をハバロフスク地方に編入の旨を宣言・公布<ref name="p195">『根室市史年表』(1988年3月20日、根室市発行)195頁。</ref>。
** 4月16日:米国が「ソ連の千島領有は平和条約で決定」の旨を表明<ref name="p195" />。
** 12月:[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)とソ連との間で[[捕虜]]となっていた日本国民の[[引き上げ]](「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」)が合意され、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した<ref group="補足情報">外務省の公式見解 [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/mondai_qa.html 北方領土問題に関するQ&A](平成22年2月1日){{Cquote|戦前、北方四島には、約1万7千人の日本人が住んでいましたが、その全員が、1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。|}}
</ref>。
* [[1951年]]
** 9月8日:日本は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]諸国と[[日本国との平和条約|'''サンフランシスコ平和条約''']]を締結したことにより、多くの国々との戦争状態が正式に終結して国家主権を認められた。
**同条約において、日本は[[朝鮮半島]]や[[台湾]]、南樺太、そして'''千島列島'''など'''の領有を放棄した<ref name=":4" />'''。当時の平和条約国会で、'''日本政府は'''[[ヤルタ協定]]のいう'''「千島列島」の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している''' <ref name="kokkai19500308" /><ref name="kokkai19511106" /><ref name="kokkai19511019" />。しかし、'''この説明は'''5年後の[[1956年]]2月に'''取り消され、以後の同政府は「国後島と択捉島は千島列島に含まれず、日本が放棄した対象ではない」と主張している'''<ref name="kokkai19560211" /><ref name=":6" />。
**ただし、'''ソビエト連邦はこのサンフランシスコ平和条約に調印しなかった'''(背景には[[アメリカ合衆国]]との[[冷戦]]があった)<ref name=":9" /><ref name=":10" />。以後、同連邦を継承したロシア連邦もこの条約に調印していない<ref name=":10" />。
==== [[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]] - [[自由民主党 (日本)|自民党]]時代 ====
* [[1953年]](昭和28年)
**10月:アメリカ軍情報部無線局から国後島の飛行場調査を命じられた日本人2人が現地へ潜入。ソ連側の警備兵と銃撃戦となり1人が死亡、1人が逮捕。逮捕された者は[[軍事裁判]]で[[懲役]]25年の刑を命じられたものの1956年に解放され帰国を果たした。事件は秘匿されたが、[[1968年]]にソビエト連邦側から事件の内容が情報公開された<ref>逮捕のスパイ在宅 ソ連政府機関紙の報道『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月19日朝刊 12版 15面</ref>。
* [[1956年]] 戦後の両国間交渉
** '''[[日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言|日ソ共同宣言]]'''(昭和31年条約第20号)
*: 日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、[[フランス]]に対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした{{いつ|date=2010年8月}}{{誰|date=2010年8月}}。
*:米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと[[国務省]]の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。
*:しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起するとの回答があった。
*: [[平和条約]]の締結交渉については、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島の「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されなかった。'''平和条約の締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡す'''と記載された条文を盛り込んだ「共同宣言」で決着した<ref name=":8">{{Cite web|和書|title=日ソ・日露間の平和条約締結交渉|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_rekishi.html|website=日本の領土をめぐる情勢|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=外務省|date=2021-03-31}}</ref>。
*: 日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。
* [[1957年]]
** ソ連国境警備隊が[[貝殻島]](北方領土のうち最も北海道本島に近い)に上陸した。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった<ref group="補足情報">なお貝殻島は国連海洋法条約で言うところの[[低潮高地]]であり、島ではないため、同条約によると領海や排他的経済水域を有しない。</ref>。
* [[1960年]]
** [[岸信介]]内閣が[[日米安全保障条約]]の改定([[アメリカ軍]]が以後も日本に駐留し続けることを約束した)を行ったことに対してソ連が反発した。
**ソ連政府は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」であるとし、両島を引き渡すためには'''新たな条件([[在日米軍]]をふくむ外国の[[軍隊]]が日本から撤退すること)'''を付けることを要求した<ref name=":8" />。
**日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったことを指摘し、国際約束である日ソ共同宣言の内容を一方的に変更することはできないと反論した<ref name=":8" />。
*[[1962年]](昭和37年)
**[[3月9日]]:日本の[[衆議院]]本会議において、「沖縄・小笠原施政権回復決議」とともに、「北方領土回復決議」が採択された<ref>日本外交主要文書・年表 第2巻. 鹿島平和研究所. 原書房. 1984年2月28日刊. 「【5】 沖縄・小笠原施政権回復決議および北方領土回復に関する衆議院決議 3月9日」p409</ref><ref>衆議院・参議院および各委員会議録『官報(号外)』. 大蔵省印刷局</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104005254X02219620309 40回国会 衆議院本会議 22号 昭和37年03月09日] 「日本固有の北方領土回復に関する決議案」</ref>。
*[[1964年]]
**[[7月10日]]:[[中華人民共和国|中華人民共和国(中国)]]の[[中国共産党|共産党]][[中国共産党中央委員会主席|主席]]・[[毛沢東]]が、北方領土問題に関して日本を支持する考えを示した<ref name=":32" /><ref name=":33" /><ref name=":34" />。
***毛は中国を訪問した[[日本社会党]]の訪中団に対し、ソビエト連邦について「とにかく自分の領内に入れることのできるところは、残らず自分の領内に入れようというのです。」などとしたうえで、「われわれはまだ彼らとの間に、決算が終わって(原文ママ)いないのです。ところで、皆さんの千島列島についてですが、われわれにとって、それは別に問題ではありません。皆さんに返還すべきだと思います。」と述べた<ref name=":32">日本外交主要文書・年表 第2巻. 鹿島平和研究所. 原書房. 1984年2月28日刊. 「【8】 日本の北方領土返還要求を支持する毛沢東中国共産党主席の日本社会党訪中団に対する談話 7月10日」pp517-518</ref><ref name=":33">『増補改定 日中関係資料集(一九七一年刊)』 会員資料. 日中国交回復促進議員連盟. 1971年刊. p580</ref><ref name=":34">記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉. [[石井明]]・[[朱建栄]]・[[添谷芳秀]]・[[林暁光]]. 岩波書店. 2003年8月7日刊. 「記録編 第一部 日中国交正常化交渉」「2田中角栄首相・周恩来総理会談」「第二回首脳会談(九月二六日)」p57及び末尾脚注p75</ref>。
* [[1966年]][[8月21日]]:釧路地検が国後島ケラムイ岬沖で[[ホタテガイ]]を密漁していた漁船の船主らを[[漁業法]]に違反するとして起訴。船主側は「外国の領海で操業したのだから、日本の漁業法は適用されない」として争うこととなった。一審では「国後島に日本の統治権は及んでいない」として船主側に無罪が言い渡されたが、二審では「漁業法は統治権が及ぶか否かに関わらず、我が国の水産資源と漁民保護の立場から、無許可操業した場合全ての海域に適用される」として船主側が敗訴。船主側は最高裁に上告したが、[[1970年]][[10月1日]]に棄却された<ref>「領土」に触れず 漁業法適用認む『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月1日夕刊 3版 1面</ref>。
==== [[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]] - 自民党時代 ====
* [[1970年]]
**[[11月11日]]:ソ連の在日ソ連臨時代理大使オコニシニコフが、日本の外務[[事務次官]]・森に対して北方領土に関する対日口頭声明を行った<ref name=":35" /><ref name=":36" />。
**11月17日:森がオコニシニコフに対し、先の声明に対する回答を口頭で行った(対ソ回答)<ref name=":35">日本外交主要文書・年表 第2巻. 鹿島平和研究所. 原書房. 1984年2月28日刊. 「【18】 北方領土に関するソ連の対日口頭声明および対ソ回答 11月11日, 17日」pp1008-1011</ref><ref name=":36">外務省公表集・昭和45年. 外務省情報文化局. pp162-166</ref>。
* [[1972年]]
** 日本の[[大平正芳]][[外務大臣|外相]]が北方領土問題の国際司法裁判所への付託を提案したが、ソ連の[[アンドレイ・グロムイコ]]外相が拒否
* [[1973年]]
** 日本の[[田中角栄
* [[1981年]](昭和56年)
** 2月7日:日本で[[北方領土の日]]
==== [[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]] - 自民党時代 ====
[[File:Toshiki Kaifu and Mikhail Gorbachev 199104 (cropped).jpg|250px|thumb|共同声明に署名した[[海部俊樹]]と[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]](1991年4月18日・[[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]])]]
* [[1991年]]
** 4月:ソ連の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦大統領|大統領]]が訪日した。日ソ共同声明において、ソ連は北方四島の名前を具体的に書き、「領土画定の問題が存在する」ことを初めて文書で認めた<ref name=":8" />。
**12月:[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が解体]]された。その領土の大部分は[[ロシア連邦]]として独立し、以後はロシア連邦が本領土問題を引き継いだ。
=== ロシア連邦時代 ===
==== [[ボリス・エリツィン|エリツィン]] - [[細川護熙|細川]]時代 ====
[[File:Morihiro Hosokawa and Boris Yeltsin 199310 2 (cropped).jpg|250px|thumb|東京宣言に署名した[[細川護熙]]と[[ボリス・エリツィン|エリツィン]](1993年10月13日・赤坂迎賓館)]]
{{anchors|東京宣言}}
*[[1993年]]
** 10月:日本の[[細川護熙|細川護煕]]首相とロシアの[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領が会談した。東京宣言(第2項)において、北方四島の島名を列挙した上で
**同時に、日本とソビエト連邦との間の全ての条約その他の国際約束が、日本とロシアとの間で引き続き適用されることを確認した。さらにエリツィン大統領は、「'''日露間での有効な国際約束には1956年の[[日ソ共同宣言]]も含まれる'''」と発言した<ref name=":8" />。
==== エリツィン - [[橋本龍太郎|橋本]]時代 ====
[[File:Ryutaro Hashimoto and Boris Yeltsin 199804 (cropped).jpg|250px|thumb|会談時に[[橋本龍太郎]]とエリツィン(1998年4月18日・[[川奈ホテル]])]]
{{anchors|川奈合意}}
* [[1997年]]
** 11月:両国は[[クラスノヤルスク]]での[[首脳会談]]で「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす。」と合意した<ref name=":8" />。
* [[1998年]]
** 4月:両国は[[川奈ホテル|川奈]]での首脳会談で「平和条約が、東京宣言第2項に基づき四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けての日露の友好協力に関する原則等を盛り込むものとなるべきこと。」と合意した(川奈合意)<ref name=":8" /><ref>{{Cite web|和書|title=川奈首脳会談|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_98/nichiro/kawana.html|website=過去の記録|accessdate=2021-08-14|publisher=外務省|date=1998-04-28}}</ref>。
==== エリツィン - [[小渕恵三|小渕]]時代 ====
[[File:Keizo Obuchi and Boris Yeltsin 199811 (cropped).jpg|250px|thumb|会談時に[[小渕恵三]]とエリツィン(1998年11月14日・[[クレムリン]])]]
{{anchors|モスクワ宣言}}
*1998年
** 11月:日本の[[小渕恵三]]首相が訪露し、両国は[[モスクワ]]宣言において「東京宣言、クラスノヤルスク合意および川奈合意を再確認し、国境画定委員会および共同経済活動委員会の設置を指示」した<ref name=":8" />。
==== [[ウラジーミル・プーチン|プーチン]] - [[森喜朗|森]]時代 ====
[[File:Vladimir Putin 25 March 2001-6.jpg|250px|thumb|イルクーツク声明に署名した[[森喜朗]]と[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]](2001年3月25日・[[イルクーツク]])]]
* [[2000年]]
** 9月:ロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領が訪日し、両国は「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」において「クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること」と「これまでの全ての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するため交渉を継続すること」を確認した。またプーチンは「56年宣言は有効であると考える」と発言した<ref name=":8" />。
***プーチンは2年前の川奈提案(平和条約によって四島の帰属の問題を解決する)は日本側の「勇気と熟慮の成果」であったと述べながらも、「妥協についての我々の考え方と完全には一致していない」として、帰属問題の解決については拒否した<ref name=":8" />。
{{anchors|イルクーツク声明}}
* [[2001年]]
** 3月:両国はイルクーツクで首脳会談を行い、イルクーツク声明において「56年日ソ共同宣言を交渉プロセスの出発点と位置付け、その法的有効性を文書で確認」し、「その上で、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するとの日露共通の認識を再確認」した<ref name=":8" />。
==== プーチン - [[小泉純一郎|小泉]]時代 ====
* [[2003年]]
** 1月:日本の[[小泉純一郎]]首相が訪露し、両国は共同声明において、両首脳の間で四島の帰属の問題を解決し、平和条約を可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常化すべきとの「決意」を確認した。また「日露行動計画」において、56年日ソ共同宣言、93年東京宣言、2001年イルクーツク声明の3文書が具体的に列挙され、その他の諸合意と併せ、今後の平和条約交渉の基礎とされた<ref name=":8" />。
==== メドベージェフ - [[菅直人]]時代 ====
*[[2010年]]
** 7月:[[中華人民共和国]]の国家主席([[中国共産党中央委員会総書記|総書記]])である[[胡錦濤]]
** [[11月1日]]:ロシアの[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]大統領
** 11月1日:[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フィリップ・クローリー]][[アメリカ合衆国国務次官補|国務次官補]]は記者会見の席上で、ロシアの[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]大統領が国後島を訪問したことに関し「北方領土に関して、アメリカは日本を支持している」と述べ
** [[11月2日]]:アメリカの
*[[2011年]]
**2月11日:ロシアの[[ラブロフ]]外相は日露外相会談を受けた記者会見で、北方領土の開発に「中国や韓国など(第三国)の投資を歓迎する」と述べる<ref>2011/02/12 産経新聞</ref>。
**5月24日:[[大韓民国|韓国]]から、[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]](独島)の領有権確保を目指す「独島領土守護対策特別委員会」の韓国議員3人が国後島を訪問した。この訪問予定を知った日本政府は遺憾の意を示していたが、同議員らは「韓国国会議員の行動にあれこれと言ってくるのは失礼な態度だ」とし、訪問目的を「日本との領有権問題がある地域の支配・管理状況の視察」とした<ref>2011.5.22 産経新聞</ref><ref>2011.5.24 YONHAP NEWS
==== プーチン - [[安倍晋三|安倍]]時代 ====
*[[2013年]]
**4月:日本の[[安倍晋三]]首相が訪露し、両国は共同声明において、「戦後67年を経て日露間で平和条約が存在しないことは異常である」との認識を共有し、「双方の立場の隔たりを克服して、2003年の共同声明及び行動計画において解決すべきことが確認されたその問題(四島の帰属の問題)を最終的に解決することにより平和条約を締結する」との合意を表明した。また「平和条約問題の双方に受入れ可能な解決策を作成する交渉を加速化させるとの指示を両国外務省に与える」ことで一致した<ref name=":8" />。
*(2014年 [[2014年クリミア危機|クリミア危機]]・[[ロシアによるクリミアの併合]])
*[[2016年]]
**12月:ロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領が訪日し、[[山口県]][[長門市]]で首脳会談を行った。両首脳は「北方四島において特別な制度の下で共同経済活動を行うための協議の開始」に合意するとともに、 「元島民らによる[[墓参り]]等のための手続きを改善する」ことで一致した<ref name=":8" /><ref>{{Cite web|和書|title=プーチン・ロシア大統領の訪日(結果)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page4_002600.html|website=外務省|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=外務省|date=2016-12-16}}</ref>。
* [[2018年]]
** 9月:プーチンは[[ウラジオストク]]での[[東方経済フォーラム]]で、安倍に「年末までに前提条件なしで[[平和条約]]を結ぼう」と提案し、領土問題の先送りを示唆した<ref name=":42">{{Cite news|title=北方領土「4島返還」封印、安倍氏の誤算 すれ違う日ロ|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-05-23|url=https://www.asahi.com/articles/ASP5N5HHGP4NUTFK00N.html|accessdate=2022-02-11}}</ref>。
** 11月:両国は[[シンガポール]]で首脳会談を行い、「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」ことで合意した<ref name=":8" />。
*** 安倍は日本が従来主張してきた「四島の返還」を求めることをやめ、「歯舞・色丹の2島の返還」へと要求を引き下げた<ref name=":42" />。
*[[2019年]]
**2月7日:日本は「[[北方領土の日]]」となる同日に毎年恒例の「北方領土返還要求全国大会」を[[東京都]]内で行ったが、登壇した[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]]は、通例であった'''「北方四島の帰属の問題を解決する」などという表現を行わなかった'''。さらに[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[河野太郎]]も前年に用いた'''「北方領土はわが国固有の領土だ」という表現を行わなかった'''。そして大会で採択されたアピールでも、通例であった'''「(北方領土がロシアに)不法に占拠され」という表現は行われなかった'''<ref name=":0">{{Cite news|title=「北方四島の帰属の問題」表現使わず 「不法占拠」も|newspaper=NHK|date=2019-02-17|url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/14016.html|accessdate=2021-08-14}}</ref>。
**同2月7日:ロシアの[[マスメディア]]は上記発言について、国営の[[RIAノーボスチ|ロシア通信]]が「東京で開かれた『北方領土』返還を求める大会で、(日本側が)'''『不法占拠』という表現を放棄した」「日本の大きな譲歩だ」'''などと報じた。また同じく国営の[[ロシアテレビ]]の東京[[特派員]]は「安倍総理大臣は厳しい表現を控えた。これまでは『不法占拠』や『四島返還』といったことばが必ず使われていたが、今回はなかった」と中継で伝えた<ref name=":0" />。
** 2月8日:日本の[[参議院議員]]の[[小西洋之]]<ref group="補足情報">当時[[無所属]]。のちに[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]所属。</ref>が、[[日本国政府|日本政府]]に対して「安倍内閣は『北方四島は日本固有の領土である』との表現による国会答弁をかたくなに拒否している。'''北方領土は日本の領土なのか'''」と質問を行った。政府は「ロシア政府との今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、'''お答えすることは差し控えたい'''」と答弁した。
*** 他の質問に対しては、政府は「交渉の対象は、北方四島の帰属の問題であるとの一貫した立場だ」と答弁した<ref>{{Cite news|title=北方四島は固有の領土か 「答え差し控えたい」答弁書|newspaper=NHK|date=2018-02-09|url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/14035.html|accessdate=2021-08-14}}</ref>。
**5月11日:北方領土への[[北方四島交流事業|ビザなし交流]]に参加していた[[日本の国会議員|衆議院議員]]の[[丸山穂高]]([[日本維新の会]])が、[[国後島]]の宿舎『[[日本人とロシア人の友好の家|友好の家]]』での[[懇談会]]の最中、元島民で訪問団長の大塚小弥太へ対して「ロシアと[[戦争]]で(北方領土を)取り返すのは賛成か反対か」と質問した。大塚は「戦争なんて言葉を使いたくない」と述べたが、なおも丸山は「戦争をしないと取り返せない」などと発言した<ref>{{Cite news|title=北方領土返還「戦争しないと」 維新・丸山議員が発言|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-05-23|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44739660T10C19A5CC1000/|accessdate=2022-02-11}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20210115143122/https://www.sankei.com/smp/politics/news/190513/plt1905130016-s1.html 「戦争で北方領土取り返す」酔って言及 元島民に維新・丸山議員]、産経ニュース 2019年5月13日付、2021年1月15日時点におけるアーカイブ</ref>。
***このとき丸山は[[酒|飲酒]]しており、訪問団員らの静止を聞かずに大声で騒いだほか、「これから外出して[[売春|女を買い]]に行く」などとも発言していた<ref name=":43">{{Cite news|title=戦争発言に加え「女を買いたい」…トンデモ発言連発の丸山穂高議員はなぜ辞職しないのか?|newspaper=[[FNN]]|date=2019-05-23|url=https://web.archive.org/web/20200424232809/https://www.fnn.jp/articles/-/1416|accessdate=2022-02-11}}</ref>。
***翌12日:丸山は団員らから謝罪を求められ、口頭で詫びた<ref name=":43" />。
***13日:[[連邦院 (ロシア)|ロシア上院]]の国際問題委員長のコサチョフは「最低だ。そうした発言をするのは問題の解決を望まない人物だけだ」と批判した<ref name=":44">{{Cite news|title=維新、丸山氏を除名 北方領土返還めぐり「戦争」発言|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-05-14|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44775240U9A510C1PP8000/?n_cid=DSREA001|accessdate=2022-02-11}}</ref>。
***14日:日本維新の会は丸山を[[除名]]処分にした。日本の[[内閣官房長官|官房長官]]の[[菅義偉]]は「誰が見ても不適切だ」と批判し、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[河野太郎]]も「このような発言、行動は決してプラスにならない」と批判した<ref name=":44" />。
**6月22日:大阪で開催される[[G20]]とそれに合わせ29日に行われる日露首脳会談に先駆けて、ロシアのプーチン大統領は国営放送のインタビューに'''「北方領土を日本に引き渡す計画はない」'''と答えた<ref>{{Cite web|和書|title=北方領土引き渡す計画なし=首脳会談前にけん制-ロシア大統領:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20190622171340/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019062200479&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2019-06-22|language=ja|publisher=時事通信社|date=2016-06-22|quote=ロシアのプーチン大統領はロシアが実効支配する北方領土について、日本側に引き渡す計画はないとの認識を示した。国営テレビが22日放映のインタビューの内容をサイトで公開した。
最近、取材で現地を訪れたという質問者が「子供たちはロシア国旗を掲げていた。(今後ロシア国旗を)降ろさざるを得ないということはないか」と聞くと、プーチン氏は「そのような計画はない」と応じた。}}</ref>。
**9月5日:ロシア・ウラジオストクで開催された『東方経済フォーラム』で、安倍が日本とロシアとの[[平和条約]]の締結を訴える演説を行った。
***その中で安倍は「ウラジーミル(プーチンの[[人名|ファーストネーム]])。君と僕は、同じ未来を見ている。」「ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」などと発言し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/0905eef.html |title=令和元年9月5日 東方経済フォーラム全体会合 安倍総理スピーチ |access-date=2022-05-10 |publisher=[[首相官邸]] |date=2019-09-05}}</ref>、物議を醸した<ref name=":46">{{Cite news|title=安倍首相の「信じて」にアル・カポネの名言でプーチン氏が反論|newspaper=[[産経新聞]]|date=2019-09-18|url=https://www.sankei.com/article/20190918-GS3SASWMQ5NYZC5NNISSFF5LTA/|author=小野田 雄一|access-date=2022-05-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「君と僕」が見たはずの「同じ未来」 安倍元首相のロシア戦略の挫折|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2022-03-23|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3Q6FV9Q3QUTFK013.html|access-date=2022-05-10|author=佐藤武嗣、野平悠一、岩尾真宏}}</ref>。
***一方でプーチンは否定的な見解を示し、「優しい言葉にピストルを添えれば、優しい言葉だけの場合よりもっと多くを得られる」などと発言した<ref name=":46" />。
*[[2020年]]
**2月7日:日本の東京で開催された『北方領土返還要求全国大会』で、北方四島について「不法に占拠されている」という表現が用いられなかった。前年に続いて2年連続での不採用となった<ref name=":2">{{Cite news|title=北方領土「法的根拠なく占拠」表現復活 返還大会アピール|newspaper=産経新聞|date=2021-02-07|url=https://www.sankei.com/article/20210207-X5BS4CSQTZIQHDVGPUPIMNAAOU/|accessdate=2021-08-14}}</ref>。
**7月4日:ロシア[[憲法改正|憲法の改正]]に伴い、同'''憲法に「ロシア領土の割譲を禁止」する内容が明記された'''。さらに同国の刑法も改正によって「領土割譲禁止に違反した者には最大10年の刑」「領土割譲を呼びかけた者にも最大4年の刑」が記載された<ref name=":1">{{Cite news|title=戦後最もロシアに友好的な安倍外交への回答は「北方領土の要塞化」だった 反政府指導者も「解決に現実味ない」|newspaper=PRESIDENT Online|date=2021-02-03|url=https://president.jp/articles/-/42927?page=1|accessdate=2021-08-14|author=名越健郎}}</ref>。これにより北方領土交渉は事実上完全無効化した。
***これに先立ち、7月2日に[[国後島]]に『憲法改正記念碑』が建立された。プーチン大統領は、「このテーマ(南クリルが完全なロシア領であるという事)が特に重要なロシアのある地域の住民が、鉄筋コンクリートで記念碑を設置した。記念碑は『改正憲法は鉄筋コンクリートのように堅固であるべきだ』との提案に沿ったものだ」と述べた<ref>{{Cite news|title=プーチン氏、領土割譲禁止の条文は「特に重要だ」…国後島に改憲の記念碑|newspaper=[[読売新聞]]|date=2020-07-04|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20200704-OYT1T50126/|accessdate=2021-09-13}}</ref>。
***同じく7月2日には、ロシア[[外務次官]]の[[イーゴリ・モルグロフ]]が「日本と島々に関する交渉はしていない」と述べた。
**9月3日:ロシアは「[[第二次世界大戦|第2次大戦]]終結の日」(事実上の[[対日戦勝記念日]])を記念する対日戦勝75周年式典を、北方四島の国後島、択捉島、また色丹島の3島で実施した<ref name=":1" />。
==== プーチン - [[菅義偉]]時代 ====
*2020年
**9月29日:日本の[[菅義偉]]首相とロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領が電話会談を行い、「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」ことを改めて合意した<ref name=":8" />。一方、同日にロシアは北方領土を含む地域で軍事演習を行った<ref name=":1" />。
**10月:ロシアは千島列島での軍事演習用の[[ミサイル]]システムの配備を計画していると述べた<ref name="rus-missiles" />。南クリル(北方四島)の防衛力強化のため、最新型の主力戦車T72B3の配備を開始した<ref name=":1" />。
**12月1日:[[ロシア国防省]]の[[:en:Zvezda (TV channel)|Zvezdaテレビ局]]は、ロシアが[[択捉島]]での戦闘任務のために[[:en:S-300VM missile system|S-300VMミサイルシステム]]のいくつかの重砲S-300V4バージョンを配備したと報告<ref name="rus-missiles" />。この射程は400 kmで、[[道東|北海道東部]]の上空も射程に収める<ref name=":1" />。[[択捉島]]にすでに短距離対空ミサイルシステムが配備されていたことも確認された<ref name="rus-missiles">{{cite web |title=Russia deploys advanced S-300 missiles to disputed islands near Japan |website=Reuters |date=December 1, 2020 |url=https://www.reuters.com/article/russia-japan-missiles/russia-deploys-advanced-s-300-missiles-to-disputed-islands-near-japan-idUSKBN28B5D3 |access-date=December 1, 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201201151909/https://www.reuters.com/article/russia-japan-missiles/russia-deploys-advanced-s-300-missiles-to-disputed-islands-near-japan-idUSKBN28B5D3 |archive-date=December 1, 2020}}</ref>。
*[[2021年]]
**1月20日:[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]に[[ジョー・バイデン]]が就任した。
***2021年時点では、「前任の[[ドナルド・トランプ]]とは異なり、バイデンはロシアに敵対的で、かつ日本などの同盟国と米国との結束を重視する。そのため日本とロシアとの交渉は難航化する可能性がある」といった推測<ref name=":1" />、「バイデンは対中国のためロシアに接近する」といったような推測があった<ref>[https://president.jp/articles/-/49041 「アメリカがロシアに急接近」中国を抑え込む「共通の敵」戦略のゆくえ 国際政治は嫁姑問題に似ている | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)]</ref>。
**2月:ロシアのプーチン大統領が「日本との関係は発展させたいが、'''ロシア憲法に違反することは何もするつもりはない'''。」と述べた。
***日本の著述家の[[亀山陽司]]は、「これは『ロシア領土の割譲を禁止』した条項を指している。この条項では例外規定として国境画定交渉を認めているが、この発言は、北方領土交渉は国境画定交渉ではない(つまり例外にはあたらず憲法違反である)ということを示唆している」と推測した<ref>{{Cite web|和書|title=北方領土交渉に日本のカードはあるか?(亀山陽司)|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/1527b9000a9851eb490fb5338daea9b46a7a3a92|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-08-14|language=ja|publisher=Yahoo! JAPAN|date=2021-06-30}}</ref>。
**2月7日:日本の東京で開催された「北方領土返還要求全国大会」で、北方四島について「法的根拠のないままに75年間占拠され続けている」と主張するアピールを採択した。2年間使われていなかった'''「不法占拠」という文言を事実上復活させた'''<ref name=":2" />。
**8月19日:1人の[[ロシア人]]男性が、四島の[[国後島]]から[[北海道]]本島へ海を泳いで渡航し、日本の当局に保護・拘束される事件が起こった<ref name=":38">{{Cite news|title=「国後から来た」なら「国内移動」 ロシア人男性処遇に日本政府苦慮 標津で保護1週間|newspaper=[[北海道新聞]]|date=2021-08-29|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/582551/|accessdate=2021-09-08}}</ref><ref name=":39">{{Cite news|title=「プーチン政権に嫌気」 難民認定申請のロシア人 国後から「23時間泳いだ」|newspaper=[[北海道新聞]]|date=2021-09-07|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/586716/|accessdate=2021-09-08}}</ref><ref name=":40">{{Cite news|title=国後島から“遠泳”ロシア人男性 「23時間泳いできた」|newspaper=[[北海道放送]]|date=2021-09-08|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/31115413d0469254da0ea206e6a4fe06144d057b|accessdate=2021-09-08|agency=Yahoo! ニュース|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210908184150/https://news.yahoo.co.jp/articles/31115413d0469254da0ea206e6a4fe06144d057b|archivedate=2021-09-08}}</ref>。
***男は国後島の[[泊村 (北海道根室振興局)|ゴロブニノ(泊村)]]近郊に在住する[[ワースフェニックス・ノカルド]](38歳)で、2017年にロシア中部の[[イジェフスク]]から国後島へ移住していた。ノカルドは「ロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]による強権的な政治へ反発し、外国への[[亡命]]を決意した。」などと述べ、日本へ「[[難民認定]]」を申請した<ref name=":38" /><ref name=":39" /><ref name=":41">{{Cite news|title=「ウエットスーツとシュノーケルを身に着け…」“泳いで来た”ロシア人男性の目的とは? 北海道札幌市|newspaper=[[北海道放送]]|date=2021-09-11|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/d2e744fba9a08e4a712636ce37e76ad1a12ee7d5|accessdate=2021-09-13|agency=[[Yahoo!]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210910170414/https://news.yahoo.co.jp/articles/d2e744fba9a08e4a712636ce37e76ad1a12ee7d5|archivedate=2021-09-10}}</ref>。詳細は[[ワースフェニックス・ノカルド|当該記事]]を参照。
==== プーチン - [[岸田文雄|岸田]]時代 ====
*[[2022年]]
**2月7日:アメリカ合衆国の[[特命全権大使|駐日大使]]である[[ラーム・エマニュエル]]が、「(アメリカは)北方四島に対する日本の[[主権]]を[[1950年代]]から認めている」「北方領土問題で日本を支持する」と話す動画を [[Twitter]]に投稿した<ref name=":45">{{Cite news|title=米大使「北方領土の日」に日本支持とロシア批判 ウクライナにも言及|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2022-02-07|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ277GBJQ27UHBI03F.html|accessdate=2022-02-11|author=森岡みづほ}}</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20220207-YHF26LCLJJMPLAPJKXUNXDGPEY/ 北方領土は「日本に主権」 駐日米大使がロシア批判] 産経新聞</ref>。
***同時に「ロシアによる他国の主権軽視は北方領土に限ったことではない」「北方領土、[[クリミア半島|クリミア]]、[[ウクライナ]]東部にいたるまで、[[侵略|侵略者]]が誰なのかは明らかだ」とロシアを批判した<ref name=":45" />。
**(2月24日 [[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナへの侵攻]])
**3月9日:プーチン大統領は、北方領土と千島列島に進出する国内外の企業を対象に、所得税などの各種税を原則的に20年間免除する事実上の「経済特区」とする法案に署名し、発効させた<ref>{{Cite news | title = 露、北方領土を「特区」指定 日露関係、さらに悪化へ | newspaper = [[産経新聞]] | date = 2022-03-09 | accessdate = 2022-03-10 | url = https://www.sankei.com/article/20220309-JUDHGKNXAZNP3M6PJAVADIRER4/}}</ref>。
== 詳細解説 ==
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍は赤軍極東戦線に降伏することが命令され、<!--(9月2日にすでに、千島の日本軍が赤軍に降伏することが決められている)千島についてもスターリンの要求によって赤軍に降伏することとなって、-->南樺太・千島はソ連の占領地区となった。
1952年の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、<!--(領土の放棄は、条約調印国のみとする説と、一般的であるとの説がある。一方の説のみを記載することは、中立的ではない。)連合国にたいし-->南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年の[[日ソ共同宣言]]により行われた。<!--(ソ連は既に全千島がソ連領であることを前提として交渉に臨んでいました。このため、日ソ間で領土交渉をすることは何の問題もないことでした。日本は、連合国に放棄した領土であるので、日本にはソ連に引き渡す交渉当時能力が無いとの主張がありました。交渉当時能力云々は、日本政府内部の話です。)ソ連側は、いったん連合軍に対し放棄した領土について日本の交渉当事者能力は認めたが、-->この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
1941年4月、日ソ間で[[日ソ中立条約]]が締結された。その2か月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、[[独ソ戦]]が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は[[関東軍特種演習]](関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。<!--(中立条約厳守に関して、一方的な見解です。連合国側の見解を加味した上で、以降の議論をお願いします)日本は大戦以前、[[日ソ中立条約]]を厳守しソ連には全く攻撃を加えていないので、日本がソ連に侵攻される理由もなく、戦後領土を割譲される理由もなかった。日本はポツダム宣言受け入れ後、日本固有の領土に戻ることに合意したが、ソ連による北方領土支配は、日本の帝国主義によって略奪された領土奪還と言う連合国の考えに明らかに反している。ヤルタ会談で仮に連合国との合意があるとはいえ、日ソ中立条約を一方的に破棄し日本固有の領土まで占領したことは、逆に日本への新たなる侵略と考えられる。-->
ソ連は[[スターリングラード攻防戦]]・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、[[1943年]]11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権に置かれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このときの合意は、1945年2月の[[ヤルタ協定]]に引き継がれた。
当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮した[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は米国の参戦要求を了承した
当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。
<!--(「この条約には調印しなかった」とあるけれど、ソ連は対日参戦後ポツダム宣言に参加しているので、誤った表現、あるいは、誤解を与える表現です。また、スターリンの北海道割譲論は、8月16日に現われているので、完全に、ソ連がポツダム宣言に参加したあとの話でしょう。さらにまた、「日本の領土とすべきであった」とありますが、日本政府やロシアの見解を考慮に入れた、中立的で正しい記述に書き換えてください。)ソ連はポツダム宣言受諾の2日前に参戦し、ほとんど被害を被らずに南樺太や千島を獲得できる内容であったためソ連にとっては良い条件であったが、北海道の割譲も目論んでいたソ連はアメリカ主導のこの条約には調印しなかった。日本はサンフランシスコ条約において南樺太と千島を放棄したが、カイロ宣言やポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約が日本の[[帝国主義]]の拡大政策による植民地支配を放棄させるという考えに基づいているのであれば、[[日露戦争]]時、帝国主義のぶつかり合いで獲得した南樺太(→[[ポーツマス条約]])は放棄の対象とならないはずであり、ましてやそれ以前に平和裏に締結された[[樺太・千島交換条約]]における千島は本来日本の領土とすべきであった。-->[[1945年]]ドイツ敗北の3か月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて[[満州]]に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、赤軍に対し降伏すると取り決められていた。翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、赤軍は瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。<!--(誤った記述です。日本軍から捕獲した武器は、八路軍・国民党軍に共に渡っています。さらに、満州進駐期間が短かったので、これが、八路軍勝利の主たる要因とする解釈には無理があります。) 満州を占領下においた赤軍は、そこで[[中国共産党]]の[[八路軍]]を訓練し、日本から捕獲した武器を八路軍に引き渡し、これによって中国共産軍は強大に膨れ上がり、1949年の[[中華人民共和国]]建国への決定的な手がかりをつかむ。-->
一方、南樺太では、8月11日、中立条約を侵犯し<ref name="ReferenceA">第84回参議院商工委員会17号昭和53年05月30日外務省条約局外務参事官村田良平</ref>{{出典無効|date=2017-05-20}}、日本に侵攻した赤軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・[[大泊町|大泊]]港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。1946年[[1月29日]]、[[SCAPIN|GHQ指令第677号]]により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され、同2月2日に併合措置(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。
サハリン島南部及びクリル諸島の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言。これはヤルタ協定に基づくものの条約によらない一方的行政行為(一方的宣言)であり当該領域についての最終帰属に関する問題が発生する。1946年2月11日に米国とともにヤルタ密約の存在について公表。
千島列島に関する条文案は紆余曲折<ref group="補足情報">
*1947年3月草案 - 「日本国はここにカムチャッカ半島と北海道の間に連なる千島列島に対する全主権をソビエト連邦に割譲する。」
*1947年7月草案 - 「(第一条)日本の領土範囲は、1894年1月1日現在のそれとするが、第三条及び五条で定めた修正を施すものとする。(略)その範囲には、主要四島である本州、九州、四国、北海道、並びに瀬戸内海の諸島、千島列島内の国後及び択捉、琉球諸島(略)を含むすべての沖合小諸島が入るものとする」「(第三条)日本国はここに、1875年の条約によりロシアから日本に割譲されたウルップからシュムシュまでを含んだ全ての諸島から成る、択捉海峡の北東にある全ての千島列島に対する全主権を、ソビエト連邦に割譲する。」
*1947年8月草案 - 「日本国はここに、1875年の条約によりロシアから日本に割譲されたウルップからシュムシュまでを含んだ択捉海峡北東の島々から成る千島列島に対する全主権をソビエト連邦に割譲する。」
*1948年1月草案 - 「日本国はここに、千島列島に対する全主権をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」「(注として、)全千島ないしは千島南端部(国後及び択捉)、歯舞及び色丹の日本による保持に向けた条項を9草案中に設けるかどうかはいまだ検討中である。法的には、日本による歯舞、色丹保持の立場のほうが、千島南端部分保持の立場よりも強いと考えられる」
*1949年9月及び10月草案 - 「日本の領土的範囲は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道、並びに瀬戸内海の島々、佐渡、隠岐列島、択捉、国後、歯舞諸島、色丹、対馬、五島列島、北緯29度以北の琉球諸島、及び孀婦岩までの伊豆諸島を含む、すべての隣接小諸島から成る。」「(10月草案の注)注一、もしソ連が調印しないなら、条約は、第三条に記載された領土を日本が割譲するという条項を含むべきではなく、これらの領土の地位は現条約の当事国を含む関係国により後に決定されるとの規定を設けるべきだえる、というのが合衆国の立場である。」
*1949年11月草案 - 「(注として、)択捉。国後、及び小千島(歯舞と色丹)の日本における保持を、合衆国が提案すべきか否かという決定は今だ最終的になされていない。現時点での考え方は合衆国はこの問題を提起すべきではないが、もし日本によって提起されたなら、我々は同情的態度を示すかもしれないということである。ソ連が千島列島を信託統治制度の下に置くように合衆国が提案した方がよいかどうか、という問題もまだ考察されるべきである。」
*1949年12月草案 - 「(第三条)日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国、北海道(略)並びに瀬戸内海の島々、対馬、竹島、隠岐諸島、(瑠役)及び歯舞諸島と色丹を含む、全ての隣接小諸島からなる。」「(第五条)日本国はここに千島列島に対する全主権をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」
*1951年3月草案 - 「日本はソビエト社会主義共和国連邦に対し、南樺太とそれに隣接する全ての諸島を変換し、二カ国間協定、或は本条約第十七条に従った司法的決定により定義される千島列島を引き渡す。」
*1951年5月草案 - 「日本国は千島列島及び、日本がかつて主権を行使した南樺太と近隣諸島をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」
*1951年6月草案 - 「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに隣接した諸島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する。」</ref>を経て、1951年9月に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が締結され1952年に発効されたことにより、日本は独立を回復したものの、同条約に従って、<!--(領土の放棄は、条約調印国のみとする説と、一般的であるとの説がある。一方の説のみを記載することは、中立的ではない。)連合国に対し-->南樺太・千島列島の領有権を放棄することになった。<!--(誤った記述です。「この条約に調印しない国」は、ソ連だけをさすわけでは有りません。また、南樺太と千島列島のソ連への割譲することを決定する権限が、日本に無いとの解釈は成り立ちますが、ソ連への割譲自体が禁止されているわけではありません)ただし、同条約25条で、この条約に調印しない国(具体的にソ連をさす)に対し、調印国がその損害を蒙るような便益を供与してはならないという趣旨の規定があり、南樺太と千島列島のソ連への割譲は、サンフランシスコ平和条約によって間接的表現ながら禁止されている。-->条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。
この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることもなかった。
[[1952年]][[3月20日]]に[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国上院|上院]]は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権限及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行った。
この米上院の決議の趣旨は、サンフランシスコ講和条約第25条として明示的に盛り込まれている。米国上院のこの決議<ref group="補足情報">米国の条約批准は上院の専権であり下院は参加しない。詳しくは[[批准]]を参照。</ref>はサンフランシスコ条約批准に際する[[条約|解釈宣言]]であり有効である。但し外交交渉そのものの権限は大統領府にあり議会にあるわけでは無いので、当条約を批准した以降に大統領府がおこなう別の外交交渉を直接拘束する訳ではない。また他の参加・批准国を直接拘束するものではない(他の批准国はサンフランシスコ講和条約により直接的に拘束されている)。
ソ連はサンフランシスコ講和条約への調印を拒否したため、国交回復は[[1956年]]の[[日ソ共同宣言]]まで持ち越された。このとき、日ソ間では歯舞群島・色丹島の「譲渡」で合意しようとする機運が生まれたが、日本側が択捉島・国後島を含む四島一括返還を主張したため交渉は頓挫した。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。<!-- こういったことから、和人のソ連(ロシア)に対する不信感がかきたてられている。--><!--沖縄の基地は日米米安保条約に従って占有しているのであり、日本との間に問題はおきていません。また、沖縄の主要部分を含む大半を返還しており、基地として占有しているのは山間部がほとんどです。ロシアに対する不信感はもちろん和人から見た不法占拠状態を意味しており、日本の施政権がないという意味でのアメリカの返還政策との対比です。-->
日本政府は1997年<!--12月27日-->に在ハバロフスク総領事館サハリン出張駐在官事務所を開所し、2001年には[[サハリン州]][[ユジノサハリンスク]]に総領事館を設置した<ref>第132回衆議院外務委員会7号(平成7年3月10日)、沖縄及び北方問題に関する特別委員会6号(平成7年5月31日)などには、サハリン州への領事館設置について、当時の[[河野洋平]]外務大臣に対する[[鈴木宗男]]議員の強い要請が見られる。</ref><ref>第136回衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会4号(平成8年6月13日)では、鈴木の強い要望に対し、[[池田行彦]]外務大臣「北方領土につきましては、私どもは我が国の固有の領土と考えておりますから、その地域に対するロシアの行政的な管轄権その他についてこれを認めるということはできませんけれども、今委員ご指摘のサハリンにつきましては、これは人的、経済的な交流も大分高まってきております」と答弁がある。</ref>。
総領事館の設置に際してはロシア政府と交換公文や往復書簡を交わしロシアの同意を得ており、総領事の配置にも[[アグレマン|同意(アグレマン)]]を得ているが、日本政府としては南樺太の最終的な帰属先は未定であるとの立場であり<ref>第171衆議院予算委員会20号(平成21年2月25日)谷崎政府参考人</ref>、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとしている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/topic.html 北方領土問題に関するQ&A(関連質問)]</ref>。<!--しかし、南樺太がロシア領であることを外務省のホームページで公言する日本の外務官僚も見受けられる<ref>[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/press/iken/03/souryouji/yuzhno03.html 総領事館ほっとライン 第3回 ユジノサハリンスク 日本に一番近い外国は「ロシア」] この寄稿の中で、ユジノサハリンスク総領事を務めたとこがある黒田義久は「北海道とほぼ同じ面積を持つサハリンは、日本に最も近い外国であり…」と記している。同地域の帰属は未確定とする日本政府(外務省)の公式見解とは異なる。</ref>。→当面の[[実効支配]]の事実を認めることと最終的な帰属は未確定とすることは矛盾しないのでは。-->
[[鈴木宗男]]は南樺太についての政府解釈は難しいだろうと指摘したうえで北方領土の帰属は日本であると確認をしている<ref>第171衆議院予算委員会20号(平成21年2月25日)</ref>。[[近藤昭一]]は総領事館設置を既成事実として南樺太の帰属問題を解釈する危うさを指摘し、日本がロシアに対して依然南樺太の領有権を主張しうるとする説や、日本が領有権を主張し得ないと同様に[[日本国との平和条約|対日平和条約]]の当事国でないソ連もこの条約に基づいて南樺太・千島列島の領有権を主張できないとする説に言及する<ref>第171回衆議院外務委員会2号(平成21年3月13日)</ref>。
=== カイロ宣言 ===
:和訳原文(抜粋)
{{quotation|
三大同盟國ハ日本國ノ侵掠ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ淸國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ}}
:現代文
{{quotation|
三大同盟国(米・英・中)は、日本の侵略を制止し、日本を罰するために戦争をしている。右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領土拡張の考えがあるわけではない。
[[1943年]]、太平洋戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談を行った。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であり、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。
一方で、ソ連が後に参加した1945年の[[ポツダム宣言]]では日本の主権範囲について「カイロ宣言の条項は履行されるべき」の文言があり、カイロ宣言についてソ連に対して間接的に影響を及ぼしている。
=== ポツダム宣言 ===
:和訳原文(抜粋)
{{quotation|
ポツダム宣言 八 [[カイロ宣言|「カイロ」宣言]]ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、'''北海道'''、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ}}
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=== ソ連の対日参戦 ===
* 8月
* '''8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ
* 8月11日 ソ連、中立条約を侵犯し<ref
* '''8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定。在スイス加瀬公使、在スウェーデン岡本公使を通じ、米・英・ソ・中に、ポツダム宣言の無条件受諾を通告する。'''
* '''8月15日 日本国民に向けて[[玉音放送]]。'''
* 8月18日
* 8月25日 南樺太を占領。
* 8月28日
* '''9月
* 9月
南樺太と千島列島のソ連軍占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」に従って行われた。トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏すると記載されてなかったため、スターリンは[[ヤルタ協定]]に基づき、赤軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。
翌1946年1月、連合軍最高司令官訓令[[SCAPIN]]第677号により、日本政府は、[[琉球諸島|琉球]]・[[千島]]・[[歯舞群島]]・[[色丹島]]・[[南樺太]]などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国(厳密には[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]])の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
=== サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約) ===
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第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
: 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日の[[ポーツマス条約]]の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。}}
''日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。''条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、アメリカ全権の[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]は歯舞群島は千島に含まないとするのが合衆国の見解とし、連合国内で合意をみない旧日本領土の最終処分については22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができるとした<ref>「アメリカ全権の演説」1951年9月5日ジョン・フォスター・ダレス
国内では、サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて[[島津久大]]政務局長が<ref name="kokkai19500308">[
その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。日本政府は1964年に国後・択捉に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用することを決定した<ref>[https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001205333914112 「国境の海」とナショナリズム──日ソ間昆布採取協定と高碕達之助 村上友章]</ref><ref>[https://sputniknews.jp/20150928/965347.html 「北方領土」または南クリルにおける国境線画定の問題によせて 上野俊彦]</ref>。
以上の経緯から、日本政府は一度は主権を放棄した国後・択捉について返還を求めることについては「復活折衝」と表現する者もいる。
この条約では日本が放棄した旧領土の帰属先については意図的に除外されており、ソビエト全権の[[アンドレイ・グロムイコ|グロムイコ]]はこの英米案からなる講和条約案を非難している<ref>「ソビエト全権の演説」エー・エー・グロムイコ P.426{{PDFlink|[http://www.junposha.com/library/pdf/60008_12.pdf]}} PDF-P.33(旬報社デジタルライブラリ)。同演説では、西側諸国が極東委員会の当初の方針であった日本の非武装・非軍事化を方向転換し、朝鮮半島の兵站基地としていることを指摘し糾弾している。</ref>。これはすでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐([[朝鮮戦争]]、あるいは[[封じ込め|封じ込め政策]])の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためで、ソビエトは米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での[[実効支配]]についても非難している<ref>「対日講和条約に関するソビエト政府の対米覚書」{{PDFlink|[http://www.junposha.com/library/pdf/60008_13.pdf]}}(旬報社デジタルライブラリ)</ref>。
また、第二条(c)のほかに、北方領土問題に関する条文として、第二十五条と第二十六条が存在する。
現在、サンフランシスコ講和条約においては以下の条文を適用することによりロシア(旧ソ連)による南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権は否定されているというのが、この条約を批准した日本など46カ国の立場である。
{{Quotation|
第七章 最終条項 第二十五条 (和訳原文)
: この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。}}
つまり、ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印・批准していないのでこの条約上の連合国には該当せず、当該条約はそのような国に対していかなる権利、権原又は利益も与えられてはおらず、すなわち、日本が放棄した千島列島や南樺太をロシアが領有することは認めないということである
さらに、日本がこの条約に違反した場合の罰則も規定されている。
231 ⟶ 744行目:
: 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。 }}
アメリカは、日本がソ連との間で色丹・歯舞の二島「譲渡」で妥協しようとした際、上記の条文を根拠として、沖縄の返還に難色を示した
=== 日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言 ===
{{Quotation|
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9
: 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。}}
[[1955年]]6月、[[松本俊一]]を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日
1956年7月、[[重光葵]]外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで
1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた[[鳩山一郎]]首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆる[[シベリア抑留]]未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。鳩山訪ソに先立ち松本俊一が訪ソし1956年9月29日にグロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交わした。
同10月12日に鳩山首相が訪ソ、[[ニコライ・ブルガーニン|ブルガーニン]]首相らと会談。実質的交渉は[[河野一郎]]農相と[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]党第一書記との間で行われた。日本側は歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張したが、フルシチョフは歯舞・色丹は書いてよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張した。18日午後の会談で、河野が提示した案文に対しフルシチョフは平和条約締結交渉の継続を意味する「領土問題を含む」との字句を削除したいと述べ、河野はソ連側からの案文をそのまま採用したものだとして
=== 領土問題の交渉過程 ===
{{出典の明記|date=2017年5月|section=1}}
[[1956年]]の[[日ソ共同宣言]]では歯舞
1973年10月に[[田中角栄]]首相と[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]][[ソビエト連邦共産党書記長|共産党書記長]]との会談を経て、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明を根拠に
[[1991年]]4月に[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦大統領|大統領]]が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。[[ソビエト連邦の崩壊]]後の1992年3月に東京
1998年4月、日露首脳会談で日本側は「択捉島とウルップ島の間に、国境線を引くことを平和条約で合意し、政府間合意までの間はロシアの四島における施政権を合法と認める案」を非公式に提案(川奈提案)。1998年11月、日露首脳会談でロシア側は「国境線確定を先送りして平和友好協力条約を先に結び、別途条約で国境線に関する条約を結ぶ案」が非公式に提案された(モスクワ提案)。2001年3月、日露首脳会談で日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、1993年の東京宣言に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することを明記した文書に両首脳が合意した(イルクーツク声明)。
日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。
[[2005年]][[11月21日]]の未明に、訪日した[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領と[[小泉純一郎]]首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。また、ロシア側も、[[原油価格]]の高騰による成長で、ソビエト崩壊直後のような経済支援や投資促進のカードを必要としなくなりつつあり、また[[ラトビア]]、[[エストニア]]などソ連併合時に国境を変更させられた両国との国境問題とも絡み合い、北方領土問題の解決を複雑にしている。
[[2009年]][[2月18日]]サハリンでロシアの[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]大統領と日本の[[麻生太郎]]総理大臣が会談し、領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出すことで一致した<ref>[
[[2020年]]12月、プーチンは領土割譲呼び掛けなどの行為を処罰する刑法改正案に署名しこの条項は8日付けで発効した。最高刑は10年の懲役<ref name="mainichi">[https://mainichi.jp/articles/20201209/k00/00m/010/058000c ロシア、北方領土視野に刑法改正 割譲行為呼び掛けに懲役10年] 毎日新聞2020年12月9日</ref>。
=== 北方領土に関する日露の枠組み ===
270 ⟶ 784行目:
戦後になると、北方領土を実効支配したソ連が、周辺海域で操業する日本の漁船を領海侵犯等の理由で取り締まるようになった。
日本政府は上述のトラブルを避けて、北方
1963年に発効した「日ソ貝殻島昆布採取協定」(日ロ貝殻島昆布採取協定)は民間協定という形で、歯舞群島の貝殻島付近において、日本の漁業者が昆布漁をできるようにする取り決めで、北海道水産会という民間団体とソ連(ロシア)の関係当局とが毎年話し合って収穫できる昆布の量を決め、採取権料をソ連(ロシア)側に支払って漁を行う内容になっている。
日ソが200[[海里]]漁業水域を設定したことに伴い、それぞれ相手国200海里水域内で行う漁業についての交渉が行われ、1978年に日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定が同年12月に締結され、発
1985年に発効した日ソ地先沖合漁業協定(日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の両国の地先沖合における漁業の分野の相互の関係に関する協定)は、日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定
これらの協定は、1991年12月以降、国家としてソ連を引き継いだロシア連邦との間で引き続き有効である。
1998年には、北方四島の12海里水域(領海)における日本漁船の安全操業の枠組みを定める「日本国政府とロシア連邦政府との間の海洋生物資源についての操業の分野における協力の若干の事項に関する協定」(北方四島周辺水域における日本漁船の操業枠組み協定)が発効された。北方
2015年6月にロシアで排他的経済水域内でのサケ・マスの流し網漁を全面的に禁止する法案を可決し、2016年から施行されたが、北方領土におけるロシアの排他的経済水域内の漁業において流し網漁に依存する日本漁船に大きな影響が出ると見られている<ref>名越健郎「北方領土の謎」(海竜社)101頁</ref>。
{{See also|北洋漁業}}
[[File:A tour to visit graves in Suisyou-jima, Habomai.jpg|thumb|墓参の様子。[[水晶島]]・秋味場(あきあじば)の墓地にて2008年8月撮影。]]
1964年から、元島民及びその親族による北方領土にある先祖の墓所への参拝が人道的観点から断続的に実施されている。当初は簡単な証明書で渡航出来ていたが、ソ連側から[[旅券]]の携行を強く要求されたため1976年に一旦中断。10年後の1986年に口上書が交換され、再び簡単な証明書での墓参が実現した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/hoppo/henkan/12.html |title=北方領土墓参|accessdate=2019-03-28 |website=[[内閣府]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20120702082310/http://www8.cao.go.jp:80/hoppo/henkan/12.html |archive-date=2012-07-02 |url-status=dead |url-status-date=2024-09-23}}</ref>。また、日本国民の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対する[[北方四島交流事業|ビザなし渡航]]が1991年の日ソ首脳会談で提案され、1992年4月から実施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/index_4to.html |title=北方四島への渡航に関する枠組み |accessdate=2019-03-28 |website=[[外務省]]}}</ref>。
1991年12月のソ連崩壊に伴って、ロシアを含む旧ソ連諸国と日本とで1993年に「支援委員会の設置に関する協定」が締結・発効された。支援委員会は旧ソ連諸国の市場経済への移行を促進するメカニズムとして設置され、ロシアが実効支配する北方四島においては市場経済への移行を促進するためとして北方四島の診療所や発電所や緊急避難所兼宿泊施設に支出された<ref>[https://report.jbaudit.go.jp/org/h13/2001-h13-0106-0.htm 国際機関等に対する拠出金等について、支出先における適切な事業運営が確保され、拠出金等の効率的使用等が図られるよう改善の意見を表示したもの] - 会計検査院HP</ref>。2002年の[[鈴木宗男事件]]発覚により、支援委員会の不透明さが問題視されて廃止された。
また、日本政府は北方四島の地区病院への医療器具や薬品の提供、北方四島の医師・看護師等の研修受け入れ、北方四島の患者の北海道の病院受け入れ<ref group="補足情報">名越健郎「北方領土の謎」(海竜社)145頁によると、北方四島の患者について日本の関係者の言葉として「三週間程度で治療が済み、再発しない疾患に限る。領土問題の環境整備に繋がり得る家庭の子弟が望ましい」としている。</ref>という形で北方四島へ医療支援をしている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/jyumin.html 北方四島住民支援事業] 外務省HP</ref>。
== 北方領土の現状 ==
=== 日本の行政区分下の北方領土 ===
[[ファイル:etorofu.png|300px|thumb|right|[[留別村]]を本籍地とした運転免許証。]]
北方領土四島には[[千島国]]に属する[[色丹村]]・[[泊村 (北海道根室振興局)|泊村]]・[[留夜別村]]・[[留別村]]・[[紗那村]]・[[蘂取村]]
1983年4月1日
'''日本側の行政区分の一覧'''
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====周辺海域====
[[海上保安庁]]が開示している「日本の領海等概念図」では、北方領土四島全てが[[領海]]に含まれている<ref>[
[[日本小型船舶検査機構]]が提供する[[航行区域]]の水域図では北方領土四島周辺にも、小型漁船であれば船舶検査が不要となる12海里のラインが示されており<ref>{{PDFlink|[http://www.jci.go.jp/12miles/pdf/130006012.pdf 本邦の海岸から12海里以内の水域図(小型漁船)]}}- [[日本小型船舶検査機構]]</ref>、東沸湖などの湖には二級[[小型船舶操縦士]]を取得すれば航行可能な平水区域の設定も確認できる<ref>{{PDFlink|[http://www.jci.go.jp/areamap/pdf_etc/heisui_02.pdf 平水及び沿岸区域図]}} - [[日本小型船舶検査機構]]</ref>。
=== ロシアの行政区分下の北方領土 ===
現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分では[[サハリン州]]に属している。国後、択捉、色丹島の現人口は合計約1万7000人で、これはソ連侵攻時に住んでいた日本人とほぼ同規模という。歯舞群島には[[ロシア国境警備隊]]のみが駐屯している<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20161217/ddm/002/070/127000c|title=【質問なるほドリ】北方領土 今の様子は?=国後、択捉、色丹に1万7000人居住|work=|publisher=[[毎日新聞]]朝刊|date=2016年12月17日}}</ref>。
ロシアは2014年、択捉島に[[イトゥルップ空港]]を整備、2017年色丹島に経済特区を設置する<ref>[https://www.sankei.com/article/20170823-KOCIMVEDMVOAFCOWVEBRMD7XIU/ 北方領土の色丹島にロシアが経済特区を指定 共同経済活動に影響か] - 産経新聞、2017年8月23日</ref>など、実効支配を強めている。
サハリン州は開発が遅れたために、[[カニ]]や[[ウニ]]などの[[魚介類]]を始め、[[ラッコ]]や[[シマフクロウ]]など、北海道本島を 現在、一部の[[環境保護団体]]の間には北方領土を含む千島一帯の[[世界遺産]]登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な[[生態系]]が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人々もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている[[知床 (世界遺産)|知床]]とともに、日露両国が共同でひとつの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。しかし、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ[[土地]][[所有権]]や[[漁業権]]をどうするのかについて不透明であるために、何らかの[[特別法]]制定が必要となる可能性がある。
[[北方四島交流事業]]を除くと、日本人が北方四島を訪問するにはロシアの[[査証]]を取得しなければならない。ロシアの査証取得後、[[稚内港]]または[[新千歳空港]]、あるいは[[函館空港]]からサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで北方四島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。
{{北方領土におけるロシア側の行政区分}}
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ロシア側が北方領土を固有の領土とし、領土問題を否定する理由については、以下の要因があげられる。
日本政府ならびに外務省は、ロシア連邦国内の一般国民レベルでは、北方領土問題の存在自体があまり知られておらず、これを踏まえてロシア政府ならびに識者が、ロシアの北方四島領有は国民によって支持されていると主張している、と述べている。だが、実際にはロシア国内の学校では、ロシアの北方四島領有は[[第二次世界大戦]]の結果承認された正当な
また、[[オホーツク海]]には[[潜水艦発射弾道ミサイル]]搭載型潜水艦([[SSBN]])が配備されており、ロシアの[[核抑止]]力維持のため戦略的に重要な位置づけにある<ref>[http://newsphere.jp/world-report/20160502-2/ 「ロシアが北方領土を絶対に手放さない理由 「要塞」内へのアメリカの侵入は断固阻止」] NewSphere2016年5月2日</ref>。地政学的または軍事的見解に
</ref><ref group="補足情報">{{Cquote|運輸省「サハリン管区」連邦総局長?M.エゴロフは、報告書のなかで次のような強い警告を発している。日本の領土要求に譲歩した場合、ロシアはフリザ海峡とエカチェリーナ海峡(それぞれ択捉海峡と国後水道)という凍結することのない海を失うことになる。つまりそれはロシアが太平洋へと自由に抜ける出口を失うということである。日本が通行に金銭的な対価を求めるか、通行そのものに制限を設けることは間違いない。|<!-- リンク切れなのでruwpから-->}}</ref>。
北方領土には、石油に換算しておよそ3億
サンフランシスコ講和条約に対しても、ロシア側の主張は日本側のものとはかなり食い違っている。当時のソ連側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中華民国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの[[枢軸国]]とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。[[ヤルタ会談]]で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されて
ロシアはかねてから、日露平和条約締結により
以前の日本側には「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があり、[[鈴木宗男]]失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切って困窮させるという、返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。事実、[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。結果、かつて無人島であった色丹島・歯舞群島には近年になって移住者および定住者の存在が確認されており、ロシア側の主張する二島「譲渡」論も困難な状況となっていった。
近年では、ロシア政府は「北方領土」という領土問題自体が存在しない、といういわゆる領土問題非存在論にシフトしつつあり、2010年11月には二島「譲渡」論ならびにその根拠となっている日ソ共同宣言を疑問視する見解が外相から出されている。[[2018年]]には、ロシア国内世論において「南クリル(北方領土)はロシアの領土である」という意見が多数を占めるようになった。このため「南クリルの帰属を巡り日本に交渉の必要性が無いことを理解させるべきだ」「既に解決済みなので四島一括返還はおろか二島譲渡にも応じてはならない」と、島の引き渡しを完全否定する意見がロシア国内で支配的になっており、択捉・国後両島のロシア人住民による抗議活動が頻繁に起こっている。ロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているが、いずれも文化的・経済的なものに限られており、その認識にしてもあまり深いものではない。また、「文化交流と領土問題解決は別問題」として、日本が領土問題ならびにロシア政府に対して大きな誤解をしている、という認識が広まっている。[[サハリン州]]では日本に対する関心が深いが、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。
=== 日本の北方領土の意義 ===
=== 北方領土問題についてのロシアの姿勢 ===
2000年以降のロシアの北方領土問題への対応について列記する。
* 2006年8月16日 - [[第31吉進丸事件]]。
*2010年2月9日 - ロシア外務省が「北方領土返還大会」に不快感を表明。
*2010年7月 - ロシア軍の択捉島における大規模軍事演習。
*2010年7月 - ロシア議会でロシア対日戦勝記念日法案の成立。
*2010年11月1日 - ロシアの大統領[[ドミートリー・メド
*2011年5月 - 副首相 [[セルゲイ・イワノフ]]が択捉島を訪問。
*2011年5月 - 3人の韓国国会議員の国後島訪問。
*2011年9月11日 - 安全保障会議書記[[ニコライ・パトルシェフ]]が、国後島と歯舞群島の水晶島を訪問。
*2012年1月26日 - 外相[[セルゲイ・ラブロフ]]、インタビューで「
*2016年11月22日 - 日露首脳会談に先立ち新型[[対艦ミサイル]]を配備<ref name="「ロシアが北方領土に最新鋭ミサイルを配備 領土交渉への影響は」">[
*2016年12月15日 - [[安倍晋三]]首相と[[ウラジーミル・プーチン]]大統領が[[長門市]]で会談し、北方領土での共同経済活動に向けた協議
*2017年2月8日 - ロシアの[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドベージェフ首相]]が2017年2月8日に署名した政府令によれば、[[歯舞群島]]の[[秋勇留島]]近くと[[色丹島]]近くの
* 2017年2月22日 - 年内に
* 2018年9月10日 - 両首脳は北方四島における共同経済活動について、5件のプロジェクト候補の実施に向けた「ロードマップ」を承認した: ア)海産物の共同増養殖:ウニを含め複数の魚種を対象とし、ウニ以外の魚種についても議論を継続; イ)温室野菜栽培:いちごの品種及び実施場所を特定; ウ)島の特性に応じたツアーの開発:パッケージツアーを策定; エ)風力発電の導入:風況調査の場所を確定; オ)ゴミの減容対策:ゴミ減容のパイロット・プロジェクトの実施場所を確定。安倍から、こうした協力を積み重ねていくこととともにさらなる改善を働きかけ、手続の簡素化を続けることでプーチンと一致した。
*2020年12月8日、領土割譲を呼び掛ける行為を刑事処分の対象とする改正刑法が発効<ref name="mainichi"/>。
==== 択捉島のロシア空港建設 ====
2014年、択捉島の中央部に民間空港として[[ヤースヌイ空港]]が開港した。滑走路の全長は約2,300 [[メートル|m]]で、サハリン・[[ユジノサハリンスク]]との間で定期便が運航されている。一方、空軍は旧日本軍が建設した空港を使用している。
2018年1月30日、メドベージェフ首相は、ロシア空軍がヤースヌイ空港を基地としても使用する軍民共用化を許可する政令に署名した<ref>[https://web.archive.org/web/20180202190806/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180202/k10011313451000.html?utm_int=news_contents_news-genre-new_001 「北方領土 択捉島の空港をロシアが軍民共用化」NHKニュース、2018年2月2日]</ref>。
==== 国後島、択捉島におけるロシアによるミサイル及び師団の配備 ====
[[2016年]][[11月22日]]、[[ロシア海軍]][[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]機関紙『ヴォエバヤ・ヴァーフタ』は、択捉島に[[3K96 リドゥート]]に代わる[[対艦ミサイル]][[P-800 (ミサイル)|P-800]]地上発射型「バスチオン」を配備したこと、および従来対艦ミサイル配備のなかった国後島に[[Kh-35 (ミサイル)|Kh-35]][[地対艦ミサイル]]型3K60バルの移送がなされたことを明らかにした<ref name="「ロシアが北方領土に最新鋭ミサイルを配備 領土交渉への影響は」"/><ref name="「ロシア、北方領土に新型ミサイル配備 」"/>。
2017年2月22日には、[[セルゲイ・ショイグ]][[国防相]]により、[[千島列島|クリル諸島]]に同年内に5,000人規模の[[師団]]が新たに配備される計画になっていることが明らかにされ、日本政府側から懸念が出された<ref name="北方領土に新師団方針 日本政府は反発"/>。
2020年にも択捉島と国後島に地対空ミサイルS300V4が配備されたが、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]後の2023年8月、衛星画像の分析から地対空ミサイルS300V4は島外に搬出されており、本土に再配備された模様と報じられた<ref>「[https://www.47news.jp/9798645.html 北方領土からミサイル搬出と分析 ロシア軍、ウクライナ戦に転用か]」47news 共同通信 2023年8月31日</ref>。
==== 択捉島、国後島、色丹島における中国企業による高速ネット網の整備 ====
[[2019年]][[2月26日]]、ロシアの国営通信会社[[ロステレコム]]はサハリンと択捉島、国後島、色丹島を結ぶ高速インターネット網が開通したと発表<ref>{{cite news
| url = https://jp.reuters.com/article/ru-internet-idJPKCN1QF309/
| title = ロシア、北方領土の3島に高速インターネット網構築
| newspaper = [[ロイター]]
| date = 2019-02-27
| accessdate = 2019-03-02
}}</ref>。海底の光ファイバーケーブルは[[中華人民共和国|中国]]の[[ファーウェイ]]が敷設しており<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190227/k10011829351000.html|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|author=|title=ロシア 北方領土に光回線整備 ファーウェイも敷設に協力|date=2019-02-27|accessdate=2019-02-28}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO4179183026022019PP8000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=ロ高官、異例の色丹島訪問 |date=2019-02-26|accessdate=2019-02-28}}</ref>、2018年6月に着工した際は日本政府はこれに抗議して、[[菅義偉]]官房長官は「ロシアと中国に外交ルートを通じて抗議した。中国に抗議したのは、工事に中国企業が参加しているからだ」と述べた<ref>{{cite news|url=http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2018-06/12/content_52063830.htm|publisher=[[中国網]]|author=|title=北方四島に光ファイバーを敷設ロシア 日本が抗議|date=2018-06-12|accessdate=2019-03-02}}</ref>。
== 第三国の姿勢 ==
=== アメリカ合衆国 ===
米国政府は1950年代以降、日本を支持している。1953年に共和党のアイゼンハワー大統領が年頭教書演説で「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言し、1956年には「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効」との国務省声明を発表し、具体的にソ連の北方領土占有に法的根拠がないとの立場を表明した<ref name=":48">{{Cite web|和書|title=【ヤルタ密約秘話】英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念 「ルーズベルト米大統領が越権署名」 外交公電で全在外公館に警告(1/3ページ)|url=https://www.sankei.com/article/20161205-5P3VO3V3SFPJRIHNU5EZXMH6WQ/|website=産経ニュース|date=2016-12-06|access-date=2022-10-08|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。2022年2月7日にはアメリカ政府が在日米国大使館を通して、「北方領土問題で日本を支持」すると同時に「北方四島に対する日本の主権を1950年代から認めている」と見解を示し、日本政府の領土主張を全面的に支持することを公式に発表した<ref>{{Citation|title=北方領土に関するエマニュエル大使のメッセージ|url=https://www.youtube.com/watch?v=WkaDUOxqxFs|language=ja-JP|accessdate=2022-02-07}}</ref>。
=== ヨーロッパ連合 ===
[[欧州議会|ヨーロッパ議会]]は[[2005年]]7月7日、日本を支持する提言を行った<ref>[https://www.express.co.uk/news/world/1160886/ussia-news-vladimir-putin-russia-japan-shinzo-abe-donald-trump-iturup-island-spt Russia news: Japan furious with Putin's visit to disputed island | World | News | Express.co.uk] By Kumail Jaffer PUBLISHED: 09:20, Fri, Aug 2, 2019 | UPDATED: 07:49, Mon, Aug 5, 2019 2020年4月13日閲覧</ref>。「EUと[[中華人民共和国|中国]]、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本・[[大韓民国|韓国]]間の竹島問題や日本・中国ならびに台湾([[中華民国]])間の[[尖閣諸島]]問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている<ref>{{cite web|url=http://www.europarl.europa.eu/sides/getDoc.do?pubRef=-//EP//TEXT+TA+P6-TA-2005-0297+0+DOC+XML+V0//EN|author=ヨーロッパ議会|authorlink=ヨーロッパ議会|title=Relations between the EU, China and Taiwan and security in the Far East|date=2005-07-07|accessdate=2020年4月13日}}</ref>。
=== イギリス ===
[[イギリス]]政府は1946年時点でソ連の実効支配を疑問視していた。当時の[[外交公電]]で、 ソ連が北方領土領有を主張する最有力根拠とした『ヤルタ密約(ヤルタ協定のうち極東密約)』に対して「領土不拡大を原則とした[[大西洋憲章]]に反する上に、[[アメリカ合衆国議会|米国議会]]の批准もないために有効性が無い」との認識を示していたことが2016年に報道された<ref name=":48" />。
=== ウクライナ ===
旧ソ連・[[ウクライナ]]政府<ref group="補足情報">ウクライナは2014年に[[2014年クリミア危機|ロシアによるクリミア半島の侵略]]を受け、2022年2月以降、[[ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによる本格的な侵略]]を受けて多くの領土を失っている。</ref>は2022年10月7日、日本への支持を表明した。[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|最高議会]]が「国際社会は、北方領土が日本に帰属するという法的地位を定めるため、すべての可能な手段を講じるべきだ」と、国連や欧州議会などの国際機関にも「北方領土が日本の領土であると定めるための一貫した支援と行動」を求める決議第8108号を採択した。同日、[[ウクライナの大統領|大統領]]の[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]が「ロシアの占領下にある北方領土について、日本の主権と領土の完全性を尊重することを確認し、関連する法令に署名した」「ロシアは、これらの領土に対して何の権利もなく、世界中の誰もがそのことをよく理解している」と述べた<ref>{{Cite news |newspaper=時事通信 |title=ゼレンスキー氏「北方領土は日本」=ウクライナ議会も決議 |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2829071 |date=2022年10月8日 |accessdate=2022年10月8日 |archiveurl=https://archive.md/4GuAo |archivedate=2023-1-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゼレンスキー大統領「北方領土は日本の領土」 国際社会に行動訴え|website=朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASQB811SNQB7UHBI06G.html|access-date=2022-10-08|language=ja}}{{要購読}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ議会 “北方領土は日本の領土と確認する決議”採択 {{!}} NHK|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221008/k10013852651000.html|website=NHKニュース|access-date=2022-10-08|last=日本放送協会}}</ref>。
=== 中華人民共和国 ===
[[中華人民共和国]]は[[冷戦]]中、ロマノフ朝時代に併合された[[外満洲]]、及び[[中ソ対立]]の影響から日本の北方領土領有の主張を支持していたが、冷戦終結前後の中露間の和解及び関係改善を受け、近年では立場を変えている。2021年、[[中華人民共和国外交部|中国外交部]]の[[趙立堅]]報道官は、北方領土問題に関し「世界反ファシスト戦争([[第二次世界大戦]])の勝利の結果は正当に尊重され、遵守されなければならないと常に確信している」と述べ、ロシアと日本が関連する問題を適切に解決するよう求めた<ref>{{Cite web |url=https://tass.com/politics/1318207 |website=tass.com |access-date=2022-05-25 |title=Southern Kuril Islands dispute is Russian-Japanese issue, says Chinese diplomat |publisher=Tass}}</ref>。現在、中華人民共和国政府は日本の領土要求を認めている。中国自然資源部が管理する「天地图」では、日本とロシアの国境の一部を得撫島と択捉島の間にあるフリース海峡に描いており、北方四島を日本の領土として認識している<ref>{{Cite web |title=天地图·在线地图 |url=https://map.tianditu.gov.cn/ |website=map.tianditu.gov.cn |access-date=2025-02-10}}</ref>。中国本土で出版された地図でも、南千島群島は日本の領土として描かれ、該当する島の名称の後ろに「ロシア占領」の注記が付されている。
== 解決案 ==
当事国が領土の帰属問題について合意することが困難な際、[[国際連合|国連機関]]である[[国際司法裁判所]]を利用することができる。しかし、国際司法裁判所の制度によれば、付託するためには紛争当事国両国の同意が必要であり、仮に日本が提訴した場合、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意しない限り審議は開始されない。ただし、領土問題は存在しないとするロシアの立場上、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意することはない。過去の北方領土問題関連の国際司法裁判所をめぐる外相間交渉については上記「北方領土関係史」の1972年の箇所を参照のこと。個別交渉の場合、ソビエト・ロシアはサンフランシスコ講和条約に参加していないため、北方領土問題解決にはロシアの同意が不可欠となっている。これに対して下記各項目のような提案や交渉が行われてきた。
===日本の全面放棄論===
四島に対する日本の領土返還主張を日本政府が全面放棄し、ロシアの支配および領有を現実としてだけでなく、法的にも正当なものとして承認し、その上で四島に対して日本が経済開発などで進出していく解決法である。これは領土問題は存在しないとするロシアの立場とも一致する上、交渉が進展しないがために日本側からも全面放棄論が出てきている<ref>[[#浦野(2014)|浦野(2014)]]、p.86</ref>。
半面、この解決法は1956年の日ソ共同宣言の「平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」「日ソ間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する」とする条文を完全に否定している。これについては、かつて日本は「日ソ共同宣言の存在自体を否定している」として、反対の立場をとっていたが、最近はそのような態度は見せなくなりつつある。ロシアは「日ソ共同宣言はあくまでもソ連によって出されたものであり、ソ連が存在しない現在では全くの無効である」として、日本の領土返還主張の全面放棄こそが最善策であるとの見解を示している。
=== 四島返還論 ===
日本の政府が公式に主張する解決策である。「[[サンフランシスコ平和条約]]にいう千島列島のなかにも(国後択捉)両島は含まれないというのが政府の見解」である<ref
[[カイロ宣言]]<ref group="
連合国は、第二次大戦の処理方針として大西洋憲章やカイロ宣言で[[領土不拡大の原則]]を宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている。この原則に照らすならば、ロシアの北方四島領有は領土不拡大の原則に反した不法行為であり、北方四島は戦勝国であるソ連が獲得した正当なロシア固有の領土であるという主張は成り立たない。したがって、ロシアには日本固有の領土である北方領土の放棄を求め
日本は「北方四島に対する我が国の主権が確認されることを条件として、実際の返還の時期、態様については、柔軟に対応する」「北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分に尊重していく」とする四島返還論を主張している<ref>[
=== 二島譲渡論 ===
[[日ソ共同宣言]]に基づき、宣言通りに平和条約を締結後に[[歯舞群島
ロシア側の根拠は、
実際に当時の全権委員の[[松本俊一]]の回想録『モスクワにかける虹』や
また、アメリカ側は
なお、旧ソビエトはサンフランシスコ講和条約に署名しておらず、同条約からの利益をえることは25条により拒否されている([[#サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)|先述]])。結果として、日本はロシアとは未だに平和条約を締結していない。さらに、サンフランシスコ講和条約ならびに日ソ共同宣言では日本が放棄した千島列島および南樺太がどの国に帰属するのかは明記されておらず、不明のままである。これに対してロシアは[[サハリン州]]を設置し、千島列島および南樺太の領有を主張しているが、国際法上は法的根拠が
ロシア側は
=== 四島内を対象にした議論・言及 ===
ロシア側は日本がすでに北方領土の領有権を放棄していると見なしており、平和条約締結後にその見返りとしてロシア領である二島を「引き渡す」という案以外を認めていない。よってこれらの妥協案は、基本的に日本が国際法上未だに領有権を保持しているという前提に立った上で日本国内で議論されている論である。以下はその主なものである。
* '''二島先行(段階的)返還''':[[日ソ共同宣言]]に基づき、[[歯舞群島
* '''三島返還論''':[[国後島]]を日本領、[[択捉島]]をロシア領とすることで双方が妥協
* '''共同統治論''':択捉・国後の両島を日露で共同統治
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; 二島返還論
: 日本側においては主に「二島先行返還論」または「2+2方式」と称される案を指す。これは、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが確認されている歯舞・色丹の二島を
: 「二島先行返還論」の支持者としては政治家の[[鈴木宗男]]や外交官の[[東郷和彦]]がいる。
: 一方、ロシア側における二島「譲渡」論とはこれとは異なり、主に歯舞・色丹の「譲渡」のみでこの問題を幕引きさせようとする案のことであり、現在のロシア政府の公式見解である。
:{{main|二島返還論}}
; 三島返還論
: 別名を「フィフティ・フィフティ」と言い、[[中華人民共和国|中国]]とロシアが係争地の解決に用いた方式である。この方式では、[[領土問題|領土紛争]]における過去の経緯は全く無視し、問題となっている領域を当事国で半分ずつ分割する。これを北方領土に形式的に当てはめると、国後島が日本領、択捉島上に国境線が引かれる、三島返還論に近い状態になる。[[岩下明裕]]([[政治学者]])はこの案を称揚しているが、もともとこの方式は、戦争により獲得した領土ではなく、単に国境をはさんだ2国のフロンティアがぶつかって明確な国境線が決め難かったケースに用いられたもので、北方領土問題には適用し難く、四島返還論に比べ実現する可能性が高いかどうかは不明瞭である。
: 三島返還論に言及した政治家には
; 共同統治論
: 「コンドミニウム」とも呼ばれ、近現代史上にいくつかの例がある<ref>[https://web.archive.org/web/20031013082241/http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/kyodou.html 世界飛び地領土研究会「共同統治領」]</ref>。成功例として代表的なものには[[アンドラ]]があり、失敗例には[[樺太]]や[[ニューヘブリディーズ諸島]](現[[バヌアツ]])がある。具体案としては
: 共同統治論の日本側にとってのメリットとしては、難解な択捉・国後の領有問題を棚上げすることで、日本の漁民が両島の周辺で漁業を営めるようになることや、ロシア政府にも行政コストの負担を求められることなどが挙げられる。ロシア側にとってのメリットは、日本から官民を問わず[[投資]]や援助が期待でき、また、この地域における[[貿易]]の拡大も望めることである。共同統治論には、[[エリツィン]]や[[鳩山由紀夫]]、[[エフゲニー・プリマコフ|プリマコフ]]、[[アレクサンドル・ロシュコフ|ロシュコフ]]駐日ロシア大使(当時)、[[富田武]](政治学者)らが言及している。法律的見地からも、[[日本国憲法前文]]2項<ref>前文第2項「…全世界の国民が…平和のうちに生存する権利…」</ref>、[[ロシア連邦憲法]]9条2項<ref>第1編第1章第9条第2項「土地およびその他の天然資源は、私有、国有、自治体所有およびその他の所有形態の財産とすることができる。」(訳文参考: [[三省堂]]『新解説 世界憲法集』2006年11月25日発行、[[有信堂]]『世界の憲法集 第二版』1998年8月21日発行)</ref>に合致する。
; 面積2等分論
: 「[[歯舞群島]]、[[色丹島]]、[[国後島]]のすべてを足しても、[[鳥取県]]と同等の面積を持つ[[択捉島]]の半分に満たないこと」から浮上した案。国後など3島に択捉の西部の[[留別村|旧留別村]]を加えれば半分の面積になる。仮に実現すれば、日本とロシアの国境線が択捉島上に引かれることとなるため、日本においては1945年以来となる「陸上の国境」が復活することになる。
: [[麻生太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が[[2006年]][[12月13日]]の[[衆議院]][[外務委員会]]での[[前原誠司]]・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]前代表の質問で明らかにしている。麻生はその前年の[[2005年]]に解決を見た[[中ソ国境紛争|中露国境紛争]]を念頭に解決策として述べているが、中露間の国境問題は[[ウスリー川]]をはさんだ中州の帰属をめぐる論争であること、同問題は中国側の人口増加に危機感を持ったロシア側が大きく譲歩した側面を持つこと、北方領土問題が旧ソ連側の[[日ソ中立条約]]の一方的蹂躙である経緯を度外視した発言であり、前原とのやり取りでは中露国境問題で最終争点となっていた大ウスリー島と、既に解決が成されている[[珍宝島|ダマンスキー島]]を取り違え答弁している。
: 麻生は[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]発足直後の報道各社のインタビューに「2島でも、
=== 千島列島全島返還論 ===
{{Quotation|
[[スターリン]]時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。[[ヤルタ協定]]の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。
(2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-08/02_02.html 「北方領土返還要求全国大会」での志位委員長のあいさつ
日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、[[ヤルタ会談]](1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から
(2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)<ref>[https://www.jcp.or.jp/seisaku/2010/20101109_ryoudo_shii_seifu.html 歴代自民党政権の日ロ領土交渉方針の根本的再検討を(2010年11月9日 日本共産党)
}}
なお、日本共産党の北方領土を含む千島列島問題に関する姿勢は一貫しておらず、全千島列島をソ連領としたり、歯舞・色丹の二島の返還を主張していた時期もあった<ref group="補足情報">
*1949年12月23日「アカハタ」 - 「吉田内閣の千島・樺太返還運動はソ連の反駁を招く」と指摘した。
*1949年12月30日「アカハタ」 - 野坂参三は「南樺太・千島の帰属問題」が吉田全権のいう南樺太・千島の日本帰属を「軍国主義の再版」と指摘した。
*1956年8月7日「アカハタ」 - 「日ソ交渉で日本が領土問題を持ち出す根拠はない」と指摘した。
*1956年8月8日「アカハタ」 - 「歯舞・色丹が北海道の一部ではないという日本政府の主張は明らかに矛盾する」と指摘した。
*1956年8月31日「日本共産党主催日ソ国交回復促進演説会の宮本顕治演説」 — 「(8月2日の日本共産党中央委員会の声明で)日本政府が千島を放棄していることは重大であり、この立場を確認して、千島列島は南千島に入らないとの政府の主張は根拠はない」と指摘した。
*1959年 - 訪ソ後に宮本顕治は2島の日本返還に同意。
*1962年3月11日「アカハタ」 - 衆議院本会議において北方領土回復決議が採決される際に日本共産党は反対票を投じ、その理由について「領土問題はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言等の国際協定で解決済みであり、国連憲章もまたそれを確認している」「実現不可能な不法な領土要求をソ連に突きつけ、対ソ報復主義を煽って日ソ共同宣言を破棄し、平和条約の締結を不可能にするもの」と指摘した。
</ref>{{Sfn|浦野起央|2013|pp=181-182}}。
<!--=== その他民間からの提言 ===
[[フェリス女学院]]大学教授である齋藤孝滋は、「日ロ国境地域領土政策大学」設置による解決策を提言する<ref> [http://linguistic-culture.rindo1.com/index.php?go=DxwEK6 北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~(要旨)]「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会</ref>。これは多文化共生の新生北方領土社会構築を目的としたものであり、従来の島の返還論のみに終始する日本国側の北方領土問題解決姿勢を根本的に問い直す政策提言であるとする。齋藤によればそもそも「北方領土問題の解決」とは島の返還のみでなく「返還後に実現すべき社会を構築する際の諸問題の解決」まで含まれるべきものであり、北方領土に係る育成すべき後継者についても、単に島の返還にとどまらず、多文化共生の新生北方領土社会(アイヌ人・日本人・場合によりロシア人)において、先住民・旧住民とともに社会の一員となり、指導的立場で、新生北方領土社会のみならず近隣諸国・地域をも経済的・文化的両面で豊かにする政策を、立案・実施できる人材であるべきとする。そこで理想的には日ロ政府共同出資による「日ロ国境地域領土政策大学」を、北方領土内(第1候補は国後島)に「北方研究学園都市」のかたちで設置し、世界的視野で領土・民族問題を研究するために、教官と学生を日本のみならず全世界から募り、北方研究学園都市を、多文化共生の新生北方領土社会のモデル社会として育ていく必要性を説く。大学の設置計画の始動時期は、ロシアの「クリル開発計画」とのタイアップを考慮し、計画が折り返しを迎える年である2011年であるとする。そして、日ロ国境地域領土政策大学を拠点として、(大学設置期間を含め)今後約10年かけての、北方領土問題の完全解決を目指すものとする。
-->
===
{{要出典範囲|ロシアからも、四島返還論及び二島譲渡論が提案されたことがある。これは'''主権無き領土返還'''と呼ばれるもので、北方四島または歯舞・色丹二島に対する日本の施政権を認めるが、主権は引き続きロシアが有するものとする。これについて日本は、無意味にして実行不可能な提案は受け入れられないとして拒絶しており、ロシアも直ちに提案を撤回している。|date=2022年5月}}
ソ連で第4代最高指導者を務めた[[ニキータ・フルシチョフ]]は、晩年に記した回想記の中で、「平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意した理由は、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的、経済的に価値がなく、これらを引き換えに日本から得られる友好関係は極めて大きいと考えた」と記しており、{{要検証範囲|「ソ連が[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]に調印しなかったことは大きな失策だった」、「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と後悔の念を述べ、「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘した|date=2017年5月}}という。この文章はフルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されていたが、[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]政権下の[[グラスノスチ]]によって、1989年になってはじめてその内容が公開された<ref>ニキータ・フルシチョフ『封印されていた証言』([[草思社]]、1991年)。</ref>。
=== ロシア人からの返還論 ===
ロシア側にも北方領土を返還するべきだと主張する者がいる<ref>[https://web.archive.org/web/20090726130611/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/178665.html 「北方四島は日本のもの」 国後島に28年在住ロシア人が一人で表明(北海道新聞、2009年7月23日付の記事より)] リンク切れにより2009年7月26日のアーカイヴ</ref>。しかし、2020年12月8日に領土割譲を呼び掛ける行為を刑事処分の対象とする改正刑法が施行されたため(最高刑は懲役10年)、これ以降はロシア人による返還論は出なくなっている。
[[ボリス・スラヴィンスキー]]は「共同宣言は、1993年に調印できると思われる平和条約の締結を条件として、日本に[[色丹島]]と[[歯舞諸島]]を返還するというソ連の態度を確認している。そのあとで道理にかなった順序で[[国後島]]と[[択捉島]]を日本に返還すべきである。」と述べた<ref>[[ボリス・スラヴィンスキー]]/[[加藤幸廣]]訳『千島占領 一九四五年』[[共同通信社]]、1993年7月10日 第1刷発行、ISBN 4-7641-0296-X、33頁。</ref>。
[[グローバリゼーション問題研究所]]の[[ミハイル・デリャーギン]]は、ロシア側が北方領土を返還した場合について言及したことがある<ref>[http://sasakima.iza.ne.jp/blog/entry/1005757/ 「ロシアが経済危機に瀕し、北方領土を引き渡す」@ロシア有力経済学者が指摘]</ref>。
[[ノーベル文学賞]]作家である[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]は著書『廃墟のなかのロシア』の中で、「ロシア人のものである何十という広大な州を([[ソビエト連邦の崩壊]]時に)[[ウクライナ]]や[[カザフスタン]]に惜しげもなく譲渡」する一方で、「エセ愛国主義」から日本に領土を返還する
[[2010年]][[11月15日]]、ロシアのベドモスチ
| url = http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010111500884
| title = 2島返還で日ロ接近を=中国に対抗-ロシア紙が異例の社説
454 ⟶ 1,015行目:
| date = 2010-11-15
| accessdate = 2010-11-20
}}</ref>。なお、[[ソビエト連邦の崩壊]]後の日露両国は、[[日ソ共同宣言]]に明記されている「[[平和条約]]締結後の歯舞群島・色丹島の日本への引き渡し」を再確認しており、国後・択捉両島の取り扱いが領土問題における焦点となっている。
映画監督[[アレクサンドル・ソクーロフ]]は、2011年12月にサンクトペテルブルクの日本総領事館で旭日小綬章を受けた際、「北方領土は日本に返還すべきだ」「ロシアは日本から学ぶべきことがたくさんある」「日本人に、かつて彼らのものだったすばらしい土地を返す必要がある」と述べた<ref>[http://www.rosbalt.ru/piter/2011/12/13/923757.html Сокуров предложил отдать Японии Курилы.] // «Росбалт», 13 декабря 2011. Дата обращения 3 августа 2019.</ref><ref>[https://hokudaislav-northeast.net/en/wp-slav/wp-content/uploads/2018/03/57981081b57365202364f4604cab8f33.pdf#page=15 「北東アジアの現在 北大スラブ・ユーラシアセンター研究拠点「域内連携体制の構築をめざす国際関係論」] Vol. 4 March 30, 2018. 2019年8月3日閲覧。</ref>。
== 題材となった作品 ==
=== 映画 ===
* '''クナシリ''' - 2021年公開。
** 監督は旧ソ連・[[ベラルーシ]]出身で[[フランス]]で活動するウラジーミル・コズロフ。
** 国後島の風景や住民生活を写した[[ノンフィクション]]。国後島の住民らの意見として「島はロシアの領土であり、返還の理由はない」と述べる者や、一方で「島の生活は苦しく、ロシア政府の支援は乏しい」と嘆く者、また「日本人と共存するほうが望ましい」と語る者などが出演した<ref>{{Cite news|和書 |title=「クナシリ」(仏)【今月の映画】 |newspaper=[[時事通信]] |date=2021-11-22 |url=https://www.jiji.com/jc/v8?id=202111screen007 |access-date=2025-08-21 |author=小松晋}}</ref>。また国後島の伝統行事として、ソ連軍が日本軍に勝利して島を引き渡された日を記念する[[祭|祭り]]の様子を紹介した。
<references group="補足情報" />
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite |和書|author=ワレンチン・M・ベレズホフ |coauthors=栗山洋児訳 |title=私は、スターリンの通訳だった。 : 第二次世界大戦秘話 |date=1995 |publisher=同朋舎出版 |isbn=4810422283 |ref={{Harvid|ベレズホフ|1995}} }}
* {{Cite |和書|author=長谷川毅 |title=暗闘 : スターリン、トルーマンと日本降伏 |date=2006 |publisher=中央公論新社 |isbn=4120037045 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=[[浦野起央]] |title=日本の国境: 分析・資料・文献 |date=2013 |publisher=三輪書籍 |isbn=486251152X |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=原貴美恵 |title=サンフランシスコ平和条約の盲点 《新幀版》 |date=2012 |publisher=渓水社 |isbn=4863272049 |ref=harv}}
* 安全保障問題研究会編『変わる日ロ関係』([[文春新書]])
* [[和田春樹]]『北方領土問題――歴史と未来』[[朝日新聞社]]([[朝日選書]]621)、1999年、{{ISBN2|4022597216}}
* [[木村汎]]『新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道』角川学芸出版(角川選書)、2005年、{{ISBN2|4047033863}}
* [[長谷川毅]]『北方領土問題と日露関係』[[筑摩書房]]、2000年、{{ISBN2|4480861114}}
* {{Cite |和書|author=岩下明裕 |authorlink=岩下明裕 |title=北方領土問題 : 4でも0でも、2でもなく |date=2005 |publisher=中央公論新社 |isbn=4121018257 |series=中公新書, 1825 |ref=harv}}([[中公新書]]1825)
* [[下斗米伸夫]]『北方領土Q&A80』([[小学館文庫]])、1999年、{{ISBN2|4094040048}}
* [[アイヌ・モシリ自治区を取り戻す会]]『アイヌ・モシリ――アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉』[[御茶の水書房]]、1992年、{{ISBN2|4275014863}}
* [[齋藤孝滋]]『北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~』「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会、PDF版、2011年
* {{Cite book |和書|author = 浦野起央 |authorlink = 浦野起央 |title = 地図と年表で見る日本の領土問題 |date = 2014 |publisher = 三和書籍 |journal = |volume = |issue = |isbn = 9784862511591 |pages = |ref = 浦野(2014) }}
* {{cite journal |last=Kireeva|first=Anna|date=2017|title=The Russian-Japanese Rapprochement|ref=Kireeva (2017)}}(http://ru.valdaiclub.com/a/reports/rossiysko-yaponskoe-sblizhenie-vozmozhnosti/)
*朝日新聞記事(全8回)「角栄と「四島」~領土交渉秘録~」 2020年6月
** 6月10日第1回:「四島」ソ連に迫った田中角栄 首脳会談の極秘議事録
** 6月11日第2回:ブレジネフの熱弁、「全部無視して」 角栄に渡ったメモ
** 6月12日第3回:画竜点睛「四つの目を入れたい」 角栄は食い下がった
** 6月13日第4回:「暗い部屋で黒い猫を…」拒否するソ連に大平外相の一手
** 6月14日第5回:「四島は入っているか」 うなずいたブレジネフ「ダー」
== 文献情報 ==
* 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」(The joint compendium of materials on the History of the Territorial Issue)日本国外務省・ロシア連邦外務省 1992年版{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf]}}、2001年版{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/2001.pdf]}}
* 「北方領土問題の経緯」[[塚本孝]](国立国会図書館ISSUE BRIEF No.697 2011年2月3日)[https://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/pdf/0697.pdf]
* 日ソ交渉に関する米国務省覚書(1956年9月7日)[https://worldjpn.net/documents/texts/JPRU/19560907.O1J.html]
* 日ロ関係に関する東京宣言(1993年10月13日)[https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19931013.D1J.html]
== 関連項目 ==
* [[千島列島]]-[[樺太]]-[[北方地域]]
* [[北千島・南樺太の帰属問題]]
* [[領土不拡大の原則]]
* [[ギドロストロイ]] - 北方領土最大の企業で水産業を中心に、建設や金融など幅広い分野を手掛けている。
* [[エストニアとロシアの領有権問題]]
* [[アブハジア自治共和国]]
* [[南オセチア自治州]]
* [[クリミア自治共和国]]
* [[ドネツィク州]]
* [[ルハーンシク州]]
* [[沿ドニエストル地域]]
* [[プロパガンダ]]
* [[旧ドイツ東部領土]]
* [[ソ連対日参戦]]
* [[プロジェクト・フラ]]
* [[北方対策本部]]([[内閣府]]の[[特別の機関]])
* [[北方領土問題対策協会]]
480 ⟶ 1,083行目:
* [[ロシアの歴史]]
* [[北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律]]
* [[
* [[北方領土の日]]
* [[ロシアにおけるアイヌ]]
* [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]
* [[日米地位協定]]
* [[色丹村]]-[[泊村 (北海道根室振興局)|泊村]]-[[留夜別村]]-[[留別村]]-[[紗那村]]-[[蘂取村]]
; 日本の外交問題
* [[竹島 (
* [[尖閣諸島]]
== 外部リンク ==
=== 日本の公的機関等のサイト ===
* [
* [
* [http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrt
* [
* [https://www.chishima.or.jp/ 公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟]
* {{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100494220.pdf われらの北方領土 2022年版(令和4年版)]}} - 外務省による
=== ロシアの公的機関等のサイト ===
* [https://tokyo.mid.ru/web/tokyo-ja/home 在日ロシア連邦大使館] - 同ページ内「[https://tokyo.mid.ru/web/tokyo-ja/-7 露日関係の発展]」には、北方領土問題に関する記述がある。
* [https://sakhalin.gov.ru Губернатор и Правительство Сахалинской области] - [[サハリン州]]の公式ホームページ{{ru icon}}
=== 上記以外のサイト ===
* [http://www.gregoryclark.net/jtmarch05.html 北方領土紛争は欠陥外交の好例] [[グレゴリー・クラーク]](記事は[[ジャパンタイムズ]]に掲載されたものの再録)
* [https://web.archive.org/web/20210115142951/http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no15/contents.html 日ロ関係の新しいアプローチを求めて 21世紀COEプログラム研究報告集] - 北海道大学スラブ研究センター
* [http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/103/news103-essay2.html 北方領土上陸記] - スラブ研究センターニュース
* [https://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm 北方領土問題] - 匿名の個人ホームページであるが、1644年の[[正保国絵図]]を図示する同ページ内記事「[https://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouMAP/Shouho.htm 正保御国絵図] 」にて、比較的詳細な画像や現在の[[日本地図]]との照合がみられる。
* [http://www.hoppou-d.or.jp/ 北方同盟オンライン] - 社団法人北方領土復帰期成同盟(略称:北方同盟)
* [http://www.sakhalin.info/kuriles.ru Новости Курильских островов](クリル諸島ニュース) Sakhalin.info{{ru icon}}
* [https://web.archive.org/web/20130601124756/http://linguistic-culture.rindo1.com/index.php?%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E6%96%B9%EF%BD%9E%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%82%92%EF%BD%9E 北方領土と日本国のあり方~領土問題から新たな国家・世界への変容を~(要旨)] - 「日本語と日本人に関する言語・文化・教育・政策の提言」を行う会
* [https://www.youtube.com/watch?v=SB9BycBDt3I 「北方領土に厚い壁」 - 中日ニュース1031号(動画)]・[https://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
* [https://www.youtube.com/watch?v=uf9YOHqTxKs 「帰らざる北方領土」 - 中日ニュース1228号(動画)]・[https://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
{{千島列島}}
{{日本関連の項目}}
{{日本の周辺における領域・海域に関する主張}}
{{北方領土におけるロシア側の行政区分}}
{{北方領土における日本側の行政区分}}
{{日本の国際関係}}
{{Normdaten|}}
{{DEFAULTSORT:ほつほうりようともんたい}}
[[Category:日本の領有権問題]]
[[Category:日ソ関係]]
[[Category:日露関係]]
[[Category:
[[Category:ロシアの植民政策]]
[[Category:日本の植民政策]]
[[Category:地政学]]
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[[Category:
[[Category:
[[Category:日本の地域]]
[[Category:反ソビエト連邦感情]]
[[Category:反露感情]]
[[Category:日本の反露感情]]
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