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{{Otheruses|少年愛全般|少女漫画のジャンル|少年愛 (少女漫画)}}{{複数の問題
'''少年愛''' (しょうねんあい,独語:'''Knabenliebe''',英語:'''Pederasty''',希:'''Παιδεραστια''') とは、成人男性と思春期前後の少年のあいだの恋愛関係、性的関係である。プラトニックなものもあるが、一般に性的交渉が前提となっている。文化的背景において規定された「年長者対少年の制度的理想型」が基本的な定義である。
| 参照方法 = 2012年5月
[[image:Pan and Daphnis.jpg|right|thumb|200px|笛をダフニスに教えるパーン<br>紀元前100年頃。ポンペイ]]
| 大言壮語 = 2012年5月
# この「理想型」を参照して、年長男性と少年のあいだで成立する広義の恋愛関係が、一般的な少年愛の概念となる。
| 正確性 = 2012年5月
# また、ここより更に意味が展開して、同年齢、あるいは年齢の近接した少年同士のあいだに成立する恋愛、性的関係にまで至った関係を少年愛と見做す考えもある。
| 言葉を濁さない = 2012年5月
# 1970年代以降、少女漫画において、少年同士の友情を越えた恋愛関係が主題として現れ、これを少年愛と呼んだ。更に、1980年代以降には、「やおい・ボーイズラブ」等が小説・漫画等で一般化し、このようなメディアでの作品主題がまた「少年愛」と呼ばれた([[#日本のサブカルチャーでの少年愛]])。
| 内容過剰 = 2012年5月
[[古代ギリシア|古典ギリシア]]での理想範型に見られるのは、妻帯者である立派な市民が、[[教育]]目的で少年愛に携わることである。このような見地からは、少年愛は[[同性愛]]の一種ではない。男性同性愛者が性的嗜好として、少年や若い青年を対象とするとき、見かけ上、少年愛に見える。しかし、少年愛におけるエラステース(年長男性)は、基本的に[[両性愛]]である。
}}
{{百科事典的でない|type=NOTESSAY |date= 2012年5月}}
'''少年愛'''(しょうねんあい、{{lang-de-short|Knabenliebe}}、{{lang-en-short|Pederasty}}、{{lang-el-short|Παιδεραστία}})とは、[[成人]]と[[思春期]]前後の[[少年]]の間の[[恋愛]]関係、あるいは性的関係である。
[[ファイル:Apotheosis of Polydeukion, detail.jpg|right|thumb|200px|夭折せるポリュデウキオン<br/>師は[[少年]]を[[神]]として称えた]]
==概要==
成人者が少年に対して恋愛感情を抱くもの。歴史的には様々な理由から複数文明で発生しており、男性によって行われるものも少なくない。
 
なお現代の日本においては、男女問わずで年長側の少年愛者に対し「[[ショタコン]]」「[[ショタ]]」という呼称が使われる<ref>{{Cite web|和書|title=ショタ(しょた) |url=https://numan.tokyo/words/zZ48J/ |website=numan |access-date=2022-08-12 |language=ja}}</ref>こともあるが、これは横山光輝の漫画・アニメ作品「鉄人28号」の主人公である少年「金田正太郎(かねだ・しょうたろう)」が語源で、後述する「ロリータ・コンプレックス」の対義語として生まれた「正太郎コンプレックス」が短く省略されたもの。いずれも日本独自の呼称(和製英語)である。
== 歴史と概説 ==
 
本邦においては、中年男性視点からの少女愛とその葛藤を描いたナボコフの小説「ロリータ」を語源とする和製英語「ロリータ・コンプレックス」(略して「ロリコン」とも)と対をなす形で使われることが多い。
古典的な意味の少年愛は、世界中のあらゆる社会で存在したと考えられる社会[[制度]]である。それはとりわけ、[[戦士]][[社会]]において顕著であり、年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつける互いの信頼関係は、しばしば少年愛の関係において成立した。
 
=== 古典ギリシア歴史と概説 ===
=== 古代ギリシア ===
 
[[ファイル:Kiss Briseis Painter Louvre G278 full.jpg|thumb|200px|口づけをかわす少年と男性([[ルーヴル美術館]])]]
少年愛としては、[[古代ギリシア|古典ギリシア]]の「少年愛(パイデラスティア, paiderastia )」が著名であるが、これは当時の代表的な[[ポリス]]である[[アテナイ|アテーナイ]]では、暗黙に認められた市民の義務であった。アテーナイに較べ、より戦士社会として厳格な[[文化]]や[[制度]]を持っていた[[スパルタ]]においては、少年愛は男性市民(それは、スパルタでは戦士であることを意味した)にとって法文化された義務であった。
少年愛としては、[[古代ギリシア]]の「'''パイデラスティア'''」({{lang-el-short|Παιδεραστία}}, paiderastia)が著名<ref>{{Cite book|和書|title=饗宴|publisher=光文社古典新訳文庫}}</ref>であるが、これは当時の代表的な[[ポリス]]である[[アテナイ]]では、暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに較べ、より戦士社会として厳格な[[文化]]や[[制度]]を持っていた[[スパルタ]]においては、少年愛は男性市民(国民皆兵制のスパルタでは、それは戦士であることを意味した)にとって法文化された義務であった。
 
古典ギリシアにおける少年愛における「[[少年]]」は、[[思春期]]またはそれより若い年代の少年(パイス, παις )ではなく、むしろ戦士としての訓練を受ける青年(エペーボス)であったが、これは文化制度としての「少年愛」での建前であった。(古典ギリシアの少年愛は、原義としての「[[エフェボフィリア|エペーボピリア]]」に近いが、10代はじめの少年との関係も含んだので、「青年愛」とは異なる概念である)。
 
[[プラトン]]は「[[徳]]([[アレテー]])」について語っているが、「アレテー(arete, αρετη )」とは[[ギリシア語]]では、「男性としての優秀性」という意味がある。知性において、知識において、また戦士としての肉体の素晴らしさや、その戦闘技能の卓越性、更に[[弁論]]の巧みさや、指導力を持ち、[[道徳]]的にも優れた家柄の良い「男子市民」が「アレテーを持つ人」である。
 
古典ギリシアにおける少年愛における「少年」は、[[思春期]]またはそれより若い年代の少年(パイス, {{lang|el|παις}})ではなく、むしろ戦士としての訓練を受ける青年(エペーボス)であったが、これは文化制度としての「少年愛」での建前であった。(古典ギリシアの少年愛は、原義としての「[[エフェボフィリア|エペーボピリア]]」に近いが、10代はじめの少年との関係も含んだので、「青年愛」許りとは言い切れない)。
「アレテー」はアレテーを持つ優れた男性が、未熟な男性を[[肉体]]的・[[精神]]的に鍛えることで、若い男性を優れた戦士として、また[[知性]]に満ち、高い[[倫理]]を持つ[[市民]]として育て上げることで、次の世代へと伝達されるとされた。アレテーを若い男性、すなわち、青年・少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。またこれが社会の「制度的範型としての少年愛」である。
 
[[プラトン]]は「[[徳]](アレテー)」について語っているが、「アレテー」({{lang|el|αρετη}}, aretē)とは[[ギリシア語]]では、「優秀性」なり「卓越性」という意味がある。知性や知識において、また戦士としての肉体の素晴らしさや勇気、戦闘技能の卓越性、更に[[弁論]]の巧みさや、指導力を持ち、[[道徳]]的にも優れた家柄の良い「男子市民」が「アレテーを持つ人」である。アレテーを若い男性、すなわち、青年・少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。またこれが社会の「制度的範型としての少年愛」である。
古典ギリシアの少年愛においては、愛する年長の男性を「エラステース(erastes, εραστης )」と呼び、愛され、アレテーを授けられる対象となる青少年を「エローメノス(eromenos, ερωμενος )」と呼んだ。軍事国家スパルタには、エラステースとエローメノスの二人の恋人を一単位として編制された軍団が存在し、不敗の軍団として名声を誇った。
 
古典ギリシアの少年愛においては、愛する年長の男性を「'''エラステース'''」({{lang|el|εραστης}}, erastēs)と呼び、愛され、アレテーを授けられる対象となる青少年を「'''エローメノス'''」({{lang|el|ερωμενος}}, erōmenos)、あるいは「'''パイディカ'''」({{lang|el|παιδικά}}, paidika)と呼んだ。
==== 善か美か ====
 
古典ギリシアの少年愛においては、愛される少年に求められる資質は、戦士としての[[倫理]]性であり、精神的な卓越性、則ち「善き少年」であった。少年愛の相手である少年として望まれる資質は、「[[善]](アガトン)」であった。
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[[ソクラテス]]は数多くの青少年をくどき落とす達人であったので、「しびれエイ」との綽名を持っていたが、彼が、当時の美青年の代表とも言えた[[アルキビアデス]]をくどき落とした言葉(殺し文句)は、「人々は、君の[[肉体]]の美しさを賛美する。だがぼくは、君の外見の美しさではなく、君の[[魂|たましい]]、つまり君自身の本質を愛しているのだ」という内容であった。
 
==== エラステースとエローメノスの立場の差 ====
[[プラトン]]が記すソクラテスの言葉からは、古典ギリシアにおいては、青少年の「善」を求めるとの制度的建前とは別に、実際は、その肉体の美や容貌容姿の「[[美]](カロン)」が求められていたことが分かる。「善き少年(アガトス・パイス)」か「美しい少年(カロス・パイス)」か、むしろ、肉体の外見、その「美しさ」が少年愛で少年に求められた。
古典ギリシアの少年愛における「愛する男性」と「愛される少年」の立場や感情、快楽の比率は平等ではない。[[クセノポン|クセノフォン]]は「少年は大人に対して、婦人のように性交の愉悦をともにすることはないのであって、むしろアプロジテ(愛欲)に酔うものをしらふでながめる<ref>クセノフォン(村治能就訳)『饗宴』、8.21-22(『世界人生論全集1』筑摩書房、1963)</ref>」と語り、プラトンも、少年が年長の男性に服従することで得るものの中に肉体的快楽はないという趣旨の発言をしている<ref>プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』、240b-e(『プラトン全集5』岩波書店、1974)</ref>。逆に、もし愛される側が快楽を得るようなことがあれば「これらの人の身体が自然に反した仕組をもっているということである。…このような人間は女性になりうる<ref>アリストテレス(戸塚七郎訳)『問題集』、879b20-27(『アリストテレス全集11』岩波書店、1968)</ref>」とアリストテレスは語っている。
 
=== 古代ローマ ===
[[ファイル:Antinous Mandragone profil.jpg|thumb|right|170px|アンティノウス、130年頃]]
[[古代ローマ]]においても、「善き少年」か「美しい少年」かの選択では、少年の「善」を求めるべきであると制度的にはされていた(ローマでは少年愛は制度化されていなかった)。
 
[[ネロ|皇帝ネロ]]は、皇妃ポッパエアの死後、16歳前後であったと考えられる絶世の美少年[[スポルス]]を見出し、これを去勢して女装させ、みずからの第三の妃に据えた。スポルス・サビーナは、ポッパエアと容姿が瓜二つであったとも伝わっているので、ネロは「美しい少年」を求めると同時に、「美しい少女」をも求めて愛したことになる。
[[古代ローマ]]においても、「善き少年」か「美しい少年」かの選択では、少年の「善」を求めるべきであると制度的にはされていたが、ローマが[[地中海]]の覇権を掌握し、その国家と市民が豊かとなるにつれ、[[美少年]]・美青年への欲求は抑制のないものとなった。
 
[[五賢帝]]のなかでも、もっとも英邁で精神の幅に広がりがあったと考えられる[[ハドリアヌス]]は、青年アンティノウスを愛したが、アンティノウスは理由不明なままみずから命を絶った。ハドリアヌスはこれを悲しみ、一つの都市にアンティノウスの名を付け、彼が愛した青年の名を永遠のものとしようとした。
[[ネロ|皇帝ネロ]]は、皇妃ポッパエアの死後、16歳前後であったと考えられる絶世の美少年[[スポルス]]を見出し、これを去勢して女装させ、みずからの第三の妃に据えた。スポルス・サビーナは、ポッパエアとそっくりであったとも伝わっているので、ネロは「美しい少年」を求め、更に少年を「少女」に変えて愛したことになる。
 
ハドリアヌスはまた、10歳の少年マルクスと出会い、この少年に英邁な資質を見出した。為に彼は、マルクスをみずからの後継者の位置に置き、少年は成人して後、皇帝位に就き、哲人皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニウス|マルクス・アウレリウス]]となった。ハドリアヌスはアンティノウスの肉体の美を愛すると共に、少年マルクスの精神の卓越性、則ちその「[[善]]」と、将来実現される「[[徳]]」を愛した。
[[五賢帝]]のなかでも、もっとも英邁で精神の幅に広がりがあったと考えられる[[ハドリアヌス]]は、青年アンティノスを愛したが、アンティノスは理由不明なままみずから命を絶った。ハドリアヌスはこれを悲しみ、一つの都市にアンティノスの名を付け、彼が愛した青年の名を永遠のものとしようした。
 
しかし古代ローマでは、[[性愛]]のあらゆる分野で退廃が花咲いたように、少年愛でも見境がなくなっていた。紀元[[2世紀]]の[[ストラトン]]は同性愛者であるが、[[ペトロニウス]]の『サテュリコン』を見れば分かる通り、帝政期ローマの市民は、もはや善なる少年を求める「少年愛」と同性愛の区別もつかなくなっていた。
ハドリアヌスはまた、10歳の少年マルクスと出会い、この少年に英邁な資質を見出した。為に彼は、マルクスをみずからの後継者の位置に置き、少年は成人して後、皇帝位に就き、哲人皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニウス|マルクス・アウレリウス]]となった。ハドリアヌスはアンティノスの肉体の美を愛すると共に、少年マルクスの精神の卓越性、則ちその「[[善]]」と、将来実現される「[[徳]]」を愛した。
 
しかし古代ローマでは、[[性愛]]のあらゆる分野で退廃が花咲いたように、少年愛でも見境がなくなっていた。紀元[[2世紀]]のストラトーが[[ギリシア語]]の詩を集めて編んだ詞華集『少年のミューズ(Musa Puerilis)』に収めた自身の詩で、次のようにうたっている:
 
<blockquote>12歳の花の盛りの少年は素晴らしい。13歳の少年はもっと素敵だ。14歳の少年はなお甘美な愛の花だ。15歳になったばかりの少年は一層素晴らしい。16歳だと、神の相手が相応しい。17歳の少年となると、おれの相手じゃなく、ゼウス神の相手だ、おお! [http://www.fpc.net/sites/alexis/strato.html Strato - Poems]</blockquote>
 
ストラトーは[[同性愛]]者であるが、[[ペトロニウス]]の『サテュリコン』を見れば分かる通り、帝政期ローマの市民は、もはや善なる少年を求める「少年愛」と同性愛の区別もつかなくなっていた。
 
=== 西欧 ===
{{内容過剰|section=1|date=2012年5月}}
 
西欧社会は、[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]による[[ローマ帝国]]の蚕食と最終的な[[西ローマ帝国]]の滅亡によって、文化が成立したとも言えるが、ローマ辺境域のゲルマンや[[ケルト人|ケルト]]の地には、早くも紀元2世紀には、[[キリスト教]]が布教されていた。当初それは[[アリウス派|アレイオス派]]であったが、やがて[[アタナシオス (アレクサンドリアの)アタナシオス|アタナシオス]]の正統派に転向した。
 
[[メロヴィング朝]]及び[[カロリング朝]][[フランク王国]]を通じて、西欧中央部はキリスト教社会として構成された。このことは、[[グレートブリテン島|大ブリテン島]]でも同様であり、[[イングランド]]([[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]])に流布したキリスト教は、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]へと伝播され、[[アイルランド]]にもまたキリスト教の波は訪れた。
 
[[ユダヤ文化]]文化の影響を受けたキリスト教文化においては、「[[男性同性愛]]」は[[宗教]]的[[タブー|禁忌]]であり宗教上の罪悪であり、[[ユダヤ律法]](トーラー)が記している通り、「女と同衾するように男と寝る者は、殺さねばならない」という規定は、(特に男性の)同性愛を完全に否定罪悪と明記するもので、無論、行為としては[[同性愛]]と区別の付かない少年愛もまた、罪悪であり、少年に対する行為が暴行に近いもので、かつ少年の年齢が幼ければ幼いほど、罪の重さは加重された。
 
しかし、ケルトには少年愛の制度的伝統が存在したことが知られており、またゲルマン族には、[[男性結社]]の伝統があった。従って、範型としての少年愛は西欧文化の古層にあって歴然と存在していたことになる。
 
==== 中世カトリック時代 ====
西欧におけるキリスト教は、16世紀の[[宗教改革]]に至るまで、正統派西方教会つまりカトリックであった。[[カトリック教会|カトリック]]においては、[[司教]]と[[司祭]]による[[ヒエラルキー]]制度が厳密に定められ、司祭の終身独身が規定されており、この伝統は今日のカトリックにおいても継承されている。
 
キリスト教においては、本来男女は平等であったが、[[パウロ|パウロス]]の[[ユダヤ教]]的禁欲思想より、男性に比し卑しめられた地位にあった。カトリックにおけるもっとも重要な秘蹟である「[[ミサ|ミサ聖祭]]」においては、典礼は男性司祭が主導し、男性の手によって進行されるものであった。このため、司祭の典礼執行を助け、補助する役割として、若い男性あるいは侍童としての少年が起用された。
西欧におけるキリスト教は、16世紀の[[宗教改革]]に至るまで、正統派西方教会つまりカトリック教であった。[[カトリック教会|カトリック]]においては、[[司教]]と[[司祭]]による[[ヒエラルキー]]制度が厳密に定められ、司祭の終身独身が規定されており、この伝統は今日のカトリックにおいても継承されている。
 
大小のカトリックの教会においては、ミサ聖祭で侍者(acolyte)を務める少年が準備されており、また、[[グレゴリオ聖歌]]の制度化とも相俟って、最初は成人男性の聖歌隊が、後には少年が隊員となる[[少年合唱|少年聖歌隊]]が構成された。一つに、[[アルト]]あるいは[[ソプラノ]]の本来は女が担当する声部を男性が担おうとすると、[[変声期]]前の少年の声部が必要であったことがある(この問題の一つの解決として、変声期前の少年歌手を[[去勢]]することで、[[カストラート]]を造ることが行われたが、これは別の問題を引き起こした)。
キリスト教においては、本来男女は平等であったが、カトリックにおいては女性はその男性を誘惑する肉体と、[[パウロ|パウロス]]の[[ユダヤ教]]的禁欲思想より、男性に比し卑しめられた地位にあった。カトリックにおけるもっとも重要な秘蹟である「[[ミサ|ミサ典礼]]」においては、典礼は男性司祭が主導し、男性の手によって進行されるものであった。このため、司祭の典礼執行を助け、補助する役割として、若い男性あるいは侍童としての少年が起用された。
 
更に、6世紀頃より制度化のはじまる修道制度は、男子の修道者を前提としており、修道士は司祭同様に、終身の独身と女との交渉を断つことを誓約した。修道士の集団が[[修道院]]というコミュニティを作り、時代と共に、共同体の規模が大きくなるにつれ、修道院は男性子弟の教育機関の役割も果たすようになって来た。それは将来に修道士を目指す、見習い修道士を教育すると共に、やがて俗界に還俗して、世俗生活に戻る者の教育をも担った(女については、女子修道院がこれを担うようになった)。
大小のカトリックの教会においては、ミサ典礼で侍童を務める少年が準備されており、また、[[グレゴリオ聖歌]]の制度化とも相俟って、最初は成人男性の聖歌隊が、後には少年が隊員となる[[少年合唱|少年聖歌隊]]が構成された。一つに、[[アルト]]あるいは[[ソプラノ]]の本来は女性が担当する声部を男性が担おうとすると、[[変声期]]前の少年の声部が必要であったことがある(この問題の一つの解決として、変声期前の少年歌手を[[去勢]]することで、[[カストラート]]を造ることが行われたが、これは別の問題を引き起こした)。
 
このように性的禁欲と独身制を定めたカトリックの宗教的共同体のなかで、司祭と侍者、あるいは聖歌隊の少年、また[[修道士]]と修道士見習い(ノーヴィス)のあいだに機会的同性愛が生じるのはあって、司祭も、修道士も同性愛者でない場合であっても、少年との性的交渉があった。また教会の男色禁止とは別に、このような指導する者、すなわち司祭や修道士と、指導される者、すなわち侍童やノーヴィスの少年のあいだの関係は、[[古代ギリシア|古典ギリシア]]や[[ゲルマン]]の少年愛の範型をなぞるものでもあった。
更に、6世紀頃より制度化のはじまる修道制度は、男子の修道者を前提としており、修道士は司祭同様に、終身の独身と女性との交渉を断つことを誓約した。修道士の集団が[[修道院]]というコミュニティを作り、時代と共に、共同体の規模が大きくなるにつれ、修道院は男性子弟の教育機関の役割も果たすようになって来た。それは将来に修道士を目指す、見習い修道士を教育すると共に、やがて俗界に還俗して、世俗生活に戻る者の教育をも担った(女性子弟については、女子修道院がこれを担うようになった)。
 
王侯貴族や有力な豪族の公然とした同性愛行為や少年愛もまた、これを黙認し、更に一般庶民であっても、一定の範囲のものは、司祭に告白し、罪の赦しを願う限りはこれを許容したとも考えられる。
このように性的禁欲と独身制を定めたカトリックの宗教的共同体のなかで、司祭と侍童、あるいは聖歌隊の少年、また[[修道士]]と修道士見習い(ノーヴィス)のあいだに機会的同性愛が生じるのは必然とも言え、司祭も、修道士も同性愛者でない場合であっても、少年との性的交渉が成立した。また教会の男色禁止の建前とは別に、このような指導する者、すなわち司祭や修道士と、指導される者、すなわち侍童やノーヴィスの少年のあいだの関係は、[[古代ギリシア|古典ギリシア]]や[[ゲルマン]]の少年愛の範型をなぞるものでもあった。
 
:同性愛は文化や時代に関係なく多少なりとも存在して来た。同性愛行為を理由とする処罰や処刑の記録は存在するが、それ以上多数の告発されない、また免罪された事例が存在したと見られる。事実上、王侯貴族や富者の行為はよほどのことがない限り大目に見られていた。また庶民のあいだでは、[[中世]]の生活では、寝所は藁の上で雑魚寝している場合が普通で、寝台があっても複数の同性の人と共用したため夜間照明の少ない中世では、同性同士の性的関係が起こり得る環境にあった。
カトリック教会は司祭や修道士における、少年とのあいだの男色関係を概ねにおいて黙認したと考えられる。また、王侯貴族や有力な豪族の公然とした同性愛行為や少年愛もまた、これを黙認し、更に一般庶民であっても、一定の範囲のものは、司祭に告白し、罪の赦しを願う限りはこれを許容したとも考えられる。
 
カトリック教会が「男色」の罪を断罪するのは、キリスト教的社会の秩序を乱す者、または乱す恐れのある事態に対してである。[[中世]]における異端論争において、誰が[[正統]]か[[異端]]か不明な場合、両者は対する陣営、人物を、「男色家」「[[マニ教]]の徒」と非難するのが通常であった。従って、異端と決まった者は、教会の側が正式に、「男色家・マニ教徒」との罪状認定が行われた。
:[[同性愛]]は文化や時代に関係なく、人口のかなりな割合で存在して来た。同性愛行為を理由とする処罰や処刑の記録は存在するが、それ以上多数の告発されない、また免罪された事例が存在したと云うべきである。事実上、王侯貴族や富者の行為はよほどのことがない限り大目に見られていた。また庶民のあいだでは、[[中世]]の生活では、寝所は藁の上で雑魚寝している場合が普通で、寝台があっても複数の同性の人と共用した為、夜間照明の少ない中世では、同性同士の性的関係はベッドで自然に起こり得た。
 
更に、中世の[[騎士道]]の理想形では、[[騎士]]は無論、多くの従者や家臣を従えるが、同時に、身分ある少年を「騎士見習い」として身近に置き、これを武勇と道徳において鍛錬するとされた。
カトリック教会が「男色」の罪を断罪するのは、キリスト教的社会の秩序を乱す者に対してであり、また乱す恐れのある事態においても、この罪をあげつらった。[[中世]]における[[異端論争]]において、誰が[[正統]]か[[異端]]か不明な場合、両者は対する陣営、人物を、「男色家」「[[マニ教]]の徒」と非難するのが通常であった。従って、異端と決まった者は、教会の側が正式に、「男色家・マニ教徒」との罪状認定が行われた。
 
更に、中世の[[騎士道]]の理想形では、[[騎士]]は無論、多くの従者や家臣を従えるが、同時に、身分ある少年を「騎士見習い」として身近に置き、これを武勇と道徳において鍛錬するとされたが、このような関係は、肉体関係の有無とは別に、精神的には制度的な「少年愛」の関係に他ならなかった。
 
==== 宗教改革と近世ルネッサンス ====
西欧における[[宗教改革]]は、起源を遡れば[[シトー会]]の修道院改革や、[[ドミニコ会]]、[[フランシスコ会]]などの[[托鉢修道会]]の発足にもその端緒が窺えるが、13世紀より14世紀にかけてのアリストテレス・ルネッサンスの展開とも並行して進んでいたと言える。[[教皇]]権と[[神聖ローマ帝国|皇帝]]権の争いを通じて、両者の権力が共に後退して行ったと同時に、世俗領主や[[商人]]階層の力の増大がもたらされた。
 
西欧における[[宗教改革]]は、起源を遡れば[[シトー会]]の[[修道院改革]]や、[[ドミニコ会]]、[[フランシスコ会]]などの[[托鉢修道会]]の発足にもその端緒が窺えるが、13世紀より14世紀にかけてのアリストテレス・ルネッサンスの展開とも並行して進んでいたと言える。[[教皇]]権と[[神聖ローマ帝国|皇帝]]権の争いを通じて、両者の権力が共に後退して行ったと同時に、世俗領主や[[商人]]階層の力の増大がもたらされた。
 
このような社会的な権力の推移を背景として、従来弾圧されて来た西欧の[[異端]]運動は、教会権力に対抗する後ろ盾を備えるようになり、[[カトリック教会]]の統制から脱する。16世紀に至って、[[ドイツ]]の[[マルティン・ルター|ルター]]の背景には世俗領主の庇護があり、[[ジュネーヴ]]の[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]は富裕商人階層の支持があり、そして[[イングランド]]においては、カトリックの権力に反抗する[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]はみずから王権を持っていた。
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教皇権が衰退し、都市商人階層の力が優越した[[イタリア]]に、[[ルネサンス|文芸復興]]([[ネオプラトニズム]]・ルネッサンス)が起こり、[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]などが、[[古代ギリシア]]や[[ローマ帝国|ローマ]]の古典を翻訳し、まさに「[[マニ教]]」の教えに通底している『[[ヘルメス文書]]』の翻訳を行い、[[魔術]]・[[錬金術]]・[[数秘術]]・[[占星術]]などが、[[哲学]][[思想]]や文芸と共に、イタリアを通じて西欧に広まって行った。
 
[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、都市の支配者の庇護のもと、[[異端]]の研究を行い、美少年の弟子を持ち、女と交わることがなかった。ダ・ヴィンチが描いた『[[モナ・リザ|ジョコンダの微笑]]』(『モナ・リザ』)に描かれているのは、女ではなく、若い青年ではないのかという推測がある。また、明らかに同性愛者であった[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]の絵画には、少年愛の指向が窺える。[[ダビデ|ダヴィデ]]の彫像や、[[システィナ礼拝堂]]の天井画を描き称賛された[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]は、若い男性の裸体の美を表現し、賛美した。
 
[[イングランド]]においては、少し遅れて、宗教改革後の自由な雰囲気のなか、多くの野心的な詩人や文学者が登場し、なかでも[[ウィリアム・シェイクスピア]]は、[[戯曲]]において画期的な作品を多数生みだした。当時の戯曲の上演では、女役は少年が演じていたことが知られており、シェイクスピアには、とりわけお好みの女役の少年役者がいたことが推定されている。また[[ソネット]]において、シェイクスピアは青年の美しさを賛美し、女に対する恋愛と同様の熱烈な恋情を作中の青年に寄せている。このような例は、[[エリザベス朝]]の詩において、シェイクスピア以外にも[[クリストファー・マーロウ|マーロウ]]などが存在し、当時、美青年を公然と賛美し愛を述べることが許容されていたと考えられる。
 
==== 近代 ====
[[イギリス]]では、女王[[エリザベス1世]]の崩御により[[テューダー朝]]は断絶し、[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ1世]]が[[イングランド]]王となった。彼は同性愛の嗜好があり、美青年であった[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]を寵臣として[[公爵]]位を彼に授けた。こうして誕生した英国宰相バッキンガム公は、「寝室で手柄を立てた」とも言われ、政治家として軍人として無能であった。バッキンガム公は次の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]のときにもなお王の重用と権力を保持したが、彼の無能さが[[清教徒革命]]の遠因ともなった。
 
[[イギリス]]では、女王[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の崩御により[[テューダー朝]]は断絶し、[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ1世]]が[[イングランド]]王となった。彼は[[同性愛]]の嗜好があり、美青年であった[[ジョージ・ヴィリアーズ]]を寵臣として[[公爵]]位を彼に授けた。こうして誕生した英国宰相バッキンガムは、「寝室で手柄を立てた」とも言われ、政治家として軍人として無能であった。バッキンガムは次の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]のときにもなお王の寵愛と権力を保持したが、彼の無能さが[[清教徒革命]]の遠因ともなった。
 
(続く)
 
=== アラブとペルシア ===
[[ファイル:Shah Abbas and Wine Boy.jpg|thumb|180px|シャー・アッバスと少年]]
{{Main|イスラーム世界の少年愛}}
[[アラブ人|アラブ]]においては、その遊牧社会は同時に戦士社会でもあったので、少年愛が存在したと考えられる。
 
詩人[[アブー・ヌワース]]は、酒を飲むことの喜びを公然とうたい、その作品は今日も残っているが、うたのなかで、当時の酒店には、紅顔の美少年が酒の汲み手として酒席にあり、美少年と同性愛を堪能したことが謳歌されている。
:''詳細については、 '''[[イスラーム世界の少年愛]]''' を参照。''
 
ペルシアの大学者であり詩人である[[オマル・ハイヤーム]]は、また『[[ルバイヤート]]』のなかで、酒を飲む喜びを高らかにうたい、サーキー(酒姫)が差し出す酒杯の甘美さをうたう。またサーキーの愛らしさや魅力を褒め称える。ここに同性愛というより、むしろ「少年愛」が公然と存在したことが間接的に判明する。
[[アラブ人|アラブ]]においては、その遊牧社会は同時に戦士社会でもあったので、当然、制度的な少年愛が存在したと考えられる。しかし、それが資料的に確認できるのは別の形においてである。
 
== 日本における歴史と概説 ==
[[イスラム教]]は、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の[[マッカ|メッカ]]攻略を境に、一気に勢いを増し、一世紀と経ないうちに、[[アラビア半島]]は無論、[[サーサーン朝|ササン朝ペルシア]]を滅ぼして[[メソポタミア]]を版図に置き、更に、北アフリカの[[マグリブ|マグレブ]]領域に進出し、[[イベリア半島]]にまで上陸した。[[メロヴィング朝|フランク王国]]はイスラムの進撃を[[ピレネー山脈]]で辛うじて食い止めた。
=== 古代・中世 ===
「[[続日本紀]]」には[[天武天皇]]の孫である[[道祖王]]が[[聖武天皇]]の喪中に侍児と男色行為にふけって廃太子とされた記述が見られる<ref group="注釈">[[里中満智子]]は漫画『天上の虹』において、[[天武天皇]]の皇子である[[高市皇子]]と[[柿本人麻呂]]のあいだに少年愛関係があったことを描いているが、これは高市皇子の薨去を悼んで人麻呂が詠んだ[[長歌]]の記述などから里中が創作した虚構である。確かにこの高市皇子の死を悼む人麻呂の[[長歌]]の記述から、人麻呂が深く高市皇子を敬愛したことは分かるが、これは少年愛を立証する証拠ではない。</ref>。
 
中世において、[[男色]]は、女を排除していた[[武士]]や寺院では一般的なものであったことが知られる。また、公家文化においては「悪左府」と呼ばれた[[藤原頼長]]の日記『[[台記]]』には彼が複数の男性と同衾していたことが書かれている。また[[近衛基通]]は[[平氏|平家]]と深い関係にあったため、その都落ち後には失脚の危険があったが、[[後白河天皇|後白河法皇]]との男色関係を利用して[[摂政]]の地位を保ったとされる<ref>{{Cite journal|和書|title = 保元の乱から平氏政権崩壊までの摂関家について(平成25年度 宗教・文化研究所公開講座講演録要旨)|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337578572416|publisher = 京都女子大学宗教・文化研究所|journal = 研究紀要|volume = 028|issn = 09149988|author = 樋口健太郎|authorlink = 樋口健太郎|year = 2015|page=55-56}}</ref>。これを[[九条兼実]]は「君臣合体の儀」「未曾有」と評している<ref>{{Cite Kotobank|word=近衛基通|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典|author=土谷恵|accessdate=2025-03-23}}</ref>。
軍事国家[[イスラム帝国]]は、しかし征服戦争の途上、多数の戦士の死を引き受けなければならなかった。征服者アラブ族においては、成年男子の数が極端に減少し、戦死した夫を持つ寡婦が非常に多数を占めた。為に、ムハンマドは『聖[[クルアーン]]』において、神よりの律法であるとして、男性は妻を六人まで正式に持ってよいとした。
 
[[鎌倉幕府]]の[[征夷大将軍|将軍]]や[[執権]]、有力な[[大名]]たちも制度的な少年愛を実行していたと推定されるが、歴史的に有名かつ顕著なのは、次の[[室町幕府]]3代将軍である[[足利義満]]と、その寵愛を受けた[[能楽]]師[[世阿弥]]の関係である。世阿弥は後に夢幻能を完成させ、『[[風姿花伝]]』を著すが、その書のなかで、「少年の美」についての魅力を述べている。また、[[貞成親王]](後の後崇光院)の日記『[[看聞日記]]』には2人の異母弟(松崖洪蔭・椎野寺主)と喝食(稚児)2名を取りあった結果、自分だけが締め出されて憤慨する記述<ref>『看聞日記』応永29年3月19日・4月14日条</ref>が残されている<ref>田村航「『若気嘲弄物語』は一条兼良の作か」『伝承文学研究』第51号(伝承文学研究会、2001年)/所収改題「『若気嘲弄物語』の一条兼良の作について」田村『一条兼良の学問と室町文化』(勉誠出版、2013年)</ref>。
一夫多妻を公式に認めた結果、アラブ族の男女比が通常に戻った時代においては、有力な男が女を公式に独占するという事態が起こった。『聖クルアーン』は更に、女性について、その身体の美を外部に露呈することを厳しく禁じた。素肌や身につけた装飾を、夫や家族以外の男には、決して見せてはならないと『聖クルアーン』は命じる。
 
『[[ユダヤ聖典]]』を啓典の一つとするイスラム教においては、当然ながら「[[同性愛]]」は禁じられていた。しかし、男性の性欲は存在するのであり、女性の素肌を見ることもできず、資力がなければ妻を得ることもできない状態では、貧しい男は必然的に、代償的に同性愛へと向かった。より女性に似て、髭などが生えておらず、滑らかな肌の可愛い男と求めて行けば、それは必然的に、若い青年、そして少年への性的要求となる。
 
アラブ伝承文学の集大成とも言える『[[千夜一夜物語]]』には、夥しい男女の性愛のパターンが登場するが、そのなかにあって、美しい少年たちと酒を飲み、酔って戯れる詩人の話が出てくる。詩人はカリフの怒りに触れ、罰を受けるが、見事な才知で自己の窮地を救うという話であるが、説明のないこの「美しい少年(若者)たち」とは何であるのか。
 
『聖クルアーン』はまた精神を刺激・陶酔させる飲食物の摂取を禁じ、酒を飲むことを明確に禁じている。しかしアラブの社会において、公然と酒店が存在し、経営者は[[ユダヤ人]]などが多かったとしても、客は紛れもなく[[イスラム教徒]]であった。
 
恋人に振られた為、同性愛に転じたとされる詩人[[アブー・ヌワース]]は、酒を飲むことの喜びを公然とうたい、その作品は今日も残っているが、うたのなかで、当時の酒店には、紅顔の美少年が酒の汲み手として酒席にあり、アブー・ヌワースをはじめとして、男たちは、美少年と同性愛を堪能したと婉曲に述べている。
 
ペルシアの大学者であり詩人である[[オマル・ハイヤーム]]は、また『[[ルバイヤート]]』のなかで、酒を飲む喜びを高らかにうたい、サーキー(酒姫)が差し出す酒杯の甘美さをうたう。またサーキーの愛らしさや魅力を褒め称える。サーキーとは、イスラム教世界にあっては、当然に女性ではなく、紅顔の美少年であり、ここに同性愛というより、むしろ「少年愛」が公然と存在したことが間接的に判明する。
 
=== 日本 ===
====古代====
日本においては、[[古墳時代]]や[[飛鳥時代|飛鳥]]・[[奈良時代]]に制度的少年愛が存在したと想定されるが、実証的な資料が残っていない。
 
([[里中満智子]]は漫画『天上の虹』において、[[天武天皇|天武]]の皇子である[[高市皇子|高市]]と[[柿本人麻呂]]のあいだに少年愛関係があったことを描いているが、これは高市皇子の薨去を悼んで人麻呂が詠んだ[[長歌]]の記述からの想像で、人麻呂が深く高市を敬愛したことは分かるが、少年愛の証拠にはならない。里中の想像である)。
 
[[平安時代|平安]]盛期に[[紫式部]]が書き記した『[[源氏物語]]』のなかでは、[[空蝉]]の君に逃げられた源氏が、恋文の使いの役となった空蝉の12歳ほどの弟を抱きしめ、共に寝て、少年の姉のつれなさを嘆く情景が記述されている。当時の大貴族の男は、家来筋に当たる中小貴族の子弟である少年を身辺に置いていたことが分かり、ここに「制度的少年愛」が存在したことが間接的に推測されている。
 
====中世・近世====
中世・近世において、男色は、女性を排除していた武士や寺院では一般的なものであったことが知られる。[[ミソジニー]]と[[ホモフォビア]]を特質とする西欧近代の男性社会と異なり、日本では女性蔑視と男色が結びついていたのである。
 
[[鎌倉幕府]]の[[将軍]]や[[執権]]、有力な[[大名]]たちも制度的な少年愛を実行していたと推定されるが、歴史的に有名かつ顕著なのは、次の[[室町幕府]]第三代の将軍である[[足利義満]]と、その寵愛を受けた[[能楽]]師[[世阿弥]]の関係である。世阿弥は後に[[夢幻能]]を完成させ、『[[風姿花伝]]』を著すが、その書のなかで、「少年の美」の儚さと、しかし抗いがたい魅力を述べている。
 
他方、戦士社会や支配階層における制度的範型としての少年愛とは別に、これもまた範型のヴァリエーションであるが、女色を禁じられた[[仏教]][[僧侶]]と[[寺院]]に仕える僧侶見習いとも言える「[[稚児]]」とのあいだの少年愛関係が古くから存在した。
 
男色(だんしょく)」は女色と対になる言葉で、「色の道」は単に肉体的な関係だけではなく、精神的な関係も含み、稚児との男色においては、むしろ「精神性」に重点が置かれていたことからすれば、[[古代ギリシア|古典ギリシア]]の[[アレテー]]の教育としての「少年愛」の理念と共通するものを持つ。[[武士]]と少年、僧侶と稚児のあいだの男色関係では、愛する年長者は「念者」と呼ばれたが、念は「一念」の念でもあり、倫理性や精神的信頼性が前提にあった。
 
男色の道は、世阿弥の能芸の流布と、『風姿花伝』における少年の儚さの賛美と相俟って、武士や僧侶階級だけではなく、広く一般庶民にとっても「憧れ」と「美意識」を持って期待される文化風俗となった。[[江戸時代]]に興隆し、時代を風靡する文化となる若衆道すなわち「衆道(しゅどう)」は、この時代に流行の起源がある
 
==== 戦国時代 ====
[[応仁の乱]]によって[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、[[戦国大名]]が擡頭し、彼らはその支配下に戦士社会を築いたので、共に命を賭けて戦う者として、主君と臣下という身分の差はあったが、古典的な少年愛の範型が支配する男色関係が、戦国武将と、多くその臣下の子弟出身の小姓のあいだで成立した。単に肉体関係だけではなく、主君を「[[徳]]」ある者として敬愛し、身を持って主君に尽くし、生死を共にする忠実な腹心を得るには、精神的な関係でもある男色関係が必要とされた。
[[応仁の乱]]によって[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、[[戦国大名]]が擡頭し、彼らはその支配下に戦士社会を築いたので、共に命を賭けて戦う者として、主君と臣下という身分の差はあったが、古典的な少年愛の範型が支配する男色関係が、戦国武将と、多くその臣下の子弟出身の[[小姓]]のあいだで成立した。
 
このような主君とその臣下の少年のあいだの念者の関係は、[[平安時代]]より存在したものであるが、戦国武将においてはとりわけ顕著であった。[[武田信玄]]が姓不明の小姓[[高坂昌信]]「源助」に宛てた手紙[[誓詞]]が現存しており、また[[織田信長]]と[[森蘭丸成利]](蘭丸)の関係は著名であり(一般には著名であるが小姓であったのは事実だが、男を厳しく遠ざけの関係にあっ[[上杉謙信]]かどうかは疑問視する意見[[直江兼続]]を寵愛したことが知られる。名高い戦国武将信長なかで場合確実とされるのは資料に男色の嗜好がなか関係にあったと記述は農民出身のある[[豊臣秀吉前田利家]]のみだけであったる<ref group="注釈">加賀藩の資料『[[亜相公御夜話]]』に「鶴の汁の話」言っして残されも過言ではなる</ref>。)
 
=== 近世 ===
芸人が男女に関わらず、同時に春をひさぐ例は古代から存在したが、世阿弥以降、能芸人の多くは、芸の美意識と共に、男色の相手として選ばれ来た。[[江戸時代]]には、「[[歌舞伎]]」が大衆芸能として興隆するが、歌舞伎役者には美男が多く、武士や町民などの男色の相手となっていた。なかでも、役者見習いの十六歳以下の少年は、本舞台に立つことはなかったものも、舞台の蔭より芸を学んでいたことより「陰間(かげま)」と呼ばれたが、陰間を少年愛の対象とする風俗が生まれた。
芸人が男女に関わらず、同時に春をひさぐ例は古代から存在したが、世阿弥以降、能芸人の多くは、芸の美意識と共に、男色の相手として選ばれて来た。江戸時代(徳川時代)には、「[[歌舞伎]]」が大衆芸能として興隆するが、歌舞伎役者には美男が多く、武士や町民などの男色の相手となっていた。なかでも、江戸では役者見習いの十六歳以下の少年は、本舞台に立つことはなかったものの、舞台の蔭より芸を学んでいたことより「[[陰間]](かげま)」と呼ばれたが、陰間を少年愛の対象とする風俗が生まれた。
[[ファイル:Nanshoku-936A-mod-8.jpg|thumb|right|230px|[[歌舞伎]]役者と[[陰間]]。[[宮川一笑]]画]]
江戸時代には、男色の道は、「若衆道」より取られた「[[衆道]](しゅどう)」と呼ばれ、また「若道(にゃくどう)」とも呼ばれた。男色の相手は、江戸では陰間が一般で、更に、歌舞伎や芸能と関係なく、幕府公認の江戸の遊女街である[[吉原 (東京都)|吉原]]と並んで、芳町には男色専門の美少年を揃えた「[[陰間茶屋]]」が興隆した。京都では[[宮川町]]ないし宮川筋が「[[若衆]]茶屋」(陰間茶屋)のメッカとして広く知られた。
 
3代将軍[[徳川家光]]も男色家として知られており、大勢の近習・小姓たちを寵愛したというエピソードがある。当時の[[大名]]の多くも、戦国時代以来の風習にしたがって美しい小姓たちを雇い、特に気に入った者を枕席に侍らせた。
江戸時代には、男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道(しゅどう)」と呼ばれ、また「若道(にゃくどう)」とも呼ばれたが、男色の相手は陰間が一般で、更に、歌舞伎や芸能と関係なく、幕府公認の遊女街である[[吉原 (東京都)|吉原]]と並んで、「芳町」には男色専門の美少年を揃えた「[[陰間茶屋]]」が興隆した。男色というより、若い青年あるいは少年の売春であったので、少年愛の文化であるとすべきである。
 
[[元禄|元禄時代]]には、華美な町民文化が京・大坂を中心とした三都に生まれ、高級陰間茶屋[[男娼]]の「色子」(衆道の相手で、売春をする少年はこのように呼ばれた)は、選りすぐりの美少年で、[[長振り袖]]の豪華な衣装に、髪([[]])を若い女性風のように結い、伽羅沈香の香りで身を包み、優雅な挙措仕草で、男とも女とも異なる、独特の美の文化を創り出した。
 
江戸中期に成立した実録体小説『[[護国女太平記]]』は、将軍[[徳川綱吉]]のもとで[[柳沢吉保]]が男色と女色を使って出世した様が描かれている。綱吉は女を嫌っており小姓を寵愛していたが、吉保が連れてきた女性の知性に驚いて寵愛した。その女性が死ぬと綱吉は勉学のみに目を向けるようになったが、吉保は美少年による[[能|能楽]]を催してその歓心を得た。寵愛された少年たちは後に大名になったという話を記載している<ref>{{Cite journal|和書|title = 江戸文化における大奥|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677925551232|publisher = お茶の水女子大学ジェンダー研究センター|journal = ジェンダー研究 : お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報|volume = 4|naid = 120003988639|issn = 13450638|author2 = 森本恭代(翻訳)|authorlink2 =森本恭代|author= アン・ウォルソール|authorlink = アン・ウォルソール|year = 2001|page=47-48}}</ref>。ただしこの話は[[御台所]][[鷹司信子]]によって綱吉が刺殺されるという内容の小説であり、事実であるとはみられていない。これに限らず異例な出世を遂げた人物が衆道によるものであるとされることはしばしばあり、異例の出世を遂げた[[田沼意次]]も『[[営中刃傷記]]』では衆道による出世であるとされている<ref>{{Cite book|和書|title = 新燕石十種 第2|id = {{NDLJP|1088306}} |editor = 国書刊行会|publisher = 国書刊行会|date = 明治45-大正2|chapter =営中刃傷記|series = 国書刊行会本|doi = 10.11501/1088306|page=469}}</ref>。
五代将軍[[徳川綱吉]]のもと、綱吉自身が多数の美童を小姓として持ち、十二歳で寵愛した[[柳沢吉保]]を後に[[側用人]]・[[老中]]甲府太守として栄達させたことに見ならい、諸大名こぞって寵童を持ち、その美しさ、華やかさを競い合った。寵童を取り立てる慣習は六代将軍[[徳川家宣]]の側用人で、[[猿楽]]師出身の[[間部詮房]]の例がなお続いたが、間部は[[新井白石]]と共に綱紀粛正に尽力し、八代将軍[[徳川吉宗]]の代になって、[[元禄文化]]は終焉した。
 
しかし、庶民のあいだで衆道はなお盛んであり、武士たちもまた男色の道を捨てることはなかった。[[明治維新]]を迎え、社会制度も文化もあらゆるものが一変しても、男色退勢文化は存続道を辿り細々と、衆道また罪悪は当然がら見なさりこそすず、年長性と少年のあいだの性的関係・恋愛関係は、[[大正時代]]となっても、地方においては若者宿の文化と共に存続していた。
 
====近代= 20世紀以降 ===
[[明治時代]]になっても、[[薩摩]]や[[会津]]などの[[階級族]]出身の若者を中心に、男色の風習影響根強く残った。男色{{要出典範囲|女との交際に関心を持たない者を「[[硬派]]」と呼び、女性を買うに耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、[[坪内逍遥]]の小説『当世書生気質』や[[森外]]の『ヰタ・セクスアリス』からうかがえる。しかし、近代には[[ヨーロッパ|西欧]]の性意識やキリスト教が輸入され、同性愛を「不自然」と見な定義る認識が広ていたこと、上記作品からも伺はうかがえる|date=2022年12月}}
 
== 現代の状況 ==
法体系では、明治維新当時は、男性同士による[[同性愛]]行為は「犯罪」とされていたので、維新政府も新法制定において、男性同性愛の禁止を盛り込んだが、実質的な意味はなかった。しかし、[[第二次世界大戦]]の敗北以降、少年との性的行為は社会的に禁止・否定され、今日に至っている。
[[アメリカ合衆国]]では、1978年、成人男性と少年が合意のもとで関係を持つことを擁護し、[[性的同意年齢]]を定める法律の撤廃を推進する団体[[NAMBLA]]が設立された<ref>{{Cite encyclopedia |title=NAMBLA: North American Man/Boy Love Association |encyclopedia=Gay Histories and Cultures: An Encyclopedia |date=2000 |first=Daniel C. |last=Tsang |editor-first=George E. |editor-last=Haggerty |pages=967–969 |language=en |publisher=Taylor & Francis |isbn=978-0-8153-1880-4}}</ref>。少年愛は古代には男性の一般的な性癖であった事を理由に、少年を愛することの正当性を訴えていた{{要出典|date=2023年8月}}。
 
1980年代以降の日本では漫画、アニメ、ゲームなどの少年キャラクターを指して「正太郎コンプレックス」を語源とする「[[ショタ]]」と総称、またそれらを好む者(作品の登場人物、実在の人物問わず)を同様に「[[ショタコン]]」と呼ぶ風潮が一部に存在する。ただしこれはいわゆるオタク文化や同人誌界を中心とする狭義の使われ方であり、その通用する範囲は対義語の「ロリコン」と比較して非常に狭いものとなっている。(一般社会においてはほとんど通じない。)
== 日本のサブカルチャーでの少年愛 ==
 
なお主に女装した少年の呼称としての「[[男の娘]]」(「おとこのこ」と読む。「男の子(こ)」と「娘(こ)」を引っ掛けたもの)も、やはり同様にマニアックな単語ではあるものの、オタク文化・コスプレ・同人誌界、更には風俗業界・AV業界などにも広がりを見せつつ存在している。
日本の[[サブカルチャー]]では、最初に述べたように、[[1970年]]頃より、[[少女漫画]]を舞台とした、美的な意味合いでの「少年愛」の概念が出現する。この文化における少年愛の概念は、次のような二つの意味に分けて説明される。
 
== 日本の物語作品での少年愛 ==
# (男性が)少年を愛すること
{{main|少年愛 (少女漫画)}}
# 少年同士の同性愛
 
== 著名な少年愛者の例 ==
少年愛の概念は、(1)が本義で、そこより転用して(2)の概念としても使用されていた。例えば、[[稲垣足穂]]などの小説作品においては、(2)の意味で使われている(しかし稲垣は、『少年愛の美学』では、広く資料を東西の同性愛の歴史に求め、むしろ、本義である(1)の意味で使用している)。
* [[ソークラテース|ソクラテス]](古典ギリシアの哲人。少年愛とパイディアの関連を論じた。)
* [[プラトン]](著書『餐宴』で、理想化された少年愛を論じる。プラトニック・ラヴの名祖であるが、彼自身は、[[古代ギリシア]]の上流市民の常としてアステールという名の少年を愛した。少年は夭折したため、詩が残っている)
* [[空海]](鎌倉時代から室町時代における書籍に、稚児愛の祖として記されている。空海自身が稚児愛を行っていたという証拠はなく、祖であるというのも俗説であるが、稚児愛の聖性の根拠として、当時広く知れ渡っていた)
* [[足利義満]](能役者の[[世阿弥]]を生涯愛し続けた。少年の美を讃美する『[[風姿花伝]]』は義満の影響で成立したとも言える)
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]](彼自身が稀にみる美少年で稚児だったともされ、著名となってからも、弟子の美少年を愛した)
* [[徳川綱吉]]([[元禄文化]]の将軍。儒学を好む向学な一方で、男色・女色に傾倒したとする説がある。綱吉は館林藩士時代からの家臣である12歳年下の[[柳沢吉保]]とは学問上の師弟の関係にあり、吉保は将軍綱吉のもとで大老格・国持大名となった。このことから、綱吉は少年時より吉保を寵愛し、威勢を築いたとする俗説がある。元禄文化は、衆道文化の一面がある。『[[男色大鑑]]』などが出版されている)
 
== 脚注 ==
その後サブカルチャーの分野、特に[[1970年]]代の[[少女漫画]]において、[[竹宮惠子]]の『[[風と木の詩]]』、[[萩尾望都]]の『トーマの心臓』、あるいは[[山岸凉子]]の『[[日出処の天子]]』などの少年同性愛をモチーフとした作品が一つのムーブメントを成し、これらが少年愛の語で形容されることになる。これは(2)の概念に従っている。
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
[[1980年]]代に、漫画・イラスト・小説等で構成された大版の雑誌『[[JUNE]]』が刊行され、[[竹宮惠子]]、[[栗本薫]] などが作品を提供すると共に、栗本が「小説道場」を連載コーナーとして担当し、読者投稿を批評する一方、積極的に読者の投稿作品を雑誌に掲載した頃より、(1)の意味での本来の「少年愛」が漫画・小説等で一般化し、これは「JUNE」、「[[やおい]]」とも呼ばれた。「やおい」スタイルの小説は、1973年に現れた[[藤原審爾]]の『あこがれの関係』と、それを主題的に引き継いだ栗本の『真夜中の天使』に淵源するが、古くは[[森茉莉]]の作品が耽美的な青年愛を描いていた。
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
このような背景において、[[1990年]]代半ば頃に(主に女性による)漫画[[同人誌]]界を中心として少年愛を英語に直訳して造った[[カタカナ語]]「[[ボーイズラブ]]」が現れ<!-- 注:「和製英語」ではない。「boys love」という形で現れたのではなく、当初より「ボーイズラブ」というカタカナ語であった。-->、「[[JUNE]]」、「[[やおい]]」、「耽美小説」などと呼ばれていた、同じような傾向のフィクションでの少年愛を扱った作品が、この名称で呼ばれるようになり、また新しいスタイル・ジャンルを構成するようになった。[[ボーイズラブ]]は、90年代後半以降、サブカルチャーでの少年愛の別表現の一つとなった。<!--([http://boyslove.co.jp/ 関連サイト]) 注記)この記事は「ゲイ」や「同性愛」の記事ではありません。また宣伝過剰なサイトも、望ましくありません。外部リンクについて、「少年愛」以外の要素が多いサイトについては、「ノートで、提案してください」。サイトのURLが「boyslove」であったとしても、それは現在の「ボーイズラブ」とあまり関係があるとも言えません。 -->
<references />
 
少年愛によく似た意味に使われる言葉として「[[ショタコン]]」(元はショウタロウコンプレックス)があるが、本来の少年愛が実在の少年に対する愛情を指すのに対し、この語は、ボーイズラブ同様に、主に[[イラスト]]に描かれたり[[物語]]に登場する、創作上の架空の少年に対する愛情を指す。 (追記:近頃では、単に「[[少年愛者]]」のことを指して「ショタコン」と呼び、この二つの言葉がほぼ同義として扱われる事が多い。そのため上記の定義はかなり曖昧になっているようだ。)
 
== 現代日本の状況 ==
 
[[第二次世界大戦]]の敗北以降、日本における少年愛はどのような形となったのか、確実な資料がない。ただ、男性[[同性愛]](男色・衆道等)に対し、日本の社会や文化は比較的に寛容であり肯定的でもあったことを考えると、社会の表層では姿が見えないものも、潜在的にはなお、流れは継続していたと考えられる。
 
この場合、初期のありようは、1952年刊行の『[[奇譚クラブ]]』や1960年刊行の『[[風俗奇譚]]』などが掲載した小説や読者投稿などに、その趨向が窺えるとも言える。これらの雑誌は、「SM」を主題としていたが、多様な「変態性欲志向」の読者に対応する編集を行っていた。「女装テーマ」「少年愛テーマ」の小説や情報なども掲載されていた。
 
「女装趣味者」「男性同性愛者」「少年愛マニア([[ショタコン]])」などは、時代が進むにつれ、概念的に境界が曖昧になって行き、「範型的な少年愛」を識別確認することが困難となって行く。
 
[[同性愛]]の[[性的指向]]を持つ男性を客層としたゲイ・バーが1960年代以降に隆盛するが、「シスターボーイ」「ゲイボーイ」の名で、女装した少年・青年が売春を行っていたことが知られている。他方、社会の表層では、1969年、俳優・歌手の[[池畑慎之介|ピーター]](池畑慎之介)が登場し、中性的な美少年アイドルとして独特な地位を占めた。
 
男性同性愛専門誌の『[[薔薇族]]』が1971年に刊行されると、その誌面の多くを割いて、読者の文通や交際のメッセージが載せられ、「可愛い弟求める」などの文言で、青少年との交際の希望表明があった。『薔薇族』に続いて各種の「[[ゲイ雑誌]]」が刊行され、これらの雑誌には、少年への[[性的嗜好]]を表現した写真や作品なども掲載された。
 
[[同性愛|ゲイ文化]]、[[ニューハーフ]]などが風俗世界で流通する他方、[[性同一性障害]]や[[ジェンダー]]などが、社会的な問題としても認識されて来ている。漫画・同人誌・女性向け小説の分野で、[[サブカルチャー]]としての「[[ボーイズラブ]]」が華やかに時代を風靡する他方、現実の少年に性的嗜好が固着した人も存在し、「性の多様化」とも相俟って、混沌とした状況にあるとも言える。
 
== 参考書籍 ==
{{参照方法|section=1|date=2008年4月}}
 
* [[プラトン]] 『饗宴』 岩波書店:『プラトン全集』
* [[ペトロニウス]] 『サテュリコン』 岩波書店
* [[スエトニウス]] 『ローマ皇帝伝』 岩波書店
* 作者不詳 (バートン版) 『[[千夜一夜物語]]
* [[アブー・ヌワース]] 『アラブ飲酒詩選』 岩波書店
* [[オマル・ハイヤーム]] 『ルバイヤート』 岩波書店
* [[紫式部]][[源氏物語]]』 岩波書店
* [[世阿弥]][[風姿花伝]]』 岩波書店
* [[氏家幹人]] 『武士道とエロス』 講談社
* [[稲垣足穂]] 『少年愛の美学』 河出書房新社
* [[ケネス・ドーヴァー]] 『古代ギリシアの同性愛』 リブロポート
* [[ジュヌヴィエーヴ・ドークール]] 『中世ヨーロッパの生活』 白水社・文庫クセジュ
* [[堀米]] 編 『生活の世界歴史6・中世の森の中で』 河出書房新社
* [[エドゥアルト・フックス]] 『風俗の歴史』 角川書店
* [[五味文彦]] 「院政期政治史断章」『院政期社会の研究』山川出版社
* 雑誌 『JUN』、『JUNE』 創刊号-10号(代表的に初期の十冊)
* Strato 『 Musa Puerilis 』/『 Greek Anthology, IV 』 Loeb Classical Library 所収
 
== 関連リンク項目 ==
{{Portal_LGBT}}
 
* [[少年性愛]]
* [[衆道]]
* [[少女愛]]
* [[同性愛]]
* [[エフェボフィリア]]
* [[バッチャ・バーズィー]]
* [[ノート:少年愛/少年愛者の実情|少年を対象とする性嗜好者 ~少年愛/少年愛者の実情]]
* [[ショタコン]]
* [[ナルキッソス]]
 
'''===地域的詳細'''===
* [[イスラーム世界の少年愛]]
 
== 外部リンク ==
=== サブカルチャーの少年愛 ===
* [[:de:Shōnen Ai|ドイツ語:ショウネンアイ]]
* [[:en:Shounen-ai|英語:ショウネンアイ]]
 
==外部リンク==
{{Commons|Pederasty}}
* [https://web.archive.org/web/20040815053107/http://www.androphile.org/index.html World History of Male Love] [英文]
<!-- * [http://members.jcom.home.ne.jp/0921230601/link.html 少年愛リンク] 「小児性愛=ペドフィリア」としての少年愛が主のようなので、ペドフィリアの項目のリンクの方が適切とも思える。-->
* [https://web.archive.org/web/20060215033748/http://www.androphile.org/preview/Culture/Greece/greece.htm World History of Male Love 古代ギリシアの同性愛] [英文]
* [http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2005/06/post_a3d9.html <!-- 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」-->少年愛者の苦しみ]
* [https://web.archive.org/web/20051231063015/http://www.williamapercy.com/pub-Peder.htm 書籍:古代ギリシアの少年愛と教育] [英文]
* [http://www.androphile.org/index.html World History of Male Love] [英文]
* [https://web.archive.org/web/20130525213836/http://www2.hu-berlin.de/sexology/GESUND/ARCHIV/SEN/CH11.HTM GREEKS: SEXUAL CUSTOMS OF THE ANCIENT GREEKS 参照] Strato の詩
* [http://www.androphile.org/preview/Culture/Greece/greece.htm World History of Male Love 古代ギリシアの同性愛] [英文]
* [http://www.fpc.net/sites/alexis/strato.html Strato - Poems] [英文]
<!--
* [http://www.infopt.demon.co.uk/social19.htm Intergenerational and Egalitarian Models]
* [http://www.androphile.org/preview/Library/History/hephaistosforge-zeus_gaynemede/ephorus_cretans.html Ephorus on Cretan pederasty]
* [http://www.williamapercy.com/pub-Peder.htm Pederasty and Pedagogy In Archaic Greece]
* [http://www.iranian.com/Shirazi/2005/December/Homosexuality/ "Recognition vs. Acceptance: Islamic Discourses on Homosexuality"] -->
<!-- 「ヌーディスト・クラブ」では少年愛が実施されているのですか? でなければ、そういうリンクは控えてください。-->
<!-- この項目は、同性愛の項目ではないので、少年愛を主とするサイト以外のリンクは控えてください。同性愛のサイトでも、
少年への志向が主題となっているページへのリンクを選んでください。「同性愛」サイトへの一般リンクは「同性愛」の項目に貼ってください。-->
 
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