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{{Otheruses|少年愛全般|少女漫画のジャンル|少年愛 (少女漫画)}}{{複数の問題
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{{百科事典的でない|type=NOTESSAY |date= 2012年5月}}
'''少年愛'''(しょうねんあい、{{lang-de-short|Knabenliebe}}、{{lang-en-short|Pederasty}}、{{lang-el-short|Παιδεραστία}})とは、[[成人]]と[[思春期]]前後の[[少年]]の間の[[恋愛]]関係、あるいは性的関係である。
[[ファイル:Apotheosis of Polydeukion, detail.jpg|right|thumb|200px|夭折せるポリュデウキオン<br/>師は[[少年]]を[[神]]として称えた]]
==概要==
成人者が少年に対して恋愛感情を抱くもの。歴史的には様々な理由から複数文明で発生しており、男性によって行われるものも少なくない。
なお現代の日本においては、男女問わずで年長側の少年愛者に対し「[[ショタコン]]」「[[ショタ]]」という呼称が使われる<ref>{{Cite web|和書|title=ショタ(しょた) |url=https://numan.tokyo/words/zZ48J/ |website=numan |access-date=2022-08-12 |language=ja}}</ref>こともあるが、これは横山光輝の漫画・アニメ作品「鉄人28号」の主人公である少年「金田正太郎(かねだ・しょうたろう)」が語源で、後述する「ロリータ・コンプレックス」の対義語として生まれた「正太郎コンプレックス」が短く省略されたもの。いずれも日本独自の呼称(和製英語)である。
本邦においては、中年男性視点からの少女愛とその葛藤を描いたナボコフの小説「ロリータ」を語源とする和製英語「ロリータ・コンプレックス」(略して「ロリコン」とも)と対をなす形で使われることが多い。
=== 古代ギリシア ===
[[ファイル:Kiss Briseis Painter Louvre G278 full.jpg|thumb|200px|口づけをかわす少年と男性([[ルーヴル美術館]])]]
少年愛としては、[[古代ギリシア]]の「'''パイデラスティア'''」({{lang-el-short|Παιδεραστία}}, paiderastia)が著名<ref>{{Cite book|和書|title=饗宴|publisher=光文社古典新訳文庫}}</ref>であるが、これは当時の代表的な[[ポリス]]である[[アテナイ]]では、暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに較べ、より戦士社会として厳格な[[文化]]や[[制度]]を持っていた[[スパルタ]]においては、少年愛は男性市民(国民皆兵制のスパルタでは、それは戦士であることを意味した)にとって法文化された義務であった。
古典ギリシアにおける少年愛における「少年」は、[[思春期]]またはそれより若い年代の少年(パイス, {{lang|el|παις}})ではなく、むしろ戦士としての訓練を受ける青年(エペーボス)であったが、これは文化制度としての「少年愛」での建前であった。(古典ギリシアの少年愛は、原義としての「[[エフェボフィリア|エペーボピリア]]」に近いが、10代はじめの少年との関係も含んだので、「青年愛」許りとは言い切れない)。
[[プラトン]]は「[[徳]](アレテー)」について語っているが、「アレテー」({{lang|el|αρετη}}, aretē)とは[[ギリシア語]]では、「優秀性」なり「卓越性」という意味がある。知性や知識において、また戦士としての肉体の素晴らしさや勇気、戦闘技能の卓越性、更に[[弁論]]の巧みさや、指導力を持ち、[[道徳]]的にも優れた家柄の良い「男子市民」が「アレテーを持つ人」である。アレテーを若い男性、すなわち、青年・少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。またこれが社会の「制度的範型としての少年愛」である。
古典ギリシアの少年愛においては、愛する年長の男性を「'''エラステース'''」({{lang|el|εραστης}}, erastēs)と呼び、愛され、アレテーを授けられる対象となる青少年を「'''エローメノス'''」({{lang|el|ερωμενος}}, erōmenos)、あるいは「'''パイディカ'''」({{lang|el|παιδικά}}, paidika)と呼んだ。
古典ギリシアの少年愛においては、愛される少年に求められる資質は、戦士としての[[倫理]]性であり、精神的な卓越性、則ち「善き少年」であった。少年愛の相手である少年として望まれる資質は、「[[善]](アガトン)」であった。
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[[ソクラテス]]は数多くの青少年をくどき落とす達人であったので、「しびれエイ」との綽名を持っていたが、彼が、当時の美青年の代表とも言えた[[アルキビアデス]]をくどき落とした言葉(殺し文句)は、「人々は、君の[[肉体]]の美しさを賛美する。だがぼくは、君の外見の美しさではなく、君の[[魂|たましい]]、つまり君自身の本質を愛しているのだ」という内容であった。
==== エラステースとエローメノスの立場の差 ====
古典ギリシアの少年愛における「愛する男性」と「愛される少年」の立場や感情、快楽の比率は平等ではない。[[クセノポン|クセノフォン]]は「少年は大人に対して、婦人のように性交の愉悦をともにすることはないのであって、むしろアプロジテ(愛欲)に酔うものをしらふでながめる<ref>クセノフォン(村治能就訳)『饗宴』、8.21-22(『世界人生論全集1』筑摩書房、1963)</ref>」と語り、プラトンも、少年が年長の男性に服従することで得るものの中に肉体的快楽はないという趣旨の発言をしている<ref>プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』、240b-e(『プラトン全集5』岩波書店、1974)</ref>。逆に、もし愛される側が快楽を得るようなことがあれば「これらの人の身体が自然に反した仕組をもっているということである。…このような人間は女性になりうる<ref>アリストテレス(戸塚七郎訳)『問題集』、879b20-27(『アリストテレス全集11』岩波書店、1968)</ref>」とアリストテレスは語っている。
=== 古代ローマ ===
[[ファイル:Antinous Mandragone profil.jpg|thumb|right|170px|アンティノウス、130年頃]]
[[古代ローマ]]においても、「善き少年」か「美しい少年」かの選択では、少年の「善」を求めるべきであると制度的にはされていた(ローマでは少年愛は制度化されていなかった)。
[[ネロ|皇帝ネロ]]は、皇妃ポッパエアの死後、16歳前後であったと考えられる絶世の美少年[[スポルス]]を見出し、これを去勢して女装させ、みずからの第三の妃に据えた。スポルス・サビーナは、ポッパエアと容姿が瓜二つであったとも伝わっているので、ネロは「美しい少年」を求めると同時に、「美しい少女」をも求めて愛したことになる。
[[五賢帝]]のなかでも、もっとも英邁で精神の幅に広がりがあったと考えられる[[ハドリアヌス]]は、青年アンティノウスを愛したが、アンティノウスは理由不明なままみずから命を絶った。ハドリアヌスはこれを悲しみ、一つの都市にアンティノウスの名を付け、彼が愛した青年の名を永遠のものとしようとした。
ハドリアヌスはまた、10歳の少年マルクスと出会い、この少年に英邁な資質を見出した。為に彼は、マルクスをみずからの後継者の位置に置き、少年は成人して後、皇帝位に就き、哲人皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニウス|マルクス・アウレリウス]]となった。ハドリアヌスはアンティノウスの肉体の美を愛すると共に、少年マルクスの精神の卓越性、則ちその「[[善]]」と、将来実現される「[[徳]]」を愛した。
しかし古代ローマでは、[[性愛]]のあらゆる分野で退廃が花咲いたように、少年愛でも見境がなくなっていた。紀元[[2世紀]]の[[ストラトン]]は同性愛者であるが、[[ペトロニウス]]の『サテュリコン』を見れば分かる通り、帝政期ローマの市民は、もはや善なる少年を求める「少年愛」と同性愛の区別もつかなくなっていた。
=== 西欧 ===
{{内容過剰|section=1|date=2012年5月}}
西欧社会は、[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]による[[ローマ帝国]]の蚕食と最終的な[[西ローマ帝国]]の滅亡によって、文化が成立したとも言えるが、ローマ辺境域のゲルマンや[[ケルト人|ケルト]]の地には、早くも紀元2世紀には、[[キリスト教]]が布教されていた。当初それは[[アリウス派|アレイオス派]]であったが、やがて[[
[[メロヴィング朝]]及び[[カロリング朝]][[フランク王国]]を通じて、西欧中央部はキリスト教社会として構成された。このことは、[[グレートブリテン島|大ブリテン島]]でも同様であり、[[イングランド]]([[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]])に流布したキリスト教は、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]へと伝播され、[[アイルランド]]にもまたキリスト教の波は訪れた。
[[ユダヤ
==== 中世カトリック時代 ====
西欧におけるキリスト教は、16世紀の[[宗教改革]]に至るまで、正統派西方教会つまりカトリックであった。[[カトリック教会|カトリック]]においては、[[司教]]と[[司祭]]による[[ヒエラルキー]]制度が厳密に定められ、司祭の終身独身が規定されており、この伝統は今日のカトリックにおいても継承されている。
キリスト教においては、本来男女は平等であったが、[[パウロ|パウロス]]の[[ユダヤ教]]的禁欲思想より、男性に比し卑しめられた地位にあった。カトリックにおけるもっとも重要な秘蹟である「[[ミサ|ミサ聖祭]]」においては、典礼は男性司祭が主導し、男性の手によって進行されるものであった。このため、司祭の典礼執行を助け、補助する役割として、若い男性あるいは侍童としての少年が起用された。
大小のカトリックの教会においては、ミサ聖祭で侍者(acolyte)を務める少年が準備されており、また、[[グレゴリオ聖歌]]の制度化とも相俟って、最初は成人男性の聖歌隊が、後には少年が隊員となる[[少年合唱|少年聖歌隊]]が構成された。一つに、[[アルト]]あるいは[[ソプラノ]]の本来は女が担当する声部を男性が担おうとすると、[[変声期]]前の少年の声部が必要であったことがある(この問題の一つの解決として、変声期前の少年歌手を[[去勢]]することで、[[カストラート]]を造ることが行われたが、これは別の問題を引き起こした)。
更に、6世紀頃より制度化のはじまる修道制度は、男子の修道者を前提としており、修道士は司祭同様に、終身の独身と女との交渉を断つことを誓約した。修道士の集団が[[修道院]]というコミュニティを作り、時代と共に、共同体の規模が大きくなるにつれ、修道院は男性子弟の教育機関の役割も果たすようになって来た。それは将来に修道士を目指す、見習い修道士を教育すると共に、やがて俗界に還俗して、世俗生活に戻る者の教育をも担った(女については、女子修道院がこれを担うようになった)。
このように性的禁欲と独身制を定めたカトリックの宗教的共同体のなかで、司祭と侍者、あるいは聖歌隊の少年、また[[修道士]]と修道士見習い(ノーヴィス)のあいだに機会的同性愛が生じるのはあって、司祭も、修道士も同性愛者でない場合であっても、少年との性的交渉があった。また教会の男色禁止とは別に、このような指導する者、すなわち司祭や修道士と、指導される者、すなわち侍童やノーヴィスの少年のあいだの関係は、[[古代ギリシア|古典ギリシア]]や[[ゲルマン]]の少年愛の範型をなぞるものでもあった。
王侯貴族や有力な豪族の公然とした同性愛行為や少年愛もまた、これを黙認し、更に一般庶民であっても、一定の範囲のものは、司祭に告白し、罪の赦しを願う限りはこれを許容したとも考えられる。
:同性愛は文化や時代に関係なく多少なりとも存在して来た。同性愛行為を理由とする処罰や処刑の記録は存在するが、それ以上多数の告発されない、また免罪された事例が存在したと見られる。事実上、王侯貴族や富者の行為はよほどのことがない限り大目に見られていた。また庶民のあいだでは、[[中世]]の生活では、寝所は藁の上で雑魚寝している場合が普通で、寝台があっても複数の同性の人と共用したため夜間照明の少ない中世では、同性同士の性的関係が起こり得る環境にあった。
カトリック教会が「男色」の罪を断罪するのは、キリスト教的社会の秩序を乱す者、または乱す恐れのある事態に対してである。[[中世]]における異端論争において、誰が[[正統]]か[[異端]]か不明な場合、両者は対する陣営、人物を、「男色家」「[[マニ教]]の徒」と非難するのが通常であった。従って、異端と決まった者は、教会の側が正式に、「男色家・マニ教徒」との罪状認定が行われた。
更に、中世の[[騎士道]]の理想形では、[[騎士]]は無論、多くの従者や家臣を従えるが、同時に、身分ある少年を「騎士見習い」として身近に置き、これを武勇と道徳において鍛錬するとされた。
==== 宗教改革と近世ルネッサンス ====
西欧における[[宗教改革]]は、起源を遡れば[[シトー会]]の修道院改革や、[[ドミニコ会]]、[[フランシスコ会]]などの[[托鉢修道会]]の発足にもその端緒が窺えるが、13世紀より14世紀にかけてのアリストテレス・ルネッサンスの展開とも並行して進んでいたと言える。[[教皇]]権と[[神聖ローマ帝国|皇帝]]権の争いを通じて、両者の権力が共に後退して行ったと同時に、世俗領主や[[商人]]階層の力の増大がもたらされた。
このような社会的な権力の推移を背景として、従来弾圧されて来た西欧の[[異端]]運動は、教会権力に対抗する後ろ盾を備えるようになり、[[カトリック教会]]の統制から脱する。16世紀に至って、[[ドイツ]]の[[マルティン・ルター|ルター]]の背景には世俗領主の庇護があり、[[ジュネーヴ]]の[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]は富裕商人階層の支持があり、そして[[イングランド]]においては、カトリックの権力に反抗する[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]はみずから王権を持っていた。
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教皇権が衰退し、都市商人階層の力が優越した[[イタリア]]に、[[ルネサンス|文芸復興]]([[ネオプラトニズム]]・ルネッサンス)が起こり、[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]などが、[[古代ギリシア]]や[[ローマ帝国|ローマ]]の古典を翻訳し、まさに「[[マニ教]]」の教えに通底している『[[ヘルメス文書]]』の翻訳を行い、[[魔術]]・[[錬金術]]・[[数秘術]]・[[占星術]]などが、[[哲学]][[思想]]や文芸と共に、イタリアを通じて西欧に広まって行った。
[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、都市の支配者の庇護のもと、[[異端]]の研究を行い、美少年の弟子を持ち、女
[[イングランド]]においては、少し遅れて、宗教改革後の自由な雰囲気のなか、多くの野心的な詩人や文学者が登場し、なかでも[[ウィリアム・シェイクスピア]]は、[[戯曲]]において画期的な作品を多数生みだした。当時の戯曲の上演では、女
==== 近代 ====
[[イギリス]]では、女王[[エリザベス1世]]の崩御により[[テューダー朝]]は断絶し、[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ1世]]が[[イングランド]]王となった。彼は同性愛の嗜好があり、美青年であった[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]を寵臣として[[公爵]]位を彼に授けた。こうして誕生した英国宰相バッキンガム公は、「寝室で手柄を立てた」とも言われ、政治家として軍人として無能であった。バッキンガム公は次の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]のときにもなお王の重用と権力を保持したが、彼の無能さが[[清教徒革命]]の遠因ともなった。
=== アラブとペルシア ===
[[ファイル:Shah Abbas and Wine Boy.jpg|thumb|180px|シャー・アッバスと少年]]
{{Main|イスラーム世界の少年愛}}
[[アラブ人|アラブ]]においては、その遊牧社会は同時に戦士社会でもあったので、少年愛が存在したと考えられる。
詩人[[アブー・ヌワース]]は、酒を飲むことの喜びを公然とうたい、その作品は今日も残っているが、うたのなかで、当時の酒店には、紅顔の美少年が酒の汲み手として酒席にあり、美少年と同性愛を堪能したことが謳歌されている。
ペルシアの大学者であり詩人である[[オマル・ハイヤーム]]は、また『[[ルバイヤート]]』のなかで、酒を飲む喜びを高らかにうたい、サーキー(酒姫)が差し出す酒杯の甘美さをうたう。またサーキーの愛らしさや魅力を褒め称える。ここに同性愛というより、むしろ「少年愛」が公然と存在したことが間接的に判明する。
== 日本における歴史と概説 ==
=== 古代・中世 ===
「[[続日本紀]]」には[[天武天皇]]の孫である[[道祖王]]が[[聖武天皇]]の喪中に侍児と男色行為にふけって廃太子とされた記述が見られる<ref group="注釈">[[里中満智子]]は漫画『天上の虹』において、[[天武天皇]]の皇子である[[高市皇子]]と[[柿本人麻呂]]のあいだに少年愛関係があったことを描いているが、これは高市皇子の薨去を悼んで人麻呂が詠んだ[[長歌]]の記述などから里中が創作した虚構である。確かにこの高市皇子の死を悼む人麻呂の[[長歌]]の記述から、人麻呂が深く高市皇子を敬愛したことは分かるが、これは少年愛を立証する証拠ではない。</ref>。
中世において、[[男色]]は、女を排除していた[[武士]]や寺院では一般的なものであったことが知られる。また、公家文化においては「悪左府」と呼ばれた[[藤原頼長]]の日記『[[台記]]』には彼が複数の男性と同衾していたことが書かれている。また[[近衛基通]]は[[平氏|平家]]と深い関係にあったため、その都落ち後には失脚の危険があったが、[[後白河天皇|後白河法皇]]との男色関係を利用して[[摂政]]の地位を保ったとされる<ref>{{Cite journal|和書|title = 保元の乱から平氏政権崩壊までの摂関家について(平成25年度 宗教・文化研究所公開講座講演録要旨)|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337578572416|publisher = 京都女子大学宗教・文化研究所|journal = 研究紀要|volume = 028|issn = 09149988|author = 樋口健太郎|authorlink = 樋口健太郎|year = 2015|page=55-56}}</ref>。これを[[九条兼実]]は「君臣合体の儀」「未曾有」と評している<ref>{{Cite Kotobank|word=近衛基通|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典|author=土谷恵|accessdate=2025-03-23}}</ref>。
[[鎌倉幕府]]の[[征夷大将軍|将軍]]や[[執権]]、有力な[[大名]]たちも制度的な少年愛を実行していたと推定されるが、歴史的に有名かつ顕著なのは、次の[[室町幕府]]3代将軍である[[足利義満]]と、その寵愛を受けた[[能楽]]師[[世阿弥]]の関係である。世阿弥は後に夢幻能を完成させ、『[[風姿花伝]]』を著すが、その書のなかで、「少年の美」についての魅力を述べている。また、[[貞成親王]](後の後崇光院)の日記『[[看聞日記]]』には2人の異母弟(松崖洪蔭・椎野寺主)と喝食(稚児)2名を取りあった結果、自分だけが締め出されて憤慨する記述<ref>『看聞日記』応永29年3月19日・4月14日条</ref>が残されている<ref>田村航「『若気嘲弄物語』は一条兼良の作か」『伝承文学研究』第51号(伝承文学研究会、2001年)/所収改題「『若気嘲弄物語』の一条兼良の作について」田村『一条兼良の学問と室町文化』(勉誠出版、2013年)</ref>。
他方、戦士社会や支配階層における制度的範型としての少年愛とは別に、これもまた範型のヴァリエーションであるが、女色を禁じられた[[仏教]][[僧侶]]と[[寺院]]に仕える僧侶見習いとも言える「[[稚児]]」とのあいだの少年愛関係が古くから存在した。
男色の道は、世阿弥の能芸の流布と、『風姿花伝』における少年の儚さの賛美と相俟って、武士や僧侶階級だけではなく、広く一般庶民にとっても「憧れ」と「美意識」を持って期待される文化風俗となった
==== 戦国時代 ====
[[応仁の乱]]によって[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、[[戦国大名]]が擡頭し、彼らはその支配下に戦士社会を築いたので、共に命を賭けて戦う者として、主君と臣下という身分の差はあったが、古典的な少年愛の範型が支配する男色関係が、戦国武将と、多くその臣下の子弟出身の[[小姓]]のあいだで成立した。
このような主君とその臣下の少年のあいだの念者の関係は、
=== 近世 ===
芸人が男女に関わらず、同時に春をひさぐ例は古代から存在したが、世阿弥以降、能芸人の多くは、芸の美意識と共に、男色の相手として選ばれて来た。江戸時代(徳川時代)には、「[[歌舞伎]]」が大衆芸能として興隆するが、歌舞伎役者には美男が多く、武士や町民などの男色の相手となっていた。なかでも、江戸では役者見習いの十六歳以下の少年は、本舞台に立つことはなかったものの、舞台の蔭より芸を学んでいたことより「[[陰間]](かげま)」と呼ばれたが、陰間を少年愛の対象とする風俗が生まれた。
[[ファイル:Nanshoku-936A-mod-8.jpg|thumb|right|230px|[[歌舞伎]]役者と[[陰間]]。[[宮川一笑]]画]]
江戸時代には、男色の道は、「若衆道」より取られた「[[衆道]](しゅどう)」と呼ばれ、また「若道(にゃくどう)」とも呼ばれた。男色の相手は、江戸では陰間が一般で、更に、歌舞伎や芸能と関係なく、幕府公認の江戸の遊女街である[[吉原 (東京都)|吉原]]と並んで、芳町には男色専門の美少年を揃えた「[[陰間茶屋]]」が興隆した。京都では[[宮川町]]ないし宮川筋が「[[若衆]]茶屋」(陰間茶屋)のメッカとして広く知られた。
3代将軍[[徳川家光]]も男色家として知られており、大勢の近習・小姓たちを寵愛したというエピソードがある。当時の[[大名]]の多くも、戦国時代以来の風習にしたがって美しい小姓たちを雇い、特に気に入った者を枕席に侍らせた。
[[元禄|元禄時代]]には、華美な町民文化が京・大坂を中心とした三都に生まれ、高級
江戸中期に成立した実録体小説『[[護国女太平記]]』は、将軍[[徳川綱吉]]のもとで[[柳沢吉保]]が男色と女色を使って出世した様が描かれている。綱吉は女を嫌っており小姓を寵愛していたが、吉保が連れてきた女性の知性に驚いて寵愛した。その女性が死ぬと綱吉は勉学のみに目を向けるようになったが、吉保は美少年による[[能|能楽]]を催してその歓心を得た。寵愛された少年たちは後に大名になったという話を記載している<ref>{{Cite journal|和書|title = 江戸文化における大奥|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677925551232|publisher = お茶の水女子大学ジェンダー研究センター|journal = ジェンダー研究 : お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報|volume = 4|naid = 120003988639|issn = 13450638|author2 = 森本恭代(翻訳)|authorlink2 =森本恭代|author= アン・ウォルソール|authorlink = アン・ウォルソール|year = 2001|page=47-48}}</ref>。ただしこの話は[[御台所]][[鷹司信子]]によって綱吉が刺殺されるという内容の小説であり、事実であるとはみられていない。これに限らず異例な出世を遂げた人物が衆道によるものであるとされることはしばしばあり、異例の出世を遂げた[[田沼意次]]も『[[営中刃傷記]]』では衆道による出世であるとされている<ref>{{Cite book|和書|title = 新燕石十種 第2|id = {{NDLJP|1088306}} |editor = 国書刊行会|publisher = 国書刊行会|date = 明治45-大正2|chapter =営中刃傷記|series = 国書刊行会本|doi = 10.11501/1088306|page=469}}</ref>。
===
== 現代の状況 ==
[[アメリカ合衆国]]では、1978年、成人男性と少年が合意のもとで関係を持つことを擁護し、[[性的同意年齢]]を定める法律の撤廃を推進する団体[[NAMBLA]]が設立された<ref>{{Cite encyclopedia |title=NAMBLA: North American Man/Boy Love Association |encyclopedia=Gay Histories and Cultures: An Encyclopedia |date=2000 |first=Daniel C. |last=Tsang |editor-first=George E. |editor-last=Haggerty |pages=967–969 |language=en |publisher=Taylor & Francis |isbn=978-0-8153-1880-4}}</ref>。少年愛は古代には男性の一般的な性癖であった事を理由に、少年を愛することの正当性を訴えていた{{要出典|date=2023年8月}}。
1980年代以降の日本では漫画、アニメ、ゲームなどの少年キャラクターを指して「正太郎コンプレックス」を語源とする「[[ショタ]]」と総称、またそれらを好む者(作品の登場人物、実在の人物問わず)を同様に「[[ショタコン]]」と呼ぶ風潮が一部に存在する。ただしこれはいわゆるオタク文化や同人誌界を中心とする狭義の使われ方であり、その通用する範囲は対義語の「ロリコン」と比較して非常に狭いものとなっている。(一般社会においてはほとんど通じない。)
なお主に女装した少年の呼称としての「[[男の娘]]」(「おとこのこ」と読む。「男の子(こ)」と「娘(こ)」を引っ掛けたもの)も、やはり同様にマニアックな単語ではあるものの、オタク文化・コスプレ・同人誌界、更には風俗業界・AV業界などにも広がりを見せつつ存在している。
== 日本の物語作品での少年愛 ==
{{main|少年愛 (少女漫画)}}
== 著名な少年愛者の例 ==
* [[ソークラテース|ソクラテス]](古典ギリシアの哲人。少年愛とパイディアの関連を論じた。)
* [[プラトン]](著書『餐宴』で、理想化された少年愛を論じる。プラトニック・ラヴの名祖であるが、彼自身は、[[古代ギリシア]]の上流市民の常としてアステールという名の少年を愛した。少年は夭折したため、詩が残っている)
* [[空海]](鎌倉時代から室町時代における書籍に、稚児愛の祖として記されている。空海自身が稚児愛を行っていたという証拠はなく、祖であるというのも俗説であるが、稚児愛の聖性の根拠として、当時広く知れ渡っていた)
* [[足利義満]](能役者の[[世阿弥]]を生涯愛し続けた。少年の美を讃美する『[[風姿花伝]]』は義満の影響で成立したとも言える)
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]](彼自身が稀にみる美少年で稚児だったともされ、著名となってからも、弟子の美少年を愛した)
* [[徳川綱吉]]([[元禄文化]]の将軍。儒学を好む向学な一方で、男色・女色に傾倒したとする説がある。綱吉は館林藩士時代からの家臣である12歳年下の[[柳沢吉保]]とは学問上の師弟の関係にあり、吉保は将軍綱吉のもとで大老格・国持大名となった。このことから、綱吉は少年時より吉保を寵愛し、威勢を築いたとする俗説がある。元禄文化は、衆道文化の一面がある。『[[男色大鑑]]』などが出版されている)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 参考書籍 ==
{{参照方法|section=1|date=2008年4月}}
* [[プラトン]] 『饗宴』 岩波書店:『プラトン全集』
* [[ペトロニウス]] 『サテュリコン』 岩波書店
* [[スエトニウス]] 『ローマ皇帝伝』 岩波書店
* 作者不詳 (バートン版) 『[[千夜一夜物語]]』
* [[アブー・ヌワース]] 『アラブ飲酒詩選』 岩波書店
* [[オマル・ハイヤーム]] 『ルバイヤート』 岩波書店
* [[紫式部]] 『[[源氏物語]]』 岩波書店
* [[世阿弥]] 『[[風姿花伝]]』 岩波書店
* [[氏家幹人]] 『武士道とエロス』 講談社
* [[稲垣足穂]] 『少年愛の美学』 河出書房新社
* [[ケネス・ドーヴァー]] 『古代ギリシアの同性愛』 リブロポート
* [[ジュヌヴィエーヴ・ドークール]] 『中世ヨーロッパの生活』 白水社・文庫クセジュ
* [[堀米
* [[エドゥアルト・フックス]] 『風俗の歴史』 角川書店
* [[五味文彦]] 「院政期政治史断章」『院政期社会の研究』山川出版社
* 雑誌 『JUN』、『JUNE』 創刊号-10号(代表的に初期の十冊)
* Strato 『 Musa Puerilis 』/『 Greek Anthology, IV 』 Loeb Classical Library 所収
== 関連
{{Portal_LGBT}}
* [[少年性愛]]
* [[衆道]]
* [[少女愛]]
* [[同性愛]]
* [[エフェボフィリア]]
* [[バッチャ・バーズィー]]
* [[ショタコン]]
* [[ナルキッソス]]
* [[イスラーム世界の少年愛]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Pederasty}}
* [https://web.archive.org/web/20040815053107/http://www.androphile.org/index.html World History of Male Love] [英文]
* [https://web.archive.org/web/20060215033748/http://www.androphile.org/preview/Culture/Greece/greece.htm World History of Male Love 古代ギリシアの同性愛] [英文]
* [https://web.archive.org/web/20051231063015/http://www.williamapercy.com/pub-Peder.htm 書籍:古代ギリシアの少年愛と教育] [英文]
* [https://web.archive.org/web/20130525213836/http://www2.hu-berlin.de/sexology/GESUND/ARCHIV/SEN/CH11.HTM GREEKS: SEXUAL CUSTOMS OF THE ANCIENT GREEKS 参照] Strato の詩
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