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'''アラスの和約'''([[英語{{Lang-fr|英]]:TreatyTraité d'Arras}}, {{Lang-en|Treaty of Arras、[[フランス語|仏]]:Traité d'Arras)}})は、[[百年戦争]]中の[[1435年]][[9月21日]]に[[フランス王国|フランス]]と[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]が結んだ講和条約。ブルゴーニュはそれまで同盟していた[[イングランド王国|イングランド]]から離脱してフランスと和睦、百年戦争の帰趨を決定した。
 
和約が締結されたフランス北部の町[[アラス]]で、本来イングランド・フランス・ブルゴーニュの和睦締結のため開催された'''アラス会議'''([[英語{{Lang-fr|英]]:CongressCongrès of Arras)d'Arras}})についても説明する。
 
== 経過 ==
=== ブルゴーニュの和睦提案 ===
[[1429年]]に[[ジャンヌ・ダルク]]が[[オルレアン包囲戦]]、[[パテーの戦い]]でイングランドに連勝、[[7月17日]]に[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス大聖堂]]でフランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の戴冠式が行われると、イングランド優勢だった戦況の風向きが変わり始め、フランスとブルゴーニュ公[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)の間で度々休戦協定が交わされ、ブルゴーニュが同盟国イングランドにフランスとの和睦を勧告するようになった<ref {{Refnest|group="注">|それでも[[1430年]]になるとブルゴーニュはイングランドの出兵に応じ、1度はフランスの休戦が切れたのをいいことに[[コンピエーニュ包囲戦]]に加わったブルゴーニュだったが、ジャンヌを捕らえた他は包囲が失敗に終わる、領地[[ピカルディ地域圏|ピカルディー]]がフランスに荒らされるなど損失の方が大きかった<ref>清水、P225 - P227、P243 - P245、P250 - P258</ref>。}}。イングランドはまだ戦況がまだ自国に有利な立場だであったため話に応じなかったが、ブルゴーニュは戦争の負担増加を理由に単独講和・離脱をほのめかし、徐々にフランスへ傾いていった<ref>エチュヴェリー、P184 - P200、清水、P195 - P211、カルメット、P219 - P224、城戸、P211 - P214</ref>。
 
ブルゴーニュと[[ローマ教皇庁]]が和睦を働きかけると、乗り気でなかったイングランドも承諾して、1435年にフィリップ善良公が主催するアラス会議が開かれた。しかし一方で、ブルゴーニュとフランスは和睦に向けてイングランドいたきの話し合いを会議開催前からしており、[[1434年]]12月から1435年2月にかけて善良公とシャルル7世の側近[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]が[[ヌヴェール]]で会談、和睦の条件を取り決めていた。これがアラスの和約の元になっていた<ref>エチュヴェリー、P211 - P213、城戸、P215 - P217</ref>{{Refnest|group="注">|会談内容はフランス・ブルゴーニュ間の和睦の予備交渉であり、そのために同席した[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]とフィリップ善良公の和睦に成功、和睦条件も大まかな項目が決められ進展していった。また、フランスはイングランドの交渉に臨む前に、交渉決裂後はブルゴーニュを交渉相手に変更する予備案を考え、イングランドよりブルゴーニュに向けて準備を整えていた<ref>エチュヴェリー、P211、清水、P354 - P355、カルメット、P226 - P227、城戸、P246 - P248</ref><ref>エチュヴェリー、P211 - P213、城戸、P215 - P217</ref>}}
 
=== アラス会議 ===
1435年7月から8月まで、アラスでフランス・イングランド・ブルゴーニュの3ヶ国がそれぞれの代表使節団を派遣、仲介を目的に教皇庁代表として[[教皇]][[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]の名代である教皇使節{{仮リンク|ニッコロ・アルベルガティ|en|Niccolò Albergati}}[[枢機卿]]も交えた会議が[[8月5日]]に{{仮リンク|聖ヴァースト修道院|en|Abbey of Saint-Vaast}}で始まった。当時のアラスは家屋の数24002,400われていたが、使節団は10001,000人の随行団を引き連れ、それらの警護や商人も集い、当時のアラスは人口を超える50005,000人以上の人々が行き交っていたとされる。
 
フランスはブルボン公とリッシュモンなどが大貴族、各都市の代表やシャルル7世の役人など雑多な顔触れと共に参加、イングランドは[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ヘンリー・ボーフォート]]枢機卿が首席代表として参加、ブルゴーニュはフィリップ善良公が領内の貴族、都市代表などを連れて参加した。教会側も前教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]の代から和睦交渉に携わっていたアルベルガティが参加した他、別グループとして[[スイス]]の[[バーゼル公会議]]からも使節が派遣されている<ref>エチュヴェリー、P214、清水、P357、カルメット、P228、城戸、P218 - P233</ref>。
 
会議はイングランドとフランスの主張が真っ向から対立した。イングランド側はフランス王はイングランド王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]であり、シャルル7世はあくまでそのであるという[[トロワ条約]]の内容を持ち出して主張、対するフランスはイングランドがフランス王位を放棄、[[パリ]]とその周辺地域も明け渡せば北の[[ノルマンディー]]と西の[[ギュイエンヌ]]領有を認めるという、イングランドとは反対の提案をした<ref {{Refnest|group="注">|ただ、両国は原則論に固執してばかりではなく、落とし所も探っていた。イングランドはフランスの土地の割譲や政略結婚(ヘンリー6世とシャルル7世の娘を結婚)を提案したが、一時的な休戦を求めるイングランドの態度姿勢を見抜いていたフランスは反対、交渉は成立しなかった。フランスからもイングランドに捕らえられていた[[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]の釈放、ヘンリー6世がシャルル7世に臣従するなら土地保有を認める案が出されたが、いずれも実現せず交渉決裂に終わった<ref>城戸、P237 - P245</ref>。}}。会議は平行線を辿り、[[9月6日]]にイングランド使節団はアラスを退去した。それを待っていたかのように、フランスとブルゴーニュ間の交渉は活発になり、表ではリッシュモンとフィリップ善良公が交渉を打ち合わせ、裏でシャルル7世の役人が善良公の官僚達を買収、ヌヴェールで決めた和睦条件を下地にして、より詳細に突き詰めていき両国の会談は短期間で進められていった。
 
そして9月21日、フランスとブルゴーニュの和睦が発表されアラスの和約が締結された。内容は次の通り。
 
# [[1419年]]に、シャルル7世の支持者がフィリップ善良公の父[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)を暗殺した事件をシャルル7世は善良公に謝罪する。
# [[ペロンヌ (ソンム県)|ペロンヌ]]・[[アミアン]]・[[サン=カンタン]]など幾つかの土地をシャルル7世が善良公に譲渡する。
# 善良公1代に限りシャルル7世への臣従を免除する。
 
和約はアルベルガティら教会側が保証し、合わせてイングランド・ブルゴーニュの同盟を決めたトロワ条約の無効も宣言、フランスの主導権を巡り争った[[アルマニャック派]]と[[ブルゴーニュ派]]の和解も果たされた。なお、締結前の[[9月14日]]にヘンリー6世の叔父で摂政の[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]が[[ルーアン]]で急死しているが、その死因は交渉失敗による心労とされている<ref>エチュヴェリー、P214 - P217、清水、P357 - P359、カルメット、P228 - P231、城戸、P248 - P252</ref>。
 
=== 和約締結後の3ヶ国 ===
イングランドは頑なにフランス王権を捨て頑なに放棄しなかったこと、ブルゴーニュとフランスの関係修復に注意を払わなかったためことが原因で、ブルゴーニュを失う失策を犯した。一方のフィリップ善良公はイングランドと戦争しないことを書き送ったが、怒り心頭のイングランドは[[ロンドン]]市内の[[フランドル]]商人を血祭りにあげ、海上でフランドルの商船を襲撃、[[ホラント]]などフランドル諸都市の反乱を扇動してブルゴーニュとの戦争準備を進めた。善良公も対抗措置としてイングランド領であった[[カレー (フランス)|カレー]]を包囲したが失敗、[[ブルッヘ|ブリュージュ]]・[[ヘント]]の両都市も反乱を起こし足元が揺らぎ、いだ。善良公はイングランドとの貿易が中断された状況に危機感を抱き、[[1439年]]に休戦協定が結ばれ、[[1445年]]に通商協定も締結されたことでイングランド・ブルゴーニュの友好関係は修復された<ref>カルメット、P231 - P235、城戸、P287</ref>。
 
フリーハンド自由な裁量権を得たフィリップ善良公は関心を[[ブルゴーニュ領ネーデルラント|ネーデルラント]]へ向け、[[1443年]]に[[ルクセンブルク]]を獲得、反乱を起こした都市の鎮圧に成功して領内の安全を確保、[[リエージュ司教領]]などの干渉も行い北へ領土を伸ばしていった<ref>カルメット、P235 - P245、城戸、P287</ref>。フランスはリッシュモンの指揮下でイングランドからの領土奪還を推し進め、[[1436年]]にパリを取り戻したのを契機にイングランド領諸都市を次々と落としていき、[[1440年]]に貴族の反乱([[プラグリーの乱]])も鎮圧して軍事改革・強化を進めていった。イングランドはフランスの反撃に太刀打ち出来対抗できず、国内で派閥抗争が長引いたために内部分裂を引き起こた。そのために有効な手段対策取れ打てず、[[1450年]]に[[フォルミニーの戦い]]で大敗してノルマンディーを、[[1453年]]に[[カスティヨンの戦い]]にも敗れ、ギュイエンヌも奪われ敗戦を迎えることになる<ref>エチュヴェリー、P219 - P224、P241 - P245、清水、P359 - P362、P365 - P372、城戸、P287 - P288</ref>。
 
アラスの和約はどの国が1番利益たか議論されているが、ブルゴーニュの外交の勝利とする意見があれば、ブルゴーニュをイングランドから引き離したフランスこそ勝者とする異論が出されている。フィリップ善良公の目的についても一致せず、フランスの政治的立場を確保したいという解釈と、ネーデルラント進出で背後を固めるためフランスとの和約に応じたという解釈の双方出されており、研究者の間で出され意見が対立している<ref>城戸、P252 - P253</ref>。
 
== 注釈 ==
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references />
{{reflistReflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
43行目:
* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。
 
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{{Normdaten}}
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