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{{centurybox}}
[[ファイル:Mohammed_receiving_revelation_from_the_angel_GabrielRashid al-Din Tabib - Jami al-Tawarikh, f.jpg45v detail - c. 1306-15.png|thumb|260px|right|イスラム教の誕生。画像は[[天使]][[ガブリエル|ジブリール]]から啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『[[集史]]』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画([[エディンバラ大学]]蔵)。]]
[[ファイル:Kaaba mirror edit jj.jpg|thumb|260px|right|聖地[[メッカ]]。ムハンマドはメッカから[[メディナ]]に逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカの[[カアバ]]とそれを取り囲む[[マスジド・ハラーム]]。]]
[[ファイル:IsraelPalestine-2013(2)-Jerusalem-Temple Mount-Dome of the Rock (SE exposure).jpg|thumb|260px|right|[[岩のドーム]]。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが翼のある天馬({{仮リンク|ブラーク|en|Buraq}})に乗って[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅(イスラー)]]」を行った場所聖地であり、それを記念してこの建物が建てられた。]]
[[ファイル:Xuanzang w.jpg|thumb|200px|right|[[玄奘三蔵]]。困難多い求法の旅の果てにインドに到達し[[ヴァルダナ朝]]の[[ハルシャ・ヴァルダナ|ハルシャ王]]に歓待された。旅の記録は『[[大唐西域記]]』にまとめられ、有名な伝奇小説『[[西遊記]]』のもとともなった。画像は[[東京国立博物館]]所蔵の玄奘の肖像画。]]
[[ファイル:Nalanda University India ruins.jpg|thumb|right|250px|[[ナーランダ大学|ナーランダ寺院]]。創立は[[グプタ朝]]時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で[[唯識]]派の[[シーラバドラ]](戒賢)に学んでいる。画像は現在の[[ビハール州]]に残るナーランダ院跡。]]
[[File:Arjunas Penance - Descent of the Ganges.jpg|thumb|right|250px|[[マハーバリプラム]]。南インドの[[パッラヴァ朝]]の貿易港として発展した地域で「海岸寺院」ほか特色あるヒンドゥー建築が並び立った。画像は「ガンガーの降下」とも「アルジュナの苦行」とも知られている浮き彫り(レリーフ)で岩山に掘られたものとしては世界最大級を誇る。]]
[[File:Phra Pathom Chedi National Mseum 16.jpg|thumb|right|200px|[[ドヴァーラヴァティー王国]]。[[チャオプラヤー川]]流域に[[モン人]]が築いた国家で、6世紀後半には国家体制の基盤がなされて、仏教を受容し独特の文化を開花させた。画像は、現在のタイの[[プラパトムチェーディー国立博物館]]が所蔵する漆喰の仏像で、[[ワット・プラパトムチェーディー|プラパトムチェーディー寺院]]遺跡から発掘されたもの。]]
[[ファイル:Avalokiteçvara, Malayu Srivijaya style.jpg|thumb|200px|right|[[シュリーヴィジャヤ王国]]。[[スマトラ島]]を中心に[[マレー半島]]周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧[[義浄]]が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。]]
[[File:Horyu-ji10s3200.jpg|thumb|right|250px|[[法隆寺]]。[[聖徳太子]]により7世紀初頭に創建された寺院で焼亡の後、7世紀後半に再建されたとされる。以後西院伽藍は罹災に遭わず世界最古の木造建築物に認定されている。画像は中門と五重塔を含む法隆寺西院伽藍。]]
[[ファイル:Tenjyukoku embroidery.jpg|thumb|250px|right|「[[天寿国帳]]」。[[飛鳥時代]]を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である[[橘大郎女]]の発願で作成されたとされ、[[斑鳩]][[中宮寺]]に伝来した。]]
[[ファイル:Sakafuneishi Ruins, Kamegata Sekizoubutsu.jpg|thumb|right|270px|[[飛鳥の石造物]]。[[奈良県]][[明日香村]]は[[飛鳥時代]]に都が置かれたこともあり、幾つもの遺構が残るが、その用途が知られないものも多い。画像は[[酒船石遺跡]]の小判形石造物と亀形石造物で、斉明朝の両槻宮との関連があるとも考えられている。]]
[[ファイル:SongstenGampoandwives.jpg|thumb|270px|right|吐蕃の王[[ソンツェン・ガンポ]]と二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。]]
[[ファイル:SongstenGampoandwives.jpg|thumb|270px|right|吐蕃の王[[ソンツェン・ガンポ]]。この王のもと吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。画像は王とその二人の妃である唐から来た[[文成公主]]とネパールから来たチツン。]]
[[ファイル:TangTaizong.jpg|thumb|right|180px|唐の[[太宗 (唐)|太宗]]。父[[李淵]]の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の[[律令体制]]を完成させ「[[貞観の治]]」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は[[台湾]][[国立故宮博物院]]が所蔵する太宗の肖像画。]]
[[ファイル:Longmen lu she na.jpg|thumb|right|270px|[[奉先寺]]大仏。[[洛陽]]の[[龍門]]にある[[奉先石窟]]大院で、教信仰に篤い則天武后の命で造営されたもので、。中央の大仏は[[毘盧遮那仏]]で、その顔は[[則天武后]]をモデルにしているといわれる。]]
[[ファイル:Palenque - Maske des Pakal.jpg|thumb|right|270px|[[パレンケ]]遺跡。この遺跡は[[マヤ文明]]の古典期を代表するもので、とりわけ[[パカル王]]の墓所があった「碑文の神殿」は有名である。画像はパカル王の遺体に被せられていた[[翡翠]]の[[仮面]]({{仮リンク|メキシコ国立人類学博物館|en|National Museum of Anthropology (Mexico)}}蔵)。]]
[[File:Piero della Francesca 021.jpg|right|thumb|330px|皇帝ヘラクレイオスの栄光と蹉跌。サーサーン朝のホスロー2世を下し、「{{仮リンク|真の十字架|en|True Cross}}」を奪い返したことで東ローマ皇帝ヘラクレイオスの権勢は絶頂に達した。しかしその勝利も束の間、更なる強敵イスラム軍に大敗北を喫することになる。画像は15世紀の画家[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]の壁画「{{仮リンク|真の十字架の歴史|en|The History of the True Cross}}」の「ニネヴェの戦い」の場面。]]
[[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|right|270px|「[[ギリシア火]]」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵。]]
[[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|right|330px|「[[ギリシア火]]」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵([[マドリッド]]国立図書館蔵)。]]
[[ファイル:CoronaRecesvinto01.JPG|thumb|right|200px|西ゴート王国の安定。7世紀のイベリア半島は「西ゴート・ルネサンス」または「イシドールス・ルネサンス」の時代とも呼ばれ、[[レケスウィント]]王のもとでは「西ゴート法典」の整備や、トレド教会会議の開催などの取り組みがなされた。画像は「グアラサールの宝物」の一つであるレケスウィント王の宝冠([[国立考古学博物館 (スペイン)|スペイン国立考古学博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:CoronaRecesvinto01.JPG|thumb|right|200px|西ゴート王国の安定。7世紀のイベリア半島は「西ゴート・ルネサンス」または「イシドールス・ルネサンス」の時代とも呼ばれ、[[レケスウィント]]王のもとでは「西ゴート法典」の整備や、トレド教会会議の開催などの取り組みがなされた。画像は「{{仮リンク|グアラサールの宝物|en|Treasure of Guarrazar}}」の一つであるレケスウィント王の宝冠([[国立考古学博物館 (スペイン)|スペイン国立考古学博物館]]蔵)。]]
 
'''7世紀'''(ななせいき、しちせいき)とは、[[西暦]][[601年]]から西暦[[700年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
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* 602年
** 東ローマ皇帝[[マウリキウス|マウリキオス]]が[[フォカス]]に帝位を簒奪され処刑される。
** [[来目皇子]]・[[当麻皇子]]を新羅将軍任命し、[[国造]]・[[郡司]]らの軍2万5千5000人を動員する。
** 百済僧[[観勒]]が来日し、天文・暦法・[[陰陽道]]を伝える。
* 603年 - [[新羅]]攻撃を中止する。[[小墾田宮]]に遷る。[[冠位十二階]]を制定する。
* 603年 - [[新羅]]攻撃を中止する。[[豊浦宮]]から[[小墾田宮]]に遷る。[[冠位十二階]]を制定する。
* 604年
** 冠位十二階制を施行する。厩戸皇子が[[十七条憲法]]を作る。[[朝礼]]を改める。
** [[隋]]で[[煬帝]]が即位する。<!--文帝暗殺はあくまでも伝承なので削除-->
* 605年 -
** 隋の煬帝が[[大運河]]の建設を命じる。
** 推古天皇が[[飛鳥寺]]の大仏の鋳造を発願する。
* 606年
** [[ハルシャ・ヴァルダナ]]が[[北インド]]に[[ヴァルダナ朝]]を建国。
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** 第2回[[遣隋使]]として[[小野妹子]]が派遣される。
*** 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。
** [[法隆寺]]が創建される(『[[上宮聖徳法王帝説]]』ほか)。国ごとに[[屯倉]]を置く。
** ランゴバルド王アギルルフォが王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。
** 隋の煬帝が「流求国」に使者を送る(中国側史料による最古の[[琉球諸島|琉球]]についての言及)。
** ランゴバルド王{{仮リンク|アギルルフォ|en|Agilulf}}が王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。
*** 王妃テオドリンダにより「[[ロンバルディアの鉄王冠]]」が整備され、[[モンツァ]]大聖堂が造営される。
** 国ごとに[[屯倉]]を置く。
** [[法隆寺]]が創建される(『[[上宮聖徳法王帝説]]』ほか)。
* 608年
** 小野妹子が隋使[[裴世清]]らとともに帰国する。隋使が朝廷に参内し帰国する。
48 ⟶ 54行目:
** 東ローマ皇帝フォカスがローマ教皇[[ボニファティウス4世 (ローマ教皇)|ボニファティウス4世]]に[[パンテオン]]を聖堂として寄進する。
*** この記念に[[フォロ・ロマーノ]]に[[フォカスの記念柱]]が建てられる(ローマ皇帝によるローマ市の記念物としては最後のもの)。
** [[カルタゴ]]総督{{仮リンク|ヘラクレイオス(父)|en|Heraclius_the_Elder}}が東ローマ皇帝フォカスに反乱を起こす。
* 609年
** 小野妹子ら帰国する。
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{{main|610年代}}
* 610年
** 隋に使を派遣する。高句麗僧[[曇徴]]が紙墨の技術を伝える。
** カルタゴから[[ヘラクレイオス]](子)がコンスタンティノポリスに進軍。
*** フォカスが処刑され、ヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位([[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の成立)。
** [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が[[ヒラー山]]で[[唯一神]][[アッラー]]からの啓示を受ける([[イスラム教]]を興すの始まり)
** 修道士[[ンバヌス]]がフランク王国(ブルグン)から追放される。
* 611年 - [[隋]]が[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]を開始( - [[614年]])するが、失敗に終わる。
* 612年 - 百済人[[味摩之]]により日本に[[伎楽]]が伝えられる。
* 613年
** [[サーサーン朝]]のホスロー2世が東ローマ帝国領[[シリア]]を占領。翌年には[[エルサレム]]を占領する
** [[ネウストリア]]王[[クロタール2世 (フランク王)|クロタール2世]]が[[アウストラシア]]摂政[[ブルンヒルド]]を倒してフランク王国を統一し、首都をパリに定める。
** アイルランド人ガルスが[[ザンクト・ガレン修道院]]のもととなる庵を築く。
** 隋で[[楊玄感の乱]]の乱
* 614年
** - {{仮リンク|パリ勅令|en|Edict of Paris}}がクロタール2世によって出される。
*** アウストラシア・ブルグント各分王国では[[宮宰]]が国王の代理人となり、その特別な地位が認められるようになる。
** 修道士コルンバヌスが北イタリアに[[ボッビオ]]修道院を創設する。
* 617年 - サーサーン朝が東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲。
** サーサーン朝のホスロー2世が東ローマ帝国領[[エルサレム]]を占領する。
* 618年 - 煬帝が[[宇文化及]]に殺害され隋が滅亡する。[[李淵]]が[[唐]]を建国。
* 615年 - 隋の煬帝が雁門で東突厥の[[始畢可汗]]に包囲される。
* 617年 - サーサーン朝が東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲する。
* 618年 - [[揚州 (江蘇省)|江都]]([[揚州 (江蘇省)|揚州]])にて煬帝が[[宇文化及]]・[[司馬徳戡]]に殺害され隋が滅亡する。
** 長安で[[李淵]]が[[唐]]を建国。洛陽で[[王世充]]、河北楽寿で[[竇建徳]]が独自政権を樹立。
* 618年頃 - コンスタンティノポリスでの都市民への穀物支給の廃止(「[[パンとサーカス]]」の終焉)。
 
=== 620年代 ===
{{main|620年代}}
* 621620年 - 東ローマ帝国公用語を[[開元通宝ラテン語]]」の鋳造が始まから[[ギリシア語]]に変更する。
* 621年
** 唐で「[[開元通宝]]」の鋳造が始まる。
** 「[[クルアーン]]」の伝承ではこの年にムハンマドが「[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]]」を行う。
*** メッカからエルサレムの旅(イスラー)と、エルサレムから天界への旅(ミウラージュ)がある。
* 622年
** 厩戸皇子が斑鳩宮で死去、その墓は[[叡福寺北古墳]](磯長墓)と伝わる
** [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が[[マディーナ|メディナ]]へ遷る([[ヒジュラ]](聖遷)- [[イスヒジュ暦]]元年)。メディナに最初の[[モスク]]である[[クバー・モスク]]が建設される
** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝への反撃を開始。
* 623年
* 623年 - [[アヴァール]]から独立した[[西スラブ人]]が{{仮リンク|サモ王国|en|Samo's Empire}}を建てる( - [[658年]])。
** [[アヴァール]]から独立した[[西スラブ人]]が[[サモ王国]]を建てる( - [[658年]])。
** [[鞍作止利]]により法隆寺[[金堂]]本尊銅造[[法隆寺金堂釈迦三尊像|釈迦三尊像]]が作られる。
* 624年
** [[バドルの戦い]]でムハンマドのメディナ軍がメッカ軍に勝利。[[ラマダーン]]月の始まり。
** 唐で「武徳律令」が制定され、均田制や租庸調制が定められる。
* 625年
** [[ウフドの戦い]]でメッカ軍がメディナ軍に勝利。
** イングランド東部[[イースト・アングリア]]の[[サットン・フー]]の船葬墓からこの年の銘の金貨が出土している。
* 626625
** トルコ南部[[ボドルム]]沖の({{仮リンク|ヤッシ・アダ島|en|Yassi Ada}})で東ローマ帝国の交易船が沈没する。
* 626年頃
** 唐で[[玄武門の変]]が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]として即位( - [[649年]])([[貞観の治]])。
** [[蘇我馬子]]が死去、その墓は[[石舞台古墳]]と伝わる
** サーサーン朝・アヴァール人・スラヴ人による[[コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|コンスタンティノポリス包囲戦]]。
* 627年 - [[ハンダクの戦い]](塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。[[クライザ族虐殺事件]]が起こる。
* 627年
** [[ニネヴェの戦い (627年)|ニネヴェの戦い]]で東ローマ軍がサーサーン朝軍に勝利。
** [[ハンダクの戦い]](塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。
* 628年
** [[推古天皇]]が死去、その墓は[[山田高塚古墳]](磯長山田陵)と伝わる
** [[真臘]]のイシャーナヴァルマン1世が[[扶南]]を滅ぼす。
** [[フダイビーヤの和議]]。{{仮リンク|ハイバル征服|en|Battle of Khaybar}}
** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝の都クテシフォンを陥落させる。
*** サーサーン朝のホスロー2世が暗殺され、息子カワード2世はヘラクレイオスと和睦、サーサーン朝の占領地は返還される。
*** [[カフカス・アルバニア王国]]の{{仮リンク|ヴァラズ・グレゴール|en|Varaz Grigor}}王が独立する。
* 629年
** [[唐]]の僧侶[[玄奘]](三蔵法師)がインドへ向けて出発( - [[645年]])。
** 629年 - 敏達天皇の孫の田村皇子が、第34代[[舒明天皇]]として即位する。
** 首都コンスタンティノポリスヘ凱旋した皇帝ヘラクレイオスが、「[[バシレウス]]」の称号を始めて用いる。
 
=== 630年代 ===
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** ムハンマドが[[マッカ|メッカ]]を征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。
** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。
*** サーサーン朝から返還された「[[聖十字架|真の十字架]](True Cross)」を奉献する[[聖墳墓教会]]を再建。
** 唐軍により[[頡利可汗]]が捕えられ[[東突厥]]が滅亡、唐は[[羈縻支配]]を行う
*** 唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。
** 第1回[[遣唐使]]として[[犬上御田鍬]]が派遣される。
* 631年 - 唐の[[魏徴]]らにより『[[群書治要]]』が編纂される。
* 632年 - [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が死去。
* 632年 - [[別離の巡礼]]の後に[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が死去。
** [[アブー・バクル]]が後継のイスラム指導者である初代[[カリフ]]に選ばれる。リッダ(背教)の戦いが起こる( - 633年)。
** 遺体は[[預言者のモスク]](マスジッド・アルナバウィ)の墓に葬られる。
** [[アブー・バクル]]が後継のイスラム指導者である初代[[カリフ]]に選ばれる。
** 後継カリフの選出をめぐり{{仮リンク|リッダ(背教)の戦い|en|Ridda wars}}が起こる( - 633年)。
* 633年 - [[イスラーム教徒のペルシア征服|イスラム教徒のペルシア征服]]が始まる。
* 634年 - アブー・バクル死去により第2代カリフに[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]が選ばれる。
* 634年頃 - [[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]のプラシーケン2世が[[ナルマダー川]]の戦いで[[ハルシャ・ヴァルダナ]]の軍を破り南インドの独立を維持する。
* 635年以前 - {{仮リンク|クブラト・ハン|en|Kubrat}}により黒海北岸の[[タマン半島]]のファナゴリアを中心とする[[大ブルガリア (中世)|大ブルガリア]]が成立する。
* 635年
** [[ティカル]]の王子[[バラフ・チャン・カウィール]]が[[ドス・ピラス]]の支配者になる。
** [[ノーサンブリア]]王オスワルドの招きにより、エイダンが[[リンディスファーン修道院]]を設立する。
** ペルシア人司祭の[[阿羅本]]らにより唐にキリスト教[[ネストリオス派]]([[景教]])が伝えられる。
** 唐の[[李靖]]が[[吐谷渾]]を征討する。
* 636年
** [[ヤルムークの戦い|ヤルムーク河畔の戦い]]で、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍が[[イスラム帝国]]軍に惨敗。
*** 東ローマ帝国はサーサーン朝から奪回したシリアの領土を再び失う。
** フランク王[[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]により王家の墓所となる[[サン=ドニ大聖堂|サン・ドニ教会]]がパリ近郊に設置される。
* 637年
** [[ディシーヤの戦い]]で、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。
** 唐で「貞観律令」が施行される。
** [[舒明天皇]]9年のこの年、轟音を伴う[[流星]]が確認される、[[僧旻]]はこれを「[[天狗]]」と呼ぶ。
* 638年
** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「{{仮リンク|エクテシス|en|Ecthesis}}」を発布。
** カリフのウマルにより派遣されたウトバ・イブン・ガズワーンがイスラム最初の[[ミスル]](軍営都市)の[[バスラ]]を建設する。
* 639年
** 舒明天皇の命で[[大安寺|百済大寺]](吉備池廃寺)が建立される(天皇の命による日本初の官寺)
*** この寺院は天皇の命による日本初の官寺で、後の高市大寺・大官大寺・[[大安寺]]のもととなる。
** サアド・イブン・アビー・ワッカースによりミスルの[[クーファ]]が建設される。
 
136 ⟶ 170行目:
** イスラム帝国の[[シリア|シリア地方]]征服が完了。
** 唐が麴氏[[高昌国]]を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の[[安西都護府]])を設置。
* 640年頃 -
** 中部ジャワに[[シャイレーンドラ朝]]が成立。
* 641年
** 舒明天皇が死去。
** 吐蕃の[[ソンツェン・ガンポ]]王(松賛干布)が唐の[[文成公主]]を妃として迎える。
** {{仮リンク|アレクサンドリア囲戦 (641年)|en|Siege of Alexandria (641)}}でイスラム軍が勝利。東ローマ帝国はエジプトを喪失
*** 東ローマ帝国はエジプトを喪失。イスラム軍が[[ミスル]](軍営都市)の[[フスタート]]を建設。
** 東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世死去、後継の皇帝[[ヘラクロナス]]とその母[[マルティナ (東ローマ皇后)|マルティナ]]が追放され、[[コンスタンス2世]]が即位。
** 玄奘がハルシャ・ヴァルダナ王臨席のもと[[カナウジ]]城での論戦に勝利し、プラヤーガ(現[[イラーハーバード]])の「無遮大会」に参加する。
* 642年
** [[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。
** [[シャフレ・レイ|レイ]]でスィヤーワフシュを首領とするゾロアスター教徒の反乱が起きる。
** 第35代[[斉明天皇|皇極天皇]]即位。
** フスタートにアフリカ大陸最古のモスクである[[アムル・イブン・アル=アース・モスク]]が建立される。
** 第35代[[斉明天皇|皇極天皇]]即位。[[船王後|船氏王後墓誌]]([[三井記念美術館]]蔵)が作成される。
** [[高句麗]]の[[淵蓋蘇文]]が[[栄留王]]を弑害し、[[宝蔵王]]を擁立。
* 643年
** [[蘇我入鹿]]が[[山背大兄王]]一家(上宮王家)を滅ぼす。皇極天皇が[[飛鳥板葺宮]]に遷る
** 唐の太宗の長男[[李承乾|承乾]]が廃太子となる。
** ランゴバルド王国で最初の法典である『{{仮リンク|エディクトゥム・ロタリ|en|Edictum Rothari}}』が制定される。
** [[拂菻]]王波多力(東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]か)の使者が唐に来訪。
* 644年 - ウマルが暗殺され、第3代カリフに[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が選ばれる。
* 644年
** ウマルが暗殺され、第3代カリフに[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が選ばれる。
** [[富士川]]周辺で[[大生部多]]により[[常世神]]と称して虫を祀る信仰が流行する。
** [[信濃国]][[善光寺]]が建造される。
* 645年
** 玄奘が帰国し長安に到着。
** 6月12日 - [[天智天皇|中大兄皇子]]・[[藤原鎌足|中臣鎌足]]らが蘇我入鹿を宮中で暗殺する。し([[6月12日]])、[[蘇我蝦夷]]は自殺する([[乙巳の変]])。
*** 皇極天皇が譲位し第36代[[孝徳天皇]]が即位。[[難波長柄豊碕]]へ遷都( - [[655年]])。[[古人大兄皇子]]が謀反の疑いで処刑される
*** 日本最初の元号「[[大化]]」を導入し([[大化の改新]])、[[左大臣]]・[[右大臣]]・[[内臣]]・[[国博士]]を設置。
*** [[古人大兄皇子]]が謀反の疑いで処刑される。
* 646年
** [[改新の詔]]を宣する([[大化の改新]])。大化の[[薄葬令]]が出される。
** 僧[[道登]]が[[宇治橋 (宇治市)|宇治橋]]を架けたと記す日本最古の石碑が建てられる([[宇治橋断碑]])。
* 647年 - ハルシャ・ヴァルダナ王の死により[[ヴァルダナ朝]]の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。
** 唐の使節[[王玄策]]らが北インドでアラナシュの反乱に遭遇、吐蕃らと協力してアラナシュを捕縛し唐に連行する。
* 648年 - 東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]が「テュポス」を発布。
* 648年 - 東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]が「{{仮リンク|テュポス|en|Typos of Constans}}」を発布。
* 649年 - [[蘇我倉山田石川麻呂]]が讒言により[[山田寺]]にて自害する。
 
166 ⟶ 212行目:
* 650年頃
** [[スマトラ島]]に[[シュリーヴィジャヤ王国]]が成立。
** イギリスの「{{仮リンク|スタッフォードシャーの遺宝|en|Staffordshire Hoard}}([[バーミンガム博物館]]蔵)」が埋蔵される。
* 650年
** 内モンゴルの東突厥の旧領フフホト付近に瀚海都護府(後の単于都護府)を設置。
* 651年
** オクサス川の戦いで敗北したサーサーン朝ペルシアが滅亡。子ペーロー帝[[ヤデギルド3世は唐に亡命す]]が暗殺される。
*** 事実上サーサーン朝ペルシアが滅亡、皇子[[ペーローズ3世]]は唐に亡命する。
** イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『[[クルアーン]](コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。
** イスラム帝国の使者が始めて唐に来訪する。
** 「永徽律令」が施行される。
** 唐で「永徽律令」が施行される。
* 652年
** 唐で「[[唐律疏義]](永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「[[春秋決獄]]」が廃止される。
** 玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の[[大慈恩寺]]に[[大雁塔]]が建てられる。
* 653年
177 ⟶ 228行目:
** 東ローマ皇帝コンスタンス2世が教皇[[マルティヌス1世 (ローマ教皇)|マルティヌス1世]]を捕縛し[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス|ケルソン]]に追放する。
** 唐で[[孔穎達]]・[[顔師古]]らにより『[[五経正義]]』180巻が選定される。
** 大慈恩寺大雁塔に書家[[褚遂良]]による「雁塔聖教序」の石碑が置かれる。
* 654年
** 西ゴート王[[レケスウィント]]が属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。
183 ⟶ 235行目:
** 唐の高宗の[[王皇后 (唐高宗)|皇后王氏]]が廃され、[[則天武后|武照]]が皇后に冊立される。
** 皇極天皇が重祚し、第37代[[斉明天皇]]となる。
* 656年 - ウスマーンが{{仮リンク|ウスマーンの暗殺|en|Assassination of Uthman|label=暗殺}}され、[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]が第4代カリフに選出される。
** この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( - [[661年]])。[[ラクダの戦い]][[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]がアリーに敗北。
* 657年
** 唐軍により[[阿史那賀魯|沙鉢羅可汗]]が捕えられ[[西突厥]]が唐の[[羈縻政策]]下に置かれる。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。
194 ⟶ 246行目:
** 東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。
*** この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のための[[テマ制]](軍管区制)の原型が形成される。
* 659年
** 斉明天皇が[[出雲国造]]に命じて「神の宮([[出雲大社]])」を作らせる。
 
=== 660年代 ===
201 ⟶ 255行目:
** 唐で「皇帝」と「皇后」をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名。
* 661年
** カリフのアリーが[[ハワーリジュ派]]に{{仮リンク|アリーの暗殺|en|Assassination of Ali|label=暗殺}}される。
*** シリア総督の[[ムアーウィヤ]]がカリフとなり、[[ダマスクス]]を都とする[[ウマイヤ朝]]が成立。
** 百済復興支援のため斉明天皇が九州に出兵、百済王子[[扶余豊璋|豊璋]]らと日本軍が渡海。
** 斉明天皇が死去。中大兄皇子は皇太子のまま[[称制]]を継続。
*** [[筑紫国]][[朝倉橘広庭宮]]にて斉明天皇が死去。中大兄皇子は皇太子のまま[[称制]]を継続。
** [[大夏|吐火羅]]国を始めとする[[西域]]諸国が遣使を送って唐に内属する。
*** これにより唐は于闐国(ホータン)以西、波斯国(サーサーン朝)以東の16国にそれぞれ[[都督]]を置く。
** [[モン族 (Mon)|モン族]]の[[ハリプンチャイ王国]]が成立する。
* 663年
209 ⟶ 266行目:
** 吐蕃の宰相ガル・トンツェンが[[吐谷渾]]を征服する。
** 東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマに赴き教皇[[ウィタリアヌス (ローマ教皇)|ウィタリアヌス]]と会見。
*** コンスタンス2世は南イタリアからシチリア島に向かい、[[シラクサ]]に宮廷を置く。
* 664年 - [[ウィットビー教会会議]]が開かれローマ式典礼がケルト式典礼の優位に立つ。
* 664年
* 665年頃 - クブラト・ハンが死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。
** [[ウィットビー教会会議]]が開かれ、ローマ式典礼が[[ケルト系キリスト教|ケルト式典礼]]より優位に立つ。
** [[甲子の宣]]により、[[冠位二十六階]]を制定し、[[氏上]]・[[民部]]・[[家部]]を定める。
** [[対馬]]・[[壱岐]]・筑紫などに[[防人]]・[[烽火]]を設置し、筑紫に[[水城]]を築造。
* 665年頃 - {{仮リンク|クブラト・ハン|en|Kubrat}}が死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。
** 北方のヴォルガ川中流域には[[ヴォルガ・ブルガール]]人、西方のバルカン半島には[[ドナウ・ブルガール]]人が拡大する。
* 666年 - 唐の高宗が武后とともに[[泰山]]にて[[封禅]]を行う。
* 667年 - 中大兄皇子が[[近江国]][[近江宮]](大津宮)へ遷都( - 672年)。
* 668年
** 東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。
** 唐が高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされし、平壌に[[安東都護府]]を設置する([[唐の高句麗出兵]])。
** 中大兄皇子が即位し、第38代[[天智天皇]]となる。
** [[尾張国]]の熱田社([[熱田神宮]])から新羅僧の道行が[[草薙剣]]を奪取する([[草薙剣盗難事件]])。
* 669年 - [[内大臣]][[中臣鎌足]]が[[大織冠]]を授けられて、「[[藤原氏|藤原]]」の姓を賜わり、翌日に死去。
* 669年
** [[内大臣]][[藤原鎌足|中臣鎌足]]が[[大織冠]]を授けられて、「[[藤原氏|藤原]]」の姓を賜わり、翌日に死去。
** 藤原鎌足の発願で山城国山階寺([[興福寺]]の前身)が創建される。
 
=== 670年代 ===
{{main|670年代}}
* 670年
** 全国的に[[戸籍]]をつくる([[古代日本の戸籍制度#庚午(こうご)の年籍|庚午年籍]])。
** 聖徳太子時代に創建された法隆寺([[若草伽藍]])が炎上する。7世紀末までに再建がなされる。
** 吐谷渾を復興しようとした唐が[[青海湖]]南の{{仮リンク|大非川の戦い|zh|大非川之戰|}}で吐蕃に敗北する。
** ウマイヤ朝軍が[[チュニジア]]に進軍し、[[ケルアン]](カイラワーン)市の建設に着手( - [[675年]])。
* 671年
** 唐僧[[義浄]]が渡印のため[[広州]]を出航し室利仏逝([[シュリーヴィジャヤ王国]]か)に到着。
** 新羅と唐が対立する([[唐・新羅戦争]])。
** 大友皇子が[[太政大臣]]となる。[[近江令]]の制定、天智天皇が[[水時計]](漏刻)を作らせ[[時報]]を始める。
* 672年
* 672年 - 天智天皇死去。大友皇子が近江宮の首班となる(第39代[[弘文天皇]])。
** 天智天皇死去。
** [[壬申の乱]]で大友皇子を大海人皇子が倒し第40代[[天武天皇]]として即位。近江京から[[飛鳥浄御原宮]]に遷る。
*** 大友皇子が近江宮の首班となる(第39代[[弘文天皇]])。
* 673年 - ウマイヤ朝海軍が[[キュジコス]]半島を前線基地として確保。
** [[壬申の乱]]が起こる。
** ここから東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを[[678年]]まで継続して包囲。東ローマ軍は[[ギリシア火]]でこれを撃退
*** 大海人皇子が大友皇子を倒し、第40代[[天武天皇]]として即位。
*** 近江宮から[[飛鳥浄御原宮]]に遷る。
** [[パレンケ]]王[[パカル王|パカル]]の妃ツァクブ・アハウが死去し、パレンケ13号神殿に埋葬される(「赤の女王(レイナ・ロハ)」。
* 673年
** ウマイヤ朝海軍が[[キュジコス]]半島を前線基地として確保。
** フランク王[[クロタール3世]]死去、弟の[[キルデリク2世]]が即位(「{{仮リンク|怠惰な王|fr|rois fainéants}}」の時代 - 751年)。
* 674年 - キュジコス半島からウマイヤ朝海軍が東ローマ帝国首都[[コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)|コンスタンティノポリスを包囲]]。
** ウマイヤ朝の攻撃は[[678年]]まで断続的に行われるが、東ローマ海軍は[[ギリシア火]]でこれを撃退。
* 675年
** 天武天皇が[[日本の獣肉食の歴史|日本で最初の肉食禁止の詔]]を出す。
** [[竜門石窟]]の[[奉先寺]]洞[[毘盧遮那仏]]が完成する。
** フランク王キルデリク2世が暗殺され、宮宰[[エブロイン]]が実権を握る。
* 676年 - 伎伐浦海戦で唐を破った新羅が[[朝鮮半島]]を統一。
* 678年 - 西安から出土した百済系将軍「[[禰軍]]」の墓誌(拓本)にこの年の唐の年号「儀鳳3年」と最古の「日本」という[[国号]]の記述が見られる。
* 679年 - 唐が[[タリム盆地]]の[[スイアブ]]を占領、碎葉鎮と改称し、安西四鎮の一つとなる。
** スイアブはかつての西突厥の根拠地で、[[キルギス共和国]]のアク・べシム遺跡がそれに当たる。
 
=== 680年代 ===
242 ⟶ 323行目:
** [[オングロスの戦い]]で東ローマ軍が[[ブルガール人]]に敗北。
** 唐で皇太子[[李賢 (唐)|李賢]](章懐太子)が廃される。
** 天武天皇が[[薬師寺]]建立の発願をする。
* 681年
** [[飛鳥浄御原令]]の編纂を開始する。[[上野三碑]]の[[山ノ上碑]]が建てられる。
** ブルガール人[[アスパルフ]]が[[第一ブルガリア帝国]]を建国し、[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]を都に定める。
* 682年
* 682年 - [[東突厥]]の[[阿史那骨咄禄]]が唐の[[羈縻政策]]を脱して可汗を名乗り、第二可汗国が成立する。
** [[東突厥]]の[[阿史那骨咄禄]]が唐の[[羈縻政策]]を脱して可汗を名乗り、第二可汗国が成立する。
** ウマイヤ朝軍のウクバ・イブン・ナーフィウが[[マグリブ]]を制圧し大西洋に到達する。
** [[ドス・ピラス]]の王女{{仮リンク|ワック・チャニル・アハウ|en|Wak Chanil Ajaw}}(「6の空」)が[[ナランホ]]に新王朝を建てる。
* 683年
** メッカにて[[アブドゥッラー=イブン・アッズバイル|イブン・アッズバイル]]がカリフを名乗る。
*** ウマイヤ朝が反乱軍と激突しメッカのカーバ神殿が炎上(アルハッラーの戦い)、[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]( - [[692年]])が勃発。
** [[マヤ]]の[[パレンケ]]「碑文の神殿」の地下室に[[パカル王]]が埋葬される。
** 唐の皇帝高宗が死去し、息子の中宗が継ぐ。
* 683年頃 - 天武天皇の下で[[富本銭]]が発行される。
* 684年 - 唐の中宗が退位させられ、[[睿宗 (唐)|睿宗]]が即位。李敬業の反乱。
* 684年
** 唐の中宗が退位させられ、[[睿宗 (唐)|睿宗]]が即位。{{仮リンク|徐敬業|zh|徐敬業}}の反乱。
** [[白鳳地震]]。[[八色の姓]]の制定。
* 685年 - [[ムフタール・アッ=サカフィー|ムフタール]]の反乱。
* 686年 - 天武天皇が死去し、第41代[[持統天皇]]が即位。[[大津皇子]]が謀反の疑いで処刑される。
* 689年 - [[律令制#飛鳥浄御原令|飛鳥浄御原令]]を発令。
* 687年 - テルトリーの戦いで、アウストラシア宮宰[[ピピン2世]](中ピピン)がネウストリア宮宰ワラットを倒し、[[フランク王国]]の実権を握る。
* 688年 - 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクとの間で[[キプロス]]を共同統治することに合意。
* 689年 - [[律令制#飛鳥浄御原令|飛鳥浄御原令]]を発令。
 
=== 690年代 ===
262 ⟶ 352行目:
** 唐で[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后([[則天武后]])が自らを聖神皇帝と称し「天授」と改元する。
*** 国号を「周」とし唐王朝は一時断絶( - [[705年]])。洛陽を[[神都]]と改称して遷都し、中国各地に大雲経寺を設置。
** 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世の命により{{仮リンク|パウリキアヌス派|en|Paulicianism}}の創始者である[[アルメニア]]人{{仮リンク|コンスタンティノス・シルヴァノス|en|Constantine-Silvanus}}が火刑に処される。
* 691年 - 則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。
* 691年
* 692年 - ウマイヤ朝カリフの[[アブドゥルマリク]]により[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]が完成する([[688年]] - )。
** 則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。
** 唐僧[[義浄]]による『[[南海寄帰内法伝]]』が完成する。
** 東ローマ皇帝[[ユスティニアノス2世]]が{{仮リンク|トゥルロ教会会議|en|Quinisext Council}}を開催する。
* 692年
** ウマイヤ朝カリフの[[アブドゥルマリク]]により[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]が完成する([[688年]] - )。
** [[セバストポリスの戦い]]で、ウマイヤ朝軍が東ローマ軍を破る。
* 693年 - ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクが[[ダマスカス]]でイスラーム王朝初の金貨([[ディナール]])を打刻させる。
* 694年
** 持統天皇が[[藤原京]]に都をす。
** 唐に[[マニ教]]が伝来する。
* 695年 - [[レオンティオス]]の政変で東ローマ皇帝[[ユスティニアノス2世]]が捕縛され、鼻を削がれて[[クリミア半島]][[ケルソネソス|ケルソン]]へ追放される。
* 696年
* 696年 - ルペルトが[[ザルツブルク]]にドイツ語圏最古の聖ペーター教会修道院を建設する。
** {{仮リンク|ルペルト|en|Rupert of Salzburg}}が[[ザルツブルク]]にドイツ語圏最古の聖ペーター教会修道院を建設する。
** 則天武后が[[嵩山]]にて封禅を行う。
* 697年 - 持統天皇が譲位し、第42代[[文武天皇]]が即位する。
* 698年
** ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンが{{仮リンク|カルタゴの戦い(698年)|en|Battle of Carthage (698)}}で東ローマ帝国に勝利し、北アフリカのほぼ全域を制圧。
** 靺鞨人[[大祚栄]]が震国(後の[[渤海 (国)|渤海]])を建国。
* 699年 - [[葛城山]]の行者[[役小角]]を[[伊豆大島]]に配流する。
 
=== 700年代 ===
{{main|700年代}}
* 700年
** [[飛鳥寺]]の[[大僧都]][[道昭]]が死去、日本最初の[[火葬]]にされる。
** [[日本三古碑]]の一つとされる[[栃木県]][[大田原市]]の[[那須国造碑]]が建立される。
 
=== 7世紀 ===
* [[コロンビア]]のボゴタ地方にチブチャ人が定住し、チブチャ文化([[ムイスカ人|ムイスカ文化]])が成立する( - 1600年代)
 
== 時代の動向 ==
285 ⟶ 393行目:
* 終末期古墳には[[山田高塚古墳]]・[[石舞台古墳]]・[[牽牛子塚古墳]]・[[キトラ古墳]]・[[高松塚古墳]]が挙げられ、[[天皇陵|大王墓]]を中心に[[八角墳]]が出現する。
* [[645年]]に[[孝徳天皇]]が即位するとこの年を[[大化]]元年と定め、日本における最初の[[元号]]が誕生した(「[[大化の改新]]」を参照)。
* 7世紀後半から8世紀初頭ごろに対外的な[[国号]]を「[[倭国]]」から「[[日本]]」へ改めている<ref group="注">ただし、日本成立以前の倭国および[[倭国王]]の勢力範囲に関しては諸説ある。</ref>。
* 君主の称号が[[治天下大王]](あめのしたしろしめすおほきみ)から[[天皇]]に改められた。
* [[北海道]]では[[続縄文文化]]から[[擦文文化]]に移行。
 
=== 西アジア ===
296 ⟶ 405行目:
== 人物 ==
=== イスラム世界 ===
==== ムハンマドと正統カリフ ====
* [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]([[570年]]頃 - [[632年]])- [[イスラム教]]開祖・最後の[[預言者]]・その言行が『クルアーン』に記録される
* [[アブー・バクル]]([[573年]] - [[634年]]) - 初代[[正統カリフ]](在位[[632年]] - [[634年]])・ムハンマドの教友([[サハーバ]])
* [[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]([[592年]]? - [[644年]])- 第2代正統カリフ(在位[[634年]] - [[644年]])・ムハンマドの教友(サハーバ)
* [[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]([[574年]] - [[656年]])- 第3代正統カリフ(在位[[644年]] - [[656年]])・ムハンマドの教友(サハーバ)
* [[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]([[600年]]頃 - [[661年]])- 第4代正統カリフ(在位[[656年]] - [[661年]])・ムハンマドの従兄弟で娘婿・シーア派では初代[[イマーム]]とされる
* [[アムル・イブン・アル=アース|アムル・イブン・アル・アース]]([[583年]] - [[664年]]) - 正統カリフ時代の将軍・アレクサンドリア包囲戦に勝利しエジプトを征服
* [[ハーリド・イブン・アル=ワリード|ハーリド・イブン・アル・ワリード]]([[592年]] - [[642年]]) - 正統カリフ時代の将軍・ヤルムークの戦いに勝利しシリアを征服・別名「アッラーの剣」
* サード・イブン・アビー・ワッカース([[595年]] - [[664年]]) - 正統カリフ時代の将軍・ニハーヴァンドの戦いに勝利しペルシアを征服
* [[ムアーウィヤ]] ([[603年]]頃 - [[680年]]) - [[ウマイヤ朝]]初代[[カリフ]] (在位[[661年]] - [[680年]])・アリーと敵対しカリフ世襲化を行う
* ザイド・イブン・サービト([[611年]] - [[665年]]/[[666年]]) - イスラム帝国の書記・カリフのウスマーンに命じられ『クルアーン』正典を編纂する
* [[ハンサー]]([[575年]] - [[646年]]) - 無明時代からイスラム時代にかけての女流詩人・アラビア語の悲歌({{仮リンク|リサー|en|Rithā’}})を完成させる
* [[アーイシャ・ビント=アブー=バクル|アーイシャ]]([[614年]]頃 - [[678年]]) - ムハンマドの3番目の妻・カリフのアブー・バクルの娘・ラクダの戦いではカリフのアリーと対決
 
==== ウマイヤ朝 ====
* [[ムアーウィヤ]] ([[603年]]頃 - [[680年]]) - [[ウマイヤ朝]]初代[[カリフ]] (在位[[661年]] - [[680年]])・アリーと敵対しカリフ世襲化を行う
* ウクバ・イブン・ナーフィウ([[622年]] - [[683年]]) - ウマイヤ朝の将軍・[[マグリブ]]各地を占領し[[チュニジア]]に軍営都市[[ケルアン]]を建設
* [[アブドゥッラー=イブン・アッズバイル|イブン・アッズバイル]]([[624年]]頃 - [[692年]]) - イスラム帝国の[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]の指導者・アブー・バクルの孫でカリフを名乗る
322 ⟶ 435行目:
* ガルス(ガル)([[550年]]頃 - [[646年]]頃) - アイルランド出身の修道士・コルンバヌスの弟子・現スイスの[[ザンクト・ガレン修道院]]を建立
* [[ピピン1世]]([[580年]]頃 - [[640年]]) - フランク王国の[[宮宰]](在職[[615年]]/[[623年]] - [[629年]])・[[カロリング家]]の祖で「大ピピン」と呼ばれる
* [[クロタール2世 (フランク王)|クロタール2世]]([[584年]] - [[629年]]) - フランク王国[[ネウストリア]]王(在位[[613年]] - [[629年]])・ブルンヒルドを倒しフランク王国を再統一
* [[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]([[603年]] - [[639年]]) - フランク王国(統一フランク)国王(在位[[629年]] - [[639年]])・パリ郊外の[[サン=ドニ大聖堂|サン・ドニ大聖堂]]を建立
* [[ピピン2世]]([[635年]]/[[640年]] - [[714年]]) - フランク王国の宮宰(在職[[680年]] - [[714年]])・[[ピピン1世]]の娘の子で「中ピピン」と呼ばれる
* [[聖ウィリブロルド|ウィリブロルド]]([[658年]] - [[739年]]) - [[ノーサンブリア]]出身の修道士・オランダの[[フリースラント]]地方で宣教し[[ユトレヒト]]初の司教を務めた
332 ⟶ 445行目:
 
==== イングランド・アイルランド ====
* [[コルンバヌス]]([[540年]] - [[615年]]) - アイルランドの修道士・[[コルンバ]]の弟子・西欧各地に[[ケルト]]系修道制を伝えボッビオ修道院を建立
* エイダン(? - [[651年]]) - アイルランドの修道士・[[リンデスファーン修道院]]を建立し北部イングランドの布教に努める
* オスウィ([[612年]]頃 - [[670年]]) - [[イングランド]][[七王国]]の[[ノーサンブリア]]王(在位[[642年]] - [[670年]])・[[ウィットビー教会会議]]を開催
* {{仮リンク|ウィットビーのヒルダ|en|Hilda of Whitby}}([[614年]] - [[680年]]) - [[ノーサンブリア]]王族出身の修道女・エイダンに師事し教会会議開催地ともなるウィットビー修道院を設立
* {{仮リンク|ウィルフリッド|en|Wilfrid}}([[633年]]頃 - [[709年]]頃) - リポン司教・[[ウィットビー教会会議]]ではローマ式典礼側を代表しケルト式典礼派を論破する
* カスバート([[634年]]頃 – [[687年]]) - [[リンデスファーン修道院]]長・奇跡譚で知られノーザンバーランドの守護聖人となる
* [[エゼルベルト (ケント王) |エゼルベルト]]([[560年]]頃 - [[616年]]) - [[ケント王国|ケント]]王(在位[[580年]]頃 - [[616年]])・[[ブレトワルダ]](上王)・最初期にキリスト教を受容
345 ⟶ 458行目:
* [[レケスウィント]](? - [[672年]]) - 西ゴート王国国王(在位[[649年]] - [[672年]])・西ゴート法典を公布・「グアラザールの宝物」でも有名
 
==== ブルガリア東欧 ====
* {{仮リンク|サモ (スラヴ人の王)|en|Samo}}([[600年]]頃 - [[658年]]) - [[サモ王国]]の建国者・スラブ諸族を最初にまとめ[[シレジア]]から[[スロヴァキア]]に拡がる国家を建設
* [[アスパルフ]]([[644年]]頃 - [[700年]]頃) - [[第一次ブルガリア帝国]]の建国者(在位[[681年]] - [[700年]]頃)・[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]を都とし東ローマから自立
 
353 ⟶ 467行目:
* [[コンスタンス2世]]ポゴナトス([[630年]] - [[668年]]) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位[[641年]] - [[668年]])・「テュポス」を発布。
* [[コンスタンティノス4世]]([[650年]]頃 - [[685年]]?) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位[[668年]] - [[685年]])・イスラムに反撃を開始。
* {{仮リンク|セルギオス1世|en|Sergius I of Constantinople}}(? - [[638年]]) - [[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]](在位[[610年]] - [[638年]])・[[単意論]]をまとめ「エクテシス」を起草。
* [[ソフロニオス]]([[560年]] - [[638年]]) - [[エルサレム総主教]](在位[[634年]] - [[638年]])。キリスト教神学者・[[単意論]]に反対するが[[ウマル憲章]]は受容。
* [[ヨアンネス・クリマコス]]([[579年]] - [[649年]]) - [[シナイ山]]の[[聖カタリナ修道院]]長。修道生活の手引きとなる『天国への階梯』を執筆。
* [[聖マクシモス|マクシモス]]([[580年]]頃 - [[662年]]) - [[東ローマ帝国]]の[[神学者]]で[[修道士]](証聖者・表信者)。書簡「神学と受肉の摂理について」が有名。
* [[シリアのイサアク]](7世紀) - [[ニネヴェ]]の[[ネストリウス派]]主教・修道士・神秘主義者・修道生活を通して『修行的説教集』をまとめる
* カーヒナ(? - [[698年]]) - 北アフリカの[[ベルベル人]]の女王・東ローマ帝国軍とともにカルタゴの戦いで戦うがイスラム軍に敗北し戦死。
* {{仮リンク|ヘリオポリスのカリニコス|en|Callinicus of Heliopolis}}(生没年不詳) - 東ローマ帝国の技術者・コンスタンティノポリス包囲戦で使われた「[[ギリシア火]]」を開発か。
 
=== イラン ===
371 ⟶ 486行目:
* [[ブラーマグプタ]]([[598年]] - [[668年]]) - インドの数学者・天文学者・著作『[[ブラーマ・スプタ・シッダーンタ]]』では「[[0|ゼロ]]の概念」の最古の言及あり。
* [[月称|チャンドラキールティ]](月称)(7世紀) - インド仏教の中観派の学僧・[[清弁|バーヴァヴィヴェーカ]]の論証優先を批判し分派する(帰謬論証派)。
 
=== 中央アジア ===
* [[統葉護可汗]](? - [[628年]]) - [[西突厥]]の可汗(在位[[619年]]頃 - [[628年]])・[[波斯]]を抑え[[鉄勒]]を併合し西突厥に最盛期をもたらすが暗殺される
 
=== 東アジア ===
378 ⟶ 496行目:
* [[竇建徳]]([[573年]] - [[621年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・高句麗遠征軍から逃れて河北で自立・宇文化及を倒すが李世民に敗北
* [[李密 (隋)|李密]]([[582年]] - [[618年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・[[楊玄感]]の反乱に続いて挙兵し河南で自立・王世充に敗北する
* [[王世充]](? - [[621年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・洛陽にて[[恭帝トウ|恭帝侗]]を擁立・さらに自ら皇帝を名乗るが李淵に敗北
 
==== 唐 ====
* [[李淵|李淵(高祖]](李淵)([[566年]] - [[635年]]) - 唐の初代皇帝(在位[[618年]] - [[626年]])・隋末の混乱から唐を建国
* [[太宗 (唐)|太宗]]([[李世民]])([[598年]] - [[649年]]) - 唐の第2代皇帝(在位[[626年]] - [[649年]])・その治世が「[[貞観の治]]」
* [[高宗 (唐)|高宗]](李治)([[628年]] - [[683年]])- 唐の第3代皇帝(在位[[649年]] - [[683年]])。唐の最大版図を実現。
* [[武則天|則天武后]]([[624年]] - [[705年]]) - 唐の第3代皇帝高宗の皇后・周の女帝(在位[[690年]] - [[705年]])・「[[武韋の禍]]」の一人
* [[李靖]]([[571年]] - [[649年]]) - 唐の政治家・軍人・[[突厥]]や[[吐谷渾]]の征討に功があった・『[[李衛公問対]]』にその言行が残る
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* [[杜如晦]]([[585年]] - [[630年]]) - 唐の政治家・尚書右僕射・房玄齢とともに「房杜」と呼ばれ「[[貞観の治]]」を指導
* [[長孫無忌]](? - [[659年]]) - 唐の政治家・太宗の皇后の兄・『唐律疏義』『隋書』を編纂・則天武后と対立し失脚し自殺
* [[蘇定方]]([[592年]] - [[667年]]) - 唐の軍人・東西突厥を制圧・吐蕃との戦いや百済・高句麗制圧に功があり唐の領土を拡大
* [[李勣]]([[594年]]? - [[669年]]) - 唐の政治家・軍人・武后の冊立を支持・高句麗を滅ぼすことにも功があった
* [[狄仁傑]]([[630年]] - [[700年]]) - 唐の政治家・宰相・高宗から則天武后にまで仕え「国老」と称される。
* [[王玄策]](生没年不詳) - 唐の文官・インドのヴァルダナ朝へ外交使節として赴く。ハルシャ王没後のインドの内紛に介入。
* [[駱賓王]]([[640年]]? - [[684年]]?) - 唐の詩人・「初唐の四傑」の一人・敬業の反乱に与し檄文を起草するが乱後は消息不明。
* [[欧陽詢]]([[557年]] - [[641年]]) - 唐の儒家・書家であり[[初唐の三大家]]の一人・代表作に「九成宮醴泉銘」がある。
* [[虞世南]]([[558年]] - [[638年]]) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「孔子廟堂碑」がある。
* [[褚遂良]]([[596年]] - [[658年]]) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「雁塔聖教序」がある。
* [[閻立本]](? - [[673年]]) - 唐の政治家・宮廷画家。人物図・肖像画を得意とし「歴代帝王図巻」ほかを描く。
* [[尉遅乙僧]](生没年不詳) - 唐の画家・西域[[于闐]](ホータン)出身で父も画家・西域の画法を用い『[[歴代名画記]]』での評価は高い
* [[法琳]]([[572年]] - [[640年]]) - 唐代の僧侶・道士傅奕の排仏論に対し『破邪論』でこれを攻撃し仏教の優位を説いた
* [[孔穎達]]([[574年]] - [[648年]]) - 唐の[[訓詁学]]者・[[国子監]]祭酒・[[孔子]]の子孫・「[[五経正義]]」を撰述。
* [[顔師古]]([[581年]] - [[645年]]) - 唐の訓詁学者・秘書監・[[顔之推]]の子・「五経正義」の選定に参加・『[[漢書]]』に注をつける。
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* [[義浄]]([[635年]] - [[713年]]) - 唐の僧侶・海路からヴァルダナ朝崩壊後のインドに渡り、『南海寄帰内法伝』を書く。
* [[慧能]]([[638年]] - [[713年]]) - 唐の僧侶・[[禅宗]]第六祖。漸悟の北宗に対し頓悟の南宗を興す。『[[六祖壇経]]』を残す。
* [[寒山]]・[[拾得]](生没年不詳) - 唐の僧侶・天台山国清寺に属し[[豊干]]とともに「国清三隠」と呼ばれる・寒山は「[[寒山詩]]」の作者か。
* [[薛懐義]](? - [[695年]]) - 唐の僧侶・則天武后の寵愛を受け[[洛陽]][[白馬寺 (洛陽)|白馬寺]]寺主となる・大雲経の効験を説き諸国の大雲経寺に頒布。
* [[法蔵 (唐)|法蔵]](賢首大師)([[643年]] - [[712年]]) - 唐の僧侶・[[華厳宗]]第三祖・則天武后の庇護で[[実叉難陀]]に『[[華厳経]]』を訳させ教学を大成。
* [[阿羅本]](活躍時期[[635年]] - [[638年]]) - キリスト教[[ネストリウス派]](景教)の宣教師で「[[大秦景教流行中国碑]]」に名が残る。
* 張鷟([[658年]]? - [[730年]]) - 唐の文人・その著作『[[遊仙窟]]』は中国では[[佚書]]となり日本で愛好された・ほかに『朝野僉載』など。
* [[孫思バク|孫思邈]](? - [[682年]]) - 唐の医学者・道士・診察や薬方をまとめた『備急千金要方』『千金翼方』が有名で「薬王」とも呼ばれる。
 
==== 渤海 ====
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* [[武烈王]]([[602年]]? - [[661年]]) - 新羅の王(在位[[654年]] - [[661年]])。百済を滅ぼす。[[文武王]]は子。
* [[元暁]]([[617年]] - [[686年]]) - 新羅の[[華厳宗]]の僧侶。渡唐は果たせないが『華厳経疏』ほか著作を残す。諡号は和諍国師。
* [[義湘]]([[625年]] - [[702年]]) - 新羅の華厳宗の僧侶。唐に渡って[[智儼]]に学ぶ。[[浮石寺 (栄州市)|浮石寺]]開山で諡号は円教国師。
* [[文武王]](? - [[681年]]) - 新羅の王(在位[[661年]] - [[681年]])。唐との戦争で唐を退け朝鮮半島を統一。
 
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* [[額田王]](生没年不詳) - [[飛鳥時代]]の女性歌人・斉明朝から持統朝に活躍し『[[万葉集]]』に歌が残る
* [[持統天皇]]([[645年]]- [[702年]]) - 第41代天皇(在位[[690年]] - [[697年]])・天智天皇の皇女で天武天皇の皇后・藤原京に遷都
 
== フィクションのできごと ==
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* [[618年]] - [[619年]] - 突厥の[[曷薩那可汗]]の命により、[[木蘭|花木蘭]]が男装して父の身代わりとなって徴兵に応じ各地で戦う(褚人獲『[[隋唐演義]]』)。
* [[618年]]前後 - 武術家神腿張の息子小虎は鄭王[[王世充]]により父を殺され自身も重傷を負って少林寺に落ち延びる。父の仇を討つため少林寺にて修行に励む小虎の前に将軍[[李世民]]が現れ、共に王世充を倒すために立ち上がることを決意する(張鑫炎監督の香港映画「[[少林寺 (映画)|少林寺]]」)。
* [[684年]] - [[飢饉]]に見舞われた[[羽生蛇村]]に堕辰子が降臨、飢えに耐え切れなかった村人がその肉を食べ、村に呪いが降りかかる(『[[SIREN (ゲームソフト)]]』)。
 
== 脚注 ==
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'''注釈'''
=== 注釈 ===
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
 
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