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{{基礎情報 過去の国
|略名 = 蜀
|日本語国名 = 蜀漢
|公式国名 = 漢
|建国時期 = [[221年]]
|亡国時期 = [[263年]]
|先代1 = 後漢
|先旗1 = blank.png
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|次代1 = 魏 (三国)
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|位置画像 = 三国行政区划(繁).png
|位置画像説明 = 蜀の領域(左下)
|公用語 = [[上古漢語]]
|宗教 = [[儒教]]、[[道教]]、民間信仰
|首都 = [[成都市|成都]]
|元首等肩書 = [[皇帝 (中国)|皇帝]]
|元首等年代始1 = [[221年]]
|元首等年代終1 = [[223年]]
|元首等氏名1 = [[劉備|昭烈帝]]
|元首等年代始2 = [[223年]]
|元首等年代終2 = [[263年]]
|元首等氏名2 = [[劉禅|懐帝]]
|首相等肩書 = [[三国相国、丞相、司徒の一覧|丞相・大司馬・大将軍]]
|首相等年代始1 = [[221年]]
|首相等年代終1 = [[234年]]
|首相等氏名1 = [[諸葛亮]](丞相)
|首相等年代始2 = [[234年]]
|首相等年代終2 = [[246年]]
|首相等氏名2 = [[蔣琬]](大司馬)
|首相等年代始3 = [[246年]]
|首相等年代終3 = [[253年]]
|首相等氏名3 = [[費禕]](大将軍)
|首相等年代始4 = [[253年]]
|首相等年代終4 = [[263年]]
|首相等氏名4 = [[姜維]](大将軍)
|面積測定時期1 =
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|人口測定時期1 = [[221年]]
|人口値1 = 900,000
|人口測定時期2 = [[263年]]
|人口値2 = 1,082,000<ref>{{Cite book|和書 |title=人口研究论文集 |year=1981 |publisher=广东人民出版社 |editor=胡焕庸 |quote=蜀汉于公元 263 年灭亡,后主刘禅命尚书郎李虎送给邓艾的《士民薄》中记载: “领户 28 万,男、女口 94 万,带甲将士 10.2 万,吏 4 万人。 ”}}</ref>
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[221年]][[5月15日]]
|変遷2 = [[魏_(三国)|魏]]によって[[蜀漢の滅亡|滅亡]]
|変遷年月日2 = [[263年]][[12月23日]]
|通貨 = [[五銖銭]]
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|ccTLD追記 =
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|国際電話番号追記 =
|現在 = {{PRC}}、{{MMR}}(極一部)
|注記 =
}}
{{中国の歴史}}
'''蜀漢'''(しょくかん/しょっかん、 [[章武]]元年〈[[221年]]〉 - [[炎興]]元年〈[[263年]]〉)は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]に[[劉備]]が[[巴郡|巴]][[蜀郡|蜀]]の地([[益州]]、現在の[[四川省]]・[[湖北省]]一帯および[[雲南省]]の一部)に建てた国。[[成都市|成都]]に首都を置き、[[魏 (三国)|魏]]、[[呉 (三国)|呉]]と共に三国時代を形成した。正式な[[国号]]は「'''漢'''」であり、「'''蜀漢'''」は後世の称{{sfn|Farmer|2019|p=72}}。また蜀漢においては「'''季漢'''」とも呼ばれた{{sfn|井波|2007|p=233}}<ref>『三国志』蜀志十五「[[楊戯]]伝」付『[[季漢輔臣賛]]』</ref>{{efn|「最後の漢」の意{{sfn|井波|2007|p=233}}。なお魏からは「蜀」という地名を用いた蔑称で呼ばれ{{sfn|楊|2012|p=64}}<ref>『三国志』巻1武帝紀注引『九州春秋』</ref><ref>『三国志』巻4斉王芳紀</ref>、呉からは「漢」と呼ばれた{{sfn|楊|2012|p=65}}<ref>『三国志』巻47呉主伝</ref><ref>『三国志』巻48孫皓伝注引[[陸機]]『弁亡論』</ref>。}}。歴史上、蜀の地に割拠した王朝は多数あるが、王朝を指して「'''蜀'''」と言った場合、その多くは蜀漢を指す。
== 歴史 ==
=== 劉備の台頭 ===
[[後漢]]末期、[[刺史|州牧]]設置を建言した[[劉焉]]が自ら名乗り出て[[益州]]に赴任し、反乱鎮圧および現地豪族の粛清を経て地方政権を築いた{{sfn|Farmer|2019|pp=67-68}}<ref>『三国志』巻31劉焉伝</ref>。[[興平_(漢)|興平]]元年([[194年]])に劉焉が死去し、四男の[[劉璋]]が後を継いで益州牧に就任したが、その統治は判断力に欠くものとされた{{sfn|Farmer|2019|p=68}}。
[[荊州]]牧・[[劉表]]の元に身を寄せていた頃、[[劉備]]は[[諸葛亮]]を傘下に加えた{{sfn|Farmer|2019|p=70}}。諸葛亮は劉備に対して[[隆中対]]を説き、「荊州・益州を得て、その険阻を頼り、西では諸戎と和して南では夷越を鎮撫し、外交で[[孫権]]と誼を結び、内政をよく治めれば、覇業は成り、漢室は復興できる」と述べた{{sfn|白|2002|pp=2-3}}<ref name="zhuge" />。[[建安_(漢)|建安]]13年([[208年]])、劉備は孫権と共に[[曹操]]を破り、建安14年([[209年]])には荊州南部の四郡を制圧した{{sfn|宋|2022a|p=40}}([[赤壁の戦い]])。
=== 入蜀と漢中王即位 ===
建安16年([[211年]])、劉備は益州に迎えいれられた{{sfn|Farmer|2019|p=70}}。劉璋は[[漢中郡|漢中]]に割拠する[[張魯]]の動向を警戒し、劉備をもって対抗しようとしていた{{sfn|宋|2022a|p=46}}。入蜀時、劉備は[[関羽]]を荊州に留めて守らせた{{sfn|宋|2022a|p=54}}。劉璋配下の[[張松]]・[[法正]]らの手引きなどを経て、劉備は建安17年([[212年]])から益州攻略に転じ、建安19年([[214年]])には劉璋を降伏させ、益州を支配下に置いた{{sfn|並木|2010|p=17}}([[劉備の入蜀]])。左将軍府には長史に[[許靖]]{{efn|後に[[太傅]]、さらに[[三公]]の一つである[[司徒]]に転じたからには高位を得てはいるが、許靖は当初劉備から評価されなかったこと、賓友という処遇を受けたこと、また尚書令などに就かなかったことから、実権を持っていたとは考えがたい{{sfn|並木|2010|pp=18-19}}。}}、営司馬に[[龐羲]]、従事中郎に[[伊籍]]・[[射援]]、掾属に[[劉巴]]・[[楊儀]]・[[馬良]]・[[馬勲]]といった劉備の初期政権の中核となる人物が任命された{{sfn|並木|2010|p=18}}<ref name="xianzhu" />。
建安20年([[215年]])、荊州の帰属をめぐって孫権と係争になり{{sfn|Farmer|2019|p=71}}、荊州南部の郡の東側を孫権に割譲した<ref name="xianzhu" />。同年、張魯が曹操に降伏した{{sfn|Farmer|2019|p=71}}<ref name="xianzhu" />。
建安22年([[217年]])から建安24年([[219年]])にかけて劉備は漢中攻略を進め、[[夏侯淵]]を撃破してその地を得ると([[定軍山の戦い]])、臣下の勧めを受けて漢中王を称した{{sfnm|並木|2010|1pp=17-18|宋|2022a|2p=46}}<ref name="xianzhu" />。その後まもなく、関羽が荊州から北上して曹操領に侵攻する最中、呉軍に攻撃されて荊州を失陥し、捕虜となった関羽は処刑された{{sfn|Farmer|2019|p=72}}<ref name="xianzhu" />([[樊城の戦い]])。
=== 蜀漢の建国 ===
建安25年/[[延康_(漢)|延康]]元年([[220年]])、[[曹丕]]が後漢を廃して魏を建国すると{{sfn|Farmer|2019|p=72}}、[[献帝_(漢)|献帝]]が殺害されたという噂が流れた<ref name="xianzhu" />{{sfn|佐藤|2014|p=111}}。この情報に基づき、[[天子]]の空位という状況のもと{{sfn|佐藤|2014|p=111}}、建安26年/[[章武]]元年([[221年]])[[4月6日_(旧暦)|4月6日]]、劉備は漢の皇帝となった{{sfn|Farmer|2019|p=72}}<ref name="xianzhu" /><ref>{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷六|title=『華陽国志』巻6劉先主志|wslanguage=zh|quote=章武元年,魏黃初二年也。{{interp|...}}夏四月丙午,先主即帝位,大赦,改元章武。}}</ref>。そして章武2年([[222年]])、荊州奪還と関羽の仇討ちのため呉を攻めるも大敗した{{sfnm|白|2013|1p=84|Farmer|2019|2p=72}}<ref name="xianzhu" />([[夷陵の戦い]])。この際に馬良をはじめとする主だった将兵が戦死し、国力は大いに衰えた{{sfn|白|2013|p=84}}。同年、劉備は孫権と和睦を結んだ<ref name="xianzhu" />。この時期までに法正・許靖・劉巴・[[馬超]]といった重臣が死去しており{{sfnm|並木|2010|1p=22|Farmer|2019|2p=72}}、蜀漢政権は中枢が欠けた状態となっていた{{sfn|並木|2010|p=22}}。
章武3年([[223年]])4月、劉備は諸葛亮に後事を託して崩御した。昭烈帝と[[諡]]された{{sfn|Farmer|2019|p=72}}<ref name="xianzhu">『三国志』巻32先主伝</ref>。
=== 諸葛亮の執政 ===
同年5月、子の[[劉禅]]が後を継いで皇帝となり、[[丞相]]の諸葛亮が政務を執った{{sfn|Farmer|2019|p=73}}。劉備の死後まもなくの[[建興_(蜀)|建興]]元年([[223年]])夏、益州南部で[[雍闓]]・[[高定]]らが反乱を起こした{{sfn|白|2002|pp=4-5}}<ref name="houzhu" />。同年、諸葛亮は呉に[[鄧芝]]を派遣して蜀漢との関係を良好なものにし、さらにその翌年には国内の農業生産を発展させて国内を安定させた上で、[[諸葛亮南征|南征]]に専念した{{sfn|白|2002|p=4}}<ref name="houzhu" />。建興3年([[225年]])、諸葛亮・[[李恢]]らは益州南部四郡を征討して反乱を平定した<ref name="zhuge" />{{sfn|宋|2022a|p=64}}。
その翌年に曹丕が死亡すると、建興5年([[227年]])、諸葛亮は劉禅に「[[出師表]]」を奏じ、[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]を敢行した{{sfn|Farmer|2019|p=74}}<ref name="zhuge" />。建興6年([[228年]])、魏の[[天水郡|天水]]・[[南安郡|南安]]・[[安定郡|安定]]の三郡を奪ったが、先鋒の[[馬謖]]が軍令無視により街亭で[[張郃]]に敗北し([[街亭の戦い]])、三郡は奪い返された{{sfn|白|2013|p=84}}<ref name="zhuge" />。同年冬の陳倉包囲戦は食料不足により撤退したが、追撃する[[王双]]を敗死させた{{sfn|白|2013|p=84}}<ref name="zhuge" />([[陳倉の戦い]])。建興7年([[229年]])には魏の[[武都郡|武都]]・[[陰平郡|陰平]]の二郡を奪った{{sfn|白|2013|p=84}}<ref name="zhuge" />。
同年に呉の孫権が皇帝を称すると、蜀漢では孫権の即位は[[僭称]]と見なされ、同盟を破棄すべきとの意見が続出した{{sfn|白|2013|p=85}}<ref name="zhuge" />。しかし諸葛亮は、魏に対抗するために現時点での同盟破棄は妥当ではないと説得し、蜀漢と呉が改めて同盟を結び友好関係を保つよう計らった{{sfn|白|2013|p=85}}<ref name="zhuge" /><ref group="注釈">なお陳寿の蜀志「後主伝」では、呉の皇帝は一貫して「王」と表記している。</ref>。同時に魏領の分配についても取り決め、[[涼州]]・[[并州]]・[[冀州]]・[[兗州]]は蜀漢が、[[徐州]]・[[豫州]]・[[幽州]]・[[青州_(山東省)|青州]]は呉が支配し、[[司隷]]は[[函谷関]]を境界線として、西は蜀漢、東は呉が占めるものとした{{sfn|白|2013|p=85}}<ref>『三国志』巻39陳震伝</ref>。
その後も[[礼県|祁山]]周辺において魏との攻防が続き、建興9年([[231年]])の祁山攻撃では再び食料不足で撤退したものの、追撃してきた張郃を射殺した{{sfn|白|2013|p=84}}<ref name="zhuge" />([[祁山の戦い]])。諸葛亮に次ぐ地位にあった[[李厳]]は、この戦いで[[兵站]]の管理を怠った上に虚偽の報告を行ったため、失脚した{{sfn|宋|2022a|pp=73-74}}。建興11年([[233年]])には益州南部で南西夷の{{仮リンク|劉冑|zh|刘胄}}が反乱を起こし、[[馬忠 (蜀漢)|馬忠]]・[[張嶷]]らが反乱を平定した<ref name="houzhu" /><ref>『三国志』巻43張嶷伝注引『益部耆旧伝』</ref>。建興12年([[234年]])、諸葛亮は[[五丈原]]において病に倒れ、陣中で死去した{{sfnm|白|2013|1p=84|Farmer|2019|2p=74}}<ref name="zhuge">『三国志』巻35諸葛亮伝</ref>([[五丈原の戦い]])。
=== 政局の転換 ===
諸葛亮の死後、[[蔣琬]]を中心とした政治体制のもと、[[費禕]]・[[董允]]・[[姜維]]・[[張翼]]が軍政を主に担った{{sfn|Farmer|2019|p=75}}。[[呉懿]]・[[王平]]は漢中、鄧芝は江州において、それぞれ魏・呉との国境防衛に努めた。[[延熙 (蜀)|延熙]]元年([[238年]])、蔣琬は漢中に駐屯したものの、北伐の実施には至らなかった{{sfn|Farmer|2019|p=75}}<ref name="jiangwan" />。延熙7年([[244年]])、魏の[[曹爽]]・[[夏侯玄]]・[[郭淮]]らが侵攻したが、王平・費禕らが撃退した<ref name="houzhu" />([[興勢の役]])。魏ではこのころ[[司馬懿]]が起こした[[クーデター]]([[高平陵の変]])によって政局が混乱しており、巻き添えを恐れた[[夏侯覇]]が蜀に亡命した<ref>『三国志』巻9夏侯淵伝・夏侯淵伝注引『[[魏略]]』</ref>。
延熙9年([[246年]])に蔣琬・董允が相次いで死去し{{sfn|Farmer|2019|p=75}}<ref name="jiangwan">『三国志』巻44蔣琬伝</ref>、蔣琬の後任に就いた費禕が延熙16年([[253年]])に暗殺されると<ref name="feiyi">『三国志』巻44費禕伝</ref>、[[董厥]]・[[諸葛瞻]]・姜維・[[陳祗]]が国政を執った{{sfn|Farmer|2019|p=76}}。[[宦官]]との繋がりがあった陳祗は{{sfn|白・黄|2008|p=101}}<ref name="chenzhi" />、[[黄皓]]と共に非常に強い権力を有し、劉禅を廃そうとしているのではないかと疑念を抱かれるほどであった{{sfn|Farmer|2019|p=76}}。費禕政権下で実施された北伐は小規模なものに抑えられていたが{{sfnm|満田|2006|1p=140|白|2013|2p=84}}、費禕の死により掣肘を受けなくなった姜維は、連年にわたり大々的な外征へ繰り出した{{sfn|白|2013|p=84}}<ref name="jiangwei" />。一方、内政にはほとんど関わらなかった{{sfn|白・黄|2008|p=101}}<ref name="chenzhi">『三国志』巻39董允伝付陳祗伝</ref>。[[北伐_(姜維)|姜維の北伐]]は勝利を収めることもあったが([[狄道の戦い]])、延熙19年([[256年]])、[[鄧艾]]軍と交戦し大敗した{{sfnm|白|2013|1p=84|Farmer|2019|2p=76}}<ref name="jiangwei">『三国志』巻44姜維伝</ref>([[段谷の戦い]])。[[譙周]]は陳祗との討論を載せた『{{仮リンク|仇国論|zh|仇国论}}』を著し、姜維の軍事政策を批判した{{sfnm|白・黄|2008|1p=101|Farmer|2019|2p=76}}<ref>『三国志』巻42譙周伝</ref>。
[[景耀]]元年([[258年]])、黄皓が専権を有した{{sfn|白・黄|2008|p=86}}<ref name="houzhu" />。董厥・諸葛瞻は互いに擁護しあって政治の腐敗を正そうとしない傍ら、連年にわたる戦役が国家の疲弊を招いているとして、政敵である姜維からの兵権剥奪を目論んだ{{sfn|白・黄|2008|p=101}}<ref>『三国志』巻35董厥伝注引[[孫盛]]『異同記』</ref>。一方、姜維は黄皓を誅するよう劉禅に進言したが、受諾されなかった{{sfn|白・黄|2008|p=101}}<ref name="jiangwei" />。黄皓による報復の恐れと他派閥との不和から、姜維は成都に帰還しようとしなかった{{sfn|白・黄|2008|p=101}}<ref name="jiangwei" />。
=== 滅亡 ===
景耀6年([[263年]])、魏の実権を握っていた[[司馬昭]]の命を受け、鄧艾・[[鍾会]]・[[諸葛緒]]がそれぞれ甘松、[[漢中市|漢中]]・[[テウォ県|沓中]]、[[武都区|武都]]へと侵攻した{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="zhonghui">『三国志』巻28鍾会伝</ref>。姜維は戦前、[[勉県|陽安関]]・[[文県|陰平橋頭]]における防備の強化を上奏していたが、黄皓の干渉によりかなわなかった{{sfn|宋|2022b|p=128}}<ref name="jiangwei" />。また景耀元年(258年)の時点で漢中周辺および武都の守備が解除されていたため{{sfn|宋|2022b|pp=123, 126}}<ref name="jiangwei" />、姜維らは迎撃に赴いたものの諸葛緒軍の侵入を阻止できず、蜀北部の防衛線は崩壊した{{sfn|宋|2022b|p=128}}。
[[綿竹]]では諸葛瞻が戦死し{{sfn|白・黄|2008|p=101}}、この知らせを聞いた劉禅に対して臣下たちから南方か呉への亡命が提案される中、[[譙周]]は降伏を勧めた{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="houzhu">『三国志』巻33後主伝</ref>。譙周は「南に逃げるのは今となっては遅すぎ、かといって呉へ亡命すれば臣服せねばならないばかりか、呉もいずれ魏に滅ぼされるからには恥辱を重ねることになる。また呉がまだ存在する段階で魏へ降伏すれば、今後の処遇は良いものとなる」と主張した{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="houzhu" />。
劉禅は勧めを聞き入れ、降伏の旨を伝える文書を[[郤正]]に作成させると、鄧艾に面会して降伏した{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="houzhu" />([[蜀漢の滅亡]])。劉禅の五男である[[劉諶]]はこのことを知ると自らの妻子を殺し、抗議の意思表示として劉備の廟の前で自刎した{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="houzhu" /><ref>『三国志』巻33後主伝注引『漢晋春秋』</ref>。黄皓は鄧艾に賄賂を贈ることで身の危険を免れた{{sfn|Farmer|2019|p=77}}。鍾会を唆して叛乱させた姜維は、折を見て鍾会を殺し蜀漢再興を図ろうとしたが、魏軍の将兵による襲撃を受け、鍾会もろとも殺害された{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="zhonghui" /><ref>『三国志』巻44姜維伝注引『漢晋春秋』</ref><ref name=":1">{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷七|title=『華陽国志』巻7劉後主志|wslanguage=zh|quote={{interp|姜}}維既失策,又知會志廣,教會誅北來諸將。諸將既死,徐欲殺{{interp|鍾}}會,盡坑魏兵,還後主。密書通後主曰:「願陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」魏太后崩,會命諸將發喪,因欲誅之。諸將半入,而南安太守胡烈等知其謀,燒成都東門,以襲殺會及維、張翼、後主太子{{interp|劉}}璿等。}}</ref>。
=== 劉氏のその後 ===
[[景元]]5年([[264年]])3月、劉禅とその家族は[[洛陽]]に移され、安楽公{{efn|[[幽州]][[漁陽郡]][[安楽県_(北京市)|安楽県]]。}}に封じられた{{sfn|Farmer|2019|p=77}}<ref name="houzhu" />。蜀漢滅亡時の混乱の最中に[[皇太子]]の[[劉璿]]が死亡したため<ref name=":1" />、改めて後継者を決めることになったが、次男の{{仮リンク|劉瑤|zh|刘瑶 (三国)}}を差し置いて六男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の[[文立]]らに諌められた。[[西晋]]の[[泰始_(晋)|泰始]]7年([[271年]])に65歳で死去し<ref name="houzhu" />、思公と諡された<ref>『三国志』巻33後主伝注引『蜀記』</ref>。
劉恂は道義を失う振る舞いを度々行い、旧臣の[[何攀]]らに諫言されたという。最後は[[永嘉の乱]]に巻き込まれ、一族皆殺しにされた。劉禅の弟の[[劉永_(蜀漢)|劉永]]の孫である[[劉玄_(成漢)|劉玄]]だけが生き延びて蜀の地に逃れ、[[成漢]]を頼ったという<ref>『三国志』巻34劉璿伝注引孫盛『蜀世譜』</ref>。
== 政治 ==
=== 劉備の入蜀から皇帝即位時 ===
蜀漢政権の特徴として、軍府主導の政治体制だったことが挙げられる{{sfn|並木|2010|p=17}}。[[柿沼陽平]]によれば、蜀漢は「軍事最優先型国家」と評し得るレベルの軍事重視型の国づくりを行っており、蜀漢の全人口が90万人から100万人なのに対し、兵士と官吏だけで14万人と人口の15%近くを占めるという特異な構造となっていた{{sfn|柿沼|2018|pp=176, 189-194}}。また劉備は関羽・[[張飛]]らと共に各地を転々した上でようやく荊州の一部に勢力基盤を確保した存在に過ぎず、また自らの勢力を維持するためにも積極的な軍備増強と勢力拡大に努めざるを得なかったため、諸葛亮が案じた隆中対は劉備の正当性と現状に適った方針であった{{sfn|柿沼|2018|pp=178-179}}。また諸葛亮およびその後継者たちは、国政に携わる[[宰相]]でありながら行政実務のトップである録尚書事を兼ね、さらに地方政治のトップであった益州刺史をも兼務し{{sfn|並木|2010|p=17}}、軍事・行政・経済を完全に掌握していた{{sfn|柿沼|2018|pp=201-202}}。なお人事に関しては尚書台が管轄したが、戸籍についても管轄していた可能性があるという{{sfn|柿沼|2018|pp=225-226}}。また[[蜀科]]の制定により、法制度の充実が図られた。
=== 諸葛亮丞相時 ===
劉備没後、新皇帝たる劉禅と丞相の諸葛亮が体制を引き継いだ。劉禅による治世は、諸葛亮の執権時代(223年 - 234年)とそれ以降(234年 - 263年)の大きく二つに分けることができる{{sfn|Farmer|2019|p=73}}。またいずれの期間においても彼の実権は無きに等しく{{sfnm|並木|2010|1p=17|Farmer|2019|2p=73}}、政治は臣下あるいは宦官の手に委ねられていた{{sfn|Farmer|2019|p=73}}。
{{仮リンク|南中_(古代中国の地名)|zh|南中_(地名)|label=南中}}諸郡の反乱に応じて諸葛亮は南征を実施し、南中地域から兵力と物資を得ることになった{{sfn|Farmer|2019|p=74}}。しかし内治の充実は荊州を領有して初めて実現できるものであり、荊州を魏と呉に奪われた状況においては、「出師表」にも「益州疲弊せり」と記されたように、民間経済を犠牲にして軍備を強化し、一刻も早い北伐を目指すほかなかった{{sfn|柿沼|2018|pp=187-189}}。そのため、北伐では漢中などにおける[[屯田]]や敵軍糧の略奪を行うことで、できるだけ魏の物資を減らしつつ蜀漢の物資を浪費しないようにする策が図られた{{sfn|柿沼|2018|pp=193-198}}<!-- <ref group="注釈">一方で敵地の民衆に乱暴を働かず平和的に対応していたため、そのやり方を裴松之や袁子に評価されている。(諸葛亮伝及び陸遜伝より)</ref>-->。
度重なる北伐には国内における臨時徴収の実施などが伴い、国家にさらなる疲弊をもたらした。諸葛亮はこれに対し、厳格な法治や思想統制、平時における軍隊の公共事業への使用などを行い、国内の不満を魏に向けさせる戦略を取り続けることで、北伐と体制維持の両立を成功させていた{{sfn|柿沼|2018|pp=193-203}}<ref group="注釈">諸葛亮伝の裴松之注・袁子の記述によると、諸葛亮は役所・宿場・橋梁・道路の修築などの[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備をよく行っており、また田畑の開墾も進めて米倉を満たし、武器の性能も向上させたとしている。そして法治強化により治安の向上も見られ、死後何十年経っても諸葛亮のことを思慕する念は続いたとしている。『襄陽紀』によると、死後すぐに民衆により諸葛亮を祀りたいと願い出ていたが許可が下りず、民間で無許可で祭祀が行われ、蜀末期になってようやく許可が下りて霊廟が作られることになった。</ref>。
建興5年(227年)より、諸葛亮は漢中において開府した{{sfn|満田|2005|p=195}}。一方、長期的に丞相が不在となる成都には丞相留府が設置され{{sfn|満田|2005|p=195}}、留府長史および留府参軍が留守を預かった{{sfn|並木|2010|p=24}}。成都の権限は丞相留府のもとに一元化され、それに所属する者は[[近衛兵|禁軍]]の指揮権を有するだけでなく州の重職をも占めていた{{sfn|並木|2010|p=25}}。さらにこのとき、[[尚書令]]は置かれなかった{{sfn|並木|2010|p=25}}。漢中の丞相府と成都の丞相留府という二つの強力な軍府を設置をすることにより、諸葛亮は蜀漢政権において安定した支配を維持することができた{{sfn|並木|2010|pp=25-26}}。
=== 諸葛亮死後 ===
諸葛亮死後の建興12年(234年)、彼自らの指名を受けた蔣琬が国事を総統した{{sfn|満田|2005|p=196}}。蔣琬は尚書令・行都護{{efn|満田剛は「宰相格の者が就任する軍事関係の官職」だと推測する{{sfn|満田|2005|p=196}}。}}・仮節・領益州刺史となり、国政および地方行政の双方において主権を握った{{sfn|満田|2005|p=196}}。 建興13年([[235年]])4月には大将軍・録尚書事に昇格した{{sfn|満田|2005|p=197}}。諸葛亮の死に伴いその支配体制もまた失われたため{{sfn|満田|2005|p=195}}、蔣琬は政権の再構成を迫られた{{sfnm|並木|2010|1p=26|満田|2005|2p=195}}。蔣琬政権においては「集団指導体制」ともいえる支配体制が成立し、鄧芝が前軍師、[[楊儀]]が中軍師、[[費禕]]が後軍師、[[姜維]]は右監軍、[[張翼]]が前領軍、[[王平]]が後典軍となった{{sfn|並木|2010|p=26}}。
<!-- [[車騎将軍]]となった[[呉懿]]とともに漢中の軍および成都の政権を落ち着かせる役を担った<ref>『[[華陽国志]]』七巻</ref>。 -->
蔣琬の死後、後を継いだ費禕の地位は蒋琬と同様であったが、これは諸葛亮の存命中に蔣琬は撫軍将軍・尚書郎、費禕は中護軍・尚書令と、いずれも軍事系と尚書系の職務を両方経験しており、軍事・行政・経済を一元的に運営する諸葛亮の政治手法を理解していたからこそ可能であったものとみられている{{sfn|柿沼|2018|pp=203-204}}。また費禕政権の支配体制は蔣琬政権と似たものが敷かれたと考えられる{{sfn|並木|2010|p=26}}。政権交代時には王平が鎮北大将軍、姜維が鎮西大将軍、馬忠が鎮南大将軍となった{{sfn|並木|2010|p=26}}。延熙7年(244年)に費禕が出征した際、馬忠は平尚書事として成都での留守役を担った{{sfn|並木|2010|p=26}}。
しかし、諸葛亮の政治方針は実際のところ継承されなかった{{sfn|満田|2006|p=144}}。費禕のみならず姜維もまた録尚書事に就いたため、諸葛亮ならびに蒋琬時代とは異なる実質的な二頭体制へと変化していた{{sfn|満田|2006|pp=142, 144}}。また北伐の意志について、費禕・姜維の間には齟齬が生じていた{{sfn|満田|2006|pp=142, 144}}。
費禕の没後、その地位を継承すべき姜維は内政に関与せず、陳祗は鎮軍将軍に就いたものの軍務には関与していなかった。大将軍として軍事を掌握する姜維と尚書令として行政実務を掌握する陳祇は、対立する立場にありながらも北伐の実現に向けて協調する路線を取り続けた。しかし、姜維の北伐の失敗、陳祇の死去および宦官の黄皓の台頭によって、姜維は軍事面では[[張翼]]・[[閻宇]]、尚書側からは[[諸葛瞻]]・[[董厥]]・[[樊建]]、そして宦官の黄皓の三方向の反対派からの突き上げを受けることになった。人事を扱う尚書に足場を持たない姜維は、成都に帰還すれば尚書内の反対派によって罷免される恐れがあったため、成都へ帰還することが困難となった。しかし反対派もまた互いに対立関係にあり、蜀漢末期の宮廷は四派に分裂する様相を見せていた{{sfn|柿沼|2018|pp=205-208}}。それでも鄧艾・鍾会の蜀侵攻に際しては、張翼・諸葛瞻・董厥らは姜維と共にこれを迎撃し、成都を陥落させた鄧艾を除けば魏軍を撤退間際まで追い込んだように、政権内部では激しい権力闘争があったにもかかわらず、軍事面における致命的な分裂は最後まで生じなかった{{sfn|柿沼|2018|p=208}}。
* 丞相:[[諸葛亮]] {{For2|丞相、司徒の地位に就いた者|三国相国、丞相、司徒の一覧}}
* 司徒:[[許靖]]
* 太尉:不詳{{efn|穆皇后伝にて太尉に就いた人物がいたことに言及がある。唐代の書物である『[[元和姓纂]]』および『新唐書』においては、蜀の太尉として[[上官勝]]という人物が挙げられている。}}
* 録尚書事:[[諸葛亮]]、[[蔣琬]]、[[費禕]]、[[姜維]]
* [[尚書令]]:[[法正]]、[[劉巴]]、[[李厳]]、[[陳震]]、[[蔣琬]]、[[費禕]]、[[董允]]、[[呂乂]]、[[陳祗]]、[[董厥]]、[[樊建]]、[[諸葛瞻]]
* 平尚書事:[[馬忠]]、[[諸葛瞻]]、[[董厥]]
* 尚書僕射:[[李福]]、[[姚伷]]、[[董厥]]、[[諸葛瞻]]、[[張紹]]
* 尚書:[[楊儀]]、[[劉巴]]、[[鄧芝]]、[[陳震]]、[[呂乂]]、[[馬斉]]、[[張遵]]、[[向充]]、[[胡博]]、[[張翼]]、[[宗預]]、[[劉式]]、[[許游]]、[[衛継]]、[[文立]]
* 丞相長史(署諸曹事):[[王連]]、[[向朗]]、[[楊儀]]
* 留府長史(丞相領兵出則統留事):[[張裔]]、[[蔣琬]]、[[馬忠]]
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ファイル:Zhuge Kongming Sancai Tuhui.jpg|諸葛亮
ファイル:JiangWan.jpg|蔣琬
ファイル:JiangWei.jpg|姜維
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== 経済 ==
益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。また豊かな農業地帯である益州を確保後、城内の金銀を将兵たちに分け与えたように、劉備はその基盤の弱さゆえ政権作りと国内整備に必要な財源すらも放出していた{{sfn|柿沼|2018|pp=180-181}}。そのため、劉巴の献策で直百銭(1枚で[[五銖銭]]100枚相当{{sfn|柿沼|2012|p=31}})の貨幣を鋳造して強制的に市場に流して物資を買い集めることでしのぎ、一方で劉備に従った旧来の豪族・地主にはその土地所有を保証することでその経済的打撃を抑制することで反乱の発生を防いだ{{sfn|柿沼|2018|pp=184-186}}。さらに[[王連 (蜀漢)|王連]]という優れた財務官僚を登用して鉄と塩の[[専売制]]を機能させ、また絹織物の生産・貿易を管轄する「錦官」が設けられるなど、財政充実が図られた{{sfn|柿沼|2018|pp=187-188}}{{efn|これらの政策は民間経済への犠牲を伴うものでもあった{{sfn|柿沼|2012|p=33}}。}}。
諸葛亮の南征は当時、王連の反対を受けていた。南征計画の背景の一つには勢力の維持・拡大によって財政基盤の強化を図るというものがあったが、王連は、財政政策が機能している中で本来の目的である北伐を後回しにして南征を行うメリットは少ないとみたのである。しかし建興3年(225年)初頭に王連が死去すると{{sfn|宋|2022a|p=40}}、専売制は不振となり、南征は実施された。
== 軍事 ==
魏を中心に発展した中央の中軍、州や特定地域を任された都督の率いる地方軍という制度の一部は蜀にも取り入れられた。しかし、複数の州を保有する魏や呉と違って、益州一州のみの蜀漢では都督の管轄する地域は限定的である。蜀を構成する[[漢中郡|漢中]]・[[巴郡|巴]]・[[蜀郡|蜀]]・南中の4つのブロックが最大の軍管区であり、漢中には魏への防御と北伐の中心となる漢中都督、巴には北伐軍や[[白帝城|永安]]守備軍と成都の間の中継点であり、その兵站を支える江州都督、呉に備える永安都督、南中を支配する[[庲降都督]]がいた。そのほかにさらに小規模で特定の場所を守備する都督・督軍・督がいた。
また蜀漢に特有の官職として「都護、[[軍師]]、監軍、領軍、[[護軍]]、典軍、[[参軍]]」というものがある<ref>{{Cite journal |和書|author=石井仁|date=1990|title=諸葛亮・北伐軍団の組織と編制について-蜀漢における軍府の発展形態-|journal=東北大学東洋史論集|volume=第4輯|pages=40–79}}</ref>{{sfn|並木|2010|p=17}}。同様の官職は魏にもみられるが、蜀の場合には序列として軍号に優先するものであるという特徴で知られている。この官職と丞相府の地位(長史・司馬)、拠点の督・都督や大規模出征時の前左右後の部督といった地位の組み合わせで序列が決まる。[[李厳]]を罷免する上表が、この序列に従って名を連ねていることで知られている<ref>『三国志』蜀志十「李厳伝」裴松之注、諸葛亮『公文上尚書』。</ref>。
諸葛亮の没後に丞相の地位についた者はおらず、蔣琬や費禕は大将軍・録尚書事として政治と軍事を掌握した。ひとつには諸葛亮と同格の地位を避けたということが考えられる。また、漢の復興を掲げ、魏を滅ぼすことが国家の命題であり、首都の成都と政権首座の大将軍が漢中から政務を行う二元政治であって蜀漢にとっては、軍事組織を中心にした政権のほうが運営しやすいという側面があったと言える。
* [[大将軍]]:[[蔣琬]]、[[費禕]]、[[姜維]]、[[閻宇]]
* [[驃騎将軍]]:[[馬超]]、[[李厳]]、[[呉班]]、[[胡済]]
* [[車騎将軍]]:[[張飛]]、[[劉琰]]、[[呉懿]]、[[夏侯覇]]、[[張翼]]、[[廖化]]
* [[衛将軍]]:[[姜維]]、[[諸葛瞻]]
== 蜀漢正統論 ==
{{see also|正閏論|正名 (思想)#春秋・正統論}}
[[曹魏]]・蜀漢・[[孫呉]]の三王朝が鼎立した[[三国時代 (中国)|三国時代]]であるが、蜀漢に仕えていた[[陳寿]]は、西晋政権において『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』を著した際には[[曹操]]や[[曹丕]]ら曹氏のみに帝紀(皇帝の伝記)を立て、同じく皇帝を称した[[劉備]]・[[孫権]]らは列伝に収録して形式上は魏の臣下としたように、魏を正統として扱った{{sfn|井波|2007|p=226}}。その一方で、故国である蜀漢を呉と差別化し{{sfn|井波|2007|p=228}}、さらには劉備が漢中王や皇帝の座に就いた際の記録として、その臣下による上奏文および勧進文などを載せる傍ら、曹操・曹丕や孫権に対する文書は採録しないなど、蜀漢の正統性を窺わせる記述も密かに盛り込んでいた{{sfn|井波|2007|pp=228-232}}{{efn|劉備・劉禅に対する先主・後主という呼び名は、『三国志』が魏を正統とする立場に立脚しているため、蜀漢の皇帝を「帝」と称することを避けたためのものである。しかし、呉の皇帝が書名では「呉主伝」としながらも本文では「孫権」などのように呼び捨てられるのと比べて、蜀漢の皇帝は書名のみならず本文中でも「先主」「後主」と記されており、「帝」ではないものの[[諱]]で呼ばれることはない{{sfn|井波|2007|p=228}}。}}。
=== 東晋から北宋まで ===
[[晋 (王朝)|晋王朝]]は[[匈奴]]政権である[[前趙]]{{efn|前趙を建てた[[劉淵]]は自らを[[漢]]氏の甥として漢王を自称し、劉禅を追尊して孝懐皇帝とした{{sfn|大塚|1997|p=5}}。これには、漢を名乗ることで晋の人間を誘う算段があった<ref>松下憲一『中華とは何か——遊牧民からみた古代中国史』[[筑摩書房]]〈[[ちくま新書]]〉、2025年、pp. 178–179。{{isbn|9784480076830}}。</ref>。また[[唐]]代に編纂された『[[晋書]]』によれば、三祖五宗(三祖:[[劉邦|高祖]]、[[光武帝|世祖]]、烈祖〈劉備〉、五宗:[[文帝_(漢)|太宗]]、[[武帝_(漢)|世宗]]、[[宣帝_(漢)|中宗]]、[[明帝_(漢)|顕宗]]、[[章帝_(漢)|粛宗]])の神主をもうけて彼らを祭った{{sfn|大塚|1997|pp=6–7}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=魏書/卷95#劉聰|title=『魏書』巻101劉聡伝|wslanguage=zh|quote={{interp|劉}}淵謂宣等曰:「帝王豈有常哉,當上為漢高,下為魏武。然晉人未必同我,漢有天下世長,恩德結於民心,吾又漢氏之甥,約為兄弟,兄亡弟紹,不亦可乎?今且可稱漢,追尊後主,以懷民望。」乃遷於左國城,自稱漢王,置百官,年號元熙,追尊劉禪為孝懷皇帝。攻撃郡縣。}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=晉書/卷101|title=『晋書』巻101劉淵載記|wslanguage=zh|quote=永興元年,{{interp|劉}}元海乃為壇於南郊,僭即漢王位,下令曰:「昔我太祖高皇帝以神武應期,廓開大業。太宗孝文皇帝重以明德,升平漢道。世宗孝武皇帝拓土攘夷,地過唐日。中宗孝宣皇帝搜揚俊乂,多士盈朝。是我祖宗道邁三王,功高五帝,故卜年倍于夏商,卜世過於姫氏。而元成多僻,哀平短祚,賊臣王莽,滔天簒逆。我世祖光武皇帝誕資聖武,恢復鴻基,祀漢配天,不失舊物,俾三光晦而復明,神器幽而復顯。顯宗孝明皇帝、肅宗孝章皇帝累葉重暉,炎光再闡。自和安已後,皇綱漸頽,天歩艱難,國統頻絶。黄巾海沸於九州,群閹毒流于四海,董卓因之肆其猖勃,曹操父子凶逆相尋。故孝湣委棄萬國,昭烈播越岷蜀,冀否終有泰,旋軫舊京。何圖天未悔禍,後帝窘辱。自社稷淪喪,宗廟之不血食四十年於茲矣。今天誘其衷,悔禍皇漢,使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭,靡所控告。孤今猥為群公所推,紹修三祖之業。顧茲尪暗,戰惶靡厝。但以大恥未雪,社稷無主,銜膽棲冰,勉從群議。」乃赦其境内,年號元熙,追尊劉禪為孝懷皇帝,立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。}}</ref>。三祖五宗への言及は、唐の始祖である[[李淵]]が[[鮮卑]]系であるがゆえに粉飾を図ったものと見られる{{sfn|大塚|1997|p=6}}。}}の勃興を受け、[[中原]]を退いて南渡せざるを得なくなっていた{{sfn|王|2013|p=45}}。南遷後に建てられた[[東晋]]政権は弱体で、[[桓温]]・[[桓玄]]父子や[[劉裕]]によって[[禅譲]]が狙われる状況にあった{{sfn|呉|2009|p=77}}。この状況下で「中原にあるものが正統となる」という古来の正統観に則るならば、中原を放棄した東晋政権は僭逆にあたり得た{{sfn|王|2013|pp=37-38, 45}}。[[習鑿歯]]はここにおいて、[[華夏|華夏文化]]の維持および継承を基準に正統の有無を判断するという観点を打ち立てた{{sfn|王|2013|p=45}}。そのため、習鑿歯が「魏を越えて漢を継ぐ」という見解<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢晉春秋|title=『漢晋春秋』巻1「臨終上前論疏」|wslanguage=zh|quote=臣每謂皇晉宜越魏繼漢,不應以魏後為三恪。}}</ref>に基づいて編んだ『[[漢晋春秋]]』では、曹魏ではなく前漢・後漢の事業を継いだ蜀漢こそが正統とされた{{sfn|王|2013|p=45}}{{efn|[[中村圭爾]]は、[[曹髦]]殺害を皇帝弑虐ではなく蜀漢=正統に反する[[僭主]]殺害として扱ったように、魏の正統性を否定することで魏から晋への禅譲の際に起きた事件における[[司馬氏#晋の国姓|司馬氏]]の行為を正当化する意図があったとする<ref>{{Cite book|和書|author=中村圭爾|title=六朝政治社会史研究|date=2013|publisher=汲古書院|series=汲古叢書|isbn=9784762960062|pages=441–459|chapter=魏蜀正閏論の一側面}}</ref>。}}。なお『[[四庫全書総目提要|四庫提要]]』では、『漢晋春秋』の蜀漢正統論は中原を曹魏に追われ巴蜀へと逃れた蜀漢に東晋の現況を重ね合わせたことによると解釈されている{{sfn|王|2013|p=37}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=630627#p62 『四庫全書総目提要』巻45]. [[中国哲学書電子化計画]]. 2025年6月9日閲覧, "其書{{interp|《三國志》}}以魏為正統,至習鑿齒作《漢晉春秋》,始立異議。自朱子以來,無不是鑿齒而非壽。然以理而論,壽之謬萬萬無辭。以勢而論,則鑿齒帝漢順而易,壽欲帝漢逆而難。蓋鑿齒時晉已南渡,其事有類乎蜀,為偏安者爭正統,此孚於當代之論者也。壽則身為晉武之臣,而晉武承魏之統,偽魏是偽晉矣,其能行於當代哉?此猶宋太祖簒立近於魏,而北漢、南唐跡近於蜀,故北宋諸儒皆有所避而不偽魏。高宗以後偏安江左近於蜀,而中原魏地全入於金,故南宋諸儒乃紛紛起而帝蜀。"</ref>。
三国のうち曹魏を正統とする傾向は[[北宋]]に至ってもなお変わらず、[[曹芳]]を除いた魏帝はみな祭祀の対象となっていた{{sfn|田中|2019|p=56}}。『[[冊府元亀]]』では、単に曹魏が正統であると見なすだけでなく、その正統性に対する理論づけが試みられた{{sfn|田中|2019|p=56}}。このような姿勢には、北宋の創始者の[[趙匡胤]]による[[簒奪]]が、禅譲というかたちで建国し、また最大勢力でありながら[[廟号|太祖]]の段階で天下統一を果たせなかった曹魏の状況と類似していたため、自らの王朝を正当化する必要があったという側面もある{{sfn|田中|2019|pp=56-57}}。
[[蘇軾]]の言及にもあるように<ref>{{Cite wikisource|wslink=正統論三首·辯論二|title=『東坡全集』巻44「正統論三首」弁論二|wslanguage=zh|quote=正統之論,起於歐陽子{{interp|...}}。}}</ref>、歴代王朝の正統論に先鞭をつけたのは[[欧陽脩]]だとするのが定説となっている{{sfn|田中|2019|p=57}}。欧陽脩は[[五行思想]]・[[讖緯|讖緯説]]・[[天人相関説]]といった従来の思想を退け、あくまで事実に重きを置いて正統を定めた{{sfn|田中|2019|p=59}}。また「正」を「天下の不正を正すこと」、「統」を「天下の一つでない状態を一つに合すること」と定義づけ、これら二つを達成してこそ「正統」と見なし得るとした{{sfn|田中|2019|p=59}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=正統論上|title=『廬陵文鈔』巻12「正統論上」|wslanguage=zh|quote=正者,所以正天下之不正也;統者,所以合天下之不一也。由不正與不一,然後正統之論作。}}</ref>。そのような正統観のもと曹魏を正統とした当初の持論は後に撤回され、[[五代十国時代|五代]]と同様、三国時代に正統は存在しないと結論づけられた{{sfn|田中|2019|pp=59-61}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=正統論上|title=『廬陵文鈔』巻12「正統論上」|wslanguage=zh|quote=其或終始不得其正,又不能合天下於一,則可謂之正統乎?魏及五代是也。然則不幸而丁其時,則正統有時而絶也。}}</ref>{{efn|見解に変化が生じて以降においては「統」が偏重された{{sfn|田中|2019|p=60}}。また曹魏および曹操は、[[後梁]]の[[朱全忠]]と同様に簒奪を実行した「悪」と見なされ、「統」のみならず「正」にも満たないという評価を与えられた{{sfn|田中|2019|pp=63, 70}}。}}。欧陽脩は蜀漢・孫呉に正統性を見出すことはなかったものの、劉備・諸葛亮に対しては肯定的な態度を示していたほか、『[[新唐書]]』編纂においては、『[[旧唐書]]』では[[偽史]]とされていた蜀書・呉書をその分類から外した{{sfn|田中|2019|pp=64-65}}。
[[編年体]]の史書である『[[資治通鑑]]』は、正統論に関して比較的客観的な立場をとった{{sfn|関|2001|p=68}}。撰者である[[司馬光]]は曹魏を正統とする従来の形式に則りながらも、曹魏の[[元号#中国|元号]]を採用したことについては、王朝の尊卑を定めるものではないとした{{sfn|関|2001|pp=68, 80}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷069|title=『資治通鑑』巻69黄初元年|wslanguage=zh|quote=臣愚誠不足以識前代之正閏,竊以爲苟不能使九州合爲一統,皆有天子之名而無其實者也。雖華夏仁暴,大小強弱,或時不同,要皆與古之列國無異,豈得獨尊獎一國謂之正統,而其餘皆爲僭僞哉!{{interp|...}}是以正閏之論,自古及今,未有能通其義,確然使人不可移奪者也。臣今所述,止欲敍國家之興衰,著生民之休戚,使觀者自擇其善惡得失,以爲勸戒,非若《春秋》立褒貶之法,撥亂世反諸正也。正閏之際,非所敢知,但據其功業之實而言之。{{interp|...}}據漢傳於魏而晉受之,晉傳于宋以至於陳而隋取之,唐傳於梁以至於周而大宋承之,故不得不取魏、宋、齊、梁、陳、後梁、後唐、後晉、後漢、後周年號,以紀諸國之事,非尊此而卑彼,有正閏之辨也。}}</ref>。また劉備については「中山靖王[[劉勝]]の子孫であるとはいえ、族属からは遠く離れているため漢室の[[リネージ|世系]]としては記しがたい」とし、「[[光武帝]]や[[元帝_(東晋)|元帝]]と比較して、漢の遺業を継いだものとはいえない」と捉えた{{sfnm|繆|2023|1p=28|張|2022|2pp=92-93}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷069|title=『資治通鑑』巻69黄初元年|wslanguage=zh|quote=昭烈之於漢,雖云中山靖王之後,而族屬疏遠,不能紀其世數名位,{{interp|...}}故不敢以光武及晉元帝爲比,使得紹漢氏之遺統也。}}</ref>。一方、民間では劉氏を尊ぶ風潮がすでに広まっていた{{sfn|張|2022|p=93}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=東坡志林/卷一#懷古|author=蘇軾|title=『東坡志林』巻1|wslanguage=zh|quote=王彭嘗云:「塗巷中小兒薄劣,其家所厭苦,輒與錢,令聚坐聽説古話。至説三國事,聞劉玄德敗,顰蹙有出涕者;聞曹操敗,即喜唱快。以是知君子小人之澤,百世不斬。」}}</ref>{{efn|宋代の民間においてはさらに、仏教など宗教的要因による関羽・張飛の神格化が進んでいた{{sfn|繆|2022|p=44}}。}}。
=== 南宋以降 ===
[[南宋]]の時代になると、蜀漢正統論はにわかに脚光を浴びるようになった{{sfn|繆|2023|pp=28-29}}。その背景には[[靖康の変]]がある{{sfn|繆|2023|p=29}}。[[女真族]]の建てた[[金 (王朝)|金]]に敗れた宋王朝は[[江南_(中国)|江南]]に移り、[[高宗_(宋)|趙構]]を皇帝として戴いたが、その過程に起きた{{仮リンク|二帝北狩|zh|北狩}}や{{仮リンク|明受の乱|zh|苗刘兵变}}を受け、正統性に動揺が生じていた{{sfn|繆|2023|p=29}}<ref>[[外山軍治]]「[https://hdl.handle.net/11094/80170 洪皓について]」『大阪外国語大学学報』8巻、1960年、95–111、p. 98。</ref><ref>笠井直美「<われわれ> の境界 - 岳飛故事の通俗文藝の言説における國家と民族 (下)」『言語文化論集』第24巻第1号、2007年、35–76、pp. 55–56。{{doi|10.18999/stulc.24.1.35}}。</ref>。劉備への言及においては、彼の血統が[[宗室]]に属していることがしばしば強調された{{sfn|繆|2023|p=28}}。
道徳的観点に基づく「正」を重視し、「統」にもなるべく道徳性を含ませようとした[[朱熹]]は{{sfn|瀧野|2023|pp=86-87}}、蜀漢を「正統の余分」としながらも、『資治通鑑』では曹魏の元号が使われていた箇所を『{{仮リンク|資治通鑑綱目|zh|資治通鑒綱目}}』においては蜀漢の元号に書き換え、実質的に蜀漢の正統性を認めていた{{sfn|繆|2023|p=32}}。また『三国志』を蜀漢正統論に基づいて再編した『続後漢書』を著した蕭常は、蜀漢の皇帝を帝紀に配し、曹操らの伝記は[[載記]]として扱った{{sfn|繆|2023|p=31}}{{efn|蕭常の人物評価には[[張栻]]からの影響が見られる<ref>田中靖彦「蕭常『續後漢書』諸葛亮傳贊について」『実践国文学』100号、2021年、114–138、p. 126。{{doi|10.34388/1157.00002309}}。</ref>。また蕭常は、個人的好悪によって陳寿や裴松之の記述を否定することすらあった{{sfn|曹|2014|pp=37-38}}。}}。南宋で編まれた[[紀伝体]]の史書の多くは、蕭常を踏襲するかたちをとった{{sfn|繆|2023|p=31}}。
[[元 (王朝)|元]]は異民族王朝であったため、正統性の再定義が要請された{{sfn|瀧野|2023|pp=89, 92}}。そこでは「[[漢民族]]の精神の継承者」であるか否かが問われた{{sfn|瀧野|2023|pp=89, 92}}{{efn|元末の[[楊維楨|楊維禎]]による「正統弁」では、朱熹の主張を補うために正統論の中に[[道統|道統論]]を取り込み、[[遼]]・金を排して宋朝にのみ正統性を認め、それが元朝に継がれたものとした{{sfn|瀧野|2023|pp=89-92}}。楊維禎の解釈は後世の正統論にも影響を及ぼし{{sfn|瀧野|2023|p=89}}、異民族王朝である清代においても同様の主張がなされた{{sfn|瀧野|2023|p=92}}。}}。「中国の方式に従えば中国の主となる」と主張した[[郝経]]は{{sfn|瀧野|2023|p=89}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=560219#p9 『郝文忠公陵川文集』巻37「与宋国両淮制置使書」]. 中国哲学書電子化計画. 2025年6月9日閲覧, "今日能用士而能行中國之道,則中國之主也。"</ref>、著作の『続後漢書』において蜀漢を正統とした{{sfn|黄|2021|p=84}}。また[[涿郡]]に存在した先主廟を「昭烈皇帝廟」と改名したほか、[[中統]]元年([[1260年]])の「立政議」では天下と民によく貢献した歴代皇帝の一人として劉備を挙げるなど<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=88623#p259 『郝文忠公陵川文集』巻32「立政議」]. 中国哲学書電子化計画. 2025年6月9日閲覧, "于三國則曰昭烈一帝,{{interp|...}}皆先大炳烺,不辱于君人之名,有功于天下甚大,有德于生民甚厚{{interp|...}}。"</ref>、蜀漢を正統とする意識が非常に強かった{{sfn|張|2022|pp=95-96}}。このような風潮は、{{仮リンク|王惲|zh|王恽_(元朝)}}が「祗謁昭烈皇帝廟」と題する詩を作成したように、当時の[[士大夫|士人]]の間でも同様だった{{sfn|張|2022|p=96}}。その一方で、郝経は曹操のことを簒位・窃権を働いた冒姓の「国賊」だとして痛烈に批判した{{sfn|張|2022|p=97}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=88623#p60 『郝文忠公陵川文集』巻31「漢丞相亮諭偽魏檄」]. 中国哲学書電子化計画. 2025年6月9日閲覧, "國賊曹操,螟蛉假姓,贅閹遺蘖{{interp|...}}肆其豺狼之志,握皇樞而蹙威柄,挾天子以令諸侯。只將簒竊為謀動,以詔旨行事{{interp|...}}。"</ref>。
元代以降の王朝において、蜀漢は正統として尊ばれた{{sfn|王|2013|p=45}}。[[文人_(中国)|文人]]と大衆それぞれの意見が蓄積され融合されていった結果、「擁劉反曹(劉氏を擁し曹氏に反する)」という思想はますます表面化し、[[元末明初]]には小説『[[三国志演義]]』の成立をもって各社会階級の精神的統一を果たした{{sfnm|関|2001|1p=79|呉|2009|2p=79}}。[[清]]代初期に『演義』版本を編集した[[毛宗崗]]は、「読三国志法」において司馬光の措置を誤りとし、朱熹の改変を是とした{{sfn|呉|2009|p=79}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=三國演義/附錄3|title=『読三国志法』|wslanguage=zh|quote=讀《三國志》者,當知有正統、閏運、僭國之別。正統者何?蜀漢是也。僭國者何?呉、魏是也。閏運者何?晉是也。魏之不得為正統者,何也?論地則以中原為主,論理則以劉氏為主。論地不若論理,故以正統予魏者,司馬光《通鑑》之誤也。以正統予蜀者,紫陽《綱目》之所以為正也。《綱目》于獻帝建安之末,大書「後漢昭烈皇帝章武元年」,而以呉、魏分注其下。蓋以蜀為帝室之胄,在所當予:魏為簒國之賊,在所當奪。是以前則書「劉備起兵徐州討曹操」,後則書「漢丞相諸葛亮出師伐魏」,而大義昭然掲于千古矣。}}</ref>。
== 歴代皇帝 ==
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="text-align:center"
! style="background:#efefef;"|[[諡号]]
! style="background:#efefef;"|(通称)
! style="background:#efefef;"|姓名
! style="background:#efefef;"|在位
! style="background:#efefef;"|[[元号]]
|-
|昭烈帝
|先主
|[[劉備]]
|[[221年]] - [[223年]]
|style="text-align:left"|[[章武]] 221年-223年<br/>
|-
|-
|懐帝
|後主
|[[劉禅]]
|223年 - [[263年]]
|style="text-align:left"|[[建興 (蜀)|建興]] 223年-[[237年]]<br/>
[[延熙 (蜀)|延熙]] [[238年]]-[[257年]]<br/>
[[景耀]] [[258年]]-263年<br/>
[[炎興]] 263年<br/>
|}
<gallery>
ファイル:Liu Bei Tang-detail.jpg|昭烈帝(劉備)
ファイル:Liu Shan.jpg|懐帝(劉禅)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
* {{Cite book|和書|author=井波律子|author-link=井波律子|title=三国志曼荼羅|date=2007|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波現代文庫]]|isbn=9784006021191|pages=226–236|chapter=陳寿の「仕掛け」|ref={{sfnref|井波|2007}}}}
* {{Cite journal|和書|author=大塚秀高|date=1997|title=関羽と劉淵 : 関羽像の成立過程|journal=東洋文化研究所紀要|volume=第134冊|pages=1–17|doi=10.15083/00027093|ref={{sfnref|大塚|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author=柿沼陽平|author-link=柿沼陽平|title=中国古代貨幣経済の持続と展開|date=2018|publisher=[[汲古書院]]|series=汲古叢書|isbn=9784762960475|pages=175–229|chapter=蜀漢の軍事優先型経済体制|ref={{sfnref|柿沼|2018}}}}({{Harvcoltxt|柿沼|2012}}の和訳)
* {{Cite journal|和書|author=佐藤大朗|date=2014|title=漢魏革命の固有性——「天子」の再定義と「禅譲」の創出——|journal=三國志研究|issue=9|pages=93–116|url=https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/2343|ref={{sfnref|佐藤|2014}}}}
* {{Cite journal|和書|author=瀧野邦雄|date=2023|title=政治思想史から見た清朝前期の正統論|journal=経済理論|issue=412号|pages=83–101|doi=10.19002/AN00071425.412.83|ref={{sfnref|瀧野|2023}}}}
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=== 中国語文献 ===
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issn=1008-0139|url=https://www.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&dbname=CJFDLAST2015&filename=ZHWL201411006&uniplatform=OVERSEA&v=kKAKyTKBEFsrD8uy30x9pB8XTo1--ZP1MqShcy-GMWOC72M0t0dDgUVZ4sNU5OVq|ref={{sfnref|曹|2014}}}}
* {{Cite journal|和書|author=関四平|date=2001|title=史筆寓褒貶抑曹尊蜀漢--論《三国志演義》"擁劉反曹"思想的史伝淵源|journal=明清小説研究|issue=第2期|pages=67–80|doi=10.3969/j.issn.1004-3330.2001.02.005|ref={{sfnref|関|2001}}}}
* {{Cite journal|和書|author=黄覚弘|date=2021|title=郝経《続後漢書》之《義例条目》考論——兼論道統聖賢譜系|journal=史学史研究|issue=第2期|pages=80–89|issn=1002-5332|url=https://www.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&dbname=CJFDLAST2021&filename=SYSJ202102011&uniplatform=OVERSEA&v=cyY00Bw2LBxaBiS_r42583e0ARsCl-d-QM4otaI_5hDgC1qT6z-nmS1SJh1FkQG2|ref={{sfnref|黄|2021}}}}
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* {{Cite book|和書|author=宋傑|title=三国軍事地理与攻防戦略|date=2022|publisher=[[中華書局]]|isbn=9787101156195}}
** {{Cite book|和書|author=宋傑|title=三国軍事地理与攻防戦略|date=2022|pages=37–95|chapter=从“軍府”到“霸府”——蜀漢前期最高軍政機構的演変|ref={{sfnref|宋|2022a}}}}
** {{Cite book|和書|author=宋傑|title=三国軍事地理与攻防戦略|date=2022|pages=96–137|chapter=三国蜀魏戦争中的武都|ref={{sfnref|宋|2022b}}}}
* {{Cite journal|和書|author=王瑰|date=2013|title=“中原正統”与“劉氏正統”——蜀漢為正統進行的北伐和北伐対正統観的影響|journal=史学月刊|issue=第10期|pages=37-45|issn= 0583-0214|url=https://www.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&dbname=CJFD2013&filename=SXYK201310007&uniplatform=OVERSEA&v=1spOpBoCWWSxqcZSkOXtRDpXqVEbtX07e0sRILjEBt7XdjUfkckkR1a1Mj20FEpu|ref={{sfnref|王|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=呉直雄|date=2009|title=習鑿歯及其相関問題考弁|journal=南昌大学学報(人文社会科学版)|issue=第4期|pages=74–80|doi=|ref={{sfnref|呉|2009}}}}
* {{Cite journal|和書|author=楊小平|date=2012|title=三国蜀漢政権国号“漢”考論|journal=西華師範大学学報(哲学社会科学版)|issue=第1期|pages= |doi=10.3969/j.issn.1672-9684.2012.01.011|ref={{sfnref|楊|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=張勇耀|date=2022|title=金元之際"蜀漢正統"論的文史演進与南北匯流|journal=河北師範大学学報(哲学社会科学版)|issue=第4期|pages=92–103|doi=10.13763/j.cnki.jhebnu.psse.2022.04.015|ref={{sfnref|張|2022}}}}
=== 英語文献 ===
* {{Cite book|last=Farmer|first=J.M.|editor1=A.E. Dien|editor2=K.N. Knapp|title=[[ケンブリッジ中国史|The Cambridge History of China]]|date=2019|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|volume=2|pages=66–78|chapter=Shu-Han|isbn=9780521243278|doi=10.1017/9781139107334|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[魏晋南北朝時代]]
* [[魏晋南北朝表]]
{{先代次代|蜀漢<br>[[221年]] - [[263年]]||[[後漢]]|[[魏_(三国)|魏]]}}
{{デフォルトソート:しよくかん}}
[[Category:蜀漢|!]]
[[Category:劉氏|*かん3]]
[[Category:四川省の歴史]]
[[Category:湖北省の歴史]]
[[Category:雲南省の歴史]]
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