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{{神社 
|画像   = [[ファイル:Fujinomiya Hongu Sengen Taisha Honden.jpg|280px 
|名称   = 富士山本宮浅間大社 
|所在地 = 本宮:[[静岡県]][[富士宮市]]宮町1-1<br />奥宮:[[富士山]]頂上 
|位置  = 本宮:<br />{{Coord|35|13|38.66|N|138|36|36.01|E|region:JP-22_scale:5000|display=inline,title|name=本宮}}<br />奥宮:<br />{{Coord|35|21|35.19|N|138|43|52.38|E|region:JP-22_scale:50000|display=inline|name=奥宮}} 
|神体   = [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]([[神体山]])▼ 
▲|祭神   = [[コノハナノサクヤビメ|木花之佐久夜毘売命]]<br />(別称:浅間大神) 
▲|神体   = [[富士山]]([[神体山]]) 
|社格   = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br />[[駿河国]][[一宮]]<br />旧[[官幣大社]]<br />[[別表神社]] 
|創建   = (伝)第11代[[垂仁天皇]]3年 
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|例祭   = 本宮:[[11月3日]]-[[11月5日|5日]]<br />奥宮:[[8月15日]] 
|神事   = 流鏑馬祭([[5月4日]]-[[5月6日|6日]]) 
|地図   = {{Location map+|Japan Shizuoka 
{{Location map~|Japan Shizuoka|coordinates={{coord2|35|13|38.66|N|138|36|36.01|E|}}|position=bottom|label=本宮|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20}} 
{{Location map~|Japan Shizuoka|coordinates={{coord2|35|21|35.19|N|138|43|52.38|E|}}|position=right|label=奥宮|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20}}}} 
{{Location map+|Japan Mount Fuji|width=210|float=center|caption=|places={{Location map~|Japan Mount Fuji|coordinates={{coord2|35|13|38.66|N|138|36|36.01|E|}}|position=bottom|label=本宮|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20}} 
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{{OSM Location map|coord={{coord|35.303|N|138.667|E}}|fullscreen-option=1|zoom=10|float=center|width=200|height=250|caption=|title=|mark-coord1={{coord|35|13|38.66|N|138|36|36.01|E}}|label1=本宮|label-pos1=top|mark-size1=8|mark-coord2={{coord|35|21|35.19|N|138|43|52.38|E}}|label2=奥宮|label-pos2=bottom|mark-size2=8}} 
}} 
{{座標一覧}} 
'''富士山本宮浅間大社'''(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、[[静岡県]][[富士宮市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[駿河国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、 
== 概要 == 
[[ファイル:Sakura and Mt. Fuji 桜(さくら)と富士山(ふじさん).jpg|alt=霊峰富士|サムネイル|195x195ピクセル|霊峰富士]] 
[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]を[[神体山]]として祀る[[神社]]であり、[[境内]]は[[以下]]の2宮からなる<ref name="okunomiya">[http://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/30years/main/0303020103.htm 境内地処分上における特殊問題〔富士山頂境内地〕(財務省HP)]</ref>。 
* '''[[#本宮|本宮]]''' - 富士山南麓(富士宮市街地) 
* '''[[#奥宮|奥宮]]''' - 富士山頂上 
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浅間大社は全国の[[浅間神社]]の総本社であり、[[富士信仰]]の中心地として知られる。境内は広大で、本宮社地で約17,000m<sup>2</sup>になるほか、富士山の8合目以上の約385万m<sup>2</sup>も社地として所有している<ref>「富士山頂、静岡の神社に国が譲渡判決後30年、所有権が決着県境問題は未解決」(山梨日日新聞 2004年12月18日)</ref>。本宮の本殿は[[徳川家康]]による造営で、「[[浅間造]]」という独特の神社建築様式であり、国の[[重要文化財]]に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「[[湧玉池]]」があり、国の[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。 
祭神を[[コノハナノサクヤビメ|木花之佐久夜毘売命]]とし、祭神にまつわる[[桜]]を神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。また、古来より[[富士氏]]が[[大宮司]]を務め、「日本三大宮司」の1つに数えられた<ref group="注釈">『臥雲日件録』の寛正6年6月18日の条に「日本所謂三大宮司」とあり、他に[[厳島神主家]]・[[熱田大宮司家]]([[千秋 
== 社名について == 
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そのほか、古来は「富士ノ宮」「富士本宮」「富士浅間宮」なども社号として用いられていた<ref group="注釈">ほか「本宮浅間」「富士本宮」「富士大宮」など。</ref>。「'''ふじの宮'''」という呼称もあり、[[北条泰時]]が浅間社参拝の折<ref group="原">『吾妻鏡』承久元年(1219年)3月26日条</ref>に詠んだ和歌の詞書に記載がある(『[[新勅撰和歌集]]』所収)。またこの語は、浅間大社が鎮座する富士宮市の市名の由来となっている。 
神仏習合時代は「富士権現」のほか、「大宮権現」・「富士浅間権現」などと称された。 
== 祭神 == 
<!--祭神の表記は公式サイトによる--> 
:* '''[[コノハナノサクヤビメ|木花之佐久夜毘売命]]'''(このはなのさくやひめのみこと)<ref>[http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html 祭神 
▲'''配神''' 
:* '''[[ 
▲* [[オオヤマツミ|大山祇神]](おおやまづみのかみ) - 木花之佐久夜毘売命の父神。 
=== 祭神について === 
[[File:Fujisan Hongū Sengen Taisha daitorii.jpg|thumb|250px|right|{{center|大鳥居と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]}}]] 
富士山には、その美しい山容から女神と見る信仰が古くからあり、[[平安時代]]には[[都良香]]の「富士山記」(『[[本朝文粋]]』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある<ref>『世界大百科事典』(平凡社)富士山項。</ref>。しかしながら、これに『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメが当てられたのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰されていた。 
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{{familytree|border=0|00||||01| 00=<small>(伝)孝霊天皇2年</small>|01=富知神を奉斎}} 
{{familytree|border=0|00|01||!| 00=<small>(伝)垂仁天皇3年</small>|01=浅間神を奉斎}} 
{{familytree|border=0||||||!||! 
{{familytree|border=0||||||!||`|~|~|7}} 
{{familytree|border=0||||||`|~|7|||:}} 
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==== 鎌倉時代から戦国時代 ==== 
[[File:Fuji Sankei Mandara from Fujisan Hongu Sengen Taisha. 
以降、[[公家]]や[[武家]]からの崇敬を受け、[[後醍醐天皇]]の土地の寄進<ref group="原">建武元年(1334年)9月「後醍醐天皇論旨」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』141号文書)</ref>のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。[[鎌倉時代]]には[[源頼朝]]の社領の寄進や[[北条義時]]の社殿の造営<ref group="原">『吾妻鏡』貞応2年(1223)6月20日条</ref><ref group="原">『北条九代記』巻4</ref>といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが浅間大社の流鏑馬の起源とされる<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P158</ref><ref group="注釈">文書の初見としては天正元年12月17日「武田家朱印状」、(『[[戦国遺文]][[武田氏]]編第3巻』2238号文書)。</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[足利尊氏]]<ref group="原">建武2年9月24日「足利尊氏寄進状」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』289号文書)</ref>や[[足利直義]]<ref group="原">建武2年11月10日「足利直義寄進状」(『南北朝遺文 関東編 第1巻』329号文書)</ref>による社領の寄進、[[今川範氏]]<ref group="原">康安2年1月11日「今川範氏書下」(『南北朝遺文 関東編 第4巻』2989号文書)</ref>や[[今川泰範]]らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた<ref group="原">応永7年11月18日「今川法高(泰範)寄進状」(『室町遺文 関東編 第1巻』680号文書)</ref>。[[武田信玄]]は願状を捧げ<ref group="原">元亀元年(1570年)4月23日「武田信玄願文」(『戦国遺文武田氏編 第3巻』1544号文書</ref>、その後[[武田勝頼]]は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った<ref>『富士大宮御遷宮入物引付覚』には「富士大宮御遷宮入物引付覚、天正六戊寅十二月勝頼公御建立ノ記」とある</ref><ref>[[平山優 (歴史学者)|平山優]]、「「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考」『武田氏研究第45号』、2012</ref>。[[豊臣秀吉]]も社領寄進の朱印状を発布している<ref group="原">「豊臣秀吉朱印状寫」、天正18年12月(『浅間文書纂』P139)</ref>。 
==== 江戸時代 ==== 
[[江戸時代]]に入ると、[[徳川家康]]は867石の[[朱印地]]を安堵したほか、[[関ヶ原の戦い]]の戦勝を記念して現在の社殿を造営した。[[慶長]]14年([[1609年]])には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た<ref name="suisenshogennan" />。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍[[徳川家綱]]は金1千両を寄進<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P58</ref>、5代将軍[[徳川綱吉]]は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P59</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P230</ref>、10代将軍[[徳川家治]]は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。また幕府により祈祷が命じられることがあり、宝永4年(1707年)には富士山焼祈祷により銀100枚を拝領し、祈祷は富士氏(富士大宮司・公文・案主 
『富嶽之記』([[1733年]])では、浅間大社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。 
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*[[1982年]](昭和57年)[[3月11日]] - 全国の浅間神社の総本宮にふさわしい名称とするため、それまでの「富士山本宮浅間神社」から現行の「'''富士山本宮浅間大社'''」に改名。 
*[[2006年]](平成18年)[[10月29日]] - 御鎮座1200年祭を催行。開催にあわせ大鳥居を再建<ref group="注釈">日頃から大鳥居の復活を望む強い要望があったことから、場所を富士宮駅前から500mほど西の神田川沿いに移動し高さ16mの大鳥居が再建された。</ref>。 
*[[2013年]](平成25年)[[6月22日]] - 「[[富士山 
*[[2020年東京オリンピック]]の聖火リレーでセレブレーション会場となり、聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた。聖火リレーについて[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|組織委員会]]は、スポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ53万5717件の応募があったと発表した<ref name="nikkei20190927">{{Cite news|title=聖火リレー、公募に延べ53万件応募|newspaper=日本経済新聞|date=2019-09-27|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/|publication-date=|accessdate=2019年9月27日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190927125733/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/|archivedate=2019年9月27日}}</ref>。 
=== 神階 === 
213 ⟶ 214行目: 
|- 
|七之宮禰宜 
|鈴木氏<ref name="#1">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P645</ref> 
| 
|- 
222 ⟶ 223行目: 
|大禰宜 
| 
|射手を務め、また入相及び後夜の鐘を鳴らす役を担った<ref name="#2">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P554</ref>。 
|- 
|幸太夫 
229 ⟶ 230行目: 
|- 
|木之行事 
|前島氏<ref 
| 
|- 
238 ⟶ 239行目: 
|甘葛太夫 
|深沢氏 
|流鏑馬における神饌等を務めた。富士宮市大鹿窪の福石神社・須賀神社の禰宜を兼任<ref name="#3">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P558</ref>。	 
|- 
|上野山王禰宜 
| 
|末社である山王神社(現在の日吉神社)の禰宜<ref 
|- 
|行事太夫 
| 
|太鼓打を勤める<ref 
|- 
|二之酌 
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本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は[[檜皮葺]]であり、この本殿の特徴的な形態は「'''[[浅間造]]'''」と称される。 
[[File:Honden kamon.JPG|thumb|250px|left|{{center|[[菊花紋]]と[[桐紋|五三桐紋]]}}{{small|そのほか、蟇股には「菊花紋」と「葵紋」の組み合わせなどが附されている。}}]] 
各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が附され<ref name="#4">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P214</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P303</ref><ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P305</ref>、蟇股には[[菊花紋]]や[[葵紋]]や[[桐紋|五三桐紋]]が並んで附されている<ref name="kamon">建部恭宣、「浅間大社本殿の建築形式 : 浅間造の研究 2(歴史・意匠)」『東海支部研究報告集 36』、1998</ref>。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している<ref name="kamon" />。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある<ref name="kamon" />。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。 
これらの造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料にもその旨の記載がある<ref group="原" name="tokugawa" />。またこの造営における[[遷宮|正遷宮]]の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P221</ref>。 
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==== 社叢 ==== 
[[File:SengenTaisha ShingenZakura.jpg|thumb|200px|right|{{center|信玄桜(武田信玄公手植え枝垂桜2世)}}]] 
社叢は本殿の裏手に広がり、「神立山」と称される。『[[続後撰和歌集]]』における[[隆弁]]の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く立っていた様子がわかる。祭神のコノハナノサクヤヒメの神格から桜との関係は深く、境内には多くの桜の木が植えられている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという<ref name="#5">[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P308</ref>。現在、それらの二代目とされる「信玄桜」が境内に伝わる。 
また『富士本宮雑記』には、武田勝頼により社中に多くの木々が植えられたことが記されている<ref>[[#宮地(1929)|宮地(1929)]]P213</ref>。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『[[甲陽軍鑑]]』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる<ref 
==== 護摩堂 ==== 
316 ⟶ 317行目: 
東側には[[湧玉池]]があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった[[溶岩]]の間から湧出しており、[[天然記念物#特別天然記念物|特別天然記念物]]に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。 
浅間大社は[[ 
<gallery> 
324 ⟶ 325行目: 
File:Fujisan Hongū Sengen Taisha Volcanic bomb.jpg|火山弾 
File:Fujisan Hongū Sengen Taisha Stone.jpg|南極の石<ref group="注釈">第七次[[南極観測船]]「[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]]」の乗り組み員で、地元富士宮市出身の赤池稔によって奉納された[[南極]]の石。歴代の南極観測船「[[宗谷 (船)|宗谷]]」・「ふじ」・「[[しらせ (砕氷艦・初代)|しらせ]]」に神棚が設けられており、浅間大社の参拝・祈祷を受けている。</ref> 
File:Fujisan Hongū Sengen Taisha  
</gallery> 
=== 奥宮 === 
[[File:Okumiya (Sengen-taisha).JPG|thumb| 
[[ファイル:sengen_kengamine.jpg|thumb| 
富士山頂上奥宮は[[ 
奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、山頂のシンボルとなっている。山頂の薬師堂は山役銭の徴収場の役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり、[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]](東北奥宮)として管理されることとなった<ref 
浅間大社奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に[[開山祭]]を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。 
2020年の例大祭は、[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス]]の影響で、山小屋などでの『[[三つの密]]』による感染拡大を防ぐために登山道が閉鎖され、関係者のみで7月15日に本宮開山祭、31日に奥宮開山祭、8月15日に本宮および奥宮閉山祭が執り行われた。近現代において、奥宮での例祭が行われなかったのは[[1945年]]のみで、その際には1合目で例祭を執り行っている。<ref>神社新報 令和2年9月21日 p.3 </ref> 
==== 奥宮境内地の経緯 ==== 
341 ⟶ 344行目: 
この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。[[国有財産法]]における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため、他の寺社のように同法が適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった<ref name="okunomiya" />。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである<ref name="okunomiya" />。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた<ref name="okunomiya" />。 
そして江戸幕府が浅間社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が浅間大社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった<ref name="suisenshogennan" /><ref group="注釈">8合目以上は約400万m{{sup|2}}であり、そのうち登山道や[[富士山測候所|旧富士山測候所]]などを除くことによる。</ref>。ただし、静岡県・[[山梨県]]の[[県境]]が未確定のため、土地登記はしていない。 
==== 山頂信仰遺跡 ==== 
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本宮と奥宮では[[朱印 (神社仏閣)|朱印]]も異なる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押される。 
高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は[[1960年]]から行われている<ref group="注釈">記帳は午前4時頃から午後5時頃。</ref>。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る 
== 摂末社 == 
359 ⟶ 362行目: 
[[File:Yamamiya-sengen-jinja iseki-2.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[山宮浅間神社]](元宮)}}]] 
* [[山宮浅間神社]] 
** 所在地:静岡県富士宮市山宮字宮内({{ 
** 祭神:木花之佐久夜毘売命(浅間大社に同じ) 
** 社格:旧[[村社]]、浅間大社元摂社 
410 ⟶ 413行目: 
<gallery><!--明治時代の摂社を掲載--> 
File:Fukuchi-jinja haiden-2.JPG|[[富知神社]]<small>({{ 
File:Wakanomiya-sengen-jinja sgaden.JPG|若之宮浅間神社<small>({{ 
File:Ninomiya-sengen-jinja haiden.JPG|二之宮浅間神社<small>({{ 
File:米之宮浅間神社と富士山.jpg|[[米之宮浅間神社]]<small>({{ 
File:Shidori Shrine.JPG|[[倭文神社 (富士宮市)|倭文神社]]<small>({{ 
File:Murayama sengen jinjya1.JPG|[[村山浅間神社]]<small>({{ 
</gallery> 
426 ⟶ 429行目: 
'''江戸時代''' 
* 摂社:19社(いずれも境外摂社) 
** 若宮八幡宮、[[金之宮]]、福石明神社、牛頭天王、山王権現、三社明神、[[當所神社 (富士宮市)|当所大明神]]、福之宮、貴布祢明神、米之宮浅間神社、若之宮、二之宮、小浅間社、山宮、富知神社、倭文神社、悪王子大明神、悪王子稲荷、琴平・山神・秋葉合祀社 
* 末社:15社(いずれも境内末社) 
** 三之宮社、七之宮社、荒神社、水屋明神、水神社、弁天社、牛頭天王社、日之宮社、伊勢社、八幡社、天神社、弁天社、追加明神、見目社、飯酒王子社 
476 ⟶ 479行目: 
|[[村山浅間神社]]||--||--||style="background-color:#E6E6FA"|摂社 
|- 
|その他||末社12社<ref group="注">明治4年の境外末社は、日吉社、福石社、須賀社、柚野社、御園尾社、[[金之宮]]社、若宮八幡宮、小浅間社、悪王神社、悪王子稲荷社、若之宮浅間、二之宮浅間、貴船社、琴平・山神・秋葉合祀社の14社。</ref>||末社11社<ref group="注">明治8年の境外末社は、明治4年の末社から柚野社を除いた13社。</ref>||末社11社<ref group="注">明治10年の境外末社は、明治8年の末社に同じ。</ref> 
|- 
|style="background-color:#C0C0C0"|'''合計'''||style="background-color:#DCDCDC"|摂社4社<br />末社29社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社4社<br />末社29社<br />属社3社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社9社<br />末社28社||style="background-color:#DCDCDC"|摂社2社<br />末社5社 
546 ⟶ 549行目: 
=== 重要文化財(国指定) === 
* 本殿 (建造物) 
*: 1604年([[慶長]]9年)の造営。1907 年([[明治]]40年 
*  
*: 室町時代の作。1977年(昭和52年 
* 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住[[景光]] (工芸品) 
*: 室町時代の作。武田信玄奉納と伝わる。『[[集古十種]]』には「駿河国富士浅間社蔵 武田信玄太刀図」とある<ref>川見典久、「『集古十種』兵器篇と十八世紀の古武器調査」93頁、『黒川古文化研究器紀要古文化研究 第16号』、2017</ref>。1912年(明治45年 
* 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 一期一腰応永卅二二年二月日<ref group="注釈">「卅<small>二二</small>年」は「34年」の意。刀剣の銘字では「死」と音通する「四」字を避けて「二二」と表記する。</ref>(工芸品) 
*: 室町時代の作。[[信国派]]の作刀である。指表(さしおもて)の銘に「奉 富士本宮 源式部丞信国」とあり、指裏の銘から応永34年(1427年)の作であることが分かる。古くより浅間大社の宝物であったが乱の際に流出し、後に[[穴山信友]]によって天文16年(1547年)2月2日に奉納された<ref group="原">[[天文 (元号)|天文]]16年 
=== 特別天然記念物(国指定) === 
[[File:Wakutama-ike-1.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[湧玉池]](特別天然記念物)}}]] 
* [[湧玉池]] - 1952年(昭和27年 
=== 静岡県指定文化財 === 
* 有形文化財 
** 社殿 (建造物) - 1954年(昭和29年 
*** 拝殿・幣殿・透塀 - 1604年([[慶長]]9年)造営。 
*** 楼門 - 1614年(慶長19年)造営。 
** 富士浅間曼荼羅図 (絵画) - 1981年(昭和56年 
** 青磁蓮弁文大壺 (工芸品) - 1977年(昭和52年 
** 青磁浮牡丹文香炉 (工芸品) - 1977年(昭和52年 
** 人形手青磁大茶碗〈附 屈輪彫天目台〉 (工芸品) - 1977年(昭和52年 
** 鉄板札紅糸威五枚胴具足 (工芸品) 
**: 鉄の板札(いたざね)を紅糸の毛引威とした最上胴(もがみどう)の具足で、前面・背面・両脇(左脇は2枚に分ける)の5枚を蝶番でつなぐ形式から五枚胴という。武田勝頼が奉納したものと伝わる。金具廻はすべて金梨地で塗られ、胸板の八双鋲に花菱紋がみられる<ref>三浦一郎、「浅間大社所蔵の甲冑と刀剣」『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』、宮帯出版社、2011</ref>。兜の前立は富士山を模したものであり、特徴的な装飾となっている。1977年(昭和52年 
* 無形民俗文化財 
** 富士宮囃子 - 1995年(平成7年 
=== 富士宮市指定文化財 === 
[[File:Fujisanhongū-sengen-taisha baba.JPG|thumb|200px|{{center|流鏑馬の行われる桜馬場}}]] 
* 有形文化財 
** 伝源義助作 大薙刀 (工芸品) - 1965年(昭和40年 
** 随身像 2体 (彫刻) - 1993年(平成5年 
** 後陽成天皇宸翰 (書跡・典籍) - 1965年(昭和40年 
* 無形民俗文化財 
** 富士山本宮浅間大社流鏑馬 - 2006年(平成18年 
=== その他の文化財 === 
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== 関係史料 == 
* 『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』 
*: 戦国期に武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に、多数の武田家臣が神馬奉納を行ったことに関する記録。原本は現存していないが、武田信堯等連署神馬奉納状写(内閣文庫蔵「賜蘆文庫文書」)、[[山梨県]][[山梨市]]矢坪の[[永昌院 (山梨市)|永昌院]]蔵「兜巖史略」などの写本が知られ、奉納に際しては浅間神社社家衆鷹野因幡守徳重が[[取次 (歴史学)|取次]]を務めたという。江戸時代後期の地誌『[[甲斐国志]]』では随所に引用が見られるが、『奉納記』そのものの写本は記録されていない。 
*: 甲斐武田氏においては[[分限帳]]が現存しておらず、当史料は永禄10年([[1567年]])の「生島足島神社起請文」や天正10年([[1582年]])の「[[天正壬午起請文]]」とともに武田家臣の実態を知る史料と評価され<ref name="#7">平山(2012)、p.33</ref>、『奉納記』は両者の中間にあたる天正3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]以後の家臣団を窺うことのできる史料として重要視されている<ref 
*: 『奉納記』の成立年代について、佐藤八郎は『国志』に記される引用を集成し、成立を浅間大社の遷宮が行われた天正6年([[1578年]])12月に推定している<ref>佐藤(1992)</ref>。一方で、平山優は永昌院本に記される武田家臣の[[官途]]・[[受領名]]や[[道号]]、没年等から検討を加え、成立を天正5年1月から5月の間としている。 
*: また、平山は『国志』の記録と永昌院本の比較検討を行い、永昌院本の方が記載された家臣名が多いことを指摘し、『国志』編纂に際して参照された史料は全体の一部であった可能性を指摘している<ref>平山(2012)、p.32</ref>。一方、『国志』の記録には永昌院本に登録されていない人物も含まれることから、永昌院本もまた全体の一部であったとしている<ref>平山(2012)、pp.32-33</ref>。 
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'''交通アクセス(本宮まで)''' 
* 鉄道 
** [[東海旅客鉄道]](JR東海)[[身延線]] [[富士宮駅]]から、徒歩約10分 (800m) 
** 同線[[西富士宮駅]]から9分 (650m) 
* 車 
** [[新東名高速道路]] [[新富士インターチェンジ|新富士IC]]から、[[西富士道路]]経由で約15分 (6.5Km) 
** [[東名高速道路]] [[富士インターチェンジ|富士IC]]から、西富士道路経由で約20分 (9.5Km) 
* 高速バス 
** 東京駅-富士宮間の高速バス[[やきそばエクスプレス]]を利用し、富士宮駅下車 
* 主な路線バス 
** [[富士急静岡バス]]富士宮駅北口より、万野粟倉循環線で約5分、湧玉の池下車。 
** [[宮バス]]富士宮駅南口より、宮2、13、14系統で約8分、浅間大社前下車(土日 
**: このほか、富士急静岡バス運行「強力くん」 
奥宮までについては[[富士登山]]を参照。 
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== 脚注 == 
{{脚注ヘルプ}} 
{{Notelist}} 
{{Reflist|group=注釈}}▼ 
▲'''原典''' 
{{Reflist| 
▲'''出典''' 
== 参考文献 == 
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'''文献''' 
* {{Cite book|和書| 
* {{Cite book|和書|author=遠藤秀男|translator=|editor=平野栄次 
* {{Cite book|和書|author= 
* 佐藤八郎「『駿州大宮神馬奉納記』にういて」『武田氏研究 第7号』武田氏研究会、1992年 
* 平山優「『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』考」『武田氏研究 第45号』武田氏研究会、2012年 
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== 外部リンク == 
* [http:// 
* [http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4404170 富士山本宮浅間大社] - 静岡県神社庁 
* {{神道・神社史料集成|120101|浅間神社}} 
* {{Kotobank}} 
{{神道 横}} 
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{{史跡富士山}} 
{{富士山-信仰の対象と芸術の源泉}} 
{{Good article}}▼ 
{{土木学会デザイン賞}} 
{{Gマーク建築等3}} 
{{Normdaten}} 
▲{{Good article}} 
{{DEFAULTSORT:ふしさんほんくうせんけんたいしや}} 
[[Category:富士山本宮浅間大社| 
[[Category:静岡県の神社]] 
[[Category:富士宮市]]▼ 
[[Category:富士宮市の歴史]]▼ 
[[Category:名神大社]] 
[[Category:駿河国の式内社|名 ふしさんほんくうせんけんたいしや]] 
[[Category:一宮]] 
[[Category:官幣大社]] 
[[Category:別表神社]] 
[[Category: 
[[Category:大社]]▼ 
[[Category:富士宮市の重要文化財]] 
[[Category:重要文化財 (建造物)]] 
[[Category:静岡県にある国指定の史跡]] 
[[Category:富士山-信仰の対象と芸術の源泉]] 
▲[[Category:大社]] 
[[Category:静岡県の観光地]] 
[[Category:江戸時代の建築]] 
[[Category:駿河国|社1]] 
[[Category:B-1グランプリ|場 
▲[[Category:富士宮市の歴史]] 
[[Category:グッドデザイン賞]] 
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