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== 略歴 ==
=== 出生から前半生 ===
[[山梨県]][[南都留郡]][[谷村町]]下谷(現在の[[都留市]]谷村町下谷)に生まれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=増田誠と富士|url=https://www.fujisan-net.jp/data/article/306.html|website=www.fujisan-net.jp|accessdate=2019-08-08}}</ref>。父は[[理容店]]を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には[[似顔絵]]の天才と賞されたという<ref name="#1">太田(2012)、p.11</ref>。
 
[[1931年]]([[昭和]]6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立都留中学校、官立(現在の[[山梨師範県立都留高等学校]]を経て<ref name=":0" />[[山梨師範学校]](現在の[[山梨大学]])を卒業。[[1938年]](昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、[[富士上吉田町]]現在の[[富士吉田市]]上吉田)の[[西念寺 (富士吉田市)|西念寺]]の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
 
[[1941年]](昭和16年)1月には[[徴兵]]され[[大日本帝国陸軍|陸軍]]東部12部隊へ入隊し、同年4月には幹部候補生として南支へ派遣される。近衛野砲連隊南支に配属され、同年7月には[[プノンペン]]に駐屯する。同年10月には甲種幹部候補生として千葉県四街道[[陸軍野戦砲兵学校]]幹部候補隊に入校する。翌1942年4月には陸軍砲兵見習仕官として[[シンガポール]]駐屯の原隊に復帰し、同年7月には[[北部軍 (日本軍)|北部軍]][[宗谷要塞]]に転属する。同年12月には少尉に任官。翌1943年5月には北海道道東地区警備のため釧路に派遣され、同年10月には宗谷要塞地区に復帰する。同年12月には中尉に任官する。翌1944年には横須賀[[陸軍重砲兵学校]]に入学する。翌1945年5月には北部軍稔部隊に観測係将校として転出し九州南方警備にあたり、鹿児島で終戦を迎える。
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[[1952年]](昭和27年)には第二回一線美術展に出展し、会友となる。[[1955年]](昭和30年)には清貢から世界一周旅行への同行を勧められ[[パリ]]遊学を企図するが、清貢の病のため断念する。翌[[1956年]](昭和31年)には光工芸社を売却して上京し、西荻窪に下宿して渡仏準備を行う。翌[[1957年]](昭和32年)には渡仏を果たし、[[パリ日本館|パリ国際大学都市日本館]]に滞在する。
 
翌[[1958年]](昭和33年)にはサロン・デ・ザンデパンダンに出展する。同年には[[彫刻家]]であるザボのアトリエに転居し、その後[[モンパルナス]]のホテル・リベリアに滞在する。[[1963年]](昭和38年)にはサロン・ドートンヌの会員となる。『増田誠画集』によれば、同年3月には《新聞売り》がサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという<ref name="#2">太田(2012)、p.15</ref>。《新聞売り》は横一列に人物が描かれた作品であるが、展覧会の[[カタログ]]には増田の出展作は《Cirque》で、町並みの風景が描かれた作品の写真が掲載されている。また、1965年2月の『造形 65号』には1963年のサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという[[運河]]を描いた作品を背景に増田が写った写真が掲載されている<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。このため、《新聞売り》が同展に出展された点には異議が存在する<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。[[1965年]](昭和40年)にはル・サロン・デ・ザルティスト・フランセで金賞を受賞し、パリの画壇で認められる存在となる。
 
=== 西洋的テーマへの挑戦 ===
1970年代には[[ギリシャ神話]]や『[[旧約聖書]]』など西洋の宗教・神話的なテーマに取り組んだ作品を多く発表している<ref name="#3">太田(2012)、p.13</ref>。増田は[[1980年]]の[[インタビュー]]<ref>「人間の面白さに憑かれて」『月刊美術』1980年11月</ref>において、西洋的なテーマに取り組むきっかけとなったのは[[1975年]]のル・サロンに出展したときであると述懐している<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。
 
増田の証言がある一方で、実際に1975年のル・サロンに出展されたのは《キヨスク(キャリテ・ド・ラ・ヴィー》であることが指摘され、なおかつこれに先行する[[1974年]]には《トロイの木馬》、1975年2月のサロン・ナショナル・デ・ボザールに《アルゴナウト》が出展されている事実がある<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。このことから、実際には1980年以前から既に西洋のテーマには取り組んでいたと考えられている<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。
 
1979年にはサロン・ドートンヌに《ソルフェリーノのアンリ・デュナン》を発表する<ref>太田(2012)、p.13< name="#3"/ref>。これは増田が[[東郷青児]]の《ソルフェリーニの掲示》に触発され、[[赤十字]]の創設者である[[アンリ・デュナン]]に取材した作品である<ref>太田(2012)、p.13< name="#3"/ref>。画面左には[[聖母マリア]]が[[十字架]]から下ろされたキリストを抱く「[[ピエタ]]」を描き入れ、前景には兵士が折り重なり倒れる様子を描き、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の《[[民衆を導く自由の女神]]》を思わせる描写であることが指摘される<ref>太田(2012)、pp.13 - 14</ref>。
 
増田は[[1967年]]の《シオの虐殺》においてもドラクロワの《[[キオス島の虐殺]]》の前景を取り入れており、1975年の《ルーブル》では画中画としてドラクロワの《[[サルダナパールの死]]》を大きく描いている<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。双方とも[[ルーブル美術館]]に所蔵されていることから増田は実見していたと考えられている<ref>太田(2012)、p.15< name="#2"/ref>。
 
[[1988年]](昭和63年)10月に帰国すると、各地で個展を開催し、テレビ出演や[[北海道新聞]]釧路版の連載執筆も手掛ける。1989年(平成元年)正月には[[大分県]][[由布院]]を旅行し、2月には[[北海道]]の[[阿寒湖]]を取材している。3月には[[横浜赤十字病院]]に入院し、4月9日に[[肺炎]]のため死去。享年78。[[葬儀]]は同月12日に故郷都留市下谷一丁目の深泉院で行われ、深泉院に[[埋葬]]された。
 
== 作品について ==
増田は[[港]]や[[河岸]]の風景、[[パリ]]の市井の人々の生活などを多く描いた。渡仏初期には当時の流行を反映して[[アンフォルメル]]を意識した作品を手がけている<ref>太田(2012)、p.11< name="#1"/ref>。特にパリの[[石畳]]の風景を画題として選び、[[佐伯祐三]]や[[荻須高徳]]と比較された<ref>太田(2012)、p.11< name="#1"/ref>。1970年代から80年代にかけては[[ギリシャ神話]]や[[旧約聖書]]を題材とした大作を手がけ、キャンバスを複数枚つないだ大型の作品も手がけている。故郷山梨では[[富士山]]を描いた作品も見られる。
 
多作な画家として知られ、[[油彩画|油彩]]、[[版画]]、[[エッチング]]、[[リトグラフ]]、[[墨彩画]]など1600点以上がヨーロッパや日本に所在しており、個人の所蔵家の手元に残っている作品も多く、その全容は未だ明らかにされていない<ref>太田(2012)、p11</ref>。また、増田の思想や芸術観、フランス画壇における評価など指摘検証も十分になされていない<ref>太田(2012)、p1</ref>。
 
日本では[[1970年]](昭和45年)から[[1988年]](昭和63年)の第十五回展まで小田急百貨店で個展を開催する。[[1991年]](平成3年)には故郷の都留市中央に増田誠美術館が開館する。[[2012年]]には[[山梨県立美術館]]で『増田誠 パリ-人生の哀歓』が開催された。[[2015年]](平成27年)には増田誠美術館が都留市上谷の[[ミュージアム都留]]に移転統合された。
 
==主な作品 ==
* 『オマージュ ア メーメトル』(1978年) (醍醐) (釧路市)
* 『新聞売り』(1963年)(株式会社笛園)<ref>太田(2012)、p.170</ref>
* 『アルゴナウト』(1975年)([[釧路市立美術館]])<ref name="#4">太田(2012)、p.172</ref>
* 『ソルフェリーノのアンリ・デュナン』(1979年)([[日本赤十字社]])<ref name="#4"/>
* 『シオの虐殺』(1967年)(山梨県立都留高等学校)<ref name="#4"/>
 
== 画集 ==
 
* 『在パリ20年 増田誠の歩み展』(1976年)美術出版デザインセンター
* 『増田誠 画集』(1980年)美術出版デザインセンター
* 『特別展 増田誠 パリ きおくのまち』(2012年)金谷美術館
* 『増田誠 パリ-人生の哀歓』(2012年)山梨県立美術館
 
==関連書籍==
 
・『増田誠追悼集』(1991年)増田誠追悼集刊行委員会
 
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:ますた まこと}}
[[Category:洋画家]]
[[Category:20世紀日本の画家]]
[[Category:山梨県出身の人物]]
[[Category:山梨県立都留高等学校出身の人物]]
[[Category:山梨大学出身の人物]]
[[Category:在フランス日本人]]
[[Category:1920年生]]
[[Category:1989年没]]