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{{Redirect|エドワード・クック|陸上選手|エドワード・クック (陸上選手)}}
{{政治家
|人名 = エドワード・コーク
|各国語表記 = {{lang|en|Edward Coke}}
|画像 = Edward coke.jpg
|画像説明 =
|画像サイズ = 200px
|国略称 ={{ENG927}}
|生年月日 =[[1552年]][[2月1日]]
|出生地 ={{ENG927}}、[[ノーフォーク]]・マイルハム
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1552|2|1|1634|9|3}}
|死没地 =
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]、[[インナー・テンプル]]
|前職 =
|所属政党 =
|称号・勲章 = [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
|親族(政治家) =
|配偶者 = ブリジット・パストン<br>{{仮リンク|エリザベス・ハットン|en|Elizabeth Hatton}}
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = ENG
|選挙区 = {{仮リンク|オールドバラ選挙区|en|Aldeburgh (UK Parliament constituency)}}<br />{{仮リンク|ノーフォーク選挙区|en|Norfolk (UK Parliament constituency)}}<br />{{仮リンク|リスカード選挙区|en|Liskeard (UK Parliament constituency)}}<br />{{仮リンク|コヴェントリー選挙区|en|Coventry (UK Parliament constituency)}}<br />ノーフォーク選挙区<br />{{仮リンク|バッキンガムシャー選挙区|en|Knights of Buckinghamshire}}
|職名 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
|就任日 = [[1589年]]<br />[[1593年]]<br />[[1621年]] - [[1622年]]<br />[[1624年]]<br />[[1625年]] - [[1626年]]<br />[[1628年]]
|退任日 = [[1629年]]
|国旗2 = ENG
|職名2 = {{仮リンク|法務次官 (イギリス)|label=法務次官|en|Solicitor General for England and Wales}}
|就任日2 = [[1592年]][[6月16日]]
|退任日2 = [[1594年]][[4月10日]]
|元首職2 = 女王
|元首2 = [[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]
|国旗3 = ENG
|職名3 = [[法務長官 (イギリス)|法務長官]]
|就任日3 = 1594年4月10日
|退任日3 = [[1606年]][[7月4日]]
|元首職3 = 女王<br>国王
|元首3 = エリザベス1世<br>[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]
|国旗4 = ENG
|職名4 = [[民訴裁判所主席裁判官]]
|就任日4 = 1606年[[6月30日]]
|退任日4 = [[1613年]][[10月25日]]
|元首職4 = 国王
|元首4 = ジェームズ1世
|国旗5 = ENG
|職名5 = {{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}
|就任日5 = 1613年10月25日
|退任日5 = [[1616年]][[11月15日]]
|元首職5 = 国王
|元首5 = ジェームズ1世
|国旗6 = ENG
|その他職歴1 = [[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]
|就任日6 = 1592年
|退任日6 = 1593年
|元首職6 =
|元首6 =
}}
[[サー]]・'''エドワード・コーク'''(Sir Edward Coke, [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[1552年]][[2月1日]] - [[1634年]][[9月3日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の[[法律家]]・[[政治家]]。中世[[ゲルマン法]]に由来する[[コモン・ロー]]の法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「[[法の支配]]」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。[[植民地]]の起業家でもあった。
姓は'''クック'''とも発音ならびに表記される<ref>[https://www.merriam-webster.com/dictionary/coke Merriam-Webster Online]、[[リーダーズ英和辞典]]、[[新英和大辞典]]、[[小学館ランダムハウス英和大辞典]]</ref><ref>Joseph Thomas [https://books.google.co.jp/books?id=j0k7AQAAIAAJ&pg=PA7 Universal Pronouncing Dictionary of Biography and Mythology
== 生涯 ==
=== 法律の専門家として台頭 ===
[[ノーフォーク]]・マイルハムで[[ジェントリ]]の家庭に生まれ、[[1567年]]に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]へ入学、[[1572年]]に[[法曹院]]の1つである[[インナー・テンプル]]に入学、[[1578年]]に弁護士となった。それから法律家として活躍し始め、[[エクセター侯爵|バーリー男爵]][[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]の引き立てもあり出世、[[1586年]]に[[ノリッジ]]の裁判官、[[1589年]]に[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員、翌[[1590年]]にインナー・テンプルの幹部員、[[1592年]]に[[ロンドン]]の裁判官に選ばれた。同年
=== コモン・ローを掲げ王権と対立 ===
ところが、1606年に
コークは初め教会裁判所と衝突、世俗裁判所に属すると考えた事件を教会裁判所が受理することを禁止する禁止令状を国王の名でしばしば出していた。教会裁判所からの苦情を受け付けたジェームズ1世はコークに各裁判所間のバランスと取るべきと申し入れたが取り合わず、逆に「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない」と主張したところ、気分を害したジェームズ1世が「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる」と詰問したのに対し、コークは「国王といえども神と法の下にある」という[[ヘンリー・ブラクトン]]の[[法諺]]を引用して諫めたとされる<ref name="松村153"></ref><ref name="今井158"></ref><ref>塚田、P134 - P135、戒能、P71。</ref>。
こうした動きに対しベーコンがその対処に当たり、[[1608年]]にコモン・ロー裁判所と[[ウェールズ]]の裁判所が管轄争いを起こすと、自分達の権利を声高に主張するコモン・ロー裁判所を非難、ベーコンの影響を受けたジェームズ1世が[[1610年]]に各裁判所へそれぞれの管轄を保持することと自重を呼びかけ、事態の収拾を図った。一方でコークの学識を高く評価していたため引き続き裁判官として重用した<ref name="今井158"></ref><ref>塚田、P135 - P137。</ref>。
[[1613年]]、{{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}{{仮リンク|トマス・フレミング (裁判官)|label=トマス・フレミング|en|Thomas Fleming (judge)}}の死亡で民
しかし、王座裁判所首席裁判官になってもコークは態度を変えず、ジェームズ1世・ベーコンとの対立を継続していった。[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]の殺人事件裁判ではコークとベーコンは協力したが、裁判官は国王の擁護者と考えるベーコンと国王と人民の間の調停者と考えるコークの思想は相容れず、ジェームズ1世の裁判官への干渉に対する抗議も重なり、[[大法官]]でベーコンと連携したエジャートンとも対立を深めていった。裁判所の管轄争いも国王大権と裁判所の対立と問題が拡大、[[1616年]]にジェームズ1世により王座裁判所首席裁判官を罷免された<ref group="注釈">1615年にジェームズ1世が国民へ徳税という強制献金を求めたが、拒絶したオリバー・シンジョンという男が国王侮辱罪で逮捕、裁判にかけられた際、審問に当たったコークは「国王は徳税を強制出来ない」と有罪に反対したが、ベーコンの意見が通りシンジョンは監禁・罰金刑に処され、コークは意見変更を強いられた。また同年、高位聖職者への非難で取り調べられたピューリタン牧師エドマンド・ピーチャムの裁判で、ジェームズ1世が判決について裁判官に個別の意見聴取を行ったが、これにも反対したコークは国王を擁護するベーコンに反論され立場は悪化した。塚田、P151 - P152、石井(2016)、P65 - P68。</ref><ref name="松村153"></ref><ref name="今井158"></ref><ref>塚田、P151 - P158、木村、P193 - P194、P232
=== 政治家に転身、議会を主導 ===
法曹界を追われたコークが見出した場所は[[イギリスの議会|議会]]で、[[1621年]]の議会では庶民院議員として宿敵ベーコンの失脚に主要な役割を果たした。この議会で先頭に立って独占権批判を展開、ジェームズ1世の側近[[バッキンガム公|バッキンガム侯]](後に公爵)[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]の関係者を独占権を悪用したとして告発、続いて大法官になり独占権の許可に深く関わっていたベーコンを収賄の罪で告発、ベーコンを失脚に追いやった。さらに[[議会の大抗議]]を作成し議会の権利はイングランド国民の権利だと主張したが、ジェームズ1世の報復で同じく作成した[[ジョン・ピム]]らと共に投獄された<ref name="松村153"></ref><ref>浜林、P72、塚田、P191 - P194、石井(2016)、P74。</ref>。
ジェームズ1世の後を継いだ[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に対しても批判的だったため、バッキンガム公により庶民院議員との兼業を禁止されていた{{仮リンク|州長官|en|High sheriff|label=シェリフ}}に任じられ、[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]](後の[[ストラフォード伯爵]])共々庶民院から排除された。しかし庶民院で議員活動を続け、[[1628年]]の議会でピム、ウェントワース、
== 思想 ==
コモン・ローの信奉者だったコークはコモン・ローが古い伝統・慣習・判例の積み重ねで出来上がったことを重視、臣民の権利と自由を保障する生得権がコモン・ローだとする「[[古き国制|古来の国制]]」論を主張した。それに基づきコモン・ローの改変・修正に反対、保守することを強調した。同時にそれは、伝統(コモン・ロー)の法解釈に携わる法律家の権威向上にも繋がり、たとえ国王でも改変を許さないことも意味した。また、コモン・ローを他の制定法より上位に置き、それが制定法が一般の正義と条理に反した場合は無効になるという判定も出来上がった<ref>浜林、P67 - P69、安藤、P51 - P52、戒能、P58 - P59、木村、P177 - P178。</ref>。
法解釈と関連付けて議会の機能も説明、議会を現代で言う立法機関と捉えず司法機関、すなわち立法・司法が混在した最高の法廷(裁判所)とみなした(行政は国王が単独、司法は他の裁判所が議会と共有していると考えた)。コークによれば議会の庶民院は法を解釈する最高裁判所とされ、法の至上性は庶民院の至上性に繋がった。ただし議会は特別な裁判所と位置づけるが、その機能は議会特権を犯した者への処罰しか指摘せず、立法についても議会主権という程徹底しておらず、国王大権を侵すことは出来ないとする。議会立法権がコモン・ローを侵害する可能性についてもそれぞれの調和を期待するに止め、理論に一貫性が見られない<ref>浜林、P69、安藤、P45 - P49、P52 - P54。</ref>。
政治家に転身してからは、法律知識を生かしてコモン・ローや[[マグナ・カルタ]]を引用・注釈して国王大権に対する抵抗を試み、基本的に均衡憲法論<ref group="注釈">議会がイングランドの最高権力を持つ一方、国王が統治者として存在し、両者はいずれもイギリス憲法上不可欠とされ、一方が他方を併呑することは許されず両者の均衡で憲法は成り立つという思想。換言すれば憲法は国王大権と国民の自由の均衡で成り立つ。ブラクトンら憲法思想家が主張した従来からの制限王政論が[[テューダー朝]]期に入り均衡憲法論を加えて発展、一般に広まった。またこの思想と合わせて国王大権二元論も形作られ、国王大権には法の拘束を受ける部分と受けない部分があり、前者は国民の自由に関わる物、後者は直接国民の自由に関係ない物として主張された。安藤、P3 - P11。</ref>を重んじていたが、同じく均衡憲法論者のベーコンがやや国王擁護の立場だったのに対し、コークは時代の変化を読み取り議会の権限強化に一定の寄与を果たした。1621年の独占権批判はマグナ・カルタを引用して国民の自由を脅かしていると主張、国王の独占権特許が国王大権に触れる点は国王大権二元論を持ち出し、独占権は国民の自由に関わる物として国王大権に属していても議論は可能と説いて議会の独占権審議に根拠を与えた。二元論では法の拘束を受けないはずの国王大権(宗教・外交・宣戦講和)にも[[請願]]という形で議会は関与出来るとし、請願を受け取る国王はそれを採用・破棄するかは自由と説明しながらも、同年のジェームズ1世の親[[スペイン]]外交に議会が請願の形で意見することになり、ジェームズ1世の強硬な反対で議会の外交関与は失敗したが、国王大権へ議会の介入に道を開いたといえる<ref>安藤、P38 - P41、P55 - P75。</ref>。
国王・宗教裁判所・[[エクイティ裁判所]]・[[海事裁判所]]に対してコモン・ローの優位を主張し、それらの権力をコモン・ローによって制限することを主張し続けたとされる。中でも1606年の[[国王の禁止令状事件]]が有名で、ジェームズ1世が[[王権神授説]]をもって国王[[主権]]を主張したのに対して、コークが上述の通り法律家の専門分野を根拠に国王大権の干渉を牽制、ジェームズ1世の反論に応じた際ブラクトンの格言を掲げたとされる<ref name="英米判例百選89">英米判例百選、P89。</ref>。
ただしコークは、国王・王室を篤く崇敬する国王大権の支持者で、反国王・反王室のイデオロギーの持ち主ではない。この事件でコークは[[ノルマン・コンクエスト]]以後裁判権に介入しようとした王は歴代の王の中に
さらに1628年に権利の請願を起草する際、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]は庶民院の草案に「国王の主権者権力」(Sovereign power)という文字を入れるよう要求したが、コークらはそれを拒否した。コークの主導の下、国庫歳入を保留することにより、
コークに対する評価は毀誉褒貶で、一方で「法の父」「下院の[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]」と称えられ、船に例えられた庶民院を導く舵手と言われた。他方で裁判官時代の厳しい法の執行を非難されたり(コーク本人も自認している)、政治家時代では疑わしい先例を引用して自説を補強する先例発明家とも言われた。特にベーコンのコーク非難は激しく、1616年のジェームズ1世によるコークの王座裁判所首席裁判官罷免を正当化する議論を構築した際「国王の大権に対して(中略)裁判所の既に確立している司法権に対して騒ぎと新しい疑問を持ち込んだ」「寛大であるとか、愛想が良いとか、気前が良いとか、本性上人々を引き付ける性質を持たないために、彼は政府を攻撃するという企みによって民衆の支持を得ようとした」と非難、同年のジェームズ1世へのイングランド法編纂に関する助言でもコークのコモン・ローの過剰な賛美を批判している。合わせて、イングランド法編纂を考案するベーコンは前述の助言で彼の著作『判例集』に代わる法規則集の構想を提案、後世に評価を委ねる姿勢と法律家としてのコークに対抗心を燃やす発言も残している<ref>安藤、P43 - P44、塚田、P157 - P158、P163 - P164、木村、P180 - P181、P194 - P197。</ref>。
== 影響 ==
コークは、マグナ・カルタを貴族を保護するためだけではなく、全ての臣民を等しく保護するために用いられると解釈した。それは実質的にマグナ・カルタを、議会や王から全ての臣民を守る保証人だと定めたことになる。コークは『大憲章は、その上に王を持たない存在である』と主張したとされる。
[[カルヴィン対スミス|カルヴァン事件]]では、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世になった後のスコットランド臣民はスコットランドだけでなくイングランドにも土地を所有できる
コークの著書の写しは[[1620年]]に[[メイフラワー号]]に乗って北アメリカに渡り、[[13植民地|イギリス植民地]]のすべての法律家がコークの本、特に『判例集』『イギリス法提要』に学んだ。[[ジョン・アダムズ]]、[[パトリック・ヘンリー]]は、1770年代の母国への反逆行為を支持するかどうかを、コークの著作から議論した。
[[デルタ・カイ兄弟団]]は
権利の請願が
== 判決 ==
*[[コモン・ロー]]に反する[[成文法|制定法]]を無効とした{{Ill2|医師ボナム事件|en|Dr. Bonham's Case|label=}}
*裁量による捜索からの自由の権利の起源となった[[シーメイン事件]]
*[[独占禁止法|反トラスト]]で重要な
*企業法の起源となったサットン病院・環境法の誕生とも言われる
== 略年譜 ==
* [[1552年]] -
* [[1567年]] -
* [[1572年]] -
* [[1578年]] - 法曹資格を取得
* [[1589年]] - 庶民院議員。
* [[1592年]]から[[1594年]] - 法務次
* 1592年から[[1593年]] - 庶民院議長。
*
*
* 1606年 - 北アメリカで入植地を探すための王の設立許可状で認められた私的ベンチャーである[[バージニア会社]]の設立許可状の作成に加わった。バージニア会社の2つの支部の一つであるロンドン会社の理事になる。
* 1613年から[[
*
* [[1617年]] - 枢密顧問官に再任。
* [[1621年]] - 庶民院議員。しかし議会の大抗議を作成し他の議会リーダーと一緒に6
* [[1628年]] - 権利の請願を起草。
* [[1634年]] - [[バッキンガムシャー]]州の[[ストークポージス]]で死去。
== 子女 ==
[[1582年]]にジョン・パストンの娘ブリジット・パストンと結婚、10人の子(7男3女)を儲けた。息子の1人ロバート・コークは庶民院議員になり、娘アンはラルフ・サドリアと結婚した。
ブリジットの死後1598年に{{仮リンク|エリザベス・ハットン|en|Elizabeth Hatton}}と再婚、2人の娘を儲けた。
== 著作 ==
*''Reports''
*''Institutes of the Laws of England''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
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* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
* [[田中英夫 (法学者)|田中英夫]]『BASIC英米法辞典』 [[東京大学出版会]]、1993年。
* 別冊[[ジュリスト]]『英米判例百選(3版)』[[有斐閣]]、1996年。
* [[塚田富治]]『イギリス思想叢書2 ベイコン』[[研究社|研究社出版]]、1996年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』研究社、2000年。
* [[戒能通厚]]編『現代イギリス法辞典』[[新世社]]、2003年。
* [[木村俊道]]『顧問官の政治学 <small>フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド</small>』[[木鐸社]]、2003年。
* [[石井美樹子]]『エリザベス <small>華麗なる孤独</small>』[[中央公論新社]]、2009年。
* [[石井栄一]]『ベーコン <small>人と思想43</small>』[[清水書院]]、1977年(新装版2016年)。
== 関連人物 ==
*[[マシュー・ヘイル]]
*[[ウィリアム・ブラックストン]]
*[[ジョン・マーシャル (政治家)|ジョン・マーシャル]]
*[[ジェームス・ケント]]
*[[ジョセフ・ストーリ]]
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{{S-start}}
{{s-par|en}}
{{succession box | title={{仮リンク|オールドバラ選挙区|en|Aldeburgh (UK Parliament constituency)}}選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 | before={{仮リンク|ピーター・オズボーン (国王手許金会計長官)|label=ピーター・オズボーン|en|Peter Osborne (Keeper of the Privy Purse)}}<br />{{仮リンク|エドモンド・ベル|en|Edmond Bell}} | after={{仮リンク|トマス・ナイヴェット (1605年没)|en|Thomas Knyvet (died 1605)|label=トマス・ナイヴェット}}<br />ウィリアム・ベンス | years=1589年<br /><small>同職:[[ウィリアム・ベンス]]:1588年 - 1589年</small>}}
{{succession box | title={{仮リンク|ノーフォーク選挙区|en|Norfolk (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 | before={{仮リンク|ヘンリー・ウッドハウス (庶民院議員)|label=ヘンリー・ウッドハウス|en|Henry Woodhouse (MP)}}<br />{{仮リンク|クリスタファー・ヘイドン|en|Christopher Heydon}} | after={{仮リンク|ヘンリー・ガウディ|en|Henry Gawdy}}<br />{{仮リンク|ジョン・タウンゼンド (1603年没)|en|John Townshend (died 1603)|label=ジョン・タウンゼンド}} | years=1593年<br /><small>同職:{{仮リンク|ナサニエル・ベーコン・オブ・スティッフキー|en|Nathaniel Bacon of Stiffkey|label=ナサニエル・ベーコン}}:1593年</small>}}
{{succession box | title={{仮リンク|リスカード選挙区|en|Liskeard (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 | before={{仮リンク|リチャード・コンノック|en|Richard Connock}}<br />{{仮リンク|ジョン・グランヴィル|en|John Glanville}} | after={{仮リンク|ウィリアム・レイ (第2代準男爵)|en|Sir William Wrey, 2nd Baronet|label=ウィリアム・レイ}}<br />ニコラス・ヘレ | years=1621年 - 1622年<br /><small>同職:[[ニコラス・ヘレ]]:1621年 - 1625年</small>}}
{{succession box | title={{仮リンク|コヴェントリー選挙区|en|Coventry (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 | before={{仮リンク|サンプソン・ホプキンス|en|Sampson Hopkins}}<br />{{仮リンク|ヘンリー・セウォール|en|Henry Sewall}} | after=ヘンリー・ハーウェル<br />[[イサーク・ウォルデン]] | years=1624年<br /><small>同職:[[ヘンリー・ハーウェル]]:1624年 - 1626年</small>}}
{{succession box | title=ノーフォーク選挙区選出庶民院議員 | before=[[トマス・ホランド (ノーフォーク選出庶民院議員)|トマス・ホランド]]<br />{{仮リンク|ジョン・コーベット (初代スプローストン準男爵)|en|Sir John Corbet, 1st Baronet, of Sprowston|label=ジョン・コーベット}} | after={{仮リンク|ロジャー・タウンゼンド (初代準男爵)|en|Sir Roger Townshend, 1st Baronet|label=ロジャー・タウンゼンド}}<br />{{仮リンク|ジョン・ヘヴニンガム|en|John Heveningham}} | years=1625年 - 1626年<br /><small>同職:{{仮リンク|エドマンド・ベーコン (第2代レッドグレイヴ準男爵)|en|Sir Edmund Bacon, 2nd Baronet, of Redgrave|label=エドマンド・ベーコン}}:1625年</small><br />[[アンソニー・ドルリー]]:1625年 - 1626年<br />{{仮リンク|ロバート・ベル (1639年没)|en|Robert Bell (died 1639)|label=ロバート・ベル}}:1626年}}
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[[Category:イギリスの枢密顧問官]]
[[Category:立法府の議長]]
[[Category:検察官]]
[[Category:ノーフォーク選出のイングランド庶民院議員]]
[[Category:サフォーク選出のイングランド庶民院議員]]
[[Category:コーンウォール選出のイングランド庶民院議員]]
[[Category:ウォリックシャー選出のイングランド庶民院議員]]
[[Category:バッキンガムシャー選出のイングランド庶民院議員]]
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[[Category:16世紀の学者]]
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[[Category:ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人物]]
[[Category:1552年生]]
[[Category:1634年没]]
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