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== 概要 ==
「伊福部
伊福部の伴造氏は
25代目の久遅良は「豊御食炊屋姫天皇庚辰の年」に「臣連伴造国造諸民の本記」を定めたとあり、聖徳太子と蘇我馬子の下で『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』の編纂作業を行なっていたとされる。
26代目の[[伊福部都牟自|都牟自]](つむじ)は[[646年]]、[[孝徳天皇]]の[[大化]]2年、初めて水依評を設置し、[[評督]]に任命されている。その後、[[斉明天皇]]4年の冠位は[[大乙上]]で、同年正月には水依評のかわりに[[高草郡]]を設置した。同年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]、[[658年]][[4月18日]]に死去した。▼
▲26代目で久遅良の子の[[伊福部都牟自|都牟自]](つむじ)は[[646年]]、[[孝徳天皇]]の[[大化]]2年、初めて水依評を設置し、[[評督]]に任命されている。その後、[[斉明天皇]]4年の冠位は[[大乙上]]で、同年正月には水依評のかわりに[[高草郡]]を設置した。同年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]、[[658年]][[4月18日]]に死去した。
[[伊福吉部徳足比売|伊福吉部臣徳足比売]](いふくべ の おみ とこたりひめ)は、は[[文武天皇]]の時代の[[采女]]で、[[位階]]は[[従六位#従七位|従七位下]]で、[[和銅]]元年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]([[708年]][[7月22日]]))に病歿。その遺骨を収めた銅製の[[骨壺|骨蔵器]]に刻まれた銘文・[[墓誌]]は、[[1774年]]([[安永]]3年)、伊福部氏の根拠地と推定される現在の[[鳥取県]][[岩美郡]][[国府町]]で石櫃の中から発見されたもので、その蓋表面に放射状の16行の文字が刻まれており、[[奈良時代]]以前の[[金石文]]として現存する16個のうちの1つである。▼
▲[[伊福吉部徳足比売|伊福吉部臣徳足比売]](いふくべ の おみ とこたりひめ)は、は[[文武天皇]]の時代の[[采女]]で、[[位階]]は
このほかに、[[雄略天皇]]・[[安閑天皇]]の時の[[廬城部枳こ喩|廬城部連枳莒喩]](いおべ の むらじ きこゆ)がおり、[[459年]]に[[斎宮]]を犯したという息子に誤って手をかけたり<ref>『日本書紀』巻第十四、雄略天皇3年4月条</ref>、[[535年]]に娘が[[物部尾輿]]の[[瓔珞]](玉を重ねた首飾り)を盗んで、[[春日山田皇女|春日皇后]]に献上する<ref>『日本書紀』巻第十八、安閑天皇元年閏12月条</ref>といった不祥事を起こしている。▼
▲このほかに、[[雄略天皇]]・[[安閑天皇]]の時の[[
伊福部連一族は、[[天武天皇]]の時、[[684年]]に[[八色の姓]]で、第3位の[[宿禰]][[カバネ|姓]]を授与されている<ref>『日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年12月2日条</ref>。宮城十二門の一つ殷富門(旧名伊福部門)は、大化以前から門衛に奉仕してきた伊福部氏が蘇我入鹿誅滅に参加した功を記念して名付けられたものである。
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== 参考文献 ==
* 『日本書紀
* 『日本書紀
* 『続日本紀
* 『岩波日本史辞典』p84
* 『日本古代氏族事典』
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
* [http://houki.yonago-kodaisi.com/F-BHYS-iokibesi.html 「伊福部氏」]
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[[Category:鳥取県の歴史]]
[[Category:伊福部氏|!]]
[[Category:神別]]
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