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{{Infobox 芸術家
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| caption = [[1930年]]([[昭和]]5年)の肖像写真<ref>1930年9月4日、[[パリ]]の[[アルベール・カーン]]私邸で[[オートクローム]]技法により撮影された肖像写真。</ref>
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'''藤田 嗣治'''(ふじた つぐはる、[[1886年]][[11月27日]] - [[1968年]][[1月29日]])は[[日本]]生まれの[[フランス]]の[[画家]]・[[彫刻家]]。[[第一次世界大戦]]前より[[フランス]]の[[パリ]]で活動、[[ネコ|猫]]と[[女]]を得意な画題とし、[[日本画]]の技法を[[油絵|油彩画]]に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。[[エコール・ド・パリ]]の代表的な画家である。フランスに[[帰化]]後の[[洗礼名]]は'''レオナール・ツグハル・フジタ'''({{lang|fr|Léonard Tsugouharu Foujita}}、'''レオナール・フジタ'''とも)。
 
[[第一次世界大戦]]前より[[フランス]]の[[パリ]]で活動、[[ネコ|猫]]と[[女]]を得意な画題とし、[[日本画]]の技法を[[油絵|油彩画]]に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。[[エコール・ド・パリ]]の代表的な画家である。
 
== 生涯 ==
=== 家柄 ===
1886年([[明治]]19年)、[[東京]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]])[[新小川町]]の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・[[藤田嗣章]](つぐあきら)(1854、1854 - 1941年)は、[[大学校 (1869年)#大学東校|大学東校]]([[東京大学]]医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として[[台湾]]や[[朝鮮]]などの外地衛生行政に携り、[[森外]]の後任として最高位の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍医総監]]([[中将]]相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元[[田中藩]]士<ref name=jinji8>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-19307 藤田嗣章]『人事興信録』8版</ref>。曽祖母は江戸時代の文人画家[[春木南湖]]の血筋である<ref>[https://www.sankei.com/article/20200913-3Y5YGB66YRMEVNMHZAK4ANPWTU/ 「藤田嗣隆さん 『レオナルド藤田嗣治覚書』 身内だからこそ書ける姿」]2022年6月8日閲覧。</ref>。兄の[[藤田嗣雄|嗣雄]](1885 - 1967)は[[朝鮮総督府]]や[[陸軍省]]に在職した法制学者・[[上智大学]]教授<ref>1885年-1967年。著書に『天皇の起源 法社会学的考察』(新版・[[書肆心水]]、2019年)などがある。</ref>で、陸軍大将[[児玉源太郎]]の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった[[中村緑野]]([[中原中也]]の名づけ親)、[[芦原甫]]の養子・信之(医師)がいる<ref name=jinji8/>。[[小山内薫]]は嗣治の従兄、舞踊評論家の[[蘆原英了]]と建築家の[[芦原義信|蘆原義信]]は甥にあたる。又、遠い親戚に[[千葉雄大]]がいる{{要出典|date=2020年2月}}
 
=== パリに至るまで ===
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで[[熊本市]]で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の[[熊本大学教育学部附属小学校|熊本大教育学部附属小]])<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/jigyou/Leonard_fujita/ 『藤田嗣治の肖像』西日本新聞. 2009年3月3日朝刊]</ref>に通った。[[1900年]]、高等師範附属小学校(現[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]])を、[[1905年]]に高等師範附属中学校(現[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中学・高校]])を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
 
1905年(明治38年)、森外の薦めもあって[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京術大学]][[美術学部]])西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した[[黒田清輝]]らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる[[印象派]]や光にあふれた[[写実主義]]がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては[[吉原遊廓]]に通いつめるなどしていた。[[1910年]]に同校を卒業。卒業に際して製作した『[httphttps://ameblo.jp/art-mood/entry-10534870139.html 自画像]』(東京術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている<ref>この自画像については、[[2007年]][[8月19日]]放送の[[ETV特集]]「[httphttps://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0819.html 日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~]」で紹介された</ref>。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった[[文展]]などでは全て落選している。
 
1911年(明治44年)、[[長野県]]の[[木曽地域|木曽]]へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺([[木祖村]])の天井画を描いた(現存)<ref>[http://www.vill.kiso.nagano.jp/kankou/kanko_map/gokuraku.html 極楽寺]木祖村観光協会公式ホームページ(2019年2月19日閲覧)。</ref>。この頃女学校の美術教師であった[[鴇田登美子]](鴇田とみ)と出会って、2年後の[[1912年]]に結婚。鴇田とともに[[榛名湖]]([[群馬県]])などを訪れた際に描いたと思われる[[油彩画]]『榛名湖』が2017年、鴇田彼女の生家([[千葉県]][[市原市]])の解体中の蔵から発見されている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM2K2QRCM2KUBUB002.html 藤田嗣治の風景画 未発表作見つかる 渡仏前に描いた「榛名湖」]『[[朝日新聞]]』夕刊2019年2月18日(10面)2019年2月19日閲覧。</ref>。
 
新宿[[百人町]]に[[アトリエ]]を構えるが、フランス行きを決意した藤田はとみを残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。
 
=== パリでの出会い ===
[[File:Foujita.jpg|thumb|alt=Foujita|1917年、[[パリ]]にて]]
[[ファイル:Foujita-in-his-atelier-1918.jpg|thumb|パリのアトリエにて(1918年)]]
[[ファイル:Ismael Nery - Retrato de Foujita, déc. 1930.jpg|thumb|藤田の肖像([[イスマエル・ネリ]]、1930年代)]]
[[1913年]]([[大正]]2年)に渡仏し、パリの[[モンパルナス]]に居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだ[[アメデオ・モディリアーニ]]や[[シャイム・スーティン]]らと知り合う。また彼らを通じて、後の[[エコール・ド・パリ]]の[[ジュール・パスキン]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[オシップ・ザッキン]]、[[モイズ・キスリング]]、[[ジャン・コクトー]]らと交友を結びだす。フランスでは「'''ツグジ'''」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。
 
また、同じようにパリに来ていた[[川島理一郎]]や、[[島崎藤村]]、[[薩摩治郎八]]、[[金子光晴]]、[[岡田謙三]]<ref>ユーゲニズム(幽玄主義)をアメリカで広めた画家。</ref>ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた大富豪である薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
 
パリでは既に[[キュビズム]]や[[シュールレアリム]]、[[素朴派]]など、新しい[[20世紀]]の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
 
=== 第一次世界大戦 ===
[[1914年]]、パリでの生活を始めてわずか1年後に[[第一次世界大戦]]が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かいした[[1917年]]3月、カフェで出会ったフランス人モデルの[[フェルナンド・バレエ]]と2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7[[フランス・フラン|フラン]]であったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
 
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であった[[アンドレ・サルモン]]([[:en:André Salmon]])が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌[[1918年]]に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。
 
=== パリの寵児 ===
[[File:Iwata Nakayama – Kiki de Montparnasse and Foujita in Paris, 1926.jpg|thumb|モンパルナスを歩く藤田と[[アリス・プラン]](キキ)]]
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立された。以後、[[サロン]]に出す度に黒山の人だかりができた。[[サロン・ドートンヌ]]の審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
 
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中には[[マン・レイ]]の愛人であった[[アリス・プラン|キキ]]も含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、[[1922年]]の[[サロン・ドートンヌ]]でセンセーションを巻き起こし、80008,000フラン以上で買いとられた。
 
このころ、藤田はフランス語の綴り「'''Fou'''jita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスから[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]、[[ベルギー]]から[[レオポルド]]勲章]]を贈られた。
 
===南アメリカへ===
[[ファイル:Ismael Nery - Retrato de Foujita, déc. 1930.jpg|thumb|藤田の肖像([[イスマエル・ネリ]]、1930年代)]] 2人目の妻フェルナンドとは急激な環境の変化に伴うすれ違いと不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性[[ユキ・デスノス=フジタ|リュシー・バドゥ]]と3度目の結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人の[[ロベール・デスノス]]と愛人関係にあり<ref>[http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/nishikawa.pdf 「異邦人の視線 -金子光晴とジャン・コクトー」西川正也]</ref>、結局その後離婚する。
 
[[1931年]]には、新しい愛人マドレーヌ (Madeleine Lequeux)を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった[[南アメリカ]]で初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]では6万人が個展に訪れ、1万人がサインのめに列に並んだといわれる
同年1月15日には[[ブラジル]]<ref>{{Cite book |和書 |author=岡野護 |title=年表 移住150年史:邦人・日系人・メディアの足跡 |publisher=風響社 |year=2020 |page=140 |isbn=9784894892804}}</ref>、ついで{{要出典|範囲=[[アルゼンチン]]を訪問。[[ブエノスアイレス]]では6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。|date=2024年2月}}
 
マドレーヌと4度目の結婚をするものの、1936年に戸塚の家で[[脳溢血]]により急死した。
 
=== 日本への帰国 ===
[[ファイル:Co-president of the Army Art Association.jpg|thumb|陸軍美術協会理事長時代の藤田]]
その後、[[1933年]]に南アメリカから日本に帰国、[[1935年]]に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。[[1936年]]旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在し時、藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。
[[File:Tsuguharu Foujita - portrait in Tokyo.png|thumb|1942年頃、東京のアトリエにて]]
(その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が[[銀座]]の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが[[大塚耕二]]の作品を称賛した。)
その後、[[1933年]]に南アメリカから日本に帰国、[[1935年]]に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして彼女とは終生連れ添った。[[1936年]]旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在した際は、藤田と再会し詩人の[[堀口大學]]らと共に相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が[[銀座]]の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、コクトーは[[大塚耕二]]の作品を称賛した。
 
[[1938年]]からは1年間[[小磯良平]]らとともに従軍画家として[[日中戦争]]中の[[中華民国の歴史|中華民国]]に渡り、[[1939年]]に日本に帰国した。
 
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発。翌年5月23日、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]にパリが[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国することを余儀なくされ<ref>戦乱のパリから帰国『東京日日新聞』(昭和15年7月9日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p684 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。その後、[[太平洋戦争]]に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、[[戦争画]](下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材は[[ノモンハン事件]])や『[[アッツ島]]玉砕]]』([[アッツ島の戦い]])などの作品を書いた。
[[1938年]]からは1年間[[小磯良平]]らとともに従軍画家として[[日中戦争]]中の[[中華民国]]に渡り、[[1939年]]に日本に帰国した。
 
[[ファイル:Co-president of the Army Art Association.jpg|thumb|陸軍美術協会理事長時代の藤田]]
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発。翌年、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]にパリが[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後、[[太平洋戦争]]に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、[[戦争画]](下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材は[[ノモンハン事件]])や『[[アッツ島]]玉砕』([[アッツ島の戦い]])などの作品を書いた。
 
戦中のこのような振る舞いは、[[日本の降伏|戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]においてでは「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の[[味噌]][[醸造]]業者の元に匿われていたこともあった<ref>遠山彰『日本ダービー物語』p11([[丸善]]ライブラリー、1993)、p11</ref>。また1945年11月頃からGHQの命令に近い形で、戦争画の収集作業に協力させられている<ref>秘史こぼれ話『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月31日、13版、3面</ref>。こうした日本国内戦後の情勢に嫌気が差した藤田は、[[1949年]]に日本を去り、三度フランスに向うこととなる。
 
=== フランスに帰化 ===
傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか[[亡命]]しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たした[[パブロ・ピカソ]]との交友は晩年まで続いた。[[1955年]]にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.polamuseum.or.jp/collection/artist/pickup/foujita/#:~:text=%E5%86%8D%E3%81%B3%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AB%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E5%A7%8B%E3%82%81,%E5%90%8D%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |title=レオナール・フジタ (藤田嗣治) |access-date=2023年12月4日 |publisher=ポーラ美術館}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.suiha.co.jp/column/fujitatuguharutogoninnotuma/ |title=藤田嗣治と5人の妻 ~パリで評価され、最後はフランスに帰化した画家の孤独 |access-date=2023年12月4日 |publisher=SUIHA Gallery}}</ref>。[[1957年]]、フランス政府から[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]シュバリエ章を贈られた。
 
=== 晩年 ===
[[1959年]]には[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受け、[[シャンパン]]「[[G.H.マム]]」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、'''レオナール・フジタ'''となった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「[[フジタ礼拝堂]]」の設計と内装のデザインを行った。[[1968年]][[1月29日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]において、ガンのため死亡した。遺体はフジタ礼拝堂に埋葬された<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.fondation-foujita.org/wp-content/uploads/sites/8/2016/06/Foujita-Monumental-Enfer-et-Paradis-MARS-2010-DP.pdf|title=DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis|accessdate=2018年9月14日|publisher=}}</ref>。[[日本政府]]から[[勲一等瑞宝章]]を没後追贈された。
[[ファイル:Chapelle Foujita 002.JPG|thumb|フジタ礼拝堂|代替文=|左]]
[[ファイル:Chapelle Foujita Reims 2015 intérieur.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|フジタ礼拝堂内部; 壁全面が藤田の宗教画で覆われている。]]
[[1959年]]には[[ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受け、[[シャンパン]]「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、'''レオナール・フジタ'''となった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「[[フジタ礼拝堂]]」の設計と内装のデザインを行った。[[1968年]][[1月29日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]において、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.fondation-foujita.org/wp-content/uploads/sites/8/2016/06/Foujita-Monumental-Enfer-et-Paradis-MARS-2010-DP.pdf|title=DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis|accessdate=2018年9月14日|publisher=}}</ref>。[[日本政府]]から[[勲一等瑞宝章]]を没後追贈された。
 
===死後===
[[ファイル:Foujita.JPG|サムネイル|メゾン・アトリエ・フジタ]]
藤田の最期を看取った君代夫人は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の{{仮リンク|ヴィリエ・ル・バクル|fr|Villiers-le-Bâcle}}に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に[[東京国立近代美術館]]アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開<ref>[http://www.momat.go.jp/art-library/foujita/foujita.html 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書]。</ref>された。藤田の死去から40年余りを経た[[2009年]]4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にの眠るランスのフジタ礼拝堂に埋葬された<ref name=":0" />。君代夫人が所有したかどうかは明記されていないが、藤田作品の大半多くは[[ポーラ美術館]]と[[ランス美術館]](フジタ礼拝堂がこの美術館の建物の一部)に収蔵されている<ref name=":1" /><ref>{{Cite web |url=https://musees-reims.fr/fr/musees/la-chapelle-foujita/ |title=Chapelle Foujita - Portail officiel des Musées de Reims(フランス語) |access-date=2023-12-04 |publisher=MUSEUMS OF REIMS}}</ref>
 
[[2011年]]、君代夫人が所蔵していた藤田の日記([[1930年]]から[[1940年]]、[[1948年]]から[[1968年]]までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている<ref>{{cite news |title=藤田嗣治の日記・写真6000点 東京芸大に寄贈「生涯知る資料」 |newspaper=『[[日本経済新聞]]』夕刊 |date=2011-02-09 |url= |accessdate=2011-02-17}}</ref>。
 
2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。
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作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。[[フランス語]]としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。
 
フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代夫人の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそも[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]への尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である<ref>矢内(2015)pp.183-184。</ref>。
 
== 岡沢吉夫との親交 ==
[[1944年]]春、八王子付近で疎開先を探していた藤田は[[岡沢吉夫]]を訪問した。これまでに二人の交流があったかは不明だが、以後は親しく交流し、[[1945年]]8月の八王子空襲では、藤田をはじめ[[新制作派協会]](現・新制作協会)の画家たちが岡沢の安否を気遣い見舞いに訪れた。
 
[[1947年]]2月には岡沢一家を招き、岡沢の娘・由美子に誕生日のお祝いとして「少女像」をプレゼントしている。藤田は岡沢の子・由美子と[[岡澤伸夫|伸夫]]を心から可愛がっていたといい、この日も楽しげに遊ぶ姿を岡沢が撮影している。
 
[[1949年]]3月に日本を去った藤田は、いつどの飛行機で日本を発つかは誰にも言わず秘密にしていたが、一度目の査証申請時にすでに永遠に日本を去る決意を岡沢に語っている。のちに岡沢へ送った手紙には「(略)本当に岡沢さんにハお世話になった。疎開前後東京の住さんの処へ移った時又小竹町へ移った時は真裸体になって天井裏に入って電気をみてくだすった等とてもとても言葉に現はせぬ程親切にして下すつて其のご恩は忘れた事ハありませんでしたが日本を立つ時いろいろ邪魔が入ったりして世間が煩わしいのでだまつて君に御暇乞もせずに立つた事が大に今更口惜しいような気がして心残りになったと二人で今頃もつくづく噂した次第です 何うか悪しからず恩知らずの人間と思はずに居て下さい(略)」と思いを綴っている。
以後も手紙での親交は続き、[[1955年]]に藤田がレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲した際には、受勲の喜びと同時に複雑な心情を語っている。
 
[[1966年]]3月、「全日本スキー連盟オーストリア・フランス国立スキー学校旅行」の団長としてシャモニーを訪れていた岡沢は、娘・由美子の手配でヴィリエ・ル・バクルで藤田と再会している。藤田は訪ねてきた岡沢に「キリスト頭部のデッサン」と猫の版画を贈った。二人は藤田が[[1968年]]1月に息を引き取るまで幾度も手紙や絵葉書を送っている。<ref>『近代画説 19』明治美術学会誌(2010年)ISSN 1343-7445</ref>
 
== 戦争画 ==
[[ファイル:Fujita, Miyamoto, Koiso.jpg|thumb|南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、[[宮本三郎]]、[[小磯良平]]([[1942年]])藤田は黒いシャツタンクトップを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。]]
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画([[戦争画]])を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、[[クリスチャン]]としての思想を戦争画に取り入れ表現している。
 
[[1945年]]8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に[[日本共産党]]に入党した[[内田巌]]などにより、半ば[[スケープゴート]]に近い形で「戦争協力者」と非難された。藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「'''絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい'''」との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。
 
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作る際の窓口となるといった点などで槍玉にあげられる要素があった。
 
パリでの成功後も、第二次大戦後も、存命中に日本社会から認められでは然ことべき評価ついに得られなかった。また君代夫人も夫の没後「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録<ref>例外で生前に『日本近代絵画全集7 藤田嗣治』(岡本謙次郎解説、講談社、1964年)が出版された。</ref>は断ってきた。後に日本でも徐々に藤田の評価がされるようにな高まり、多くの展覧会なども開かれていようになった
 
== 乳白色の肌の秘密 ==
[[File:Fujita Tsuguharu - 12 May 1948 - Domon Ken.png|thumb|1948年5月12日 自宅にて 撮影:[[土門拳]]]]
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、[[硫酸バリウム]]を下地に用い、その上に[[炭酸カルシウム]]と[[鉛白]]を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた<ref>木島 林(2010)pp.72-85。</ref>。炭酸カルシウムは[[油]]と混ざるとほんのわずかに[[黄色]]を帯びる。さらに絵画の下地表層からは[[滑石|タルク]]が検出されており、その正体は[[和光堂]]の[[シッカロール]]だったことが[[2011年]]に発表された<ref>{{cite news |title=藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー |newspaper=『[[読売新聞]]』 |date=2011-01-12 |url=http://otona.yomiuri.co.jp/news/news110113_03.htm |accessdate=2011-02-15}}</ref>。
 
118 ⟶ 132行目:
 
== 作品 ==
藤田の作品は、日本国内では[[東京都|東京]]の[[ブリヂストン美術館]]、[[東京国立近代美術館]]、[[国立西洋美術館]]、[[箱根町|箱根]]の[[ポーラ美術館]]、[[秋田市]]の[[秋田県立美術館 平野政吉コレクション|平野政吉美術館]]、[[軽井沢町|軽井沢]]の[[軽井沢安東美術館]]([[安東泰志]]設立、2022年秋に開館)で見ることができる。安東美術館は、藤田の作品のみを収蔵・常設展示する日本初の美術館である。
 
下記・関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の[[壁画]]『秋田の行事』(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。現在は[[秋田県立美術館 平野政吉コレクション|秋田県立美術館]]に展示されており、藤田が設計に携わった[[秋田県立美術館 平野政吉コレクション#旧美術館について|平野政吉美術館]]での展示から、秋田県立美術館での展示になったことへの批判も存在する。
 
晩年に手がけた最後の大作は、死の没する直前に描きあげた[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の教会における装飾画である。
 
藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ている。[[ピエール・ロティ]]、[[ラビンドラナート・タゴール]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[ポール・クローデル]]、[[ピエール・ルイス]]、[[ジャン・ジロドゥ]]、[[キク・ヤマタ]]、[[ジャン・コクトー]]等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼる。挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作で、挿画は単なる[[挿絵]]ではない。藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求している。中でも、パリの[[サントノーレ通り|フォーブール・サン=トノレ通り]]の歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
 
また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。
 
藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い<ref>{{Citation|和書|author=林洋子|date=2010-3-9|title=藤田嗣治 手しごとの家|page=60|publisher=集英社新書|isbn=978-4-08-720519-0}}</ref>、自身をアーティストではなく[[職人|アルチザン]]であると語っていた。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌細工を施した机や小箱など多岐にわたる。[[象嵌]]細工の机は[[目黒区美術館]]が所蔵<ref>{{Citation|和書|author=林洋子|date=2010-3-9|title=藤田嗣治 手しごとの家|page=69-70|publisher=集英社新書|isbn=978-4-08-720519-0}}</ref>する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在する<ref>{{Cite web|和書|date=2016-8-16|url=httphttps://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20160816/03.html|title=『[[開運!なんでも鑑定団]]』2016年8月16日放送 レオナール・フジタの円形机|publisher=テレビ東京|accessdate=2016-09-23}}</ref>。
 
== 主な作品 ==
144 ⟶ 158行目:
|油彩・キャンバス
|22x16
|[[軽井沢安東美術館]]
|個人(パリ)
|
|-
224 ⟶ 238行目:
|油彩・キャンバス
|73x92.4
|[[ベルナール・ビュフェ]]美術館]]
|
|-
280 ⟶ 294行目:
|油彩・キャンバス
|114.0x146.0
|[[松岡美術館]](東京都港区)
|
|-
328 ⟶ 342行目:
|油彩・キャンバス
|100.0x80.5
|[[ベルギー王立美術館|ベルギー王立近代美術館]]
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
|-
376 ⟶ 390行目:
|油彩・キャンバス
|72.5x115
|[[ニーム (フランス)|ニーム美術館]]
|
|-
400 ⟶ 414行目:
|油彩・キャンバス
|170.0x224.0
|[[鳥取島根県立石見美術館]]
|
|-
416 ⟶ 430行目:
|油彩・キャンバス
|144x87.5
|[[{{仮リンク|フォール美術館]]|fr|Musée Faure (Aix-les-Bains)}}
|
|-
480 ⟶ 494行目:
|油彩・キャンバス
|146.0x89
|[[国立近代美術館 (フランス)|フランス国立近代美術館]]([[リブルヌ]]美術館]]寄託)
|同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
|-
792 ⟶ 806行目:
|油彩・キャンバス
|178.0x94.2
|[[富山県美術館]]<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第44図。</ref><ref>富山県美術館編集・発行『TADTAD 富山県美術館』(2017年)、第12図。</ref>
|
|-
929 ⟶ 943行目:
|244.6x968.0
|公益財団法人 [[ウッドワン美術館]]
|元は[[銀座]]聖書館ビル内ブラジルコーヒー陳列所を飾った幅15メートルを超える壁画。6年後に依頼主だった[[ブラジル]]のアッスムソン邸に移設され、この時3割ほど切り取られた<ref name="woodone">ウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』 [[青幻舎]]、2011年2月10日、pp.105-111,187-188、ISBN 978-4-86152-295-6。</ref>
|-
 
992 ⟶ 1,006行目:
|油彩・キャンバス
|221.5x291.8
|[[アンスティチュ・フランセ日本|関西日仏学館]]玄関ホール
|
|-
1,116 ⟶ 1,130行目:
|-
 
|[http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11437 [アッツ島玉砕]]
|1943年
|油彩・キャンバス
1,127 ⟶ 1,141行目:
|1943年
|油彩・キャンバス
|60.5.2x725x72.8
|島根県立美術館<ref>[http://jmapps.ne.jp/shimane_art_museum/det.html?data_id=4384 島根県立美術館 収蔵品データベース]</ref>
|島根県立美術館
|
|-
1,148 ⟶ 1,162行目:
|-
 
|[http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11445 [サイパン島同胞臣節を全うす]]
|1945年
|油彩・キャンバス
1,361 ⟶ 1,375行目:
* 『腕(ブラ)一本・巴里の横顔』(近藤史人編、[[講談社文芸文庫]]、2005年)。旧版は講談社、1984年
* 『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』 ([[平凡社ライブラリー]]、2014年)。旧版は講談社、1984年
* 『藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916』(上・下、[[人文書院]]、2016年)。[[林洋子]]監修・加藤時男校訂
* 『藤田嗣治 戦時下に書く 新聞・雑誌寄稿集 1935~1956年』([[ミネルヴァ書房]]、2018年)。[[林洋子]]
* 『藤田嗣治芸術試論 藤田嗣治直話』夏堀全弘編(三好企画、2004年)
 
== 偽作 ==
* 2004年から2005年にかけて、[[オフセット印刷]]された藤田の作品が正規の版画作品として流通、[[丸善雄松堂]]を通じて市販されたことがある。後日、指摘を受けた丸善は回収に乗り出したが、行方不明になったものも存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210330222517/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021033001141&g=soc |title=偽版画流通、丸善が公表せず 大阪の画商、17年前販売か―藤田嗣治 |publisher=時事通信 |date=2021-03-31|accessdate=2021-06-28}}</ref>。
 
== 関連図書 ==
* [[田中穣]] 『評伝 藤田嗣治』([[芸術新聞社]]、1988、改訂版2015)
{{参照方法|date=2015年11月|section=1}}
* [[田中穣近藤史人]] 『評伝藤田嗣治「異邦人」の生涯』(芸術新聞[[講談]]19882002/[[講談社文庫]]改訂版2015)2006)
* [[近藤史人]] 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社、2002/[[講談社文庫]]、2006)
* [[湯原かの子]] 『藤田嗣治 パリからの恋文』([[新潮社]]、2004)
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集 藤田嗣治』(2006、2006年5月号[[青土社]]) 
* [[蘆原英了]] 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と[[小山内薫]]』 ([[田之倉稔]]解説、新宿書房、新版2007)
* [[林洋子]] 『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』([[名古屋大学出版会]]、2008)
* 木島隆康・林洋子編 『藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告』([[東京藝術大学]]出版会、2010)
* [[柴崎信三]] 『絵筆のナショナリズム-フジタと[[横山大観|大観]]の戦争』([[幻戯書房]]、2011)
* 矢内みどり 『藤田嗣治とは誰か―作品と手紙から読み解く、美の闘争史』([[求龍堂]]、2015)
* [[平山周吉]] 『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、2015)
* 佐野勝也 『フジタの白鳥 画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン、2017)
* 富田芳和 『なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治と[[フランク・エドワード・シャーマン|フランク・シャーマン]] 1945~1949』静人舎、2018年2018)
* 藤田嗣隆 『レオナルド藤田嗣治覚書 レオナール・フジタとの散歩』(求龍堂、2020)- 親族による評伝
* 『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(オクターブ、2018)。写真アルバム
* 『別冊太陽[[清水敏男 (美術評論家)|清水敏男]] 『藤田嗣治 腕一本で世界に挑む パリを歩く』([[平凡社東京書籍]]、2019)。同上2021)
 
; 小著
1,384 ⟶ 1,402行目:
* 『藤田嗣治 本のしごと』(林洋子解説、[[集英社]]新書ヴィジュアル版、2011.6)
* 『藤田嗣治 手紙の森へ』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2018.1)
* 『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』(林洋子監修、[[東京美術]]「アート・ビギナーズ・コレクション」、2013)
* [[布施英利]]『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』([[NHK出版新書]]、2018.8)
* 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社<[[とんぼの本]]>、2018.9)
* 『猫と藤田嗣治』(内呂博之監修、エクスナレッジ、2019.4)
* 『夜と猫』(藤田嗣治・絵、エリザベス・コーツワース・詩、矢内みどり訳、2023.10)
 
; 画集・図版
* 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(藤田君代監修、[[講談社]]、2002)- 大著
* 『藤田嗣治画集』(全3巻、林洋子監修、[[小学館]]、2014)
* 『藤田嗣治の少女』([[会田誠]]編、講談社、2018)
* 『藤田嗣治作品集』([[清水敏男 (美術評論家)|清水敏男]]編、東京美術、2018)
* 『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(オクターブ、2018)- 写真アルバム
* 『藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』([[平凡社]]〈別冊太陽〉、2019)
* 『藤田嗣治 安東コレクションの輝き 猫と少女と軽井沢』([[軽井沢安東美術館]]編、[[世界文化社]]、2022、増補版2024)
* 『猫の本 藤田嗣治安東コレクションより』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2023)
* 『藤田嗣治からレオナール・フジタへ 祈りへの道』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2025)
 
; 展覧会図録
* 尾崎正明ほか編集 『生誕120年 藤田嗣治展 パリを魅了した異邦人』 尾崎正明ほか編集、NHKプロモーション・[[日本経済新聞社]]、2006年
* 村上哲・ブレーントラスト編 『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』 村上哲・ブレーントラスト編、藤田嗣治渡仏100周年記念「レオナールフジタとパリ 1913-1931」カタログ委員会、2013年
* 公益財団法人『[[秋田県立美術館 平野政吉美術財団編 『コレクション|秋田県立美術館]] 開館記念特別展 壁画《秋田の行事》からのメッセージ 藤田嗣治の1930年代』<ref>関連図書に、渡部琴子『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』([[新潮社]]、2002年)がある。</ref>公益財団法人 平野政吉美術財団編、秋田協同印刷株式会社、2013年9月
* [[名古屋市美術館]]ほか編 『生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』 [[名古屋市美術館]]ほか編、[[中日新聞社]]、2016年
* 中村水絵編 『レオナール・フジタとモデルたち』 株式会社中村水絵編、キュレイターズ、2016年、ISBN 978-4-901745-24-6
* 林洋子監修・[[西宮市大谷記念美術館]]ほか編 『没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界展図録』 林洋子監修・[[西宮市大谷記念美術館]]ほか編、キュレイターズ、2018年
* 東京都美術館ほか編 『没後50年 藤田嗣治展』 東京都美術館ほか編、[[朝日新聞社]]・NHKプロモーション、2018年
* 『フジタ-色彩への旅』 [[ポーラ美術館]]編、[[求龍堂]]、2021年
::アン・ル・ディベルデル、佐々木佳苗、三木学、今井敬子ほか解説
* 『藤田嗣治 7つの情熱』 求龍堂、2025年。シルヴィー・ビュイッソン、矢内みどりほか
* 『藤田嗣治 絵画と写真』 キュレイターズ、2025年。[[東京ステーションギャラリー]]
 
== 脚注 ==
1,416 ⟶ 1,444行目:
* [[ポルチナーリ]]
* [[ユキ・デスノス=フジタ]]
* [[ラ・ブーム]] - 1980年公開のフランス映画
* [[FOUJITA]] - 2015年公開の日仏合作伝記映画
* [[フランク・エドワード・シャーマン]] - 戦後の支援者の一人
*[[千葉雄大]] - [[立松和平]]、小山内家を通じての縁戚関係にあたる
 
== 外部リンク ==
*[https://www.musee-ando.com/ 世界で初めての藤田嗣治の作品だけを展示する美術館 - 軽井沢安東美術館]
* [http://www.ippusai.com/hp_home/sunset/fujita.htm 藤田の「戦争画」紹介]
*[https://tsuguharufoujita.jp 藤田嗣治 生誕140周年記念特設サイト]
* [http://kingendaikeizu.net/huzitatuguharu.htm 家系図]
*[https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9190.html 藤田嗣治(レオナール・フジタ) :: 東文研アーカイブデータベース]
* {{Internet Archive author|name=Tsuguharu Foujita}}
*[https://www.momat.go.jp/library/archives/foujita 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書]
*{{YouTube|fQvb6ufM06g|【アーカイブ】若きフジタ、妻への恋文}}(朝日新聞社提供、2018年11月27日公開)
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふした つくはる}}
[[Category:フランスの画家藤田嗣治|*]]
[[Category:20世紀フランスの画家]]
[[Category:洋画家]]
[[Category:美人画家]]
[[Category:太平洋戦争のジャーナリスト]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:朝日賞受賞者]]
[[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:フランスのカトリック教会の信者]]
[[Category:エコール・ド・パリ]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:東京芸術大学出身の人物]]
[[Category:筑波大学附属高等学校出身の人物]]
[[Category:日系フランス人]]
[[Category:フランスに帰化した人物]]
[[Category:東京芸術大学出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1886年生]]
[[Category:1968年没]]