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}}
'''藤田 嗣治'''(ふじた つぐはる、[[1886年]][[11月27日]] - [[1968年]][[1月29日]])は、[[日本]]生まれの[[フランス]]の[[画家]]・[[彫刻家]]
[[第一次世界大戦]]前より[[フランス]]の[[パリ]]で活動、[[ネコ|猫]]と[[女]]を得意な画題とし、[[日本画]]の技法を[[油絵|油彩画]]に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。[[エコール・ド・パリ]]の代表的な画家である。
== 生涯 ==
=== 家柄 ===
1886年([[明治]]19年)、[[東京
=== パリに至るまで ===
1905年(明治38年)、森
1911年(明治44年)、[[長野県]]の[[木曽地域|木曽]]へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺([[木祖村]])の天井画を描いた(現存)<ref>[http://www.vill.kiso.nagano.jp/kankou/kanko_map/gokuraku.html 極楽寺]木祖村観光協会公式ホームページ(2019年2月19日閲覧)。</ref>。この頃女学校の美術教師であった[[鴇田登美子]](鴇田とみ)と出会って、2年後の[[1912年]]に結婚。鴇田とともに[[榛名湖]]([[群馬県]])などを訪れた際に描いたと思われる[[油彩画]]『榛名湖』が2017年、
新宿[[百人町]]に[[アトリエ]]を構えるが、フランス行きを決意した藤田は
=== パリでの出会い ===
[[File:Foujita.jpg|thumb|alt=Foujita|1917年、[[パリ]]にて]]
[[ファイル:Foujita-in-his-atelier-1918.jpg|thumb|パリのアトリエにて(1918年)]]
[[1913年]]([[大正]]2年)に渡仏し、パリの[[モンパルナス]]に居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだ[[アメデオ・モディリアーニ]]や[[シャイム・スーティン]]らと知り合う。また彼らを通じて、後の[[エコール・ド・パリ]]の[[ジュール・パスキン]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[オシップ・ザッキン]]、[[モイズ・キスリング]]、[[ジャン・コクトー]]らと交友を結びだす。フランスでは「'''ツグジ'''」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。
また、同じようにパリに来ていた[[川島理一郎]]や、[[島崎藤村]]、[[薩摩治郎八]]、[[金子光晴]]、[[岡田謙三]]<ref>ユーゲニズム(幽玄主義)をアメリカで広めた画家。</ref>ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた
パリでは既に[[キュビズム]]や[[シュールレアリ
=== 第一次世界大戦 ===
[[1914年]]、パリでの生活を始めてわずか1年後に[[第一次世界大戦]]が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であった[[アンドレ・サルモン]]([[:en:André Salmon]])が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌[[1918年]]に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。
=== パリの寵児 ===
[[File:Iwata Nakayama – Kiki de Montparnasse and Foujita in Paris, 1926.jpg|thumb|モンパルナスを歩く藤田と[[アリス・プラン]](キキ)]]
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立された。以後、[[サロン]]に出す度に黒山の人だかりができた。[[サロン・ドートンヌ]]の審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて、経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった、熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中には[[マン・レイ]]の愛人であった[[アリス・プラン|キキ]]も含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、[[1922年]]の
このころ、藤田はフランス語の綴り「'''Fou'''jita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスから[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]、[[ベルギー]]から[[レオポルド
===南
[[ファイル:Ismael Nery - Retrato de Foujita, déc. 1930.jpg|thumb|藤田の肖像([[イスマエル・ネリ]]、1930年代)]] 2人目の妻
[[1931年]]には、新しい愛人マドレーヌ (Madeleine Lequeux)を連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった[[南アメリカ]]で初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ
同年1月15日には[[ブラジル]]<ref>{{Cite book |和書 |author=岡野護 |title=年表 移住150年史:邦人・日系人・メディアの足跡 |publisher=風響社 |year=2020 |page=140 |isbn=9784894892804}}</ref>、ついで{{要出典|範囲=[[アルゼンチン]]を訪問。[[ブエノスアイレス]]では6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。|date=2024年2月}}
マドレーヌと4度目の結婚をするものの、1936年に戸塚の家で[[脳溢血]]により急死した。
=== 日本への帰国 ===
[[ファイル:Co-president of the Army Art Association.jpg|thumb|陸軍美術協会理事長時代の藤田]]▼
その後、[[1933年]]に南アメリカから日本に帰国、[[1935年]]に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。[[1936年]]旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在し時、藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。▼
[[File:Tsuguharu Foujita - portrait in Tokyo.png|thumb|1942年頃、東京のアトリエにて]]
▲その後、[[1933年]]に南アメリカから日本に帰国、[[1935年]]に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚
[[1938年]]からは1年間、[[小磯良平]]らとともに従軍画家として[[日中戦争]]中の[[中華民国の歴史|中華民国]]に渡り、[[1939年]]に日本に帰国した。▼
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発。翌年5月23日、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]にパリが[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国
▲[[1938年]]からは1年間[[小磯良平]]らとともに従軍画家として[[日中戦争]]中の[[中華民国]]に渡り、[[1939年]]に日本に帰国した。
▲[[ファイル:Co-president of the Army Art Association.jpg|thumb|陸軍美術協会理事長時代の藤田]]
▲その後再びパリへ戻ったが、同年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発。翌年、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]にパリが[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後、[[太平洋戦争]]に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、[[戦争画]](下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材は[[ノモンハン事件]])や『[[アッツ島]]玉砕』([[アッツ島の戦い]])などの作品を書いた。
戦中のこのような振る舞いは、[[日本の降伏|
=== フランスに帰化 ===
傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか[[亡命]]しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たした[[パブロ・ピカソ]]との交友は晩年まで続いた。[[1955年]]にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.polamuseum.or.jp/collection/artist/pickup/foujita/#:~:text=%E5%86%8D%E3%81%B3%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AB%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E5%A7%8B%E3%82%81,%E5%90%8D%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |title=レオナール・フジタ (藤田嗣治) |access-date=2023年12月4日 |publisher=ポーラ美術館}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.suiha.co.jp/column/fujitatuguharutogoninnotuma/ |title=藤田嗣治と5人の妻 ~パリで評価され、最後はフランスに帰化した画家の孤独 |access-date=2023年12月4日 |publisher=SUIHA Gallery}}</ref>。[[1957年]]、フランス政府から[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]シュバリエ章を贈られた。
=== 晩年 ===
[[1959年]]には[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受け、[[シャンパン]]「[[G.H.マム]]」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、'''レオナール・フジタ'''となった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「[[フジタ礼拝堂]]」の設計と内装のデザインを行った。[[1968年]][[1月29日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]において
▲[[1959年]]には[[ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受け、[[シャンパン]]「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、'''レオナール・フジタ'''となった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「[[フジタ礼拝堂]]」の設計と内装のデザインを行った。[[1968年]][[1月29日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]において、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.fondation-foujita.org/wp-content/uploads/sites/8/2016/06/Foujita-Monumental-Enfer-et-Paradis-MARS-2010-DP.pdf|title=DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis|accessdate=2018年9月14日|publisher=}}</ref>。[[日本政府]]から[[勲一等瑞宝章]]を没後追贈された。
===死後===
[[ファイル:Foujita.JPG|サムネイル|メゾン・アトリエ・フジタ]]
藤田の最期を看取った君代
[[2011年]]、君代
2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。
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作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。[[フランス語]]としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。
フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代
== 岡沢吉夫との親交 ==
[[1944年]]春、八王子付近で疎開先を探していた藤田は[[岡沢吉夫]]を訪問した。これまでに二人の交流があったかは不明だが、以後は親しく交流し、[[1945年]]8月の八王子空襲では、藤田をはじめ[[新制作派協会]](現・新制作協会)の画家たちが岡沢の安否を気遣い見舞いに訪れた。
[[1947年]]2月には岡沢一家を招き、岡沢の娘・由美子に誕生日のお祝いとして「少女像」をプレゼントしている。藤田は岡沢の子・由美子と[[岡澤伸夫|伸夫]]を心から可愛がっていたといい、この日も楽しげに遊ぶ姿を岡沢が撮影している。
[[1949年]]3月に日本を去った藤田は、いつどの飛行機で日本を発つかは誰にも言わず秘密にしていたが、一度目の査証申請時にすでに永遠に日本を去る決意を岡沢に語っている。のちに岡沢へ送った手紙には「(略)本当に岡沢さんにハお世話になった。疎開前後東京の住さんの処へ移った時又小竹町へ移った時は真裸体になって天井裏に入って電気をみてくだすった等とてもとても言葉に現はせぬ程親切にして下すつて其のご恩は忘れた事ハありませんでしたが日本を立つ時いろいろ邪魔が入ったりして世間が煩わしいのでだまつて君に御暇乞もせずに立つた事が大に今更口惜しいような気がして心残りになったと二人で今頃もつくづく噂した次第です 何うか悪しからず恩知らずの人間と思はずに居て下さい(略)」と思いを綴っている。
以後も手紙での親交は続き、[[1955年]]に藤田がレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲した際には、受勲の喜びと同時に複雑な心情を語っている。
[[1966年]]3月、「全日本スキー連盟オーストリア・フランス国立スキー学校旅行」の団長としてシャモニーを訪れていた岡沢は、娘・由美子の手配でヴィリエ・ル・バクルで藤田と再会している。藤田は訪ねてきた岡沢に「キリスト頭部のデッサン」と猫の版画を贈った。二人は藤田が[[1968年]]1月に息を引き取るまで幾度も手紙や絵葉書を送っている。<ref>『近代画説 19』明治美術学会誌(2010年)ISSN 1343-7445</ref>
== 戦争画 ==
[[ファイル:Fujita, Miyamoto, Koiso.jpg|thumb|南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、[[宮本三郎]]、[[小磯良平]]。([[1942年]])藤田は黒い
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画([[戦争画]])を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、[[クリスチャン]]としての思想を戦争画に取り入れ表現している。
[[1945年]]8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に[[日本共産党]]に入党した[[内田巌]]などにより、半ば[[スケープゴート]]に近い形で「戦争協力者」と非難された。藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「'''絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい'''」との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作る際の窓口となるといった点などで
パリでの成功後も、第二次大戦後も、存命中に
== 乳白色の肌の秘密 ==
[[File:Fujita Tsuguharu - 12 May 1948 - Domon Ken.png|thumb|1948年5月12日 自宅にて 撮影:[[土門拳]]]]
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、[[硫酸バリウム]]を下地に用い、その上に[[炭酸カルシウム]]と[[鉛白]]を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた<ref>木島 林(2010)pp.72-85。</ref>。炭酸カルシウムは[[油]]と混ざるとほんのわずかに[[黄色]]を帯びる。さらに絵画の下地表層からは[[滑石|タルク]]が検出されており、その正体は[[和光堂]]の[[シッカロール]]だったことが[[2011年]]に発表された<ref>{{cite news |title=藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー |newspaper=『[[読売新聞]]』 |date=2011-01-12 |url=http://otona.yomiuri.co.jp/news/news110113_03.htm |accessdate=2011-02-15}}</ref>。
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== 作品 ==
藤田の作品は、日本国内では[[東京都|東京]]の[[ブリヂストン美術館]]、[[東京国立近代美術館]]、[[国立西洋美術館]]、[[箱根町|箱根]]の[[ポーラ美術館]]、[[秋田市]]の[[秋田県立美術館 平野政吉コレクション|平野政吉美術館]]、[[軽井沢町|軽井沢]]の[[軽井沢安東美術館]]([[安東泰志]]設立、2022年秋に開館)で見ることができる。安東美術館は、藤田の作品のみを収蔵・常設展示する日本初の美術館である。
下記・関連図書
晩年に手がけた最後の大作は、
藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ている。[[ピエール・ロティ]]、[[ラビンドラナート・タゴール]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[ポール・クローデル]]、[[ピエール・ルイス]]、[[ジャン・ジロドゥ]]、[[キク・ヤマタ]]、[[ジャン・コクトー]]等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼる。挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作で、挿画は単なる[[挿絵]]ではない。藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求している。中でも、パリの[[サントノーレ通り|フォーブール・サン=トノレ通り]]の歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い<ref>{{Citation|和書|author=林洋子|date=2010-3
== 主な作品 ==
144 ⟶ 158行目:
|油彩・キャンバス
|22x16
|[[軽井沢安東美術館]]
|
|-
224 ⟶ 238行目:
|油彩・キャンバス
|73x92.4
|[[ベルナール・ビュフェ]]美術館
|
|-
280 ⟶ 294行目:
|油彩・キャンバス
|114.0x146.0
|[[松岡美術館]](東京都港区)
|
|-
328 ⟶ 342行目:
|油彩・キャンバス
|100.0x80.5
|[[ベルギー王立美術館|ベルギー王立近代美術館]]
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
|-
376 ⟶ 390行目:
|油彩・キャンバス
|72.5x115
|[[ニーム (フランス)|ニーム美術館]]
|
|-
400 ⟶ 414行目:
|油彩・キャンバス
|170.0x224.0
|[[
|
|-
416 ⟶ 430行目:
|油彩・キャンバス
|144x87.5
|
|
|-
480 ⟶ 494行目:
|油彩・キャンバス
|146.0x89
|[[国立近代美術館 (フランス)|フランス国立近代美術館]]([[リブルヌ]]美術館
|同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
|-
792 ⟶ 806行目:
|油彩・キャンバス
|178.0x94.2
|[[富山県美術館]]<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第44図。</ref><ref>富山県美術館編集・発行『
|
|-
929 ⟶ 943行目:
|244.6x968.0
|公益財団法人 [[ウッドワン美術館]]
|元は[[銀座]]聖書館ビル内ブラジルコーヒー陳列所を飾った幅15メートルを超える壁画。6年後に依頼主だった[[ブラジル]]のアッスムソン邸に移設され、この時3割ほど切り取られた<ref name="woodone">ウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』
|-
992 ⟶ 1,006行目:
|油彩・キャンバス
|221.5x291.8
|[[アンスティチュ・フランセ日本|関西日仏学館]]玄関ホール
|
|-
1,116 ⟶ 1,130行目:
|-
|[
|1943年
|油彩・キャンバス
1,127 ⟶ 1,141行目:
|1943年
|油彩・キャンバス
|60.
|島根県立美術館<ref>[http://jmapps.ne.jp/shimane_art_museum/det.html?data_id=4384 島根県立美術館 収蔵品データベース]</ref>
|
|-
1,148 ⟶ 1,162行目:
|-
|[
|1945年
|油彩・キャンバス
1,361 ⟶ 1,375行目:
* 『腕(ブラ)一本・巴里の横顔』(近藤史人編、[[講談社文芸文庫]]、2005年)。旧版は講談社、1984年
* 『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』 ([[平凡社ライブラリー]]、2014年)。旧版は講談社、1984年
* 『藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916』(上・下、[[人文書院]]、2016年)。
* 『藤田嗣治 戦時下に書く 新聞・雑誌寄稿集 1935~1956年』([[ミネルヴァ書房]]、2018年)。[[林洋子]]編
* 『藤田嗣治芸術試論 藤田嗣治直話』夏堀全弘編(三好企画、2004年)
== 偽作 ==
* 2004年から2005年にかけて、[[オフセット印刷]]された藤田の作品が正規の版画作品として流通、[[丸善雄松堂]]を通じて市販されたことがある。後日、指摘を受けた丸善は回収に乗り出したが、行方不明になったものも存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210330222517/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021033001141&g=soc |title=偽版画流通、丸善が公表せず 大阪の画商、17年前販売か―藤田嗣治 |publisher=時事通信 |date=2021-03-31|accessdate=2021-06-28}}</ref>。
== 関連図書 ==
* [[田中穣]] 『評伝 藤田嗣治』([[芸術新聞社]]、1988、改訂版2015)
* [[
* [[湯原かの子]] 『藤田嗣治 パリからの恋文』([[新潮社]]、2004)
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集 藤田嗣治』
* [[蘆原英了]] 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と[[小山内薫]]』 ([[田之倉稔]]解説、新宿書房、新版2007)
* [[林洋子]] 『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』([[名古屋大学出版会]]、2008)
* 木島隆康・林洋子編 『藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告』([[東京藝術大学]]出版会、2010)
* [[柴崎信三]] 『絵筆のナショナリズム-フジタと[[横山大観|大観]]の戦争』([[幻戯書房]]、2011)
* 矢内みどり 『藤田嗣治とは誰か―作品と手紙から読み解く、美の闘争史』([[求龍堂]]、2015)
* [[平山周吉]] 『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、2015)
* 佐野勝也 『フジタの白鳥 画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン、2017)
* 富田芳和 『なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治と[[フランク・エドワード・シャーマン|フランク・シャーマン]] 1945~1949』(静人舎、
* 藤田嗣隆 『レオナルド藤田嗣治覚書 レオナール・フジタとの散歩』(求龍堂、2020)- 親族による評伝
* 『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(オクターブ、2018)。写真アルバム ▼
*
; 小著
1,384 ⟶ 1,402行目:
* 『藤田嗣治 本のしごと』(林洋子解説、[[集英社]]新書ヴィジュアル版、2011.6)
* 『藤田嗣治 手紙の森へ』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2018.1)
* 『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』(林洋子監修、[[東京美術]]「アート・ビギナーズ・コレクション」、2013)
* [[布施英利]]『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』([[NHK出版新書]]、2018.8)
* 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社<[[とんぼの本]]>、2018.9)
* 『猫と藤田嗣治』(内呂博之監修、エクスナレッジ、2019.4)
* 『夜と猫』(藤田嗣治・絵、エリザベス・コーツワース・詩、矢内みどり訳、2023.10)
; 画集・図版
* 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(藤田君代監修、
* 『藤田嗣治画集』(全3巻、林洋子監修、[[小学館]]、2014)
* 『藤田嗣治の少女』([[会田誠]]編、講談社、2018)
* 『藤田嗣治作品集』(
* 『藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』([[平凡社]]〈別冊太陽〉、2019)
* 『藤田嗣治 安東コレクションの輝き 猫と少女と軽井沢』([[軽井沢安東美術館]]編、[[世界文化社]]、2022、増補版2024)
* 『猫の本 藤田嗣治安東コレクションより』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2023)
* 『藤田嗣治からレオナール・フジタへ 祈りへの道』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2025)
; 展覧会図録
*
*
*
*
*
*
*
* 『フジタ-色彩への旅』 [[ポーラ美術館]]編、[[求龍堂]]、2021年
::アン・ル・ディベルデル、佐々木佳苗、三木学、今井敬子ほか解説
* 『藤田嗣治 7つの情熱』 求龍堂、2025年。シルヴィー・ビュイッソン、矢内みどりほか
* 『藤田嗣治 絵画と写真』 キュレイターズ、2025年。[[東京ステーションギャラリー]]
== 脚注 ==
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* [[ポルチナーリ]]
* [[ユキ・デスノス=フジタ]]
* [[ラ・ブーム]] - 1980年公開のフランス映画
* [[FOUJITA]] - 2015年公開の日仏合作伝記映画
* [[フランク・エドワード・シャーマン]] - 戦後の支援者の一人
*[[千葉雄大]] - [[立松和平]]、小山内家を通じての縁戚関係にあたる
== 外部リンク ==
*[https://www.musee-ando.com/ 世界で初めての藤田嗣治の作品だけを展示する美術館 - 軽井沢安東美術館]
*[https://tsuguharufoujita.jp 藤田嗣治 生誕140周年記念特設サイト]
*[https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9190.html 藤田嗣治(レオナール・フジタ) :: 東文研アーカイブデータベース]
*[https://www.momat.go.jp/library/archives/foujita 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書]
*{{YouTube|fQvb6ufM06g|【アーカイブ】若きフジタ、妻への恋文}}(朝日新聞社提供、2018年11月27日公開)
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふした つくはる}}
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[[Category:20世紀フランスの画家]]
[[Category:洋画家]]
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[[Category:1968年没]]
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