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{{Infobox 船
|名称 = 氷川丸
|画像 = [[File:HIKAWA MARU 2018.jpg|300px]]
|画像説明 = 横浜市の[[山下公園]]に停泊している氷川丸
|船種 = [[貨客船]]
|クラス =[[ 氷川丸級貨客船]]
|船籍 = {{JPN1889}}<br />{{JPN}}
|所有者 =[[File:NYK Line house flag.svg|border|25px]] [[日本郵船]]
|運航者 = [[File:Flag of Japan.svg|25px|border]] 日本郵船<br />{{navy|Empire of Japan}}
|建造所 = [[横浜船渠]]
|母港 = [[東京港]]/[[東京都]]<ref name="kisen">{{Cite web|和書 |title=氷川丸 |url=http://jpnships.g.dgdg.jp/senreki01/000298.htm |work=なつかしい日本の汽船 |publisher=長澤文雄 |accessdate=2023-10-24}}</ref>
|母港=[[東京港]]/[[東京都]]
|姉妹船 = [[平安丸]]<br />[[日枝丸]]
|建造費 =
|航行区域 =遠洋
|船級 =
|船舶番号 = 35370<ref name="kisen"/>
|信号符字=VCGT
|信号符字 = VCGT<ref name="kisen"/>
|IMO番号=35370(※船舶番号)
|MMSIIMO番号 =
|MMSI番号 =
|改名=
|改名 =
|建造期間=534日
|就航建造期間 =11564 534
|就航期間 =
|計画数=
|建造計画 =
|建造数 =
|前級=
| =
|発注次級 =
|発注 =
|起工=[[1928年]][[11月8日]]
|進水起工 = [[19291928年]][[911308日]]
|竣工進水 = [[19301929年]][[492530日]]
|就航竣工 = [[1930年]][[541325日]]
|就航 = 1930年[[5月13日]]
|処女航海=
|処女終了=
|運航終了 =
|終航 = [[1960年]][[10月3日]]
|退役 =
|引退 =
|除籍 = 1960年[[12月21日]]
|最後 =
|現況 = [[山下公園]]に停泊
|要目注記 =
|トン数 =
|総トン数 = 11,622トン<ref name="三菱20話要目">[[#三菱、20話]] p.14頁『.「「氷川丸」の主要目</ref>
|純トン数 = 6,787トン<ref>{{PDFlink|[http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/Data/TBL300.pdf 特設特務艦船]}}p.8/7章第2項 - 大日本帝国海軍特設艦船データベース</ref>
|純トン数=6,787トン
|載貨重量 = 10,436271トン<ref name="kisen"/>
|排水量 =
|長さ =
|全長 = 163.3m<ref name="郵船OB27">『氷川丸とその時代』p.27.</ref>
|全長=163.3m
|登録長 =
|垂線間長 = 155.45m<ref name="三菱20話要目"/>
|幅 =
|型幅 = 20.12m<ref name="三菱20話要目"/>
|登録幅 =
|深さ = 12.2m<ref name="郵船OB27"/>
|登録深さ =
|型深さ =12.50m
|高さ = 29.26m(水面からマスト最上端まで)<br />12.19m(水面から船橋・煙突最上端まで)<br />11.88m(水面から船橋後方デリックポスト最上端まで)<br />9.75m(水面から後部船倉用デリック最上端まで)
|喫水 =9.2m
|満載喫水 = 9.23m<ref name="郵船OB27"/>
|デッキ数 =
|機関 =
|機関=[[バーマイスター&ウェイン|B&W]]社製 ダブルアクティング[[4ストロークエンジン|4ストローク]]8[[シリンダー|気筒]][[ディーゼルエンジン]] 2基
|ボイラー =
|主機 = [[バーマイスター&ウェイン|B&W]]社製 ダブルアクティング[[4ストロークエンジン|4ストローク]]8[[シリンダー|気筒]][[ディーゼルエンジン]] 2基
|主機=
|推進器 = [[スクリュープロペラ]] 2軸
|出力 = 11,000[[船舶工学#馬力|BHP]] (5,500BHP×2)<ref name="kisen"/><ref name="郵船OB27"/>
|最大出力 =
|定格出力 =
|速力 =
|最大速力 = 18.21[[ノット]]<ref name="三菱20話要目"/>
|航海速力 =15 16.0ノット<ref name="kisen"/>
|航続距離 = 15ノットで18,700[[海里]]
|潜航深度 =
|搭載人員 =
|旅客定員 = 一等:76:79名<br />二等:69:70名<br />三等:186:140<ref name="郵船OB27"/>
|乗組員 =
|積載量 =2,600トン
|車両搭載数 =
|その他 =
|備考 = [[1941年]][[11月21日]]徴用。<br />高さおよび航続距離は米海軍識別表<ref>[https://maritime.org/doc/id/oni208j-japan-merchant-ships/pg061.htm Hikawa_Maru_class]</ref>より([[フィート]]・[[マイル]]表記)。}}
{{Infobox 艦艇
|名称 = 氷川丸
|種別 = [[病院船|特設病院船]](日本海軍)<br/>[[特別輸送艦|特別輸送船]](第二復員省/復員庁)
|クラス =
|画像 = [[File:Hikawa MaruHospitalShip.jpg|300px]]
|画像説明 = 特設病院船時代の氷川丸
|運用者 =
|建造所 =
|発注 =
|起工 =
|進水 =
|就役 = 1941年[[12月1日]](海軍籍に編入時。日本海軍)<br />[[連合艦隊]][[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]/[[横須賀鎮守府]]所管<br />[[1945年]][[12月1日]](第二復員省/復員庁)<br />[[第二復員省#地方復員局|横須賀地方復員局]]所管
|除籍 = 1945年[[11月30日]](日本海軍)<br />[[1946年]][[8月15日]](復員庁)
|最後 =
|排水量 =
|全長 =
|全幅 =
|吃水 =
|主機 =
|最大速力 =
|航続距離 =
|乗員 =
|装甲 = なし
|兵装 = なし
|搭載機 =
|レーダー =
|ソナー =
|備考=徴用に際し変更された要目のみ表記。
}}
'''氷川丸'''(ひかわまる)は、[[三菱グループ]]の[[日本郵船]]が[[1930年]]に竣工させた[[日本]]の12,000[[トン|t]]級[[貨客船]]。北[[太平洋]]航路で長らく運航された。[[2019年]]時点では、[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[山下公園]]で[[博物館船]]として公開されている。国の'''[[重要文化財]]'''(歴史資料)に指定されている<ref name="#1">[https://search.kanpoo.jp/r/20160817g181p6-7/ 平成28年8月17日文部科学省告示第116号]</ref><ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016031101_besshi01.pdf 文化審議会答申 国宝・重要文化財の指定について](文化庁サイト)</ref>。
 
[[ファイル:Hikawa-maru (from Yokohama Marine Tower).jpg|250px|thumb|[[横浜マリンタワー]]の[[展望台]]より]]
[[ファイル:氷川丸.jpg|250px|thumb|現係留地の夜景]]
 
'''氷川丸'''(ひかわまる)は、[[日本郵船]]が[[1930年]]([[昭和]]5年)に竣工させた[[日本]]の12,000[[トン|t]]級[[貨客船]]。北[[太平洋]]航路で長らく運航された。[[2016年]]時点では、[[横浜市]]で[[博物館船]]として公開されている。国の[[重要文化財]](歴史資料)に指定されている<ref>平成28年8月17日文部科学省告示第116号</ref><ref>[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016031101.html 文化審議会答申 国宝・重要文化財の指定について](文化庁サイト)</ref>。
 
== 概要 ==
「氷川丸」は、[[横浜船渠]](現[[三菱重工業横浜製作所]])で建造された1万トン級貨客船であり、[[太平洋戦争]]では[[病院船]]として運用された。戦後は[[1960年]](昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。
 
運航終了後は横浜市の[[山下公園]]前([[横浜港]])に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内の[[インテリア]]なども含めて貴重な[[産業遺産]]であるため、[[2003年]]([[平成]]15年)には横浜市の[[有形文化財]]の指定を受け、[[2007年]](平成19年)に[[経済産業省]]の[[近代化産業遺産]]として認定、さらに[[2016年]](平成28年)88月には国の[[重要文化財]](歴史資料)に指定された。
 
== 船名 ==
本船(氷川丸)の船名は、[[氷川神社|大宮氷川神社]]に由来する<ref name="三菱由来">[[#三菱、20話]] p.16頁『.「船名の由来は埼玉県神社</ref>。[[船橋 (船)|ブリッジ]]の[[神棚]]には氷川神社の[[祭神]]が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている<ref name="三菱由来"/>。姉妹船には2隻([[日枝丸]]、[[平安丸]])があり、「日枝丸」は[[日枝神社 (千代田区)|東京千代田区日枝神社]]を、「平安丸」は[[平安神宮]]を祀った<ref name="三菱由来"/>。なお本級3隻は頭文字『'''H'''』で統一されている<ref name="三菱由来"/>。
 
== 船歴 ==
=== 建造経緯 ===
日本郵船は[[昭和]]初期、北太平洋で展開された[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[カナダ]]との貨客船就航(路線)競争の一環として、[[明治]]末期から[[大正]]初期に建造された[[天洋丸級貨客船|天洋丸級]]をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。また[[ワシントン海軍軍縮条約]]で[[航空母艦]](空母)の保有を制限された[[大日本帝国海軍]]も、平時には商船として運用し、有事には空母に改造可能な大型貨客船を求めていた<ref name="福井著11特設65">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]] pp.65-68頁『.「商船と航空母艦</ref>。
 
北米サンフランシスコ航路を強化するため、日本郵船は浅間丸型貨客船3隻([[浅間丸]]〈1929年9月15日〉、[[龍田丸]]〈1930年3月15日竣工〉、[[秩父丸]]〈1930年3月10日竣工。後に改名し鎌倉丸〉)を発注した<ref name="三菱20話14">[[#三菱、20話]] p.14頁『.「「秩父丸」に続き、2隻の客船を受注</ref>。この3隻は、有事において[[航空母艦]]に改造する予定だった<ref name="福井著11特設65"/>。<!-- [[シアトル]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]航路<ref group="注">シアトルからは[[グレート・ノーザン鉄道]]が接続した。1932年当時、[[シアトル]]から[[シカゴ]]までを70時間で結んだ(氷川丸内にある展示より(2010年5月1日閲覧))。</ref> -->続いて日本郵船は[[1927年]](昭和2年)には欧州航路2隻、南米航路1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、「秩父丸」を建造中の横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した<ref name="三菱20話14"/>。これが本船(氷川丸)と「[[日枝丸]]」である<ref name="三菱20話14"/>。なお、もとは川崎造船所へ発注の予定であったが、同造船所が経営不振になったため日本郵船が大株主かつ大口債権者となっていた横浜船渠へと変更された<ref>『氷川丸とその時代』p.10. pp.25-26.</ref>。「[[平安丸]]」は大阪鉄工所に発注された<ref name="三菱由来"/>。日本海軍は、氷川丸と日枝丸を航空機運搬艦(飛行甲板を保有するが、輸送や工作任務を前提とした簡易空母)にする予定だった<ref name="福井著11特設65"/>。
<!-- [[シアトル]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]航路<ref group="注">シアトルからは[[グレート・ノーザン鉄道]]が接続した。1932年当時、[[シアトル]]から[[シカゴ]]までを70時間で結んだ(氷川丸内にある展示より(2010年5月1日閲覧))。</ref> -->
続いて日本郵船は[[1927年]](昭和2年)には欧州航路2隻、南米航路1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、「秩父丸」を建造中の横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した<ref name="三菱20話14"/>。これが本船(氷川丸)と「[[日枝丸]]」である<ref name="三菱20話14"/>。「[[平安丸]]」は大阪鉄工所に発注された<ref name="三菱由来"/>。
日本海軍は、氷川丸と日枝丸を航空機運搬艦(飛行甲板を保有するが、輸送や工作任務を前提とした簡易空母)にする予定だった<ref name="福井著11特設65" />。
 
本船の横浜船渠建造番号は「S177」<ref name="三菱20話要目"/>。太平洋(外洋)での航海に堪えるため、外板の厚さは15mm、船窓も丸窓を採用した<ref name="三菱20話15">[[#三菱、20話]] pp.14-16.「地味でずんぐりの船型」</ref>。船級はロイド船級協会最高クラスを取得している<ref name="三菱20話15"/>。
本船の横浜船渠建造番号は「S177」<ref name="三菱20話要目"/>。
太平洋(外洋)での航海に堪えるため、外板の厚さは15mm、船窓も丸窓を採用した<ref name="三菱20話15">[[#三菱、20話]]14-16頁『地味でずんぐりの船型』</ref>。
船級はロイド船級協会最高クラスを取得している<ref name="三菱20話15"/>。
 
主機関は、「秩父丸」と同様に[[デンマーク]]のバーマイスター&ウェイン(B&W社。現在はドイツの[[MAN (企業)|MAN]]社と合併)製複動式[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]]2基搭載2軸推進とした<ref name="三菱20話15"/>。主発電機にはB&W社設計の[[ライセンス生産|ライセンス]]による[[池貝|池貝]]鉄工所]]製450馬力4サイクル ディーゼル機関駆動の[[直流]]225V 出力325kW 3台を搭載し<ref>徳永勇 シリーズ日本の艦艇商船の電気技術史24 第2章 商船の電気艤装・電気機器 船の科学39巻9号p71 p.71. 1986</ref>、ウインドラスやウインチ、各種ポンプ類の動力に直流電動機を用いて騒音振動を軽減した<ref>郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p54』p.54. 海文堂出版 2008</ref>。
 
竣工時の一等客室は76名(貴賓用特別室を含む)、二等69名、3等138名、合計283名<ref name="三菱20話16">[[#三菱、20話]] p.16頁『.「フランス風のモダンな室内</ref>。翌年には三等客室を48人増やして計331名となった<ref name="三菱20話16"/>。船内各部の装飾は、諸外国・日本国内の建築家やインテリア・デザイナー間で[[コンペティション]]を行った結果<ref>[[#三菱、20話]] pp.17-18頁『.「室内装飾はフランスへ発注</ref>、フランスのマーク・シモン社が担当することになった<ref name="三菱20話16"/>。
 
1933年からの発効が既に決定されていた[[1914年の海上における人命の安全のための国際条約|海上人命安全のための国際条約]] (<span lang="en" abbr="Safety of Life at Sea" title="Safety of Life at Sea">SOLAS</span>) の基準を先取りした水密区画構造を採用、[[アール・デコ]] ({{lang|fr|Art Déco}}) 様式のインテリア、[[オーシャン・ライナー|オーシャンライナー]]という船型、そして日本郵船の擁する一流シェフによる料理などのサービス提供など、構造、サービスとも当時の先端をいく良質な船として建造された。
 
「氷川丸」は[[1928年]](昭和3年)11月9日に起工、[[1929年]](昭和4年)9月30日に進水<ref name="三菱20話15"/>。[[1930年]](昭和5年)4月25日に竣工したが、プロペラに不都合が生じ、翌日再び入渠してその交換が行われた<ref name="三菱20話15郵船OB55">『氷川丸とその時代』p.55.</ref>。
 
=== 就役 ===
[[1930年]](昭和5年)598に横浜五号岸壁に着岸した「氷川丸」は[[横浜港]]から、翌日神戸へ出港<ref name="三菱20話処女航海">[[#三菱向かい20話]]18頁『各地で歓迎された処女航海』</ref>。5月13日に[[神戸港]]出港後、14日四日市、15日清水、16日横浜とより第一次航海を開始<ref name="三菱20話処女航海郵船OB55"/>。四日市、清水を経て5月17日に横浜を出港し、シアトルへの処女航海に向かった<ref>『氷川丸とその時代』pp.55-56.</ref>。各地ではレセプションや一般公開が行われた<ref name="三菱20話処女航海"郵船OB55/>。5月27日、シアトル着<ref name="三菱20話処女航海">[[#三菱、20話]] p.18.「各地で歓迎された処女航海」</ref>。[[排日移民法]]の締結などアメリカにおける[[反日感情#欧米における「対日」感情|反日感情]]は強くなっていたが、シアトルでは3万人近い(3万人超の<ref name="郵船OB58">『氷川丸とその時代』p.58.</ref>)見学者が「氷川丸」を訪れた<ref name="三菱20話処女航海"/>。次いで、バンクーバーやビクトリア、エベレットも多数の見学者が「氷川丸」を訪れた<ref name="郵船OB58"/>。「氷川丸」は6月17日にビクトリアを出港し、6月29日に横浜に帰国、到着<ref name="郵船OB58"/>。それから[[神戸港|神戸]]を経由して7月6日に[[北九州港#門司港地区|門司]]に入港した<ref name="三菱20話処女航海"/>。門司港でも岸壁を整備したばかりであり、「氷川丸」は接岸第1船となった<ref name="三菱20話処女航海"/>。続いて「氷川丸」は上海を経て香港へ向かい、7月12日に到着して処女航海を終えた<ref name="郵船OB58"/>。シアトルではラジオで誤って「ハイカワマル」と呼ばれ、その呼び名がそのまま定着した<ref>『氷川丸とその時代』p.56.</ref>。
 
1930年10月、「氷川丸」はロンドン海軍軍縮条約の批准書を運んだ<ref>『氷川丸とその時代』p.98.</ref>。
その後、氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、著名人を含む多くの賓客で賑わった。[[1932年]]の11次航海では[[チャールズ・チャップリン]]が乗船、[[1937年]]の47次航海では[[イギリス]][[イギリス王室|国王]][[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の[[戴冠式]]から帰国の途にあった[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]夫妻が乗船、[[1939年]]の59次航海では宝塚少女歌劇団(現・[[宝塚歌劇団]])の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演を終了した後の帰国時に乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。アメリカ側の発着地であるシアトル市民にとっても、1930年代、日本から定期的にやってくる「ハイカワマル」は馴染み深い存在になっていたという。[[1941年]](昭和16年)8月、シアトル航路の閉鎖が決定<ref name="三菱20話病院船">[[#三菱、20話]]18頁『特設病院船となる』</ref>。
 
1932年6月、[[チャールズ・チャップリン]]が日本観光後に横浜からシアトルまで「氷川丸」に乗船した<ref>『氷川丸とその時代』pp.101-102.</ref>。この時、チャップリンがてんぷらが好物だということで、船ではてんぷらを供したという<ref>『氷川丸とその時代』p.11, 102.</ref>。
 
1934年、バンクーバーから横浜へ向け航行中に「氷川丸」は[[室戸台風]]に遭遇したが、船体への被害はなかった<ref>『氷川丸とその時代』pp.106-107.</ref>。
 
1937年、[[イギリス王室|イギリス国王]][[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の[[戴冠式]]に出席した[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]夫妻がビクトリアから横浜まで乗船<ref>『氷川丸とその時代』p.11, 123.</ref>。
 
1938年、オリンピック誘致などを終え帰国途中の[[嘉納治五郎]]が「氷川丸」船上で死去した<ref>『氷川丸とその時代』pp.11-12, 107-108.</ref>。
 
1939年、アメリカ公演を行った宝塚少女歌劇団(現:[[宝塚歌劇団]])の一行が帰国の際に「氷川丸」に乗船した<ref name="郵船OB12">『氷川丸とその時代』p.12.</ref>。
 
1940年から1941年には「氷川丸」は北米へ逃れるユダヤ人を運んでいる<ref name="郵船OB12"/>。
 
1941年8月、シアトル航路は休止となった<ref>『氷川丸とその時代』p.12, 191.</ref>。同年9月から11月にかけて邦人引き揚げのため各地へ船が運航され、「氷川丸」は北米方面への一隻として216名を乗せて10月20日に横浜からバンクーバー、シアトルへ向かい、復路では364名を乗せて11月18日に横浜に戻った<ref>『氷川丸とその時代』pp.191-192.</ref>。
 
=== 特設病院船 ===
[[画像:Hikawa Maru-inWartime.jpg|250px|thumb|特設病院船時代の氷川丸を斜め前方より]]
[[1941年]](昭和16年)11月末、氷川丸は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]に[[特設艦船|徴用]]され<ref name="福井著11特設196">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]196頁『(2)氷川丸』</ref>、[[病院船]]として使用される(日枝丸と平安丸は[[特設潜水母艦]])<ref name="三菱20話病院船"/><ref name="福井著11特設65" />。
1941年11月21日に「氷川丸」は海軍に徴用され、12月1日から横須賀海軍工廠で改装されて海軍特設病院船となった<ref name="郵船OB213">『氷川丸とその時代』p.213.</ref><ref>[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]196頁では三菱横浜造船所での改造とする。</ref>。改装では客室が病室などになった他、二等食堂が第二病室となって畳敷きとなり、第五番艙中甲板が第三病室、第六番艙中甲板が第五病室(伝染病室)に、三等食堂が手術室にされた<ref>『氷川丸とその時代』pp.213-216.</ref>。一等、二等ラウンジなどの装飾はそのまま残された<ref name="郵船OB213"/>。船体は白色塗装され、横には緑色の線と赤十字が描かれ、電飾が施された<ref>『氷川丸とその時代』p.216.</ref>。夜間は当初は灯火管制することになったが、後にそのほうが安全だとして赤十字の標識を照らすようになったという<ref name="郵船OB221">『氷川丸とその時代』p.221.</ref>。「白鳥」という愛称があった<ref>[[#三菱、20話]] p.18.「特設病院船となる」</ref>。
海軍側からは病院長・金井泉軍医大佐(院長当時)、郵船側からは船長・石田忠吉らが乗組んだ。11月20日、[[第四艦隊]]に編入<ref>防衛庁防衛研修所 戦史室『[http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=038 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで]』朝雲新聞社、123ページ</ref>。同年12月に[[横須賀海軍工廠]]で病院船に改造された<ref name="三菱20話病院船"/><ref>[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]196頁では三菱横浜造船所での改造とする。</ref>。
 
12月20日、改造完了<ref name="福井著11特設196" />。
また、11月20日に[[第四艦隊]]に編入された<ref>防衛庁防衛研修所 戦史室 [https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=038 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで] 朝雲新聞社 p.123.</ref>。
[[国際法]]により病院船であることを示すため、船体は白色に塗装、緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのような電飾を実施した<ref name="三菱20話病院船"/>。「白鳥」という愛称があった<ref name="三菱20話病院船"/>。
 
「氷川丸」は横須賀鎮守府籍で、初代病院長には金井泉軍医大佐が就いた<ref name="郵船OB221"/>。
 
改装の終わった「氷川丸」は12月23日に横須賀を出港し、12月31日にルオット島に到着<ref name="郵船OB229">『氷川丸とその時代』p.229.</ref>。そこでウェーク島攻略戦の負傷者を「海平丸」から収容するとトラックへ向かい、1942年1月5日に到着した<ref name="郵船OB229"/>。それ以後はマーシャル諸島各地を回り、2月16日に横須賀に戻った<ref name="郵船OB229"/>。
 
2月22日、横須賀を出港<ref name="郵船OB229"/>。ラバウルへ向かい、そこで負傷者を収容後、トラック、グアム、サイパンを経て4月5日に横須賀に戻った<ref>『氷川丸とその時代』pp.229, 231.</ref>。
 
4月18日、「氷川丸」は横須賀で改装工事中にドーリットル空襲にあったが、被害はなかった<ref name="郵船OB231">『氷川丸とその時代』p.231.</ref>。
 
4月25日、横須賀出港<ref name="郵船OB231"/>。トラック、フィンカロラ、ラバウルへ向かう<ref>『日本郵船戦時船史 下』p.551.</ref>。
 
6月26日、呉を出港<ref name="郵船OB234">『氷川丸とその時代』p.234.</ref>。ダバオ、メナド、ケンダリ、アンボン、クーパン、マカッサル、バリクパパン、スラバヤ、シンガポール、サイゴン、マニラ、馬公を訪れ、8月10日に佐世保着<ref name="郵船OB234"/>。
 
8月28日、呉出港<ref name="郵船OB235">『氷川丸とその時代』p.235.</ref>。トラック、ラバウル、カビエンを訪れ、9月20日横須賀着<ref name="郵船OB235"/>。
 
9月26日、横須賀出港<ref name="郵船OB235"/>。トラック、ラバウルを訪れ、10月18日横須賀着<ref name="郵船OB235"/>。
 
10月22日、横須賀出港<ref name="郵船OB236">『氷川丸とその時代』p.236.</ref>。11月10日にブインに到着し、ガダルカナル島から引き揚げた設営隊員の患者を収容した<ref>『氷川丸とその時代』pp.236-237.</ref>。ブインでは空襲があったが、「氷川丸」に被弾はなかった<ref name="郵船OB236"/>。11月21日、横須賀着<ref name="郵船OB236"/>。
 
11月29日、横須賀出港<ref name="郵船OB237">『氷川丸とその時代』p.237.</ref>。トラック、ブイン、ラバウルを訪れ、12月25日横須賀着<ref name="郵船OB237"/>。横須賀へ向かう途中の12月22日夜にピストンロッドが折損したが、翌朝までに修理完了した<ref name="郵船OB237"/>。
 
1943年1月5日、横須賀出港<ref name="郵船OB238">『氷川丸とその時代』p.238.</ref>。トラック、ラバウルを訪れ、1月29日に横須賀着<ref name="郵船OB238"/>。
 
2月、日本軍はガダルカナル島から撤退。「氷川丸」は2月5日に横須賀を出港し、トラック、カビエンを経て2月17日にラバウルに着き、患者662名を収容<ref name="郵船OB238"/>。トラックへ向かう途中、駆逐艦「夕霧」から患者1名を収容し、トラックでは病院船「[[朝日丸]]」から50名が移送された<ref name="郵船OB238a">『氷川丸とその時代』pp.238-239.</ref>。それからサイパンでガダルカナル島からの引揚者370名を降ろし、3月2日に横須賀に戻った<ref name="郵船OB238a"/>。
 
3月12日、横須賀出港<ref name="郵船OB239">『氷川丸とその時代』p.239.</ref>。サイパン、トラック、ブイン、ラバウル、カビエン、トラックと訪れ、4月8日に横須賀着<ref name="郵船OB239"/>。
 
4月18日、横須賀出港<ref name="郵船OB240">『氷川丸とその時代』p.240.</ref>。トラック、ラバウル、カビエン、トラック、サイパンと訪れ、5月13日に横須賀着<ref name="郵船OB240"/>。
 
6月11日、横須賀出港<ref name="郵船OB240"/>。ラバウル、トラック、カビエン、ラバウル、カビエン、トラックと訪れ、7月18日に横須賀着<ref>『氷川丸とその時代』pp.240-241.</ref>。
 
9月9日、横須賀出港<ref name="郵船OB241">『氷川丸とその時代』p.241.</ref>。マニラ、ダバオ、アンボン、クーパン、マカッサル、バリクパパン、スラバヤ、ジャカルタ、シンガポール、サイゴン、三亜、高雄、佐世保を訪れ、11月4日に佐世保着<ref name="郵船OB241"/>。この航海時、「氷川丸」は10月3日にスラバヤ港外で船尾付近に触雷した<ref name="郵船552">『日本郵船戦時船史 下』p.552.</ref>。それによりプロペラシャフトの軸受けが歪み、修理に10日を要した<ref>『氷川丸とその時代』p.242.</ref>。<!--
 
病院船の氷川丸は夜間に電飾を実施していたが<ref name="三菱20話病院船"/>、同年11月の[[ラバウル]]空襲で氷川丸の周囲に船が集まったため、盲爆され(特設病院船でも軍艦が随伴していたら攻撃対象となる)多くの被害が生じたと言う理由により、聯合艦隊司令長官から病院船も軍港に入港時は消灯するよう伝達を受けた<ref>[[#氷川丸回顧録]] p.2.</ref>。
時期が怪しい気がするのでコメントアウト-->
 
11月16日、横須賀出港<ref name="郵船OB243">『氷川丸とその時代』p.243.</ref>。トラック、クェゼリン、ルオット、ウォッジェ、タロア、クェゼリン、ルオット、トラック、パラオ、佐世保と訪れ、1944年1月11日に横須賀着<ref name="郵船OB243"/>。
 
1月9日、横須賀出港<ref name="郵船OB243"/>。トラック、ラバウル、トラック、別府、呉と訪れ、2月14日に横須賀着<ref name="郵船OB243"/>。
 
2月20日、[[横須賀港|横須賀]]を出港後、[[チューク諸島|トラック]]を経由して[[パラオ]]へ、続いて[[バリクパパン]]で傷病兵や患者を受け入れる。この頃、戦況の悪化によってパラオでは大空襲が予想されたため、内地への引揚を希望する邦人が急増。そのためバリクパパンを出港した氷川丸は予定を変更し、3月16日に再びパラオに戻り、内地引揚希望の邦人を受け入れたので、他の回航で500人~1000人を乗せていた氷川丸の船内は、この回航では総員2500人に膨れ上がった。パラオ出港後に向かった[[サイパン島|サイパン]]では傷病兵の一部を下船させた短い航海となり、3月25日に横須賀に帰港<ref>[[#氷川丸回顧録]] pp.18-19, 32-33.</ref>。
 
4月20日、横須賀出港<ref name="郵船OB243"/>。サイパン、トラック、パラオ、バリクパパン、アンボン、スラバヤ、シンガポール、マニラ、佐世保を訪れ、6月14日に横須賀着<ref name="郵船OB243"/>。
 
7月1日、横須賀出港<ref name="郵船OB243"/>。パラオ、トラック、メレヨン、ダバオを訪れ、8月1日に横須賀着<ref name="郵船OB243"/>。この航海時、7月15日にメレヨン島ルオット水道で「氷川丸」は2度目の触雷をした<ref name="郵船OB244">『氷川丸とその時代』p.244.</ref>。この時は船首で磁気機雷2発が爆発し、一番船艙が浸水<ref name="郵船552"/>。ダバオで応急修理を行った<ref name="郵船OB244"/>。
 
9月2日、横須賀出港<ref name="郵船OB244"/>。呉、マニラ、スラバヤ、シャムアン、バリクパパン、ダバオを訪れ、10月10日に佐世保着<ref>『氷川丸とその時代』pp.244-245.</ref>。
 
10月17日、佐世保出港<ref name="郵船OB245">『氷川丸とその時代』p.245.</ref>。マニラを訪れ、10月28日に横須賀着<ref name="郵船OB245"/>。
 
11月5日横須賀出港<ref name="郵船OB245"/>。マニラ、シンガポール、マニラと訪れ、12月25日に横須賀着<ref name="郵船OB245"/>。この航海時にはマニラ湾を出たところで「氷川丸」は機銃掃射を受けている<ref name="郵船OB246">『氷川丸とその時代』p.246.</ref>。
 
1945年1月17日、横須賀出港<ref name="郵船OB246"/>。横浜、徳山、佐世保、基隆、三亜、サンジャック、シンガポール、ジャカルタ、呉を訪れ、3月24日に横須賀着<ref name="郵船OB246"/>。この航海時、2月22日(14日<ref name="郵船552"/>)に「氷川丸」はジョホール水道で3度目の触雷をした<ref name="郵船OB246"/>。これは磁気機雷によるもので<ref name="郵船552"/>、船尾に触雷し、二重底の油槽、水槽で漏水が生じた<ref name="郵船552"/>。また、衝撃によって寝台から落ちる傷病兵が出て、1名がショック死した<ref>『氷川丸とその時代』p.247.</ref>。
 
5月19日、佐世保を出港<ref>『氷川丸とその時代』p.252.</ref>。ジャカルタ、シンガポール、三亜で傷病兵を収容して佐世保で降ろしたが、佐世保が空襲を受けたため、その後佐世保から舞鶴への傷病兵移送にあたった<ref>『氷川丸とその時代』pp.252-253.</ref>。この時の航海では、佐世保からジャワへ暗号書を輸送し、その後はシンガポールから重油(タンクに入れていた水と入れ替えた)とパイロットを運んでいる<ref name="reki taihei37 68"/>。
本船は、[[1943年]](昭和18年)10月3日、インドネシアのスラバヤ港外で[[機雷]]の爆発による損傷を艦尾に受けた<ref name="三菱20話幸運船">[[#三菱、20話]]18-19頁『"奇跡の幸運船"として生き残る』</ref>。
[[1944年]](昭和19年)7月15日(6月8日とも)、[[カロリン諸島]]の[[ウォレアイ環礁|メレヨン島]]に到着、傷病兵を受け入れ出港直後に磁気機雷2発が至近距離で爆発(珊瑚礁で起爆)、若干の損害を受けた<ref name="三菱20話幸運船"/><ref>[[#飢餓の島]]94-95頁</ref>。[[1945年]](昭和20年)2月14日、ベトナムの[[ブンタウ|サンジャック]]から[[シンガポール]]への航海中、船尾附近に触雷、浸水被害を受けるが自力航行は可能だった<ref name="三菱20話幸運船"/>。
 
7月30日、舞鶴は空襲を受けて「氷川丸」と並んで係留されていた海防艦「沖縄」などが撃沈されたが、「氷川丸」に被害はなかった<ref>『氷川丸とその時代』p.253.</ref>。しかし、陸上で「氷川丸」乗組員2名が死亡した<ref>『氷川丸とその時代』253頁、『日本郵船戦時船史 下』552頁では乗組員死亡は7月29日のこととなっている。</ref>。
1945年5月には佐世保からジャワへ暗号書を輸送し、その後はシンガポールから重油(タンクに入れていた水と入れ替えた)とパイロットを運んでいる<ref name="reki taihei37 68"/>。
 
「氷川丸」は[[終戦の日]]を[[舞鶴海軍工廠]]で迎えた<ref>[[#三菱、20話]] pp.18-19.「"奇跡の幸運船"として生き残る」</ref>。「氷川丸」は28回出動し、3万名以上の傷病兵を運んだ<ref name="reki taihei37 68">『歴史群像太平洋戦史シリーズ37 帝国陸海軍補助艦艇』学習研究社、2002年、p.68.</ref>。同年11月30日、[[海軍省]]の廃止に伴い特設艦船籍から除かれた。
姉妹船「[[日枝丸]]」(特設[[潜水母艦]]、のち特設運送船)と「[[平安丸]]」(特設潜水母艦)が戦没する中<ref>[[#三菱、20話]]19頁『姉妹船2隻は沈没』</ref>、本船は[[終戦の日]]を[[舞鶴海軍工廠]]で迎えた<ref name="三菱20話幸運船"/><ref group="注">当時病院船氷川丸に従事していた船員からの証言によると、太平洋戦争中、病院船として運用されていながら、航行中に[[アメリカ海軍|米軍]]の[[潜水艦]]に追尾され5日ほど監視されていたという。当時、氷川丸船内には軍用航空燃料が積まれており、万一敵潜水艦から[[臨検]]を要請されて航空燃料搭載が発覚すれば病院船としての保護扱いを喪失して[[拿捕]]、撃沈される危険性があった。更に、病院船を軍事輸送船として運用することは国際法への違反であり、もしこれが明らかになれば日本の国際的立場がさらに悪化することが十分に有り得た。そのため、船内にはこの事例に対する対策として自沈装置が設けられており、臨検を受けざるを得なくなった場合に[[自沈]]することを指示されていたという。追尾はされながら幸いにも臨検されることはなく、氷川丸は難を逃れた。</ref>。「氷川丸」は28回出動し、3万名以上の傷病兵を運んだ<ref name="reki taihei37 68">『歴史群像太平洋戦史シリーズ37 帝国陸海軍補助艦艇』学習研究社、2002年、68ページ</ref>。
 
=== 太平洋戦争以後 ===
1945年12月1日、[[第二復員省]]の開庁に伴い、横須賀地方復員局所管の[[特別輸送艦|特別輸送船]]に定められる。敗戦後、「氷川丸」は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[日本商船管理局]] ([[:en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine]], SCAJAP)SCAJAP) により'''SCAJAP-H022'''の管理番号を与えられ、帰国者の[[引揚者|引き揚げ]]任務に従事<ref name="三菱20話大記録">[[#三菱、20話]] p.19頁『.「太平洋横断238回の大記録</ref>。45000人を日本へ運んだ<ref name="reki taihei37 68"/>。1946年8月15日、「氷川丸」は特別輸送船の定めを解かれ、8月20日付けで解傭となった。続いて国内航路に就役し、輸送任務に従事<ref name="三菱20話大記録"/>。[[1953年]](昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した<ref name="三菱20話大記録"/>。最終航海は、[[1960年]](昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港<ref name="三菱20話大記録"/>。10月1日に横浜に戻ると、10月3日に神戸に到着<ref name="三菱20話大記録"/>。神戸から横浜に回航され、太平洋横断238回をもって航海を終えた<ref name="三菱20話大記録"/>。のべ25,000人余りの乗客を運んだという<ref name="三菱20話大記録"/>。
 
解体予定もあったが、市や市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される<ref name="三菱20話イベント船">[[#三菱、20話]] pp.19-20頁『.「イベント船特設病院船となる</ref>。この際、船尾の貨物施設やプロペラシャフトの撤去など、横浜船渠第一号船渠(現[[日本丸メモリアルパーク]])で大規模な補修が実施された<ref name="三菱20話イベント船"/><ref>[[#三菱、20話]] p.20頁『.「図7、入渠中写真</ref>。[[1961年]](昭和36年)5月、山下公園に係留される<ref name="三菱20話イベント船"/>。以後の所有は氷川丸マリンタワー株式会社(以下、「氷川丸マリンタワー」と記す)になり、[[ユースホステル]]・[[見学]]施設として運営された。後に船体がエメラルド・グリーンに塗り替えられた。船内では船上[[結婚式]]、[[ビアガーデン]]、[[演奏会|ライブ]]、サロン・コンサート、[[宴会|パーティ]]、年越し[[カウントダウン]]などの催事・[[イベント]]が実施された<ref name="三菱20話イベント船"/>。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て[[1980年代]]後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている<ref name="三菱20話イベント船"/>
船内では船上[[結婚式]]、[[ビアガーデン]]、[[演奏会|ライブ]]、サロン・コンサート、[[パーティ]]、年越し[[カウントダウン]]などの催事・[[イベント]]が実施された<ref name="三菱20話イベント船"/>。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て[[1980年代]]後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている<ref name="三菱20話イベント船"/>。
 
[[2003年]](平成15年)、「氷川丸」は横浜市指定有形文化財に指定された<ref name="三菱20話文化財">[[#三菱、20話]] p.20頁『.「横浜市指定有形文化財</ref>。しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは[[2006年]](平成18年)[[10月13日]]、同年[[12月25日]]で氷川丸の運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡することを発表した<ref name="三菱20話文化財"/>。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年[[12月31日]]付で解散した
しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは[[2006年]](平成18年)[[10月13日]]、同年[[12月25日]]で氷川丸の運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡することを発表した<ref name="三菱20話文化財"/>。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年[[12月31日]]付で解散した。
 
[[2007年]](平成19年)8月より船体の部分的な修繕・内装の修復を行っていたが、日本郵船より一般公開を再開する旨が発表される。[[2008年]](平成20年)[[4月25日]]、「氷川丸」竣工から78年目にわせ、「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を開始した<ref>[http://www.nyk.com/news/2008/0130_02.htm ニュースリリース:「日本郵船氷川丸」リニューアルオープン(2008年1月30日)]</ref><ref name="三菱20話シンボル">[[#三菱、20話]] pp.20-21頁『.「今も横浜のシンボルとして</ref>。
 
毎日正午になると時報代わりに[[汽笛]]を鳴らす、この他前述のカウントダウンでは新年を迎える際に氷川丸の汽笛を鳴らすのが慣例になっている。船体の大規模な修繕は1961年(昭和36年)より実施されておらず老朽化が進行している<ref>{{Cite web|和書 |title=氷川丸と日本丸 老朽化進み保存に課題 |url=https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-55781.html |website=カナロコ by |publisher=[[神奈川新聞]] |date=2015年1月-01-27日(火)10時12分配信 |accessdate=2022-03-26}}</ref>。
 
[[2016年]](平成28年)、戦前で作られた貨客船としての文化的価値が評価されて、国の[[重要文化財]](歴史資料)に指定された。「[[明治丸]]」に続く二番目の船の文化財となったが、海上で保存されている船舶では初の文化財である。
 
== 病院長 ==
#金井泉 軍医大佐:1941年12月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072083300|海軍辞令公報(部内限)第760号 昭和16年12月1日}}</ref> - 1942年11月15日
#本間正人 軍医大佐:1942年11月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088200|海軍辞令公報(部内限)第988号 昭和17年11月16日}}</ref> - 1943年11月5日
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== 歴史 ==
* [[1930年]]([[昭和]]5年)4
** 4月25日 [[横浜船渠|横浜船渠]]株式会社]](現[[三菱重工業横浜製作所]])にて竣工。
** 1930年(昭和5年)5月13日 - 5月27日 処女航海 神戸 - シアトル <ref group="注">途中[[四日市港|四日市]]、[[清水港|清水]]、[[横浜港|横浜]]、[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]に寄港した。</ref>。
*** 初代[[船長]]の秋吉七郎は「軍艦氷川」と評されるほどの厳格な船内規律を徹底させ、以後氷川丸の伝統となるサービスの基礎を築いた。
* 1930年(昭和5年)* [[ロンドン軍縮会議]]の[[批准]]書を輸送。
* [[1932年]](昭和7年) 第11次航海の往路にハリウッド俳優のチャールズ・チャップリンが異父兄にあたるシドニー・チャップリンと乗船。
* [[1937年]](昭和12年) イギリス王室ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。カナダ・ビクトリア港 - 横浜。
* [[1938年]](昭和13年) [[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]誘致のため、[[カイロ]]の[[国際オリンピック委員会|IOC]]会議に出席した[[嘉納治五郎]]が帰国時、シアトルより乗船。[[5月4日]]、[[肺炎]]により船内で亡くなる<ref>柔道の神様、帰国の船中で死去『東京朝日新聞』(昭和13年5月5日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p.77. 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>
* [[1939年]](昭和14年)
** [[6月20日]] 第59次航海の復路に宝塚少女歌劇団(現[[宝塚歌劇団]])の訪米芸術使節団一行が[[アメリカ]]公演からの帰朝時にシアトルから乗船。シアトル - バンクーバー - 横浜 - 神戸。
** [[1941年8月17日]](昭和16年)8月 国際情勢によりシアトル航路閉鎖。
* [[1941年]](昭和16年)
** 日本政府に交換船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国。
** 1941年(昭和16年)1111月 日本海軍に徴用され、病院船として南太平洋海域にて活動。戦時中の様子は[[1943年]](昭和18年)に制作された戦記映画『海軍病院船』(日本映画社制作・53分)で確認可能。
* [[1945年]](昭和20年) [[第二次世界大戦]]終了後、復員輸送に従事。
* [[1947年]](昭和22年) [[北海道]]航路に就航 横浜 - [[室蘭市|室蘭]] - [[大阪市|大阪]]。
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* [[1952年]](昭和27年) [[ヨーロッパ|欧州]]定期航路に貨客船として就航。
* [[1953年]](昭和28年)7月 横浜 - シアトル航路に定期貨客船として復帰。
* 1953年(昭和28年) - [[1960年]](昭和35年) [[フルブライト・プログラム|フルブライト]][[留学#第二次世界大戦後|交換留学生]]が利用<ref group="注">1960年夏、フルブライト留学生として[[プリンストン大学]]へ向かう[[下村脩]]が乗船した。(2008年12月30日 朝日新聞)</ref>。
* [[1959年]](昭和34年) 宝塚歌劇団がカナダ・アメリカ公演の渡航に利用。
* 1960年(昭和35年) 運航終了。日本郵船もシアトル航路から撤退。
* [[1961年]](昭和36年) 横浜港開港100周年記念事業として山下公園前に係留、ユースホステルとなる。
* [[1978年]](昭和53年) 横浜大洋ホエールズ(現[[横浜DeNAベイスターズ]])応援団に[[銅鑼]]が寄贈される<ref group="注">名物応援団長だった[[池杉昭次郎]]がこれを使った応援を行い、彼が亡くなった[[1995年]](平成7年)まで使用した。この銅鑼は氷川丸に返還された後、[[1998年]](平成10年)に横浜ベイスターズが[[日本選手権シリーズ|プロ野球日本選手権シリーズ]]に優勝した際の記念行事として氷川丸船内で一般公開されている。</ref>。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[6月15日]] 係留中の船体から[[重油]]が流出。海面約700平方メートルにわたり広がった。
* [[2003年]](平成15年)11月 横浜市指定[[有形文化財]]の指定を受ける。
* [[2006年]](平成18年)
** [[10月13日]] 運営してきた氷川丸マリンタワー株式会社が、営業を同年12月25日で終了すると発表。
** 2006年(平成18年)[[12月25日]] 営業終了、日本郵船へ管理が移管される。
* [[2008年]](平成20年)[[4月25日]] リニューアル工事を行った後に一般への公開を再開。
* [[2010年]](平成22年)[[11月12日]] - [[11月14日]] [[2010年日本APEC|APEC首脳会議]]開催に伴う[[テロリズム|テロ]]対策のため、営業停止。
* [[2012年]](平成24年)[[5月]] - リニューアルオープンから入場者100万人に到達<ref name="三菱20話シンボル"/>。
* [[2016年]](平成28年)[[8月17日]] 同日付けの官報告示により国の重要文化財に指定。指定名称は以下のとおり<ref>平成28年8月17日文部科学省告示第116号< name="#1"/ref>。
:** 氷川丸 1艘 昭和五年、横浜船渠株式会社製
:** 附 一、航海日誌・諸記録類8点 一、図面類455点
 
== 現係留地 ==
{{日本の位置情報|35|26|48.07|139|39|4.54|横浜東部|日本郵船氷川丸|display=inline,title|geoopts=region:JP-14_type:landmark}}
 
=== 現係留地への交通 ===
* [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]下車徒歩3分。
* [[横浜駅]]・[[桜木町駅]]より[[横浜市営バス]][[横浜市営バス本牧営業所#26系統|26系統]]・[[東京国際空港|羽田空港]]より[[京浜急行バス]]「山下公園前」停留所下車。
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== 関連作品 ==
=== 映像作品 ===
* 『[[プロハンター]]』(1981年[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)- エンディングにおいて舞台となる横浜の光景のひとつとしてグリーン塗装時代の氷川丸を見ることができる。
* 『[[青が散る]]』(1983年[[TBSテレビ]]系)9話(1983年12月23日)- 買い出し帰りに立ち寄った操舵室で、[[伝声管]]を用いて祐子が結婚することを燎平に告白する。
* 『[[あぶない刑事]]』(1986年[[日本テレビ]]系)17話(1987年1月25日)- 殺人事件の現場として。ブルーに塗り替えられた時期の氷川丸を見ることができる。
* ドキュメンタリー『[[内山理名]]が往く [[歴史ROMAN 産業遺産]]』第11回(前編) - 第12回(後編)『貿易立国ニッポンの原点・横浜港』([[日経CNBC]])
* ドキュメンタリー『[[内山理名]]が往く [[歴史ROMAN 産業遺産]]』第11回(前編)- 第12回(後編)「貿易立国ニッポンの原点・横浜港」([[日経CNBC]])
* 『[[映画 プリキュアオールスターズNewStage みらいのともだち]]』(2012年[[東映]]系) - 「協力」としてクレジットされている。
* 『[[映画 プリキュアオールスターズNewStage みらいのともだち]]』(2012年[[東映]]系)-「協力」としてクレジットされている。
* 『[[氷川丸ものがたり]]』(2015年[[虫プロダクション]]制作) - 本船の史実を描いたアニメーション映画
* 『[[氷川丸ものがたり]]』(2015年[[虫プロダクション]]制作)- 本船の史実を描いたアニメーション映画
* 『[[オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。|オードリーさん、ぜひ会って欲しい人がいるんです!]]』([[中京テレビ]]、2018年11月10日)- 第二次世界大戦中から戦後にかけて[[従軍看護婦]]として乗船した女性が体験談を語っている。
* 『[[美の巨人たち|新美の巨人たち]]』-「海に浮かぶ重要文化財『日本郵船氷川丸』×[[要潤]]」(テレビ東京、2020年10月10日)
 
=== 模型 ===
[[第二次世界大戦]]開戦まで、日本郵船バンクーバー代理店には[[籾山艦船模型製作所]]製の1/48氷川丸大型模型があった。この模型は、カナダ政府による対日資産凍結により没収され、競売により落札したアメリカ人が所有していたが、遺族がウィスコンチン州海事博物館に寄贈して展示されていた。[[1995年]]に存在が明らかになり、日本郵船による返還交渉の末、2013年11月に返還されることが決まり、2014年1月14日に[[日本郵船歴史博物館]]に到着。2月18日から一般公開されている<ref>「ニュース・フラッシュ 戦前の「氷川丸」Hikawa Maru大型模型アメリカから返還」『[[世界の艦船]]』第795集(2014年4月号) [[海人社]]</ref>。
 
この種の民間船としては数少ない[[プラモデル]]化された船である。長谷川製作所([[ハセガワ]])から、[[1/700]][[ウォーターラインシリーズ]](喫水線より上の船体のみ再現したもの)および[[1/350スケール]]のフルハルモデル(喫水線以下の船体も再現されている[[船舶模型]]の様式)タイプのプラモデルキットとして、現役貨客船時代と徴用病院船時代の2種類ずつ発売されている。
 
=== PV・ジャケット ===
* [[1979年]][[11月21日]]発売の[[中島みゆき]]6作目の[[スタジオ・アルバム|オリジナル「[[おかえりなさい (中島みゆきのアルバム]]『''')|おかえりなさい'''』]]」のジャケット写真に使われた。
* [[くるり]]の[[楽曲]]「[[青い空]]」の[[ミュージックビデオ|PV]]中に、氷川丸の機関室で演奏する様子が登場する。
* [[スキマスイッチ]]の[[楽曲]]「[[全力少年]]」の[[シングル]]ジャケット写真撮影に使われた。
* [[YUI (歌手)|YUI]]の[[アルバム]]「[[HOW CRAZY YOUR LOVE]]」のアルバムジャケット写真撮影に使われた。
* [[TrySail]]のアルバム「[[Sail Canvas]]」のジャケットおよびブックレットの写真撮影に使われた。
* [[堀江由衣]]のシングル「[[ALL MY LOVE (堀江由衣の曲)|ALL MY LOVE]]」のジャケット撮影に使われた。
* [[GRANRODEO]]のアルバム「[[Pierrot Dancin']]」のジャケット撮影に使われた。
 
== ギャラリー ==
<gallery widths="210" heights="170" mode="nolines">
Hikawa-maru (from Yokohama Marine Tower).jpg|[[横浜マリンタワー]]の[[展望台]]より
ファイル:HikawamaruJP14Apr05.jpg|氷川丸
ファイル:氷川丸一等客室通路.jpg|一等客室通路現係留地の夜景
UMIHOTARU NYK exhibition.jpg|[[海ほたるパーキングエリア|海ほたるPA]]には氷川丸のパンフレットなどが展示されている
ファイル:氷川丸一等食堂.jpg|一等客専用食堂
HikawamaruJP14Apr05.jpg|氷川丸
ファイル:氷川丸機関室.jpg|機関室
氷川丸一等客室通路.jpg|一等客室通路
ファイル:HIKAWA MARU Restaurant.jpg|氷川丸レストラン
氷川丸一等食堂.jpg|一等客専用食堂
ファイル:HIKAWA MARU Saloon.jpg|氷川丸サルーン
氷川丸機関室.jpg|機関室
ファイル:HIKAWA MARU Bedroom.jpg|氷川丸ファーストクラスのベッドルーム
ファイル:HIKAWA MARU DeckRestaurant.jpg|氷川丸デッキレストラン
ファイル:HIKAWA MARU EngineSaloon.jpg|氷川丸エンジサルー
HIKAWA MARU Bedroom.jpg|氷川丸ファーストクラスのベッドルーム
ファイル:平安丸と氷川丸のデッキ比較.jpg|姉妹船の[[平安丸]]との比較(デッキ)
HIKAWA MARU Deck.jpg|氷川丸デッキ
ファイル:Heian maru and Hikawa maru engine room 2.jpg|姉妹船の[[平安丸]]との比較(機関室)
HIKAWA MARU Engine.jpg|氷川丸エンジン室
平安丸と氷川丸のデッキ比較.jpg|姉妹船の[[平安丸]]との比較(デッキ)
Heian maru and Hikawa maru engine room 2.jpg|姉妹船の[[平安丸]]との比較(機関室)
Heian maru and Hikawa maru engine room gauge.jpg|姉妹船の[[平安丸]]との比較(機関室計器)
</gallery>
 
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references {{Reflist|group="注" />}}
=== 脚注 ===
{{Reflist}}
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== 参考文献 ==
<!--ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順-->
* {{Cite journal|和書 |author=遠藤あかね |title=日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸 |journal=マリンエンジニアリング |volume=53 |issue=1 |publisher=日本マリンエンジニアリング学会 |date=2018-01 |pages=109-113 |doi=10.5988/jime.53.109 |url=https://doi.org/10.5988/jime.53.109 |issn=1346-1427 |naid=130006496616 |accessdate=2020-04-01}}
* {{Cite journal|和書
* {{Cite book|和書 |author=大浦庸生 |title=飢餓の島メレヨンからの生還 |publisher=新風書房 |date=1993-03 |isbn=4-88269-211-2 |ref=飢餓の島}}
| author = 遠藤あかね
* {{Cite book|和書 |author=鈴木衛 |title=病院船氷川丸回顧録 |publisher=小池製作本社 |date=1996-03 |ref=氷川丸回顧録}}
| authorlink =
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| title = 日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸
* <!--フクイ2001-->{{Cite book|和書 |author=[[福井静夫]] |editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員 |title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本特設艦船物語 |volume=第11巻 |publisher=光人社 |date=2001-04 |isbn=4-7698-0998-0 |ref=福井著作11}}
| journal = マリンエンジニアリング
* {{Cite book|和書 |author=三神國隆 |title=海軍病院船はなぜ沈められたか {{small|第二氷川丸の航跡}} |publisher=光人社NF文庫 |date=2005-01 |origyear=2001 |isbn=4-7698-2443-2 |ref=第二氷川丸の航跡}}
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| issue = 1
* {{Cite book|和書 |author=郵船OB氷川丸研究会 |title=氷川丸とその時代 |publisher=海文堂出版 |date=2008 |ISBN=978-4-303-63445-2}}
| pages = 109-113
*『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 下巻』日本郵船、1971年
| publisher = 日本マリンエンジニアリング学会
| ___location =
| date = 2018-1
| language = 日本語
| url = https://doi.org/10.5988/jime.53.109
| jstor =
| issn = 1346-1427
| doi = 10.5988/jime.53.109
| id =
| naid = 130006496616
| accessdate = 2020-4-1}}
* {{Cite book|和書|author=大浦庸生|coauthors=|year=1993|month=3|title=飢餓の島メレヨンからの生還|publisher=新風書房|isbn=4-88269-211-2|ref=飢餓の島}}
* {{Cite journal|和書
| author = 竹田太樹
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| title = 氷川丸 (<シリーズ>日本の保存船)
| journal = らん:纜
| volume = 28
| issue =
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| publisher = 関西造船協会
| ___location =
| date = 1995-7
| language =
| url = https://doi.org/10.14856/ran.28.0_34
| jstor =
| issn = 0916-0981
| doi = 10.14856/ran.28.0_34
| id =
| naid = 110003866404
| accessdate = 2020-4-1}}
* <!--フクイ2001-->{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|year=2001|month=4|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本特設艦船物語|chapter=|volume=第11巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0998-0|ref=福井著作11}}
* {{Cite book|和書|author=三神國隆|year=2005|month=1|origyear=2001|title=海軍病院船はなぜ沈められたか <small>第二氷川丸の航跡</small>|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2443-2|ref=第二氷川丸の航跡}}
* {{Cite book|和書|author=三菱重工業株式会社横浜製作所|chapter=第3話 貨客船「氷川丸」|title=20話でつづる名船の生涯|publisher=三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課|year=2013|month=8|origyear=|ISBN=|ref=三菱、20話}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Hikawamaru&cat}}
* [[氷川神社]]
* [[オプテンノール (船)]] - [[オランダ]]の病院船で、日本軍が拘束・接収後、「天応丸」と改名。続いて本船にちなんで「第二氷川丸」と改称。
* [[日昌丸]] - 本船以外で唯一残存した大型外航貨客船。
* [[日本丸 (初代)]]
* [[平安丸]] - 氷川丸の姉妹船
* [[日本郵船歴史博物館]] - 近隣に所在する日本郵船の企業博物館。氷川丸とのセット入館券も発売されている。
 
== 外部リンク ==
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* {{国指定文化財等データベース|201|00011742|氷川丸}}
* {{文化遺産オンライン|389361|氷川丸}}
* [httphttps://www.nyk.com/ 日本郵船] - 氷川丸の現在の所有組織
** [http://www.nyk.com/news/2007/0130_01.htm ニュースリリース:今後の「氷川丸」について(2007年1月30日)]
* [https://www.kurakurakurarin.com/entry/2019/04/19/123039 姉妹船、氷川丸と平安丸の比較について]
* [http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/hikawamaru.htm 1/700戦時輸送船模型集:氷川丸] - 岩重多四郎による戦時状態の再現模型
* {{Cite web|和書 |title=氷川丸 |url=http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/370/370_002.htm |publisher=大日本帝国海軍特設艦船データベース |accessdate=2023-10-24}}
* [http://jpnships.g.dgdg.jp/senreki01/000298.htm 氷川丸]
* [http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/370/370_002.htm 氷川丸]
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひかわまる}}
[[Category:日本の貨客船]]
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[[Category:横浜市の観光地]]
[[Category:横浜市の重要文化財]]
[[Category:日本国認定近代化産業遺産]]
[[Category:ふね遺産]]
[[Category:日本の博物館船]]
354 ⟶ 391行目:
[[Category:横浜船渠建造の船舶]]
[[Category:太平洋の歴史]]
[[Category:横浜市中区の博物館]]