「ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官)」の版間の差分
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{{Infobox 共和政ローマ
|人名= ガイウス・クラウディウス・プルケル
|ラテン語表記=C. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher{{sfn|MRR1|p=397}} |画像=
|見出し=
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|出身階級=[[パトリキ]]
|氏族名=[[クラウディウス氏族]]
|家族名=プルケル
|官職=[[アウグル]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前195年]]-167年)</span><br>外人担当補充[[プラエトル|法務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前
|指揮戦争=対イストリア戦争<br>対
}}
'''ガイウス・クラウディウス・プルケル'''(
==経歴==
[[紀元前195年]]、[[アウグル]]に就任している{{sfn|MRR1|p=342}}。
[[紀元前180年]]、外国人担当[[プラエトル]]のティベリウス・ミヌキウス・モッリクルスが早期に死去し、補充プラエトルに選ばれ、ローマ市で起きていた毒殺事件の調査をした{{sfn|MRR1|p=388}}。
[[紀元前177年]]、コンスルに選出され、[[イストリア半島]]に遠征、アエプロ王を降伏させると、更に[[リグーリア州|リグリア]]の反乱を鎮圧して[[凱旋式]]を挙行し{{sfn|MRR1|pp=397-398}}、「同盟市に関するクラウディウス法(Lex Claudia de sociis、[[紀元前189年]]のケンスス([[国勢調査]])以降[[ローマ]]市に移住した[[ラテン人]]と同盟市市民に、11月までに帰国するよう定めた法)を成立させた{{sfn|Rotondi|p=280}}。そして選挙を主宰すると、[[モデナ|ムティナ]]からリグリア人を追い払うため[[ガリア]]へ行き{{sfn|MRR1|p=398}}、翌年も[[インペリウム]]を延長され、ムティナを奪還してリグリア人の反乱を鎮圧した{{sfn|MRR1|p=401}}。
[[紀元前171年]]、[[プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前171年の執政官)]]配下の[[トリブヌス・ミリトゥム]]として、[[ボイオーティア]]のハリアルトゥスを包囲し、プラエトルのガイウス・ルクレティウス・ガッルスに引き継いだ{{sfn|MRR1|p=417}}。
[[紀元前169年]]、執政官時代の同僚[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]と共に[[ケンソル]]に選ばれ、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年の執政官)]]を[[プリンケプス]]・セナトゥス(元老院第一人者)に指名したが、議員リストや[[エクィテス]]の審査を厳しく行ったため、[[護民官]]の一人から訴えられ、グラックスのお陰で僅差で無罪となった{{sfn|MRR1|p=424}}。[[ティトゥス・リウィウス]]によると、[[解放奴隷]]をどの[[トリブス]](選挙区)に登録するかが問題となっていたが、プルケルとグラックスの間で妥協点を見いだし、都市トリブスの一つに全員登録することが決定され、[[元老院 (ローマ)|元老院]]で二人に感謝する決議が行われたという<ref>リウィウス『[[ローマ建国史]]』45.15</ref>。
[[紀元前167年]]、[[アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクス]]、[[クィントゥス・ファビウス・ラベオ]]、[[クィントゥス・マルキウス・ピリップス (紀元前186年の執政官)]]、[[ガイウス・リキニウス・クラッスス]]、[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前162年の補充執政官)]]ら執政官経験者と共に、[[ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス]]の[[マケドニア王国|マケドニア]]再編を補佐する十人委員会の一人となり、アヘノバルブスと共に[[アカイア同盟]]へ赴き、指導者をローマ市へ召喚した{{sfn|MRR1|p=435}}。同年死去し、後継アウグルに[[ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前150年の執政官)]]が選ばれている{{sfn|MRR1|p=436}}。
==家族==
*父:[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)]]
*兄弟:[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)]]
*兄弟:[[プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官)]]
==出典==
{{reflist|20em}}
==参考文献==
* {{Cite book|洋書|ref={{sfnref|Rotondi}}|author=Giovanni Rotondi|title=Leges publicae populi romani| publisher=Società Editrice Libraria| year=1912}}
* {{Cite book|ref={{sfnref|MRR1}}|author=T. R. S. Broughton|authorlink=:en:Thomas_Robert_Shannon_Broughton|title=The Magistrates of the Roman Republic Vol.1|publisher=American Philological Association |year=1951}}
==関連項目==
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[共和政ローマ監察官一覧]]
*[[共和政ローマ鳥卜官一覧]]
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{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]|years=''同僚:[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル|ティベリウス・センプロニウス・グラックス]] I<br>
''[[紀元前177年]]}}
{{s-aft|after=[[グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス]]<br />[[クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌス]]}}
{{s-bef|before=[[クィントゥス・フルウィウス・フラックス (紀元前179年の執政官)|クィントゥス・フルウィウス・フラックス]]<br/>[[マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)|マルクス・フルウィウス・ノビリオル]]<br />[[紀元前174年]] '''LI'''}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ監察官一覧|監察官]]|years=''同僚:[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル|ティベリウス・センプロニウス・グラックス]]''<br />[[紀元前169年]] '''LII '''}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらうていうす ふるける かいうす}}
[[
[[
[[
[[Category:アウグル]]
[[category:クラウディウス氏族|ふるける かいうす]]▼
[[Category:凱旋式]]
[[category:紀元前167年没]]▼
[[Category:紀元前2世紀生]]
[[Category:生年不明]]
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