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{{Infobox 学者
|名前=永井 道明
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|誕生名=
|生年月日={{生年月日と年齢|1869|01|30|no}}
|生誕地={{
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1869|01|30|1950|12|13}}
|死没地={{
|死因=[[老衰]]{{sfn|野口|1951|p=10}}
|居住={{JPN}}東京都豊島区駒込{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}
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|主な指導学生=
|学位=
|称号=[[正五位]]<ref name=NagaiMichiaki_Sei_05_I>[{{NDLDC|2954462/3}} 「官報 1920年06月02日」「叙任及辭令」 「◎大正九年六月一日」「叙正五位 従五位勲五等 永井道明」- 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref>
|特筆すべき概念=国民体育論
|主な業績=学校体操教授要目の制定{{sfn|頼住|2007|p=377}}
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|影響を与えた人物=
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|主な受賞歴=[[
|署名=
|公式サイト=
|脚注=
}}
'''永井 道明'''(ながい どうめい
[[体操#スウェーデン体操|スウェーデン体操]]を軸とした『学校体操教授要目』の制定に尽力することで[[教科]]としての[[体操]]の確立と発展に寄与し、[[体育]]教師の地位向上に貢献したことから、日本の体操の父と称される{{sfn|頼住|2007|p=377}}。また[[長方形]]の[[コート (スポーツ)|コート]]で行う[[ドッジボール]]を日本に伝え、日本独自のルールを取り入れた人物でもある{{sfn|小久保|2016|pp=29-30}}。
道明が取りまとめた『学校体操教授要目』は「学校体育指導要綱」を経て「[[学習指導要領]]体育編」へとつながっていく{{sfn|坂入|1979|pp=648-650}}。また道明が普及させた[[規律 (軍事)|規律]]・[[訓練]]的な[[身体]]と精神性は、学校体育の現場で、整列・号令・姿勢・統一的な動きなどの形で[[現代]]の日本に残存している{{sfn|清水|1996|pp=144-145}}。▼
▲道明が取りまとめた『学校体操教授要目』は「学校体育指導要綱」を経て「[[学習指導要領]]体育編」へとつながっていく{{sfn|坂入|1979|pp=648-650}}。また道明が普及させた[[規律 (軍事)|規律]]・[[訓練]]的な[[身体]]と精神性は、学校体育の現場で、整列・号令・姿勢・統一的な動きなどの形で
== 経歴 ==
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明治元年12月18日(グレゴリオ暦:1869年1月30日)、[[常陸国]][[茨城郡]][[水戸城|水戸城下]]の下市蔵前(現・[[茨城県]][[水戸市]]城東<ref name="kcm"/>)にて永井道敏の次男として出生した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=15, 18, 91}}。永井家は[[水戸藩]][[藩士|士]]であり、祖父・政介と父・道敏は[[藩校]]・[[弘道館]]の[[師範]]を務めていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=15, 91}}。政介は[[藤田東湖]]と[[いとこ]]の関係であり、[[武道]]の達人であった縁から[[吉田松陰]]が訪ねて来てしばらく自宅に滞在させていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=15-16}}。姉の夫は水戸藩士[[吉成信貞|吉成又右衛門]]の孫慎之允である{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=18, 91}}。こうした「名門」の家柄ながら、道明は兄弟姉妹が10人いたため裕福な生活を送ることはできず、幼少期は虚弱体質であったという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=15}}。
[[1876年]](明治9年)、下市小学校(現・水戸市立浜田小学校<ref>{{
下市小を卒業した後は、茨城中学校(現・[[茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校|茨城県立水戸第一高等学校]])へ進学した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=18-19}}。自宅から茨城中までは[[坂道]]を含めて約1里(≒3.9 [[キロメートル|km]])ほどあり、これを全速力で駆け抜けて学友や先生を追い越すのが楽しみであり、そうしているうちに心身が鍛錬されたという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=19}}。茨城中では[[ジョージ・アダムス・リーランド]]に師事した星野久成{{#tag:ref|星野久成は[[体操伝習所]]の第2回卒業生で、当時の茨城県の体操界の中心人物であった{{sfn|頼住|2007|p=378}}{{sfn|大場|1988|p=1}}。|group="注"}}が担当した学校体操に傾倒し、[[鉄亜鈴|アレイ]]や[[棍棒]]を自作して自宅でも鍛錬に励んだ{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=20-21}}。その甲斐あって、体操の成績は100点満点で、[[運動会]]では優等賞を獲得した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=20}}。他方で[[1884年]](明治17年)に[[蹴球]]に熱中するあまり[[平行棒]]で頭部を強打し6針縫う[[怪我]]を負い、[[後遺症]]の[[疼痛]]に[[1897年]](明治30年)頃まで悩まされることになった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=21-22}}。
藝文雑誌という校内の文学雑誌にも投稿し、文学にも関心を持っていたとされる<ref>国立国会図書館デジタルコレクション『水戸中学 : 附・茨城県学事年表』</ref>。
=== 茨城師範から高師へ(1886-1893) ===
[[1886年]](明治19年)9月に茨城中を卒業した道明は、家計の事情で上京することがかなわなかったため、[[茨城師範学校]](現・[[茨城大学]]教育学部)へ進学した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=22, 91}}。ここで道明は[[兵式体操]]と出会って心身を鍛錬し、その成績が優秀であったことから運動会や[[卒業式]]での兵式体操の指揮号令を担当した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=23}}。1年生を途中で[[飛び級]]したことから、[[1889年]](明治22年)春に茨城県尋常師範学校(茨城師範学校から改称)を卒業し、同附属小学校(現・[[茨城大学教育学部附属小学校]])[[訓導]]に着任した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=23, 91}}。教員生活は1年で終わり、[[1890年]](明治23年)に高等師範学校(高師、後の[[東京高等師範学校]]、現・[[筑波大学]])博物科に進学した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=23}}。
道明が進学した当時の高師は、募集する学科は年に1つだけであり、受験生が自由に希望学科を選ぶことはできなかった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=23}}{{#tag:ref|そのため進んで博物科を選んだわけではなかったが、[[博物学]]の素養が不足していた道明にとっては、結果的に後の体育の基礎となったのでよかったと回想している{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=23-24}}。|group="注"}}。入学早々、道明は[[テニス]]にはまり、1学期の間に靴を2足も破るほどで[[教員|教師]]の称賛を集めたが、あまりにも熱中しすぎたため、自制のために2学期からはそれほど得意ではなかった[[鉄棒]]に転向した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=24-25}}。茨城師範時代から練習していた[[体操競技|器械体操]]の蹴上(けあがり)の習得には3年もかかり、この経験が指導者になった際に役立ったという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=25}}。不得意ながらも日々鉄棒に向かう道明を、学生仲間は「鉄竿上人」と[[あだ名]]した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=25}}。また、高師では普通体操を[[坪井玄道]]から学んだが、すでに水戸で星野久成に学んでいた道明は坪井の癖のある動作{{#tag:ref|この表現には普通体操や遊戯を主張した坪井に対する、スウェーデン体操派の道明による辛口批評が含まれている{{sfn|清水|1996|p=125}}。|group="注"}}を見抜いていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=25}}。
=== 助教諭から体操校長へ(1893-1905) ===
[[1893年]](明治26年)3月に高師を卒業した道明は、4月より高師附属学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])の[[助教諭]]兼訓導に着任した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=26, 91}}。この間、[[鳩山一郎]]が生徒として入学し、指導している{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=81}}。博物科出身でありながら博物学の授業を受け持つのは稀で、ほとんど「体操の先生」として奉職した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=26}}。着任早々、6月から[[歩兵第1連隊]]に[[入営]]して6週間の兵役を務め、教員復帰後は兵式教練の教官も務めた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=26, 91}}。この年、道明は政子と[[結婚]]している{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=91}}。なお道明卒業直後に[[嘉納治五郎]]が高師の校長に就任し、志願者が希望学科を選べるようにしたほか、道明が受けた[[森有礼]]以来の軍隊式教育色を排除するなどの改革を推進した{{sfn|清水|1996|pp=137-139}}。
[[1896年]](明治29年)[[4月2日]]、創立したばかりの奈良県尋常中学校畝傍分校(現・[[奈良県立畝傍高等学校]])に赴任し、[[教諭]]兼舎監となった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=28, 91}}。その年の[[9月30日]]には全校生徒を引き連れて[[金剛山 (金剛山地)|金剛山]]への登山に出掛けたが、麓の名柄(現・[[御所市]]名柄)に着いた時点で生徒が疲労困憊しているのを発見した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=28}}。道明は生徒が[[朝食]]に[[茶粥]]しか食べていないことを知り、保護者に朝食と[[弁当]]の栄養改善を訴えた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=28-29}}。畝傍分校が畝傍中学校に昇格した[[1899年]](明治32年)には初代校長に就任し、引き続き舎監も務めた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=28, 91}}。道明校長は[[修身]]と体操の教師を務め、毎月[[遠足]]や[[登山]]を実施し、[[休み時間#放課後|放課後]]には教師らとテニス、生徒と器械体操や[[野球]]をするという生活を送った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=28-29}}。そんなところから、自然発生的に「体操校長」と呼ばれ親しまれた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=28}}。
[[1900年]](明治33年)、[[兵庫県]]の[[視学制度|視学官]]で高師の先輩であった[[小森慶助]]の招きに応じて{{#tag:ref|創立したばかりの畝傍中が気がかりであった道明は、「畝傍中で不祥事が発生した場合は直ちに畝傍中に復帰させること」、「姫路中の更生ができなければ転任で済ませず、退任させること」の2点を条件として姫路中校長の任を引き受けた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=30-31}}。|group="注"}}兵庫県姫路中学校(現・[[兵庫県立姫路西高等学校]])に転任し、校長に就任した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=30}}。この間、姫路中に[[和辻哲郎]]が入学{{#tag:ref|道明は小森慶助の後任として、和辻の入学から1、2か月後に着任し、和辻の卒業年の12月までその任にあった{{sfn|和辻|1962|p=279, 281, 333}}。和辻は道明の月給が百円であるという噂を耳にしていた<ref name="wtj">{{
[[1905年]](明治38年)春には[[
=== 欧米留学(1905-1909) ===
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約1年半のボストン体操師範での留学を終える{{#tag:ref|同校の卒業生名簿には"Michiakira Nagai"として掲載されており、正規の卒業生扱いとなっている{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=37}}。このため直接面識のない[[アメリカ人]]から女性と勘違いされ、"[[ミス (敬称)|Miss]]"の敬称を付けて手紙が届くことがあった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=37}}。|group="注"}}と、[[シカゴ]]、[[セントルイス]]、[[ピッツバーグ]]、[[ワシントンD.C.]]、ニューヨークなど主要都市を歴訪し、[[1907年]](明治40年)7月に[[ボストン]]から出航、[[イギリス]]・[[リヴァプール]]に上陸、[[ロンドン]]の[[シェパーズ・ブッシュ]]に宿を取ってイギリス国内を視察した後、同年8月に[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]に入った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=37}}。道明は同地で国立中央体操練習所{{#tag:ref|{{lang-sv|Gymnastiska Centralinstitutet}}{{sfn|頼住|2007|p=379}}、現・スウェーデンスポーツ健康科学大学({{lang-sv|[[:sv:Gymnastik- och idrottshögskolan|Gymnastik- och idrottshögskolan]]}})。スウェーデン体操の創始者・リングが設立した体操指導者養成施設で、道明留学時の校長はリング主義の代表的な人物であった{{sfn|頼住|2007|p=379}}。|group="注"}}に入学した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=37}}。
スウェーデンでの生活は、午前中を中央体操練習所で教育的体操と医療体操の実地訓練、軍隊体操([[剣術]]などの武術)や女子体操の見学に充て、午後は体育団体等の見学や[[スキー]]・[[スケート]]の練習を行い、夜は現地の軍人との交流や[[芝居]]の鑑賞などをするというものであった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=37-38}}。ここで[[白夜]]・[[極夜]]に驚嘆したり、時には[[中尉]]・[[少尉]]らと飲み明かしたりする一方で、スウェーデン体操の神髄、体操指導者のあるべき姿、[[ウィンタースポーツ]]を学んだ{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=38-41}}。[[ルンド大学]]やスウェーデン体操の創始者・{{仮リンク|ペール・ヘンリック・リング|en|Pehr Henrik Ling|sv|Pehr Henrik Ling}}の生まれた地も視察した{{sfn|西尾・油野|1995|p=209}}。またスウェーデン滞在中の[[1908年]](明治41年)に[[1908年ロンドンオリンピック|第4回オリンピック]]がイギリス・ロンドンで開かれることを知り、急きょ7月に渡英して観戦{{#tag:ref|[[ロシア帝国|ロシア]]などの視察を割愛してオリンピックに駆けつけた{{sfn|丸屋|2014|p=237}}。観戦中に、日本はオリンピックに出場すべきか、全国民普通体育(≒[[生涯スポーツ]])と選手特殊体育(≒競技スポーツ)を並立させるべきかを思案したという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=44}}。その結論は、「全国民体育の一大国」であるドイツが[[1916年ベルリンオリンピック]](後に開催中止が決定)を誘致した一件をもって、並立すべしとなった{{sfn|日本スポーツ社会学会広報委員会|2006|p=23}}。|group="注"}}、8月に[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]に渡って[[ベルリン]]{{#tag:ref|道明はベルリンの小学校で偶然ドッジボールを見かけ、日本に持ち帰った{{sfn|小久保|2016|p=32}}。|group="注"}}や[[ウィーン]]など主要都市を歴訪、[[ベルギー]]経由で10月にロンドンに戻って冬季競技を観戦した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=42-44}}。オリンピック観戦を終えた道明は日本へ[[行李]]を先に送り、[[フランス]]、[[スイス]]、[[イタリア]]、[[コルシカ島]]、[[ギリシャ]]を巡り、1908年(明治41年)[[12月24日]]に[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の[[ポートサイド]]から帰国の途に就いた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=44}}。[[1909年]](明治42年)[[1月27日]]、[[神戸港]]に上陸、[[2月4日]]に東京入りした{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=44}}。
道明の欧米留学はスウェーデン体操の調査研究が主目的であったが、公園や運動場などの体育施設や、都市だけでなく地方にまで足を延ばし現地の運動会を視察するなど、社会体育の状況の実態調査も行っていた{{sfn|西尾・油野|1995|p=209}}。これが後の「国民体育論」につながっていくのである{{sfn|西尾・油野|1995|p=209}}。
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一方、本務である東京高師の教授として、「雨休み」の慣習{{#tag:ref|当時、高師の学生と教師は雨が降ると[[校庭]]、ひどいときには学校にさえ来ないという慣習があり、自身の学生時代からの変わりように唖然としたという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=56}}。|group="注"}}の廃止、4年間を通した体操教育の実施{{#tag:ref|道明の東京高師在籍時には完全実施に至らず、1913年(大正2年)の卒業生のみ4年間の体操教育を受けた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=56}}。|group="注"}}、独立した体育科設置に奔走し、東京女高師では女子体育にも関与した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=56-57}}。道明は女子校であるボストン体操師範に留学していたものの、実際に女子に体育指導をするのは初めての経験で、[[井口阿くり]]のきびきびとした自信ある態度での指導に感服したという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=57}}。また東京女高師では部下の[[二階堂トクヨ]]{{#tag:ref|道明は二階堂を次の女子体育を担う者として期待して送り出した{{sfn|西村|1983|p=3}}。二階堂は道明に感謝しており、留学中に手紙をやり取りしている{{sfn|西村|1983|p=108}}。|group="注"}}を文部省留学生に推薦し、留学先として[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]のキングスフィールド体操専門学校を指定した{{sfn|西村|1983|pp=1-3}}。
この間、道明は1910年(明治43年)に、学生スポーツの技術主義・[[勝利至上主義]]や応援する者の退廃を憂慮する論文「運動競技会一洗の希望」を発表した{{sfn|西尾・油野|1995|p=208}}。同年[[12月10日]]、[[従六位]]に叙されている{{sfn|中野|1997|p=319}}。[[1911年]](明治44年)には『文明的国民用家庭体操』という書を出版、その評判は当時[[皇太子]]であった[[大正天皇]]の耳にまで届き、翌[[1912年]](明治45年)[[3月14日]]に道明は[[東宮御所]]で大正天皇に家庭体操を披露した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=58-59}}。また1911年(明治44年)に嘉納治五郎が中心になって設立した大日本体育協会(現・[[日本スポーツ協会]])では東京高師体育部長主任として役員を務め、各種体育競技の普及発達を図ることや、[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]への日本の参加議決などに関与した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=65-67}}。金栗四三がストックホルムへ旅立つ際には壮行団の一員として寄宿舎から[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]]まで見送り、[[皇居]]の[[二重橋]]前で「天皇陛下の御稜威によって我が金栗選手に勝利の栄冠を得さしめたまえ」と絶叫し、[[万歳]]三唱した{{sfn|長谷川|2013|p=93}}。
以上の経過を見ると道明の教授生活は順風満帆であるかに見えるが、スウェーデン体操派の道明は、普通体操・遊戯(スポーツ)派の嘉納治五郎・[[可児徳]]らと対立していた{{sfn|清水|1996|p=127}}。特に1913年(大正2年)[[1月8日]]・[[1月9日|9日]]に道明が[[鳥取師範学校]](現・[[鳥取大学]])を視察した際に同校教師の三橋喜久雄を見い出し、東京高師の教授に[[スカウト (勧誘)|スカウト]]、翌[[1914年]](大正3年)[[12月26日]]付で三橋が高師助教授兼附属小学校訓導に就任すると、東京高師出身者ではない三橋を引き入れたことに対して可児を筆頭に普通体操・遊戯(スポーツ)派は猛反発{{#tag:ref|ただし、可児は日本体育会体操練習所(現・[[日本体育大学]])の卒業生であり、東京高師の出身ではない{{sfn|今村|1950|p=12}}。なお、可児は道明が東京高師の教授に着任した時点では、自身が10年も東京高師で助教授をしていたにもかかわらず、後から来た道明が教授になったことに対して特に不満を抱くことはなく、むしろ東京高師の教員層が厚くなることを喜んだ{{sfn|今村|1950|p=13}}。|group="注"}}した{{sfn|清水|1996|pp=141-142}}。この争いは道明と嘉納の体育観の相違に端を発し、次第に学閥・派閥抗争へと発展、「実に語るも忌まわしき争闘と波乱」と表現されるほど壮絶なものであった{{sfn|入江|1953|p=54}}。ただ、両派とも「体育によって国家の伸長を図る人物の陶冶を目指す」という根本的な意識は共通していたのである{{sfn|入江|1993|p=54}}。東京女高師では、道明自らが期待して留学に送り出した二階堂トクヨが、道明とは違うものをスウェーデン体操から学び取って帰国したため対立することとなり、[[体操着]]も道明が担当するクラスでは[[ブルマー]]、二階堂が担当するクラスでは[[チュニック]]と差が出ていた{{sfn|西村|1983|p=184}}。道明と二階堂の対立中に東京女高師で教えた生徒に[[戸倉ハル]]がいる{{sfn|桐生 1981|p=242}}。
[[1920年]](大正9年)[[6月1日]]には[[正五位]]に叙されている<ref name=NagaiMichiaki_Sei_05_I/>。
[[第一次世界大戦]]後の欧米体育の視察のため<ref name="yu1920"/>{{sfn|野口|1951|p=12}}、[[1920年]](大正9年)6月{{sfn|頼住|2007|p=381}}、道明は再び欧米への外遊に出た{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=75}}。この頃、道明は日本の学校体育界の大長老的存在であり{{sfn|大場|1988|p=2}}、東京高師から視察にかかる費用を道明に支給する[[予算]]が組まれていたが、可児の反対で執行できず、道明は東京高師を[[休職]]して自費で出発せざるを得なくなった<ref name="yu1920"/>。これに対して高師の学生は、可児が受け持つ「競技科」の授業を文科・理科の者は全員でボイコットし、体育科の42人は授業を自習とする案を校長の[[三宅米吉]]に提案、三宅は2か月間の自習を認めたという<ref name="yu1920"/>。道明は日本から[[太平洋]]を横断してアメリカに入り、ニューヨークで嘉納治五郎一行と合流、[[大西洋]]を渡りイギリス・ロンドンを経由してベルギー入りし、[[1920年アントワープオリンピック|アントワープオリンピック]]を観戦した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=75-76}}。オリンピック観戦を終えた後は単身オランダを訪問し、嘉納と再度合流して[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]のベルリン、[[ドレスデン]]、[[チェコスロバキア]]の[[プラハ]]{{#tag:ref|プラハでは嘉納の随行員として[[チェコスロバキアの大統領]]・[[トマーシュ・マサリク]]と面会している{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。|group="注"}}を巡った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。プラハで嘉納と別れ、ヨーロッパ各国を回って{{#tag:ref|ドイツ、ベルギー、イギリス、[[デンマーク]]、スウェーデン、[[フィンランド]]、[[ノルウェー]]、イギリス、フランス、スイス、イタリアの順で歴訪した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。|group="注"}}イギリスに戻り、[[1921年]](大正10年)1月、アメリカ・ニューヨーク{{#tag:ref|ニューヨークでは{{仮リンク|ホテル・ペンシルバニア|en|Hotel Pennsylvania}}に宿泊したが、そこで前年12月に父・道敏が死去したことを知った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。|group="注"}}へ渡った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。アメリカ中を巡って[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]に至り、[[ハワイ州|ハワイ]]経由で5月に日本へ帰国した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=76}}。
帰国した道明は東京高師・女高師の教員に復帰したが、職階は[[講師]]となった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}。[[1921年]](大正10年)12月、道明は三橋喜久雄と「大日本体育同志会」を立ち上げ、[[1922年]](大正11年)1月には[[機関誌]]『日本体育』を創刊した{{sfn|大場|1988|p=3}}。この頃、東京高師の体育科教員らは「体育学会」を結成しており、機関誌『体育と競技』を発行していた{{sfn|大場|1988|p=3}}。『日本体育』と『体育と競技』は競合関係を続けたが、[[1926年]](大正15年)12月号をもって『日本体育』は休刊、大日本体育同志会は解散した{{sfn|大場|1988|p=3}}。結局、三橋は東京高師の派閥争いの犠牲になる形で離職を余儀なくされ、その後デンマーク体操を学んで普及活動をするが、「学校体操教授要目」を盾に取った文部省の圧力を受けることになる{{sfn|清水|1996|pp=142-143}}。道明は三橋の退職問題もあり{{sfn|清水|1996|p=127}}、1922年(大正11年)に東京高師を退職し、翌[[1923年]](大正12年)3月には東京女高師も退職した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}。道明は自叙伝に「数多の感想もあるが」と記すも派閥争いについては何も書き残していない{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=56}}。道明が派閥争いに敗れたのは、道明が単に「(スウェーデン)体操を採るか競技・遊戯を採るか」という[[教材]]の選択をめぐる相違であると捉えたことであり、「学校体操教授要目」に時代的要求をどう読み込むかという問題を深く洞察できなかったことにある{{sfn|入江|1993|p=61}}。派閥争いに勝利した側の普通体操・遊戯(スポーツ)派も、1920年(大正9年)1月に嘉納が依願退職{{sfn|清水|1996|p=139}}、1921年(大正10年)9月に可児が教授職を下りて講師となった後に1923年(大正12年)4月に退職している{{sfn|今村|1950|p=14}}。こうして道明・三橋・嘉納・可児が去った後の東京高師の体育系教師陣は、大谷武一、二宮文右衛門、宮下丑太郎、[[佐々木等]]、[[野口源三郎]]ら体育を専攻した東京高師出身者のみで占められることになった{{sfn|今村|1950|p=14}}。一方の東京女高師では、道明は主流派で、二階堂トクヨ
=== 本郷中教頭、晩年(1923-1950) ===
東京高師・女高師を去った道明は周囲の勧めもあり、[[松平頼寿|松平賴壽]]が創立したばかりの本郷中学校(現・[[本郷中学校・高等学校]])に[[教頭]]として1923年(大正12年)4月に赴任した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=77, 93}}。教頭とは言え、実質的には校長職を代行しており、「全人教育としての体育」という理想の実現に向け奔走し{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}、後進育成に乗り出した{{sfn|頼住|2007|p=381}}{{sfn|大場|1988|p=2}}。教頭ながら自ら体操科の授業を担当し{{sfn|野口|1951|p=12}}、教頭就任から5年ほどは[[東京府]]内の学校を巡回して学生指導に明け暮れ、東京女高師にも従来通り週2回通っていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=11}}。
[[1932年]](昭和7年)、体育功労者として文部大臣表彰を受けた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=81}}。この時の文部大臣は、高師附属学校時代の教え子である鳩山一郎であり、鳩山から表彰されたことを道明は喜んだ{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=81}}。[[1940年]](昭和15年)10月には[[厚生大臣]]・[[金光庸夫]]から日本初の体育功労者として表彰された{{sfn|頼住|2007|p=381}}。同年、本郷中を退職{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=81, 93}}{{sfn|頼住|2007|p=381}}、およそ半世紀に及ぶ教師生活に終止符を打った{{sfn|頼住|2007|p=381}}。その後、道明の教え子らの寄付で本郷中の隣地に永井体育館{{#tag:ref|[[2019年]](令和元年)現在も本郷中・高の体育館は「永井体育館」を名乗っており、各種式典や集会のほか、日常的に体育や[[部活動]]に使用されている<ref>{{
[[File:Protrait of Michiakira Nagai.jpg|thumb|200px|晩年の永井道明]]
本郷中教頭を辞した道明は自伝の執筆に取り組み2年かけて原稿を完成させたが、刊行はかなわなかった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=3}}。[[1941年]](昭和16年)、[[樺太]]・[[琉球諸島|琉球]]への旅に出た{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}。その翌年の[[1942年]](昭和17年)には[[悪性貧血]]のため東京帝国大学医学部附属医院(現・[[東京大学医学部附属病院]])に入院し、一命を取り留めた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=87, 93}}。[[太平洋戦争]]が激化する中でも道明は[[阿佐谷|阿佐ヶ谷]]の自宅に住み、[[長野県]]に[[疎開]]していた孫に3度面会に赴き、まめに手紙を書き送った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=83}}。面会時には児童に交じって[[乾布摩擦]]に参加し、自ら[[禿頭]]を磨いて子供たちを笑わせたという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=88}}。
[[1945年]](昭和20年)4月の[[東京大空襲]]で戦災に遭い、ついに阿佐ヶ谷を離れ郷里の水戸市に住む姉の家へ移ったが、不運にも同年8月の[[水戸空襲]]で再び戦禍に巻き込まれ、[[水郡線]][[常陸大宮駅]]から4里(≒15.7 km)ほどの[[檜沢村 (茨城県)|檜沢村]](現・常陸大宮市上檜沢)の義兄宅で間借り生活を始めた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=3, 88, 93}}。この戦争で道明は養嗣子を亡くした{{sfn|野口|1951|p=10}}。檜沢で[[終戦]]を迎えた道明は[[戦後]]の食糧難に直面しながらも健康体で、炭焼きを見に山に登ったり、知人を訪ねて家や学校へ徒歩で出かけたりと行動的な生活をしていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=88-89}}。特に孫が[[鷲子山上神社]]へ[[遠足]]に行った際に足を腫らしたというのに、別の日に同じ道中を歩いた道明は何ともなく、「やはり体育家だったのだ」と孫を驚かせたという{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=89}}。
[[1947年]](昭和22年)[[1月1日]]に東京へ戻り、[[駒込 (豊島区)|駒込]]の[[松平頼明 (伯爵)|松平賴明]]邸に身を寄せた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=3, 93}}。ここで自伝の再執筆に取り組んだが、帰京から2年もたたないうちに[[貧血]]を再発してほぼ[[寝たきり]]となった{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=4, 89}}。それでも見舞いに訪れた教え子に体育界の状勢を尋ね、体育雑誌を見せるよう求め、日本の体育を気にかけていた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=11-12}}。[[1950年]](昭和25年)[[12月13日]]午前0時50分、駒込の自宅で逝去した{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}。満81歳という長寿であった{{sfn|大場|1988|p=2}}。[[遺言]]により道明の遺体は[[東京大学]]で[[解剖]]され、[[死因]]は[[老衰]]、脳の血管に多少の硬化性が認められたものの、特に異常はなく、心臓は50代並であることが判明した{{sfn|野口|1951|p=10}}。永井体育館で「体育葬」が行われた{{sfn|野口|1951|p=10}}。道明の残した自伝原稿は、葬儀に寄せられた[[香典]]を利用し、『遺稿 永井道明自叙伝』として体育日本社から出版された{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=4}}。
== 人物 ==
水戸出身者らしく(→[[水戸の三ぽい]]){{sfn|野口|1951|p=12}}、自他共に認める頑固一徹な人物であった{{sfn|大場|1988|p=2}}。このことから人に恨みを買ったり、誤解されたりすることも多かった{{sfn|大場|1988|pp=2-3}}。体操校長として名を馳せた畝傍中・姫路中時代は県立学校の校長にも
道明に呼ばれて東京高師の助教授となった三橋喜久雄は「頑固のようであって、しかも他に耳を傾ける弾力性のある先生」と評し{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=7-8}}、体育学者の今村嘉雄は「頭脳明晰で一徹で、信念には強かったが、政治性に乏しかった」、「闊達縦横にふるまった」と評した{{sfn|今村|1950|p=14}}。東京高師の学生からは慕われていたようで、1920年(大正9年)の欧米外遊の費用が可児徳の反対で支給されなかった際には、学生が可児の授業をボイコットしたり、授業を自習とすることを校長に直訴して認めさせたりしている<ref name="yu1920"/>。教え子の野口源三郎は、1920年(大正9年)の欧米外遊の際に道明がスウェーデン体操に限られた自身の考え方に何か新しいものを加えたいと考えていたことを同乗した船中で聞いており、この外遊を通して嘉納と協調できていれば、さらに中央で活躍できたであろうと述べている{{sfn|野口|1951|p=12}}。
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[[ファイル:Skiing Nagai Domei.png|thumb|スキーをする永井道明(1911年/42歳)]]
道明がスキーを習得したのは単に興味を持っただけでなく、冬を嫌って屋外に出るのを拒む日本人に、寒い冬こそ屋外へ出てできる遊戯・スキーを普及させたいという思いがあったからである{{sfn|中野|1997|p=320}}。要するに国民体育の手段としてスキーを利用しようと考えたのである{{sfn|中野|1997|p=320}}。[[1909年]](明治42年)[[2月27日]]に東京高師で開かれた「帰朝歓迎会」の席で「氷滑り」の話をしたといい、これはスケート・スキーであったとみられる{{sfn|中野|1997|p=319}}。続いて1910年(明治43年)12月、[[井口阿くり]]らの要請で[[秋田県]]で体操講習会を開き、その際に[[手形山スキー場]]などでスキーを実施した{{sfn|中野|1997|p=322}}。このスキー講習は当初から予定されていたものではなく、体操講習会の空き時間を利用して、参加者のうちの数人が恐る恐る[[スキー板]]を履いて雪の上を歩いてみたという程度であった{{sfn|中野|1997|p=321-322}}。翌1911年(明治44年)1月には山形県入りし、[[新庄市|新庄]]や[[赤湯温泉 (山形県)|赤湯]]でスキーを指導し、山形県立新荘中学校(現・[[山形県立新庄北高等学校]]){{#tag:ref|当時の校長・佐藤孫六は高師博物科の卒業生で、道明と同級生であった{{sfn|中野|1997|p=322}}。|group="注"}}ではスキーが教育に取り入れられた{{sfn|中野|1997|pp=322-323}}。この時道明は負傷している{{sfn|中野|1997|p=321}}。[[1月22日|同月22日]]、道明は[[時事新報]]に寄稿し、「冬の遊戯」と題してスウェーデンの[[そり]]・スキー・スケート事情を紹介し、レルヒによる指導より先に東京の人々にスキーを伝えた{{sfn|中野|1997|p=321}}。さらに翌1912年(明治45年)1月には[[岩手県]]・[[青森県]]・秋田県・山形県の順に回り、スキーを行い、青森でのスキー講習は[[東奥日報]]で写真付きで報じられた{{sfn|中野|1997|p=322}}。同年のスキー講習は、スキーの奨励・普及が主目的で、体操指導が従であった{{sfn|中野|1997|p=323}}。しかし、道明が伝えた[[ストック (スキー)|ストック]]を2本用いる「二本杖スキー」は[[東北地方]]に普及せず、第13師団が講習で広めた「一本杖スキー」が浸透した{{sfn|中野|1997|p=325}}。
その後も本郷中学校にスキー部を創設し、毎年12月に[[妙高高原]]の[[池の平温泉スキー場|池の平]]で生徒とともにスキーを楽しんだ{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=42}}。
==== サッカーの奨励と野球害毒論 ====
道明は茨城中在学時に蹴球に熱中するあまり、平行棒の下をくぐり損ねて頭部を強打、6針縫う怪我を負った{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=21}}ほどの[[サッカー]]好きであり、姫路中の校長時代には体操の授業で道明自ら生徒にルールを説明し、試合をさせた{{sfn|和辻|1962|p=282}}。しかし生徒の間でサッカーは流行せず、生徒は器械体操に関心を示したので、以来道明は姫路中でサッカーの奨励をぴたりとやめてしまったという{{sfn|和辻|1962|p=282}}。その後、[[1917年]](大正6年)創設の[[東京蹴球団]]の初代団長に就任し<ref>{{
野球に関しては、畝傍中校長時代
道明が取りまとめた『学校体操教授要目』の中では、「フットボール」(サッカー)は「競争を主とする遊戯」の例として挙げられ体操科の授業で採用すべきとした一方、「ベースボール」(野球)については「体操科教授時間外において行うべき諸運動」の末尾から2番目に取り上げている{{sfn|開発社|1913|pp=15-39}}。
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== 永井道明が登場する作品 ==
; [[大河ドラマ]]『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』([[2019年]]、[[日本放送協会|NHK]])<ref name="idt">{{
: 演者は[[杉本哲太]]<ref name="idt"/>。東京高師教授・舎監として登場し、作中では[[肋木]]が道明の[[代名詞]]として描写されている<ref name="idt"/>。生徒への愛情表現としてよく怒り、よく怒鳴る人として表現されている<ref name="mm">{{
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{cite journal|和書|author=今村嘉雄|date=1950-01|title=学校体育に寄與した人々(六)―可兒 德―|journal=学校体育|publisher=日本体育社|volume=3|issue=1|page=12-15|naid=40000490225|ref={{sfnref|今村|1950}}}}
* {{
* {{cite journal|和書|author=小野瀬剛志|title=野球害毒論争(1911年)に見る野球イデオロギー形成の一側面―「日本的スポーツ観」再考試論―|journal=スポーツ史研究|publisher=スポーツ史学会|issue=15|page=61-71|year=2002|doi=10.19010/jjshjb.15.0_61|naid=110002942018|ref={{sfnref|小野瀬|2002}}}}
* {{cite journal|和書|author=唐木国彦・前川峯雄・丹下保夫・弘中栄子|date=1967-07-05|title=永井道明の教育思想―特に現代からみた physical Training 論について|journal=体育学研究|publisher=[[日本体育学会]]|volume=11|issue=5|page=12|naid=110001939062|ref={{sfnref|唐木ほか|1967}}}}
* {{
* {{cite journal|和書|author=木下秀明|date=2006|title=「撃剣」「剣術」から「剣道」への移行過程に関する検討:永井道明の場合|journal=体育学研究|publisher=日本体育学会|volume=51|issue=2|page=151-163|naid=130004489509|ref={{sfnref|木下|2006}}}}
* {{cite journal|和書|author=木下秀明|date=2010-06-23|title=20世紀初頭日本における中等学校体操に対する軍隊体操の影響:明治38年「体操遊戯取調報告」から大正2年「学校体操教授要目」まで|journal=体育学研究|publisher=日本体育学会|volume=55|issue=2|page=409-440|naid=130004489611|ref={{sfnref|木下|2010}}}}
* {{
* {{
* {{cite journal|和書|author=小久保圭一郎|date=2016|title=わが国発祥球戯としてのドッジボール〜永井道明と大谷武一の貢献〜|journal=保育の実践と研究|publisher=スペース新社保育研究室|volume=21|issue=3|page=29-39|naid=40021026199|ref={{sfnref|小久保|2016}}}}
* {{cite journal|和書|author=坂入明|date=1979-12-01|title=戦後初期の学校体育改革について―「学校体育指導要綱」の成立過程を中心として―|journal=一橋論叢|publisher=[[一橋大学]]|volume=82|issue=6|page=648-666|naid=110007639368|ref={{sfnref|坂入|1979}}}}
* {{cite journal|和書|author=清水諭|date=1996-09|title=体操する身体―誰がモデルとなる身体を作ったのか/永井道明と嘉納治五郎の身体の格闘―|journal=年報筑波社会学|publisher=筑波社会学会|issue=8|page=119-150|naid=110000527968|ref={{sfnref|清水|1996}}}}
* {{
* {{
* {{
** {{Cite book|和書|author=大場一義|chapter=解説|editor=永井道明先生後援会|title=遺稿 永井道明自叙伝|publisher=大空社|series=伝記叢書 36|date=1988-03-17|
* {{cite journal|和書|author=中野浩一|date=1997-01-10|title=スキー黎明期における永井道明によるスキー普及活動について|journal=体育学研究|publisher=日本体育学会|volume=41|issue=5|page=318-327|naid=110001918470|ref={{sfnref|中野|1997}}}}
* {{cite journal|和書|author=西尾達雄・油野利博|date=1995-11-10|title=永井道明の国民体育論|journal=体育学研究|publisher=日本体育学会|volume=40|issue=4|page=205-220|naid=110001918418|ref={{sfnref|西尾・油野|1995}}}}
* {{
* {{cite journal|和書|author=野口源三郎|date=1951-03|title=永井道明先生|journal=体育の科学|publisher=杏林書院|volume=1|issue=4|page=10-12|naid=40002276173|ref={{sfnref|野口|1951}}}}
* {{
* {{cite
* {{Cite book|和書|author=丸屋武士|title=嘉納治五郎と安部磯雄―近代スポーツと教育の先駆者|publisher=[[明石書店]]|date=2014-09-30|isbn=978-4-7503-4070-8|page=307|ref={{sfnref|丸屋|2014}}}}
* {{cite journal|和書|author=頼住一昭|date=2007-05|title=体育人と身体感 21 永井 道明(1868〜1950)|journal=体育の科学|publisher=杏林書院|volume=57|issue=5|page=377-381|naid=40015447887|ref={{sfnref|頼住|2007}}}}
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{Cite book|和書|title=日本スポーツ社会学会会報 Vol.43 Sport Sociology|publisher=日本スポーツ社会学会広報委員会|date=2006-07|page=56|url=https://jsss.jp/bulletin/bulletin_43.pdf|ncid=AA11518301|ref={{sfnref|日本スポーツ社会学会広報委員会|2006}}}}
== 関連項目 ==
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{{デフォルトソート:なかい とうめい}}
[[Category:19世紀日本の体育
[[Category:20世紀日本の体育教育者]]
[[Category:19世紀日本の体育学者]]
[[Category:20世紀日本の体育学者]]
[[Category:日本の体操競技指導者]]
[[Category:スキーに関する人物]]
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[[Category:日本スポーツ協会の人物]]
[[Category:日本サッカー協会の人物]]
[[Category:東京
[[Category:
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:茨城県立水戸第一高等学校出身の人物]]
[[Category:茨城大学出身の人物]]
[[Category:
[[Category:東京高等師範学校出身の人物]]
[[Category:ウェルズリー大学出身の人物]]
[[Category:
[[Category:水戸藩の人物]]
[[Category:従六位受位者]]
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