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{{No footnotes|date=2020-04-18}}
'''カヤカベ教'''(かやかべきょう)は旧[[薩摩藩]]の'''[[隠れ念仏]]'''信仰から派生した[[密宗]]の一派の俗称。[[鹿児島県]][[霧島市]]の一部(旧[[牧園町]]、[[横川町]])に分布する。
 
== 牛乳を飲まない小学生 ==
通称「カヤカベ教」といわれる秘密の信仰集団が世間の注目を浴びたのは[[第二次世界大戦後]]のことである。調査を行った元[[龍谷大学]]学長、[[千葉乗隆]]が[[五木寛之]]に語ったところによると、鹿児島県旧牧園町の小学校で給食の牛乳をどうしても飲まない児童がいた。不思議に思った担任の教師が家庭に連絡すると、保護者は自分たちの[[宗派]]では、日によっては牛乳を飲まない習わしであると答え、[[日本]]では珍しい食物[[タブー]]を持つ集団の存在が浮かび上がったという。これを機に[[1964年]](昭和39年)、龍谷大学宗教調査班が、[[鹿児島大学]]、[[京都女子大学]]などの協力を得て、調査に乗り出した<ref>五木寛之「隠れ念仏と隠し念仏」講談社</ref>。
通称
「カヤカベ教」といわれる秘密の信仰集団が世間の注目を浴びたの
は戦後のことである。
調査を行った元[[龍谷大学]]学長、[[千葉乗隆]]が[[五木寛之]]に語ったところ
によると、鹿児島県旧[[牧園町]]の小学校で給食の牛乳をどうしても飲まない児童がいた。
不思議に思った担任の教師が家庭に連絡すると、父兄は自分たちの宗派では、日によっ
ては牛乳を飲まない習わしであると答え、日本では珍しい食物[[タブー]]を持つ集団の存在
が浮かび上がった。
 
 これを機に昭和39年、龍谷大学宗教調査班が、鹿児島大学、京都女子大学などの協力を得て、調査に乗り出した。
 
== 信仰の二重構造 ==
 彼らは表向き[[神道]]の信者を名乗り、一説によると「牧園横川連盟霧島講」と称したとる<ref> 高取正男「カヤカベ」613頁</ref>。実際、毎年、[[霧島神宮]]への参拝を行っている。しかし一般には「カヤカベ」の呼び方で通っている。信仰の実態は[[親鸞]]を開祖とする[[浄土真宗]]であり、[[江戸時代|藩政時代]]に薩摩に広がっていた隠れ念仏から派生したものである。
 
== 語源 ==
「カヤカベ」の語源については、
*[[本尊]][[阿弥陀如来]][[茅葺|カヤブキ]]の壁に隠していたとする説。
*何もない[[カヤ]]の壁に向かって礼拝するところからという説。
*山中にカヤの壁をめぐらして密かに行事を行ったという説がある<ref> 高取正男「カヤカベ」703頁</ref>
霧島神宮に参拝する際の名乗りは、先述の「牧園・横川連盟霧島講」だが、これは『霧島神宮日誌』によると、[[昭和]]8年から用いられている。同日誌では、[[大正]]8年に「神戸講」、[[大正]]15年に「萱壁組合」、[[昭和]]5年に「萱壁講」と記されている<ref> 高取正男「カヤカベ」701頁</ref>。
大正期に自ら「萱壁組合」を称していた時期があり、昭和に入っても「霧島講」を名乗るまで「萱壁講」を名乗っていたといわれる。
 
== タブー ==
普段から[[鶏肉]][[牛肉]]を食べないタブーをもつが、'''精進日'''という特定の日にはさらに厳格な精進をする。
 
精進日とされているのは、[[正月]]、春秋の[[彼岸]][[お|盆]]、十一月の[[報恩講]]、父母の[[命日]]と、毎月11、13、16の日である。11,13,16はそれぞれ[[蓮如]]、カヤカベ教の近代の教主・[[吉永親幸]]、そして親鸞の命日とされる。これらの日には、「生臭いものは食べない」ということで、肉、魚、牛乳、[[マヨネーズ]]、さらに牛乳の入った[[菓子]]まで食べない。
 
== 口伝 ==
カヤカベ教では一切文書を用いず、[[口伝]]で経文や由来を伝えている。
 
口伝の一つ「オツタエ」によれば、その始祖は薩摩伊集院生まれの'''宮原真宅'''(みやはらしんたく)という人物であるという。宮原は元は[[山伏]]で神道にも通じていたが、[[京都]]の[[本願寺]]へ入り、22年間修行し、「'''宗教坊'''(すうきょうぼう)」という名前を与えられた。修行を終えた宗教坊は本願寺から[[経典]]を持って薩摩に帰り、地下で浄土真宗の教えを布教していたが、[[密告]]されて捕らえられ、[[日本における死刑|処刑]]される。明暦の初めごろのことという
その弟子の中から「親元」と呼ばれる[[教祖]]が選ばれ、代々隠れ念仏の教えが伝えられた。宗教坊から数えて10代目の親元が'''[[吉永親幸''']]よしながしんこう市蔵)という人物で、以後、親元は[[世襲]]制に変わる<ref>宮崎円遵「薩藩の眞宗禁制とカヤカベ」388頁</ref>。親幸は厳しい弾圧から逃れるために、京都の本山(本願寺)とのつながりを絶ち、浄土真宗の教えに、地元に伝わる霧島[[山岳信仰]]れ、現在のカヤカベの基礎を作ったという。
その弟子の中から'''親元'''と呼ばれる教祖が選ばれ、代々隠れ念仏の教えが伝えられ
 
た。宗教坊から数えて10代目の親元が'''吉永親幸'''(よしながしんこう)という人物で、以後、親元は世襲制に変わる。親幸は厳しい弾圧から逃れるために、京都の本山(本願寺)とのつながりを絶ち、浄土真宗の教えに、地元に伝わる霧島山岳信仰をとりいれ、現在のカヤカベの基礎を作ったという。
 口伝には「オツタエ」のほか浄土真宗の[[正信偈]]、[[和讃]][[改悔文|領解文、正信偈]]などがそろっているが語句が誤って伝わったりしているという。  
 
== 組織 ==
真宗と違ってカヤカベは「[[]]」ではなく「郡(こい)」というグループで組織されている。「郡」は親元を中心に中親、郡親、知識、一般教徒という階層になっている。
 
== 行事 ==
行事は夜十時以降の深夜に行われる。お経を上げていても外部の人が来たらすぐにやめ、その人が帰ってから再開する。今でも行われている大きな行事としては[[旧正月]]、春秋の彼岸には親元の家に集まるものが年に数回あり、今は報恩講もそうした行事のときに同時に行っている。年一回の霧島神宮の参拝もいまも続いている。
 
[[葬式]]は、死人が出てすぐの日には、信者だけで「オミカケ」「オマッタテ」という[[儀式]]を行う。これは深夜に集まって[[念仏]]を唱える。それが終わった後で[[神主]]を呼んで改めて神式の葬儀を行う。
 
行事の[[勤行]]には「オツタエ」のほか、「オキョウ」「オナグラ」「オカイゲ」などがある。「オキョウ」は[[結跏趺坐]]で誦し、念仏を唱えるときは上体を前後に揺さぶる。そして語られる話の節目節目に、聞き手の「ハイー」という[[合いの手]]が入る。
 
行事の勤行には「オツタエ」のほか、「オキョウ」「オナグラ」「オカイゲ」などがある。「オキョウ」は[[結跏趺坐]]で誦し、念仏を唱えるときは上体を前後に揺さぶる。そして語られる話の節目節目に、聞き手の「ハイー」という合いの手が入る。
== 近況 ==
 かつては数百戸あったといわれるカヤカベの戸数が高齢化に連れて減少し、精進などの規律もゆるやかになるにつれ、ある程度表に出ることを容認するようになってきている{{要出典|date=2020年9月7日 (月) 15:39 (UTC)}}
 
== 注釈 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
* 宮崎円遵「薩藩の眞宗禁制とカヤカベ」『日本庶民生活史料集成』第18巻、三一書房、1972年、387-388頁 ISBN 978-4380725012
*龍谷大学宗教調査班編「カヤカベ―かくれ念仏」法蔵館
* 高取正男「カヤカベ」『日本庶民生活史料集成』第18巻、三一書房、1972年、613-705頁 ISBN 978-4380725012
*五木寛之「隠れ念仏と隠し念仏」講談社
*龍谷大学宗教調査班編「カヤカベ―かくれ念仏」[[]]
*「浄土の本」学研
*五木寛之「隠れ念仏と隠し念仏」[[講談社]]
*本宮眞吾「異端念仏の章」『浄土の本』[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1993年、169-177頁 ISBN 9784056000825
 
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[[Category:秘教]]
[[Category:浄土真宗の宗派]]
[[Category:浄土真宗の歴史]]
[[Category:鹿児島県の文化]]
[[Category:霧島市の歴史]]