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{{出典の明記|date=2017年6月9日 (金) 23:41 (UTC)}}
'''南無妙法蓮華経'''(なむみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょう)とは、[[法華経|法華]]系の[[仏教]]で用いられる言葉である。「[[南無]]」は'''namo'''([[サンスクリット語]])の漢語への音写語で「わたくしは帰依します」を意味し、「[[法華経|妙法蓮華経]]」の五字はサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ (saddharmapuNDariika-suutra、&#x0938;&#x0926;&#x094d;&#x0927;&#x0930;&#x094d;&#x092e;&#x092a;&#x0941;&#x0923;&#x094d;&#x0921;&#x0930;&#x0940;&#x0915;सद्धर्मपुण्डरीक &#x0938;&#x0942;&#x0924;&#x094d;&#x0930;सूत्र) 」を[[鳩摩羅什]]<ref group="注釈">鳩摩羅什は、「羅什(らじゅう)」または単に「什(じゅう)」と略称されることがある。</ref> が翻訳した版の'''法華経'''の正式な題名(題目)である。「南無妙法蓮華経」の七字で「法華経の教えに帰依をする」という意味である。<!-- 妙法蓮華経を[[久遠実成]]の[[本仏]][[自受用報身如来]]の名号ととらえる見解も有る。 -->これらの文字を'''五字七字の[[題目]]'''とも呼ぶ。
 
== 位置付け歴史 ==
=== 日本における妙法蓮華経(法華経)経文信仰 ===
[[日蓮]]は[[正行]]として据えたが、日蓮以前の天台大師([[智顗]])を祖とする[[天台宗]]・[[天台寺門宗]]などでも教義の中心ではないものの、この五字七字の題目は修行僧が唱えていたとされる。即ち「朝題目に、夕念仏」と言われたものである。[[末法]]の時代に生誕した日蓮は、[[念仏]]は無間地獄の業と断じ、立宗と共に題目のみを正行とする。
[[File:JIGAGE E SHŌ ZOKUHEN 1818 CONCEPTION OF THE TRANSCENDENT POWER OF THE TATHÂGATAS.jpg|thumb|江戸時代の仏教書の挿絵「樹下に御題目の塔をたてて衆僧あつまり供養するを空中より釈尊うけ玉ふ」(木の下に南無妙法蓮華経の石碑を建て、僧侶たちが供養をすると、空中で[[釈迦|釈尊]]がそれを受けなさる)]]
日本では、[[615年]]には[[聖徳太子]]が著したとされる『[[法華義疏]]』の中に「[[法華経|妙法蓮華経]](法華経)」が紹介されている。[[聖徳太子]]以来、日本における仏教の重要な[[経典]]のひとつであると同時に、'''[[鎮護国家]]'''の観点から、特に日本には縁の深い[[経典]]として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、[[聖武天皇]]の皇后である'''[[光明皇后]]'''は、全国に「'''法華滅罪之寺'''(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「[[国分尼寺]]」と呼んで「[[法華経]]」を信奉した。
 
「南無妙法蓮華経」の言葉は、その中で慣例的に生まれたと見られている<ref>[https://ronso.co.jp/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AA%E6%97%A5%E8%93%AE%E3%80%80%EF%BC%83002%EF%BC%9C%E5%8D%97%E7%84%A1%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%93%AE%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%BD%95-2/ ミステリーな日蓮 #002〈南無妙法蓮華経って何?〉 | 論創社]</ref>。
 
[[平安時代]]初期には、「[[法華経|妙法蓮華経]](法華経)」を至上の教え・根本経典とする中国[[天台宗]]の思想が[[最澄]]により輸入され、日本の天台宗が誕生した。現在も天台宗においては朝の勤行に「南無妙法蓮華経」を唱えている。
 
[[鎌倉仏教|鎌倉新仏教]]においても妙法蓮華経は重要な役割を果たした。[[曹洞宗]]の祖師である[[道元]]は、「只管打坐」の[[坐禅]]を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも妙法蓮華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、妙法蓮華経の如来神力品であった<ref>『建撕記(永平開山道元禅師行状建撕記)・坤巻』によれば、死期を覚った道元は弟子の屋敷に移り住み、室内を経行(きんひん)しながら低い声で如来神力品の「道場観」のくだり「若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舎、若在殿堂、若山谷曠野、 是中皆応起塔供養、所以者何。当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転于法輪、諸仏於此而般涅槃」をとなえ終わったあと、この経文を柱に書き付け、また自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けてその名前も書きとどめたという。</ref>。
 
=== 日蓮以降 ===
題目を広めたのは、[[日蓮]]である。日蓮は「南無妙法蓮華経」の[[題目]]を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも[[仏性]]が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、[[法華宗]]各派の祖となった。
 
[[File:Wood-Block Print of The Lotus of the True Law, Chapter XX - CONCEPTION OF THE TRANSCENDENT POWER OF THE TATHÂGATAS 妙法蓮華経 如来神力品第二十一.jpg|thumb|如来神力品。江戸期の両点本(経文の漢文の右側にふりがなで「真読」を、左側に訓点で「訓読」を示してある)]]
[[近世]]における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として[[加藤清正]]は法華経を納経している。
 
近代においても妙法蓮華経は、主に日蓮を通じて多くの小説家・思想家に影響を与えた[[教典]]である。[[島地大等]]編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち[[田中智学]]の[[国柱会]]に入会した[[宮沢賢治]](詩人・童話小説家)や、[[高山樗牛]](思想家)、[[妹尾義郎]](宗教思想家)、[[北一輝]](革命家)、[[石原莞爾]](軍人)、[[創価学会]]を結成することとなる[[牧口常三郎]]、[[戸田城聖]](両者とも元教員)らがよく知られている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist|group=注釈}}
 
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*[[木柾]]、[[団扇太鼓]]
*[[称名]]
*[[南無阿弥陀仏]] - [[浄土教]]系の宗派では「[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]に帰依する」の意味で「南無阿弥陀仏」「南無不可思議光如来」「帰命尽十方無碍光如来」などと阿弥陀仏の名号を唱える。混同されがちだが題目とは別のものである。
*[[南無阿弥陀仏]]
*[[称名念仏]]
*[[真言]] - [[真言宗]]系で唱えられる。
 
{{Buddhism2}}