削除された内容 追加された内容
タグ: 差し戻し済み
m セクションリンクの変更
 
(12人の利用者による、間の30版が非表示)
1行目:
[[File:Khalili Collection of Kimono K034.jpg|thumb|大正時代の銘仙([[イギリス英国]]{{仮リンク|ナセル・D・ハリリコレクション|en|Khalili Collections}}所蔵)]]
[[File:Vrouwen haori met kleurige lijnen, AK-RAK-2009-3-41.jpg|thumb|20世紀前半の銘仙[[羽織]][[オランダ]]の[[アムステルダム国立美術館]]所蔵)]]
'''銘仙'''(めいせん)は、[[平織]]した[[絹織物]]の一種。[[絹織物]]の技法を用いて柄をあらわす<ref name="読売20210822"/>。鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の[[染織|先染め]]織物である。
 
本来は、上物の絹織物には不向きな、屑[[繭]]や玉繭(2頭以上の[[カイコ|蚕]]が1つの繭を作ったもの)から取れる引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、[[絹]]ものとしては丈夫で安価でもあったことか。[[幕末]]以降の輸出用[[生糸]]増産で大量の規格外繭が生じた[[関東]]の[[養蚕]]・絹織物地帯(後述)で多くつく、銘仙の[[和服|着物]]が[[大正]]から[[昭和]]初期にかけて大流行した<ref name="読売20210822">【ニッポン絵ものがたり】山川秀峰「美人図」(足利銘仙ポスター原画 1934年)「足利本銘仙」の天下取り『[[読売新聞]]』日曜朝刊別刷り「よみほっと」2021年8月21日</ref>
 
[[伊勢崎市|伊勢崎]]、[[秩父地方|秩父]]に始まり、これに、[[足利市|足利]]、[[八王子市|八王子]]、[[桐生市|桐生]]を加えた5か所が五大産地とされている{{Efn|五大産地のほか、[[館林市|館林]]、[[佐野市|佐野]]、[[所沢市|所沢]]でも作られていたという<ref name="koizumi"> {{Cite |和書| author = 小泉和子編 | title = 昭和のキモノ | date = 2006-5-30 | series = らんぷの本 | publisher = [[河出書房新社]] | ISBN = 9784309727523}}</ref>。}}。
 
柄は従来の和風のものにとどまらず、[[アールデコ]]や[[キュビズム]]など西洋芸術の影響を受けたものも多い<ref name="読売20210822"/>。銘仙の生産や流通は洋装化により衰退してはいるものの、図柄の文化的・美術的価値は高く評価されており、[[足利市立美術館]]や[[イタリア]]の首都[[ローマ]]で展示会が開かれたこともある<ref name="読売20210822"/>。
 
==歴史==
===発祥===
もともと元々は、主に関東や[[中部地方]][[養蚕業|養蚕]]農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていた[[紬]]の一種であった。[[江戸時代]]中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)<ref name="ashikaga"> {{Cite web |和書| url = https://orimono-densyokan.com/entry9.html | title = 足利銘仙の歴史 | publisher = 足利織物伝承館 | accessdate = 2020-11-21}}</ref>」「目千(めせん){{Efn|織目が細かく密であることから。}}」などと呼ばれ、柄は単純な[[縞模様]]がほとんどで、色も地味なものであった。
 
[[明治]]になって[[身分制度]]が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった{{Efn|女性だけでなく男性においても、日常着に木綿を着ることは稀になっていたという<ref name="koizumi" />。}}。
15 ⟶ 17行目:
また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、[[女学生]]や[[OL|職業婦人]]などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。
 
当初は平仮名の「めいせん」であったが、[[1897年(明治30年)]]、東京[[三越]]での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという<ref>{{Cite web |和書| url = https://www.isesakimeisen.com/isesakimeisen.html | title = 銘仙の語源について | publisher = 伊勢崎めいせん屋 | accessdate = 2020-11-21}}</ref>。
 
===流行===
[[File:Mannequins for kimono.jpg|thumb|300px|百貨店の秩父銘仙宣伝会(1930年)]]
[[1906年]](明治39年)に[[学習院女子中・高等科|華族女学校]]が[[学習院]]と併合したのち、[[1907年]]に学習院長に就任した[[乃木希典]]は、女学生の華美な装いを憂慮して「服装は銘仙以下のもの{{Efn|着物の格式上、銘仙は低い部類のものであることから。}}」と定めた。これを受け、伊勢崎の[[呉服商]]と機屋が共同して、「銘仙には違いないが、それまでの地味なもの{{Efn|[[1917年]]の『[[婦人之友社|婦人之友]]』には「銘仙で済ませてゐた外出着が、(着て)出てみるとあまり見劣りがするので自然[[お召]]にしなければならないやうになり」という記述があり、この当時の銘仙はまだお召に及ばない地味なものであったことがうかがえる。}}とは違った、色鮮やかで多彩な柄の'''模様銘仙'''」を生み出した<ref>{{Cite |和書 | author = [[弥生美術館]] 中村圭子編 | title = 昭和モダンキモノ 抒情画に学ぶ着こなし術 | date = 2005-1-30 | series = らんぷの本 | publisher = 河出書房新社 | ISBN = 9784309727820}}</ref>。
<ref>{{Cite |和書 | author = [[弥生美術館]] 中村圭子編 | title = 昭和モダンキモノ 抒情画に学ぶ着こなし術 | date = 2005-1-30 | series = らんぷの本 | publisher = 河出書房新社 | ISBN = 9784309727820}}</ref>。
 
これが女学生たちのニーズと合致して大流行となり、幅広い年齢層の女性に広まっていき、「西の[[お召|御召]]、東の銘仙」といわれた。
 
大正末期に行われた街頭風俗調査では、和服で歩いていた女性のうち約半数が銘仙を着ていたとの記録もある{{Efn|[[1925年(大正14年)1]]1月に大阪・[[心斎橋筋]]で、同年5月に東京・[[銀座]]で、[[1926年(大正15年)12]]12月に東京・銀座で実施。洋装の女性は、大正141925年の調査ではいずれも1%1%大正151926年の調査では4%4%であった<ref name="koizumi">< /ref>。}}。
 
この新しい銘仙の普及によって、クズ糸ではなく高品質の[[毛糸#動物繊維|絹紡糸]]を使ったものなども登場し、高級品から[[レーヨン|人絹]]を使用した安価なものまで、銘仙の中でも品質の幅が生まれていった<ref name="koizumi">< /ref>。また、技法の発展に伴って、「新立(しんだち)」と呼ばれる太縞や、「矢絣」、小ぶりの飛び柄などから、次第に大柄で大胆な柄や複雑な柄のものへと移行していきも作られるようになり、使用される色数も増えていった<ref>{{Cite |和書 | author = 長崎巌 | title = 和のデザインと心 きもの KIMONO | date = 2008-5-30 | publisher = 東京美術 | ISBN = 9784808708375}}</ref>。
 
===戦後===
[[戦後#第二次世界大日本における「戦後|第二次世界大戦後]]、まだ着物と洋服とが日常着として並立していた時期には、銘仙はさらにモダンなデザインを取り入れ、[[1950年代]]には最盛期を迎えた。
 
その後、絹物よりも扱いやすく安価な[[ウール]]着物]]の登場によって、絣などの日常着物は銘仙からウールに代わり、また、洋装の普及によって和服が特別な機会だけのものとなると、新たに生産される絹物の色柄は銘仙以前の古典的なものに戻っていくこととなる<ref name="koizumi" />。
 
===現代===
古くは「貧しい者が着るもの」「部屋着」などともみなされていため、現代でも稀にそうした見解を持つ高齢者もいるが、[[20001990年代]]後半から[[骨董品|アンティーク]]着物のブームが起こり、銘仙はその代名詞ともいえる存在となっている。
 
[[アール・デコ]]や[[キュビスム]]の影響を受けた、現代にも通用するポップでモダンな柄行きや大胆な色遣いが人気を博し、[[おはしょり]]を作らず対丈で着たり{{Efn|日本人の体位向上に伴いより、大流行していた頃に作られた銘仙では、現代女性がおはしょりを作る余裕がなのは難しこと場合がほとんどであるため。}}、[[洋服]][[ブーツ]]と合わせて自由にコーディネイトするなど、「[[大正ロマン]]着物」と呼ばれるジャンルを形成している。
 
==技法==
[[File:Meisen.jpg|thumb|180px|様々な銘仙(1950年代)]]
染色された織糸を意図的にずらし、色の境界がぼやけたような効果を出す「絣」技法を用いる。そのため、写実的な表現には適さない。
===織り糸の染色===
 
===染め===
; 締切絣(括り絣)
: 経糸(たていと)を括り染めで染色し、無地の緯糸(よこいと)を打ち込む。たて方向のみに絣効果が出る。
: 「矢絣(矢羽根絣)」{{Efn|江戸時代の[[奥女中]]の着物にもみられる伝統的な柄。のちに女学生の定番柄ともなった。}}のうち最も単純なものは、この技法で染め分けた経糸を矢羽根状にずらすことで作る。
: また、緯糸も同様に染色して、縦横たてよこ両方に絣効果を出すこともできる。
; 捺染絣
: 経糸に型紙をのせて染料をおいて染め、無地の緯糸を打ち込む。たて方向のみに絣効果が出る。
; 板締め絣
: 細かい模様を作る際に使われる技法。糸を模様を彫った板で挟むことで染め分ける。
53 ⟶ 54行目:
===織り===
; 解し織(ほぐしおり)
: 本織りの経糸と仮の緯糸とで仮織りの[[和裁#反物|反物]]を作り、いったん[[織機]]から外し、板に置いて[[型染め]](捺染)する。
: 染色した仮織りを再び織機にセットし、仮の緯糸を抜き解しながら、本織りの無地の緯糸を打ち込む。
: よこ方向のみに絣効果が出る。
: この技法によって曲線の表現が可能になり、植物紋様や[[抽象化|抽象]]模様などの模様織りが大きく発展した。
: [[1913年]](大正2年)、足利の根岸藤平・関川粂蔵によって[[特許]]出願され<ref name="ashikaga" />、「栃木県伝統工芸品<ref>{{Cite web |和書| url = http://tochigi-dentoukougeihin.info/textiles/hogushi-ori.html | title = 解し織 | publisher = とちぎの伝統工芸品 | accessdate = 2020-11-21}}</ref>」に認定されている。
; 併用絣
: 経糸・緯糸にいずれも本織りの糸を用いて仮織りを作り、型染めしたのち、本織りし直す。
66 ⟶ 67行目:
; 緯総絣(よこそうがすり)
: 黒などの無地の経糸に、染色した緯糸を打ち込んだもの。経糸が無地であるため、織り手は柄の見当がつかない状態で織ることになる。
: 落ち着いた色味となるため、[[1940年]](昭和15年)に[[国家総動員法]]に基づく[[奢侈禁止令品等製造販売制限規則]]が公布されるとブームとなったという。
: 緯糸の模様を際立たせるために経糸が細く、通常の銘仙より裂けやすい<ref name="isezaki">{{Cite web |和書| url = http://iga.justhpbs.jp/yokosou.html | title = 伊勢崎銘仙アーカイブス 技法シリーズ(4)(4) 緯総絣(よこそうがすり) | accessdate = 2020-11-21}}</ref>。
 
==産地==
=== 伊勢崎銘仙 ===
[[伊勢崎絣|伊勢崎銘仙]]は、'''併用絣'''の技法を用いた、鮮やかな多色遣いによる手の込んだ柄が代表的。[[1950年代]]には、一反の中に24色の糸を使用したものもあった<ref name="ashikaga" />。
 
五大産地の中では最大の生産量をもち<ref>{{Cite web |和書| url = https://www.isesakimeisen.com/technique.html | title = 伊勢崎めいせん屋|銘仙の技法 | publisher = 伊勢崎めいせん屋 | accessdate = 2020-11-21}}</ref>、銘仙の中では高価な部類に入る。[[1975年]]に「伊勢崎絣」として[[経済産業大臣指定伝統的工芸品|伝統的工芸品]]に指定されている。
 
===秩父銘仙===
80 ⟶ 81行目:
植物柄が多く、経糸と緯糸の色の組み合わせによっては玉虫色の光沢を持つ。
 
[[1908年]](明治41年)、坂本宗太郎により秩父銘仙の「解し捺染」の技法が特許を取得し<ref>{{Cite web |和書| url = https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/chichibumeisen/ | title = 秩父銘仙(ちちぶめいせん)の特徴 や歴史 | publisher = KOGEI JAPAN | accessdate = 2020-11-21}}</ref>、[[2013年]]には伝統的工芸品に指定されている。
 
===桐生銘仙===
「西の[[西陣]]、東の桐生」ともいわれる絹織物の名産地であり、高級絹織物である「[[お召|御召]]」を模して、撚糸を用いた「'''御召銘仙'''」が作られた。小ぶりの柄行きが特徴。[[1977年]]に「桐生織」として伝統的工芸品に指定されている
 
===足利銘仙===
[[File:Poster of Ashikaga Hon-Meisen by Kitano Tsunetomi.jpg|thumb|160px|[[北野恒富]]が1928年に制作した足利本銘仙の宣伝ポスター(原画の『現代美人之図』は[[足利市立美術館]]所蔵<ref>[http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/2016meisen.html VIVID 銘仙 煌めきのモダンきもの] - 足利市立美術館、2020年11月20日閲覧。</ref>)]]
'''解し織'''発祥の地。'''半併用絣'''の技法を用いる。
 
[[ポスター]]や[[はがき#無地はがきと絵はがき|絵葉書]]などの広告に[[伊東深水]]や[[山川秀峰]]、[[鏑木清方]]の[[美人画]]を起用して全国展開するなど、販売を担う百貨店と組んで大々的な[[マーケティング]]により知名度を高めた<ref name="ashikaga" /><ref name="読売20210822"/>。[[1927年]]には「足利銘仙会」を発足させ、「足利本銘仙」としてブランド化を図った<ref name="読売20210822"/>。
 
現在では、市内の繊維事業者による技術革新が進み、着物地の規格から生地巾を3倍に拡げた洋服地への転用に成功。
 
パリコレに代表される高級ファッション市場への展開を実現し、[[2021年]]には足利商工会議所、栃木県染色協同組合の共同申請による「足利銘仙」の[[地域団体商標]]が登録された。
{{Clear}}
 
===八王子銘仙===
[[File:Capitão-Meisen.jpg|thumb|160px|絹紡糸で織られたカピタン銘仙]]
平織ではなく、[[ドビー|ドビー織]]で細かい地紋を織り出す「'''カピタン織り'''」と呼ばれる技法を用いたもので、'''カピタン銘仙'''とも呼ばれる。
 
現在ではほとんど生産されていない。
{{Clear}}
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===