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{{政治家
'''平松 守彦'''(ひらまつ もりひこ、[[1924年]][[3月12日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。
| 人名 = 平松 守彦
| 各国語表記 = ひらまつ もりひこ
| 画像 =
| 画像説明 =
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1924|3|12|no}}
| 出生地 = {{Flagicon|JPN1889}} [[大分県]][[大分市]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1924|3|12|2016|8|21}}
| 死没地 = {{Flagicon|JPN}} [[大分県]][[大分市]]
| 出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]卒業
| 学位 =
| 前職 = [[国家公務員]]<br/>([[商工省]]・[[通商産業省]])<br/>[[国土庁]][[大臣官房|長官官房]][[審議官]]
| 所属政党 =
| 称号・勲章 = [[従三位]]<br/>[[旭日大綬章]]<br/>[[学士(法学)|法学士]]<br/>[[マグサイサイ賞]]
| 親族(政治家) =
| 配偶者 =
| サイン =
| ウェブサイト =
| サイトタイトル =
| 国旗 = 大分県
| 職名 = 公選第9-14代 [[大分県知事一覧|大分県知事]]
| 当選回数 = 6回
| 就任日 = [[1979年]][[4月28日]]
| 退任日 = [[2003年]][[4月27日]]
}}
'''平松 守彦'''(ひらまつ もりひこ、[[1924年]]〈[[大正]]13年〉[[3月12日]]<ref name=歴代>『日本の歴代知事 第3巻 下』280頁。</ref> - [[2016年]]〈[[平成]]28年〉[[8月21日]]<ref>{{Cite news|title=前大分県知事の平松守彦さん死去 「一村一品運動」提唱|newspaper=朝日新聞|date=2016-8-23|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ8Q7SQTJ8QTIPE02W.html|accessdate=2016-8-23}}</ref>)は、日本の[[経済産業省|通産]][[官僚]]、[[大分県知事一覧|大分県知事]]。<!--[[学歴]]は[[東京大学]][[法学部]][[卒業]]。[[学位]]は[[学士|法学士(東京大学)]]。[[称号]]は[[名誉博士|名誉博士(立命館アジア太平洋大学)]]。-->
 
「[[一村一品運動]]」の提唱者として有名である。その他、[[関西大学]]政策創造学部客員教授や[[立命館アジア太平洋大学]] [[立命館アジア太平洋大学#大学関係者と出身者|アドバイサリー・コミッティ]]名誉委員などを務めた。[[座右の銘]]は「継続は力なり」。[[マグサイサイ賞]]受賞者。
[[大分県]]の前[[都道府県知事|知事]]で、「[[一村一品運動]]」の提唱者として有名である。大分県[[大分市]]出身。
 
==経歴==
[[大分市]]出身。[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学]]、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]を卒業。[[短期現役士官|短期現役海軍主計科士官]](12期)を志願<ref name=短現>『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』56、865頁。</ref>。[[1944年]](昭和19年)9月、[[海軍経理学校]]に入学し1945年に卒業{{R|短現}}。同年6月、[[大日本帝国海軍|海軍]]主計[[少尉]]に任官して[[終戦の日|終戦]]を迎え、その後、解員([[復員]])した{{R|短現}}。
[[大分県立大分上野丘高等学校]]、[[東京大学]]法学部を卒業後、[[1949年]]([[昭和]]24年)旧商工省(後の[[通商産業省]]、現・[[経済産業省]])に入省。産業公害課長、基礎産業局総務課長、[[国土庁]](現・[[国土交通省]])長官官房審議官などを経て、大分県副知事に。[[1979年]](昭和54年)の知事就任と相次いで「一村一品運動」を提唱、当時イメージの薄かった大分県を全国に知らしめた。知事を6期24年と、異例の長期間務め、[[2003年]]([[平成]]15年)に退任。
 
[[1949年]](昭和24年)3月、東京大学法学部を卒業{{R|歴代}}後、[[1949年]]([[昭和]]24年)旧[[商工省]](後の[[通商産業省]]、現・[[経済産業省]])に入省。同期には次官となった[[藤原一郎]]、[[労働省|労相]]を歴任した[[牧野隆守]]、[[村上信二郎]](衆議院議員)、[[大薗英夫]](元[[日本自転車振興会]]理事長)、[[間淵直三]](元[[東京工業品取引所]]理事長、元[[防衛庁]]装備局長)、[[井川博]](元[[経済企画庁|経済企画]][[事務次官]])など。
座右の銘は「継続は力なり」。
 
在官中は[[佐橋滋]]の強い影響の下、政府指導の下での国内調整的な産業政策を重視するいわゆる通産省統制派といわれる官僚として活躍した。1957年4月、通産省企業局産業施設課長補佐(工業立地担当事務官)時代には、大分県に出張した際に[[木下郁]]県知事にのちの[[大分臨海工業地帯]]となる臨海工業地帯構想を進言した<ref>『日本をデザインするキーパーソン』([[田原総一朗]]、[[潮出版社]]、1984年7月発行)P66~</ref>。1959年5月、[[日本]]に[[コンピュータ]]業界が無かったなかで「コンピューター業界」を対象とした重工業局電子工業課が1957年の電子工業振興臨時措置法によって設けられ、その電子工業課長補佐に就任。メーカーに対して補助金と税金など優遇を付けることで、コンピュータ業界のテークオフに関わったのみならず、国内ユーザー相手に[[IBM]]よりも安くレンタルし、償却されたコンピュータも全て引き取るために[[日本電子計算機]]株式会社設立にも関わった<ref>同 P71~</ref>。
 
2009年ドラマ版の[[官僚たちの夏]]5話で描かれた、通産官僚と米コンピュータ社副社長の対決は、『計算機屋かく戦えり』に収録された平松へのインタビューでの証言(1960年のくだり)との一致がみられる<ref>なお、『~戦えり』にはIBM副社長について「バーゲンシュトック」とあるが、綴りはJames Warren Birkenstockである</ref>。
 
このように平松は黎明期から日本のコンピュータ産業育成で大きな貢献をした。以後も1964年には企業局産業公害課長、1969年には重工業局電子政策課長兼情報処理振興課長にてソフトウェア会社の資金調達を援助する情報処理振興法作りに関わり、ソフトウェア開発の債務保証を行う[[情報処理推進機構|情報処理振興事業協会]]を設けた<ref>[http://www.ipa.go.jp/about/e-book/itphist/pdf/report.pdf#search='過去の情報政策と情報産業に関する調査分析について' 過去の情報政策と情報産業に関する調査分析について]([[情報処理推進機構]]、2004年3月) p6~9</ref>。1970年代の、[[池田敏雄]]を産業界のパートナーとして進めたとされる[[三大コンピューターグループ]]の形成は、世界的にIBMが独占しようとしていたコンピュータ産業において、日本企業が生き残る道を開いたと、特に評価される。1973年 基礎産業局総務課長、1974年 [[国土庁]](現・[[国土交通省]])[[長官官房]][[審議官]]などを経て、1975年7月に大分県の[[副知事 (日本)|副知事]]に就任する。[[1979年]](昭和54年)の知事就任と相次いで「[[一村一品運動]]」を提唱、当時イメージの薄かった大分県を全国に知らしめた。「一村一品運動」を世界各国に広め、特に[[中華人民共和国]]からは高く評価され、外国人におくられる最高位の賞である[[友誼賞]]など受賞歴も多く<ref>{{Cite web|url=http://japanese.cri.cn/782/2009/11/25/144s150802.htm|title=平松守彦:中国農民の所得増加を実現した日本知事|accessdate=2009-11-25|publisher=[[中国網]]}}</ref>、中国政府の行った[[インターネット]]投票で中国に最も貢献して中国人民に最も有名な「中国に縁のある十大国際友人」の一人に選ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.china-news.co.jp/node/9232|title=「中国に縁の10大国際友人」選ぶ 日本から平松前大分県知事|accessdate=2017-11-17|date=2009-12-08|publisher=[[中国通信社]]}}</ref>。1995年には[[アジア]]のノーベル賞と言われる[[マグサイサイ賞]]を受賞した。さらにアジアで活躍できる人材育成が必要であると考え、また大学誘致を行い、それに賛同した京都市の[[学校法人立命館]]が別府市に[[立命館アジア太平洋大学]]を[[2000年]]に開学している。また、[[大分朝日放送]]の開局にも尽力した。平松は大分県の知事を6期24年と異例の長期間にわたって務め、[[2003年]]([[平成]]15年)に退任した。2004年には[[旭日大綬章]]を受章している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/list_hp/k_01daiju.pdf|title=平成16年春の叙勲 旭日大綬章受章者|format=PDF|accessdate=2023-04-24|publisher=[[内閣府]]|date =2004-04-29|page=1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040720154743/http://www8.cao.go.jp:80/intro/kunsho/list_hp/k_01daiju.pdf|archivedate=2004-07-20|url-status=dead|url-status-date=2023-04}}</ref>。
 
2016年8月21日、[[誤嚥性肺炎]]のため、死去。{{没年齢|1924|3|12|2016|8|21}}。平松の葬儀には日本だけでなく、中国や[[大韓民国|韓国]]、[[フィリピン]]からの参列者もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO07748400Y6A920C1LX0000/|title=大分・平松前知事お別れの会 村山元首相ら1200人参列 |accessdate=2017-11-17|date=2016-09-28|publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160824/ddl/k44/010/192000c|title=平松守彦さん死去:前知事 「一村一品」「W杯誘致」「高速道整備」 悼む声、各所から |accessdate=2017-11-17|date=2016-08-24|publisher=[[毎日新聞]]}}</ref>。死没日をもって、[[従三位]]に叙される<ref>『官報』6868号(平成28年9月29日)</ref>。
 
== 平松の地域論 ==
平松の地域論は、国がやるべきは「通貨、国防、外交」で、福祉、教育、農業などは地方に任せればよいとするもので、さらに地方の中でも地域、コミュニティは[[一村一品]]」運動]]のように地域が主人公として特徴を出せばよい、行政は黒子、知事の役割はトップセールス、国は法や規制をかざして制約すべきでないという主張であった。
 
さらに、地方はまとまり、道州となり自主運営力をつけ、その一つである九州は地理的な強みを生かしてアジアとの交流に取り組むべきとするものである。実際、平松はローカル外交にも取り組んだ。いかにも、通産省の官僚出身らしいスケールの大きな発想であった(一方、その発想、考え方には官僚臭を感じるという指摘もある)
 
なお、大分は藩政期に小藩が分立していたため、地域全体としてまとまりを欠きがちなのだった。これを逆手にとって、地域を競争させようというアイデアから生まれたものが一村一品運動であった。
 
平松の思想は、『グローバルに考えローカルに行動せよ』(東洋経済新報社)、『地方からの発想』(岩波新書)などの著書に集約されている。とりわけ、『地方からの発想』(1990年)は[[地方分権]]のバイブルとしてベストセラーになったが、「行政から表彰されることで住民もやる気を出し、競争意識も湧いてくる」<!---『地方からの発想』新書版32ページ他からの大意--->との記述が見当たるなど、その考え方に[[官僚|中央官僚]]出身としての限界も垣間見えるとする見解があるものの妥当ではない。多くの地方で人口の流動化や核家族化によって地域社会での人間関係の希薄化が加速度的に進行しており、行政の積極的なリーダーシップ発揮が求められる場面も多々あった。その点において、平松の施策が地方の可能性と住民の潜在的なモチベーションを高めたは、評価もある。一方で、[[バブル景気]]崩壊後の財政悪化にもかかわらず[[大分県県民の森#大分香りの森博物館|香りの森博物館]]の建設を強行し、結果的に次の広瀬知事の代になって経営の破綻が明確化し非常な安価で売却されたこと、しかもその売却先が[[学校法人平松学園]](平松の親族が経営)であったこと、あるいは[[大分スポーツ公園総合競技場]]の整備に巨額の税金を費やしたこと、一村一品運動による無理な特産品開発では成果も限定的で持続性に欠けたことなど、大分県では平松の施政に対し厳しだろう評価を下す者もいる
 
== 主要著書 ==
*『一村一品のすすめ』(ぎょうせい、1982年)
*『地方からの発想』(岩波書店、1990年)
*『グローカル知事平松守彦その発想と実践』(西日本新聞社、2004年)
 
==関連項目 脚注 ==
{{Reflist}}
*[[一村一品運動]]
 
*[[池田敏雄]]
== 参考文献 ==
*『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
*『日本の歴代知事 第3巻 下』歴代知事編纂会、1982年。
 
== 関連項目 ==
* [[一村一品運動]]
 
==外部リンク==
*[http://www.coara.or.jp/hiramatsu/ 平松守彦ホームページ]
*[http://park5.wakwak.com/~asia/mahathir/m_oita-j.htm マハティールと大分]
*[http://kraft.cside3.jp/leader.htm リーダーたちの群像~平松守彦・前大分県知事]
*[http://mclassic.excite.co.jp/mclassic/05-04/netsuare/ モーストリークラシック・エキサイト]
 
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[[Category:都道府県知事・市町村長|ひらまつもりひこ]]
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