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'''藩政改革'''(はんせいかいかく)とは、[[江戸時代]]の[[幕藩体制]]において、各[[藩]]が[[行財政]]の再建のために行った[[政治]]・[[経済]]などの改革のことを指す。
 
特に[[江戸幕府]]の[[天保の改革]]などの[[幕政改革]]と同時期に盛んに行われた改革の成果によって藩財政が好転した藩として、[[薩摩藩]][[長州藩]]などを挙げることができ、[[幕末]]に[[雄藩]]と言われるほどの影響力を持ち、[[倒幕]]運動]]の原動力の1つとなった。現在でも藩政改革を本としている[[経営者]][[政治家]]は多い。
 
== 藩政改革の動機 ==
[[幕藩体制]]下の政治では、[[儒教]]的道徳に基づく[[祖法]](先代以前の法、特に初代藩主・当主が定めた未来永劫守るべき絶対的規定)を重視し、その改廃は「不孝」「不忠」の振る舞いであると考えられてきた。だが、江戸時代中期以後に入ると財政難が深刻になってきた。その主な原因は以下に挙げられるようなものである。
 
#[[参勤交代]]や幕府からのいわゆる「[[御手伝い普請]]」によって、多額の出費を強要された。
#[[貨幣経済]]が社会全体に浸透する一方で、[[米価]]は下落傾向にあり、「[[]]」を経済主体として運営する幕藩体制がこの経済変動に適応できずにその実収入は減少していった。
#国許での度重なる[[自然災害]]や[[飢饉]]、[[江戸藩邸]]の焼失による臨時の出費が発生した。
#平和な世の中が続き、[[大名]]以下家中全般に奢侈な生活態度が普及していった。
 
これに対して、初め諸大名は[[検見]]の強化や[[検地]]の実施などの[[年貢]]増徴、大都市の[[商人]]などからの借金や[[倹約令]]による財政支出の引締めや[[新田開発]]・[[鉱山]]開発、藩内商人などからの[[御用金]]徴収などによる財政収入の増強、更には'''「半知借上」'''などと言った家臣に与える[[俸禄]]の事実上の削減などといった対策で一時的に賄おうとしてきた。
 
だが、こうした政策は一時凌ぎ以上のものではなく、却って家中・領内に不満を鬱積させ、人心の荒廃を促進させて、藩政の危機を深刻化させる一方であった。
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以下の藩はその中でも改革に成功したとされている諸藩のケースの概要である(実際には失敗した藩の数の方が多い事は言うまでもない)。
 
== 江戸時代中期の藩政改革 ==
===[[ 久保田藩]] ===
[[1785年]]に[[佐竹義和]]が藩主となり、[[藩校]](のちの「[[明徳館 (久保田藩)|明徳館]])を設立し、[[防砂林]]の造成・保全、林政改革の実施、[[商品作物]]・[[春慶塗]]・[[川連漆器]]・[[白岩焼]]などの[[工芸品]]の生産奨励、耕作援助など産業開発に力を入れた。また、[[蔵入地]]、[[家臣知行地]]の農政を統括させる藩内の各郡に[[郡代|郡奉行]]を設置した。「[[久保田藩]]における寛政の改革」と呼ばれる<ref name=asahi>{{citeCite web|和書|url=httphttps://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%92%8C-18020 |title=【佐竹義和(さたけ・よしまさ)】|publisher=朝日日本歴史人物事典(金森正也)|language=日本語|accessdate=2013-6-13}}</ref>。
 
===[[ 米沢藩]] ===
[[1767年]]に[[上杉治憲]](鷹山)が藩主となった[[米沢藩]]は[[節約|倹約]]や産業開発など藩財政の建て直しを行う。藩主在職中は奉行筆頭[[竹俣当綱]]を中心として施行するが失敗し、[[隠居]]後の藩政後見中に中老(後に奉行)[[莅戸善政]]を中心とした改革が成功する。
 
===[[ 松代藩]] ===
[[1752年]]に[[真田幸弘]]が[[松代藩]]藩主となると、[[家老]]の[[恩田民親]](木工)らに藩政の刷新を命じた。木工は自ら率先して倹約を実行して、私利を貪らない姿勢を明らかにするとともに、領民には年貢の税率を常識とは反対に引き下げ、分割納入を認める代わりに完納を求めた。また、藩行政の効率化を進めて領民を苦しめる不正な役人や無能な役人を更迭した。木工の急死もあって財政改革は進まなかったと言われるものの、役人の意識改革と領民の藩政への信頼を取り戻す事に成功し、安定した財政基盤の確立と農村の荒廃を阻止して立て直しの方向に向かわせた。
 
だが、その後再度財政は悪化したため、幕府[[老中]]として[[天保の改革]]にも参与した藩主[[真田幸貫]]は、藩政改革を行うにあたり[[恩田貫実]](頼母、木工民親の曾孫)を重用した。改革はある程度は成功したものの藩財政の回復には至らず却って奢侈の風潮を招いたと指弾されて、[[1851年]]保守派の[[真田桜山|真田貫通]](志摩、号・桜山)が藩政を行った。だが、次の[[真田幸教]]の代に入ると後継者問題も絡んで大規模な内紛([[1853年]]となり、志摩が失脚して頼母復帰、[[1862年]]頼母病死して志摩復帰)に至り、[[1866年]]には幸教は[[隠居]]してしまった。ちなみに頼母派のブレーンには藩士の[[蘭学者]][[佐久間象山]]がいた。松代藩は[[明治維新]]の際にはいち早く[[尊王]]の立場を明確する。
 
===[[熊本 姫路]] ===
[[ファイル:Statue of Kawai Sun-no.jpg|サムネイル|[[姫路城]]内、酒井家歴代を祀る[[姫路神社 (姫路市)|姫路神社]]内に設けられた寸翁神社]]
[[細川重賢]]が[[堀勝名]]を登用して断行。
[[酒井忠以]]・[[酒井忠道|忠道]]・[[酒井忠実|忠実]]・[[酒井忠学|忠学]]の四代50年余りにわたって仕えた家老[[河合道臣]](寸翁)が主導。
 
[[1790年]](寛政2年)には藩主忠以の急死と反対派の巻き返しによって一度は失脚したものの、[[1808年]](文化5年)に忠道より諸方勝手向に任じられて再度改革を開始。義倉の一種・[[固寧倉]]を藩内各地に建設して低利貸付と飢饉対策に充てて領民の生活を安定させ、商品作物の栽培や新田・塩田開発や商業振興を奨励した。また特産品の[[木綿]]を大坂商人を介さずに江戸で直接専売し[[藩札]]の一種「木綿切手」で決済する制度を構築、他にも皮革や石材を江戸で専売して利益を上げ、73万両もの借金を完済することに成功している。他にも藩校と別に私塾・[[仁寿山黌]]で次世代の人材育成を図っている。
==天保の藩政改革==
 
=== [[水戸藩]] ===
=== 熊本藩 ===
[[熊本藩]]藩主[[細川重賢]]が[[堀勝名]]を登用して断行。
 
===庄内藩===
[[安永]]4年([[1775年]])、藩主・[[酒井忠徳]]の命をもって本間光丘が藩の財政改革に携わることになった。光丘は大いに奔走し、妬む者もあったため一度は辞したが、藩主の命により再びこれにあたり、功績は大いに上がった。
 
== 天保の藩政改革 ==
=== [[水戸藩]] ===
藩主[[徳川斉昭]]が先導し実行する。早い時期から改革が行われ、幕政改革にも影響を与えた。特産物の[[専売制]]、領内の農地の検地を行い農村復興を図り、藩財政の建て直しを目指す一方で、[[藩校]][[弘道館]]の設立、[[藤田東湖]]などの登用を行い、積極的な人材育成を行った。財政的には成功したとは言いがたいものの、これにより[[水戸学]]が飛躍的に広がることになり、幕末の思想に影響を及ぼした。
他に徳川斉昭は[[黒船]]からの攻撃に備えて[[水戸藩]]内に[[那珂湊反射炉]]の築造と操業を藩士たちに命じ、西洋式の大砲を製造して[[オランダ]]式の西洋の[[兵学]]の導入と[[軍事訓練]]を行った。
 
=== [[長州藩]] ===
藩主である[[毛利敬親]]に抜擢された[[村田清風]]が中心になり実行する。藩による専売制を緩和し、その代わりに商人たちに[[運上]]銀を課し、藩に収めさせた。また、[[白石正一郎]]や[[中野半左衛門]]らに[[下関市|下関]]を通る諸国の貨物に対し、資金を貸し与える[[越荷方]]と呼ばれる藩による[[金融業]]を始めさせ、多大な利益を上げた。その他、他の藩と同様に下級藩士の積極的登用や、軍備の増強・近代化も実施している。
 
=== [[薩摩藩]] ===
{{main|薩摩藩の長崎商法天保改革}}
家老[[調所広郷]]がトップになり実行する。藩が豪商から借り受けた借入金500万両を250年という長期間での返還という強硬策を実施し、事実上、藩の負債を帳消しにした<ref>昭和62年[[杉並区]]のゴミ収集の際発見された「薩州様御渡御通(さっしゅうさまおわたしおんかよい)」([[江戸東京博物館]]蔵)では、天保5年([[1834年]])12月に大阪の有力な商人だった大根屋小兵衛から合計銀638貫650目(匁)借り受け、同年元金の約126分の1に当たる銀5貫66匁3分を返済している。3年目の天保7年には銀3貫546匁2分に減額され、明治元年になると返済額が金表示の22両3朱と銭448文になり、明治4年の[[廃藩置県]]まで38年間連綿と受け取っていたことが記されている(近松鴻二「大坂商人大根屋文書」江戸東京博物館 都市歴史研究室編集『東京都江戸東京博物館[[紀要]]』vol.2、公益財団法人東京都歴史文化財団、2012年)。</ref>。また、[[奄美群島]]で採れる[[砂糖]]を専売にし、[[琉球王国|琉球]]との[[貿易]]を積極的に行い、財政再建を行った。そのうち10年は幕府の許可を取らずに密貿易を行った。何人かの商人や指導者は処罰を受けたものの、幕府が衰えるきっかけとなった。
 
=== [[肥前藩]] ===
[[肥前藩]]藩主[[鍋島直正]]が実行する。[[陶磁器]]・[[石炭]]の専売化、[[均田制]]の採用による[[本百姓]]体制の再建を実施した。また日本初の[[反射炉]]・大砲製造所の設立による軍備の増強・近代化を実施した。
 
=== [[津藩]] ===
[[津藩]]では[[朱子学者]][[斎藤拙堂]]が中心になり実行する。[[藩校]]有造館を設立し、[[アヘン戦争]]後には海外事情についても研究を重ね、彼自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくこと([[和洋折衷]])を唱えた。有造館に[[洋学所]]を設置して藩医達とともに[[種痘]]を行い、洋式軍制を取り入れるなどの改革を行った。
 
== 幕末の藩政改革 ==
===[[ 備中松山藩]] ===
[[備中松山藩]]では農民出身の[[陽明学者]][[山田方谷]]を執政に迎えて改革を主導させた。方谷は破綻寸前の藩財政の実情を明らかにするとともに、紙屑同然の[[藩札]]の回収を行い専売制を導入した。ただし、方谷は藩財政の再建よりも領民に特産品を生かした産業を興させて豊かにしていく事を優先課題として力を注いだ。その結果、産業の振興とともに領民の生活は改善されて藩に納められる税収が安定するようになり、藩財政も急速に改善された。また、農兵制を導入して近代的な兵制を採り入れた。
 
== 脚注 ==
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[[Category:藩|*はんせいかいかく]]
[[Category:江戸時代の経済]]
[[Category:江戸時代の政治改革|*はんせい]]