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{{otheruses}}
{{基礎情報 武士
|氏名=豊臣 秀頼
|画像=Hideyori Toyotomi.jpg
|画像サイズ=250px
|画像説明=豊臣秀頼像([[養源院]]蔵)
|時代=[[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]
|生誕=[[文禄]]2年[[8月
|死没=[[慶長]]20年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1615年]][[6月4日]])
|改名=拾(幼名
|部名=藤吉郎
|戒名=帰寂山高陽寺殿秀山大居士
|墓所=[[京都市]][[東山区]]の[[養源院]]<br/>京都市[[右京区]]の[[清凉寺]]<br/>[[高野山]]の奥の院<br/>[[鹿児島市]][[谷山市|谷山]]の墓所
|官位=[[従三位]]・[[左近衛権中将]]、[[従二位]]・[[中納言|権中納言]]、[[大納言|権大納言]]、[[正二位]]、[[内大臣]]、[[右大臣]]
|氏族=[[豊臣氏]]
|父母=父:[[豊臣秀吉]]<br>母:[[淀殿]]([[浅井長政]]の長女)<br>義父:''[[徳川秀忠]]''
|兄弟=[[羽柴秀勝 (石松丸)|石松丸]]、[[豊臣鶴松|鶴松]]、'''秀頼'''
|妻=正室:'''[[千姫]]'''([[徳川秀忠]]の娘)従兄妹<br>側室:和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)
|子=[[豊臣国松|国松]]、[[天秀尼]][[豊臣秀頼#家族|他]]
|
'''豊臣 秀頼'''(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、{{旧字体|'''豐臣 秀賴'''}})は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[大名]]。[[太閤]]・[[豊臣秀吉]]の三男。
秀吉の[[側室]]であった茶々([[淀殿]])の第二子。子は[[側室]]・和期の方(名は伊茶。[[渡辺氏]])との間に[[豊臣国松|国松]]と、小石の方(おいわのかた。[[成田氏]])との間に[[天秀尼]](彼女の生母については異説がある)。[[位階]]は[[正二位]]、[[官職]]は[[右大臣]]。幼名は'''拾丸'''(ひろいまる)。なお、豊臣とは[[名字]]ではなく、[[本姓]]である{{refnest|group="注釈"|羽柴名字は確認されていない<ref>{{Cite journal|和書|author=村川浩平 |date=1996-06 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15072/ |title=羽柴氏下賜と豊臣姓下賜 |journal=駒澤史学 |ISSN=04506928 |publisher=駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会 |volume=49 |pages=57-89 |id={{CRID|1050564288183385856}}}}/所収:{{Cite book|和書|author=村川浩平|title=日本近世武家政権論|publisher=近代文芸社|year=2000}}</ref>。}}。乳母は[[宮内卿局]]・[[右京大夫局]](一説に両者は同一人物共)・[[正栄尼]]が伝わる。また、淀殿の乳母である[[大蔵卿局]]も養育係を務めた。
秀頼は父・秀吉の意思を継ぎ、秀吉の発願した高さ約19mもある[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])及び、それを安置する大仏殿の再建を進めた。しかし、同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り[[方広寺鐘銘事件]](京都大仏鐘銘事件{{Efn|方広寺という寺号は、江戸時代中期以降に自然発生的にそのように称されるようになり定着したもので、江戸時代初期にその寺号はないことから、「方広寺鐘銘事件」は'''「京都大仏鐘銘事件」'''と表記されることもある<ref>{{Citation|和書|editor1=小川雄|editor2=柴裕之|title=図説徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の天下人|publisher=戎光祥出版|year=2022}}</ref>。}})が発生し、徳川氏の[[江戸幕府]]と交戦することになった([[大坂の陣]])。この頃にはもはや徳川氏の優位が確立しており、世の趨勢を覆すには至らず、冬と夏の両陣を経て、大坂城が落城し秀頼は自刃。これにより豊臣氏(羽柴宗家)は滅亡した。
秀頼は生前に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。彼の寄進で造立された建造物には、[[東寺]]金堂や[[北野天満宮]]社殿などがあるが、今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、秀頼の文化的事業に対して一定の評価が与えられている<ref name="fujii">{{Cite journal|和書|author=藤井直正 |date=1983-11 |url=http://id.nii.ac.jp/1160/00001264/ |title=豊臣秀頼の社寺造営とその遺構 |journal=大手前女子大学論集 |ISSN=0285-9785 |publisher=大手前女子大学 |volume=17 |pages=048-072 |id={{CRID|1050845762664955264}}}}</ref>(後述の[[#秀頼の寺社造立]]を参照)。
== 生涯 ==
{{Wikisource|豊内記}}
=== 誕生から秀吉の死まで ===
[[文禄]]2年([[1593年]]
誕生した時には既に、従兄の[[豊臣秀次|秀次]]が秀吉の[[養子縁組|養嗣子]]として[[関白]]を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索した。
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文禄4年([[1595年]])7月、秀吉は秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこの時、秀頼に忠誠を誓約する[[起請文]]を作成し、多数の大名達に血判署名させている。[[伏見城|伏見(桃山)城]]が建設され秀吉が居城を移すと、秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。
文禄5年([[1596年]])5月13日、秀頼は秀吉とともに初めて[[
秀吉死後には五大老の[[徳川家康]]が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の[[前田利家]]の死去、[[
=== 関ヶ原の戦いと戦後処理 ===
慶長5年([[1600年]])、三成らが家康に対して挙兵して[[関ヶ原の戦い]]が勃発すると、西軍の総大将として擁立された五大老のひとり・[[毛利輝元]]の庇護下に秀頼は置かれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である[[七手組]]の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。
ところが、家康は五大老筆頭の立場を利用し、その戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる[[蔵入地|太閤蔵入地]])を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万[[石 (単位)|石]]のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]・[[和泉国|和泉]]の直轄地のみを[[知行]]する約65万石の一[[大名]]の立場に転落した([[関ヶ原の戦いの戦後処理]]を参照)。ただし、近年の研究により、西日本を中心とした大名への干渉を行ったり、蔵入地からは依然として収入があったりした形跡があったことが判明している。それでも豊臣家の財源を担っていた[[石見銀山]]、[[生野銀山]]は家康の直轄領になり、[[長崎奉行]]や[[堺奉行]]も家康譜代の家臣が就任していった。また秀吉の[[関白]]就任以来、関白職は豊臣家の者が就任するか空席になっていたが、家康の計らいで[[九条兼孝]]が関白に就任した。
慶長8年([[1603年]])2月、家康は[[鎌倉幕府]]や[[室町幕府]]の最高権力者の地位を象徴する[[征夷大将軍]]の官職を獲得。諸大名を動員して[[江戸城]]の普請([[天下普請]])を行わせ、独自の政権([[江戸幕府]])構築を始め、秀頼は次第に[[天下人]]の座から外されてゆくことになる。とはいえ、この江戸城の普請に関しても秀頼の直臣が奉行として指揮しており、一定の影響力を保っていた。
同年7月、秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた[[徳川秀忠]]の娘・[[千姫]](母は淀殿の妹である[[崇源院|お江]]で秀頼の従兄弟にあたる)と結婚した。
=== 一摂家の豊臣家 ===
[[File:Toyotomi Hideyori.jpg|thumb|200px|豊臣秀頼像]]
その後も、[[摂家|摂関家]]の[[家格]]に沿った順調な[[位階]]や[[官職]]の昇進を遂げた。毎年の年頭には[[公家]]が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、[[朝廷 (日本)|朝廷]]からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。[[武家]]の世界においても、秀頼家臣は[[陪臣]]ではなく、[[徳川将軍家]]直参と同等に書類に記載されるなど、秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持していた。この時期を日本に二つの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する[[笠谷和比古]]の説もあるが、これを批判・否定・疑問視する説は多い<ref>{{Cite book|和書|author=渡邊大門|authorlink=渡邊大門|chapter=二重公儀体制について|title=大坂落城 戦国終焉の舞台|series=[[角川学芸出版|角川選書]]|year=2012|pages=61-64}}</ref><ref>{{Citation|和書|author=森田恭二|authorlink=森田恭二|chapter=豊臣秀次・秀頼の政権と印判状|editor=有光友學|editorlink=有光友學|title=戦国期 印章・印判状の研究|publisher=岩田書院|year=2006}}</ref>。これにつき、慶長11年([[1606年]])の江戸城普請に際して、秀頼の家臣(大坂衆)である[[水原吉一|水原吉勝]]・[[伏屋氏|伏屋貞元]]の両名が普請奉行として参加しており、この両名と徳川方普請奉行五名とが連名で[[毛利氏|毛利家]]に対して[[石船]]の供出を命じた連署状の存在が明らかにされている<ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬 |author-link=白峰旬 |date=2017-03 |url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04709 |title=(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」について-笠谷和比古氏の学説・二重公儀体制論に関する新出史料の紹介- |journal=史学論叢 |ISSN=0386-8923 |publisher=別府大学史学研究会 |volume=47 |pages=138-153 |id={{CRID|1050001337845846656}}}}</ref>。一方で、この江戸普請のため片桐且元へ大坂の大工を中井正清の元へ派遣することを命じており、これを後の駿府城や内裏普請時に豊臣家へ課した普請役の先駆けとする見解がある<ref>横田冬彦『幕藩制的職人編成の研究』1996年</ref>。
慶長10年(1605年)[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、家康が[[高台院]]を通じて、秀頼に臣下の礼を取るように、秀頼の生母である[[淀殿]]に要求した。領地を削減されたとは言え、秀吉以来の豊臣氏の家格を守ろうとする[[淀殿]]が遺憾の意を表明し、会見を拒絶したが、家康は六男の[[松平忠輝]]を大坂に遣わし、融和に努めた。その一方で京都や大坂にいた諸大名の妻子が相次いで[[江戸]]へ移っており、江戸幕府も豊臣家に諮ることなく、[[越後福嶋騒動]]で[[越後高田藩]]を改易に、[[筒井騒動]]で[[伊賀上野藩]]を[[改易]]にするなど、徳川の天下が進んでいった。
慶長12年([[1607年]])1月11日、秀頼は[[右大臣]]を辞している。
慶長16年([[1611年]])3月、家康の計らいで[[後陽成天皇]]が[[後水尾天皇]]に[[譲位]]すると、
[[朝廷 (日本)|朝廷]]では誕生以来、秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしていた。これは関ヶ原後に家康に権力が移っても関白になり得る存在として朝廷内での位置づけは変わらず、慶長末年に秀頼が国家鎮護のために[[方広寺]]
=== 方広寺大仏(京の大仏)の再建 ===
[[File:Hokoji(rushanabutsu).jpg|thumb|200px|現在の[[方広寺]]本尊[[毘盧遮那仏|盧舎那仏]]座像。往時の大仏の1/10の大きさの模像と伝わる{{Sfn|村山|2003|p=159}}。]]
[[File:Karakuichiranzu(hokoji).jpg|thumb|200px|秀頼の造立した方広寺2代目大仏殿。かつては方広寺大仏殿が日本最大の木造建築であった。右隣に見えるのは三十三間堂。(「花洛一覧図」[[京都府立京都学・歴彩館]]デジタルアーカイブ 一部改変)]]
[[大坂の陣]]の契機となった[[方広寺]]鐘銘事件は、秀吉の発願した[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])の再建にあたり発生したもので、秀吉の[[刀狩]]で集めた刀剣類を「国土安全万民快楽」を掲げて材料として使用された方広寺大仏(京の大仏)及び大仏殿は豊臣公儀を象徴する存在で、その滅失後に豊臣家の威信回復のため慶長12年([[1607年]])には、秀頼により、豊臣家家臣の[[片桐且元]]を奉行として、再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図され、再建工事がなされることになった。
大仏の再建工事については史料に乏しく、いつ行われたか詳細は不明である。大仏殿再建工事については史料が多く残っており、それらによれば、大仏殿の立柱工事は慶長15年(1610年)8月22日から行われ{{Sfn|河内|2023|p=142}}、慶長17年([[1612年]])1月29日から大仏殿に屋根瓦を葺く作業が始まった{{Sfn|河内|2023|p=145}}。慶長17年中に大仏殿はほぼ完成し、工事着工から2年足らずという異例の速さで大仏殿の再建が完了したことが分かる{{Sfn|河内|2023|p=145}}。
なお、方広寺大仏・大仏殿の再建工事について、豊臣氏の単独事業ではなく、豊臣氏と徳川氏の共同事業であったとする説もある。通説では、家康が秀頼に方広寺大仏・大仏殿の再建を勧め、それを豊臣方が受け入れて再建工事の運びとなったとされる。しかし歴史学者の[[河内将芳]]は、豊臣氏に大仏・大仏殿再建工事費を負担させたのは事実だが、「大仏再建は秀頼と徳川の共同事業で、徳川もかなりの労力を注いだ。幕府は大仏を豊臣一色とは認識せず、東大寺の代わりになるものとして重視したのではないか<ref>{{Cite web|和書|title=豊臣の盛衰刻んだ大仏の梵鐘 方広寺(京都市)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC1901G_Q3A220C1000000/|work=NIKKEI STYLE 古きを歩けば(47)|date=2013-02-26|accessdate=2023-05-26}}</ref>。」とし、豊臣と徳川の共同事業であったとしている。河内は『新大仏殿地鎮自記』に以下の記述があることをその証左としている。慶長15年(1610年)6月12日に[[義演]]を導師として大仏殿の地鎮祭が行われたが{{Sfn|河内|2023|p=138}}、この時のことを義演が著した書が『新大仏殿地鎮自記』である。その書では、工事の大檀那(発注者)について「前将軍昨年(慶長14年)当堂御再興を御下知す、造作料においては、右大臣豊臣朝臣秀頼御下行なり」とあり、先将軍の家康が大仏殿再建の命令を発し、工事費は豊臣秀頼が負担することになっていた{{Sfn|河内|2023|p=139}}。また工事の棟梁については「番匠大和守([[中井正清]]) 前将軍御大工なり、ことごとくみなこの大工がままなり」とあり、中井正清が工事の全てを取り仕切ることになっていた{{Sfn|河内|2023|p=139}}。上記の記述より河内は、大仏再建にかかる費用は豊臣氏が負担するが、大仏・大仏殿再建工事そのものについては徳川氏が主導権を握ったとしている{{Sfn|河内|2023|p=137}}。
慶長17年([[1612年]])中に方広寺大仏・大仏殿の再建が完了したため、落慶供養の段取りを進めることになった。段取りは片桐且元が進め、武家間では[[京都所司代]]の[[板倉勝重]]や、[[徳川家康]]との協議がなされた。しかし落慶供養は武家側だけで決定できるものではなく、朝廷や公家・寺社勢力との協議も必要であった{{Sfn|河内|2023|p=153}}。方広寺は正式な寺号を持たず(「方広寺」という寺号は江戸時代中期以降に自然発生的に生じたもので、当時は単に「大仏」もしくは「東山大仏」「京大仏」などと呼称されていた)、朝儀を経て創立された寺院ではなかったため(悪く言えば豊臣氏の私的な建造物であった)、正式な寺院となるよう、朝廷との協議がなされた。寺号については「東大寺」とするか、もしくは新たに定めるかなどが候補として挙がっていたが、方広寺の寺号を「東大寺」と定め、方広寺を東大寺の継承寺院とする案も検討されていた{{Sfn|河内|2023|p=158}}。
=== 方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件) ===
{{main|方広寺鐘銘事件}}
=== 大坂の陣 ===
{{main|大坂の陣}}
慶長19年([[1614年]])に起こった[[方広寺鐘銘事件]](京都大仏鐘銘事件)を口実に秀頼と決裂し、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]が勃発する。秀頼は[[福島正則]]・[[加藤嘉明]]など豊臣恩顧の[[大名]]に援軍要請をしたが、大名で大坂方に味方した者はなく、その理由として、すでに西国大名が[[徳川秀忠]]に対して忠勤を誓う[[起請文]]を出していたことが原因ではないかとする指摘がある<ref>{{Cite journal|和書|author=福田千鶴|authorlink=福田千鶴|title=大坂冬の陣開戦までの西国大名の動向―黒田長政・島津家久を中心に―|journal=九州文化史研究所紀要|issue=59号|year=2016}}</ref>。福島正則が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認した程度にとどまった。一方、大坂城には[[真田信繁]]・[[後藤基次]]・[[長宗我部盛親]]・[[毛利勝永]]・[[明石全登]]など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や主家が西軍に与して改易されて[[浪人]]していた数万の武士が入城した。
緒戦では[[木津川口の戦い (1614年)|木津川口]]、[[博労淵の戦い|博労淵]]などの大坂城の周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城に撤収、[[野田・福島の戦い (1614年)|野田・福島の水上戦]]でも敗れる。ただ[[今福の戦い|今福]]や[[鴫野の戦い]]でも敗れてはいるが、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]軍を一時追い詰める抵抗を見せたため、大坂方強しと周知される。
大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に[[真田丸の戦い]]では幕府方が損害を受ける。
やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽き始め、家康は和議を提案。
和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。大坂方が和議の条件を履行しなかったため、幕府は自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。大坂方はこれに抗議するが、幕府は本丸を残し堀を埋め尽くした。
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慶長20年([[1615年]])、大坂方は浪人の総追放や[[国替]](大坂城退去)を拒否し、堀を掘り返し始めた。このため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]が勃発する。
[[大野治房]]が軍勢を率い[[大和郡山市|大和郡山]]に出撃し、制圧・略奪して帰還
敗戦続きで兵力が疲弊した大坂方は、家康・[[徳川秀忠|秀忠]]父子が大坂に布陣したところに決戦を挑む。[[天王寺・岡山の戦い]]である
[[ファイル:HideyoriYodoJijinM0678.jpg|200px|thumb|秀頼・淀殿の自害の場所(大阪城)]]
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==== 豊臣宗家滅亡 ====
大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に入城した。
大野治長は千姫
== 死後 ==
[[息子|男子]]の[[豊臣国松|国松]]は逃亡したものの結局、捕らえられて処刑された。娘の[[天秀尼]]は千姫の助命嘆願の働きかけもあり[[仏門]]に入ることを条件に助命された。また[[元禄]]初頭に80歳で没した[[求厭]]は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったという(『浄土本朝高僧伝』)。求厭の語ったことが事実なら、秀吉の血筋が途絶えたのは天秀尼の死去した正保元年([[1645年]])ではなく、求厭上人の死去した元禄元年([[1688年]])ということになる。
墓所は[[京都市]][[東山区]]の[[養源院]]ほか。また[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[豊國神社 (大阪市)|豊國神社]]は、父
[[1980年]]、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の[[頭蓋骨]]と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に[[介錯]]されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された<ref>{{Cite book|和書|author=木崎国嘉|title=秀頼の首|year=1982|publisher=共同出版社}}</ref>。骨は[[1983年]]、京都の[[清凉寺]]に埋葬された。
[[2011年]]10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である[[玉造稲荷神社]]に秀頼の銅像が建立された。
== 秀頼の寺社造立 ==
[[File:Toji, kondou-2.jpg|thumb|220px|秀頼の寄進で再建された[[東寺]]金堂(国宝)。金堂の外観は、秀吉の造立した[[方広寺]]初代大仏殿を模して造立されたとの伝承がある<ref>{{Cite book|和書|editor=[[東寺]]宝物館|title=東寺の建造物 古建築からのメッセージ|year=1995|page=60}}</ref>。]]
[[File:Toji-Nandaimon 2015.jpg|thumb|220px|[[東寺]]南大門(重要文化財)。 本来は慶長6年([[1601年]])に[[方広寺]]([[京の大仏]])の寺領に組み込まれていた[[三十三間堂]]の西大門として秀頼により建てられたものである。明治の廃仏毀釈で西大門は破棄される予定であったが、[[東寺]]の門が明治元年(1868年)に焼失したので、それの代替として東寺へ移築されることになった。]]
[[ファイル:Enryaku-ji Yokokawa-chudo-r.jpg|thumb|220px|秀頼と[[淀殿]]の寄進で再建された[[延暦寺]]横川中堂。ただし豊臣氏の寄進で造立された旧堂は昭和17年(1942年)に落雷で焼失してしまったため、現在のものは旧堂を模してコンクリート造で復元されたものである。]]
[[ファイル:Main Shrine, Kitano-tenmangu-No4-2020-07.jpg|thumb|220px|秀頼の寄進で整備された[[北野天満宮]]社殿のうち拝殿(国宝)。]]
秀頼は、秀吉没後から秀吉の追善供養として[[畿内]]を中心に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。主なもので、寺院では[[東寺]]金堂・[[三十三間堂]]西大門(現[[東寺]]南大門)・[[延暦寺]]横川中堂・[[清凉寺]]本堂・[[真正極楽寺]]本堂・[[金戒光明寺]]阿弥陀堂・[[南禅寺]]法堂・[[相国寺]]法堂・[[寂光院]]本堂・[[大報恩寺]]本堂・[[法華寺]]本堂・[[勝尾寺]]本堂・[[鞍馬寺]]毘沙門堂
・[[朝護孫子寺]]本堂・[[須磨寺]]本堂・[[金峯山寺]]威徳天満宮・[[善光寺]]本堂・[[四天王寺]]五重塔(移築)・[[醍醐寺]]本堂(移築)・[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺]](諸堂の修理)・[[観心寺]](諸堂の修理)などで、神社では[[石清水八幡宮]]・[[北野天満宮]]・[[住吉大社]]・[[誉田八幡宮]]・[[西宮神社]]・[[吉野水分神社]]・[[由岐神社]]・[[白鬚神社]]・[[都久夫須麻神社]]・[[熱田神宮]]・[[津島神社]]・[[出雲大社]]の各社殿などで、多数にのぼった。ただしこれらの事業について秀頼が幼少の頃になされたものも多く、秀頼の意思によるものかは不明確ではある。既述のように豊臣氏の財力を削ぐための[[徳川家康]]の謀略で、幕命でそのようにせざるを得なかったとする俗説もあるが、真相は定かではない。真相や思惑その背景は不明確だが、秀頼の代の豊臣氏の施策によって寺社の再興が進んだのは紛れもない事実で、その施策で造立され現存している建造物については、今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、その文化的事業に対して一定の評価が与えられている<ref name="fujii" />。
秀頼の寄進で寺社勢力は宗勢を回復したが、方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)で豊臣氏が苦境に陥った時、寺社勢力で豊臣氏の弁護・助力に積極的にまわったものはなかった。歴史学者の[[村山修一]]は「(鐘銘文の作者)清韓は国家安康君臣豊楽と徳川豊臣の融和繁栄を裏に偶したつもりであったが、逆用曲解される始末になった。」「(鐘銘事件に類似した[[阿衡事件]]では)基経を諫止ないし批判した[[菅原道真]]のごとき人物が出たことは痛快というべく、これに対し鐘銘事件では誰一人正面から家康に反対意見を開陳した者はなく、作者清韓を支持したのはわずかに[[妙心寺]]の[[海山元珠|海山和尚]]ただ一人であった。」「鐘銘事件にみる(家康に加担・迎合した)僧侶の暗躍ないし[[幇間]]的行動は、古代中世にわたる日本仏教の権威に汚点を遺した。」としている{{Sfn|村山|2003|p=121}}{{Sfn|村山|2003|p=125}}。
== 官位叙任履歴 ==
* [[慶長]]2年([[1597年]])9月27日
* 慶長2年9月28日 -[[左近衛権中将]]{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=79}}
* 慶長
* 慶長
* 慶長
* 慶長
* 慶長
* 慶長10年([[1605年]])4月13日 - [[右大臣]]に任ず(前任は徳川家康。内大臣の後任は[[徳川秀忠]])。
* 慶長12年([[1607年]])1月11日 - 右大臣を辞す(後任は[[九条忠栄]])。
秀吉は文禄4年([[1595年]])2月に秀頼の[[叙爵]]{{refnest|group="注釈"|五位への叙任。通常は[[従五位下]]叙任を指すが、摂家嫡子の場合は元服とともに[[正五位下]]に叙されるのが通例であった{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=79 ]}}。}}を奏請しており、これは勅許されたと『[[御湯殿上日記]]』にあるが、翌文禄5年正月にも再度叙爵を奏請しており、豊臣家側の都合により文禄4年の叙爵は辞退されたものと見られる{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=81}}。文禄5年の叙爵も辞退したという説があるが、少なくとも慶長2年9月までの時期に叙爵され、[[従五位上]]の位階を受けたと見られている{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=81}}。
慶長3年の中将から[[参議]]を経ずに中納言に直接任じられるのは[[摂家]]嫡子と同じ扱いであり、豊臣家が摂家と同格であることを明示している。この際に天皇から[[大納言|権大納言]]に任じる旨があったが、秀頼はこれを辞退し、摂家を超えることは示されなかった{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=84}}。秀吉没後で左右大臣が不在となっていた慶長4年頃には一両年のうちに秀頼を左大臣に任じようとする動きがあったものの、結果的には摂家嫡子とさほど変わらない昇進速度であった{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=85-86}}。
『[[公卿補任]]』などの史料に残る秀頼の官歴は上記のものであるが、一部の史料には異同もある。[[四天王寺]]の[[金銅行事鉦]]には「慶長四年」「従四位下豊臣朝臣秀頼」の銘が残されている{{sfn|遠藤珠紀|2021|p=84}}。
[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]が所蔵していた『[[押小路家文書]]』には、慶長13年([[1608年]])4月28日付の任[[左大臣]][[宣旨]](辞令)が収録されている。これが正式に発給された文書であれば、秀頼は前右大臣の家康を官職で上回っていたことになる。ただし、『公卿補任』では慶長13年当時の左大臣は[[鷹司信房]]であり、慶長11年11月21日から13年12月26日まで務めている<ref>{{Cite book|和書|title = 国史大系 第10巻 公卿補任中編|id = {{NDLJP|991100/360}} |editor = 経済雑誌社|publisher = 経済雑誌社|date = 明治31|doi = 10.11501/991100|page=712}}</ref>。
右大臣豐臣朝臣
正三位行權中納言[[勧修寺光豊|藤原朝臣光豐]]宣
奉 勅件人宜令任左大臣者
慶長十三年四月廿八日 [[外記|大外記]][[
また、豊臣氏の[[氏長者]]と言える豊氏長者については、氏長者は世襲ではなく一門の上首(最も官位が高く、同じ地位なら先に任じられた者)が任じられる慣例が存在するため、秀吉が死去したときに秀頼は豊臣家(羽柴宗家)の家督は継げたものの、豊氏長者は継げなかったと考えられている(前述の基準に従えば、次の氏長者は徳川家康が任じられることになってしまうため)。ただし、五大老ら豊臣政権首脳の間では将来的に秀頼が豊氏長者に就くという合意はあったと考えられ、氏長者の[[氏爵]]の権限に由来すると考えられている官位推挙は秀頼の名前で行われている。しかし、関ヶ原の戦いなどによる政治的混乱の影響か、その後も秀頼が氏長者に任じられたとする記録は確認されておらず、最終的には豊氏長者は空席のまま任命された無かった可能性が高い<ref>{{Citation|和書|author=堀越祐一|chapter=『豊臣政権』の解体過程|title=豊臣政権の権力構造|publisher=吉川弘文館|date=2016-3|isbn=978-4-86403-530-9|pages=241}}</ref>。
== 人物 ==
* 後藤又兵衛の小姓を務めた長澤九郎兵衛の覚書『長澤聞書』には、「世に無き御太り」と記されている<ref>近藤瓶城編『[{{NDLDC|1920319}} 史籍集覧 16]』近藤出版部、1926年、長澤聞書第53頁、コマ番号32。近代デジタルライブラリー</ref><ref>[http://www.inari.or.jp/hideyori/index.html 豊臣秀頼公(玉造稲荷神社)]</ref>。江戸中期成立の逸話・見聞集『明良洪範<ref>{{近代デジタルライブラリー書誌情報|49002525|明良洪範}}</ref>』は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。
* 妻である[[千姫]]との間に子供はできなかったので、[[側室]]の子を千姫の養子とした。
* 江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度[[延喜・天暦の治]]が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。
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== 生存説 ==
大阪城が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから[[生存説]]がある。『日本伝奇伝説大辞典』の星野昌三による「豊臣秀頼」の項<ref>{{Cite book|和書|title=日本伝奇伝説大辞典
* [[平戸]]にいた[[リチャード・コックス]]の[[イギリス東インド会社|東インド会社]]への手紙(日記にも記述あり<ref>[
* 『採要録』には薩摩国[[谷山市|谷山]]に[[元和 (日本)|元和]]初め浪士が住み着き、国主からの家に住んでいた。酒好きでいつも酔って、あちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」と呼ばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民は密かに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている。
* [[鹿児島市]][[下福元町]]に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓2基もあるという。
* 昭和42年(1967年)から同43年(1968年)に鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて[[日出藩]]主・[[木下延俊]]の庇護を受け、宗連と号し45歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり長じて[[立石領]]初代領主・[[木下延由]]となったとする説を唱えた。ちなみに延由嫡流の血
* 旧[[日出藩]]主木下家18世当主である木下俊煕は著書
* 豊臣正統14世を自称する[[木場貞幹]]は『歴史と旅』<ref>『歴史と旅』1983-08秋田書店
* 江戸時代の小説『真田三代記』<ref>土橋治重『真田三代記』
* PHP研究所、1989年 ISBN 4569563090
* 教育社、1982年 ISBN 978-4-315-40146-2</ref>第178節「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で[[真田幸昌|大助]]、長宗我部盛親、後藤又平衞ら150名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、[[島津氏|島津家]]の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている。
== 家族 ==
*父:[[豊臣秀吉]](1537 - 1598)
*母:[[淀殿]](1569 - 1615)- [[浅井長政]]の長女で後に[[豊臣秀吉]]の養女。
*正室:[[千姫]](1597 - 1666)- 号は天樹院。[[徳川秀忠]]の娘で、後に[[本多忠刻]]正室。
*側室:和期の方 - 別名・伊茶。[[渡辺五兵衛]]の娘。
**長男:[[豊臣国松]](1608 - 1615)
*側室:小石の方 - [[成田助直]]の娘。
**長女:[[天秀尼]](1609 - 1645)
*伝承的・不明確な子女
**[[求厭]](? - 1688)- 臨終の直前に秀頼の第二子だと告白し、国松は兄だという{{refnest|group="注釈"|[[慶長]]18年([[1613年]])に誕生。[[元禄]]年間初めに死去。墓所は鎌倉[[東慶寺]]<ref>『[[本朝高僧伝]]』</ref>。}}。
== 近年の研究動向 ==
従来、豊臣秀頼の研究は低調であり、[[
秀吉の非実子説は、[[文禄・慶長の役|文禄の役]](朝鮮出兵)に秀吉が忙殺され、主として[[肥前]][[名護屋城]]に滞在していた時期と淀殿の懐妊が重なっていることや、[[正室]]([[高台院]])の他に愛妾を多数抱えた秀吉の子とされるのが秀頼と夭逝した兄・鶴松しかいないことから推測されている。[[ルイス・フロイス]]も、秀吉に子種がないという
しかし、秀吉には長浜城主時代に[[羽柴秀勝 (石松丸)|石松丸秀勝]]と女児がいたという説もあり、その場合に淀殿との間にしか子供が生まれなかったという説が
== 関連作品 ==
;小説
:* [[司馬遼太郎]]『[[豊臣家の人々]]
:* 司馬遼太郎『[[城塞 (小説)|城塞]]
:*
:* [[万城目学]]『[[とっぴんぱらりの風太郎]]
:*[[木下昌輝]]「お拾い様」(『戦国24時 さいごの刻』収録、[[光文社]]、2016年 / 『戦国十二刻 終わりのとき』と改題し文庫化、[[光文社文庫]]、2019年) - 大坂夏の陣を題材にした短編。
:*[[田中啓文]]『誰が千姫を殺したか 蛇身探偵豊臣秀頼』(講談社文庫、2023年)
;テレビドラマ・映画
:* 『[[大坂城の女]]』(1970年、[[フジネットワーク|フジテレビ系]]、演:[[高橋長英]]など)
:* 『[[真田幸村の謀略]]』(1979年、[[東映]]、演:[[小倉一郎]])
:* 『[[おんな太閤記]]』(1981年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[井上純一 (俳優)|井上純一]]など)
:* 『[[女たちの大坂城]]』(1983年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、演:[[船越英一郎]])
:* 『[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]』(1985 - 86年、NHK、演:[[円谷浩]])
:* 『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』(1989年、NHK、演:[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]など)
:* 『[[風雲!真田幸村]]』(1989年、[[テレビ東京]]、演:[[新井昌和]])
:* 『[[葵 徳川三代]]』(2000年、NHK大河ドラマ、演: [[尾上菊之助 (5代目)|尾上菊之助]]など)
:* 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(2011年、NHK大河ドラマ、演: [[太賀]])
:* 『[[影武者徳川家康]]』(2014年、テレビ東京、演: [[髙地優吾]])
:* 『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』
:*『[[どうする家康]]』(2023年、NHK大河ドラマ、演:[[作間龍斗]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{
=== 出典 ===
{{
== 参考文献 ==
* [[桑田忠親]]『淀君』吉川弘文館、1958年
* [[二木謙一]]『大坂の陣―証言・史上最大の攻防戦―』中央公論社、1983年
* {{Cite book|和書|author=井上安代<!--|authorlink=井上安代-->|title=豊臣秀頼|year=1992|publisher=続群書類従完成会}}
* {{Citation|和書|last=村山|first=修一|authorlink=村山修一|title=京都大仏御殿盛衰記|publisher=法藏館|year=2003}}
* {{Cite book|和書|author=森田恭二|authorlink=森田恭二|title=悲劇のヒーロー 豊臣秀頼|year=2005|publisher=[[和泉書院]]}}
* {{
* {{Citation|和書|last=河内|first=将芳|authorlink=河内将芳|title=秀吉の大仏造立|year=2008|publisher=法藏館|series=シリーズ 権力者と仏教1|isbn=978-4831875839}}
* {{Citation|和書|last=河内|first=将芳|title=秀吉没後の豊臣と徳川 京都・東山大仏の変遷からたどる|publisher=[[淡交社]]|year=2023}}
* {{Cite book|和書|author=服部英雄|authorlink=服部英雄|title=河原ノ者・非人・秀吉|year=2012|publisher=山川出版社|isbn=978-4634150218}}
* {{Cite book|和書|author=曽根勇二|authorlink=曽根勇二|title=大坂の陣と豊臣秀頼(敗者の日本史)|year=2013|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4642064590|ref={{SfnRef|曽根|2013}}}}
* {{Cite book|和書|author=福田千鶴|authorlink=福田千鶴|title=豊臣秀頼|year=2014|series=歴史文化ライブラリー|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4642057875|ref={{SfnRef|福田|2014}}}}
* {{Cite journal|和書|author=遠藤珠紀|authorlink=遠藤珠紀|title=豊臣秀吉の唐冠と子息秀頼|journal=國學院雑誌|year=2021|volume=122|series=11|publisher=國學院大學|ref=harv}}
== 関連項目 ==
180 ⟶ 234行目:
* [[リチャード・コックス]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{豊臣氏当主|[[豊臣氏|豊臣宗家]]及び[[羽柴氏|羽柴宗家]]|1598年-1615年}}
185 ⟶ 241行目:
{{豊臣政権}}
{{Portal bar|日本|大阪府|歴史|戦争|人物伝}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とよとみ ひてより}}
[[Category:豊臣氏|ひてより]]
[[Category:
[[Category:淀殿|+ひてより]]
[[Category:千姫|+1ひてより]]
[[Category:織豊政権の大名]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
[[Category:大阪城]]
[[Category:切腹した人物]]
[[Category:摂津国の人物]]
[[Category:大阪市出身の人物]]
[[Category:17世紀アジアの統治者]]
[[Category:17世紀日本の政治家]]
[[Category:1593年生]]
[[Category:1615年没]]
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