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|家紋= Ageha-cho.svg
|家紋名称= {{ruby|揚羽蝶|あげはちょう}}
|本姓= '''称'''・[[崇神天皇平氏#桓武平氏|桓武平氏]]の末の太子<br/>「皇極ノ太子」の太子[[平繁盛|繁盛]]流<br/>'''称'''・桓武[[清和源氏]][[平繁盛源頼季|繁盛頼季]]流[[乙葉氏]]族<br/>[[阿部氏]]?<br/>[[阿曇氏|安曇氏]]?
|家祖= [[仁品王]]<br/>[[仁科高明]]<br/>[[仁科盛遠]]?
|種別= [[武家]]
|出身地= [[信濃国]]
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|支流= [[穂高氏]]<br>[[等々力氏]]<br>[[古厩氏]]<br>[[渋田見氏]]<br>[[小岩氏]]<br>[[飯森氏]]<br>[[塩島氏]]<br>[[沢渡氏]]<br>[[日岐氏]]<br>など多数
}}
'''仁科氏'''(にしなうじ)は、日本の[[氏族]]。系統は'''仁品王系・皇極太子系'''・[[平繁盛|桓武平氏繁盛流]]([[信濃平氏]])・'''、[[清和源氏・義光流・武田支流'''。また、]][[源頼季|清和源氏頼季流]][[乙葉氏]]([[信濃源氏]])の仁科氏の諸説もあるとされる。
 
== 信濃仁科氏 ==
=== 仁品王系仁科氏 ===
成立した時期や経緯が不明の史書『[[仁科濫觴記]]』のみに見られ、祖は仁品王(仁品主、仁品親王とも)。「仁品」は、[[長野県]][[池田町 (長野県)|池田町]]公民館所蔵の『仁科濫觴記』では「ひとしな」と訓じられているが、仁科宗一郎は「にほん」と訓じることを考察している{{Sfn|仁科|1972|p={{要ページ番号|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}}}。
同記録によれば、[[崇神天皇]]の末の太子であり、[[垂仁天皇]]の弟にあたる人物。都より下向し、王町(現・[[大町市]])に館を構え、[[犀川 (長野県)|犀川]]{{Efn|『仁科濫觴記』では、「犀川」とは書かれておらず、山征場あるいは山征地(現・[[山清路]])の水路を広げたとあるのみ。}}の水を開いて[[安曇野|安曇平]]を開墾し、[[仁科神明宮]]を建立した。子には、早世し[[若一王子神社]]として祭られた一ノ宮と、仁品王の跡を継いだ二ノ宮があった。
 
[[白雉]]2年([[651年]])には、二ノ宮から数えて21代目(つまり22代目)の子孫、[[高根伊勢]](たかねのいせ)が継ぎ、一族は伊勢、出雲、隠岐、主膳の四家に分かれて栄えていた。
 
『新撰仁科記』には「後仁科氏( = [[平清盛]]の子孫)の家臣」の高根氏の系図として
 
・高根伊勢守藤原高明([[嘉吉]]年間に中島川や穂高川の水を引き貝梅城を築く) - 出雲守高通(高明の弟) - 主膳正宣光(筑摩郡日岐城を築き移住) - 隠岐守成長(豊武とも) - 和泉守明成([[天文 (元号)|天文]]年間に仁科の南原城に移住)
とある。
 
[[斉明天皇]]2年([[656年]])に、大海人皇子([[天武天皇]])に比定されうる「皇極ノ太子」の密命で、その3歳になる子が[[岡本宮]]から仁科の城主として派遣されたことにより、高根伊勢の代からは皇極太子系仁科氏の家臣に下ることとなる。その際、高根伊勢を[[国守]]に任命した。信濃国守に高根氏の名前があることは、『新撰仁科記』、『信濃宝鑑』にもみえる。
 
=== 皇極太子系仁科氏 ===
「皇極ノ太子」の3歳の子は、仁品の館に入り、宝祚谷(ほそ(が)や)氏{{Efn|現在の安曇野市豊科に大伴姓の細萱(ほそがや)氏があったが、ここでは現在の北安曇郡松川村をさす。}}と名乗った。7歳のときに高明王(高明天王、高明親王)と名乗ることとなり、[[天智天皇]]7年([[668年]])には和泉守に被任したことから仁科和泉守高明(森和泉守)とも呼ばれる。この年、皇極ノ太子の命で、「仁'''品'''」は「日本」と訓が同じであることから、「仁'''科'''」と改めさせられた。ここで、仁科の姓が起こることとなる。
 
上記の『仁科濫觴記』では、[[9世紀]]の仁科高明王の孫(高明王の子・美濃殿の子・一若殿と八面大王を討伐した仁科明清)の代までの記述しかない。
 
=== 平姓仁科氏 ===
[[発祥|出自]]は諸説あり、いまだ確定されていない。[[平安時代]]末期の[[治承・寿永の乱]]前後から史書に登場するようになる。
 
* 歴史家・小山愛司による『信濃史源考』は、奈良時代に[[信濃国]][[安曇郡]]に古代豪族[[阿倍氏]]または[[阿曇氏|安曇氏]]{{Efn|[[大宝律令]]後は安曇[[郡司]]。}}が定住し、その支族が[[伊勢神宮]]の御領「[[仁科御厨]]」を本拠としたことを起源とする、という説を紹介している{{Sfn|中央学会|1940|p={{要ページ番号|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}}}。
* 『[[信府統記]]』は、[[承安 (日本)|承安]]の頃、[[陸奥国|奥州]][[安倍貞任]]の末裔(まつえい){{Efn|あるいは貞任の弟[[安倍則任|則任]]の末裔。}}の「五郎丸」を名のる者が、仁科[[城代]]の[[荇野谷政治|荇野谷(かんのや)政治]]を討ち、仁科の城をのっとった(仁科氏を滅ぼしたわけではない)、という伝承を紹介している{{Sfn|信濃史料|1973|p=360 - 361}}。五郎丸は悪逆不道であったため、鎌倉に訴え[[仲原義治]]を差し向けたが、これも討たれ、悪逆は増長した{{Sfn|渡辺|1974|p=143}}。その後、[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]に仕えた仁科城主の「山田治郎」([[仁科盛遠|盛遠]]か?)?)の末子(もしくは末孫)で、源義仲に仕えた「山田次郎」によって誅され、五郎丸の首を鎌倉の[[藤原頼経|頼経]]に謁した、という{{Efn|この逸話は「旧俗伝」と称して近隣の話を集めたものであり、参照した文献名もなく、信府統記の著者自ら「上古ノ沿革ハ其所由分明ナラザルカ・・・棄テ置キ難キカ故ニ、別ニ集テ一巻トナス」と、真偽がわからぬことを断っている。}}。
* 菩提寺の[[霊松寺 (大町市)|霊松寺]]の縁起では、[[永承]]7年([[1052年]])[[平清長]]が仁科郷領主となり仁科を姓としたという{{Sfn|霊松寺|2004|loc=霊松寺の歴史}}。
* 『岩城仁科系図』によると、[[平貞盛]]の後裔の[[平中方]]([[平直方|直方]]の兄)の子が、[[仁科盛遠]](仁科次郎)を名乗ったことになっている{{Sfn|国書刊行会|1915|p=96}}。同系図には、盛遠とその子2人(盛勝(仁科太郎)と盛義(仁科三郎))の3名のみがみえる{{Sfn|国書刊行会|1915|p=96}}。盛遠の祖父で僧侶の妙覚は[[文覚]]上人の弟子という。一方『[[平家物語]]』は、[[源義仲]]の家臣に、[[寿永]]2年([[1183年]])の北陸での戦いに参戦している「仁科の次郎」<ref>『平家物語』巻第七・第六十六句(国会図書館・百二十句本)</ref>をあげており、『[[源平盛衰記]]』によって「仁科次郎」とは「[[仁科盛家|盛家]]」<ref>内閣文庫蔵 『源平盛衰記』 慶長古活字本(国民文庫)巻第三十二</ref>であることがわかる。盛家は治承3年(1179年)に安曇郡[[覚音寺 (大町市)|覚薗寺]]に千手観音を寄進した際に平朝臣と墨書している。さらに『源平盛衰記』には、「仁科太郎・守弘」<ref>内閣文庫蔵 『源平盛衰記』 慶長古活字本(国民文庫)巻第二十八</ref>もみえる。したがって、ここでの「仁科太郎・次郎」は、[[治承・寿永の乱]]時のものとは異なる。
*『飯砂山仁科系図』では、[[鎌倉幕府]]滅亡後、平姓[[関盛長]]の子である盛忠が仁科城主源義隆の婿となり、[[文和]]2年([[1353年]])に仁科郷領主となったという[[関氏]]出身説を採っている。 
* [[平正弘|正弘流]]と称した[[布施氏]]、[[富部氏]]と[[越後平氏]]流と称した[[信濃和田氏]]とは同族とされる。
 
==== 平安・鎌倉時代 ====
伊勢神宮領の[[仁科神明宮|仁科御厨]]の厨司を委任され、自らも[[開発領主]]として[[仁科荘]]を開発し、この頃には既に安曇郡一帯を治める大豪族として知られた。仁科盛家は[[源義仲|木曾義仲]]の挙兵に従って、[[横田河原の戦い]]、[[倶利伽羅峠の戦い]]などで武功を上げ、在洛中は京中警護を行い、[[水島の戦い]]で戦死した。[[信濃源氏]]高梨盛光の四男盛弘も仁科氏の養子となって義仲挙兵に従い、盛弘の子である盛宗(左近太夫)は[[建武の新政]]で[[後醍醐天皇]]方の[[武者所]]の寄人を務めたとされる。[[建久]]8年(1197年)の[[源頼朝]]の[[善光寺]]参詣には仁科太郎が供奉している。また義仲に仕えた仁科大助は[[戸隠山]]で[[修験道]]を究め、[[戸隠流]][[忍術]]の祖となったとされる。
 
[[仁科盛遠|盛遠]]は[[熊野三山|熊野]]参詣の折に[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の知遇を得て[[西面武士]]を務めたが、その処遇が一端となって、[[承久]]3年([[1221年]])に[[承久の乱]]が起きた。盛遠は上皇方として[[北陸道]]に派遣されて[[越中国]]で[[北条朝時]]の幕府軍と戦い敗死した。[[暦仁]]元年(1238年)、将軍[[藤原頼経]]の上洛の隋兵を仁科次郎三郎が務めている。[[建治]]元年([[1275年]])5月[[若宮八幡宮社|六条八幡新宮]]の造営費用が全国の御家人に求められると、信濃国に住む仁科三郎跡は、7貫文を納めた{{Refnest|国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」{{Sfn|海老名|福田|1992|p=}}。}}
 
==== 室町・戦国時代 ====
[[建武の新政]]下では、[[仁科盛宗]](左近大夫将監)が[[武者所]]結番第2番の寄人を務めた記録があり(『[[建武記|建武年間記]]』延元元年四月条)、[[後醍醐天皇]]や[[新田義貞]]に従い、東海・東山両道から[[足利尊氏]]追討軍に参加し、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1336年]])の[[矢作川の戦い]]などに参戦したが([[建武の乱]])、結果として敗北した。[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の争いには南朝に属し、仁科盛宗は国司[[藤原光継|堀河光継]]に従ってい、[[近江国]]坂本の陣した。また信濃では[[宗良親王]]を奉じ、[[文和]]元年([[1352年]])の[[武蔵野合戦]]陣したが敗北した。その後、北朝側の[[守護]][[小笠原長基]]と争ったが、南朝衰亡によって北朝に帰属した。一族の[[仁科重貞|重貞]]は上洛して後醍醐天皇に随身している。その後の[[大塔合戦]]では盛房が大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒し、[[小笠原長秀]]を[[信濃国|信濃]]から追い払う活躍を見せる{{Sfn|信濃郷土研究会|1932|p=}}{{Sfn|信濃史料編纂会|1969|p=}}
 
仁科氏重([[仁科重貞|重貞]])は、[[湊川の戦い]]後に比叡山に逃れる後醍醐天皇に随身した。[[貞和]]4年(1345年)には越後国沼川において新田氏の挙兵に参加したが、同国守護代の長尾氏に鎮圧された。また信濃では[[宗良親王]]を奉じ、[[文和]]元年([[1352年]])の[[武蔵野合戦]]に出陣したが敗北した。その翌年には、北朝側の[[守護]][[小笠原長基]]と争ったが、南朝衰亡によって北朝に帰属した。その後の[[大塔合戦]]では[[仁科盛房]]が大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒し、[[小笠原長秀]]を[[信濃国|信濃]]から追い払う活躍を見せる{{Sfn|信濃郷土研究会|1932|p=}}{{Sfn|信濃史料編纂会|1969|p=}}。寛正6年(1465年)には[[室町幕府]]が仁科持盛に安曇郡における国人の知行地押領をやめさせるよう[[奉書]]を下している。
 
[[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では東軍([[細川勝元]])につく。[[文明 (日本)|文明]]12年([[1480年]])には[[仁科盛直]]が[[小笠原長朝]]と[[穂高川]]で戦って敗れたが(穂高合戦)、翌文明13年([[1481年]])[[諏訪氏]]に従って長朝の軍を破った。また、[[長享]]元年(1487年)からの[[長享・延徳の乱]]では、将軍[[足利義尚]]の近江守護[[六角高頼]]征討に出陣して戦功を挙げた。[[仁科明盛]]も[[永正]]10年([[1513年]])に将軍[[足利義稙]]が六角征討を再開すると近江に出陣した。
 
その後、『二木家記』や『小笠原系図』に名前が見られる[[仁科盛能|盛能]](道外)は信濃守護となった[[小笠原長時]]に従って縁戚関係を結んでおり、[[天文 (元号)|天文]]年間に本格化した[[甲斐国]][[守護]][[武田氏]]の[[信濃侵攻]]においては[[小笠原氏]]や[[村上氏]]と同調して武田に抗していた。しかし盛能は、[[天文 (元号)|天文]]17年(1548年)の[[塩尻峠の戦い]]を前に戦線離脱し、この戦いで小笠原長時が武田方に大敗する原因となった。
 
武田方の史料である『[[高白斎記]]』によれば天文19年(1550年)に仁科上野介([[仁科盛政]]か)を介して[[諏訪郡]]高島で[[駒井高白斎]]と会談し、武田氏に臣従している。武田方に帰属した仁科氏は[[千国街道]]の流通など支配権益を保障され、道外の孫である[[仁科盛政|盛政]]の頃には武田[[被官]]化するが、永禄4年(1561年)の[[川中島の戦い#第四次合戦|第四次川中島の戦い]]の折に一族の間で内紛が発生し、さらに盛政自身も上杉氏に寝返ったとして処刑されたとされる(『[[甲陽軍鑑]]』)。しかし永禄10年(1567年)に武田氏配下の諸将が[[生島足島神社]]に提出した起請文に「仁科盛政」のものが含まれている。いずれかの理由で仁科氏の正統は絶えた。
 
[[武田信玄]]は信濃攻略において、[[諏訪氏]]、[[海野氏]]など信濃名族に対して実子に[[名跡]]を継がせ親類衆に列して懐柔する方法を行っているが、仁科氏も五男に名跡を継がせた([[仁科盛信]])。以降仁科氏は平姓を改め、「清和源氏・義光流・武田氏支流」として源姓を名乗った。一方、「仁科氏系譜」によると、仁科盛政の子、盛孝と盛清は信玄の許しを経て[[飯縄神社]]の神主「千日次郎太夫」の養嗣となり、天正6年(1578年)に[[武田勝頼]]から「仁科勘十郎」を世襲名として与えられ、[[江戸幕府]]からも[[地位]]と社領を[[安堵]]され、[[神官]]として[[明治維新]]まで存続した。<ref>[[小林計一郎]]「飯綱神社」『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃・飛騨・信濃』[[谷川健一]]編、[[白水社]]、[[1987年]]</ref>。
 
==== 系図 ====
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* 仁科盛弘 - 盛家 - 盛遠 - 盛勝 → [[承久の乱]]後の処分で[[関氏]]から養子を迎える
* 関盛長 - 仁科盛忠 - [[仁科盛国|盛国]] - [[仁科盛房|盛房]] - 盛豊 - 持盛 - [[仁科盛直|盛直]] - [[仁科明盛|明盛]] - [[仁科盛国|盛国]] - [[仁科盛能|盛能]] - [[仁科盛康|盛康]] - [[仁科盛政|盛政]] → 武田氏が跡目を相続する
 
==== 仁科衆 ====
また仁科氏の支族は戦国時代仁科盛信の下で「仁科衆」として組織された(は、穂高・沢渡等々力・堀金・渋田見(長生寺)・沢渡(須沼)・庄科・古厩・飯森・塩島・小岩嶽・池田・大和田・松川・松田・岡村・日岐(丸山)・真々部・ 鵜山・小宮・耳塚・真々部・成相・野口などの各氏があり<ref>生島足島神社編「起請文にみる信玄武将」[[2006年]]</ref>、戦国時代に仁科盛信の下で「仁科衆」{{Efn|[[大伴氏|大伴姓]]の細萱・成相・熊倉・及木・飯田氏などの各、[[滋野氏|滋野姓]]の西牧氏なども含む}}として組織された

平姓仁科宗家・武田両氏滅亡後、上杉氏に臣従し[[米沢藩]]士として仕えた者、小笠原氏に出仕した者に分裂したが、多くは[[兵農分離]]で帰農した{{Sfn|大貫|2018|p={{要ページ番号|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}}}。
 
=== 源姓仁科氏 ===
{{出典の明記|section= 1|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}
{{日本の氏族
|家名= 仁科氏
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|支流=
}}
 
盛信の子の[[仁科信基]]なる人物の[[家系]]である。一方、『[[寛政重修諸家譜]]』では、仁科盛信の跡は[[仁科信久|信久]](式部)、信衡(右近)、信道(勘右衛)と系図がつながり、信道の長男・信勝(勘之丞)と次男・信忠(勘右衛門)がそれぞれ旗本として江戸幕府に仕官している。
==== 仁品王系科信基を出自とする仁科氏 ====
{{出典の明記|section= 1|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}
盛信の子の[[仁科信基]]なる人物の[[家系]]である。[[天正]]10年([[1582年]])の[[甲州征伐]]において、[[仁科盛信]]の子の[[仁科信基]]と小督姫は、[[信松尼|松姫]]に連れられ、[[後北条家]]支配下の[[八王子]]まで逃れ、後に[[徳川家]][[旗本]]となった。
 
* [[仁科盛信]](武田晴清) - [[仁科信基|信基]] - 盛忠 - 信照 - 盛晴 - 盛朝 - 忠盛 - 高信 - 盛次 - 信真 - 定盛 - 盛照 - 信国 - 盛輔 - 盛定 - 信時 - 正盛
{{-}}
 
==== 「仁科信久」を出自とする仁科氏 ====
==== 江戸時代 ====
徳川旗本の仁科氏も武田の末流を称しており、[[寛永諸家系図伝]]の仁科氏の項では「武田の末流」とあった後に信道から系譜が始まっている<ref>{{Cite book|和書 |title=寛永諸家系図伝 |publisher=江戸幕府 |volume=庚5}}</ref>。[[寛政重修諸家譜]]の編纂時に仁科氏より提供された家系図では仁科盛信の四男である信久(式部)、信衡(右近)、信道(勘右衛)と系図が繋がっていたが、100年以上前の寛永年間に提供された家系図に存在していなかったうえ、武田氏の資料に仁科信久なる人物は存在していないことから編纂者は疑うべきであるとして寛永に倣い信道からの系譜を記している<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=寛政重修諸家譜 |year=1812 |publisher=江戸幕府 |month=10 |volume=171}}</ref>。信道の長男・信勝(勘之丞)と次男・信忠(勘右衛門)がそれぞれ旗本として江戸幕府に仕官している<ref name=":0" />。
[[天正]]10年([[1582年]])の[[甲州征伐]]において、[[仁科盛信]]の子の[[仁科信基]]と小督姫は、[[信松尼|松姫]]に連れられ、[[後北条家]]支配下の[[八王子]]まで逃れ、後に[[徳川家]][[旗本]]となった。
 
=== 『仁科濫觴記』の記述 ===
『仁科濫觴記』には、平氏以前に存在したとされる仁科氏について記されている。ただし、『仁科濫觴記』は信憑性が乏しいため、史書として用いられることはなく、『大町市史』などにも以下の内容は記されていない<ref>『大町市史』大町市史編纂委員会編 大町市 1984年</ref>。
 
== 美作仁科氏(1)(清和源氏 仁科氏流) ==
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== 会津仁科氏 ==
{{出典の明記|section= 1|date= 2021年3月23日 (火) 21:01 (UTC)}}
[[福島県]][[会津若松市]]に住んでいた仁科氏一族がある。これも嫡流美作の仁科氏とは別で[[清和源氏]][[源頼季|頼季流]]乙葉(おとは)氏族としているが詳細は不明である。
 
== その他の仁科氏 ==
『新撰仁科記』には[[源義仲|木曾義仲]]の子・仁科盛重や[[平清盛]]の曾孫・[[平六代高清]](六代)の子・横瀬盛長の玄孫・仁科盛忠を祖とする系図が記載されている。仁科盛忠は[[鎌倉時代|鎌倉時代後期]] 〜 [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて[[存在]]した人物で、木曾義仲の[[親族#尊属と卑属|末裔]]である仁科義治の妹婿であるとされる。
 
また会津仁科氏と同族の仁科氏、桓武平氏繁盛流、[[大伴氏]]、[[安部氏]]など複数の氏族が仁科を名乗っている。
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=大貫|first=茂紀|date=2018-10|title=戦国期境目の研究 : 大名・領主・住人|publisher=高志書院|isbn=9784862151841|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=小林|first=茂喜|date=2019-11|title=仁科盛信と武田氏|publisher=[[信濃教育会|信州教育出版社]]|isbn=9784783912835|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=北澤|first=繁樹|author-link=||date=2010-10|title=仁科氏|publisher=[[東京図書出版|東京図書出版会]]|isbn=9784862234629|ref=harv}}
* {{Citation|和書|editor=国書刊行会|pages=96-103|chapter=仁科岩城系圖|date=1915|volume=2|title=系図綜覧|series=国書刊行会刊行書|publisher=国書刊行会|id={{全国書誌番号| 50006721}}|chapter-url={{NDLDC|1879314/56}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=harv}} {{フリーアクセス}}
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* {{Citation|和書|editor=中央学会|date=1940|volume=7|title=信濃史源考|publisher=中央学会|id={{全国書誌番号|46056017}}|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=仁科|first=宗一郎|date=1972|title=安曇の古代 : 仁科濫觴記考|publisher=柳沢書苑|ncid=BN1323303X|ref=harv}}
* {{Cite web|和書|author=霊松寺|title=霊松寺の歴史|work=霊松寺公式ホームページ|publisher=霊松寺|date= 2004|url=http://www.reishoji.jp/history.html|accessdate=2014-09-04|ref=harv}}
* {{Citation|和書|editor-last=渡辺|editor-first=市太郎|date=1974|volume=中|title=信濃宝鑑考|publisher=歴史図書社|id={{全国書誌番号|73019678}}|ref=harv}}
 
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* [[仁科荘]]
* [[仁科三湖]]
* 飯綱神社千日太夫
* [[等々力家]]
* {{prefix|仁科}}