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[[File:Imperial_College_Engineering.jpg|right|thumb|400px|工部大学校の校舎、教員、(1880年)]]
[[ファイル:ICE-1877Engineering.jpg|サムネイル|300px|"The Engineering (1877)"に紹介された工部大学校校舎配置図]]
 
'''工部大学校'''(こうぶだいがっこう){{enlink|Imperial College of Engineering}} は、[[明治]]時代初期に[[工部省]]工学寮が創設した[[技術者養成]]養成[[機関 (法)|機関]]で、現在日本初[[東京大学大学院工学系研究科・教育機関<ref>旺文社『日本史事典』三訂版【|東京大学校】</ref><ref>日本大百科全書【部大部]]の前身の一つである校】</ref>。今日の日本の工業技術の礎を築き、工業発展に多大な役割を果たした。現在の[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]]の前身の一つである
 
1871[[1873]](明治46年)の工部省の工学寮工学校[[1877年]](明治10年)に改称したもので、[[1886年]](明治19年)に[[帝国大学]]に合併。校舎は、現在の[[千代田区]][[霞が関]]三丁目、[[文部科学省]]および[[金融庁]]のある一帯([[霞が関コモンゲート]]、[[江戸時代]]の[[延岡藩|日向内藤家]]上屋敷跡地)にあった。
[[キャンパス]]は、現在の[[千代田区]][[霞が関]]三丁目、[[文部科学省]]および[[金融庁]]のある一帯([[霞が関コモンゲート]]、[[江戸時代]]の[[延岡藩|日向内藤家]]上屋敷跡地)にあった。
 
== 概要歴史 ==
[[Image:Henry Dyer.gif|right|thumb|130px|[[ヘンリー・ダイアー]]]]
;最初の構想
明治4年8月14日(1871年9月29日)、[[工部省]]の10寮1司の一等寮として[[工学寮]]が創設され、初代工学頭は工部少輔の[[山尾庸三]]が勤め、官職技術者の養成を目的とした。中心事業は実践的技術者養成のための工学校を開校・運営することで、当初の構想では工学校は小学校(スクール)と大学校(カレッジ)から構成されるはずだった。エドモンド・モレルがイギリスから教員を招聘し、山尾が[[測量司]]雇いのイギリス人技術者に組積造の小学校校舎建設を進めさせ、1872年初秋に小学校を開校する予定だったが、モレルの急逝により頓挫。
 
;最=== 当初の構想 ===
;マセソンへの相談
旧暦明治4年8月14日(1871([[1871]]9月29日)、[[工部省]]の10寮1司の一等寮として、技術者養成を目的とする[[工学寮]]が創設され、初代工学頭は工部少輔[[山尾庸三]]が勤め、官職技術者の養成を目的とした就任。中心事業は実践的技術者養成のための工学校・運営することで、当初の構想では工学校は小学校(スクール)と大学校(カレッジ)から構成されるはずだっ工学校が構想された。前年の[[1870年]]4月9日に来日して、イギリス公使である[[ハリー・パークス]]の推薦を受け建築師長(技術主任)に任じられていた[[エドモンドモレル]][[イギリス]]から教員を招聘し、山尾が[[測量司]]雇のイギリス人技術者に組積造の小学校校舎建設を進めさせ、明治5年([[1872年]])初秋に小学校を開校する予定だったが、モレルの急逝により頓挫。
山尾は、急遽、旧知の[[ヒュー・マセソン]]{{enlink|Hugh Matheson (industrialist)|Hugh Matheson}}に相談したところ教員選抜協力の快諾を得たことから、1872年7月になって[[岩倉使節団]]副使として渡英した工部大輔の[[伊藤博文]]がマセソンに正式に協力依頼をした<ref>泉田英雄:工学寮工学校創設再考、日本建築学会計画系論文集Vol.81-No.720、2016年9月、477~487頁.</ref>。
 
;=== マセソンへの相談 ===
;ランキンによる人選、ヘンリー・ダイアーを筆頭とした教師団の編成、大学方式への転換
山尾は急遽、イギリス留学時に世話になった旧知の[[ヒュー・マセソン]]{{enlink|Hugh Matheson (industrialist)|Hugh Matheson}}に相談したところ教員選抜協力の快諾を得たことから、1872年78月になって[[岩倉使節団]]副使として渡英した工部大輔[[伊藤博文]]がマセソンに正式に協力依頼をした<ref>泉田英雄:工学寮工学校創設再考、日本建築学会計画系論文集Vol.81-No.720、2016年9月、477~487頁.</ref>。
マセソンから、[[グラスゴー大学]]教授の[[ウィリアム・ランキン]]{{enlink|William Rankine}}を通して[[ヘンリー・ダイアー]]{{enlink|Henry Dyer}}を都険(実質的な校長)とする教師団が推薦された。1860年代末、ランキン教授は[[ウィリアム・トムソン]]{{enlink|William Thomson, 1st Baron Kelvin|William Thomson}}教授とともに[[グラスゴー大学]]に工学部を新設しようと奔走し、ダイアーはランキン教授の下で技術者教育学を専攻していた。ランキン教授の計画は叶わなかったが、代わりに師の考えをダイアーは日本で実現しようとした。
 
=== 大学方式への転換 ===
[[岩倉使節団]]に同行していた[[林董]]が、[[1873年]]、[[スコットランド]]で教師団任用[[契約]]の手続きを行い、同地から日本までの船旅の同伴の任に当たった。ダイアーは小学校を別個に開くのはやめて、大学校を基礎課程、専門課程、実地課程(各2年)の3期6年制とし、[[土木]]、[[機械]]、[[造家]]([[建築]])、[[電信]]、[[化学]]、[[冶金]]、[[鉱山]]、[[造船]]の6学科とする学則・シラバスを作成した。教育内容は、1871年にロンドン近郊に開学していた[[王立インド工学校]]{{enlink|Royal Indian Engineering College}}と同じように半年ずつ講義と実習を交互に行うサンドウィッチ方式とし、また、実地課程のために[[赤羽工作分局]]を併設させた<ref>Imperial College of Engineering, Tokei. CALENDAR1873.</ref>。
マセソンから[[グラスゴー大学]]教授の[[ウィリアム・ランキン]]{{enlink|William Rankine}}を通してに教員人選の相談がなされると、ランキンは[[ヘンリー・ダイアー]]{{enlink|Henry Dyer}} を都険(実質的な校長)とする教師団推薦された。こうしたダイアーを筆頭した教師団の編成はすべて西洋の大学方式へと転換するものだった。遡ること1860年代末、ランキン教授は[[ウィリアム・トムソン]]{{enlink|William Thomson, 1st Baron Kelvin|William Thomson}}教授とともに[[グラスゴー大学]]に工学部を新設しようと奔走したことがあったが、ダイアーはランキン教授の下で技術者教育学を専攻していた。ランキン教授の計画は叶わなかったが、代わりに師の考えをダイアーは師の構想を日本で実現しようとした。
 
[[1873年]]、[[岩倉使節団]]に同行していた[[林董]]が、[[1873年]]、[[スコットランド]]で教師団任用[[契約]]の手続を行い、同地から日本までの船旅の同伴の任に当たった。ダイアーは小学校を別に開くのは、大学校を基礎課程、専門課程、実地課程(各2年)の3期6年制とし、[[土木]]、[[機械]]、[[造家]]([[建築]])、[[電信]]、[[化学]]、[[冶金]]、[[鉱山]]、[[造船]]の6学科とする学則・シラバスを作成した。教育内容授形式は、1871年にロンドン近郊に開学していた[[王立インド工学校]]{{enlink|Royal Indian Engineering College}}と同じよう半年ずつ講義と実習を半年ずつ交互に行うサンドウィッチ方式とし、また、実地課程のために[[赤羽工作分局]]を併設させた<ref>Imperial College of Engineering, Tokei. CALENDAR1873.</ref>。
;開校
1873年9月に学生募集が行われ、11月に開校した。校舎の建設は間に合わず葵町の仮校舎で授業が始められた。当初、工学校校長は山尾が兼務したが、1877年に工学寮の廃止とともに工学校は[[工作局]]隷属となり、工作局長の[[大鳥圭介]]が校長に就任し、そして工部大学校と改名された。ダイアーを通して、引き続きイギリスから優秀な[[外国人]][[教員|教師]]が任用され、多くの[[授業]]は[[英語]]で行われた。[[学生]]の[[ノート]]や[[卒業論文]]も、英語で書かれたものが現存している([[国立科学博物館]]新館2階などで見ることができる)<ref>Imperial College of Engineering (Kobu-Dai-Gakko), Tokei. Reports by the Principal and Professors 1873-77.</ref>。
 
;=== 開校 ===
工部学校の学生には工部省から在学中の経費を支給される官費生と学資を納める必要のある私費生の別があった。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は[[日本の行政機関|官庁]]で働くことになっていた(工部大学校学課並諸規則)。
新暦[[1873年9]](明治6年)9月に募集(15歳から20歳まで)が行われ、11月に開校した。校舎の建設は間に合わず葵町の仮校舎で授業が始められた。当初、工学校校長は山尾が兼務したが、1877年(明治10年)の工学寮廃止とともに工学校は[[工作局]]属となり、工作局長の[[大鳥圭介]]が校長に就任そしてさらに「工部大学校」に改名された。ダイアーを通して、引き続きイギリスから優秀な[[外国人]][[教員|教師]]が任用され、多くの[[授業]]は[[英語]]で行われた。[[学]]の[[ノート]]や[[卒業論文]]も、英語で書かれたものが現存している([[国立科学博物館]]新館2階などで見ることができる)<ref>Imperial College of Engineering (Kobu-Dai-Gakko), Tokei. Reports by the Principal and Professors 1873-77.</ref>。
 
生徒は原則として私費生(月額7円上納)であり、時宜により在学中の経費を支給する官費生を募集した。但し、官費生には卒業後7年間は工部省で働く奉職義務が課せられた([https://dl.ndl.go.jp/pid/796223/1/174 工部大学校学課並諸規則])。
1873年11月入学の学生は仮校舎で授業を受けたが、翌年には最初の組積造校舎(小学館)が完成、1877年に本館が完成すると、世界で最も優れた工学教育施設と考えられた。
 
1873年11月入学学生は仮校舎で授業を受けたが、翌年には最初の組積造校舎(小学館)が完成、1877年に本館が完成すると、世界で最も優れた工学教育施設と考えられた。
 
== 校舎建築 ==
[[ファイル:Kogakuryo-mcvean.jpg|サムネイル|300px|工学寮工学校校舎(小学館、後に博物館), 1875年頃, McVA<ref>McVean Archives, National Library of Scotaland</ref>]]
[[ファイル:Imperial College Enginnering-AIJ.jpg|300px|サムネイル|工部大学校本館, 1880年頃, [[日本建築学会]]]]
初期[[工部省]]は営繕部局を持たず、山尾は自らが管轄する[[測量司]]のイギリス人技術者に営繕を兼務させた。山尾から建築様式に[[ゴシック様式]]が指定され、測量師長のイギリス人[[コリン・アレクサンダー・マクヴェイン]]{{enlink|Colin Alexander McVean}}は、[[鉄道寮]]から技師の[[ヘンリー・ジョイナー]]{{enlink|Henry Batson Joyner}}を、[[燈台寮]]から石工のマークスと大工のアンダーソンをそれぞれ転属させて、小学校校舎(後に博物館に改装)、生徒館(宿舎と学習室)、教師館の建物を設計建設した<ref>泉田英雄:工部大学校創設再考、日本建築学会計画系論文集Vol.82-No.739、2017年9月、2401~2411頁.</ref>。
 
煉瓦壁は大量の[[平筋|平鋼]]が入れら(Hoop Iron)で補強され、校舎は1873年末に完成し、日本最初の西洋式学校建築となった。時計塔は当初から計画されていたが、グラスゴーから横浜に到着し運搬されたものが破損していたため、新たに部品を発注し1875年になって取り付けられた。[[時計塔]]も含め、グラスゴーの建築家[[キャンベル・ダグラス]]{{enlink|Campbell Douglas}}は、マクヴェインへ技術的助言、資材の発送、若手建築家の紹介など、さまざま様々な便宜を提供した。ダグラスから推薦されてきで来日した若手の建築家[[チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル]]{{enlink|Charles Alfred Chastel de Boinville}}<ref>http://www.scottisharchitects.org.uk/architect_full.php?id=200323</ref>、1872年末に着任して小学校校舎と生徒館の施工管理を行い、さらに教師館は新しく設計し直した。
マクヴェインが1873年4月にイギリスに一時帰国する際、工部省営繕を[[トーマス・ウォートルス]]{{enlink|Thomas James Waters}}にせることにし、大学校本館の設計はウォートルスのもとで始まった。しかし、1873年6月にイギリスから教師団が到着するとともに、設計はボアンヴィルの手に移り、彼は都検ダイアーや物理学教授[[ウィリアム・エドワード・エアトン]]らと綿密に相談しながら設計案を固めていった。現在では科学技術教育に実験、実演、実技、実習は必須となっていであるが、1870年代当時、世界的にそのためにどのよう施設設計すべきが必要模索状態であは世界共通の課題だった。1877年に工部大学校校舎(本館)が完成すると、イギリス人建築家の[[エドワード・ロビンス]]{{enlink|Edward Cookworthy Robins}}<ref>http://www.scottisharchitects.org.uk/architect_full.php?id=201861</ref>は[[ロイヤル・ソサエティ]]や[[王立英国建築家協会]]の集会で最も先進的な科学技術教育施設として紹介し、科学技術教育用施設建築の設計手本とされた<ref>Edward Robins: Technical School and College Building: Being a Treatise on the Design, 1887</ref>。エアトンは工部大学校設計図一式を持ち帰り、旧知のロビンスとともにロンドン&ギルド工学校{{enlink|City and Guilds of London Institute}}の校舎設計を始めた。
 
校舎は校が[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]と合併(下記)し移転した後、[[学習院]]と[[東京女学館]]の校舎として利用されたが、1923年([[大正]]12年)の[[関東大震災]]で倒壊してしまった。[[文部省]]が同地に置かれるのはそれ以降のことである。
 
== 沿革 ==
* [[1870年 ]](明治3年) - 鉄道技師長[[エドモンド・モレル]]は[[伊藤博文]]に日本が工業発展を円滑に進めるために[[工部省]]を設置することを提案し、日本人技術者を養成するための教務部を併設することを主張した。この教務部の[[工学寮|工学校]]はスクールとカレッジからなり、スクールで優秀な成績をおさめた生徒だけがカレッジに進学することができるとした。
* [[1871年]] (明治4年) - [[工部省]]に'工学寮'が設置され、基礎教育を行う小学校と専門教育を行う大学校の二校体制とし、まず小学校1872年9月開校する意を企し、1871年末から小学校教師の任用と校舎建設を始めた。
* [[1873年]] (明治6年) - 都険として就任したダイアーは大学校のみの一校体制とし、1873年11月に開校した。入学者の学力がそろわないために、予備教育のための小学校を一時期併設した。
* [[1876年]] (明治9年) - 附属機関として[[工部美術学校]]を設置。
* [[1877年]] (明治10年) - 専門教育のための本館が完成し、1月11日工学寮が廃止され工作局所轄になると'''工部大学校'''に改称した
* [[1878年]](明治11年) - 第一期卒業生を送り出すにあたり、7月15日に[[明治天皇陛下の]]親臨を仰いでのもと「開業式」をわれたこれはいわゆる開校式ではない)<ref>工部大学校開業式ノ際ノ勅語(明治11年7月15日).</ref>。
* [[1885年]] (明治18年) - 工部省廃止に伴い[[文部省]]に移管。
* [[1886年]] (明治19年) - [[帝国大学令]]により[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]工芸学部と合併、'帝国大学工科大学'となった。
::以降の歴史については[[東京大学#沿革]]も参照のこと。
 
54行目:
* [[ジョン・ミルン]]{{enlink|John Milne}}<ref>[http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai97/milne.html ジョン・ミルン] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050908222150/http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai97/milne.html |date=2005年9月8日 }}(東京大学)</ref>
* [[ウィリアム・エドワード・エアトン]]{{enlink|William Edward Ayrton}}
* [[ジョン・ペリー]]{{enlink|John Perry (engineer)}}<ref>[http{{Cite journal|和書|author=公田蔵 |date=2001-04 |url=https://wwwhdl.kurimshandle.kyoto-u.ac.jpnet/~kyodo2433/kokyuroku/contents/pdf/1195-18.pdf64830 |title=John Perryと日本の数学教育](著:立教 (数学史の研究) |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学名誉教授数理解析研究所 公田|volume=1195 蔵)|pages=191-206 |hdl=2433/64830 |CRID=1050282676668103552}}</ref>
* [[ジョサイア・コンドル]]{{enlink|Josiah Conder}}
* [[ウィリアム・グレイ・ディキソン]]{{enlink|William Gray Dixon}}
* [[エドワード・ムンディ|エドマンド・モンディ]]{{enlink|Edward(Edmund F. Mondy}}Mondy)
*[[ディヴィッド・ヘンリー・マーシャル]]{{enlink|David Henry Marshall}}
*[[エドワード・ダイヴァース]]{{enlink|Edward Divers}}
* リチャード・ライマー=ジョンズ{{enlink|Richard Rymer Jones}}
* [[ジョージ・コーレイ]]{{enlink|George Cawley}}
*
 
== 主な卒業生 ==
;=== 土木 ===
* [[石橋絢彦]] - 土木科第1期生。1880年(明治13年)イギリスに留学し、海上工事(灯台建設など)を学ぶ。帰国後、[[工部省]]や神奈川県で灯台建設などに従事。1910年(明治43年)当校の校長(第4代)に就任。横浜市の吉田橋を改修。1911年に日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋を完成させた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E7%B5%A2%E5%BD%A6-1053544 デジタル版 日本人名大辞典+Plus「石橋絢彦」]</ref>。
* [[南清]] - 土木科第1期生で、主に[[日本の鉄道|鉄道]]分野で活躍。技術のほか[[鉄道事業体|鉄道会社]]経営にも参画。
* [[杉山輯吉]] - 土木科第1期生で、[[台湾]]で建設事業に従事。[[日本工学会]]<ref>[http://www.jfes.or.jp/ 日本工学会]</ref>設立者。
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* [[久米民之助]] - 土木科第6期生。[[二重橋|皇居二重橋]]の[[建築構造設計|構造設計]]のほか[[トンネル#鉄道トンネル|鉄道トンネル]]開削など。また実業家として外地台湾や[[朝鮮半島]]で建設事業にあたる。さらに[[衆議院議員]]に。
 
;=== 造家(建築) ===
* [[辰野金吾]] - 造家学科第1期生。日本人として最初期の[[建築家]]。1873年に工部省工学寮第一回生として再試験で末席入学。最初は造船を学んでいたが、2年終了後、造船から造家(建築)に転じ、[[ジョサイア・コンドル]]に師事し、[[1879年]]に工部大学校造家学科第1期生として卒業。イギリスに留学し、コンドルの師、ウィリアム・バージェズの事務所で修業。1883年帰国後はコンドルの後任として当校の教授を務め、東京帝国大学工科大学教授、同学長として建築教育に専念。1886年造家学会 (現[[日本建築学会]]) 創立に参加。のちに同学会会長。 1902年退職後は建築事務所を設立、多くの建築設計に従事<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE-93630 ブリタニカ国際大百科]</ref>。
* [[曽禰達蔵]] - 造家学科第1期生。辰野金吾と同郷で同級生。建築家として活躍。長男は[[物理学者]]の[[曾禰武]]([[立教大学]]教授、[[開成高校]]校長)
* [[片山東熊]] - 造家学科第1期生。宮内省で[[赤坂離宮]]など宮廷建築に多く関わり、職務として県庁や[[博物館]]、宮内省の諸施設など36件の設計に関わった。また公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。代表作は[[迎賓館]]など。<!--工手学校(現・工学院大学)教授。-->
* [[佐立七次郎]] - 造家学科第1期生。建築家として活躍。代表作は旧日本郵船小樽支店、[[日本水準原点標庫]]など。
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*[[吉井茂則]] - 造家学科第5期生。[[逓信省]]建築家として活躍。代表作は京都郵便局など。
 
;=== 造船 ===
* [[三好晋六郎]] - 日本[[造船学]]の礎を築く。当校の助教授として母校の教壇に立つかたわら、工手学校(現・[[工学院大学]])の設立にかかわり、明治20年から校長を兼ねた。
* [[近藤基樹]] - 1884年(明治17年)に造船学科を卒業。[[海軍省]]主船局出仕などの後、 1886年~1890年にイギリスの{{仮リンク|グリニッチ海軍大学校|en|Royal Naval College, Greenwich}}に留学。19901890年に[[文官]]から[[武官]]に転じ、海軍大技士(大尉相当官)となり、横須賀鎮守府造船部日本海軍の造船中将。後に工学博士。その功績により、爵位を授爵し華族となった。
* [[松尾鶴太郎]] - 造船学を専攻。工手学校(現・工学院大学)教授。
 
;=== 機械 ===
* [[高山直質]] - 機械学のうち鉄鋼技術研究を主な専門とした。
* [[安永義章]] - 機械科第2期生。明治16年(1883年)陸軍省技師となり、1885年から[[兵器]]製造技術研究のためドイツとフランスに留学。のち[[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]の技師をへて明治37年(1904年)以降 大阪高等工業学校(阪大工学部の前身)の校長を歴任<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E6%B0%B8%20%E7%BE%A9%E7%AB%A0-1657186 20世紀日本人名事典「安永義章」]</ref>。[[ダイハツ]]設立者。
103 ⟶ 102行目:
* [[井口在屋]] - 機械科第4期生。工部大学校助教授から海軍機関学校や海軍大学校教官として人材育成に寄与。発明した渦巻きポンプの会社が後の[[荏原製作所]]。工手学校(現・[[工学院大学]])の設立に参加。
* [[菊池恭三]] - 機械科第7期生 機械科 紡績産業を機械化・合理化させ繊維を日本の基幹産業に。専門を造船から紡績に変え、製品の品質を向上させ、[[日本レイヨン]]([[ユニチカ]]の前身)や[[大日本紡績]]([[ニチボー]]、ユニチカの前身)の会長などを歴任した。
* [[朝永正三]] - 機械科第10期生(ただし在学中の1886年に東京大学工芸学部と合併したため、1888年に帝国大学工科大学卒業)。京都帝国大学工科大学 機械工学科の初代教授。
 
;=== 電気工学、電信 ===
* [[志田林三郎]] - 電信科第1期生。[[ウィリアム・エドワード・エアトン|ウィリアム・エアトン]]らに師事、電信学を学んだ。1879年に電信科を首席で卒業し、日本初の工学士。翌1880年にスコットランドのグラスゴー大学に留学し、[[ウィリアム・トムソン]](ケルビン卿)の下で物理学、数学などを学び、数々の研究。帰国後、工部省電信局で日本の[[電信]]技術のために働きつつ、当校の教授に就任(当校初の日本人教授)、電気工学等の専門教育に尽力した。また電気・通信・磁気・物理などの分野で幅広い研究を数々行った。1888年、日本初の工学博士。
* [[岩田武夫]] - 電気工学科第2期生で、学生時代から青函海峡の[[電線|ケーブル]]工事に拘わる。その後電気会社を経て、台湾総督府で[[台湾総督府民政部|民政局]]技師に転進。[[岩田通徳]]の三男。
* [[中野初子]](なかの・はつね) - 電気工学科第3期生。卒業後発足の帝国大学で助教授、のち教授。その後アメリカで学位。大型[[発電機]]開発と高圧[[送電]]を成し遂げる。[[電気学会]]の会長を歴任。<!--工手学校(現・工学院大学)の設立にも参加。-->歌人。
* [[藤岡市助]] - 電気工学科第3期生。[[1881年]]に首席で卒業。「日本の電気、[[電灯]]の父」と言われる。[[1884年]]に教授となる。
* [[浅野応輔]] - 電気工学科第3期生。卒業と同時に当校の教官となり、同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子[[産業技術総合研究所]])の初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授。また[[海底ケーブル]]敷設工事のほか銅線の[[絶縁体]]等の研究に実績を上げる。
* [[山川義太郎]] - 当校では電信学を専攻。 1887年には当校の助教授に任ぜられる。1896~1899年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究。帰国後 東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士。
* [[坂内虎次]] - 電気工学を専攻。熊本電灯([[熊本電気]]の前身)社長、人吉水力電気社長、球磨川電気社長。
* [[玉木弁太郎]] - 電気工学を専攻。工部省技手をへて逓信省技師、かつ[[東京電信学校]](後に[[逓信官吏練習所]]となるもの)の教授となる。明治32年欧米を視察し帰国後、帝国鉄道庁技師、鉄道省電気課長<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E6%9C%A8%E5%BC%81%E5%A4%AA%E9%83%8E-1090688 デジタル版 日本人名大辞典+Plus「玉木弁太郎」]</ref>。
* [[岩垂邦彦]] - 電信科卒業。エジソン・マシンワークス(現:[[ゼネラル・エレクトリック]])に入社。テスティング・ルームと呼ばれる[[トーマス・エジソン]]の施設で勤務する。その後、1899年に[[日本電気]]を創業。
 
;=== 舎密学(化学) ===
* [[高峰譲吉]] - 応用化学科第1期生。首席で卒業。[[渋沢栄一]]らと「東京人造肥料会社」設立。日本協会をニューヨークに設立し、[[日米関係|日米の親善]]に尽くした。
* [[中村貞吉 (教育者)|中村貞吉]] - 舎密学(化学)を専攻。[[農商務省 (日本)|農商務省]]の技師。工手学校(現・工学院大学)の設立に参加し、同校初代校長。[[福沢諭吉]]の娘婿<ref>[https://www.shokokusha.co.jp/pdf/978-4-395-51104-4.pdf 工手学校]工学院大学</ref>。
* [[下瀬雅允]] - 化学科第6期生で、お札用[[インク|インキ]]開発と[[爆薬]]発明者に。
 
;=== 鉱山学 ===
* [[小花冬吉]] - 鉱山科第1期生。近代日本の[[鉱業|鉱業]]界の父<ref>[http{{新聞記事文庫|url|0100199148|title=隠れたる功労者小花冬吉博士 ://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID 我が鉱業界の父|oldmeta=00204179&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA}} 時事新報「隠れたる功労者 小花冬吉博士 我が鉱業界の父」]、1932年。</ref>。フランス留学後、工部省や広島県の技師となり、旧来の[[砂鉄]]製錬法の近代化にも尽くした。農商務技師、秋田鉱山監督局長などを経て、1896年、[[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]の初代製銑部長に就任し、鉄鋼の国産化に貢献した。
* [[栗本廉]] - 鉱山科第1期生。辰野金吾ら11名とイギリスに留学し王立鉱山学校で[[鉱山学]]を2年学び、1882年にドイツ[[フライベルク鉱山学校]][[:en:Freiberg University of Mining and Technology|(en)]]で[[地質学]]を学び、翌年帰国。[[神岡鉱山]]、[[生野銀山|生野鉱山]]の開発に従事。工手学校(現・工学院大学)の設立に参加。
* [[近藤陸三郎]] - 鉱山科第2期生。[[足尾銅山]]鉱毒対策に尽力。ほか工業会社経営など。
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
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* [http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/ice/ice_index.htm 工部大学校資料] ({{Wayback|url=http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/entrance.htm |title=天下大変 大鳥圭介と伝習隊 |date=20181108045644}})
* [{{NDLDC|784455/416}} 編年史][{{NDLDC|784455/508}} 卒業生一覧]『工部省沿革報告』1889年(国会図書館近代デジタルライブラリー)
* [httphttps://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/yamao4.htm 明治の文明開化を開いた工部大学校]
 
 
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[[Category:日本の工業教育の歴史]]
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