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{{出典の明記|date=2022-01}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =昭武帝 呉三桂
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=== 清への降伏 ===
[[ファイル:Qing Seal for General Who Pacifies the West.jpg|thumb|right|清の呉三桂に授与された「平西大将軍印(wargi be necihiyere amba jiyanggiyūn i doron)」]]
この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、急に翻意して清のドルゴンに難攻不落と言われた山海関を明け渡し、李自成を討つための援助を求めた。継母の兄にあたる[[祖大寿]]が既に清に投降しており、その勧告を採用したともいわれるが、順軍の規律が緩み、民衆に支持されなかったことを知り、自身が北京を解放することにより至高の地位を得ようという野心を持った、という説もある。
ドルゴンは呉三桂の要請を容れ、そのまま北京に進軍を開始した。清と呉三桂の軍は李自成率いる順軍を激戦の末打ち破り、そのまま北京への入城を果たした。その際に李自成に伴われた父の呉襄、北京にいた呉三桂の家族らが李自成に殺されているが、その見返りとして呉三桂は平西王に封ぜられた。
呉三桂に限らず、清は中国侵入にあたり[[尚可喜]]・[[耿仲明]]らの[[漢民族|漢人]]武将を重用している。彼らの軍事力は清にとって大きな価値があり、また脅威でもあった。呉三桂は陝西・四川方面へ転戦して清に反する流賊を討伐し、[[順治]]14年([[1657年]])に平西大将軍に任ぜられて明の残党勢力である[[南明]]政権の討伐にあたる。雲南・貴州方面を攻略してそのまま雲南に封じられた。[[康熙]]元年([[1662年]])に、[[タウングー王朝|ビルマ]]王{{仮リンク|ピエ・ミン|en|Pye Min}}の裏切りで、[[永暦帝|桂王]]・[[朱慈炫|桂王太子]]父子を呉三桂に引き渡された。呉三桂は桂王父子を昆明([[雲南省]])で縊り殺したとも、[[火刑]]に処したともいう。このときに桂王の生母の[[昭聖太后|馬太后マリア]]から「この逆臣めが!
=== 冠を衝く一怒は紅顔の為なり ===
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=== 皇帝即位 ===
康熙17年([[1678年]])3月、呉三桂は形勢逆転を狙ったかそれとも死期を悟り観念したか、湖南の衡州([[湖南省]][[衡陽]]市)で帝位に就いた。国号を[[周 (1678年-1681年)|大周]]とし、元号を昭武と定め、新王朝の建国を高らかに宣言した。しかし同年8月15日に67歳で
== 登場作品 ==
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*『[[雪山飛狐]]』1999年、演:[[羅楽林]]
*『[[康熙王朝]]』2001年、演:[[曹永祥]]
*『[[鹿鼎記〈新版〉|鹿鼎記]]』2008年、演:{{仮リンク|涂們|zh|涂
*『{{仮リンク|諍い女たちの後宮|zh|深宫谍影}}』2012年、演:{{仮リンク|王絵春|zh|王绘春}}
*『{{仮リンク|鹿鼎記 ロイヤル・トランプ|zh|鹿鼎記 (2014年電視劇)}}』2014年、演:[[馮進高]]
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*『{{仮リンク|皇后の記|zh|大玉儿传奇}}』2015年、演:[[邵嘯峰]]
*『[[龍珠伝 ラストプリンセス]]』2016年、演:{{仮リンク|劉立偉|zh|刘立伟}}
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{{先代次代|[[周 (1678年-1681年)|周]]の初代[[中国帝王一覧|皇帝]]|1678年|―|[[呉世璠|洪化帝]]}}
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[[Category:呉三桂|*]]
[[Category:周 (1678年-1681年)]]
[[Category:17世紀アジアの軍人]]
[[Category:中国の帝位僭称者]]
[[Category:明代の人物]]
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