「五箇条の御誓文」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし |
||
| (53人の利用者による、間の85版が非表示) | |||
1行目:
{{日本の法令
| 題名 = 五ケ条ノ御誓文<ref>[https://dajokan.ndl.go.jp/#/detail?lawId=00000193 日本法令索引]</ref>
| 正式名称 =
| 効力 =
| 種類 = [[憲法]]<ref>[https://dajokan.ndl.go.jp/#/detail?lawId=00000193 日本法令索引]の分類による</ref>
| 所管 =
| 内容 = 明治政府の基本方針
| 関連 =
| 制定時題名 =
| リンク = [{{NDLDC|787948/80}} 法令全書明治元年【第156】]
| ウィキソース = 五ヶ條ノ御誓文
}}
[[File:Go seimon u.png |thumb|220px|明治元年、京都御所紫宸殿にて'''五箇条の御誓文'''を公布されている様子。 [[聖徳記念絵画館]]蔵]]
'''五箇条の御誓文'''(ごかじょうのごせいもん、{{旧字体| '''五ヶ條ノ御誓文󠄁''' }}、{{lang-en-short|The Charter Oath}}、五箇条の誓文とも)は、[[京都御所]]の正殿・[[紫宸殿]]で[[1868年]][[4月6日]]([[慶応]]4年/[[明治]]元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]])<ref group="注">原本の日付は「慶応四年戊辰三月」である。ただし、[[1868年]][[10月23日]](慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])に出された改元の詔書により、同年は[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]にさかのぼって[[明治元年]]と定められたため、「明治元年」でもある。</ref> に[[明治天皇]]が[[天津神・国津神|天神地祇]]に[[宣誓|誓約]]する形式で、[[公卿]]や[[諸侯]]などに示した[[明治維新#明治維新政府|明治政府]]の基本方針<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |year=1985 |publisher=吉川弘文館 |page=582 |volume=5}}</ref>。法令全書や太政官日誌<ref>太政官日誌 慶応4年第1-2巻[https://dl.ndl.go.jp/pid/787614/1/39](国会図書館デジタルコレクション)</ref>には'''御誓文'''とあり、以下においては御誓文と表記する<ref group="注">[[詔勅]]には標題(タイトル)が付されないものが多くあり(実際は殆どの[[詔勅]]の正文には標題部が記述されないか「詔」「勅」「命令」等とのみ記すものである)この「(五箇条の御)誓文」についても[[有栖川宮幟仁親王]]が勅命によって儀式前日に清書した御誓文の原本には標題部は無い。この理由については古代律令時代の[[公式様文書]]が参照されたと考えられるが、信頼できる研究論文等が発見されておらず今後の研究が俟たれる。伝統的な呼称に準じれば「明治元年(慶應四年)三月十四日御祭文」</ref>。
== 沿革 ==
=== 起草の過程 ===
明治新政府は[[大政奉還]]後の発足当初から「公議」を標榜し<ref group="注">[[大政奉還]]後の慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])に出された[[王政復古 (日本)#王政復古の大号令|王政復古の大号令]]には、「縉紳武弁堂上地下之無別、至当之'''公議'''竭シ」とある。</ref>、その具体的方策としての[[国是]]を模索していた。
福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「'''会盟'''」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする[[王政復古 (日本)|王政復古]]の理念にも反するという批判にさらされた。
そこで、参与で[[総裁]]局顧問の[[木戸孝允]]は、天皇が[[天津神・国津神|天神地祇]]
# 福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、
# 「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、
# 木戸最終案第四条「'''旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ'''」を新たに組み込み、
# 五箇条に続く勅語「'''''我が国未
その他、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、[[議定]]兼[[副総裁]]の[[三条実美]]も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「'''誓文'''」「'''御誓文'''」「'''五箇条誓文'''」「'''五箇条の御誓文'''」と呼ばれるようになった。木戸は後日、五箇条の意図について「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている<ref>妻木忠太『木戸松菊略伝』、松尾正人『幕末維新の個性8 木戸孝允』</ref>。
23 ⟶ 35行目:
3月14日、[[京都御所]]の正殿である[[紫宸殿]]にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰([[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]])が披瀝され国民に下される。
儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。[[神祇官 (明治時代)|神祇事務局]]が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
御誓文は[[太政官日誌]]([[官報]]の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と[[祭文|御祭文]]や[[宸翰|御宸翰]]が掲載された<ref>[{{NDLDC|787614/39}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>
=== 現代語訳 ===
{{quotation|一、広く会議を開き、すべて公けの議論にて決めなければならない。<br />一、上の者と部下は心を一つにして、精力的に国を統治しなければならない。<br />一、官僚から武官、そして庶民に至るまで、それぞれが自分の志しを達成し、人々がやる気をなくさないようにすることが必要である。<br />一、古い悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づかなければならない。<br />一、世界から知識を集め、天皇家による国家体制を大きく発展させなければならない。<br />我が国はかつてない大きな変革を遂げようとしている。私は身をもって人々に先立ち、神々に誓ってこの国家の原則を定め、国民誰もが生きていける道を築こうと思う。皆も、この私の考えに基づき、心を一つにして努力せよ。}}
=== 政体書体制での御誓文 ===
36 ⟶ 51行目:
=== 自由民権運動と御誓文 ===
[[土佐藩]]出身の[[板垣退助]]は'''御誓文は立憲政治の実現を公約したもの'''として、明治7年[[1月12日]]、[[征韓論]]者を集めて[[愛国公党]]を設立。同[[1月17日]]、[[民撰議院設立建白書]]を左院に提出した。特に第一条「'''広く会議を興し万機公論に決すべし'''」は、民選議会を開設すべき根拠とされ[[自由民権運動]]が高まる中、明治13年([[1880年]])4月に植木枝盛が起草し[[片岡健吉]]・[[河野広中]]らが提出した『国会を開設するの允可を上願する書』でも繰り返し述べられている。また[[1882年]](明治15年)の[[軍人勅諭]]と[[1890年]](明治23年)の[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]で、神格化された天皇への忠誠などが強調されたことにより、御誓文を底流にした自由民権運動の系譜は抑圧されるかたちにもなった<ref>{{Cite journal|author=[[保阪正康]]|month=12|year=2021|title=日本の地下水脈 第17回 五箇条の御誓文と日本型民主主義|url=https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h2909|journal=文藝春秋|volume=99|issue=12|page=358-367}}</ref>。[[明治憲法]]制定により[[帝国議会]]が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて、これを阻害する政府に対し批判を繰り返した。
=== 戦後の御誓文 ===
49 ⟶ 64行目:
{{Wikisource|五ヶ條ノ御誓文|御誓文}}
[[ファイル:5jo1.gif|thumb|御誓文(太政官日誌掲載、経論は経綸の誤記)]]
正式な表題は、[[法令全書]]によると、「御誓文」である<ref>[{{NDLDC|787948/81}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年([[1875年]])の[[立憲政体の詔書]])。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である{{Refnest|group="注"|ただし、明治6年([[1873年]])に[[明法寮]]が編纂した『憲法類編』には、「五箇條ノ御誓文」と書かれている<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|3437087/14|憲法類編 第一|format=EXTERNAL}}</ref>。}}。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
58 ⟶ 73行目:
** (福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた<ref>維新史料編纂会写本『福岡孝弟談話筆記』</ref>。
74 ⟶ 89行目:
=== 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス ===
* (現代表記)'''官武一途庶民に至る
** (由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
** (福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである
=== 一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ ===
* (現代表記)'''旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。'''
** (木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である
この条文を、戦前の研究者[[尾佐竹猛]]は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「'''天地の公道'''」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。
しかし、これに対し、[[稲田正次]]・[[松尾正人]]・[[佐々木克]]たちは、「'''天地の公道'''」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また[[木戸孝允]]自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、[[大久保利通]]でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ([[
=== 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ ===
108 ⟶ 123行目:
=== 奉答書 ===
* (現代表記)'''勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡
* (意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。
奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]当日には411名の[[公卿]]と[[諸侯]]が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府[[旗本]]のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。また、戊辰戦争で討伐の対象になった旧幕府方の諸藩も新政府から宥免が認められた後に署名を行っている<ref name=mizutani>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P14・363 - 367</ref>。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、
== 備考 ==
124 ⟶ 139行目:
*# 御誓文第四条 - 『西洋事情』(初編、第二)に全文掲載されている[[アメリカ独立宣言]]の最初。
*# 御誓文第五条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第三条件である「技術文学ヲ励マシテ新発明ノ路ヲ開ク」。
* 同日に天皇の御名で「[[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]]」が告示され「天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、臣民も旧来の陋習を捨てよ」と説かれている。
* イギリス外交官[[ジョン・ガビンズ]]が1922年に著した明治維新史に関する著書には、条文の曖昧さについて批判がある{{sfn|John Gubbins|1922}}。
== 脚注 ==▼
{{Reflist}}▼
== 関連項目 ==
* [[五榜の掲示]]
* [[パンチャシラ]] - インドネシアの建国五原則
* [[誓の御柱]]
* [[私論]]
▲== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
▲{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|author=John Gubbins | author2=| url=https://www.gutenberg.org/cache/epub/66178/pg66178-images.html | title=The making of modern Japan | year=1922 | publisher=Seeley, Service & Co. Limited.| series= |ref=harv}}(近代日本の形成)
== 外部リンク ==
139 ⟶ 161行目:
* 福井県立図書館「[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/101957.pdf 五箇条の御誓文と由利公正]」 - 草稿の画像など
* 五箇条の御誓文関係史料「[http://nihonsi.web.fc2.com/m1/goseimon/goseimon.htm 原案および修正案]」
*[[所功]]「「五条御誓約奉対書」関連資料」(モラロジー研究 No.81 2018)[https://moralogy.jp/admin/wp-content/files/uploads/2019/07/%E3%83%A2%E3%83%A981%E6%89%80-%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E6%B8%88%E3%81%BF.pdf]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こかしようのこせいもん}}
[[Category:日本の旧法令
[[Category:明治時代]]
[[Category:明治時代の政治]]
[[Category:明治維新]]
[[category:紫宸殿]]
[[Category:明治天皇]]
[[Category:由利公正]]
[[Category:木戸孝允]]
[[Category:有栖川宮幟仁親王]]
[[Category:誓約と宣誓]]
[[Category:日本の名数5|かしようのこせいもん]]
| |||