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'''谷氏'''(たにし、はざまし)は、[[日本]]の[[氏族]]である{{Sfn|丹羽|1970|p=214}}。
[[宇多源氏]][[佐々木氏|佐々木氏流]]の高島高信の三男谷重尚を祖とする系統と、[[丹波国|丹波]][[山家藩]]主家・[[華族]]の[[子爵]]家となった[[谷衛好]]を祖とする系統などがある。
 
== 谷重尚佐々木経泰を祖とする系統 ==
[[東漢氏]]、[[坂上氏]]の系統。
[[佐々木信綱]]の高島高信佐々木泰綱重尚佐々木経泰谷氏の祖とする。1487年 近江源氏の主流 佐々木氏が近江八幡金剛に金剛城を築城した後、谷氏が近江八幡武佐に友定城(谷殿)を築城する。戦国時代には子孫の谷重春が佐々木氏後裔の[[六角義賢]]に属して、重春の子重則は[[富田一白|富田長家]]の五男小吉郎(後の[[佐野信吉]])の家臣となった。主君の小吉郎が[[下野]]の[[佐野氏]]の養子となって[[佐野城]]へ入ったのに従い重則も関東へ下った。[[慶長]]19年([[1614年]])に佐野家は改易となり、重則は[[鳥居忠政]]に仕え[[奥州市|奥州岩城]]に移った。重則の長女[[久昌院|高瀬局]](久昌院)は徳川頼房の側室となり[[松平頼重]]と[[徳川光圀]]の生母となった。重則の長男重祐は初め[[保科正之]]に仕えた後に[[徳川頼房]]に仕え、頼房の子[[松平頼重]]の高松入封に従って高松に移った。その後谷家は[[大老]]や[[家老]]を務めた。
後漢霊帝の後裔渡来系氏族(東漢氏)阿智王の三男の爾波伎直からは、山口氏、文山口氏、桜井氏、調(つき)氏、谷氏、文氏、文池氏らが出た。[http://www.digistats.net/history/familytree.php?page=105]坂上氏の一族の谷宿禰を祖とする。近江国甲賀郡の地頭となる。戦国時代には浅井、織田、豊臣家に仕え、諸国に広まった。都に残った一族は江戸期には代々東叡大王(輪王寺宮)又は伏見宮家など宮家に仕える。墓所は京都市山科区毘沙門堂門跡塔頭双林院等。谷氏系譜より抜粋
 
== 谷重尚を祖とする系統 ==
[[佐々木信綱]]の次男高島高信の三男重尚を祖とする。1487年 近江源氏の主流 佐々木氏が近江八幡金剛に金剛城を築城した後、谷氏が近江八幡武佐に友定城(谷殿)を築城する。戦国時代には子孫の谷重春が佐々木氏後裔の[[六角義賢]]に属して、重春の子重則は[[富田一白|富田長家]]の五男小吉郎(後の[[佐野信吉]])の家臣となった。主君の小吉郎が[[下野]]の[[佐野氏]]の養子となって[[佐野城]]へ入ったのに従い重則も関東へ下った。[[慶長]]19年([[1614年]])に佐野家は改易となり、重則は[[鳥居忠政]]に仕え[[奥州市|奥州岩城]]に移った。重則の長女[[久昌院|高瀬局]](久昌院)は徳川頼房の側室となり[[松平頼重]]と[[徳川光圀]]の生母となった。重則の長男重祐は初め[[保科正之]]に仕えた後に[[徳川頼房]]に仕え、頼房の子[[松平頼重]]の高松入封に従って高松に移った。その後谷家は[[大老]]や[[家老]]を務めた。
 
===家系図===
*谷重尚 ([[佐々木信綱]]の高島高信佐々木泰綱男)
太郎左衛門
*六郎右衛門
*重宣 七郎右衛門
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[[谷衛好]]の父である[[福田正之]]([[谷野親衛]]の次子)は[[美濃国|美濃]]の[[土豪]]であり、衛好は伯父[[谷野綱衛|綱衛]]の養子となって谷野姓を称した。[[斎藤道三]]や[[織田信長]]に仕え、晩年に姓を谷野から谷に改めた。衛好は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に従うも、[[三木城]]攻めで戦死。
 
跡を継いだ子の[[谷衛友|衛友]]は武勇に秀でて秀吉の下で各地を転戦。加増を受けて最終的には[[丹波国|丹波]][[何鹿郡]]山家で1万6,000石を領した。秀吉没後に起こった[[関ヶ原の戦い]]では西軍に与して[[田辺城の戦い]]に参加したが、やがて東軍に寝返ったために所領を安堵され、[[江戸幕府]]の幕藩体制下では[[外様大名]]として[[丹波国|丹波]][[山家藩]]主を務めた。衛友の死後、子孫は所領の分割を繰り返して最終的には1万石となった{{sfn|新田完三|1984|p=863}}
 
最後の藩主[[谷衛滋|衛滋]]は、明治2年(1869年)6月の[[版籍奉還]]で山家藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の[[廃藩置県]]まで同藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=865}}。
衛友の死後、子孫は所領の分割を繰り返して最終的には1万石となる。しかし[[江戸時代|江戸期]]を通じて藩政に大過は無く、また移封も騒動も無く13代続いて[[幕末]]を迎えた。
 
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で[[公家]]と[[大名]]家が統合されて[[華族]]制度が誕生すると谷家も大名家として[[華族]]に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=24}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-14}}。明治17年(1884年)7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事{{efn|旧山家藩は現米4389石(表高1万82石)で現米5万石未満の旧小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=151}}}}として[[子爵]]に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=333}}。
 
2代子爵[[谷閑衛|閑衛]]の代の昭和前期には閑衛が[[日本製鉄]][[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鉄所]]に勤務していたため、[[福岡県]][[八幡市 (福岡県)|八幡市]][[清田町]]に在住していた{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=341}}。
 
===系図===
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                     [[谷衛弼|衛弼]]
                     |
                     [[谷衛滋|衛滋]](子爵)
                     ┃
 
                     [[谷閑衛|閑衛]](子爵)
== 出典==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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*古代氏族系譜集成
*寛政重修諸家譜
)参考文献
・「坂上田村麻呂」高橋 崇  吉川弘文館(1986年)
・「古代の日朝関係」山尾幸久 塙書房(1989年)
・「古代の日本と渡来人」井上満郎 明石書店(1995年)
・「吉士と西漢氏」加藤謙吉 白水社(2001年)
・「古代豪族の研究」 別冊歴史読本12 新人物往来社(2002年)
 
・谷氏系譜
 
== 関係項目 ==
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*[[佐々木氏]]
*[[高島氏]]
{{リダイレクトの所属カテゴリ
 
|redirect1=谷家
|1-1= 日本の子爵家
}}
{{Notelist}}
{{DEFAULTSORT:たにし}}