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[[ファイル:Aurora Ship.png|thumb|300px|SY 南極のアデリーランドに停泊中のオーロラ号、(写真は豪・南極遠征時の氷に向かって停泊しているもの)]]
'''オーロラ号の漂流'''(オーロラごうのひょうりゅう{{lang-en-short|SY Aurora's drift}})は、1914年から1917年に行わ実施された[[アーネスト・シャクルトン]]の[[帝国南極横断探検隊|大英帝国南極横断探検]]で、[[ロス海支隊]]を運んだSY スチームヨットのオーロラ号が、312日間漂流するというした試練を味わったの出来事件である。1915年5月、[[南極大陸]]のマクマード入江に係留されていたオーロラ号が、強風のときに繋索が切れて漂流を始めた。厚い流氷に囲まれて操船不能となり、十分な食料の蓄えを持たない隊員10人を陸上に残したまま、18人の乗組員とともに、[[ロス海]]と[[南極海]]の開けた海域に流されてしまった。
元は極洋[[捕鯨|捕鯨船]]の{{仮リンク|スチームヨット|en|Steam yacht}}<!-- スチーム・ヨット -->で船齢40年を超えるオーロラ号は、1915年1月、シャクルトンの南極大陸横断を支援する基地の設営に携わるロス海支隊を{{仮リンク|マクマード入江|en|McMurdo Sound}}にある[[エバンス岬]]へ送り届けた。オーロラ号の船長[[イニーアス・マッキントッシュ]]が陸上部隊を指揮するため上陸し不在、留守の間は、一等航海士のジョセフ・ステンハウスが船の指揮を引き継いだ。不適切な場所が越冬の停泊地に選ばれたのはステンハウスの経験不足が要因のひとつかもしれないが、上官の指示によって停泊地の選択肢は限られていた。船は吹き流された後に氷の中で激しいく損傷を受けてし、舵が壊れたうえに、錨を失くしていった。最悪の場合には漂流中、ステンハウスが船をの放棄さえ検討することも考えるほどの状態況になっていくどか直面した。エバンス岬と、さらに後には[[ニュージーランド]]や[[オーストラリア]]の基地と無線で連絡を取ろうとしたが果たせず、漂流は南半球の冬から春に及び、[[南極圏|南極線]](南緯66度33分44秒)のを越えてさらに北部までへ流された。1916年2月、ようやく船をとり囲んでいた氷が割れ解けはじめ、1か月後には開解放された。オーロラ号は、その後、修理や補給が可能なニュージーランドにたどり着き、物資を補給した後にはて南極に戻ってり、陸上部隊の生存者を救出した。
救援業務の監督を担当する委員会は、シャクルトンによるロス海支隊の当初の人員や物資の編成に批判的な立場であった。ステンハウスは船を守る役割を果たしたものの、ニュージーランドのポート・チャルマーズに着くとオーロラ号が入港した後、ロス海支隊救援隊の組織者委員会から指揮官を解任された。そのため、オーロラ号は新しい指揮官の下、大幅に入れ替えられた乗組員を従え、マクマード入江に戻った。ジョセフ・ステンハウスはオーロラ号乗務の功績により、後に[[大英帝国勲章]](オフィサー)を贈られた。
== 背景 ==
[[ファイル:Shackletonold.jpg|thumb|upright|left|[[アーネスト・シャクルトン]]、遠征全体の指揮者総隊長]]
帝国南極横断探検隊は2つの隊で構成されていた。第1の部隊はアーネスト・シャクルトン自身が指揮し、エンデュアランス号で[[ウェッデル海]]へ向かった。そこに基地を設営し、そこ隊員のうち6人からひとつの群なる犬そり隊が[[南極点]]を経由してロス海のマクマード入江まで大陸を横断する考えだった。第2の隊は、イニーアス・マッキントッシュの指揮下、オーロラ号でロス海の基地に向かい、シャクルトン隊が通過する予定のルート上の後半部分に補給物資を置くのが任務であった。シャクルトンは、マッキントッシュこのロス海支隊であれば、この任務を難しくはなく遂行できるいものと考えていた<ref>Shackleton, p. 242</ref>。しかし、シャクルトンは、ロス海支隊の詳細な計画について練る時間をほとんど割かなかった。その結果、マッキントッシュは、オーストラリアに到着して任務に就くやいなや、次から次へと財政や組織の問題に悩まされ、中でもオーロラ号に関する問題は深刻であった。オーロラ号は、長年の実績を誇る堅牢な捕鯨船であったが、船齢は40年となり、しかも[[ダグラス・モーソン]]のオーストラリア南極遠征から戻ったばかりで大々的な再修理が必要であった<ref name="Hadd35">Haddelsey, pp. 25–28</ref><ref>Fisher, pp. 397–99</ref>。オーストラリアの著名な極圏科学者、エッジワース・デイビッドの口添えによってオーストラリア政府による資金とドック設備の提供が実現し、オーロラ号は、引き続き南極圏における活動に携わるための改修を受けた<ref name="Hadd35"/>。
[[ファイル:Aeneas Mackintosh crop 3.jpg|thumb|ロス海支隊の隊長を務めた[[イニーアス・マッキントッシュ]]、ロス海支隊指揮者]]
最終的に1914年12月に出港したロス海支隊で、南極圏において際だった経験を有していたのは、マッキントッシュのほか、犬を担当した[[アーネスト・ジョイス]]、船のボースン(甲板長)であるジェイムズ・"スコッティ"・ペイトンのみであった<ref name="TL114"/>。隊員の中には駆け込みで参加した者もいた。海に出たことのなかった鉄道技師アドリアン・ドネリーはオーロラ号の二等機関士になり<ref name="TL50">Tyler-Lewis, p. 50</ref>、無線通信士のライオネル・フックは18歳の修行中の身だった<ref>Hooke eventually became Chairman of Amalgamated Wireless Australasia, and was knighted inフックは最終的にアマルガメイテッド・ワイヤレス・オーストラリア社 (現AWA社)の会長となり、1957. 年にはナイトの称号を受けた。Tyler-Lewis, pp. 272–73</ref>。オーロラ号の一等航海士ジョセフ・ステンハウスはイギリス・インド蒸気船運航会社の出身で、隊に参加した時点の年齢は26歳であった。不況からの回復期にあったオーストラリア在留中にいたとき、シャクルトンの計画を聞きつけ、オーロラ号における職を確保するため[[ロンドン]]に赴いた。少年期に[[フリチョフ・ナンセン]]、や[[ロバート・スコット]]大佐、[[ウィリアム・スペアズ・ブルース]]などの極圏探検者から刺激を受けていたものの、南極海や氷の状態について直接の経験は無なかった<ref>Haddelsey, pp. 16–23</ref>。
== マクマード入江 ==
=== 冬の停泊 ===
オーロラ号は1915年1月にマクマード入江に到着したが、。オーストラリアを出発するのが遅れたために、南極での活動シーズンとしては遅い時期だった。予定から見れば3週間遅れていたので、マッキントッシュは補給所をの設置する作業を直すぐにも始めるべきと判断し<ref name="TL66">Tyler-Lewis, p. 66</ref>、それ自ら指揮を自分で実行すとることにした。1月25日までに、初期犬ぞり隊の1つを率いは、ステンハウスをに船の指揮官に残を任せ、犬ぞりの先発隊の1つを率いて出発した。マクマード入江が冬に向かっの間氷結して凍るしまう前のわずか数週間でのうちに、ステンハウスは残りの陸上部隊と物資の陸揚げを監督する必要があった。また、冬の間安全に船を係留する場所を見つけねばならなかった。マッキントッシュは、船を離れる際、これが最優先課題だと明確に指示していた<ref>Tyler-Lewis, p. 112</ref>。
[[ファイル:Possible Aurora Mooring Sites.jpg|thumb|left|凍ったマクマード入江を上空から見たところ。大陸から突き出ているエレバス氷舌の先にハットポイント(右下のA点)、エバンス岬(左上のB点)が見られる]]
冬季にマクマード入江で唯一安全な冬季に係留場所できるとして知られ分かっていたの場所は、スコットが初めての遠征([[ディスカバリー遠征]]) で1901年~1903年に使ったハットポイントの基地だけでありった。この基地は、マクマード入江を2つに二分けする[[エレバス氷舌という突出部]]の南側にあっ置かれた。しかしただ、スコットの船は2年間氷に閉じ込められており、それを解放するのために2回隻の救援船と何度かが出て、爆薬による氷の探検粉砕が行を必要としわれた。シャクルトンはこれのような事態を絶対に避けるこようととしており、マッキントッシュには氷舌より北で越冬するよう明確な指示を与え、それがステンハウスに伝えられていた<ref name="TL114">Tyler-Lewis, pp. 114–16</ref>。それまでこの湾の露出した北部で越冬した船は居らずなく、そうすることのような判断については、経験のある水夫のアーネスト・ジョイスやジェイムズ・ペイトンのは個人的な日誌で疑問題にされ視する記述を残していたる<ref>Tyler-Lewis, p. 68</ref><ref>Tyler-Lewis, pp. 120–21 and p.126</ref>。遠征が終わった後で、にロス海支隊の救援隊を率いたジョン・キング・デイビスは、シャクルトンの指示が無視されるべきであり、ステンハウスはオーロラ号を凍り付かせが氷に閉じ込められる危険可能性があったとしても、ステンハッウスはシャクルトポイントの指示を無視し、安全な地点ハットポイントに移しておオーロラ号を置く移動させるべきだであったと、遠征の完了後に記していたる<ref>Tyler-Lewis, p. 221</ref>。
当初、ステンハウスは最初にエレバス氷舌そのもの自体の北側に船を停泊させようとした<ref>Haddelsey, p. 43</ref>。あるとき風向きが変わり、氷舌と前進し近づいてくる叢氷の間にオーロラ号が閉じ込められる危険性があそうになったのをが、やっとかわすろうじてことができれを回避した<ref>Tyler-Lewis, pp. 118–19</ref>。他の選択肢もをいくつか検討したが却下し、結局果、最終的には以前にスコット大佐が昔[[テラノバ遠征]]で使った1911年に基地のエバンス岬沖で停泊することに決めした。、氷舌の北約6海里 (11 km) のに位置だっするエバンス岬沖で停泊することに決めた。<ref>スコットのテラノバ号は、ここで隊を上陸させた後、ニュージーランドで越冬した。また、シャクルトンのニムロド号(1907年から1909年の遠征)も同様であった。Tyler-Lewis, p. 114</ref>。3月14日、ステンハウスは何度も失敗やり直した後で末<ref>Fisher, p. 402</ref><ref>Bickel, pp. 69–70</ref>、ステンハウスはオーロラ号を所定の位置に操船し、エバンス岬のある岸に対して船尾を向けた位置につけ、2つの大きな錨を投じて、海底に固定した。錨は錨索と太綱が、それに太い鎖と共によって船尾に付けらつながれた。主錨鎖も2つ落とされた。3月14日までのうちに、二等航海士のレスリー・トンプソンの言葉に拠よれば船は岸の氷に収まり、「戦艦を保持できるほどの太綱と錨が」使わで船が岸の氷に固定されていった<ref>Tyler-Lewis, p. 123</ref>。
=== 暴風による漂流開始 ===
エバンス岬の隠れ場所むき出しの無い停泊地は、オーロラ号を冬の厳しい気象に完全に曝すことになった。4月半ばまでには船はが「難破船」のようになっており、右舷側に大きく傾き、氷がその周りを動くと激しい衝撃や振動が伝わっていた<ref name="Tyler-Lewis_125–27">Tyler-Lewis, pp. 125–27</ref>。気象が許すときは、陸上部隊と、さらの通信を可能にする無線用アンテナを張ろうとした。アンテナは、後にはオーストラリアやニュージーランドとの通信を可能にする無線用アンテナを張ろも使うという試みが行われ考えであった<ref name="Hadd49">Haddelsey, pp. 48–49</ref>。補給所にお置くために橇で運ぶそり隊用の食料ので船内に残りがっていた分は岸に揚げられたが<ref name="Hadd49"/><ref>これ以外の分はすでに陸揚げして小屋で保管されていた。Tyler-Lewis, p. 131</ref>、冬の間は船が同じ場所に留まるという前提だったため、陸上部隊の個人備品や燃料、機材の大半は船上に置かれたままであった<ref>Bickel, p. 71</ref>。
5月6日午後9時ごろ、激しい嵐が吹いていた中で、船上にあったの隊員が「爆発音」を2回聞き<ref name="Tyler-Lewis_125–27" />、主となる太綱が錨から切れた。風の力に加えて急激に動く氷の力が働いた結果、オーロラ号は停泊地から切り離され、大きな氷盤に取り囲まれる格好で湾の中を漂い始めた。ステンハウスは、強風が弱まった間にれば蒸気機関の力で岸に戻すことができれるかもしれないと考え、蒸気を上げるよう命令したが、エンジンはが冬の修繕のために一部分解されており、即座に発始動できなかった<ref name="Hadd51"/>。たとえエンジンを始動できたとしても、98馬力 (73 kW) のエンジンと1軸のスクリュー・プロペラでは、推力不足だった<ref>Bickel, p. 218</ref>。嵐の轟音のせいで、エバンス岬の小屋にいる科学者部隊は異変の音に気付いていなかった。船が流されてしまったことを知ったのは朝になってからだった<ref name="Hadd51">Haddelsey, pp. 51–52</ref>。
オーロラ号が漂流を始めたときには18人の乗組員が乗船しており、岸には10人が残された。エバンス岬の小屋には4人の科学者がいた。最初の補給所設置隊はマッキントッシュとジョイスを含む6人であり、このときハットポイントでエバンス岬まで海氷を渡るチャンスをうかがって待機していた<ref>ハットポイント隊がオーロラ号のいなくなったことを知ったのは、エバンス岬に到達した6月2日のことであった。マッキントッシュは、この知らせを「KOパンチ」だったと日記に残している。Tyler-Lewis, p. 129</ref>。
== 漂流 ==
=== 第一段階 ===
[[ファイル:Aurora's drift.png|thumb|300px|オーロラ号の漂流経路、。漂流し始めた1915年5月6日から叢氷時点の中で流され位置、1916年3月14日に氷から解放された時点の位置、その後のポートチャルマーズに撤までの退した避ルート]]
5月8日、それまでに連止むことなく吹き続しけた南からの強風がによって、まだ船が氷に閉じ込められたままの船を北に動かし、マクマード入江から北へと押し出てされ、ロス海の開けた海放水域に入った<ref name="Hadd53"/>。ステンハウスは5月9日の日誌でオーロラ号の位置を状況について「叢氷の中に固く閉ざされ、どこへ行くかは神のみぞ知るだ。(中略) 我々の健康状態は良い。(中略) 意気は高く、きっとうまくや切りくりでき抜けるだろう。」と要約していた<ref name="Shack309"/>。ステンハウスは、それがもはやマクマード入江での越冬するは期待を失くすものであるこきないとを認識観念し、エバンス岬に残された隊員のことを心配して「彼らには悲惨なとって、見込みである通しは非常に暗い。我々はそり隊が来年使う分の橇旅行のために残していた[[バーバリー]]や衣類その他を船に積んだままであるだ」と記していた<ref name="Shack309">Shackleton, pp. 309–13</ref>。その後の2日間、風は乗組員が甲板で働けないほどに風が強かったが<ref name="Hadd53">Haddelsey, pp. 53–57</ref>、5月12日に、は一時的に無線通信用アンテナを張ってみれるほどに和らいだ。フックが陸上の部隊との接触を試み始めた。しかし、そのモールス信号はエバンス岬に届かなかった<ref name="TL199">Tyler-Lewis, p. 199</ref>。船に搭載していた送信機の範囲は通常の通信範囲が300マイル (480 km) に満足らずであったないが、フックは1,300海里 (2,400 km) 以上離れた[[マッコーリー島]]の基地と通信しようとして、やはり叶わなかった<ref name="Hadd53"/><ref name="TL199"/>。
5月14日、船首の主錨2個の壊れた残骸が残っており、船を転覆させる恐れがあったので、それらを甲板に引き上げられた<ref name="Shack310">Shackleton, pp. 310–11</ref>。それに続くから数日々では叢氷の厚さが厚くなり、次第にますます天候が荒れ始めた気象。その中状況では、操船しようとしてにも石炭の浪費になる可能性が強かだけであったので、ボイラーを停止させた<ref name="Shack310"/>。さらに、船に内の清水をの補充するのもあらたなが問題になった。大きな氷山が見えたが、その気象条件が悪い中で近づくにはあまりに遠か距離があったのでため、乗組員は飲料水を得るために乗組員が雪を集めるしかなかった<ref name="Hadd53"/>。食料はそれほど問題にならなかった。船の周りに集まってくるペンギンやアザラシからの肉で、オーロラ号に積んでいた食料を補うことができた<ref name="Hadd53"/>。乗組員の士気を上げるために5月24日のイギリス帝国の日には[[ラム酒]]が分けら支給された<ref>Huntford, p. 420</ref>。
5月25日、オーロラ号が[[ヴィクトリアランド]]の方向に流されていたとき、ステンハウスは大きな氷の塊がねじれて立ち上がっている様子光景を見て「墓場の様だ」と表現していた<ref name="Shack312"/>。オーロラ号はこの氷が集ま船体の周りを動き回ってくるたので、オーロラ号は常に危険な状況にあった<ref>Bickel, pp. 218–19</ref>。ステンハウスは乗組員に万一、オーロラ号が氷に捕まって潰された場合には岸に揚がる可能性に備え向けて行進できるよう、橇ステンハウスは乗組員にそりと物資をの準備するようを命令しじたが、差し当たりの危険性は去った<ref name="Shack312">Shackleton, p. 312</ref>。比較的何もない数週間が過ぎ、その間にステンハウスは選択肢を検討した。船が氷に閉ざされたままならでも動きがとれないくなるのであろう。氷が解けるなられば、そり隊に装備とや物資を持たせた橇部隊をてエバンス岬に送ることり出す方法ができある。しかし一方、北への漂流が続くならば場合は、船が自由になり氷から解放され次第、ニュージーランドに向かい、修繕と再補給を済ませ、2回期目の補給所設置のシーズンに間に合わせるべくうよう9月か10月にはエバンス岬に戻ると方法を考えていた<ref name="Hadd53"/>。
7月9日までには漂流のスピードが上がり、叢氷の圧力が高まる兆候があった。7月21日、氷が船首と船尾の両端から船体を引っ掻く押しつぶすような位置になり、ある衝撃でがっしり掴まれて舵が修復不能なほどまで壊れた。フックの日誌に拠よれば、「全員が舷側から氷に飛び降りる用意ができていた。船は間違いなく破壊されるように思われた」と記した<ref>Quoted in Haddelsey, p. 59</ref>。翌日、ステンハウスは船を放棄する準備をしたが、氷に新しいの動きがあり、変わって状況をが緩和らげされ、船は安全な位置取りになっ落ち着いた<ref name="Hadd58">Haddelsey, pp. 58–59</ref>。船を捨棄てる計画は中止された。フックは無線通信用アンテナを修理し、マッコーリー島との通信に対する呼び出しを再開した<ref>Tyler-Lewis, p. 204</ref>。8月6日、漂流を始めてから初めて太陽が顔を出した。オーロラ号は依然として氷にしっかり捉えられたままであり、今やエバンス岬からは北へ360海里 (670 km) 北に出あっており、ロス海が南極海に出て来るとなり、ヴィクトリアランド北端のエバンス[[アデア岬]]に近づい場所に位置していた<ref name="Shack320"/>。
=== 南極海の段階 ===
船がアデア岬を過ぎた時、漂流の方向が北西向きに変わった<ref name="TL207"/>。8月10日、ステンハウスは、船の位置が岬の北東45海里 (83 km) にいると推計しで、1日の平均漂流距離は平均してちょうど20海里 (37 km) を越えた少し上回る程度とみな推定した<ref name="Shack320">Shackleton, pp. 320–21</ref>。その数日後、ステンハウスは船が「前後退と充填をに漂流しており、進歩がないる状態」<ref>原文では"backing and filling"。"backing and filling"は帆船に関するイディオムで、もと記録もとは帆を巧みに逆帆 (back) にした。すなわちり、風をはらませたり (fill) して狭い水域を進むことなく後退と前進を意味する。19世紀の中頃以降、これが転じて「方針の変更を繰り返す」、「物事がはっきり決まらない様」を表す比喩として用いられるといようことだになった。</ref>だと記している<ref name="Shack320"/>。「しかし、文句はを言えってはいられない、忍耐するしかない」とステンハウスは記し、マスト上の見張り台からははっきりと開けた海放水面が見られえると付け加えていた<ref name="Shack320"/>。叢氷の端部縁が近いという見込みがありるため、応急舵の工作が始まった。これには破壊された舵の除去から始める必要があり、技師のドネリーが大部分を担当した<ref name="Hadd61">Haddelsey, p. 61</ref>。応急舵はありあわせの材料で作られ、8月26日には、氷から脱出でき次第使えるようになっていた<ref name="Hadd61"/>。それの時には舵を船尾から降ろされてし、人力で「巨大なオールのように」動かされるこぐことになっていた<ref name="TL205">Tyler-Lewis, p. 205</ref>。
8月25日、フックはときたまおりマッコーリー島とニュージーランドとの間で交わされている無線信号を傍受し始めていた<ref name="TL205"/><ref name="Shack322">Shackleton, pp. 322–24</ref>。8月末までには海氷域の割れ中に開けた先端水路が現れるようになり、時ときには船の下で氷波の膨らみうねりを見分つけることができた<ref name="Hadd61"/><ref name="Shack322"/>。しかし、9月に入って厳しい気象条件が戻り、ハリケーンのような風が無線通信用アンテナを破壊し、一時的に通信を試みていたフックの作無線業は止まっ務が一時的に中断された<ref name="TL205"/>。9月22日、オーロラ号はから無人の[[バレニー諸島]]が視界に入るようになり、った。ステンハウスはエバンス岬からの移動距離を700海里 (1,300 km) 以上動いてきたと推算し、これを「素晴すばらしい漂流」と言っ称した。また、自然と現象や氷の方向については定期的な観測と記録が維持されており「(漂流も)無駄ではないかった。叢氷の固まりと漂流の向や流速に関する知識がは、あらたに人類の知識の集まり積に加わる貴重な追加となるものだ」と言ってい付け加えた<ref name="Shack322"/>。
翌10月以降、オーロラ号の状況はほとんど変わらなかった。ステンハウスは士気を保ち、作業が可能なときは常に乗組員に仕事をいつでも働けさせるようにし一方、氷の上でのフサットボカールやクリケットなどのレジャー活動を組織計画するなど懸命に働いてい努力した<ref name="Hadd62">Haddelsey, pp. 62–64</ref>。11月21日、オーロラ号は[[南極圏の|南極線]]を通過し、とうとう船の周りの氷がやっと融明らかに解けはじめていることが明らかになった。、ステンハウスは「強い猛吹雪でも来れば氷全体の崩壊解氷につながる」と記していた<ref name="Hadd62"/>。クリスマスが近づいてもまだ氷が固かった。ステンハウスは乗組員に祭の用意を認めたが、その日誌には「神が吹き飛ばされたよ、どうかひどい祭は終わったことりにしてくれるのを願う給え。我々は最良可能な限りのもの状態にあるがをむさぼり、エバンス岬の憐れな乞食たち奴らはほとんど、あるいは何もも持っていない!」と記していた<ref name="Hadd62"/>。数日後の新年は、即興のバンドで『Rule, Britannia[[ルール・ブリタニア]]』とイギリス国歌『[[女王陛下万歳]]』を歌って祝った<ref name="Hadd62"/>。
=== 解放 ===
1916年1月初旬、船を捕縛していた浮氷が日光を受けて割れ始めた。ステンハウスはニュージーランドで修繕をした後で「我々が2月末にリトルトン<ref>The correct spelling is 原文では"Lyttleton"となっているが、正しいスペルは"Lyttelton"; it is either misspelt by Stenhouse, or in transcription from his journal.である。ステンハウスがスペルを誤ったか、あるいは彼の日誌からの転写時に誤りがあった可能性がある。</ref>を出ることができれば航し、運とよく南への素早いすばやく航海によってできれば、入り江全体が凍結する前にハットポイントに到着できるかもしれない」と推量していた<ref name="Hadd62"/>。船から近遠くない場所で氷が速く動いているのが見られたが、それでも1月の間、オーロラ号は氷に捉われていた<ref name="Shack328">Shackleton, p. 328</ref>。
南極の夏が終わりかけており、ステンハウスはオーロラ号がもう1年氷に捉われたままになる可能性も検討しなけれを考えねばならず、燃料や食料を再の点検討した後に、アザラシやペンギンをもっと多く捕まえ獲するよう命令した。しかしこれは難しいことが分かった。氷が柔らかくなってきており、船から遠くまで移動するのは危険だった<ref name="TL207">Tyler-Lewis, pp. 207–10</ref><ref name="Shack328"/>。船を囲んでいる氷が融解けるにつれて、船殻木材の継ぎ目が開いて来て、1日3ないし4フィート(およそ1 m)の水が浸水してくるようになり、ポンプで搔掻い出すのが日常になった<ref name="TL207"/>。2月12日、乗組員がこの労働排水作業で忙しくしていたときにころ、ついに船の周りの氷がやっと壊れ始めた。僅わずかな時間の間に数分で浮氷全体が粉々になり、水面が開け、オーロラ号は自由に浮かんでいた<ref name="Hadd65">Haddelsey, pp. 65–68</ref>。翌朝ステンハウスは帆を張ることを命じたが、2月15日、船は集まって来た氷に止められ、また2週間の間動けなくなった<ref name="Hadd65"/>。ステンハウスは石炭が残り少なくなっ底をついてきていたので、ステンハウスはエンジンをの使うこと用を躊躇ためらっていたが、3月1日に選択の余地がないと判断した。蒸気を送るように命じ、翌日にはエンジンの力で前進を始めた<ref name="TL207"/>。何度か停止と進行を繰り返した後、3月6日に、見張り台から氷の外れ縁が視認された<ref name="TL207"/>。3月14日、オーロラ号は遂に氷から離れた。312日間、1,600海里 (3,000 km) を漂流して来ていた。ステンハウスは船が開けた海に出た位置を南緯64度27分、東経157度32分と記録した<ref name="Hadd65"/>。
== 文明世界への帰還 ==
[[ファイル:The aurora.jpg|thumb|upright|漂流後にニュージーランドに帰還したオーロラ号、応急舵が見える]]
叢氷からの脱出が遅れたことで、すぐにエバンス岬に直ぐにへ救援に向かうというステンハウスの望みはなくなっが絶たれた。このときの優先事項は今や、ニュージーランドに行たどり着き、翌春に南極に戻ることが最重要だった<ref name="Hadd65"/>。叢氷に捕まっていた最後のいらだたしい数週間に、フックはで無線通信機器の作業を続けておりいたフックは、再度交電文の送信を始めてい再開した。フックと他の乗組員は、オーロラ号が漂流している場所から最も近いマッコーリー島の無線基地局が、近年財政的な事情でオーストラリア政府によって最近閉鎖されていたことを知らなかった<ref name="NYT">{{cite news | title = Aurora Sent Word By Wireless Freak | work = New York Times|date= 14 May 1916 | url = http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9905EFDC1439E233A25757C1A9639C946796D6CF | accessdate = 25 March 2009}}</ref>。3月23日、特別に拵えた甲板から80フィート (24 m) と通常の高さに掲げた特製の4倍ある線型アンテナを使いってフックが電文を送信したところ、変わりやすい大気象圏の異常な条件の中でメッセージを送が重なり、それがニュージーランドの[[ブラフ基地 (ニュージーランド)|ブラフ]]局に信号が届いた<ref name="NYT"/>。翌日、その信号には[[タスマニア]]の[[ホバート]]まで受信され号が届き、フックはそれから数日を使って間、オーロラ号の位置、全体の状況、陸上部隊にの苦境のに関する詳細を送った。これらのメッセージ電文は装置、無線機の通常の送通信範囲を超えはる遥かに遠くまで超える距離の送信を可能にした変わりやすい気象条件異常伝播が発生した事実とともに、世界中にで報告道された<ref name="NYT"/><ref>{{cite news | title = Marooned Men Have Food Supplies | work = New York Times|date= 29 March 1916 | url = http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9E01E1D71F38E633A2575AC2A9659C946796D6CF | accessdate = 25 March 2009}}</ref>。
氷を抜け出して安全な所に向かうオーロラ号の行程航海は鈍進みが遅く、危険なものだった。石炭の消費量を抑えねばならずるため、エンジンの利使用は限られた範囲であり定的にせざるを得ず、急ごしらえの応急舵では方向づけ操舵が難しかった。船は時ときには船が頼りなくもがき、沈没の危険性もあった<ref name="Hadd69">Haddelsey, pp. 69–70</ref>。ステンハウスは、外界と接触できた後であっても、ステンハウスは当初じめのうちは直接支援の助けを求めることにを躊躇し、た。救助費が援を要請すれば、遠征隊がさらにとっ苦しい立場に置かれてあらたな当惑しまうの種を生むこではないかとを恐れた<ref>Tyler-Lewis, p. 213</ref>。しかし、3月31日にニュージーランド近くで嵐に見舞われたときは、救援を求めるしかなくなった。船が岩に乗り上げる危険性があ生まれ、救援を求めるしかなくなった。その2日後、[[タグボート]]のダニディン号が迎えにきて、曳き綱タグワイヤーが結ばれた<ref>Some sources資料によっては (e.g.例: Shackleton, p. 333) giveはタグボートの名前を the"Plucky" tug's(プラッキー号) name as ''Plucky''.と記している</ref>。翌1916年4月3日朝、オーロラ号は[[ポート・チャルマーズ]]の港に曳か航されて行った<ref name="Hadd69"/>。
== 救援の旅 ==
ニュージーランドに到着したステンハウスは、1914年12月に[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア]]を出発したシャクルトン率いるウェッデル海の本隊について、出発以来、何も情報が入っていないことを知った。帝国南極横断探検隊の本隊とロス支隊の両方の隊が救援を必要としている可能性が強かっあるようにみえた<ref name="TL214">Tyler-Lewis, pp. 214–15</ref>。ステンハウスはロンドンの遠征担当事務所から、資金はとっくに底をついており、オーロラ号の修繕に要する費用もの財源は他所で見つけなければならないる必要があると告げられた<ref name="TL214"/>。当局の考えでは、エバンス岬に置き去りにされている隊よりも、シャクルトン隊の救出が優先事項であだと当局が考えているのは明らかだった<ref>Tyler-Lewis, p. 217</ref>。
こ事態に変化のように不確かない時期があっ続いたが、5月末になるとシャクルトンが突然[[フォークランド諸島]]に現れてイギリス本国に報告電報を打ち、シャクルトン隊救出の目処がついたことにより事情が変わった<ref>Tyler-Lewis, p. 219</ref>。イギリス、オーストラリア、ニュージーランド各国政府は1つの任務にのみ集約されたので、ロス海支隊の救援遠征に合同で資金を出すことに合意し、6月28日には、オーロラ号の修繕が始められまった。依然、ステンハウスはこの船の「事実上」の船長として、自身が救援隊を率いて行くものと考えていたが、救援船の修繕を担当する委員会がはシャクルトンのによるロス海支隊の組織を当初の編成に批判していることが明らかにな的であった<ref>Haddelsey, p. 78</ref><ref>Tyler-Lewis, p. 224</ref>。シャクルトンに忠誠なステンハウスにとって受け入れ難い事に、委員会は独自に救援隊の指揮官を独自に指名することを望んでみ、彼らにとって、シャクルトンに忠誠なステンハウスは認められない人選であった。<ref name="Hadd77">Haddelsey, pp. 77–80</ref>。さらに、委員会は、不運な結果を招いた場所をステンハウスが冬季の停泊地に選択したことを引き合いに出し、指揮官として十分なの経験値を持っているかも問題にし、その理由として冬季停泊地の誤った選択を挙げた<ref>Tyler-Lewis, p. 225</ref>。ステンハウスは先行きの不確か透明な状態がまま数か月続いた後に、10月4日付の新聞記事でが経ち、ジョン・キング・デイビスがオーロラ号の新しい船長に指名されたことをステンハウスが知ったのは、10月4日付の新聞記事であった<ref name="TL227">Tyler-Lewis, pp. 227–30</ref><ref>Davisデイビスは1907年~1909年の遠征でニムロド号の一等航海士、後に船長を務めたほか、オーストラリアの南極遠征 had considerable Antarctic experience, having been chief officer and later Captain of ''Nimrod'' during the 1907–09 expedition, and captain of ''Aurora'' during the Australasian Antarctic Expedition.(1911年~1914年) でオーロラ号の船長を務めるなど、南極圏における経験は豊富であった。{{cite web | last = Béchervaise | first = John | title = Davis, John King (1884–1967) | work = Australian Dictionary of Biography | url = http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A080262b.htm | accessdate = 510 AprilAugust 20092022}}</ref>。ステンハウスはシャクルトンから、このような手配編成に協力しないよう勧めらシャクルトンに促され、オーロラ号で一等航海士に戻す就けるという提案を拒否し、トムソン、ドネリー。フックと共に解雇された<ref name="TL227"/>。シャクルトンがニュージーランドに現れたのときは遅すぎて、この件に介入しようにもすできずに手遅れとなっており、オーロラ号の定員外の士官として指名し自身がオーロラ号に乗船できるようとしたにするのが及ばず、精一杯であった。オーロラ号は1916年12月20日にエバンス岬に向けて出港した<ref>Tyler-Lewis, p. 231</ref>。
1917年1月10日、ほとんど新しい乗組員に入れ替わったオーロラ号がエバンス岬に到着し、陸上部隊の生存者7人を収容した。しかし、マッキントッシュ、ビクター・ヘイワード、アーノルド・スペンサー・スミスの3人が既に死亡していた<ref>Shackleton, pp. 335–37</ref>。
オーロラ号が南極を訪れたのはこれが最後となった。ニュージーランドに戻った帰港後、船はシャクルトンによって石炭運搬船として会社に売却され、オーロラ号が南極を訪れたのはこれが最後となった。オーロラ号は1917年6月20日にオーストラリアの[[ニューサウスウェールズ州]][[ニューカッスル (ニューサウスウェールズ州)|ニューカッスル]]を離れて[[チリ]]に向かいったが、その後行方が分からなくなった。1918年1月2日、[[ロイズ|ロンドンのロイズ]]により失踪消息不明として公式に登録示された<ref>Bickel, p. 236</ref>。このとき失踪し行方不明となった者の中にジェイムズ・ペイトンがいた。ペイトンはロス海支隊との遠征からオーロラ号が漂流のしていた間、およびその後の救援隊でも船の甲板長としてを務めていた<ref>Tyler-Lewis, p. 274</ref>。
1920年、ジョセフ・ステンハウスはオーロラ号乗務の功績が認められ、イギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]から[[大英帝国勲章(]]・オフィサー) (OBE) を贈られた<ref>Haddelsey, p. 129</ref>。
== 脚注 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite |和書
| author = アルフレッド・ランシング
| authorlink = アルフレッド・ランシング
| translator = 山本光伸
| title = エンデュアランス 史上最強のリーダーシャクルトンとその仲間はいかにして生還したか
| date = 2014
| edition =
| publisher = パンローリング
| isbn = 978-4-7759-4126-3
| ref = harv }}
* {{Cite |和書
| author = ケリー・テイラー=ルイス
| authorlink = ケリー・テイラー=ルイス
| translator = 奥田祐士
| title = シャクルトンに消された男たち : 南極横断隊の悲劇
| date = 2007
| edition =
| publisher = 文藝春秋
| isbn = 9784163693903
| ref = harv }} (原題: The Lost Men)
* {{cite news | title = Aurora Sent Word By Wireless Freak | work = New York Times|date= 14 May 1916 | format = PDF | url = http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9905EFDC1439E233A25757C1A9639C946796D6CF | accessdate = 25 March 2009 }}
* {{cite web | last = Béchervaise | first = John | title = Davis, John King (1884–1967)|work =Australian Dictionary of Biography |
== 外部リンク ==
* {{cite web | url = http://www.south-pole.com/p000098a.htm | title = The Trans-Antarctic Expedition 1914–17 – SY ''Aurora'' and the Ross Sea Party | publisher = Southpole.com | accessdate = 2008-05-20 }}
* {{cite web | url = https://nzhistory.govt.nz/media/interactive/shackleton-sea-parties | title = Endurance expedition parties | publisher = New Zealand History | accessdate = 2022-08-10 }}
{{DEFAULTSORT:おうろらこうのひようりゆう}}
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