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=== 日本ハム時代 ===
プロ入り後、[[加藤俊夫]]・[[大宮龍男]]の存在で[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])暮らしや[[ブルペン捕手|ブルペン]]生活が続いた。
プロ入り後、[[加藤俊夫]]・[[大宮龍男]]の存在で[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])暮らしや[[ブルペン捕手|ブルペン]]生活が続いた。{{by|1980年}}には球団が業務提携していた[[ニューヨーク・ヤンキース]]傘下の[[マイナーリーグ|A級]]に留学。{{by|1981年}}には初めて一軍の春季キャンプに参加したものの、オープン戦の途中に二軍落ち<ref name="baseball-20190520">{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190520-11 |title=田村藤夫 「伊東より実力は上」とも言われた名キャッチャー/プロ野球1980年代の名選手 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2019-05-20 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。9月27日の対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]戦([[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])で途中ながら初出場を果たし、[[福本豊]]の盗塁を制している{{R|baseball-20190520}}{{by|1982年}}には、大宮が死球禍で一時離脱したことによって出場機会を増やし、37試合の出場ながら打率.308を記録{{R|baseball-20190520}}。その後も徐々に出場機会を増やしていき、控え捕手として一軍に定着。
 
{{by|1980年}}には球団が業務提携していた[[ニューヨーク・ヤンキース]]傘下の[[マイナーリーグ|A級]]に留学。
{{by|1986年}}には大宮から正捕手の座を奪うと、打撃でも巧みな右打ちが光り、最初は7番打者でスタートしたが一時は5番にも座る{{R|baseball-20190520}}。7月まで打率3割をキープするも疲れもあってか後半は失速するが{{R|baseball-20190520}}、[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]初出場と自身唯一の全試合出場を果たし、初の[[規定打席]]到達で打率.274(リーグ24位)、自己最高の19本塁打を記録。同年は盗塁阻止率.427を記録し、[[伊東勤]]の.345を上回って以降、盗塁阻止率)では5年連続で伊東を凌駕している{{R|baseball-20190520}}。{{by|1987年}}は自己最多の60打点と自己最高の打率.275(リーグ11位)を記録。
 
プロ入り後、[[加藤俊夫]]・[[大宮龍男]]の存在で[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])暮らしや[[ブルペン捕手|ブルペン]]生活が続いた。{{by|1980年}}には球団が業務提携していた[[ニューヨーク・ヤンキース]]傘下の[[マイナーリーグ|A級]]に留学。{{by|1981年}}には初めて一軍の春季キャンプに参加したものの、オープン戦の途中に二軍落ち<ref name="baseball-20190520">{{Cite web |和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190520-11 |title=田村藤夫 「伊東より実力は上」とも言われた名キャッチャー/プロ野球1980年代の名選手 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2019-05-20 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。9月27日の対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]戦([[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])で途中ながら初出場を果たし、[[福本豊]]の盗塁を制している{{R|baseball-20190520}}{{by|1982年}}には、大宮が死球禍で一時離脱したことによって出場機会を増やし、37試合の出場ながら打率.308を記録{{R|baseball-20190520}}。その後も徐々に出場機会を増やしていき、控え捕手として一軍に定着
{{by|1988年}}は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の[[日米野球]]では、59回連続無失点を記録中であった[[オーレル・ハーシュハイザー]]から11月5日の第1戦([[東京ドーム]])で本塁打を放つ。{{by|1989年}}には[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から[[若菜嘉晴]]が移籍してきたが、正捕手の座を守った。同年10月1日の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦([[平和台野球場|平和台球場]])で史上41人目の[[サイクル安打]]を達成。{{by|1990年}}4月25日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦(東京ドーム)では[[柴田保光]]の[[ノーヒットノーラン]]をアシスト。
 
{{by|1982年}}には、大宮が死球禍で一時離脱したことによって出場機会を増やし、37試合の出場ながら打率.308を記録{{R|baseball-20190520}}。その後も徐々に出場機会を増やしていき、控え捕手として一軍に定着。
{{by|1993年}}シーズンには自身初タイトルの[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]を獲得したほか、[[金石昭人]]との[[最優秀バッテリー賞]]も受賞。同年のシーズンオフに「田村が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]するかもしれない」という噂が流れたが、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。{{by|1995年}}は[[田口昌徳]]の台頭や、近鉄から移籍してきた[[山下和彦]]の活躍で9年ぶりに100試合を割る。それでも7月5日の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦(東京ドーム)では[[西崎幸広]]のノーヒットノーランをアシストしたが、同年のシーズンオフに日本ハムから戦力外通告を受け、金銭トレードで[[千葉ロッテマリーンズ]]へ移籍。
 
{{by|1986年}}には大宮から正捕手の座を奪うと、打撃でも巧みな右打ちが光り、最初は7番打者でスタートしたが一時は5番にも座る{{R|baseball-20190520}}。7月まで打率3割をキープするも疲れもあってか後半は失速するが{{R|baseball-20190520}}、[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]初出場と自身唯一の全試合出場を果たし、初の[[規定打席]]到達で打率.274(リーグ24位)、自己最高の19本塁打を記録。同年は盗塁阻止率.427を記録し、[[伊東勤]]の.345を上回って以降、盗塁阻止率では5年連続で伊東を凌駕している{{R|baseball-20190520}}。{{by|1987年}}は自己最多の60打点と自己最高の打率.275(リーグ11位)を記録
 
{{by|1987年}}は自己最多の60打点と自己最高の打率.275(リーグ11位)を記録。
 
{{by|1988年}}は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の[[日米野球]]では、59回連続無失点を記録中であった[[オーレル・ハーシュハイザー]]から11月5日の第1戦([[東京ドーム]])で本塁打を放つ。
 
{{by|1988年}}は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の[[日米野球]]では、59回連続無失点を記録中であった[[オーレル・ハーシュハイザー]]から11月5日の第1戦([[東京ドーム]])で本塁打を放つ。{{by|1989年}}には[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から[[若菜嘉晴]]が移籍してきたが、正捕手の座を守った。同年10月1日の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦([[平和台野球場|平和台球場]])で史上41人目の[[サイクル安打]]を達成。{{by|1990年}}4月25日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦(東京ドーム)では[[柴田保光]]の[[ノーヒットノーラン]]をアシスト
 
{{by|1990年}}4月25日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦(東京ドーム)では[[柴田保光]]の[[ノーヒットノーラン]]をアシスト。
 
{{by|1993年}}シーズンには自身初タイトルの[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]を獲得したほか、[[金石昭人]]との[[最優秀バッテリー賞]]も受賞。同年のシーズンオフに「田村が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]するかもしれない」という噂が流れ、読売ジャイアンツ[[長嶋茂雄]]監督からもラブコールを貰ったが<ref>{{Cite web|和書|title=田村藤夫プロフィール |url= https://www.nikkansports.com/premium/people/detail.html?name=fujio-tamura=ニッカンスポーツ・プレミアム|accessdate=2023-1-5}}</ref>、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。
 
{{by|19931995年}}シーズンに自身初タイトルの[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]盗塁阻止率.390[[ゴルデンラブ賞]]二位の記録獲得したほか、[[金石昭人]]との[[最優秀バッテリー賞]]受賞。同年の打撃成績では自己ワズンオフに「田村が[[フリーエージェン (日本プロ野球)|FA]]するかもしれい」という噂が流れたが、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。{{by|1995年}}は[[田口昌徳]]の台頭や、近鉄から移籍してきた[[山下和彦]]の活躍で9年ぶりに100試合を割る。それでも7月5日の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦(東京ドーム)では[[西崎幸広]]のノーヒットノーランをアシストしたが、同年のシーズンオフに日本ハムから戦力外通告を受け、金銭トレードで[[千葉ロッテマリーンズ]]へ移籍。
 
=== ロッテ時代 ===
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=== ダイエー時代 ===
1997年、FA権を行使してダイエーに入団。既に一線で活躍する選手としての能力は衰えていたが、「[[城島健司]]に手本を見せてやってくれ」という、ダイエーの一軍バッテリーコーチであった若菜の懇願で移籍。

{{by|1997年}}は城島の指導役として貢献し、城島も「田村さんからは実戦で学ぶことが多かった」と述べている<ref>{{Cite web |和書|url=httphttps://number.bunshun.jp/articles/-/12057?page=3 |title=打たれた球をどう生かすか、です |publisher=Number Web |date=2004-05-06 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。試合終盤のリリーフ捕手的な役割を中心に22試合に出場した。

{{by|1998年}}は一軍出場がなく、同シーズン限りで現役を[[引退]]。
 
=== 引退後 ===
引退後の翌1999年、ダイエーの2軍バッテリーコーチを務めた。

{{by|2000年}}に同年から監督に就任した大島の要請で、古巣・日本ハムに一軍バッテリーコーチとして5年ぶりに復帰{{R|週刊ベースボール 2019年2月25日号}}。

{{by|2004年}}からは投手コーチを兼任<ref>現役時代投手ではなかった選手が投手コーチに就任することは異例である。</ref>し、

{{by|2006年}}は現場を離れて[[スコアラー]]へ転身。25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に貢献し、同年限りで退団した。
 
{{by|2007年}}からは[[中日ドラゴンズ]]一軍捕手コーチに就任し、2度のリーグ優勝と2007年の日本一に貢献。
 
{{by|2011年}}退団。
 
{{by|2012年}}には[[阪神タイガース]]二軍バッテリーコーチに就任したが、1年で辞任<ref>{{Cite web|和書|date=2011-11-21 |url=https://hanshintigers.jp/news/topics/info_2043.html |title=田村藤夫氏のファームコーチ就任について |publisher=阪神タイガース |accessdate=2011-11-21}}</ref>。
 
{{by|2013年}}からはソフトバンク一軍バッテリーコーチに就任<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-29 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/9251.html |title=2013年 コーチングスタッフについて |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2012-10-29}}</ref>。
 
{{by|2014年}}のリーグ優勝と日本一に貢献。
 
{{by|2015年}}から{{by|2016年}}には二軍バッテリーコーチを務めた。
 
{{by|2007年}}からは[[中日ドラゴンズ]]一軍捕手コーチに就任し、2度のリーグ優勝と2007年の日本一に貢献。{{by|2011年}}退団。{{by|2012年}}には[[阪神タイガース]]二軍バッテリーコーチに就任したが、1年で辞任<ref>{{Cite web |date=2011-11-21 |url=http://hanshintigers.jp/news/topics/info_2043.html |title=田村藤夫氏のファームコーチ就任について |publisher=阪神タイガース |accessdate=2011-11-21}}</ref>。{{by|2013年}}からはソフトバンク一軍バッテリーコーチに就任<ref>{{Cite web |date=2012-10-29 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/9251.html |title=2013年 コーチングスタッフについて |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2012-10-29}}</ref>し、{{by|2014年}}のリーグ優勝と日本一に貢献。{{by|2015年}}から{{by|2016年}}には二軍バッテリーコーチを務めた。{{by|2017年}}からは中日に一軍バッテリーコーチとして7年ぶりに復帰<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.sanspo.com/article/20161026-BNBHALE4CNKIROEBN45XRQZ2IA/ |title=中日・土井打撃コーチが就任会見「1点をもぎ取る野球を、ちょっとずつ選手に植え付けていきたい」 |publisher=サンケイスポーツ |date=2016-10-26 |accessdate=2021-12-17}}</ref>するが、2年連続5位に低迷して正捕手を固定できなかった<ref>{{Cite web |和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190128-13 |title=【セ・リーグ】キャンプ最注目の若手選手はだれ? |publisher=週刊ベースボール |date=2019-01-28 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。{{by|2019年}}退任
 
{{by|2019年}}退任。
{{by|2007年}}からは[[中日ドラゴンズ]]一軍捕手コーチに就任し、2度のリーグ優勝と2007年の日本一に貢献。{{by|2011年}}退団。{{by|2012年}}には[[阪神タイガース]]二軍バッテリーコーチに就任したが、1年で辞任<ref>{{Cite web |date=2011-11-21 |url=http://hanshintigers.jp/news/topics/info_2043.html |title=田村藤夫氏のファームコーチ就任について |publisher=阪神タイガース |accessdate=2011-11-21}}</ref>。{{by|2013年}}からはソフトバンク一軍バッテリーコーチに就任<ref>{{Cite web |date=2012-10-29 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/9251.html |title=2013年 コーチングスタッフについて |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2012-10-29}}</ref>し、{{by|2014年}}のリーグ優勝と日本一に貢献。{{by|2015年}}から{{by|2016年}}には二軍バッテリーコーチを務めた。{{by|2017年}}からは中日に一軍バッテリーコーチとして7年ぶりに復帰<ref>{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20161026-BNBHALE4CNKIROEBN45XRQZ2IA/ |title=中日・土井打撃コーチが就任会見「1点をもぎ取る野球を、ちょっとずつ選手に植え付けていきたい」 |publisher=サンケイスポーツ |date=2016-10-26 |accessdate=2021-12-17}}</ref>するが、2年連続5位に低迷して正捕手を固定できなかった<ref>{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190128-13 |title=【セ・リーグ】キャンプ最注目の若手選手はだれ? |publisher=週刊ベースボール |date=2019-01-28 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。{{by|2019年}}退任。
 
{{by|2020年}}からは[[日刊スポーツ]]評論家として活動している<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/column/analyst/news/202001110000916.html |title=佐々木朗希に修正点も…素質ダル/新加入・田村藤夫 |publisher=日刊スポーツ |date=2020-01-11 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。
 
== 選手としての特徴 ==
日本ハム時代に同僚であった[[大島康徳]]は田村を「キャッチャーとしての技術は超一流でした」と評価している<ref name="週刊ベースボール 2019年2月25日号">週刊ベースボール 2019年2月25日号、大事なのは愛ですよ、愛!【大島康徳の負くっか魂!!第95回】68-69頁</ref>。[[武田一浩]]は「本当に上手い捕手」として田村を挙げている<ref>{{Cite web |和書|url=https://gendai.ismedia.jpmedia/articles/-/54908?page=3 |title=「本当にうまい野球選手」をプロとOBが選んだらこんな結果になった |publisher=週刊現代 |date=2018-03-23 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。当時のパ・リーグには球界を代表する捕手だった伊東の存在があったため、ベストナインやゴールデングラブ賞といったタイトル獲得はかなり少なかった。オールスターの選出に関しては捕手枠が2 - 3名のため、毎年おおむね田村、伊東で決まり、[[中嶋聡]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]])ら他チームの捕手の出番は少なかった。
 
== 詳細情報 ==
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* '''86'''(2013年 - 2016年)
 
== 著書 ==
* 「マスク越しに見たパ・リーグ最強の猛者たち」(2024年、[[ベースボール・マガジン社]])ISBN 978-4583116648
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
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}}
{{日本ハムファイターズ1977年ドラフト指名選手}}
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:たむら ふしお}}
[[Category:日本の野球選手]]
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[[Category:中日ドラゴンズ関連人物]]
[[Category:阪神タイガース関連人物]]
[[Category:千葉県出身の人物スポーツ選手]]
[[Category:習志野市出身の人物]]
[[Category:1959年生]]
[[Category:存命人物]]