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壕川 (会話 | 投稿記録)
水路開削: Google Earthで見たところ、東縁と西縁の両方が瓦葺伏越で綾瀬川を潜っているので、先ほどの編集を修正しました。
 
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{{Infobox 用水路
|名称 = 見沼代用水
|画像 = [[ファイル:Konosu Ninuma Canal Or Hoshi River 1.JPG|300px]]<br/>鴻巣市関新田地区(2011年7月){{Mapriver}}
|延長 = 85<ref name="sosui1">[http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/saitama/a/372/index.html 見沼代用水] - 疏水名鑑</ref>
|灌漑面積 = 15000<ref name="JWA1">[http://www.water.go.jp/kanto/tone/02tonedousui/05map/minuma/minuma.html 見沼代用水路] - 独立行政法人 水資源機構</ref>
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}}
 
'''見沼代用水'''(みぬまだいようすい)は、[[埼玉県]]にある[[灌漑]]農業用水。[[江戸時代]]の[[1728年]](享保13年)に[[江戸幕府|幕府]]の役人であった[[井沢弥惣兵衛|井沢弥惣兵衛為永]]が[[新田]]開発のために[[武蔵国]]に普請した[[灌漑]]農業用水のことである
 
名前の通り、灌漑用溜池であった[[見沼|見沼溜井]]の代替用水路であった。
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見沼溜井の水は、[[桶川市]]末広を発する流れと桶川市小針領家を発する湧水などの他は、周囲の台地からの排水の流入しかなく、土砂の流入で溜井の貯水能力は次第に低下していった。さらに[[1675年]](延宝3年)には溜井の一部が'''入江新田'''として干拓されるなど、見沼溜井周囲の新田開発が活発化すると水不足が深刻となった。水不足に悩む村々では、水路普請の陳情をしばしば行っていた。元禄年間に[[岩槻藩]]や[[忍藩]]の協議で荒川より見沼に水を引き入れる案が練られ、一部では[[測量]]も行われた。このときの設計は、絵図としても残っている。しかしこの案は、関東郡代の[[伊奈半左衛門]]が治水上の問題を理由に強硬に反対したため、頓挫してしまった。一方で入江新田は、水不足に悩む村々から打ち壊しの訴状が提出されて、一時期は新田を見沼溜井に戻されてしまった。
 
[[徳川吉宗]]が8代将軍として[[紀州藩]]から江戸に入ると[[享保の改革]]が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、[[1722年]](享保7年)に'''新田開発奨励策'''が示され、新田開発が本格化した。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化した。[[武蔵国]]の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在したが、ここを新田として開拓することが決められた。また代用水見沼の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになった。吉宗に従って[[紀州藩]]士から幕臣になり、[[勘定吟味役|勘定吟味役格]]の職が与えられた[[井沢弥惣兵衛|井沢弥惣兵衛為永]]に対して、[[1725年]](享保10年)に見沼溜井の干拓の検討が命じられた。
 
水不足に悩む村々がある一方で、[[見沼溜井]]を利用していた浦和領、安行領、舎人領などの村々は幕府の溜井干拓と水路建設に対して強い反対の立場をとった。井沢が現地調査を行うようになると、反対派の村々は以下の疑問点を挙げ、幕府に対して干拓事業撤回の訴状を提出した。
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星川と分かれた水路は、新たに開削された幅約6間の水路を南下する。柴山(現在の[[白岡市]])で元荒川と交差するが、元荒川と代用水の高低差があるため、[[#伏越|伏越]](ふせこし、詳しくは後述)で元荒川を越える。工事当時の元荒川は湾曲した流れになっていたため、元荒川の流路の湾曲を正す工事も行われた。また、元荒川の交差には通船のための、[[#懸渡井|懸渡井]](かけとい、詳しくは後述)も作られた。しかしこの懸渡井は[[1760年]](宝暦10年)に水害のため大破し、取り壊された。
 
[[ファイル:Ageo Kawarabuki Aqueduct 1961 1.jpg|thumb|鉄製の瓦葺懸渡井(1961年以前)]]
[[ファイル:Hasuda Minuma Canal Kawarabuki kaketoi Remains 1.JPG|thumb|瓦葺懸渡井跡[http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110905.html]]]
[[ファイル:Minuma Daiyosui And Ayase River.jpg|thumb|西縁と東縁へ分かれる地点と西縁と東縁が瓦葺伏越で綾瀬川をくぐる地点の空中写真。{{国土航空写真}}。2019年9月撮影。]]
さらに[[大宮台地]](蓮田支台)の縁に新設の水路を下り、[[瓦葺 (上尾市)|瓦葺村]](現在の[[上尾市]])で[[綾瀬川]]と交差するが、ここでは懸渡井で綾瀬川を越え。懸渡井の前後は水位を維持するため[[盛土]]を築き、その[[天端]]に水路を通している<ref name="ageoNo8" />。綾瀬川周囲は、[[後背湿地|低地湿地]]となっており、最も難工事であった場所と考えられている<ref>{{Cite web |和書|date=2009-04 |author=高崎哲郎 |url=http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2009/pdf/0904-05.pdf |title=連載 水の匠水の司 - 私説・井澤弥惣兵衛為永 - 第十三回 見沼代用水の開発 - 開削決水への道(4) - 竣工(水とともに 2009年4月号 NO.67) |publisher=独立行政法人水資源機構 |format=PDF |page=2 |accessdate=2018-06-05 }}</ref>。懸渡井で綾瀬川を越えたところで、流路は'''[[見沼代用水東縁]]'''と'''[[見沼代用水西縁]]'''の二手に分かれしかしこの懸渡井[[1961年]](昭和36年)に取り壊され、東縁と西縁が綾瀬川の手前で別れ直後に両方が並行した伏越で綾瀬川を潜る形に改められて取り壊され<ref name="ageoNo8">{{Cite book|和書 |author =上尾市教育委員会・編 |year = 1997-03-31 |title =上尾市史 第八巻 別編1、地誌 |publisher =上尾市 |pages=417-424 }}</ref>、流路の分流も綾瀬川を越える手前になった。[[遺構]]として掛渡井の一部が残されている。
 
東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した。ここから、旧来の見沼溜井に接続されていた谷古田、[[舎人 (足立区)|舎人]]などへの農業水路に接続された。
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* 伏越では見沼通船での船通行の妨げとなる。
 
木製懸渡井は損傷が多く、概ね10年ごとに架け替えられていたが、[[1906年]](明治39年)の[[圦|元圦]]の改造後の水量の増加に耐えられず、漏水や腐食が著しかったため、[[1907年]](明治40年)4月改築工事に着手され、翌年3月に完成し、下部工や翼壁は煉瓦造り、上部工(橋桁)は鉄製に改造されている<ref name="ageoNo8" />。しかしこの掛樋も[[1910年]](明治43年)8月の洪水による[[侵食|洗掘]]で破壊されている。また、[[1926年]](大正15年)には漏水止めのコンクリート打設工事が行なわれている<ref name="ageoNo8" />。なお、懸渡井ではないが、見沼代用水が水域の上部を通る箇所があり、行田市に所在する荒木サイフォンで武蔵水路と交差し、西縁用水ではさいたま市に所在する砂の伏越で芝川と交差したその上部を流れている。
 
=== 十六間堰と八間堰 ===
[[ファイル:Hoshikawa Minumadaiyousui Tributary point 1.JPG|thumb|right|180px|現在の十六間堰(左)と八間堰(右奥)(星川分流点)]]
十六間堰と八間堰は、星川と見沼代用水路の分流地点にそれぞれ設けられた堰である。両堰ともに木造の堰枠で、堰枠の上に水圧で浮き上がらないように土橋をかけた'''重土橋堰枠'''とよばれる構造をとってい
 
堰は通常、水田に水が必要となる[[八十八夜]]から二百二十日までと、水運(通船)を行うために代用水に水が必要な期間は、十六間堰を閉め、八間堰を開いて代用水路に水を流した。それ以外の期間は十六間堰を開き、八間堰を閉じて、星川へ放流した。
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* 浦和市総務部行政管理課『浦和市史 通史編2』
* [https://www.water.go.jp/index.html 独立行政法人水資源機構]
* [https://www.water.go.jp/kanto/tone/index.html 独立行政法人水資源機構 利根導水総合事業管理所]
 
== 関連文献 ==