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{{複数の問題
|出典の明記=2022年12月
|参照方法=2022年12月
}}
'''70系客車'''(70けいきゃくしゃ)とは、[[日本国有鉄道]]の前身である[[運輸省]]鉄道総局が製造した、[[客車]]の系列の一つである。
 
[[太平洋戦争]]末期、[[アメリカ軍|米軍]]による[[日本本土空襲|日本本土への空襲]]によって被災した鉄道車両(客車・[[電車]])を、戦後に簡易な手法で大量輸送用客車として復旧したもので、'''戦災復旧車'''(せんさいふっきゅうしゃ)とも呼ばれる。
 
なお「[[ななつ星 in 九州]]」に使用される専用客車は本系列70番台形式を踏襲してい番号であるが、[[ななつ星 in 九州#客車|77系客車]]という別系列として区分されており、ここでは扱わない。
 
== 製造の背景 ==
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== 設計思想と構造 ==
70系客車は、あくまで客車不足を補うための応急的対策と位置づけられ、最小限の資材で最大限の収容力を確保することを念頭において設計された。そのため、従来の客車に比べて次のような特徴を有していた<ref>[[#星1962|(星1962)付録p.21-22「70系3等客車とその復旧方針」]]</ref>(例外は少なからず存在する)。
* 乗降の敏速を図るため側面扉は片側3か所(17 [[メートル|m]]級客車の復旧車は2か所)に設置し、デッキは設けない。
* 旅客収容力の増大のため[[鉄道車両の座席|座席]]は木製の[[ベグシートとチ]]で代用し、[[吊り革]]・[[スタンションポール|つかみ棒]]も設ける。
* 窓は二段窓(通常の客車は一段窓)。
* 布地類節約のため、天井の[[合板|ベニヤ板]]張りを行わず、屋根板一重張りとし、天井灯はグローブなし(=[[裸電球]])とする
* [[鉄道車両の座席|座席]]は木製のロングシートとし、[[吊り革]]・[[スタンションポール|つかみ棒]]も設ける。
* [[列車便所|便所]]は設置するが、床下水槽をやめて小型のものを天井に設け、洗面所設備は省略。
* 内装は極力簡素化。座席は布が張られておらず、[[照明]]は裸電球。
* [[暖房]]は装備しないが、[[蒸気暖房 (鉄道)|暖房蒸気管]]の引き通しは設けた。
* 洗面所なし([[列車便所|便所]]はあり)。
<!--窓2段は戦災損傷者から直接改造でも昭和25年頃改造の物(例:オユニ70・マニ72、未完成も入れるとスユ70・オニ70電車タイプ車体用図面も)に形式図の時点で1段窓の物があるので、基本とはいいがたい。-->
* [[暖房]]装置なし。
 
基本的に、[[長距離列車|長距離運行]]を前提とする従来の[[制式名称|制式]]客車の設計思想ではなく、[[国鉄63系電車|モハ63形]]など[[大都市圏]]を運行する[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]の設計思想を取り入れて製造されたものといえる。
 
なお、これらは戦災復旧客車専用の設計というわけではなく、3扉化や座席の板張り[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]化、暖房は[[だるまストーブ|ストーブ]]、洗面所無し(場合によっては便所もなし)といった改造は、被災してない客車でも混雑対策のために旧式の木造車などにも行われた(鋼製車は室内改造程度)もので、便宜上通勤用客車などと呼ばれている<ref>[[#星1962|(星1962)p.155-158「戦中及び戦後の混乱期の客車」]]</ref>。
標準的な設計図面も作成されたが、破損の程度の少ない車両についてはこの図面に従わず、従来の車両の車体を修理改造して扉を増設しただけのものもあった。また通勤形電車を復旧改造したものは、原形とほとんど同じ形状のものもあった。そのため同じ形式でも、外観は車両により大きく異なっていた。
 
標準的な設計図面も作成されたが、破損の程度の少ない車両についてはこの図面に従わず、従来の車両の車体を修繕し、改造して扉を増設しただけのものもあった。また通勤形電車を復旧改造したものは、原形とほとんど同じ形状のものもあった。そのため同じ形式でも、外観は車両により大きく異なっていた。
 
== 製造 ==
1946年から[[1950年]](昭和25年)の間に製造された。復旧作業を急ぐため、全国の国鉄工場、既存の大手・中堅[[鉄道車両の製造メーカー一覧#日本|鉄道車両メーカー]]だけでなく、それまで国鉄客車を製造したことのないようなメーカーが多数動員された。私鉄向け生産が主で国鉄向けの納入実績がなかったり、実績があってももっぱら貨車ばかりを手掛けてきた中小零細の車両メーカー([[木南車輛]]、[[日本鉄道自動車工業]]、[[若松車輛]]等)や、終戦により[[軍需]]が途絶え、平和産業への転換が急がれていた造船所([[三井造船]]・[[川南工業]]・[[新日本海重工業|日本海船渠]]等)・航空関連企業([[富士産業]]系各社、[[日産車体|新日国工業]]等)・金属メーカー([[日本鋼管]])、他業種から兵器部品製造に参画した企業([[東洋レーヨン]])など、鋼材加工技術・設備を抱えた企業が、大挙製造に加わった。とはいえ軍需転換組の多くは、これまで鉄道車両の製造実績がない企業がほとんどであった。
 
種車の状態不良、資材不足、熟練工不足という悪条件と並び、新規参入メーカーの経験不足までも加わって、運輸省・国鉄からの指示もあり、工作水準は二の次とされた。
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==== オハフ71形 ====
車体長20mの電車を復旧して製造された緩急車。2両が製造された。電車時代の車体をそのまま利用し(妻面にも窓がある)、運転台を車掌室とした。メーカーはいずれも東洋レーヨンである。
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#オハフ71形|番号新旧対照]]
 
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==== スユ71形 ====
戦後の郵便車不足を補うために製造された、車体長20mのグループに付された形式である。[[1947年]](昭和22年)から[[1948年]](昭和23年)にかけて日本車輌製造支店および新潟鐵工所で15両が製造された。荷重は13[[トン|t]]。
なお、戦災復旧客車に「17m級車体の合造車ではない郵便車(スユ70形)」は、計画されて図面までは制作された<ref>外見はスユ71の形式図の一番前位側の窓が1つ減った形状をしている。</ref>ものの未成で存在しない<ref>[[#藤田2023上|(藤田2023上)p.47-48]]</ref>。
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#スユ71形|番号新旧対照]]
 
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=== 荷物車 ===
==== オニ70形 ====
当初から荷物車として製造された、車体長17mのグループに付された形式である。1947年から1948年にかけて[[汽車製造]]支店および川崎車輛で8両が製造された。荷重は10t。車体は丸屋根と折妻(半切妻)の2種類が存在した。図面によると客車車体改造と電車車体改造用の2タイプが想定されていたが、廃車が早いため写真が見つかっていないオニ70 4以外はすべて客車型<ref>乗務員扉の幅が広く、荷物扉の外側の窓が1つづつ、2段窓。</ref>であると確認されており、未確認のオニ70 4も客車のスニ30 78が元であるため、電車タイプは存在しないと考えられる<ref>[[#藤田2023中|(藤田2023中)p.21-22]]、[[#藤田2023下|(藤田2023下)p.43表「オニ70」]]</ref>
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#オニ70形|番号新旧対照]]
 
==== スニ71形 ====
当初から荷物車として製造された、車体長20mのグループに付された形式である。1947年から[[1949年]](昭和24年)にかけて汽車製造支店、川崎重工業および[[近畿車輛]]で17両が製造された。車体を新製した車両は、1,800[[ミリメートル|mm]]幅の荷物扉が2か所、20m級電車の車体を流用した車両は1,100mm幅の荷物扉が3か所になっていた。荷重は14t。製造当初はスニ71形だったが、その後重量記号が変更されたため、形式を'''マニ71形'''と改めた。のちに4両が電気暖房化され、原番号+2000が付番された。<br/>
スニ71 10は、書類上スハフ32 256を復旧した車両だが、台枠にUF44Aと3軸ボギー用を使用したので、本形式の他の車両と比べると心皿間の距離が短く、13300mmとなっていた。また、スニ71 18はマニ77 6の編入車であとされるが、使用台枠の形式残されている写真からして判断すると3軸ボギー実際にUF44A装着使用てい考えにくく、付番ミと考えられニ71 11のようである。
また、スニ71 18はマニ77 6の編入車であるが、ベースとなっているのは電車のクハ55なので、3軸ボギー台車を装着したとは考えにくく、付番ミスと考えられる<ref>[[#藤田2023中|(藤田2023中)p.25]]、[[#藤田2023下|(藤田2023下)p.25・45表「マニ77→マニ78」]]</ref>。
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#マニ71形/スニ71形|番号新旧対照]]
 
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==== マニ77形 ====
当初から荷物車として製造された、車体長20mで3軸ボギー台車をもつグループに付された形式である。1947年に汽車製造支店、近畿車輛および川崎重工業で6両が製造された。1953年に形式を'''マニ78形'''と改めた。称号改正前に1両ニ70 5)がスニ71 18に変更(ただし、時期的にスニ71形自体がすぐにマニ71編入なっている)されたので、形式はマニ78 1 - 5と付された<ref>[[#藤田2023中|(藤田2023中)p.25]]、[[#藤田2023下|(藤田2023下)p.25]]</ref>
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#マニ78形/マニ77形|番号新旧対照]]
 
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== 製造後 ==
最初に製造された車両が1946年[[12月]]に[[東京駅]]で展示されたのち、続々と製造され、全国各地に配置され使用された。しかし、[[国鉄63系電車|モハ63系]]と同様、あくまでも戦後の混乱期の応急的対策として製造された車両であり、極めて少ない資材と低い生産能力をやりくりしつつ、現車の状況に合わせた施工としたため、従来の客車に比べて接客設備が著しく劣悪であり、老朽化した木造客車に対してさえ見劣りしていた。特に電おり、どれほど見劣りかと言うと、まだ列事情が悪かった1949年(昭和24年)秋改造東海道・山陽線の通勤列の手動(930レ上都-型引き戸や、ステップのない出入口床面<ref>[[1940年代]]阪間)においては国鉄線、オハ7139が通常駅のプラットホーム高さは電車用 (1,100mm) や電車・客車共用 (920mm) 編成を組んでうもののほうが少数派る状況下あり、全国的に高さ760mmが実質的に標準であった。急ごしらえのため「クロテップなしとされた出入り口部と駅ホムと段差は40[[センチメートル|cm]]を超え、降に客が混んで支障をきたした。</ref>、洗面所の省略など(乗客、使用先)こ地域車(注:オハ7139)は乗らじまい、座席が少いきわめて利便性を欠状態板張りである」なり、このため旅客輸送需要いう批評落ち着き客車の製造能力が回復し、需給が安定してきた[[1950年]]ごろから順次旅客輸送の用途から外され、当時著しく不足しているほどである<ref>[[荷物#星1962|(星1962)付録p.19「70系3等客]]・[[郵便車]]の代用して使われるようになった。して[[1954年の製造事情」]](昭和29年)までにすべて正規不人気話荷物車に改造された。オハ71形500番台(何れも客車から改造車)のみ出典は、郵便荷物合造今村潔「或る列オハユニ71形に改造され、接客設備を従来の客車と同等のものになるべく近づけた上で、引き続き旅客輸送に使用された」CLAB CAR No.38 1949-12)</ref>
 
そのため旅客車はなるべく近距離の列車に使用した。特に電車の改造車の手動大型引き戸や、ステップのない出入口床面<ref>[[1940年代]]においては国鉄線の駅のプラットホーム高さは電車用 (1,100mm) や電車・客車共用 (920mm) というもののほうが少数派であり、全国的に高さ760mmが実質的に標準であった。急ごしらえのためステップなしとされた出入り口部と駅ホームとの段差は40[[センチメートル|cm]]を超え、乗降にも支障をきたした。</ref>、洗面所の省略<ref>当時は蒸気機関車の牽引が当たり前であり、車体の隙間から入る煤煙で顔が汚れる事が多く、洗面所は必須だった。</ref>、暖房の設置がないことなどは、使用先の地域になじまないきわめて利便性を欠く状態となり、このため旅客輸送需要が落ち着き客車の製造能力が回復し、需給が安定してきた[[1950年]]ごろから旅客輸送の用途から徐々に外され、当時著しく不足していた[[荷物車]]・[[郵便車]]の代用として使われるようになり、「<small>ニ</small>オハ70101」のように形式記号の前に小さく「ニ」の表記がつけられるようになった。ものによってはオハフ712など窓に保護用の格子までつけられて荷物車同然になっても「オハフ」が消されず建前は三等車が本業というものも存在した<ref>[[#星1962|(星1962)付録p.19「写真30 荷物車代用のオハ70101の表記」・p.163「写真359 オハフ71」]]</ref>。そして[[1954年]](昭和29年)までにすべて正規の荷物車に改造された。オハ71形500番台(何れも客車からの改造車)のみは、大半が郵便荷物合造車オハユニ71形に改造され、接客設備を従来の客車と同等のものになるべく近づけた上で、引き続き旅客輸送に使用された。
[[1960年代]]に入ると、[[国鉄マニ60形客車|マニ60形]]や[[国鉄10系客車|オユ10形]]などの増備によって、荷物車・郵便車も需給が安定してきたことから、戦災復旧車は[[救援車]]や[[配給車]]といった[[事業用車]]に改造されていった。事業用車に改造されなかったものは[[1969年]](昭和44年)までにすべて廃車され、この時点で営業用の戦災復旧車は消滅した。事業用車に改造されたものについては、国鉄の車両基地の統廃合が進められる[[1987年]](昭和62年)[[3月]]まで一部が残っていた。また、スニ73 1およびマニ76 91が[[洞爺丸事故]]により廃車されている。
 
[[1960年代]]に入ると、[[国鉄マニ60形客車|マニ60形]]や[[国鉄10系客車|オユ10形]]などの増備によって、荷物車・郵便車も需給が安定してきたことから、戦災復旧車は[[救援車]]や[[配給車]]といった[[事業用車]]に改造されていった。事業用車に改造されなかったものは[[1969年]](昭和44年)までにすべて廃車され、この時点で営業用の戦災復旧車は消滅した。事業用車に改造されたものについては、民営化を控えて国鉄の車両基地の統廃合が進められ[[1987年]](昭和62年)[[3月]]まで一部が残っており、後述のとおり1両が新会社に継承された。また、スニ73 1およびマニ76 91が[[洞爺丸事故]]により廃車されている。
 
=== 車体長17mのグループからの改造車 ===
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: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#スユニ72形|番号新旧対照]]
 
[[File:Sue71-17Sue714 Ryuge 19861121.JPGjpg|250px|thumb|スエ71 174<br>(1986年11月21日 [[竜華操車場]])]]
 
==== スエ71形 ====
[[1960年]](昭和35年)から[[1967年]](昭和42年)にかけて[[下関地域鉄道部|幡生]]、多度津、[[鎌倉車両センター|大船]]、盛岡、[[小倉総合車両センター|小倉]]、[[大宮総合車両センター|大宮]]、名古屋、松任、土崎、旭川、高砂、五稜郭、新津、後藤の各国鉄工場でマニ71形、マニ72形、マニ74形、オハユニ71形、スユ72形、オユニ71形、マニ76形、スユニ72形、オル71形を種車とした救援車で、全部で103両が改造された。68は67(初代)が[[1977年]](昭和52年)に廃車されたため、67(2代目)となった。85や102等には横軽対策がなされていた。1987年までに廃車となった。
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==== スエ78形 ====
1961年から[[1966年]](昭和41年)にかけて盛岡、土崎、旭川、五稜郭、後藤の各国鉄工場でマニ78形、マユニ78形を種車とした救援車で、全部で15両が改造された。早いものは[[1975年]](昭和50年)から廃車が始まり、民営化までにラストナンバーの15を除く全車が廃車となった。残った15は後述のとおり[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]に継承され、[[高崎車両センター高崎支所|高崎車両センター]]に配置されていたが、[[2007年]]([[平成]]19年)に廃車となった。
: > [[国鉄70系客車の新旧番号対照#スエ78形|番号新旧対照]]
 
== 現状 ==
スエ78 15は、JR化後も[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[高崎車両センター高崎支所|高崎車両センター]]に車籍を残していた。同車は戦災復旧客車最後の1両で、国鉄末期において3軸ボギー台車を装着した本線走行可能な唯一(のちに[[国鉄スハ32系客車#展望車(改造車)マイテ49形|マイテ49 2]]が[[廃車 (鉄道)#車籍復活|車籍復活]]したため「唯一」ではなくなった)の一般用客車であったことから、保存運転用に引き継がれたものであった。JR発足直後は頻繁に使用されていたが、もともと座席車でないこと加えて3軸イコライザー台車の保守が煩雑だったことからその後は全く使用されず2007年2月28日廃車<ref>[[#藤田2023下|(藤田2023下)p.38「事業用車車歴表「スエ78」]]</ref>になり、車籍を抹消された。その後は同センターに留置されていたが、<!--「鉄道ファン」2007年7月号にて車籍の抹消を確認。-->台枠に致命的な亀裂が見つかったため、[[2008年]](平成20年)冬に[[解体#鉄道車両|解体]]された。70系客車は系列消滅となった。
 
このほか、北海道小樽市の[[小樽市総合博物館]](鉄道・科学・歴史館)にスエ78 5が[[静態保存]]されている。また、苗穂工場併設の北海道鉄道技術館にスエ78 4が装備していたTR71の片方が保存されている。
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* 『<small>鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 16</small> 国鉄の客車 1950-1960』(電気車研究会、2008年)
: 江良秀雄「70系客車のいろいろ」(初出:『[[鉄道ピクトリアル]]』1958年11月号 No.88) pp.120 - 127
* {{Cite book|和書|author=日本の客車編さん委員会(代表:星晃)|origdate=1962年|edition=復刻版|date=2010年復刻|title=<small>写真で見る客車の90年</small>日本の客車(復刻版)|publisher=株式会社 電気車研究会 鉄道図書刊行会|isbn=978-4-88548-115-4|ref=星1962}}
::注:この本はp.265以後が「日本の客車90年略史」となっており、ここでページ番号が付けなおされているため、これ以後のページは「略史p.○○」とした。
::また復刻版には「<small>鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション特別編</small> 『日本の客車』ノート」という物が付録としてあるため、こちらのページ番号は「付録p.○○」とする。
* [[高砂雍郎]]、[[増田一三]]、『戦災復旧車 オハ70系客車』、鉄道史料37 (1985) pp.39 - 45, 鉄道史料38 (1985) pp.106 - 117, 鉄道史料39 (1985) pp.177 - 184, 鉄道史料41 (1986) pp.26 - 32, 鉄道史料42 (1986) pp.107 - 115
* 車両史編さん会『国鉄鋼製客車史 第6編 オハ71形の一族』上・下巻
* {{Cite book|和書| author = 藤田吾郎| year= 2023| title = RM LIBRARY277 70系戦災復旧客車(上) <small>-その形態バリエーション-</small>| publisher = 株式会社ネコ・パブリッシング| isbn = 978-4-7770-5521-0| ref = 藤田2023上}}
* {{Cite book|和書| author = 藤田吾郎| year= 2023| title = RM LIBRARY278 70系戦災復旧客車(中) <small>-その形態バリエーション-</small>| publisher = 株式会社ネコ・パブリッシング| isbn = 978-4-7770-5522-7| ref = 藤田2023中}}
* {{Cite book|和書| author = 藤田吾郎| year= 2023| title = RM LIBRARY279 70系戦災復旧客車(下) <small>-その形態バリエーション-</small>| publisher = 株式会社ネコ・パブリッシング| isbn = 978-4-7770-5523-4| ref = 藤田2023下}}
 
== 外部リンク ==