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| 画像説明 = [[阪神タイガース]]監督時代<br />(2011年3月9日、[[阪神甲子園球場]]にて)
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[福岡県]][[大牟田市]](出生地は[[熊本県]][[玉名郡]][[南関町]])
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1953|7|12}}
| 没年月日 =
| 身長 = 174<ref>{{Cite web ja |url=http://office-mayumi.co.jp/hitory/ |title=プロフィール - オフィス真弓 |date= |accessdate=2018-03-31}}</ref>
| 体重 = 75
| 利き腕 = 右
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* [[柳川商業高等学校]]
* [[NTTグループ九州野球クラブ|電電九州]]
* [[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ<br />クラウンライターライオンズ<br />西武ライオンズ]]
* [[阪神タイガース]] (1979 - 1995)
| 経歴補足題 = 監督・コーチ歴
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* 阪神タイガース (2009 - 2011)
}}
'''真弓 明信'''(まゆみ あきのぶ、[[1953年]][[7月12日]] - )は、[[福岡県]][[大牟田市]]出身([[熊本県]][[玉名郡]][[南関町]]
== 経歴 ==
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[[柳川商業高校]]では[[若菜嘉晴]]と同期だった。若菜は、中学校時代に地元のライバル校だった[[筑後市立羽犬塚中学校|羽犬塚中学校]]に在籍しており、地区大会の準決勝で対戦したこともあった。高校では1年次からベンチ入りし、2年次からは[[遊撃手]]、[[三塁手]]としてレギュラーを獲得。チーム自体は「九州一の強豪」という評価を受け、{{by|1970年}}春季九州大会では福岡県予選南部決勝まで進むが、[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|大濠高]]に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった<ref>[http://office-mayumi.co.jp/hitory/高校時代/ 高校時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>。
若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]に入団し、真弓は社会人野球の[[NTTグループ九州野球クラブ|電電九州]]に進んだ。電電九州では、正遊撃手およびその控え選手の故障で、1年目から遊撃手のスタメンを得ることとなり、[[第43回都市対抗野球大会]]でベスト8となり[[日本産業対抗野球大会]]にも出場した。それらの活躍もあり、[[1972年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1972年のドラフト会議]]で
=== 太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ時代 ===
{{by|1973年}}5月5日の対[[北海道日本ハムファイターズ|日拓ホームフライヤーズ]]戦([[平和台野球場]])で、9回
{{by|1974年}}から背番号が'''42'''に変更される。本人は、[[スポーツ新聞]]の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った<ref name="lions">[http://office-mayumi.co.jp/hitory/太平洋ークラウン時代/ 太平洋-クラウン時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>。
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{{by|1975年}}に当時の監督[[江藤愼一]]から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初[[本塁打]]・初[[打点]]を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。
{{by|1977年}}に、[[福本豊]]の使うタイプの[[バット (野球)|バット]](いわゆる[[タイ・カッブ]]式)を使用するようになる
{{by|1978年}}には、5月から一番打者、遊撃手に定着、初の[[規定打席]](リーグ18位、打率.280)に到達する。同年は、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初選出され、遊撃手の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]にも選ばれた
=== 阪神タイガース時代 ===
1978年オフに[[田淵幸一]]、[[古沢憲司]]との「世紀のトレード」で若菜、[[竹之内雅史]]、[[竹田和史]]とともに阪神に移籍することになる(実際には田淵と真弓、若菜、竹田との1対3のトレード、古沢と竹之内の1対1との2つのトレードがまとまった形となって、真弓もそのように語っていた)。本人は球団が[[コクド|国土計画]]に売却され、本拠地が福岡県から[[埼玉県]][[所沢市]]に移ることから引っ越しの準備中だった。当初、阪神へのトレードは真弓ではなく[[永射保]]で話が進んでおり、真弓は西武へ行く若手選手を集めた秋季練習にも参加していたが、阪神の新監督に就任した[[ドン・ブラッシンゲーム|ドン・ブレイザー]]が機動力のある野手を望んだため、永射ではなく真弓になったという<ref>ベースボールマガジン社ムック「俺たちの太平洋・クラウン 福岡ライオンズ、最後の6年間」で[[若菜嘉晴]]が証言。また、真弓自身もライオンズ最終年にレギュラーに定着してベストナインも獲得していたので、トレードがあるとは思っていなかったのと、若菜は真弓より先に自身のトレードを知らされていた模様で秋季練習には参加していなかったと述べている。</ref>。トレードはテレビのインタビューで初めて知り、「[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]だったら名前も売れるだろうな」と思ったという<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20100101Z00002420.html 【1月22日】1979年(昭54) もう食事の心配なし!真弓明信 新天地で張り切る]</ref>。後に球団から正式にトレードを通告された時は、思わず「ありがとうございます」と言ってしまった程嬉しかったと後年振り返っている<ref>[https://ykt.sega-online.jp/special/interview/history/vol12/]</ref>。阪神移籍する前の太平洋時代に同僚に誘われ、[[後楽園球場]]の巨人対阪神戦を観戦していたことがあり、満員のファンの前でプレーをしてみたいと感じたことがあったという
移籍1年目の{{by|1979年}}から、1番・遊撃手として定着。長打力のある1番打者として移籍後も変わらぬ活躍を見せ、同年5月20日の対[[中日ドラゴンズ]]戦([[ナゴヤ球場]])では[[サイクル安打]]を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った<ref name="hanshinzen">[http://office-mayumi.co.jp/hitory/阪神タイガース選手時代/ 阪神タイガース選手時代 前篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>。
{{by|1980年}}は、[[中西太]]打撃コーチ(同シーズン途中から監督代行)の指導により、飛距離の出やすい細く軽いバットを使用するようになり、1番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する
{{by|1981年}}は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌{{by|1982年}}には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした
{{by|1983年}}には[[岡田彰布]]の故障で7月12日対巨人戦から[[二塁手]]に転向し、[[若松勉]]に競り勝
{{by|1984年}}も岡田が一時[[外野手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]されたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。同年、通算1000試合出場と通算1000安打を達成している。
{{by|1985年}}にこの年就任した[[吉田義男]]監督の指示で岡田と入れ替わる形で外野手(主に[[右翼手]])に転向した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB06H3S_W5A200C1AA1P00/ 30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く(1)]</ref>。真弓はライオンズ時代の1977年は主に外野手で出場していたので経験済みのポジションであった。外野手はライバルが大型選手や外国人選手であることが多く、意識して長打を狙うようになったと後年振り返っている<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/824210 真弓明信が今だから明かしてくれたホームランを打つための“狙い球”。]</ref>。同年6月9日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]戦([[札幌円山球場]])でセカンドランナーだった真弓は元同僚である若菜と[[野球場#本塁|本塁]]で交錯し、左肋骨不全[[骨折]]で1か月弱戦線を離脱するものの<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=wJANDa26W9g 【プロ野球OBに会いに行く】若菜さんも参った!木下富雄さんの走塁【若菜嘉晴】【高橋慶彦】 - YouTube]</ref>、1番打者として、打率.322(リーグ5位)、自己最多の34本塁打、84打点の好成績でリーグ優勝に貢献、外野手のベストナインにも選出された(この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は[[落合博満]]に続き史上2人目であった)。[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では奇しくも古巣ライオンズとの対戦になり、元同僚の東尾との対戦もしていた。シリーズでもペナントレースの勢いをそのままに打率.360、2本塁打と活躍、2リーグ分裂後初めての日本一に貢献をして優秀選手賞にも選ばれた
{{by|1986年}}は、7月6日の対巨人戦(甲子園)で、[[水野雄仁]]から自身2回目の5試合連続本塁打を記録。同本塁打は、阪神球団通算4500本目の本塁打であった<ref name="hanshinkou">[http://office-mayumi.co.jp/hitory/阪神タイガース選手時代%EF%BC%88後篇%EF%BC%89/ 阪神タイガース選手時代 後篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>。同年は、2年連続の打率3割を記録、本塁打も28本放った。このシーズンの[[掛布雅之]]故障離脱中は真弓が三塁手に回っている。
{{by|1987年}}は、10月13日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場|神宮球場]])で、[[荒木大輔]]から通算41本目(セ・リーグでは38本目)の初回先頭打者本塁打を記録。同記録は歴代2位で、セ・リーグのみの記録としてはリーグ最多である
{{by|1988年}}は、自身2度目の全試合出場を果たす。また同年には、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立している。
{{by|1989年}}7月23日の対巨人戦(甲子園)で、[[桑田真澄]]から本塁打を放ち通算250本塁打を達成
{{by|1989年}}シーズン限りで、真弓より2歳年上の
[[佐野仙好]]が引退してチーム最年長選手となり、翌{{by|1990年}}シーズン限りで真弓より3歳年下だが、阪神入りは4年早い[[工藤一彦]]が引退したことで、真弓が{{by|1979年}}に阪神に移籍した時点で阪神に在籍していた選手が誰もいなくなり、移籍選手であるにも
{{by|1992年}}以降は、[[新庄剛志]]・[[亀山努]]・[[久慈照嘉]]らの台頭で[[代打]]中心の出場となった。同年には、代打満塁本塁打を放つなど活躍し、阪神で唯一のファン投票でのオールスター出場を果たす。また、通算3000塁打も達成している
{{by|1994年}}には代打の切り札として、代打逆転満塁本塁打を放つなど活躍。代打で17安打・30打点と勝負強さを発揮した。同年の代打30打点は日本記録である
{{by|1995年}}のシーズンでは、[[阪神・淡路大震災]]
=== 解説者・大阪近鉄バファローズコーチ時代 ===
現役引退後は[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]・[[サンテレビジョン|サンテレビ]]の[[野球解説者]]、[[日刊スポーツ]]野球評論家を務めた。
{{by|2000年}}に[[大阪近鉄バファローズ]]の一軍打撃コーチに就任。背番号は'''75'''。当時、監督の[[梨田昌孝]]、投手コーチの[[小林繁]]とともに「'''
{{by|2002年}}から一軍ヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦([[西武ドーム]])では、前の試合で退場処分を受けて出場停止だった梨田に代わって[[監督代行]]を務めた。2回途中で西武先発の[[松坂大輔]]をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたが、近鉄先発の[[ジェレミー・パウエル]]が突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に[[吉岡雄二]]が同点本塁打を放つものの、その裏に[[松井稼頭央]]の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。
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=== 阪神タイガース監督時代 ===
{{by|2008年}}に阪神がリーグ優勝を逃した責任を取って監督を辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神の監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。就任時の会見で「投手を含めた、センターラインもそうだが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語った<ref>[
就任1年目の{{by|2009年}}に、盤石のリリーフ陣「[[JFK (阪神タイガース)|JFK]]」の一角として活躍した[[久保田智之]]の先発転向、[[新井貴浩]]の一塁からのコンバート、[[今岡誠]]のファーストコンバート、新外国人[[ケビン・メンチ]]の右翼手固定を行ったが、成績は上向かず、自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、打線ではシーズン途中に入団した[[クレイグ・ブラゼル]]の活躍、[[鳥谷敬]]と新井の後半戦での復調、投手陣は入団以降伸び悩みが続いていた[[能見篤史]]をエースとして一本立ちさせた好材料もあり、8カード連続で勝ち越すなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げた。しかし結局、10月9日の最終戦でヤクルトに敗れ4位となり、[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]出場はならなかった。
{{by|2010年}}は[[シアトル・マリナーズ]]から[[城島健司]]、新外国人選手として[[マット・マートン]]、[[ランディ・メッセンジャー]]らが加入しチームの底上げを図った。野手では一塁手に前年途中入団した[[クレイグ・ブラゼル]]、二塁手には[[関本賢太郎]]とのレギュラー争いを制した[[平野恵一]]、三塁手には[[新井貴浩]]を起用し、マートンは右翼手で金本は引き続き左翼手として起用した。このため野手の布陣で生え抜きのレギュラーは遊撃手の鳥谷のみとなり外様で大きく固められた打線となった。金本は右肩の故障で連続フルイニング出場が途切れることにはなったが、その代役として4番を新井に据えたが前年とは比較にならないほど打線が好調で、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率となる.2895、3割打者5人、90打点以上5人(うち100打点以上3人)、チーム安打は1458を記録して60年ぶりにセ・リーグ記録を更新した。オールスター前は首位で折り返したが、8月・9月と2か月連続で負け越し、特に[[ナゴヤドーム]]では2勝10敗と大きく負け越したことが響き、5年ぶりの優勝は逃した。シーズン終了時点では3位だったが2位の巨人が最終戦で敗れたことでペナントレースは2位に繰り上がってCS初の甲子園での開催権を獲得した
{{by|2011年}}から新たに2年契約を結んだが、このシーズンは打線に前年ほどの好調さはなく、6月には最下位に沈むこともあった<ref>{{Cite web
=== 阪神タイガース監督退任後 ===
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== 選手としての特徴 ==
{{スポーツ選手の出典明記|選手としての特徴|section=1|date=2011年9月}}
初球を打って本塁打・長打になることが多かった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、[[福本豊]]に次ぐ歴代2位の記録を持っている。そのため、福本と共に「史上最強の1番打者」として名前を挙げられることも多い。堅守・俊足の選手でもあり、3つの異なるポジション([[遊撃手]]・[[二塁手]]・[[外野手]])でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。[[三塁手]]や[[一塁手]]
プロ入り当初は主に[[守備固め]]として、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続[[規定打席]]に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった
{{by|1982年}}のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し(6月から7月にかけての時期だった)、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で[[加藤博一]]とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。また、同年の
ヒッティングマーチ([[応援歌]])の原曲は「[[ミッキーマウス・マーチ]]」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった
== 監督としての特徴 ==
121行目:
== 人物 ==
名字の漢字は、戸籍上は旧字体で「'''眞弓'''」と書くが、NPB公式サイト・阪神タイガース公式サイト・自身の公式サイトなど対外的な通名として、常用漢字で「'''真弓'''」と表記している<ref name="profile">[http://office-mayumi.co.jp/hitory/ Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>
愛称は「'''ジョー'''」(Joe)。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に野球留学した際、[[青木一三]]に「お前は[[ジョー・ディマジオ]]のような選手になれ」という理由で付けられた<ref>ベースボールマガジン社ムック「俺たちのパシフィック・リーグ クラウンライター・ライオンズ」29ページ</ref>。
129 ⟶ 127行目:
通算先頭打者本塁打歴代2位の記録を持ち、{{by|1983年}}に[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得、{{by|1985年}}には一番打者として打率.322、34本塁打というクリーンアップ並みの成績を残したことなどから、「'''史上最強の1番打者'''」または「'''恐怖の1番打者'''」とも言われている<ref name="hansinnihonichi">[http://office-mayumi.co.jp/hitory/阪神タイガース選手時代%EF%BC%88日本一篇%EF%BC%89/ 阪神タイガース選手時代 日本一篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>。
[[糸井嘉男]]がプロ野球選手になりたいと思ったのは糸井が小学3年生の頃に直接試合を観戦して真弓の本塁打をみたことで憧れを抱いたのが理由の一つと糸井は語っている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2022/09/22/0015660242.shtml |title=引退の糸井 小3の夏に見た「背番号7」に心が震えた 涙が止まらなかったトレード通告 |website=デイリースポーツ |date=2022-09-22 |accessdate=2022-09-22}}</ref>。奇しくも、糸井自身も2017年に阪神に入団して背番号7を背負っていた。
== 詳細情報 ==
135 ⟶ 133行目:
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}
|-
|style="text-align:
|rowspan="6" style="text-align:
|2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||----||----||----||----
|-
|style="text-align:
|23||11||10||4||2||0||0||0||2||0||1||1||0||0||1||0||0||5||0||.200||.273||.200||.473
|-
|style="text-align:
|78||68||61||16||19||2||0||1||24||8||5||4||2||0||5||0||0||6||2||.311||.364||.393||.757
|-
|style="text-align:
|18||37||36||2||4||1||0||0||5||2||0||0||0||0||1||0||0||3||0||.111||.135||.139||.274
|-
|style="text-align:
|116||295||276||37||72||9||1||6||101||14||21||8||9||2||8||0||0||35||5||.261||.280||.366||.646
|-
|style="text-align:
|118||448||418||68||117||13||3||8||160||38||34||5||8||1||18||3||3||42||7||.280||.314||.383||.696
|-
|style="text-align:
|rowspan="17" style="text-align:
|125||'''559'''||'''517'''||55||142||15||3||13||202||51||20||14||4||2||36||2||0||84||9||.275||.321||.391||.711
|-
|style="text-align:
|113||512||459||79||131||15||4||29||241||74||20||5||5||5||42||0||1||66||4||.285||.343||.525||.868
|-
|style="text-align:
|111||494||444||64||121||15||3||13||181||36||26||7||7||1||39||6||3||48||8||.273||.335||.408||.742
|-
|style="text-align:
|'''130'''||554||515||75||151||21||2||15||221||55||11||5||6||4||29||3||0||68||13||.293||.328||.429||.758
|-
|style="text-align:
|112||493||448||77||158||22||3||23||255||77||13||7||5||2||37||7||1||54||9||'''.353'''||.402||.569||.971
|-
|style="text-align:
|117||475||430||69||123||22||5||27||236||64||15||3||4||2||39||5||0||69||11||.286||.344||.549||.893
|-
|style="text-align:
|119||557||497||'''108'''||160||32||2||34||298||84||8||5||3||0||56||3||1||52||5||.322||.392||.600||.991
|-
|style="text-align:
|123||558||512||78||157||31||2||28||276||60||9||1||2||0||42||4||2||77||11||.307||.362||.539||.901
|-
|style="text-align:
|119||500||455||60||123||18||1||23||212||53||4||3||0||1||44||3||0||55||3||.270||.334||.466||.800
|-
|style="text-align:
|'''130'''||516||478||45||129||17||0||17||197||67||7||3||0||5||31||3||2||85||13||.270||.314||.412||.726
|-
|style="text-align:
|95||311||279||36||69||8||1||16||127||37||2||1||0||1||30||3||1||52||14||.247||.322||.455||.777
|-
|style="text-align:
|79||276||247||32||75||10||0||17||136||49||3||0||0||4||24||3||1||43||3||.304||.362||.551||.913
|-
|style="text-align:
|102||319||288||38||77||9||0||17||137||61||1||0||0||1||30||1||0||46||12||.267||.335||.476||.811
|-
|style="text-align:
|68||109||101||7||21||2||0||1||26||12||0||0||0||2||5||3||1||22||5||.208||.248||.257||.505
|-
|style="text-align:
|63||70||63||2||14||1||0||2||21||10||0||0||0||1||5||0||1||19||2||.222||.286||.333||.619
|-
|style="text-align:
|65||76||63||5||17||3||0||2||26||30||0||0||0||5||8||1||0||13||3||.270||.329||.413||.742
|-
|style="text-align:
|25||32||27||0||6||0||0||0||6||4||0||1||0||1||4||0||0||9||0||.222||.313||.222||.535
|-
213 ⟶ 211行目:
=== 年度別監督成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:
![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]]
|-
|{{by|2009年}}||rowspan="3" style="text-align:
|4位||144||67||73||4||.479||24.5||106||.255||3.28||56歳
|-
226 ⟶ 224行目:
|-
!colspan="3"|通算:3年
|433||213||207||13||.507||colspan="5" style="text-align:
|}
※通算成績には2002年近鉄での監督代行1試合(敗戦)を含む
; ポストシーズン
{| class="wikitable" style="text-align:
!年度!!球団!!大会名!!対戦相手!!勝敗
|-
244 ⟶ 242行目:
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞:1回 ([[1985年の日本シリーズ|1985年]])
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回 (1985年9月)
* [[サンケイスポーツ|サンスポ]]MVP大賞:1回 (1991年<ref>{{
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・ファーザー賞 in 関西|ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」]] (2011年)
250 ⟶ 248行目:
; 初記録
* 初出場:1973年5月5日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日拓ホームフライヤーズ]]前期6回戦([[平和台野球場]])、9回表に[[遊撃手]]で出場<ref name="data">[http://office-mayumi.co.jp/データ/ Data | 真弓明信オフィシャルウェブサイト]</ref>
* 初
* 初
* 初
* 初
* 初
* 初本塁打:1975年8月20日、対日本ハムファイターズ後期8回戦([[後楽園球場]])、9回表に[[野村収]]からソロ{{R|data}}
; 節目の記録
* 100本塁打:1983年9月6日、対[[読売ジャイアンツ]]22回戦([[阪神甲子園球場]])、3回裏に[[江川卓 (野球)|江川卓]]から左越2ラン
* 1000試合出場:1984年6月28日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]16回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に[[吉竹春樹]]の代打で出場
* 1000本安打:1984年8月19日、対[[広島東洋カープ]]21回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、6回表に[[川口和久]]から右前安打
* 150本塁打:1985年7月10日、対ヤクルトスワローズ12回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に[[梶間健一]]から左越先頭打者本塁打
* 200本塁打:1987年5月4日 対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]6回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に[[堀井恒雄|堀井幹夫]]から左越ソロ
* 1500本安打:1988年4月27日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に[[欠端光則]]から左前安打
* 1500試合出場:1988年7月31日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(阪神甲子園球場)、5番・[[右翼手]]で先発出場
* 250本塁打:1989年7月23日 対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に[[桑田真澄]]から左中間へ2ラン
* 3000塁打:1991年9月26日、対ヤクルトスワローズ26回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に[[川崎憲次郎]]から適時二塁打
* 2000試合出場:1994年7月31日、対横浜ベイスターズ18回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に[[藪恵壹|藪恵市]]の代打で出場
; その他の記録
* [[サイクル安打|サイクルヒット]]:1979年5月20日、対[[中日ドラゴンズ]]戦([[ナゴヤ球場]])、(1回:本塁打、3回:単打、5回:三振、7回:二塁打、9回:三塁打)※史上31人目
* 通算初回先頭打者本塁打:41本(表24本、裏17本)※歴代2位<ref name="data" />▼
* [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]通算初回先頭打者本塁打:38本(表21本、裏17本)※セ・リーグ記録<ref name="hanshinkou" />▼
* 5試合連続本塁打:2回(1980年6月25日 - 7月6日、1986年7月1日 - 6日)
* 代打3打席連続本塁打 ※史上2人目(過去の達成者は1984年[[マーシャル・ブラント]]、後に1996年[[藤立次郎]]・2011年[[ジョシュ・ホワイトセル]]が記録)
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** 1989年6月1日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、9回表に[[尾花高夫]]から2ラン
** 1989年6月18日、対横浜大洋ホエールズ10回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に[[欠端光則]]から3ラン
* シーズン代打打点:30(1994年)※日本記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1978年、1980年 - 1982年、1985年 - 1988年、1991年)
=== 背番号 ===
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=== 現在の出演 ===
全て2012年復帰
* [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[朝日放送テレビ]]・[[テレビ朝日]][[
* [[ABCフレッシュアップベースボール]]([[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]]・[[
* [[サンテレビボックス席]]([[サンテレビジョン]])
* [[真弓&勝成のExpert GOLF]]([[サンテレビジョン]])
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=== ディスコグラフィ ===
* 「男の夢」(1985年、作詞:高田直和、作曲:[[三木たかし]])
* 「愛はふたたび」(1985年、
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}▼
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
▲{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
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{{阪神タイガース歴代監督|阪神タイガース|2009 - 2011}}
{{Navboxes|title= 業績
|list1=
{{日本シリーズ優秀選手}}
{{セントラル・リーグ首位打者}}
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{{デフォルトソート:まゆみ あきのふ}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:NTTグループ九州野球クラブ及びその前身チームの選手]]
[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]]
366 ⟶ 369行目:
[[Category:阪神タイガース及びその前身球団の監督]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:
[[Category:
▲[[Category:熊本県出身の人物]]
[[Category:1953年生]]
[[Category:存命人物]]
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