「美和神社 (長野市)」の版間の差分

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m 概史: Wikipedia:表記ガイド#具体例による説明「以下の文字は、いわゆる半角を用います。「ラテン文字 T H E Q U I C K B R O W N F ...」」に基づき、「TK47型式(~MT15型式)」の全角「TK」「MT」→半角「TK」「MT」に修正。Wikipedia:表記ガイド#西暦・和暦「(新暦採用後の1873年〈明治6年〉1月1日以後)原則として西暦を先に表記します」に基づき、「明治6年」等→「1873年(明治6年)」等に修正。Wikipedia:記事どうしをつなぐ#リンクの冗長・繰返し「同一語に対してへのリンクは、すぐ近くでは複数回繰り返さず、最初に出てくる場合のみにしてください」に基づき、「昭和」の後出のリンクを除去。
 
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|例祭 = [[4月27日]](春季例大祭)<br />[[9月26日]]・[[9月27日|27日]](秋季例大祭)
|神事 = 越年祭([[12月16日]])
|地図 = {{Location map|Japan Nagano Prefecture|label=美和神社|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20|position=top|width=256|marksize=8|relief=1}}
}}
'''美和神社'''(みわじんじゃ)は、[[長野県]][[長野市]][[三輪 (長野市)|三輪]]にある[[神社]]。[[式内社]]で、[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]。[[善光寺]]七社の一社。
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== 歴史 ==
=== 概史 ===
創建は不詳。祭神・社名とも[[大和国]]の[[大神神社]]と同じで三輪系の神社であるが、その由来は定かでない。『[[善光寺縁起]]』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、このとき大神神社の神体を奉納したので大神神社には神体がない、という伝説が記されている<ref name=kamigami/>。これはこの地に[[三輪氏]]系の人々が移住したことを示すとも解され、周辺には時丸の塚と称するものと時丸寺がある<ref name=kamigami/>。また、[[長野市]]信更町田野口にある[[松ノ山窯跡]]からは、[[堺市]]に存在する[[陶邑窯跡群]]と形態的・技術的類似性が認められる土器が出土しており(和泉陶邑窯編年で6世紀初頭と考えられているTK47TK47型式(~MT15(~MT15型式)に比定されている)、陶邑の窯は[[三輪氏]]の配下の[[渡来人]]が運営していたと考えられていることから、ここからも三輪氏が長野市に移住してきていた可能性が指摘されている<ref>溝口優樹『日本古代の地域と社会統合』(吉川弘文館、2015年)オンデマンド版、2024 ISBN 9784642746182</ref><ref>桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)</ref>。
 
文献上は、[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])に相殿神の国業比売神に[[神階]]が授けられたという記述<ref>『日本三代実録』貞観三年二月七日条。</ref>が初出。
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旧称は「三輪神社」であったが、[[安永]]3年([[1774年]])に[[吉田家]]から許可を受け現在の「美和神社」に改称した<ref name=kamigami/>。[[寛政]]5年([[1793年]])、現在の社殿が造営された。
 
[[1873年]]([[明治]]6年、[[近代社格制度]]において[[村社]]に列し、1935年([[昭和]]10年に[[県社]]に昇格した。[[昭和]]61年([[1986年]](昭和61年)、献幣使参向神社に指定。
 
=== 神階 ===