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== 経歴 ==
[[1930年]]に先発ローテーションに加わると、[[1932年]]までの3シーズンで39勝37敗を記録した。この間1932年[[7月31日]]には[[クリーブランド・スタジアム|ミュニシパル・スタジアム]]の[[こけら落とし]]の試合に先発した
[[1933年]]には、防御率2.95を記録し、チームメイトの[[モンテ・ピアソン]]の2.33に次いでリーグ2位となった。なお、現行ルール(規定投球回=チーム試合数)では、ピアソンは135回しか投げておらず、ハーダーが1位となっている。
ハーダーは、1930年代の[[MLBオールスターゲーム | オールスターゲーム]]で最も成功した選手の一人だった。1934年から[[1937年]]の4試合すべてに出場し、13イニング連続自責点なしを記録した。1934年の試合では、8対6とリードながら、ノーアウトでランナーが2人残った状態で[[レッド・ラフィング]]を救援し、ダブルスチールの間に1点こそとられたものの、自身が投げた5回をヒット1本に抑え、アメリカンリーグの9対7での勝利に貢献した。1935年は、3回を0点に抑えセーブを記録し、チームも4対1で勝利した。また、1937年にも3回を完封し、8対3での勝利に貢献した。なお、1936年は、地元[[クリーブランド]]での開催で、ハーダーは2回を投げたがチームは4対3で敗れた。▼
[[1934年]]には、6完封を含む20勝を挙げ、防御率2.61は[[レフティ・ゴメス]]に次いで2位であった。[[1935年]]は、勝ち星と投球回で[[ウェス・フェレル]]に次いで2位、防御率3.29はリーグ5位だった。肘と肩を傷めた後も、[[1936年]]から[[1939年]]までのシーズンでは毎年15勝以上の勝ち星をあげた。また、1932年、1933年、1935年、[[1938年]]の4回[[アメリカンリーグ]]の[[刺殺]]数1位になっている。
[[1940年]]のハーダーは12勝11敗に終わったが、インディアンスは、[[デトロイト・タイガース]]に1ゲーム差でシーズンを終えた。このシーズンがハーダーのキャリアのうちインディアンスが首位から10ゲーム差以内で終えた唯一のシーズンとなった。ハーダーは[[1944年]]に200勝を達成後、数年間勝率5割前後の成績を続け、[[1947年]]に現役を引退した。通算の防御率は3.80、奪三振1160であり、通算223勝186敗は当時のチーム記録であった。皮肉なことに、インディアンスが[[ワールドシリーズ]]を勝ったのは、ハーダーが引退した後、投手コーチとしてチームに復帰する前年の[[1948年]]であった。▼
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[[1940年]]は12勝11敗に終わったが、インディアンスは、[[デトロイト・タイガース]]に1ゲーム差でシーズンを終えた。このシーズンが、ハーダーのキャリアのうちインディアンスが首位から10ゲーム差以内で終えた唯一のシーズンとなった。
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[[1949年]]から1950年代にかけて、インディアンスの「ビッグ4」として知られたボブ・フェラー、[[ボブ・レモン]] 、[[アーリー・ウィン]]と[[マイク・ガルシア]]を指導した。1940年代半ばには、レモンを内野手から主力投手にコンバートすることに成功し、ウィンにはカーブとチェンジアップを教えた。1953年には、レモンがハーダーの記録に並ぶ4度目の刺殺数1位となり、翌1954年にはレモンがハーダーの記録を破る5度目の刺殺数1位を獲得しインディアンスは2度めのリーグ制覇を成し遂げたが、ワールドシリーズでは、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ | ニューヨーク・ジャイアンツ]]に敗れた。[[1955年]]には、ハーダーの指導によりカーブの切れ味を増した[[ハーブ・スコア]]がアメリカンリーグの新人王に選ばれた。ハーダーは[[1961年]]の最終戦と[[1962年]]の最後の2戦で監督代行を務めたが、これら3試合では全て勝利している。ハーダーが[[1963年]]にチームを離れるまでに、[[サム・マクダウェル]] 、[[トミー・ジョン]]、[[ルイス・ティアント]]などの有望な若手投手が彼の指導を受けたものと思われる。インディアンス退団後、[[ニューヨーク・メッツ]]([[1964年]])、[[シカゴ・カブス]]([[1965年]])、[[シンシナティ・レッズ]]([[1966年]]から[[1968年]])、[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]([[1969年]])でコーチを歴任した。
投手としての主な球種は1936年頃まではシンキングファストボール、カーブ、チェンジアップ。
1937年頃からはシンキングファストボール、カーブ、スライダー、チェンジアップ。
投球フォームはオーバーハンド。 (米書 「guide to pitchers」)より [[File:MelHarder.png|right|150px|thumb|ハーダーの背番号「'''18'''」。<br/>クリーブランド・インディアンスの[[メジャーリーグベースボールの永久欠番|永久欠番]]に[[1990年]]指定。]]
[[1990年]]、
[[2002年]]、[[オハイオ州]][[:en:Chardon, Ohio|チャードン]]で93歳で死去した<ref>{{cite web | url=http://www.news-herald.com/articles/2002/10/22/obituaries/5784515.txt | title=Obituary: Melvin "Mel" L. Harder|author=The News-Herald | date=2002年10月22日|accessdate=2012年9月30日}}</ref>。死去当時、5人しか残っていなかった1920年代に活躍した選手の一人だった。
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* オールスターゲームで10イニング以上自責点なしの唯一の投手
* メジャーリーグの歴史の中でただ一人、選手、コーチの両方で20年のキャリアを持っている。
* 1チームでの投手キャリアでハーダーを超えるのは、[[ウォルター・ジョンソン]]と[[テッド・ライオンズ]]のみである。
* [[ジョー・ディマジオ]]は 、他の投手よりもハーダーを苦手にしていた。ディマジオのハーダーに対する生涯打率は0.180であり、1940年には1試合で3三振を喫している。
* 野球殿堂入りした選手及び有資格者の中で単一の本拠地で20シーズン活躍した唯一の選手。
* ハーダーの最初の投球は、1932年の[[クリーブランド・スタジアム|ミュニシパル・スタジアム]]であり、最後の投球も同所である。また、インディアンスが[[ジェイコブズ・フィールド]]から移転する[[1993年]]の最終戦のセレモニーでも投球を行った。
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