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{{出典の明記| date = 2023-02}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 一色 義貫 / 一色 義範
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[室町時代]]
| 生誕 = [[応永]]7年([[1400年]])
| 死没 = [[永享]]12年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1440年]][[6月14日]])
| 改名 = 義範、義貫
| 別名 = 五郎
| 諡号 =
| 神号 =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[兵部省|兵部少輔]]、[[京職|左京修理大夫]]、[[修理職|修理左京大夫]]
| 幕府 = [[室町幕府]] [[四職侍所頭人]]、[[丹後国|丹後]]・[[若狭国|若狭]]・[[三河国|三河]]・[[山城国|山城]][[守護]]<br/>[[尾張国|尾張]][[知多守護]][[郡主]]
| 主君 = [[足利義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]
| 藩 =
| 氏族 = [[一色氏#丹後一色家|一色氏(丹後一色家)]]
| 父母 = 父:[[一色満範]]、母:不明
| 兄弟 = [[一色持範|持範]]、'''義貫'''、[[一色持信|持信]]
| 妻 = 不明
| 子 = [[一色義|義貫]]、[[一色政氏|政氏]]、'''[[一色義|義]]'''<ref>清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)</ref>
| 花押 = 一色義貫の花押.jpg
| 特記事項 =
}}
 
'''一色 義'''(いっしき よしのりつら)は、[[室町時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[侍所頭人]]{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。[[一色氏#丹後一色家|丹後一色]]の当主。はじめ義範、のち義貫と称した{{Sfn|高橋|1983|p=40}}{{Sfn|寛政譜|1922|p=480}}。五郎{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。若狭国・三河国・丹後国および尾張国知多郡・同国海東郡を有し、一色氏の最盛期を築いた{{Sfn|河村|2016|p=1}}
 
[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義持]]より[[偏諱]]を受け、初めは父の1字と合わせて'''義範'''を名乗る。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。
 
== 生涯 ==
[[応永]]16年([[1409年]])1月6日、父・[[一色満範]]が死去する{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。このとき10歳{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=553}}。家督を継ぐと同時に[[丹後国]][[守護]]及び[[尾張国]][[海東郡]]・[[知多郡]]の[[郡主]]に任じられる。同18年([[1411年]])11月、[[兵部少輔]]に任じられる{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。
{{出典の明記| section = 1| date = 2023-02}}
 
[[応永]]16年([[1409年]])、父・[[一色満範]]の死により家督を継ぐと同時に[[丹後国]]及び[[尾張国]][[海東郡]]・[[知多郡]]分郡[[守護]]に任じられる。応永19年([[1412年]])に[[若狭国]]、同22年([[1415年]])には[[三河国]]、同25年([[1418年]])には[[山城国]]守護となったことで4カ国を兼ねる有力守護大名となった。
「若狭国守護職次第」に、応永18年6月13日、一色次郎([[一色持範|持範]])と五郎(義貫)の兄弟が和睦したとあり、両者の間で家督争いがあったことを反映していると考えられる{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=553}}{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。
 
この頃(応永18〜19年頃)元服し、将軍[[足利義持]]より[[偏諱]]「義」を与えられたと推測される{{Sfn|高橋|1983|p=42}}。義貫の父・満範以前の一色氏当主は、「氏」「詮」「満」の偏諱を拝領しており、「義」字を与えられたのは義貫が最初となる{{Sfn|高橋|1983|p=42}}。
 
応永19年([[1412年]])に[[若狭国]]、同22年([[1415年]])には[[三河国]]、同25年([[1418年]])10月以降には[[山城国]]守護{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=549}}となったことで4カ国の守護を兼ねる有力大名となった。応永21年([[1414年]])8月9日、[[侍所頭人]]に在職の徴証があり、同28年([[1421年]])2月7日まで務めた{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。
 
応永22年([[1415年]])、[[伊勢国]]国司・[[北畠満雅]]が[[小倉宮聖承]]を擁して挙兵した{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。義貫は追討軍の総大将に任命され、同年4月、伊勢に向かい、援軍の[[畠山満慶]]と共にこれを平定した{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。
 
応永23年([[1416年]])、[[鎌倉府]]にて[[上杉禅秀の乱]]が起きた際、[[上杉禅秀]]の娘を妾としている[[足利義嗣]]が京から出奔し山城高雄に遁世、義持により[[仁和寺]]興徳庵に移される騒動が起きると、義嗣の身柄奪還の懸念から侍所別当であった義貫(当時は義範)が警固している。
 
応永25年(1418年)10月24日、山城国守護に補任された{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。また、この頃、[[左京大夫]]となった{{Sfn|高橋|1983|p=49}}。
応永34年([[1427年]])、前将軍・義持が[[赤松満祐]]の所領[[播磨国]]を没収して寵愛する側近の[[赤松持貞]](満祐の[[又従兄弟]])に与えようし、これに反発した満祐が京の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り一族を集めて合戦の準備を始めると、激怒した義持から討伐の命を受けたが義貫は出兵を拒否している。[[正長]]元年([[1429年]])、反乱を起こした[[伊勢国]]の[[北畠満雅]]攻めには従軍している。
 
応永34年([[1427年]])9月、[[赤松義則]]が死去すると、将軍義持は、その遺領を[[赤松満祐]]が継ぐことを認めず、[[播磨国]]を御料国(将軍の直轄地)にし、[[赤松持貞]]をその代官に任じた{{Sfn|赤穂市史編さん専門委員|1981|pp=569-570}}。これに反発した満祐が京の自邸を焼き払って帰国すると、義持は義貫と[[山名時煕]]に追討を命じたが、義貫は[[管領]][[畠山満家]]の意向を受け、出発しなかった{{Sfn|赤穂市史編さん専門委員|1981|pp=569-570}}。
 
[[正長]]元年([[1429年]])、再び反乱を起こした北畠満雅攻めに従軍した。
 
[[四職]]の1人となって幕政に参与した。
 
[[永享]]元年([[1429年]])3月15日、6代将軍となり、それまでの義宣から改名した[[足利義教]]と音が通じるため、義範から義貫に改名する{{Sfn|高橋|1983|p=49}}。
 
永享2年([[1430年]])7月25日に行われた義教の[[右大将]]拝賀式において、義貫は[[布衣]]一騎打ちの先頭を強く望んだものの許されず、式を欠席した{{Sfn|高橋|1983|p=43}}。このとき義貫の処分が検討され、義貫も一戦する覚悟だったが、畠山満家、管領・[[斯波義淳]]、[[細川持之]]らが義教を諫止したため、処分は見送られた{{Sfn|高橋|1983|p=43}}。
 
永享9年([[1437年]])3月、義教の命で[[大和国]]に出陣した(『[[師郷記]]』){{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。
 
永享12年([[1440年]])5月15日{{Sfn|寛政譜|1922|p=480}}、大和の陣中で、義教の命を受けた[[武田信栄]]・[[細川持常]]らによって、[[土岐持頼]]と共に攻撃を受け、自害した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。享年41。安養寺と号す{{Sfn|寛政譜|1922|p=480}}。
 
その翌日、同族の[[一色教親]]が、京都・[[勘解由小路]]堀川にある義貫の屋形を接収した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。この際、義貫の家臣たちは抵抗し、討たれ、屋形は焼失した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。<!--義教から一色氏の家督継承を命じられた甥(弟・持信の子)・[[一色教親|教親]]が京都の一色邸を武力で接収、留守を守っていた前若狭守護代の[[三方範忠]]は討たれ、重臣の[[延永直信]]は降伏して下野、義貫の遺児の擁立をうかがうことになる。-->
 
[[鎌倉公方]][[足利持氏]]の家臣であり、[[永享の乱]]の大将の一人だった同族の[[一色時家]](持家)が、義貫が守護職を務めていた三河国に逃れており、このことが誅殺された要因の一つとみられている{{Sfn|高橋|1983|pp=47-48}}。義貫は4か国の守護を兼ねる有力者であるため、義教に警戒され、暗殺されたとも言われる。また、一色氏内部でも、家督をめぐり、兄の持範・甥(弟・持信の子)である教親との抗争があった。
 
義貫の守護職のうち、若狭国は武田信栄に、丹後国は一色教親に、三河国は細川持常に、それぞれ与えられた{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。
 
== 脚注 ==
[[四職]]の1人となって幕政に参与したが、6代将軍[[足利義教]]の代になると、供奉を放棄するなど次第に対立し、一時は幕政から遠ざけられた。[[管領]]の[[畠山満家]]らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰している。
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
[[永享]]12年([[1440年]])、義教は関東で起こった[[結城合戦]]に際して、義貫と[[土岐持頼]]に[[大和国]]の[[越智氏 (大和国)|越智氏]]を討伐の命を下し、大和へ出陣させた([[大和永享の乱]])。しかし、[[永享の乱]]で幕府に対して挙兵した[[足利持氏]]の残党([[一色時家]]等)を匿った罪を問われ、義教から追討を受け、[[武田信栄]]に腹背を攻められて敗北。同年5月15日、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害して果てた。享年41。翌日には義教から一色氏の家督継承を命じられた甥(弟・持信の子)・[[一色教親|教親]]が京都の一色邸を武力で接収、留守を守っていた前若狭守護代の[[三方範忠]]は討たれ、重臣の[[延永直信]]は降伏して下野、義貫の遺児の擁立をうかがう事になる。
* {{Citation|和書|date=1981-09-01|title=赤穂市史|volume=第一巻|editor=赤穂市史編さん専門委員|publisher=[[兵庫県]][[赤穂市]]|url={{NDLDC|9574810}}|ref={{SfnRef|赤穂市史編さん専門委員|1981}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1992-03-20|title=小浜市史|volume-title=通史編 上巻|editor=小浜市史編纂委員会|publisher=[[小浜市|小浜市役所]]|url={{NDLDC|9540874}}|ref={{SfnRef|小浜市史編纂委員会|1992}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=2016-06-10|title=南北朝・室町期一色氏の権力構造|series=戎光祥研究叢書8|author=河村昭一|publisher=[[戎光祥出版]]|isbn=978-4-86403-203-2|ref={{SfnRef|河村|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=高橋修|title=足利義持・義教期における一色氏の一考察——一色義貫・持信兄弟を中心として——|journal=史学研究集録|issue=第8号|publisher=[[國學院大學]]日本史学専攻大学院会|date=1983-03-25|pages=40-51|issn=0388-6549|url={{NDLDC|4419404}}|ref={{SfnRef|高橋|1983}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1893-08-01|chapter=巻第五十 補任部七 若狭国守護職次第|title=群書類従|volume=第參輯|publisher=経済雑誌社|url={{NDLDC|1879715}}|ref={{SfnRef|群書類従|1893}}}}{{オープンアクセス}}
* {{Citation|和書|date=1922-12-18|chapter=巻第八十五 清和源氏 義家流 足利支流 一色|title=寛政重脩諸家譜|volume=第一輯|publisher=國民圖書|url={{NDLDC|1082717}}|ref={{SfnRef|寛政譜|1922}}}}{{オープンアクセス}}
 
== 外部リンク ==
義貫は4ヶ国を兼ねる有力守護となり、そのために義教に警戒され暗殺されたとも言われる。また、一色氏内部でも家督をめぐり、兄の持範・甥(弟・持信の子)である教親との抗争があった。義貫の遺領地は分配され、一色氏は没落する。
* {{Kotobank}}
 
{{丹後一色家|一色氏/丹後一色家}}
{{DEFAULTSORT:いつしき よしつら}}
[[Category:丹後一色|よしつら]]
[[Category:室町時代の人物]]
[[Category:守護大名]]
[[Category:自殺した日本の人物]]