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{{出典の明記| date = 2023-02}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 一色 義貫 / 一色 義範
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[室町時代]]
| 生誕 = [[応永]]7年([[1400年]])
| 死没 = [[永享]]12年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1440年]][[6月14日]])
| 改名 = 義範、義貫
| 別名 = 五郎
| 諡号 =
| 神号 =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[
| 幕府 = [[室町幕府]] [[
| 主君 = [[足利義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]
| 藩 =
| 氏族 = [[一色氏#丹後一色家|一色氏(丹後一色
| 父母 = 父:[[一色満範]]、母:不明
| 兄弟 = [[一色持範|持範]]、'''義貫'''、[[一色持信|持信]]
| 妻 = 不明
| 子 = [[一色義
| 花押 = 一色義貫の花押.jpg
| 特記事項 =
}}
'''一色 義
== 生涯 ==
[[応永]]16年([[1409年]])1月6日、父・[[一色満範]]が死去する{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。このとき10歳{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=553}}。家督を継ぐと同時に[[丹後国]][[守護]]及び[[尾張国]][[海東郡]]・[[知多郡]]の[[郡主]]に任じられる。同18年([[1411年]])11月、[[兵部少輔]]に任じられる{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。
「若狭国守護職次第」に、応永18年6月13日、一色次郎([[一色持範|持範]])と五郎(義貫)の兄弟が和睦したとあり、両者の間で家督争いがあったことを反映していると考えられる{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=553}}{{Sfn|群書類従|1893|p=363}}。
この頃(応永18〜19年頃)元服し、将軍[[足利義持]]より[[偏諱]]「義」を与えられたと推測される{{Sfn|高橋|1983|p=42}}。義貫の父・満範以前の一色氏当主は、「氏」「詮」「満」の偏諱を拝領しており、「義」字を与えられたのは義貫が最初となる{{Sfn|高橋|1983|p=42}}。
応永19年([[1412年]])に[[若狭国]]、同22年([[1415年]])には[[三河国]]、同25年([[1418年]])10月以降には[[山城国]]守護{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=549}}となったことで4カ国の守護を兼ねる有力大名となった。応永21年([[1414年]])8月9日、[[侍所頭人]]に在職の徴証があり、同28年([[1421年]])2月7日まで務めた{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。
応永22年([[1415年]])、[[伊勢国]]国司・[[北畠満雅]]が[[小倉宮聖承]]を擁して挙兵した{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。義貫は追討軍の総大将に任命され、同年4月、伊勢に向かい、援軍の[[畠山満慶]]と共にこれを平定した{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。
応永23年([[1416年]])、[[鎌倉府]]にて[[上杉禅秀の乱]]が起きた際、[[上杉禅秀]]の娘を妾としている[[足利義嗣]]が京から出奔し山城高雄に遁世、義持により[[仁和寺]]興徳庵に移される騒動が起きると、義嗣の身柄奪還の懸念から侍所別当であった義貫(当時は義範)が警固している。
応永25年(1418年)10月24日、山城国守護に補任された{{Sfn|高橋|1983|p=41}}。また、この頃、[[左京大夫]]となった{{Sfn|高橋|1983|p=49}}。
応永34年([[1427年]])9月、[[赤松義則]]が死去すると、将軍義持は、その遺領を[[赤松満祐]]が継ぐことを認めず、[[播磨国]]を御料国(将軍の直轄地)にし、[[赤松持貞]]をその代官に任じた{{Sfn|赤穂市史編さん専門委員|1981|pp=569-570}}。これに反発した満祐が京の自邸を焼き払って帰国すると、義持は義貫と[[山名時煕]]に追討を命じたが、義貫は[[管領]][[畠山満家]]の意向を受け、出発しなかった{{Sfn|赤穂市史編さん専門委員|1981|pp=569-570}}。
[[正長]]元年([[1429年]])、再び反乱を起こした北畠満雅攻めに従軍した。
[[四職]]の1人となって幕政に参与した。
[[永享]]元年([[1429年]])3月15日、6代将軍となり、それまでの義宣から改名した[[足利義教]]と音が通じるため、義範から義貫に改名する{{Sfn|高橋|1983|p=49}}。
永享2年([[1430年]])7月25日に行われた義教の[[右大将]]拝賀式において、義貫は[[布衣]]一騎打ちの先頭を強く望んだものの許されず、式を欠席した{{Sfn|高橋|1983|p=43}}。このとき義貫の処分が検討され、義貫も一戦する覚悟だったが、畠山満家、管領・[[斯波義淳]]、[[細川持之]]らが義教を諫止したため、処分は見送られた{{Sfn|高橋|1983|p=43}}。
永享9年([[1437年]])3月、義教の命で[[大和国]]に出陣した(『[[師郷記]]』){{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。
永享12年([[1440年]])5月15日{{Sfn|寛政譜|1922|p=480}}、大和の陣中で、義教の命を受けた[[武田信栄]]・[[細川持常]]らによって、[[土岐持頼]]と共に攻撃を受け、自害した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。享年41。安養寺と号す{{Sfn|寛政譜|1922|p=480}}。
その翌日、同族の[[一色教親]]が、京都・[[勘解由小路]]堀川にある義貫の屋形を接収した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。この際、義貫の家臣たちは抵抗し、討たれ、屋形は焼失した{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。<!--義教から一色氏の家督継承を命じられた甥(弟・持信の子)・[[一色教親|教親]]が京都の一色邸を武力で接収、留守を守っていた前若狭守護代の[[三方範忠]]は討たれ、重臣の[[延永直信]]は降伏して下野、義貫の遺児の擁立をうかがうことになる。-->
[[鎌倉公方]][[足利持氏]]の家臣であり、[[永享の乱]]の大将の一人だった同族の[[一色時家]](持家)が、義貫が守護職を務めていた三河国に逃れており、このことが誅殺された要因の一つとみられている{{Sfn|高橋|1983|pp=47-48}}。義貫は4か国の守護を兼ねる有力者であるため、義教に警戒され、暗殺されたとも言われる。また、一色氏内部でも、家督をめぐり、兄の持範・甥(弟・持信の子)である教親との抗争があった。
義貫の守護職のうち、若狭国は武田信栄に、丹後国は一色教親に、三河国は細川持常に、それぞれ与えられた{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=573}}。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=1981-09-01|title=赤穂市史|volume=第一巻|editor=赤穂市史編さん専門委員|publisher=[[兵庫県]][[赤穂市]]|url={{NDLDC|9574810}}|ref={{SfnRef|赤穂市史編さん専門委員|1981}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1992-03-20|title=小浜市史|volume-title=通史編 上巻|editor=小浜市史編纂委員会|publisher=[[小浜市|小浜市役所]]|url={{NDLDC|9540874}}|ref={{SfnRef|小浜市史編纂委員会|1992}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=2016-06-10|title=南北朝・室町期一色氏の権力構造|series=戎光祥研究叢書8|author=河村昭一|publisher=[[戎光祥出版]]|isbn=978-4-86403-203-2|ref={{SfnRef|河村|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=高橋修|title=足利義持・義教期における一色氏の一考察——一色義貫・持信兄弟を中心として——|journal=史学研究集録|issue=第8号|publisher=[[國學院大學]]日本史学専攻大学院会|date=1983-03-25|pages=40-51|issn=0388-6549|url={{NDLDC|4419404}}|ref={{SfnRef|高橋|1983}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1893-08-01|chapter=巻第五十 補任部七 若狭国守護職次第|title=群書類従|volume=第參輯|publisher=経済雑誌社|url={{NDLDC|1879715}}|ref={{SfnRef|群書類従|1893}}}}{{オープンアクセス}}
* {{Citation|和書|date=1922-12-18|chapter=巻第八十五 清和源氏 義家流 足利支流 一色|title=寛政重脩諸家譜|volume=第一輯|publisher=國民圖書|url={{NDLDC|1082717}}|ref={{SfnRef|寛政譜|1922}}}}{{オープンアクセス}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{丹後一色家|一色氏/丹後一色家}}
{{DEFAULTSORT:いつしき よしつら}}
[[Category:丹後一色
[[Category:守護大名]]
[[Category:自殺した日本の人物]]
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