「佐竹東家」の版間の差分
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'''佐竹東家'''は、[[清和源氏]][[佐竹氏]]の分流にあたる[[武家]]・[[士族]]・[[華族]]だった家。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[常陸国]][[太田城 (常陸国)|太田城]]の東に住したため、こう呼ばれる。[[江戸時代]]に佐竹氏が[[出羽国]][[久保田藩]](秋田藩)に減転封された後には同藩の一門家臣となり、[[明治維新|維新]]後には[[士族]]を経て[[華族]]の[[男爵]]家に列した{{sfn|森岡浩|2012|p=234}}。
== 歴史 ==
[[常陸国|常陸]][[守護大名|守護]]で常陸[[太田城 (常陸国)|太田城]]主の[[佐竹義治]]の五男[[佐竹政義]]を祖とする。政義が太田城の東に住したため、こう呼ばれるようになった{{sfn|森岡浩|2012|p=234}}。4代当主[[佐竹義久|義久]]は[[豊臣秀吉]]のもとで厚遇され、常陸で6万石を領した{{sfn|森岡浩|2012|p=234}}。しかし関ケ原の合戦で西軍に付いた佐竹氏は[[出羽国]][[久保田藩]](秋田藩)に減転封されたため、江戸時代には6000石を領するにとどまった{{sfn|森岡浩|2012|p=234}}。
[[佐竹義寿]]の代に[[明治維新|維新]]を迎えた。[[戊辰戦争]]で勤王の功を立て家名は大いに栄えた{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=622}}。しかし明治17年に義寿が死去したため、その娘だった[[佐竹克子|克子]]、ついで先代[[佐竹義祚|義祚]]の未亡人だった[[佐竹ギン]](銀子とも。[[出羽国]][[亀田藩]]主[[岩城隆喜]]の八女)が女戸主となった{{sfn|松田敬之|2015|p=325}}。維新後、佐竹東家は士族だったが、本家筋の[[佐竹義生]][[侯爵]]が佐竹東家の華族編列・授爵請願運動を行い、明治31年(1898年)12月付けで宮内大臣[[田中光顕]]に宛てて「勤王功労者華族ニ被列度願書」を提出。その中で義生は、佐竹東家について常陸国在封中には7万石を領して叙位任官も拝受し、秋田へ転封された後も実際の禄高と関わりなく1万石の資格が与えられていた家で、王政維新に際しては家兵を率いて王師に尽し、鎮撫使からも東北鎮定の偉功を奏ぜられたことを挙げ、その功績を以て華族編列・授爵あるよう請願した{{sfn|松田敬之|2015|p=325-326}}。
明治33年5月9日には他の佐竹分流四家([[佐竹北家|北家]]の[[佐竹義尚]]、[[佐竹南家|南家]]の[[佐竹義雄]]、[[佐竹西家|西家]]の[[佐竹義遵]])が[[華族]]の[[男爵]]に叙されたが{{sfn|松田敬之|2015|p=328}}、東家については女戸主だったため、この段階では授爵から外れた。明治33年5月5日付けの宮内省当局側審査書類には注記として「佐竹一門四家の一なる佐竹義寿は外三家と同一の功あるも、現在女戸主なるを以て恩典に加わることを得ず。他日男子の相続人定まりたる時に於いて御詮議あらんことを」と記している{{sfn|松田敬之|2015|p=326}}。その後[[松浦詮]][[伯爵]]の四男準がギンの養子入りをして[[佐竹義準]]に改名し、明治36年12月7日にギンが隠居して家督相続したのを受けて、明治39年9月17日付けで男爵位が与えられた{{sfn|松田敬之|2015|p=326}}。佐竹義準男爵は韓国統監秘書官、朝鮮総督府事務官などを歴任し、貴族院議員に当選すること2回に及んだ{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=622}}。
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#[[佐竹義久]]
#[[佐竹義賢]]
#[[佐竹義直(東家)|佐竹義直]]
#[[佐竹義長(東家)|佐竹義長]]
#[[佐竹義寛]]
#[[佐竹義秀]]
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