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{{Otheruses|古代ローマ皇帝}}
 
{{複数の問題
|出典の明記=2010年5月9日 (日) 02:27 (UTC)
|脚注の不足=2016年5月23日 (月) 13:09 (UTC)
|ソートキー=人0138年没
}}
{{Expand English|Hadrian|date=2020年9月}}
 
{{基礎情報 君主
| 人名 = ハドリアヌス
| 各国語表記 = {{lang|la|'''Hadrianus'''}}
| 君主号 = [[ローマ皇帝(元首)]]
| 画像 = Bust Hadrian Musei Capitolini MC817.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ハドリアヌス胸像
| 在位 = [[117年]][[8月11日]] - [[138年]][[7月10日]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 = プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス<br>''Publius Aelius Trajanus Hadrianus''
| 配偶者1 = サビナ
| 王家 =
| 継承者 = [[アントニヌス・ピウス]]
| 継承形式 = 継承者
| 王朝 = [[ネルウァ=アントニヌス朝]]
| 子女 = [[ルキウス・アエリウス・カエサル]](養子)<BR>[[アントニヌス・ピウス]](養子)
| 賛歌 =
| 父親 = プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス・アフェル
| 母親 = ドミティア・パウリナ
| 出生日 = [[76年]][[1月24日]]
| 生地 = [[ローマ]]<br>(また[[ヒスパニア・バエティカ]]属州、[[:en:Italica|イタリカ]])
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|76|1|24|138|7|10}}
| 没地 = バイアエ([[ナポリ]]近郊)
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
}}
'''プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス'''([[古典ラテン語]]: {{lang|la|Publius Aelius Trajanus Hadrianus|プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス}}、[[76年|紀元76年]][[1月24日]] - [[138年]][[7月10日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Hadrian Hadrian Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、第14代[[ローマ皇帝|ローマ元首(皇帝)]](在位:[[117年]] - [[138年]])。[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の第3代目[[ローマ皇帝|元首]]。前任者である[[トラヤヌス]]の拡大路線を放棄し、内政と国境管理に力を入れて[[18世紀]]の[[イギリス]]の歴史家[[エドワード・ギボン]]からいわゆる[[五賢帝]]の一人として称賛されたが、治世における混乱やその強権から同時代人には[[暴君]]して恐れられてもいた。
 
== 生涯 ==
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[[トラヤヌス]]の従兄弟であり、[[元老院議員]]でもあった父[[:en:Publius Aelius Hadrianus Afer|プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス・アフェル(英語版)]]は[[ヒスパニア|ヒスパニア(スペイン)]]にあった[[属州]][[ヒスパニア・バエティカ|バエティカ]]の町イタリカ出身であり、かつてこの町がイタリアの都市[[:en:Atri, Abruzzo|ハドリア]]からの入植者によって建設された事が「ハドリアヌス」という名の由来である。母の[[:en:Paulina|ドミティア・パウリア(英語版)]]はフェニキア人にルーツを持つとも考えられる[[カディス]]出身の[[ヒスパニア|ヒスパニア人]]であった。
ハドリアヌスが10歳の時に父と死別し、以降[[トラヤヌス]]と[[ヒスパニア]]出身の同郷者で[[エクィテス|エクイテス(騎士)]]であった[[:en:LuciusPublius PubliliusAcilius CelsusAttianus|プブリウス・アシリウス・アッティアヌス(英語版)]]の後見を受けながら成長し、その過程でギリシア文化に大きな関心を示した事から周囲に「グラエクルス(小さなギリシア人)」と呼ばれた{{sfn|ストラウフ|p=273}}。
 
=== トラヤヌスの下で ===
18歳から公務での活動を開始したトラヤヌスは[[中央ヨーロッパ|中欧]]や[[バルカン半島]]で軍務に就き、[[97年]]11月には[[ネルウァ]]に事実上の後継者に指名されたトラヤヌスの下に自身が所属する[[軍団]]の使節として赴いて祝辞を述べている。[[99年]]には正式に[[ローマ皇帝|元首]]の地位に就いたトラヤヌスと共に[[ローマ]]へと帰還し、この頃にトラヤヌスの妻であった[[:en:Pompeia Plotina|プロティナ(英語版)]]に勧められてトラヤヌスの姪であった[[:en: Vibia Sabina|ウィヴィア・サビナ(英語版)]]を妻に迎えている。
 
その後[[101年]]に[[クァエストル|クァエストル(財務官)]]となり、正式に[[元老院議員]]としての資格を得るとトラヤヌスのスピーチライターを務め、[[ダキア戦争]]への従軍を経て下部[[パンノニア]][[属州総督]]、補充[[執政官]](正規執政官が欠けた際の補充要因)、[[ギリシャ|ギリシテナイ]]の[[アルコーン|アルコン(執政官)]]といった役職を歴任。更にトラヤヌスの幕僚として[[パルティア|パルティア遠征]]に従軍した後[[117年]]に[[シリア属州|属州シリア]][[総督]]に就任した。
 
トラヤヌスの下で順調に昇進を重ねていったハドリアヌスだが、必ずしも経歴に特筆すべき点があったと言えずなくこの時点では未だトラヤヌスの明確な後継者と断言できる程の経歴ではい立場にあったともされる{{sfn|南川|p=140-142}}{{sfn|ストラウフ|p=276-283}}。
 
=== 後継者指名の謎 ===
[[117年]]8月、[[キリキア]]の小村[[セリヌス]]でトラヤヌスが病没すると、遺言でハドリアヌスを養子とし、自身の後継者としたという報せが[[元老院]]と[[アンティオキア]]で[[シリア属州|シリア]]総督を務めていたハドリアヌスの下に届き、ハドリアヌスは配下の[[軍団]]の支持の下で[[ローマ皇帝|元首]]への就任を宣言した。
 
しかしトラヤヌスの遺言信憑性は古代より疑問視されており古代の歴史家[[カッシウス・ディオ|カッシウ・スディオ]]は父親からの伝聞を根拠として遺言が[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|親衛隊長官]]となっていたアッティアヌスと、ハドリアヌスに好意的なプロティナによる捏造だったとしている。巷ではトラヤヌスは、[[ダキア戦争]]や[[パルティア戦争|パルティア遠征]]で功績のあった[[:en:Lusius_Quietus|ルシウス・クィエトゥス(英語版)]]を後継者にしようとしていたのだと囁かれたという{{sfn|本村|lp=218}}。また、トラヤヌスの死後間もなく重用されていた[[解放奴隷]]が不審し、死後10年以上経ってようやく遺灰がローマに移送されるという不自然な出来事は、何らかの陰謀が存在した事を示唆してるともされる。
 
トラヤヌスが生前にハドリアヌスを後継者としに決めていたという明確な証拠はなく、後世においても遺言が本物であったのかについては、後世に考古学調査等を踏まえた上での活発な議論が交わされたが真相が解明されたとは言い難く、い。当時からハドリアヌスの元首就任正当性に疑問が呈される状態にあっていたと言える。トラヤヌスから十分な権力移譲の準備がなされなかった事は、ハドリアヌスに著しく不安定な立場での地位の継承を余儀なくさせたのだった{{sfn|南川|p=129-137}}{{sfn|ストラウフ|p=276-283}}。
 
=== 4元老院議員処刑事件 ===
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=== 属州の整備、再編 ===
<blockquote>[[コホルス|大隊]][[騎兵]]が十分な技を実演する事は並大抵ではない。(中略)だが君達は諸々の厳しい条件を[[猛暑]]に耐え、持てる力の全てを出し切る事で乗り越えた。さらに君達は[[オナガー (投石機)|投石機]]や[[ピルム|投げ槍]]を駆使し、あらゆる状況下で迅速に[[騎兵]]として活動して見せたのだ。
 
 
ー[[:en:Lambaesis|ランバエシス(英語版)]]出土碑文に記されたハドリアヌスの演説文</blockquote>
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これらの旅の中で[[ブリタニア]]における[[ハドリアヌスの長城]]をはじめとした各[[属州]]の国境である[[リメス(境界)]]の整備が進められた。また、ハドリアヌス自身も兵士達と共に軍隊生活を送る等して[[属州]]の実情把握に努め、弛緩していた現地の将兵に対して規律を正す等して[[属州]]の軍備や行政の整備、改善にも積極的に取り組んだ{{sfn|南川|p=9-11,13-17}}{{sfn|ストラウフ|p=292-298}}。
 
=== 造営事業と法整備 ===
[[ファイル:Arch of Hadrian Athens.jpg|thumb|ハドリアヌスと[[テーセウス|テセウス]]を讃えた[[ハドリアヌスの凱旋門]]]]
 
ハドリアヌスは[[ローマ]]や[[属州]]における建造物整備や建設も進め、中には[[ウェヌスとローマ神殿|ウェヌスとローマの神殿]]のように自ら設計の指示を出した建物も存在した。特に名高いのは[[アウグストゥス]]の腹心だった[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]によって建造され、その後損壊した[[パンテオン (ローマ)|パンテオン(万神殿)]]の再建であり、これは現在に伝わる最も優れた古代の建築物ともされている。さらに各地で都市開発も進め、[[エディルネ|ハドリアノポリス(現在のエディルネ)]]をはじめ、各地にハドリアヌスの名を冠した都市が8つ作られたという。また、[[紀元前86年]]に[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]に破壊されて以来精彩を失っていた[[アテナイ]]の再建にも力を入れ、多くの公共建築物を寄進し、600年以上未完成だった[[ゼウス神殿|ゼウス・オリュンピウス神殿]]を完成させて[[ペリクレス]]時代以来の繁栄を[[アテナイ]]にもたらし、住民達は立像の建設をはじめとした様々な栄誉でこれに報いた。<blockquote>この町は[[アテナイ]]、[[テーセウス|テセウス]]の誇りなり
 
この町はハドリアヌスの誇りなり、[[テーセウス|テセウス]]と違うことなかれ
 
ー[[ハドリアヌスの凱旋門]]に刻まれた碑文</blockquote>造営事業に力を入れる一方で法整備を通した社会秩序の再編にも尽力た。ローマでは毎年[[プラエトル|法務官]]によって[[ローマ法]]の運用方針を定めた規定が作成、布告されていたが、それまで作られた規定が蓄積したために[[ローマ法]]の解釈に矛盾が生じていた。そのためハドリアヌスはそれまで作られた運用規定を整理、統一してそれらを纏めた『永久告示録』を編纂する事でローマ法の合理的かつ安定的な運用を可能とした{{sfn|南川|p=11-13}}{{sfn|ストラウフ|p=288-292}}。
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=== 治世の暗雲 ===
[[ファイル:Antinous Delphinus Sagitta et Aquila - Mercator.jpeg|サムネイル|ハドリアヌスによって星になった愛人アンティノウス。[[メルカトル天球儀1551]]に描かれたもの]]
ハドリアヌスは[[ビテュニア]]出身の美少年[[アンティノウス]]を寵愛し、視察旅行にも常に同伴させいた。しかし、[[130年]]に[[エジプト]]に赴いた際[[ナイル川]]で溺死し(事故とも自殺ともされる)ハドリアヌスは嘆き悲しみ、彼に因んでアンティノポリスと名付けた町を建設した程だった。アンティノウスの死を契機に、ハドリアヌスの治世には影が差し込み始めた。
 
同年に[[エルサレム]]の破壊された旧都市部分に自らの氏族名[[アエリウス氏族|アエリウス]]と[[ユーピテル|ユピテル]]神に因み「[[アエリア・カピトリーナ]]」と名付けた都市を建設し、[[132年]]には[[割礼]]を禁止し、これらの政策への反発から[[ユダヤ人]]の大規模かつ組織的な反乱が発生して[[バル・コクバの乱|第二次ユダヤ戦争]]へと発展した。ハドリアヌスは自ら陣頭指揮を取る一方で不評であったイタリアからの兵士の徴募まで行い、[[135年]]に一説には58万ともされるユダヤ人の犠牲によってようやく反乱は鎮圧された{{sfn|南川|p=162-164}}{{sfn|ストラウフ|p=307-310}}。反乱鎮圧に苦戦したハドリアヌは、'''「我と貴殿と我が子息ら息災で何より。我と我が軍団壮健なり」'''という元老院に戦況が優勢である事を示す通例の文書を送る事が出来なかったほど厳しい状況であったとされる<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,13,3.</ref>。
 
=== 後継者指名の混乱 ===
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ーハドリアヌス辞世の詩([[ローマ皇帝群像|『ヒストリア・アウグスタ』]]ハドリアヌス伝25.9)</blockquote>後継者の選定を終えたハドリアヌスだったがその後も病状は悪化し続けた。[[動脈硬化症|動脈硬化]]等の症状に見舞われて[[儀式]]や[[魔術]]に傾倒するようになり、周囲に自殺幇助を懇願したが誰一人命を奪う事が出来ず、苦しみに苛まれ続けた末に[[138年]]7月10日、バイアの地でアントニヌスに看取られながら62歳で世を去った<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝25,6-7.</ref>。最後には治療を放棄して不摂生な生活を送り、'''「無数の医者どもが君主を葬ったのだ」'''と叫びながら息を引き取ったともされる<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、69,22,4.</ref>。遺体は[[ポッツオーリ|プテリオ]]に埋葬された後に遺灰はローマへと移送され、既に故人となっていた妻サヴィナの遺灰と共に葬られた{{sfn|ストラウフ|p=313-315}}。
 
ハドリアヌスの死後、その[[神格化]]が提案された際には何人もの元老院議員を死に追いやった事から[[元老院]]から強い反発が生じ、後継者であったアントニヌスの説得とハドリアヌスを慕う兵士達の反乱への恐怖によって辛うじて承認された<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』70,1,2.</ref>。
 
== 家系図 ==
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<blockquote>ハドリアヌスの治世は称賛に値するものであったが、その治世の最初と最後に恣意的かつ道理に反して命を奪った事で多くの[[ローマ市民]]に憎まれた。だが、彼は決して他人の血を欲していた訳ではなく、自身と対立した者に対してさえ、彼らの悪口をその国元に書き送るだけで満足していた。
 
ー[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』69,23,2.</blockquote>ハドリアヌスは文化、安全保障、人材登用等様々な政策で大きな成果を挙げ、[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]をはじめとした多くの遺構からもその治世における繁栄をい知ることができる。後世からはハドリアヌスの時代こそが[[プリンキパトゥス|元首政期]][[ローマ]]の最盛期と見做される事も多く、[[プリンキパトゥス|元首政]]の創始者たる[[アウグストゥス]]にも比されるほどの評価を得ている。また、後継者である[[アントニヌス・ピウス]]やその後の[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]初期の治世で円滑な統治が行われた事はハドリアヌスの施策に負う所が大きく、この点かったと大きな功績と言えされる{{sfn|ストラウフ|p=318-319}}。
 
しかし、後世から高く評価される一方で同時代人からの評価は低く、特に[[元老院]]からは4[[元老院議員]]処刑事件や後継者指名時の流血から[[暴君]]として恐もさられていた。また、後世での評価にも[[アンティノウス]]の死後にはそれまでの慎重かつ穏便な姿勢を欠くようになり、それが[[バル・コクバの乱|第二次ユダヤ戦争]]や後継者指名時の混乱を招いたとの指摘も存在する{{sfn|南川|p=163-164}}。[[元老院]]との不和は治世において終始付きまとい評価を下げる大きな要因となったが、これは自身の出身派閥であった[[ヒスパニア]]閥と伝統的な[[イタリア]]閥の対立に原因があったとされ、繁栄裏で繰り広げられた権力闘争という[[五賢帝]]時代の光と影両面顕著に示し持ち合わせた人物であったと言える{{sfn|南川|p=176,229}}。
ー[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』69,23,2.</blockquote>ハドリアヌスは文化、安全保障、人材登用等様々な政策で大きな成果を挙げ、[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]をはじめとした多くの遺構からもその治世における繁栄を伺い知ることができ、後世からはハドリアヌスの時代こそが[[プリンキパトゥス|元首政期]][[ローマ]]の最盛期と見做される事も多く、[[プリンキパトゥス|元首政]]の創始者たる[[アウグストゥス]]にも比古される評価を得ている。また、後継者である[[アントニヌス・ピウス]]やその後の[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]初期の治世で円滑な統治が行われた事はハドリアヌスの施策に負う所が大きく、この点も大きな功績と言える{{sfn|ストラウフ|p=318-319}}。
 
しかし、後世から高く評価される一方で同時代人からの評価は低く、特に[[元老院]]からは四[[元老院議員]]処刑事件や後継者指名時の流血から[[暴君]]として恐れられていた。また、[[アンティノウス]]の死後にはそれまでの慎重かつ穏便な姿勢を欠くようになり、それが[[バル・コクバの乱|第二次ユダヤ戦争]]や後継者指名時の混乱を招いたとの指摘も存在する{{sfn|南川|p=163-164}}。[[元老院]]との不和は治世において終始付きまとい評価を下げる大きな要因となったが、これは自身の出身派閥であった[[ヒスパニア]]閥と伝統的な[[イタリア]]閥の対立に原因があったとされ、繁栄とその裏で繰り広げられた権力闘争という[[五賢帝]]時代の光と影を顕著に示した人物であったと言える{{sfn|南川|p=176,229}}。
 
== 人柄と人間関係 ==
<blockquote>ハドリアヌスとは一人の人間でありながら厳しくも温和、高潔な遊び人、遅疑逡巡する韋駄天、豪快な臆病者、誠実な詐欺師、残忍な仁君であり、常に捉え所の無い人間だった。
 
 
ー[[ローマ皇帝群像|『ヒストリア・アウグスタ』]]12.11</blockquote>
ハドリアヌスは寛容だが嫉妬深く気まぐれでもあったとされ、その人間性を知る事は容易ではない。
 
若い頃より[[ギリシャ|ギリシア]]文化に傾倒して[[アテナイ]]を何度も訪れ、[[ティヴォリ|ティボリ]]に築いた広大な[[ヴィラ]](別荘)には多くの[[ギリシャ|ギリシア]]由来の[[美術品]]が陳列されていた。また、[[詩]]や[[哲学]]など様々な分野に深い関心を持ち、高身長で頑健な体で武勇にも秀で、[[狩猟]]で[[イノシシ|猪]]を一撃で仕留める程の腕前を持っていた{{sfn|ストラウフ|p=272,292,318}}。一方で[[ギリシャ|ギリシア]]文化への傾倒はかつて[[暴君]]とされた[[ネロ]]を彷彿とさせて[[元老院]]から恐れられる一因ともなり、また後継者である[[アントニヌス・ピウス|アントニヌス]]はハドリアヌスの[[アンティノウス]]への過度な寵愛に反発しを快く思っていなかったともされる{{sfn|南川|p=176,184}}。
 
[[ローマ皇帝|元首]]就任の際に助力したともされるプロティナに対しては終生敬意を払い、[[132年]]に亡くなった際には9日間喪に服した上で[[神格化]]している。妻サヴィナとの間には子供がおらず、[[アンティノウス]]への寵愛もあり不仲であったともされるが、秘書であり後に[[歴史家]]となる[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]をサヴィナに対して必要以上に馴れ馴れしく接したとして解任している{{sfn|ストラウフ|p=277-278,297-300}}。
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[[スキタイ]]人どもと厳冬に我慢せにゃならんなんぞまっぴらだ。
 
 
 
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ぶくぶくに太った害虫どもに我慢せにゃならんなんぞまっぴらだ。
 
ー詩人[[:en:Works attributed to Florus{{仮リンク|フロルス(英語版)]]|en|Florus}}の詩とそれに対するハドリアヌスの詩([[ローマ皇帝群像|『ヒストリア・アウグスタ』]]16.3)</blockquote>
*'''公衆浴場'''
ハドリアヌスはしばしば民衆に混ざって[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]を利用したが、かつて自身の指揮下にいた退役兵が体を拭かせるための[[奴隷]]を所有していないため壁に背中をこすりつけて垢を落としているのを見つけ、[[奴隷]]と賜金を与えた。これを知った老いた市民達が恩顧に預かろうと浴場の壁に背中をこすりつけるようになり、それを見たハドリアヌスは市民達に互いの背中を磨くよう指示した<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝17,6-7.</ref>。また、[[スパイ|密偵]]に監視させていた人物が[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]に入り浸って家に帰らない事を妻が心配していると知り、後日その人物に家庭を顧みるよう叱責したという<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝11,6.</ref>。
176 ⟶ 166行目:
旅の途中ある女性から訴えを受けた際、当初は時間がないと相手にしなかったが、「ならば[[ローマ皇帝|元首]]なんぞおやめになるがよい」と言われて訴えを聞き入れたという<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,6,3.</ref>。また、処刑したセルウィアヌスを高く評価していたとされ、宴席で出席者に「ローマを統べるに相応しい者を10人挙げよ。いや、やはり9人でよい、一人は分かっている、セルウィアヌスだ」と述べたという<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,17,3.</ref>。
*'''議論と反論'''
[[哲学]]に関する議論を好んだが批判に対しては狭量だったともされ、[[哲学者]][[:en:Favorinusパボリノス|ファヴォリヌス(英語版)]]はハドリアヌスに対して持論を撤回した事を後日、友人に指摘された際「30もの[[ローマ軍団|軍団]]を従えているお方の意見は私の意見なんぞよりも遥かに正しいものなのだよ」と皮肉ったという<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝15,11-13.</ref>。また、[[ウェヌスとローマ神殿|ウェヌスとローマの神殿]]建設の際に[[建築家]][[ダマスカスのアポロドーロス|アポロドロス]]に意見を求めたところ「カエサルの案では天井が低すぎて[[女神]]が身動き取れません」と小馬鹿にされて激怒し、[[ダマスカスのアポロドーロス|アポロドロス]]を処刑したと言い伝えられている<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,4,1-6.</ref>。
*'''髭を生やした元首'''
ハドリアヌスの[[彫像]]にはそれまでの[[ローマ皇帝|元首]]の[[彫像]]に無かった髭が描かれるようになり、この傾向は以後の[[ローマ皇帝|元首]]にも受け継がれて[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]まで続く事となる。ハドリアヌスが髭を蓄えるようになったのは髭を生やす事が美徳だと考えられていた[[ギリシャ|ギリシア文化]]への敬意のためだったとされ、同時代のローマ人エリート層の間でも髭を生やす習慣が急速に広まっていった{{sfn|ストラウフ|p=271}}{{sfn|南川|p=125}}。
 
== ハドリアヌスが登場する作品 ==
* [[マルグリット・ユルスナール]]『[[ハドリアヌス帝の回想]]』(1951年)
* 漫画 『[[テルマエ・ロマエ]]』
* [[ヤマザキマリ]] 『[[テルマエ・ロマエ]]』(2008-2013年)
** 上記このマンガを映画化した『[[テルマエ・ロマエ#映画|テルマエ・ロマエ]]』(2012年)、『[[テルマエ・ロマエ#第2作|テルマエ・ロマエⅡ]]』(2014年)では、[[市村正親]]がハドリアヌスを演じた。
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|南川}}|author=南川高志|authorlink=南川高志|title=ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像|publisher=[[講談社学術文庫]]|year=2014|ISBN=978-4-06-292215-9}}
* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|ストラウフ}}|author=バリー・ストラウフ|authorlink=バリー・ストラウフ|title=10人の皇帝たち 統治者からみるローマ帝国史|publisher=[[青土社]]|year=2021|ISBN=978-4-7917-7389-3}}
* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|本村}}|author=本村凌二|authorlink=本村凌二|title=教養としてのローマ史の読み方|publisher=[[PHP研究所]]|year=2018|ISBN=978-4569837802}}
{{ローマ皇帝}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ローマ皇帝]]
[[Category:ハドリアヌス|*]]
[[Category:バイセクシュアルの男性]]
[[Category:ネルウァ=アントニヌス家]]
[[Category:バイセクシュアルの人物]]
[[Category:LGBTの王族]]
[[Category:ギリシア詞華集のエピグラム詩人]]