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{{Infobox 事故
|image = [[Image:Toya-Maru Disaster.JPG|320px]]
|caption = 転覆し船腹を見せる洞爺丸。画面奥に停泊しているのは貨物船「第六真成丸」
|date = [[1954年]]([[昭和]]29年)[[9月26日]]
|time = 22時45分ごろ(JST)
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: 台風接近のため、[[函館地方気象台|函館海洋気象台]]が暴風警報を発表<ref>坂本幸四郎『青函連絡船』p151 朝日イブニングニュース社1983</ref>。
; 12時40分頃
: 函館から青森へ向かっていた62便(貨物便)[[石狩丸 (初代)#渡島丸(初代)|渡島丸]]より、津軽海峡中央から「[[風速]]25メートル、波8、[[うねり]]6、[[動揺]]22度<ref group = "注">「波」とは[[波浪階級]]のことで8は「非常に荒れている」を示し波高9 - 14mとなる。通常航海では最高ランクに当たる9(「異常な状態」)はなく、洞爺丸が沈没直前に打電したときでも8であった。動揺も20度を超すと何かに掴まっていないと立っていられない。</ref>、[[針路]]南東で難航中」との通報が入る。危険を感じた後続の54便(貨物便)[[第五青函丸#第六青函丸|第六青函丸]]と1202便(客貨便)[[第五青函丸#第十一青函丸|第十一青函丸]]は、津軽海峡に差し掛かったところで運航を中止し、函館へ引き返した<ref>『台風との斗い』p9,p19 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref><ref name="renrakusen125126">坂本幸四郎『青函連絡船』p125、126 朝日イブニングニュース社1983</ref><ref name="toyamarutempuku5152">田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p51、52 成山堂書店1997</ref>。
; 15時10分
: 第十一青函丸の乗客(アメリカ軍関係者57名、日本人119名<ref name="toyamarutempuku52">田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p52 成山堂書店1997</ref>)と車両(1等寝台車[[国鉄スハ32系客車#寝台車(二重屋根車)|マイネフ38]] 5、荷物車マニ32 16<ref>『洞爺丸台風海難誌』p218 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref>KE生「駐留軍専用列車(西海・筑紫・十和田)」『鉄道ピクトリアル』15巻8号p58-62 1965</ref><ref>古川達郎『鉄道連絡船細見』p145-149 JTBパブリッシング2008</ref>)を洞爺丸へ移乗させることになったが、荷物車の積込みに時間がかかっていた。これ以上遅れると、台風が来るまでに[[陸奥湾]]内へ逃げ込めなくなるため<ref>田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p51 成山堂書店1997</ref>、これ以上の車両積込を拒否して船尾の[[可動橋]](車両を載せるために船体後部にかけられる橋)を上げようとした。しかし、この日は[[函館市]]内で断続的に発生していた停電のために可動橋が上がらず、出港の見通しが一時的に立たなくなったため、台風接近の影響も考慮して運航を見合わせた。停電はわずか2分間であったが、出航見合わせの決定は取り消されず<ref>田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p54 成山堂書店1997</ref>、引き続き寝台車の積込みが行われた。もしこのとき出港していれば、難航はしただろうが洞爺丸は間違いなく無事に青森に着いていたであろうと言われている<ref group = "注">実際に14時40分に青森を出航した十勝丸は18時50分頃函館港外に碇泊している。</ref><ref>『洞爺丸転覆の謎』p.54</ref>。
; 17時00分頃
: 函館では土砂降りの後に風が収まり晴れ間ものぞき、[[台風の目]]が通過したことを思わせた<ref group = "注">函館海洋気象台でも「台風の目」を観測したとして[[札幌管区気象台]]に通報している。</ref>。当時の函館海洋気象台の観測では気圧は983.3ミリバールで、中央気象台の発表した台風の中心気圧より高かったが、風速は15時に19.4メートルに達したのち衰え、17時には17.3メートル、18時にはさらに13.7メートルに弱まっている<ref>浅井栄資・巻島勉 『気象と海象』 天然社 1963年初版</ref>。近藤船長は、台風の速度から天候の回復は早いものになるとみて、津軽海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に絶対の自信を持っていたことで出航を決断した。17時40分頃、出航時刻を18時30分とすることを発表した<ref name="#1"/><ref group = "注">一方、[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]の船長は、風が弱くなったのは台風の目に入ったことに由ると見て、出航を延期した。結果として羊蹄丸は沈没を免れている。</ref>。しかし、この一時的な天候回復は台風の目に入った影響ではなく、実際には[[閉塞前線]]の通過であったと考えられている<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.60</ref>。事故当時は、[[気象衛星]]の観測やコンピューターを使ったデータ解析による予報は存在しなかったことにも留意する必要がある<ref group = "注">最初の気象衛星は1960年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が試験的に打ち上げた「タイロス1号」である。</ref>。
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:洞爺丸は[[SOS]]を発信する。しかし陸上の関係者は、このSOSは座礁したことによって発信されたものであるとは理解できず、沈没にまで至ることを予想することはできなかった<ref group = "注">打電された地点の水深は海図上では12mある(洞爺丸の喫水は5m)ことから座礁自体が想像できないことであり(波浪のため海底に砂が堆積していたと思われる)、ましてや座礁して着底している船舶がさらに横倒しになるとは、想像できなかった。</ref>。
; 22時43分頃
: 船体を支えていた左舷錨鎖が激しい波浪に耐えきれず断裂した。この時点で船体は[[復原性|復原力]]を失っていたとされるが、[[ビルジキール]](船底の横揺れ防止フィン)が乗り上げた海底の砂に刺さったためであるともいわれている。この時に船体は大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに転覆した。機関停止後もボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続け、船内の灯りは沈没5分前まで点燈していた。
; 22時45分頃
: 洞爺丸は、函館港防波堤灯台付近の地点(337°、2500m)で右舷側に約135度傾斜、船底を上にし、七重浜の海岸線に対して船体を平行の状態にして沈没するに至った<ref name="#1"/>。最後には船体がほぼ裏返しになり、海面上に船底を曝し、海底に煙突が刺さった状態になったといい、この洞爺丸だけでも乗員乗客1,314人のうち、乗員114人、乗客1,041人の計1155人が死亡または行方不明となった。救助された生存者は159人だった。
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この事故では、国鉄本社での[[鉄道管理局]]長会議に出席する途中だった浅井政治・[[北海道旅客鉄道鉄道事業本部|国鉄札幌]]総支配人と[[北海道旅客鉄道旭川支社|旭川]]・[[北海道旅客鉄道釧路支社|釧路]]の[[鉄道管理局]]長も巻き込まれて犠牲となり、[[北海道]]遊説の帰途だった[[冨吉榮二]]元[[逓信省|逓信大臣]]と[[菊川忠雄]][[衆議院|衆議院議員]]も遭難。元衆議院議員の[[冨永格五郎]]や元[[宝塚歌劇団|宝塚]][[俳優|女優]]の[[佐保美代子]]などの著名人や[[劇団中芸|劇団中央芸術劇場]]所属の6人の団員も犠牲者の中に含まれている。逆に、当時[[中央競馬]]の[[調教師]]であった[[西塚十勝]]は、転覆した便の切符を持ちながらも私用で乗り遅れたこともありこの便には乗船せず難を逃れ、[[漫才師]]の[[Wけんじ]]の二人([[東けんじ]]、[[宮城けんじ]])も東が深酒し乗り遅れたために難を逃れ、一時期乗船が伝えられた[[川村善八郎]]衆議院議員も、その後誤報と判明し自身は遭難現場へと駆けつけている。
 
なお、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ<ref group = "注">[[七重浜駅]]から救難本部に遭難者漂着の報告が入ったのは23時15分頃。偶然付近を通りかかった運送会社の[[貨物自動車|トラック]]が生存者を乗せて万代町の[[交番]]に届け出たのが23時35分頃。受け付けた[[日本の警察官|警官]]は最初「洞爺丸ってのは青函連絡船だろう。あの船が沈むことがあるものか。いい加減なことを言うと承知しないぞ」と言ったといわれる。また、洞爺丸に隣接する形で第六真盛丸(2209トン、大阪・原商船所属)が座礁したが、暴風によるアンテナ線切断により自船のSOSの送信も洞爺丸のSOSも受信できず、洞爺丸沈没を知ったのは非常配置中の船員が最初に救助した二等機関士と乗客各1名からであった。その後暴風の中アンテナ線の張り替えに成功し、0時18分石狩丸を通じて救難本部に通報。20名を救助している。</ref>、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたもののそこで力尽きて亡くなった者が相当数いたという話もあり、{{要出典範囲|「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死した後に娘の夫から、娘一家は乗船しておらず無事という旨の[[電報]]が届いたという悲話も残る。|date=2022年9月}}多くの犠牲者が一度に発生したことから既存の火葬場では処理が追いつかず七重浜に仮設の火葬場が設けられ<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.106</ref>、更に身元照会の混乱から遺族になりすまし補償金を詐取しようとする事件まで発生した<ref name="#2">『洞爺丸転覆の謎』p.114</ref>。
 
事故直後「荒天での無理な出航は一等に乗船していた浅井総支配人及び旭川・釧路・青函<ref group = "注">浅井総支配人一行と同じ国鉄本社での会議に参加予定ではあったが、都合により洞爺丸では同行せず後続便での上京を予定していた。</ref>局長らが国鉄本社での会議に間に合わせるために船長に出航を強要したものだ」との新聞記事が出され、後年になっても事故の一因として語られるが、これは一等から出航前に下船して事故を免れた乗客の放言によるところが大で、青函局長や乗組員の証言によると連絡船が遅れた場合に備えた切符の手配<ref group = "注">出航見通しが不明だったため青森5時20分発急行「みちのく」特別二等と18時40分発急行1202列車(「[[連合軍専用列車|特殊列車]]」)一等寝台の二段構えの手配をするとともに、千歳発の航空機も検討していた。</ref>をしていたので、船長に出航を強要する必要はなかったと否定している<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.58</ref>。
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* 十勝丸(2,912トン):23時43分葛登支灯台沖8kmにて転覆沈没。乗員59名殉職<ref group = "注">未発見遺体は無し。</ref>、生存者17名<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.88 -、p.129</ref>。
 
洞爺丸以外の4隻が函館港外での停泊を選択した背景には、台風から避難する船舶で港内が混雑していることもあったが、当時港内[[係船浮標|ブイ]](ムアリングブイ)に係船されていた[[貨物船]]エルネスト(アーネスト)号([[イタリア]]船籍・7,341トン)が16時30分頃港内で走錨事故を起こしたことも背景にある<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.62</ref>。この時函館港内にある船舶では最大だったエルネスト号は5月に[[メキシコ]]から[[石炭]]を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損、函館に回航後[[スクラップ]]前提の状態で係留されており、荒天操船に必要な人員がいなかった。連絡船の船長たちはエルネスト号が再度走錨した時に、狭い港内でかわすことに不安を感じていたといわれている。
 
また、沈没には至らなかったものの、[[アメリカ海軍]]の[[LST-1級戦車揚陸艦]][[:en:USS LST-546|LST-546号]](2,319トン)が座礁して難を逃れた、などの記録が残っている<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.66</ref>。更に[[海難救助]]にあたっていた[[海上保安庁]]の[[はつなみ型巡視艇]]「うらなみ」も二次遭難している(乗員は全員救助)<ref>{{Cite web|和書|author=[[国立国会図書館]]|authorlink=国立国会図書館|date=1954-09-29|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101903830X04019540929|title=第019回国会 運輸委員会 第40号||accessdate=2016/-11/-27}}</ref>。
 
一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では[[1912年]]の[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]沈没、[[1865年]]の[[サルタナ|サルタナ号]]火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった<ref group="注">2017年時点では[[ドニャ・パス号]](諸説あり)、[[ジョラ号]](戦争により沈没した船舶では[[ヴィルヘルム・グストロフ (客船)|ヴィルヘルム・グストロフ]]、[[ゴヤ (貨物船)|ゴヤ]])などの犠牲者数が上回っている。</ref>。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった。
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2月25日、[[東京大学]]加藤弘[[教授]]らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出。
* 機関室等への漏水によるエンジン停止の原因となった車両甲板への海水の滞留は、水槽実験により波高6m、波周期9秒のときに最大量となることが判明<ref group = "注">つまり、洞爺丸にとってまさしく最悪の波であった。</ref>。この値は観測による推定値とほぼ一緒同じであった<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.154</ref>。
* 車両甲板上の滞水量は試算により250トン以下とされ、[[復原性|復原力]]には影響を及ぼすものではないとされた<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.155</ref>。
* 七重浜での転覆は水槽による座州実験の結果、漂流中に右舷[[船舶工学#ビルジキール|ビルジキール]]<ref group = "注">船首から船尾にかけて船底両舷設けられる鰭であるが、洞爺丸のものは長さ43m、幅60cm、厚さ16mmである。</ref>が漂砂に引っかかったため船体が一点支持となり、そこへ大波が襲ったために転覆したと推定された<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.156</ref>。
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国鉄は内容を不服として[[東京高等裁判所]]に裁決取り消しを求めて提訴したが、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]したものの、[[1961年]]4月20日に上告を[[棄却]]して裁決が確定した。
 
一方、審判進行中から殉職した船長が'''弁明の機会のないまま一方的に断罪される'''ことについて疑問視する意見が出ていたが、その後され、海難審判庁で行われた海難審判制度改革の議論の中で「海難で船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」との意見がまとめらたため、その後船長が殉職した海難事故では裁決理由の中に船長が出たとしても、「『船長の職務上の過失』の語句は使用しないと申し合わされることとなった。
 
== 事故のその後 ==
この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、蒸気機関への重油燃焼装置や自動給炭機の設置<ref group = "注">大雪丸や摩周丸等の車載客船についてはボイラー燃料の重油転換による重油燃焼装置の設置、青函丸や石狩丸といった車両渡船については自動給炭機の設置。</ref>、客載車両渡船(第十二青函丸、石狩丸)の車両甲板上にある旅客室の撤去による重心の低下化等が行われ、青函連絡船の運航についても、出航判断等は船長による決定に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等の改善措置が図られた。
 
また、この事故以降に新造される連絡船の船体構造についても、主機関のディーゼルへの転換、車両積載口への水密扉の採用、車両甲板下の旅客区画の廃止、機関室から車両甲板への開口部の全廃、凌波性・復元性の向上、船底部水密区画及び水密扉の設置、操舵性向上のための二枚舵が採用されるなど設計が大きく変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。その結果、その後[[1988年]]の終航まで、青函連絡船で2度と洞爺丸事故級の大事故がおきることはなかったが、この事故をきっかけに、本州と北海道を地続きにする[[青函トンネル]]構想が急速に具体化された。
 
なお、この事故をきっかけに、本州と北海道を地続きにする[[青函トンネル]]構想が急速に具体化された。
 
=== 遭難した5隻と積載車両のその後 ===
[[File:Toya-maru 1955.JPG|thumb|250px|浮揚され、港へ曳航された洞爺丸]]
洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造(特に右舷側)の損傷が著しく、現場検証後に解体された。また、第十一青函丸、北見丸も引き揚げ後の調査で船体の損傷が著しいことが判明し、同じく解体された。一方、十勝丸と日高丸は引き揚げ後の調査で車両甲板より上部の船体を新製(引き揚げ時、車両甲板より上すべてわれていたものの、損傷が軽微であったことや喪失部分を新製すれば再使用可能であることが分かり、喪失部分の船体を新製して[[1956年]]に航路に復帰。日高丸は[[1969年]]、十勝丸は最後の蒸気タービン船として[[1970年]]まで使用された。

また、第十一青函丸から洞爺丸に積み替えられた[[国鉄スハ32系客車#寝台車(二重屋根車)マイネフ37230形 → マイネフ38形|マイネフ38 5]]は翌[[1955年]]7月の等級制変更によりマロネフ49 5となったものの、マロネフ49 5は現車が存在しない書類上だけの車号となった。り、同じく洞爺丸に積まれた[[国鉄70系客車#製造後|スニ73 1、マニ76 91]]と共に本船の[[保全命令]]が解かれた同年10月に正式に廃車手続きが取られた。
 
== 慰霊碑 ==
* {{ウィキ座標|41|49|10.7|N|140|41|39.8|E|region:JP|台風海難者慰霊之碑}} - 北海道北斗市七重浜7丁目。事故の翌年に犠牲者を悼む慰霊碑<ref group = "注">殉職船員については空襲による戦没船員とともに函館山麓の「青函連絡船海難者殉難碑」に合祀されている。</ref>が建てられた。
[[ファイル:memorial_of_the_Toya-Maru_Disaster.jpg|thumb|200px|洞爺丸慰霊碑(北海道[[北斗市]]七重浜)]]
* {{ウィキ座標|41|45|28.9|N|140|42|42.4|E|region:JP|青函連絡船海難者殉難碑}} - [[函館護国神社]]の近く、函館山登山道口付近にあり、もとは戦時中に殉職した職員の霊を慰めるために 1953年(昭和28年)に建立されたものだが、洞爺丸台風での殉職者も後に合祀されている。
 
* {{ウィキ座標|4140|49|1014.72|N|140|41|3919.86|E|region:JP|台風海洞爺丸遭難者慰霊}} 北海道北斗- [[青森七重浜7丁目。事故]]翌年三内霊園犠牲青森県民の遭難を悼む慰霊碑<ref group = "注">殉職船員については空襲による戦没船員ともに函館山麓の「青函連絡船海難トンネル事故殉職殉難碑」に合祀されている。</ref>が建てられ、現在も海峡を行く船を静かに見守っている。
<gallery>
* {{ウィキ座標|41|45|28.9|N|140|42|42.4|E|region:JP|青函連絡船海難者殉難碑。}} [[函館護国神社]]の近く、函館山登山道口付近にあり、もとは戦時中に殉職した職員の霊を慰めるために 1953年(昭和28年)に建立されたものだが、洞爺丸台風での殉職者も後に合祀されている。
[[ファイルFile:memorial_of_the_Toya-Maru_Disaster.jpg|thumb|200px|洞爺丸台風海難者慰霊碑(北海道[[北斗市]]七重浜)]]
* {{ウィキ座標|40|49|14.2|N|140|41|19.6|E|region:JP|洞爺丸遭難者慰霊碑。}} [[青森市]]の三内霊園に青森県民の遭難者と青函トンネル事故殉職者が合祀されている。
File:Cenotaph for Seikan Ferrymen 002.jpg|青函連絡船海難者殉難碑(函館市)
File:Cenotaph for the shipwreck of Toya-Maru (Aomori Sannai Cemetery).jpg|洞爺丸遭難者慰霊碑(青森市三内霊園)
</gallery>
 
== エピソード ==
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* 国鉄職員の[[殉職]]者の遺体[[捜索]]は後に回され、乗客のいなかった4隻に潜水夫が入ったのは事故から10日を経過してからのことであった<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.107 - 108</ref>。
* 明らかに自殺をほのめかす遺書を携えた遺体が揚がり、投身自殺で死亡したのか、事故で死亡したのかが問題となった。最終的には事故で死亡したと判断された<ref name="#2"/>。
* 当時[[日本中央競馬会]](JRA)所属の[[西塚十勝]][[調教師]]も洞爺丸に乗船予定だったが、直前に知人から[[湯の川温泉 (北海道)|湯ノ川温泉]]での宴会に誘われ、出席して船に乗りそびれたため結果的に命拾いしている。西塚はこの他にも[[関東大震災]]・[[ばんだい号墜落事故|ばんだい号墜落]]・[[ホテルニュージャパン火災]]など様々な事故・災害に遭遇しながら全てすんでの所で難を逃れており、「厄除け大師」と綽名された。
* 洞爺丸など青函連絡船5隻沈没の大海難事故に対し、各国から弔電が寄せられた<ref>『洞爺丸転覆の謎』p.119</ref>。
* [[昭和天皇]]は事件の一カ月前、[[昭和天皇の戦後巡幸|戦後巡幸]]の総仕上げとして洞爺丸で津軽海峡を渡り、北海道を訪れていた。天皇は本事故発生の報に悲嘆の思いを持ち『'''その知らせ 悲しく聞きて わざはひを ふせぐその道 疾くとこそ祈れ'''』と御製(和歌)を詠んだ<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url= http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/kanko/miru/%E8%87%AA%E7%84%B6/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF/|title= トンネルメモリアルパーク|website= |publisher= [[北海道]][[松前郡]][[福島町]]|accessdate=2019-08-25}}</ref>。