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「DANDANだんく!」(だんだんだんく!)はとだ勝之による日本の漫画。
 
{{出典の明記|date=2019年9月}}
{{基礎情報 武士
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| 画像 = Tokugawa Yorinobu.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = 和歌山県立博物館蔵 紙本著色徳川頼宣像(南龍公神影図)<br>[[和歌山県立博物館]]蔵
| 時代 = [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[慶長]]7年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[1602年]][[4月28日]])
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| 諡号 =
| 神号 = 南龍大神
| 戒名 = 南院殿従二位亜相顗永天晃大居士<br/>南龍院殿二品亜相永天晃大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[長保寺|慶徳山長保寺]]([[和歌山県]][[海南市]]の[[長保寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[侍従]]、[[常陸国司|常陸介]]、[[従三位左近衛権中将]][[参議]][[右近衛中将従三位]][[中納言|権中納言]]、[[従二位]][[大納言|権大納言]]、[[贈位|贈]][[正二位]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]→[[徳川家綱|家綱]]
| 藩 = [[常陸国|常陸]][[水戸藩]]主→[[駿河国|駿河]][[駿府藩]]主→[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]
| 氏族 = [[徳川氏]]([[徳川宗家|将軍家]]→[[紀州徳川家|紀伊家]])
| 父母 = [[]]:[[徳川家康]]、[[]]:[[養珠院|於万蔭山殿]]
| 兄弟 = [[松平信康]]、[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]、[[督姫]]、[[結城秀康]]、[[徳川秀忠|秀忠]]、[[松平忠吉]]、[[正清院]]、[[武田信吉]]、[[松平忠輝]]、[[松平松千代]]、[[松平仙千代]]、[[徳川義直|義直]]、'''頼宣'''、[[徳川頼房|頼房]]、[[市姫]]ら
| 妻 = [[御簾中]]:'''[[瑤林院|八十姫(瑤林院)]]'''<br/>[[側室]]:理真院、山田氏、越智氏
| 子 = '''[[徳川光貞|光貞]]'''、茶々姫、修理、[[松平頼純]]、松姫
| 特記事項 =
}}
'''徳川 頼宣'''(とくがわ よりのぶ)は、[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]の初代藩主。[[紀州徳川家|紀州(紀伊徳川家]]の祖。幼名は'''長福丸{{Sfn|藩主人名事典和歌山県史さん委員会|19871990|p=26747}}'''、[[元服]]に伴い'''頼将'''(よりのぶ)と名乗り、[[元和 (日本)|元和]]年中に'''頼信'''、さらに'''頼宣'''に表記を改める<ref groupname="注釈:0">[[諱]]の一文字目については[[{{Cite web |url=https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/tokugawa2019/frameset.htm |title=徳川頼宣と紀伊徳川家]]が[[清和源氏|源氏]]末裔であることを示すために、その[[通字]]の一つである「'''頼'''」の字を用いたものとみられる{{要出典名宝 |access-date=2022年3月2024-05-04 |publisher=和歌山県立博物館}}</ref>。なお、'''頼将'''(よりまさ)と読む文献もある{{Sfn|長谷川|2011|pp=129}}
 
== 生涯 ==
[[慶長]]7年([[1602年]])3月7日、[[徳川家康]]の十男として[[伏見城]]で生まれた{{Sfn|国史大辞典編集委員会|2006|p=301}}{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}。家康61歳。母は[[養珠院|蔭山殿]]。童名は長福(長福丸)といい、叔父・[[松平定勝]]の幼名を与えられた{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=103}}。[[徳川頼房]]の同母兄{{Sfn|浜田|1942|p=40}}。
[[徳川家康]]の十男として生まれる<ref>{{Citation|和書|editor=勝浦市史編さん委員会|title=勝浦市史 通史編|year=2006|page=406}}</ref>{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=266}}。慶長8年([[1603年]])11月、2歳にして、異母兄[[武田信吉]]の遺領、[[常陸国|常陸]][[水戸藩]]20万石を与えられる{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=266}}。慶長9年([[1604年]])12月、5万石加増{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=266}}。頼宣は水戸には入らず、駿府の家康の許で育てられた{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|pp=266-267}}。慶長11年([[1606年]])、家康に従い[[京都]]に上り[[元服]]する。他の[[国持大名]]に伍させるため家康の意向により常陸介<ref group="注釈">常陸は親王任国であるため介が守と同等とされる</ref>に叙任される。
 
慶長8年([[1603年]])9月11日、異母兄・[[武田信吉]]が死去{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=103}}。同年11月7日、2歳にして、信吉の遺領である[[常陸国]][[水戸藩|水戸]]20万石を継いだ{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=103}}{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=47}}。同年、幕臣で、伯父にあたる[[三浦為春]]が頼宣の{{読み仮名|[[傅]]|もり}}となった{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=47}}{{Sfn|浜田|1939|p=8}}。同9年([[1604年]])12月、5万石加増{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=266}}{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=47}}。頼宣は水戸には入らず、伏見城や[[江戸城]]の家康のもとで育てられた{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=48}}。
慶長14年([[1609年]])、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主[[加藤清正]]の次女八十姫と婚約。翌年9月、徳川家より結納使として傅役[[三浦為春]]が清正の領国肥後国に下って納幣。同年12月、[[駿府藩]]50万石に転封された{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。
 
慶長11年([[1606年]])8月11日、[[元服]]する{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}。[[従四位下]][[侍従]]に任じられ、徳川常陸介頼将と名乗る{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}{{Efn2|常陸は親王任国であるため介が守と同等とされる。}}。同12年([[1607年]])、幕府[[大番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]・[[水野重仲]]も頼宣の傅となる{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=47}}。同13年([[1608年]])、父・家康が[[駿府]]で[[大御所政治]]を始めると、頼宣も同所に移った{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=48}}。
慶長16年([[1611年]])、家康と[[豊臣秀頼]]が京都[[二条城]]で会見を行った際は異母兄[[徳川義直]]と共に[[東寺]]まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、義直と共に返礼の[[名代]]として[[大坂城]]の秀頼を訪問する。
 
慶長14年([[1609年]])、家康の命を受けた傅役・三浦為春が[[加藤清正]]のもとに赴き、清正の息女・八十姫([[瑤林院]])を頼宣の[[正室|室]]に迎える旨を伝えた(翌年9月、為春は、清正の領国・[[肥後国]]に下って婚礼の吉儀を納めた){{Sfn|浜田|1939|p=9}}。
慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]で初陣を飾り、[[天王寺]]付近に布陣した。翌年[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では[[天王寺・岡山の戦い]]で後詰として活躍した。
 
慶長14年12月、頼宣は[[駿河国]]・[[遠江国]]および[[東三河#歴史|東三河]]、計50万石に[[転封]]された{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=48}}。同15年([[1610年]])、[[安藤直次]]も傅となった{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=49}}。
[[元和 (日本)|元和]]3年正月22日([[1617年]][[2月27日]])、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の清正の次女・八十姫([[瑤林院]])を[[御簾中]](正室)とする。
 
慶長16年([[1611年]])3月20日、[[参議]]・[[左近衛権中将]]となる([[左中将]]如元とある){{Sfn|黒板|1936|p=533}}{{Efn2|翌慶長17年([[1612年]])には、前参議となっている(従四位下・左中将如元){{Sfn|黒板|1936|p=537}}。}}。同月28日、[[豊臣秀頼]]が家康と会見するため[[二条城]]に来た際には、兄・義直とともに[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]まで出迎えた{{Sfn|堀内|1930|p=20}}。同年4月2日には、家康の[[名代]]として、義直とともに[[大坂城]]の秀頼を訪問した{{Sfn|堀内|1930|p=20}}。
元和5年([[1619年]])7月、[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]55万5千石に転封{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}、[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]の家祖となる。入国の前に家臣の戸田藤左衛門を派遣して、以前の領主[[浅野氏|浅野家]]に対する領民の不満などを調査させている{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。入国後は、[[和歌山城]]の改築、[[城下町]]の整備など、和歌山藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の[[国人]]を懐柔する[[地士]]制度を実施した{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。
 
『和歌山県史』では、この頃、安藤直次と水野重仲が、頼宣の傅から[[家老|年寄]]の最高位である[[付家老]](執政)に転じたと論じている{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=50-51}}。このことの第一の目的は、当時、[[譜代大名]]だった直次と、以前譜代大名だった重仲を付家老=家臣にすることで、頼宣に高い格を与えることだった{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=51}}。
[[寛永]]3年([[1626年]])8月、従二位に叙せられ、[[大納言]]に任じられた{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。[[慶安]]4年([[1651年]])の[[慶安の変]]において、[[由井正雪]]が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に[[松平信綱]]・[[中根正盛]]ら)に謀反の疑いをかけられ、10年間和歌山へ帰国できなかった<ref>[http://rekishi-club.com/?p=4995 中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索 /『歴史くらぶ』]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=童門冬二 / ここに付箋・・・さらりーまんで候■幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画|url=http://takesanwind.g2.xrea.com/book/doumon/sararimandesourou2.html|website=歴史小説浪漫|accessdate=2023-07-18|language=ja}}</ref>。
 
慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]で[[初陣]]を飾り、[[天王寺]]付近に布陣した。翌年の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では[[天王寺・岡山の戦い]]で後詰として活躍した。
同時期、[[明]]の遺臣・[[鄭成功]](国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また義直が死去し、格上の将軍[[徳川家綱|家綱]]が幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後、慶安の変に絡む疑いは晴れて無事帰国したが、いまだ拡張整備中だった[[和歌山城]]の増築を中止しなければならなかったとも言われる([[和歌山市]]にはこの伝承にちなむ「堀止」という地名がある)。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])4月、15歳のとき、父・家康が死去{{Sfn|浜田|1942|p=42}}。同3年([[1617年]])1月、婚約中だった八十姫を[[御簾中]](正室)に迎えた{{Sfn|浜田|1942|p=42}}。同年7月20日、[[従三位]][[権中納言]]となる。翌21日、権中納言を辞退{{Sfn|黒板|1936|p=547}}。
[[寛文]]7年([[1667年]])5月、病気のため、嫡男[[徳川光貞|光貞]]に跡を譲って隠居{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。[[寛文]]11年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1671年]][[2月19日]])死去した{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。享年70。[[法号]]は、南竜院殿二品前亜相顗永天晃大居士{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。和歌山藩主としての治世は47年9か月であり、この間の[[江戸]]参府19回、和歌山帰国18回、和歌山在国の通算は21年10か月であった。さらに隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国2回であった<ref>{{Cite book|和書|author=小山誉城|chapter=紀州徳川家の参勤交代|title=徳川将軍家と紀伊徳川家|publisher=精文堂出版|year=2011}}</ref>。覇気に富む人柄であったと伝えられている{{要出典|date=2022年3月}}。
 
元和5年([[1619年]])7月19日、18歳のとき、[[紀伊国]]・[[伊勢国]]のうちで計55万5千石への転封を命じられた(紀伊国は、[[高野山]][[寺領]]を除く37万4千石余り。伊勢国は、松坂・田丸・白子領の18万石弱。その他、[[大和国]]1000石余り){{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=53-55}}。この[[国替え]]は、外様大名[[浅野家]]の西遷、西国の監視や大坂城守護、江戸と[[京都|京]]および[[大坂]]を結ぶ[[海路]]を確保することなどを目的として行われたとされる<ref>{{Cite web |url=http://wakayamacity-bunkazai.jp/wakayamajo/ |title=和歌山城について |access-date=2024-05-04 |publisher=和歌山市 文化振興課 |website=和歌山市の文化財}}</ref>。
 
元和5年8月18日、紀州に入国した{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=56}}。頼宣は、自身の入国前に戸田隆重を派遣して、以前の領主・[[浅野氏]]の代官を務めていた旧土豪から浅野氏の支配の方法について聞き取りを行わせた{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=55}}。
 
入国後は、[[和歌山城]]の改築、[[城下町]]の整備など、和歌山藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の[[国人]]を懐柔する[[地士]]制度を実施した{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=107}}{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。
 
[[寛永]]3年([[1626年]])8月19日、[[従二位]][[権大納言]]に敘任された{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。
 
同時期、[[明]]の遺臣・[[鄭成功]](国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また義直が死去し、格上の将軍[[徳川家綱|家綱]]が幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも、幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。
 
[[慶安]]4年([[1651年]])7月の[[慶安の変]]において、[[由比正雪]]が頼宣の[[判物]]を偽造していた{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=133-135}}。幕府は、将軍・[[家綱]]が幼年の間は江戸に在府するよう命じ、帰国を許されたのは事件から8年後の[[万治]]2年([[1659年]])になってからだった{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=135}}。
 
[[寛文]]7年([[1667年]])5月、66歳のとき、嫡男・[[徳川光貞|光貞]]に跡を譲って隠居した{{Sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=85}}。
 
[[寛文]]11年([[1671年]])[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]、紀州で死去した{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。70歳{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}。[[法号]]は、南竜院殿前二品亜相顗永天晃大居士{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}。遺言により、[[長保寺|慶徳山長保寺]](紀伊国海士郡浜中荘上村)に葬られた{{Sfn|浜田|1942|p=44}}{{Sfn|続群書類従完成会|1970|p=41}}。
 
和歌山藩主としての治世は47年9か月であり、この間の[[江戸]]参府19回、和歌山帰国18回、和歌山在国の通算は21年10か月であった。さらに隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国2回であった<ref>{{Cite book|和書|author=小山誉城|chapter=紀州徳川家の参勤交代|title=徳川将軍家と紀伊徳川家|publisher=精文堂出版|year=2011}}</ref>。覇気に富む人柄であったと伝えられている<ref>{{Cite web |url=https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4649 |title=徳川頼宣~豪胆無比、幕府転覆の嫌疑あり? |access-date=2024-05-05 |publisher=[[PHP研究所]] |date=2019-02-27 |website=WEB歴史街道}}</ref>。
 
=== 死後 ===
明治8年([[1875年]])、県有志により南龍(南竜)神社が創建された{{Sfn|浜田|1942|p=45}}。
 
大正4年([[1915年]])11月、[[正二位]]を[[追贈]]された{{Sfn|浜田|1942|p=45}}。
 
== 諱の変遷について ==
はじめ{{読み仮名|'''頼将'''|よりのぶ}}と名乗る{{Sfn|浜田|1942|p=41}}(「よりまさ」と読む文献もある{{Sfn|長谷川|2011|pp=129}}<ref>{{Cite Kotobank|word=徳川頼宣|author=[[高木昭作]]|encyclopedia=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|access-date=2024-05-05}}</ref>)。[[元和 (日本)|元和]]年中に'''頼信'''、さらに'''頼宣'''に改める(頼宣と名乗るのは紀州入国後のことである{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=104}}){{Sfn|浜田|1942|p=41}}。
 
[[諱]]の一文字目については[[徳川家]]が[[清和源氏|源氏]]の末裔であることを示すために、その[[通字]]の一つである「'''頼'''」の字を用いたものとみられる{{要出典|date=2022年3月}}。
 
== 施策 ==
* 入部後、ただちに[[牢屋]]普請を命じている{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=107}}。
* 入国後、[[和歌山城]]を格式に相応しい城郭に改修しようとした{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=136}}。元和7年([[1621年]])には将軍秀忠から費用として銀2000貫を与えられている{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=136}}。
* 城下南部の[[外堀]]は、現在の[[神明神社 (和歌山市)|神明神社]]付近まで掘り進んだところで幕府から中止を命じられ、和歌道以西(現・[[国道42号]])を埋め戻したという{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=138}}。「掘留(堀止)」という地名はこのことに由来する{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=138-139}}。
* 万治3年([[1660年]])1月、59歳のとき、[[儒者]]・李梅渓に「父母状」の作成を命じ、領内に頒布した{{Sfn|浜田|1942|p=42}}<ref>{{Cite web |url=http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/469/ |title=李梅渓の墓 |access-date=2024-05-04 |publisher=和歌山市 文化振興課 |website=和歌山市の文化財}}</ref>{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=107}}。
 
== 逸話 ==
{{出典の明記|date=2022年3月|section=1}}
* 父・家康の晩年、頼宣を最後まで手元に置き自ら薫陶を与えて育てた。まだ幼いにもかかわらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落水しても家康は放置した、と伝わる。
* 8歳のとき、駿府城内で[[能楽]]を自ら演じ、諸大名に見学させている{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=104}}。当時、[[能役者]]である森田庄兵衛と葛野九郎兵衛が頼宣に付けられた{{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=104}}。
* 大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが[[鎧着初|鎧初め]]を行う、特別な扱いを受けた。
* 大坂落城後、[[大塚城|茶臼山]]にある家康陣に際して赴き、先陣を希望するが、却下され。これを涙を流して悔しがものの叶わなかったため、戦に間に合わず口惜しいと涙した{{Sfn|浜田|1942|p=41}}。側にいた[[松平正綱]]が「まだお若いから、これからのような機会は何度でもありましょう」となだたがると頼宣は「14歳が2度再びあるのか」と怒った{{Sfn|浜田|1942|p=41}}。これを聞いた父の家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆したと伝わる{{Sfn|浜田|1942|p=41}}
* 家康没後、頼宣は駿府から和歌山に転封となったが、これは2代将軍秀忠が父家康の遺風に対抗し、自身の権威を見せつけるため「家康の子、すなわち自分の兄弟である」「家康が直々に配した」「父が自分の所縁の地を与えた」頼宣ですらも自分は転封させることができる、すなわち、それ以下の格の諸大名は[[親藩]]・[[譜代大名|譜代]]・[[外様大名|外様]]を問わず、全ては我が権威の下であるということを天下に示すためであった、とも言われている。駿府は一旦幕府直轄を経て、秀忠の次男である[[徳川忠長]]をもって駿河藩55万石となったが、これも父と同様に自分も御三家相当の家を設立することができる。そして御三家から駿府を奪い我が子に与えることで、家康の権威よりも自分のほうが格上であるとする意思表示であったとする説がある。
* 西国転封が表面化した際、頼宣は再建成った[[大坂城]]を領すに移ることを願っ希望したが、叶えられなかったと伝わる(「高山公実録」){{Sfn|和歌山市史編纂委員会|1989|p=106}}
* 由井正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を[[江戸城]]に呼び出し、不審な点があればただちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした<ref>{{Cite book|和書|author=小山誉城|chapter=徳川頼宣の晩年|title=徳川将軍家と紀伊徳川家|publisher=精文堂出版|year=2011}}</ref>。外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろうという意味である。
* [[鄭成功]]に関する[[日本乞師|援軍要請]]の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であったとも、「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる。
* 頼宣は様斬(ためしぎり)を好み、自ら囚人を試し斬りした後、家来一同に「さてさて、この名刀や、かくの如き切り手は日本はおろか、[[中国#「唐」に由来する呼称|唐]][[天竺]]にもあろうか?」と問うたところ、儒者の[[那波活所]]が「名刀ならば唐には[[干将・莫耶]]という名剣があります。また人を殺すことを楽しんだ王なら[[殷]]の[[紂王]]など悪王がおります」と答え、「およそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありません」と諫言した。以後、頼宣は試し斬りをやめたという。
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== 官職および位階等の履歴 ==
* 慶長11年8月11日([[1606年]]9月13日) - 元服し、頼将を名乗る。従四位下・[[常陸介]]{{Efn2|「介」は佐官(二番手)でありいわゆる国主としての「守」の一段下であるが、常陸国に関しては天長3年(826年)以降、「[[親王任国]]」のひとつとされており「常陸守」は武家官位としては名乗らないのが通例であり、介が事実上の一等官の称号に相当する。}}に叙任。
* [[慶長]]8年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1603年]]12月9日) - [[常陸国]][[水戸藩]]主として常陸の大部分(20万石)を知行{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=266}}。
* 慶長9年([[1604年]])9月 - 5万石を加増。
* 慶長11年8月11日([[1606年]]9月13日) - 元服し、頼将を名乗る。従四位下・[[常陸介]]<ref group="注釈">「介」は佐官(二番手)でありいわゆる国主としての「守」の一段下であるが、常陸国に関しては天長3年(826年)以降、「[[親王任国]]」のひとつとされており「常陸守」は武家官位としては名乗らないのが通例であり、介が事実上の一等官の称号に相当する。</ref> に叙任。
* 慶長14年12月12日([[1610年]]1月6日) - [[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]両国50万石に転封{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。居城は駿河国[[駿府城]]
* 慶長16年3月20日([[1611年]]5月2日) - 従三位・参議・左近衛権中将に昇叙転任。その後、年月日不詳にて参議辞職。
* [[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])
** [[7月19日 (旧暦)|7月19日]](8月20日) - 権中納言に転任
** [[7月21日 (旧暦)|7月21日]](8月22日) - 権中納言辞任
* 元和5年7月19日([[1619年]]8月28日) - [[紀伊国]]一国および[[伊勢国]]南部55万石余の藩主([[紀州藩|和歌山藩]])として転封{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}(ただし[[御付家老]]領を内包)。居城は紀伊国[[和歌山城]]
* [[寛永]]3年8月19日([[1626年]]10月9日) - 従二位権大納言に昇叙転任
* [[寛文]]7年5月22日([[1667年]]7月13日) - 隠居{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}
* 寛文11年1月10日([[1671年]]2月19日) - 薨去{{Sfn|藩主人名事典編纂委員会|1987|p=267}}。墓所は[[和歌山県]][[海南市]]の慶徳山[[長保寺]]
* [[1915年]]([[大正]]4年)11月10日 - 贈正二位
 
== 系譜 ==
* 御簾中(正室):[[瑤林院]](|八十姫(瑤林院]] - [[加藤清正]]次女(第五子)。[[水野勝成]]養女、[[(生前の徳川家康と加藤清正]]次女(第5子の約定に拠る婚姻であるが、婚姻時は双方が死去していたため、瑤林院の生母の兄の水野勝成が婚姻上の養父となった
* 側室:理真院(中川氏)(?-1658)
** 長男:'''[[徳川光貞|光貞]]'''
** 長女:茶々姫(1631-1709) - 芳心院・因幡姫。因幡国鳥取藩主[[池田光仲]]正室
*側室:山田氏
* 側室:山田氏(?-1688) - 円住院
**次男:修理
** 次女:松姫(1631-1678) - [[鷹司松平家|鷹司]][[松平信平]]正室
*側室:越智氏
* 側室:武藤氏(?-1660) - 長寿院
**長女:茶々姫(芳心院・因幡姫) - [[池田光仲]]正室
**男:[[松平頼純]]修理(1633-1636)
* 側室:益心院(?-1647)
**次女:松姫 - [[松平信平]]正室
** 万姫(1638-1640)
* 側室:越智氏
** 三男:[[松平頼純]] - 伊予国西条藩初代藩主(西条松平家)
 
その他二女(早世)
 
== 徳川頼宣が登場する作品 ==
=== 小説 ===
* [[魔界転生]]([[山田風太郎]])
* [[くノ一忍法帖]]([[山田風太郎]])
 
=== 映画 ===
* [[魔界転生 (2003年の映画)|魔界転生]](2003年 監督:[[平山秀幸]] 頼宣:[[杉本哲太]])
 
=== テレビドラマ ===
* [[春の坂道]](1971年 [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]] 頼宣:[[古関八州夫]])
* [[忍法かげろう斬り]](1972年 [[関西テレビ]] 頼宣:[[北村和夫]])
* [[江戸を斬る 梓右近隠密帳]](1973年 [[TBSテレビ|TBS]][[ナショナル劇場]] 頼宣:[[江原真二郎]])
* [[徳川三国志 (テレビドラマ)|徳川三国志]](1975年 [[テレビ朝日]] 頼宣:[[芦田伸介]])
* [[服部半蔵 影の軍団]](1980年、東映 演:[[成田三樹夫]])
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](1983年 NHK大河ドラマ 頼宣:[[藤原義武]]→[[高橋修宏]])
* [[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]](1989年 NHK大河ドラマ 頼宣:[[本田太郎]])
* [[服部半蔵 影の軍団]](1980年、東映 演:[[成田三樹夫]])
* [[寛永風雲録 (テレビドラマ)|寛永風雲録]](1991年 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]新春時代劇スペシャル 頼宣:[[中尾彬]])
* [[葵 徳川三代]](2000年 NHK大河ドラマ 頼宣:[[平野裕貴]]→[[川田浩太]]→[[村上耕平]]→[[本郷弦]])
* [[天下騒乱〜徳川三代の陰謀]](2006年 [[テレビ東京]][[新春ワイド劇場]] 頼宣:[[樋口浩二]])
* [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]](2006年 NHK大河ドラマ 頼宣:[[安達悠起]])
* [[柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い]](2007年 NHK[[特選!時代劇|木曜時代劇]] 頼宣:[[椿直]]→[[西村雅彦]])
 
== 関連文献 ==
* {{Citation|和書|date=1920-04-11|title=南竜公御事略|editor=橘井清五郎|publisher=橘井清五郎|id={{NDLJP|960726}}|ref={{SfnRef|橘井|1920}}}}{{オープンアクセス}}
 
== 展覧会 ==
*「徳川家入国400年記念 特別展「徳川頼宣と紀伊徳川家の名宝」」、2019年10月19日 ~ 11月24日、主催:[[和歌山県立博物館]]・[[和歌山市立博物館]]、特別協力:[[紀州東照宮]]<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |url=https://www.city.wakayama.wakayama.jp/shisei/hasshin/1001156/1023056/1023484/1025328.html |title=徳川家入国400年記念 特別展「徳川頼宣と紀伊徳川家の名宝」の開催について |access-date=2024-05-05 |publisher=和歌山市役所 |date=2019-09-19}}</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{NotelistNotelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=1936-08-30|title=三百藩藩主人名事典 [[国史大系]]|volume=五十五巻|datevolume-title=1987/4/10[[公卿補任]] 第三篇|publisheredition=新訂増補|editor=[[新人物往来社黒板勝美]]|authorpublisher=藩主人名事典編纂委員国史大系刊行(編)|isbnid=4-404-01402-3{{NDLJP|3431668}}|ref={{SfnRef|藩主人名事典編纂委員会黒板|19871936}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=2006-12-10|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|volume=第十巻|volume-title=と〜に{{small|そ}}|edition=第一版第六刷|editor=国史大辞典編集委員会|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-00510-2|ref={{SfnRef|国史大辞典編集委員会|2006}}}}
*{{Citation|和書|title=茨城県の歴史|publisher=山川出版社|author=長谷川伸三ほか編|date=2011年12月|isbn=978-4-634-32081-9|series=新版 県史 8|ref={{SfnRef|長谷川|2011}}}}
* {{Citation|和書|date=2011-12|title=茨城県の歴史|edition=新版|publisher=[[山川出版社]]|editor=長谷川伸三ほか|isbn=978-4-634-32081-9|series=県史 8|ref={{SfnRef|長谷川|2011}}}}
* {{Citation|和書|date=1939-07-01|title=三浦為春|author=浜田康三郎|publisher=紀伊郷土社|id={{NDLJP|1687752}}|ref={{SfnRef|浜田|1939}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1942-06-10|title=父母状の話|author=浜田康三郎|publisher=紀伊郷土社|id={{NDLJP|1039639}}|ref={{SfnRef|浜田|1942}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1987-04-10|title=三百藩藩主人名事典|volume=第三巻|editor=藩主人名事典編纂委員会|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4-404-01402-3|ref={{SfnRef|藩主人名事典編纂委員会|1987}}}}
* {{Citation|和書|date=1930-10-03|title=[[南紀徳川史]]|volume=第一巻|editor=堀内信|publisher=南紀徳川史刊行会|id={{NDLJP|1225267}}|ref={{SfnRef|堀内|1930}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1990-08-31|title=和歌山県史|volume-title=近世|editor=和歌山県史編さん委員会|publisher=[[和歌山県]]|id={{NDLJP|9576602}}|ref={{SfnRef|和歌山県史編さん委員会|1990}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1989-03-31|title=和歌山市史|volume=第2巻|volume-title=近世|editor=和歌山市史編纂委員会|publisher=和歌山市|id={{NDLJP|9576535}}|ref={{SfnRef|和歌山市史編纂委員会|1989}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1970-07-30|contribution=徳川幕府家譜 乾|title=徳川諸家系譜|volume=第一|publisher=[[続群書類従完成会]]|id={{NDLJP|12211158}}|ref={{SfnRef|続群書類従完成会|1970}}}}{{クローズドアクセス}}
 
== 関連項目 ==
{{Wikisource|南龍言行録}}
* [[紀州東照宮]]
* [[和歌山城西之丸庭園]]
 
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{文化遺産オンライン|23017|徳川頼宣像(南龍公神影図) }}
* {{文化遺産オンライン|286009|徳川頼宣肖像}}
* [http://www.chohoji.or.jp 紀州徳川家菩提寺長保寺 公式サイト]
* [https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/ 和歌山県立博物館 公式サイト]
 
{{紀州徳川家|||初代}}