「経済安定本部」の版間の差分
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== 概要 ==
[[内閣 (日本)|日本の内閣]]に置かれた[[部局]]として発足したが、[[総理府|総理庁]]の[[機関 (法)|機関]]を経て、他の府・省と同格の機関として位置づけられた。経済安定の基本的施策の企画立案、[[物価]]の統制、経済統制の確保、外国人の[[投資]]や事業活動の調整を所管するとともに、関係する他の[[行政機関]]との総合調整および推進も担っていた。[[太平洋戦争]]後の日本の経済復興を図るため、[[傾斜生産方式]]などさまざまな施策を打ち出し、戦後の[[日本の経済|日本経済]]に大きな影響を与えた。
== 機構 ==
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== 所掌事務 ==
[[ファイル:Fujiwara Dam.jpg|thumb|200px|利根特定地域総合開発計画により整備された[[藤原ダム]]]]
所管する業務は多岐にわたっており、経済安定本部設置法では経済安定、物価統制、経済統制の確保、外国人の投資や事業活動などが挙げられている<ref>経済安定本部設置法第4条。</ref>。太平洋戦争後の経済的な混乱のなか、物資や[[エネルギー]]の生産や[[配給 (物資)|配給]]だけでなく、[[財政]]、[[通貨]]、[[金融]]といった政策課題の企画立案に加え、[[公共事業]]の監督にいたるまで幅広く手掛けていた。中央省庁において強い影響力を持ったことから「最強官庁」「最大最強の経済団体」とまで呼ばれた。特に[[片山内閣]]においては、[[事務次官等会議|次官会議]]に代わって[[閣議 (日本)|閣議]]案件を事前審査する役割も果たすなど、国の[[
内部部局ごとの具体的な所管業務は次の通り(1949年6月1日時点)。
経済安定本部の廃止にともない、これらの業務の大半は新設された[[経済企画庁#沿革|経済審議庁]]に引き継がれた。ただし、経済調査庁の所管していた業務については、[[行政管理庁]]に引き継がれた。なお、経済安定本部の政策資料については、原本は経済審議庁の後身である[[経済企画庁]]に引き継がれたが、その[[マイクロフィルム]]は経済企画庁図書館と[[東京大学]][[東京大学経済学図書館|経済学図書館]]の2か所に保管されている<ref>「概要」『[https://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/?page_id=2255 経済安定本部資料 | 東京大学 経済学図書館・経済学部資料室]』[[東京大学経済学図書館]]。</ref>。
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== 沿革 ==
[[ファイル:Imperial Ordinance No380 of 1946.jpg|thumb|200px|経済安定本部令(昭和21年勅令第380号)御署名原本]]
太平洋戦争中、日本では[[企画院]]など[[計画経済|統制経済]]を担う[[日本の行政機関|行政機関]]が設置され、[[日本の行政機関|行政府]]による経済統制が行われていた。太平洋戦争終結後、いったんは行政府による経済統制は終わりを迎えたが、日本は経済的に大混乱に陥ることになった。そのため、[[幣原内閣]]においては、経済復興を目指すべくさまざまな方策が模索されることになる。こうしたなか、内閣の直属機関として経済安定本部と物価庁を新設する構想が浮上した<ref>『宮﨑勇オーラルヒストリー別冊図表資料集』政策研究大学院大学、1頁。</ref>。[[1946年]][[8月12日]]、経済安定本部令(昭和21年勅令第380号)が施行された。これを受け、同日、[[第1次吉田内閣]]にて経済安定本部が発足した<ref name="grips_2">『宮﨑勇オーラルヒストリー別冊図表資料集』政策研究大学院大学、2頁。</ref>。経済安定本部の総裁は内閣総理大臣の充て職であるため<ref>経済安定本部令第5条第1項。</ref>、初代総裁には[[吉田茂]]が就任した<ref name="grips_9-1">『宮﨑勇オーラルヒストリー別冊図表資料集』政策研究大学院大学、9の1頁。</ref>。また、庁務を掌理する総務長官には国務大臣が就くことになっており<ref>経済安定本部令第6条第1項。</ref><ref>経済安定本部令第6条第2項。</ref>、初代総務長官には[[無任所大臣|無任所]]の[[国務大臣]]として入閣していた[[膳桂之助]]が就任した<ref name="grips_9-1"/>。同時に、膳は物価庁の初代[[長官]]にも就任した。同年[[12月17日]]、経済安定本部は
[[1947年]][[5月3日]]、[[総理府|総理庁]]の発足にともない、経済安定本部は内閣の部局から総理庁の機関となった。また、総務長官を補佐する副長官が置かれることになった。これを受け、[[和田博雄]]が副長官事務取扱に就き、さらに[[佐多忠雄]]が副長官心得に就いたが、初めての副長官には[[永野重雄]]と[[田中巳代治]]が就任した<ref name="grips_9-1"/>。なお、同年[[7月4日]]には、
[[1949年]]6月1日、[[国家行政組織法]](昭和23年7月10日法律第120号)の施行により、経済安定本部は総理庁の機関から府や省と同等の機関となった<ref group="註釈">第24条「第三条第二項の行政機関[府、省、委員会及び庁]の外、特に必要がある場合においては、別に法律の定めるところにより、臨時に、内閣総理大臣をもつて長に充てる本部を置くことができる。」および同条第2項「本部については、法律に別段の定めがある場合を除く外、この法律中、府及び省に関する規定を準用する。」(本部廃止とともに、昭和27年法律第253号により削除)</ref>。それにともない、物価庁、経済調査庁は経済安定本部の外局となった。[[1952年]]4月1日、経済安定本部の外局である物価庁の廃止にともない、内部部局として物価局が設置された。[[1952年]]8月1日、経済安定本部の廃止にともない、[[総理府]]の外局として経済審議庁が発足した。ただし、経済安定本部の外局である経済調査庁は、総理府の外局である行政管理庁に統合された。
== 経済安定本部令 ==
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