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{{混同|立正大学|文教大学}}
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{{日本の大学
|国 = 日本
|大学名 = 立教大学
|ふりがな = りっきょうだいがく
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|ロゴ =[[File:立教大学ロゴ.svg|260px]]
|ロゴ説明 =
|画像 = [[File:Rikkyo University, Tokyo1.jpg|250px]]
|pxl = 250px
|画像説明 = 池袋キャンパス本館(正門側)<br /> {{Infobox mapframemaplink2|tyepframe=shapeyes|plain=yes|type=point|zoom=14|frame-widthalign=250center|coordframe-width={{coord2|35.7305|139.7039}}270|marker=college}}<br />立教大学・池袋キャンパスの位置<br />{{Right|{{___location map |Tokyo city#Japan Tokyo#Japan|width=200|lat_deg = 35.73 |lon_degfloat = 139.703}} center}}
|大学設置年 = 1883年
|創立年 = 1874年
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|キャンパス = 池袋(東京都豊島区)<br />新座(埼玉県新座市)<br />陸前高田グローバルキャンパス(岩手県陸前高田市)
|学部 = [[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]<br />[[立教大学異文化コミュニケーション学部|異文化コミュニケーション学部]]<br />[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<br />[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]<br />[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<br />[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]<br />[[立教大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<br />[[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学部]]<br />コミュニティ福祉学部<br />[[立教大学大学院現代心理学研究科・現代心理学部|現代心理学部]]<br /> スポーツウエルネス学部<br /> Global Liberal Arts Program (GLAP)
|研究科 = [[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学研究科]]<br />[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]<br />[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学研究科]]<br /> [[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]<br /> [[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学研究科]] <br />[[立教大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]<br />[[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学研究科]]<br />コミュニティ福祉学研究科<br />[[立教大学大学院現代心理学研究科・現代心理学部|現代心理学研究科]]<br />[[立教大学大学院文学研究科・文学部|キリスト教学研究科]]<br />[[立教大学大学院ビジネスデザイン研究科|ビジネスデザイン研究科]]<br />21世紀社会デザイン研究科<br />[[立教大学異文化コミュニケーション学部|異文化コミュニケーション研究科]]<br />[[立教大学大学院法務研究科|法務研究科]] <br />人工知能科学研究科<br /> スポーツウエルネス学研究科
|大学の略称 = '''立大'''(りつだい)
|ウェブサイト = {{Official URL}}
}}
'''立教大学'''(りっきょうだいがく、英語: Rikkyo University/Saint Paul's(スクール・ニックネーム))は、[[東京都]][[豊島区]][[西池袋]]に本部を置く日本の[[私立大学]]。[[1874年]]創立、[[1883年]]大学設置。大学の略称は'''立教'''(りっきょう)'''、立大'''(りつだい)。
 
== 概観 ==
=== 大学全体 ===
[[画像:2018 Rikkyo University 2.jpg|282px|thumb|池袋キャンパス本館/1号館/モリス館(裏側、東京都選定歴史的建造物)]] [[File:Rikkyo Building no.1 & 7 Niiza 01.jpg|thumb|立教大学新座キャンパス1号館と7号館]]
[[イングランド国教会|英国国教会]]を始祖とする会派、[[米国聖公会]](歴代[[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]の1/4が信者)の[[宣教師]][[チャニング・ウィリアムズ]][[主教]]が、[[1874年]]([[明治]]7年)に東京・[[築地]]に設立した[[聖書]]と[[英学]]を教育する[[私塾]]、立教学校{{Refnest|group="注釈"|18701869年(明治32年)にウィリアムズが大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の与力町の自室小礼拝堂(ミッション・チャペル)とともに開した私塾(翌年、英学講義所「のちとなる。後[[英和学舎]])立教大学の前身の一つである<ref name="ndl-1280808">国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1280808/1/10 『立教大学一覧 昭和8年3月』] 1頁,1933年</ref><ref name="ndl-1278546">国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1278546/1/10 『立教大学一覧』昭和14年度 ] 3頁,昭和14年</ref><ref name="kagawa"/>。また、1877年(明治10年)に大阪・北浜で中島彬夫が創設した英学私塾である[[#風雲館|風雲館]](1880年・明治13年に大阪・英和学舎と合併)も前身の一つとして考えられる。<br />1874年(明治7年)に東京・[[築地]]の[[外国人居留地]]に設立された立教学校は、開校当初、主教らの公的書簡では「Day school for boy」または「Boys school」などと記されていたが<ref>おり{{sfn|『立教学院百年史』([[|p=151}}、界隈では「ウィリアムズの学校法人」と呼ばれていたが<ref name="rikkyonews184">{{PDFlink|[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/60(S35)1215_184_1.pdf 立教院]]、[[1974新聞 第184号 196012月15日]])151頁}}</ref>、年末までには「立教学校」と命名された。また、立教学校卒業生の[[河島敬蔵]]の経歴書によると、ウィリアムズとともに[[エドワード・サイル]]も立教学校の設立に関与していたと思われる<ref name="kawashima"/>。<br />これらに遡り、幕末の長崎において既に立教大学の源流となる私塾が開設されている。1859年(安政6年)5月2日に[[プロテスタント]]初の宣教師として長崎に来日した米国聖公会の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]は、初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の支援のもと[[長崎奉行の[[岡部長常|岡部駿河守長常]]の要請で私塾を創設し長崎[[通詞|通事]]たちに英語を教えた。翌月25日に来日したチャニング・ウィリアムズもリギンズとともに、私塾で数学を含む英学を教え、幕府の[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]などでも英語を教えるなど、英学教育を行った<ref name="mission2"/><ref name="sugimoto"/>。<br />翌1860年(万延元年)には、リギンズ、ウィリアムズとともに長崎に派遣された米国聖公会宣教医の[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]も診療所の開設と、医学塾及び英語塾を創設し、地元の医師に西洋医学と英語を教えた<ref>園田健二 [http://jsmh.umin.jp/journal/35-3/261-276.pdf 「幕末の長崎におけるシュミットの医療活動」]『日本医史学雑誌』35(3), pp. 33−48</ref>。<br />また、1863年(文久3年)に[[イングランド国教会|英国国教会]]の司祭であった[[マイケル・ベイリー]]は横浜で英語塾を開設し、日本人に英語を教えた<ref>[https://yamate-anglican.jpn.org/?page_id=467 横浜山手聖公会公式Web『聖堂(礼拝堂)について』]</ref>。1869年(明治2年)1月には、ウィリアムズの要請により長崎に来日した[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の宣教師[[ジョージ・エンソル]]は長崎で英学稽古所を開き、英語を教えながら伝道している<ref name="kimura1967"/>。}}<ref group="注釈" name="wakangaku"/>を前身の一つとする日本屈指の伝統校である。[[ローマ]]から[[イギリス|英国]]に派遣された[[カンタベリーのアウグスティヌス|オーガスティン]]の初代[[カンタベリー大主教]]着座(西暦597年)からの流れを汲む<ref name="roots">{{YouTube|4yVUCxXRkP0|立教大学のルーツ ~時間と空間を越えて受け継いできたもの~}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|name="Celts"|[[ブリテン諸島]]では[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]より前から独自のキリスト教文化があったとして、のちの時代の[[聖公会]]において[[ケルト系キリスト教]]にアイデンティティーを見出す動きが一部に見られ、近代に建てられた各国の[[聖公会]]の聖堂や墓碑などにも、[[ケルト十字]]が好んで用いられるという傾向もある<ref>{{citation|和書|last=西原|first=廉太|title=聖公会が大切にしてきたもの|publisher=[[教文館]]|year=2016|page=37-45|isbn=978-4-7642-6125-9}}</ref>。立教大学のチャペルや立教大学の前身の1つである[[英和学舎]]のあった地に建つ大阪・[[川口基督教会]]の建物にもケルト十字が用いられている。1863年10月18日(文久3年9月6日)に完成して聖別を迎えた、プロテスタントとして[[横浜市|横浜]]で最初の教会である横浜クライストチャーチ(現・[[横浜山手聖公会]])の初代聖堂にもケルト十字が設けられた<ref>二つの教会をめぐる石の物語 [http://u-moa.jp/event/church2023/1508/index.html 『建造物めぐり5横浜クライスト・チャーチ初代・二代・三代礼拝堂』] 宇都宮美術館,2023年2月19日</ref>。}}。大学設立起源は、米国聖公会信徒の[[マシュー・ペリー]]の[[黒船来航]]と初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の活動により日本への宣教勧告と学校開設の勧奨を得た米国聖公会が、[[1859年]](安政6年)に伝道と学校開設教育、医療活動を成す[[プロテスタント]]初となる日本[[ミッション]]を[[長崎市|長崎]]・[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]に開設し置き、ハリスの支援のもと[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]・[[岡部長常|岡部駿河守長常]]の要請で日本の嚆矢となる[[英学]]私塾を設け英学教育を創したことに始まり、[[高杉晋作]]、[[大隈重信]](第8・17代[[内閣総理大臣]])、[[副島種臣]](第3代[[外務大臣 (日本)|外務卿]])、[[前島密]](近代郵便制度創設者)、[[何礼之]]([[大阪英語学校 (旧制)|大阪洋学校]]、現・[[京都大学]]創設者)など多くの志士を輩出した{{#tag:ref|1859年(安政6年)に長崎でミッションを開設した当初から、高等教育を行う男子校(カレッジ)を設立することが常に日本における最重要課題であったと、ウィリアムズは1880年(明治13年)6月30日の江戸伝道主教の報告で語った。さらに、この報告当時、欧米の学識を熱心に取り込んでいるが、何が真理で何が偽りなのか判断できていない日本において、キリスト教に基づくカレッジ創設は喫緊の課題であり、教会のためになると強調した<ref name="ogawa_2015"/>。<br />
この課題は、翌年の1881年(明治14年)に東京で開催された在日米国聖公会宣教師会議で決議されることとなった。この中で、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で校長を務めていた[[テオドシウス・ティング]]による日本人のカレッジ学生に日々1時間接する聖職宣教師と外国人教授4人を配した[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]の文学コースに並ぶ学習課程を持つカレッジを創設する必要があることを訴えた論説が出席者たちの心を大きく捉え、伝道事業の徹底のために速やかにカレッジを設立することがメンバーの大半の賛成により可決された。この結果を受け、[[ジェームズ・ガーディナー]]の設計による校舎が東京・築地に建設され、1859年の長崎での私塾開設から約四半世紀経った1883年(明治16年)1月に、立教大学校(St. Paul's College, 6年制)が創設された<ref name="ogawa_2015"/>。|group="注釈"|name="rikkyo-college-02"}}<ref group="注釈" name="English_studies"/>{{#tag:ref|[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]は長崎の[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広徳院に開設した立教大学の源流となる私塾で英学教育を行い、[[イライジャ・コールマン・ブリッジマン|ブリッジマン]]の『聯邦志略』や{{仮リンク|ミュアヘッド|en|William Muirhead}}の『大英国志』、[[ベンジャミン・ホブソン|ホブソン]]の『西医略論』を始めとする漢訳の[[歴史書]]や科学書、医学書、[[聖書]]等を多く頒布した<ref name="shien-1967"/><ref name="ryu-2014">{{Cite journal|和書 |author=劉 建輝 |title=もう一つの「近代」ロード : 19世紀の日欧交流における広東、上海の役割 |journal=「日本研究」再考 : 北欧の実践から |publisher=国際日本文化研究センター |year=2014-03 |pages=215-228 |url=https://doi.org/10.15055/00001127 }}</ref>。中でも『聯邦志略』には、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ独立宣言|独立宣言]]、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、近世[[封建制|封建社会]]下にあった日本の多くの志士に影響を与えることとなった<ref name="postalmuseum"/>。ウィリアムズもこれらを日本人に頒布した形跡が認められている<ref name="shien-1967"/>。また、リギンズは1860年(万延元年)に長崎で日本における英学会話書の嚆矢となる『英和日用句集』を執筆し、現在利用される[[ローマ字]]綴りを編み出すなど、日本の英語教育に大きな影響を与えた<ref name="sugimoto"/><ref name="tokiwa-2006"/><ref name="momoyama-1959"/><ref name="detabase-1935"/>。ウィリアムズも私塾で英学を教授する傍ら、[[長崎奉行]]の[[岡部長常]]が創設した日本初の系統的な英語教育機関である『[[長崎英語伝習所]]』でも教授した<ref name="sugimoto"/><ref name="mozumi"/>。|group="注釈"|name="nagasaki-library"}}<ref name="kyoto"/><ref name="Okuma_oldtale"/>。この塾は日本における[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]の起りである<ref name="rikkyonews088"/>。幕末から明治にかけ日本と米国の外交の芽吹に生誕し、日米両国の友好の証として歴史を繋いでぎ、日本の英学教育を牽引してきた<ref name="tokyo-asahi19190601"/>{{Refnest|group="注釈"|日本における[[プロテスタント]]初の宣教師である[[米国聖公会]]の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]が長崎に来日する数日前の1859年4月下旬には、初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]が長崎を訪問し、5月初めにハリスは、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ([[ウォルシュ兄弟]]の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。こうして、リギンズとウィリアムズの来日に際して、[[聖公会]]の信徒で日本への米国聖公会の学校設立の勧告と支援を行ってきたハリスも同時に長崎を訪れ、長崎でもアメリカの活動拠点の構築と整備を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった<ref name="us-nagasaki">[https://jp.usembassy.gov/ja/consulate-history-in-nagasaki-ja/ 在日米国大使館と領事館『長崎アメリカ領事館の歴史』2022年4月4日]</ref>。
ハリスとウォルシュの支援により、リギンズは[[長崎奉行]]の要請から聖公会の長崎私塾(立教大学の源流)を開設し、ウィリアムズとともに早速英学教育を開始した。ハリスは、[[ニューヨーク市立大学]]の創設者で、ニューヨーク市の教育局長も務めた人物でもあり、日米外交の芽吹きの中で、教育者として立教大学の源流の創設に深く関わった<ref name="mission2"/>。<br />
また、リギンズとウィリアムズは、私邸や長崎[[大浦 (長崎市)|大浦]]の妙行寺に置かれた英国領事館を使って外国人のための礼拝を開始し、1859年9月に来日した聖公会信徒で日本の近代化に大きく貢献する[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]も礼拝に参加した<ref name="名前なし-20230316131139">[http://www.being-nagasaki.jp/kankou/b3.htm Being-Nagasaki お薦め散策コース Bコース 旧グラバー邸]</ref>。
グラバーは幕末の志士たちと商取引を行い、ウィリアムズが教える私塾には多くの志士たちが学んだ。グラバー商会などとともに、ジョン・G・ウォルシュが兄とともに経営する[[ウォルシュ兄弟|ウォルシュ商会]]も長崎で幕末の志士たちと商取引を行い、[[坂本龍馬]]の[[海援隊|亀山社中]]が1866年(慶應2年)に[[薩摩藩]]の後援で購入した艦船「太極丸」は、ウォルシュ商会のプロシア商人チョルチから購入している<ref>{{PDFlink|[http://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/tabibon-1.pdf 長崎旅本 慶応幕末『なぜ、龍馬は長崎をめざしたのか?』長崎県 文化振興課 平成21年8月]}}</ref>。ウォルシュ商会は日本で初めて成功したアメリカ企業の一つである。}}{{Refnest|group="注釈"|name="friendship"|明治中期には、立教築地キャンパス(現在の[[聖路加国際病院]]と[[聖路加国際大学]]の場所)の近く、現在の[[聖路加ガーデン]]の場所に[[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ公使館]]が建っていた。幕末の[[日米和親条約]]により、当初アメリカ領事館は、伊豆[[下田市|下田]]の[[玉泉寺 (下田市)|玉泉寺]]に置かれ、[[米国聖公会]]の信徒であり、日本への米国聖公会による学校開設を勧めた[[タウンゼント・ハリス]]が初代駐日領事として赴任した。その後、[[日米修好通商条約]]が結ばれ、ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を引き払い、[[1859年]](安政6年)、現在の東京[[元麻布]]の[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にアメリカ公使館を開設。[[1863年]](文久3年)5月、善福寺の建物が庫裏からの出火で消失したため、横浜の山手居留地に公使館施設を設けたり、関内居留地の海岸通り20番に開業したばかりのグランドホテルに公使が滞在するなどしたのち、[[1874年]](明治7年)4月末または5月初め、アメリカ公使館は築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に移転。(のちに3番も敷地に加えた。)[[1875年]](明治8年)12月には、同地に公館を新築し形容を整えた。その後、築地の公使館は手狭となり、[[1890年]](明治23年)3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転した<ref>中央区教育委員会 『アメリカ公使館跡・史跡案内板』 平成8年3月 中央区明石町8</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000026596.pdf 外務省調査月報 2013 No.1『明治時代にあった外国公館(3)』 川崎晴朗]}}</ref><ref>[https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/1234/ 『AMERICAN CENTER JAPAN』日米関係 米国大使館の歴史]</ref>。(外務省調査月報 2013 No.1には、1890年(明治23年)5月15日まで、公使館は築地に置かれていたとある。)<br />
築地のアメリカ公使館跡には8個の小松石の石標が残された。石標には、[[ハクトウワシ|白頭鷲]]、[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の最初の13州を示す。8個の石標のうち3個は[[1984年]](昭和59年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個は、築地居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、3個は聖路加国際病院敷地に、2個は聖路加ガーデンに設置されている。<br />[[1930年]](昭和5年)5月26日には、[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]総長が、赤坂のアメリカ大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行っている<ref name="shibusawa_doc40"/>。この現在アメリカ大使館の隣接する地にある[[霊南坂]]の陽泉寺は、1873年(明治6年)9月にチャールズ・ニューマン(Charles H. Newmam)が、米国聖公会として東京へ初めて進出して、在京英米人のための主日礼拝を開始し、東京伝道を準備した地である。同年11月には、来日したクレメント・T・ブランシェ(Clement T. Blanchet)とウィリアム・クーパー(William B. Cooper)も加わり<ref name="natori-2004"/><ref name="kyoto-denpuro"/><ref name="ooe-2004"/>、[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]と[[ウィリアム・ライト (宣教師)|ウィリアム・ライト]]の[[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会宣布協会]](SPG)も拠点とした場所である<ref name="kyoto-denpuro"/><ref name="tezuka-1966">{{Cite journal|和書 |author=手塚 竜磨 |title=東京における英国福音伝播会の教育活動 |journal=日本英学史研究会研究報告 |issn=1883-9274 |publisher=日本英学史学会 |year=1966 |volume=1966 |issue=52 |pages=1-6 |url=https://doi.org/10.5024/jeiken1964.1966.52_a1 }}</ref>。また、[[1939年]](昭和14年)には、立教大学に日本で最初のアメリカ研究の機関として「アメリカ研究所」が設立されている<ref name="America_research"/>。}}{{Refnest|group="注釈"|[[1919年]](大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、[[大隈重信]]、[[金子堅太郎]]、[[渋沢栄一]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]などとともに[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日米国大使]]も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。また、当時の卒業式などの学校行事においても、アメリカ国旗を日本国旗とともに会場に掲揚し、式典が行われた<ref name="rikkyo_1912">[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%8D%92%E6%A5%AD%E5%BC%8F%EF%BC%881912%E5%B9%B4%EF%BC%89.jpg 立教大学卒業式(1912年)]</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|name="friendship2"|2014年1月21日には池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使[[:en:Kurt Tong|カート・トン]]を招いて「日米友好の木 [[ハナミズキ]]」の植樹式が開催された。植樹は日本から米国に3000本のサクラを寄贈してから100周年を記念して、米国民から日本への返礼として3000本のハナミズキを贈る取り組み「友好の木 - ハナミズキ・イニシアチブ」の一環として行われた。同イニシアチブは、日米の国民同士の異文化および教育交流を体現するものとして、米国政府と日米交流財団が共同で設立した官民パートナーシップにより運営される。立教大学は米国聖公会から派遣された宣教師によって創設された学校で、2014年当時で140年に渡る米国との深い関係が続いていることから、学校法人としては初めて、40本のハナミズキの寄贈を受けた。また、日米両国の友好と親善に尽力された功績に敬意を表し、立教大学は1965年に[[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]駐日大使、2000年に[[トーマス・フォーリー|フォーリー]]駐日大使、2013年に[[ジョン・ルース|ルース]]駐日大使に名誉博士学位を授与している<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/201401157537 共同通信PRWire『立教学院で「日米友好の木 ハナミズキ」植樹式が行われました -学校法人としては初めて受贈-』2014年1月21日 ]</ref>。}}。<br />また、アメリカ・[[ワシントンD.C.]]の[[ポトマック川|ポトマック河]]畔へのサクラの苗木の寄贈は、[[日本聖公会]]信徒であった[[キリスト教主義学校尾崎行雄]](ミッションスクール憲政の神様が[[東京市]]長時代の1912年(明治45年)に[[エリザ・シドモア]]の提案から[[高峰譲吉]]らと協力して行ったものであり、その返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした<ref name=nagaoka>{{Cite journal|和書|author=長岡祥三 |date=1995 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1996.57 |title=尾崎行雄夫人セオドーラの半生 |journal=英学史研究 |ISSN=03869490 |publisher=日本英学史学会 |volume=1996 |issue=28 |pages=57-71 |doi=10.5024/jeigakushi.1996.57 |id={{CRID|1390282680094390400}}}}</ref><ref>高峰譲吉博士研究会 [https://npo-takamine.org/who_is_takaminejokichi/private_diplomacy/sakura/ 『日米桜寄贈の全容』]</ref>。}}
 
[[聖公会]]系の大学である名門[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]を始め、[[ダブリン大学]][[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]や[[ダラム大学]][[:en:St John's College, Durham|セントジョンズ・カレッジ]]など世界の聖公会系大学が120校以上加盟するCUAC(世界聖公会大学連合)に属する[[日本聖公会]]系の[[キリスト教主義学校]](ミッションスクール)である<ref>[https://cuac.anglicancommunion.org/ Colleges & Universities of the Anglican Communion]</ref>。[[1883年]](明治16年)に、米国式カレッジとして[[東京大学]]とともに日本最高峰の教育機関である「立教大学校」を設立{{Refnest|group="注釈"|name="rikkyo-college"|立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、[[東京大学]]とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である<ref name="college">{{Cite journal|和書 |author=鈴木範久 |title=立教大学校とカレッジ教育 |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学 |year=2007 |issue=5 |pages=2-16 |naid=110008682386 |doi=10.14992/00015286 |url=https://doi.org/10.14992/00015286}}</ref>。明治政府により[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]第一号として認可された<ref name="trinity-tokyo">東京聖三一教会 [https://trinity-tokyo.sakura.ne.jp/pg24.html 『東京聖三一教会の歩み』]</ref>。これは1886年(明治19年)に公布された[[帝国大学令]]と1918年(大正7年)に公布された[[大学令]]によって制定され成立した大学よりも前に、[[教育令]](第2次教育令・1880年/明治13年12月28日公布)によって設立・認可された日本における先駆けの大学(最高学府)であった<ref name="laws_1880">{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787960/202 |title=法令全書 明治13年 |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2023-05-27 |pages=325-329}}</ref>。
[[学生帽|角帽]]([[アカデミックドレス|モルタルボード型]])を最初に着用して都内を闊歩したのは、立教大学校生といわれる<ref name="college"/>。気の利いた生徒はこの西洋風の角帽を被り、西洋の大学に入学したような心持であったという<ref name="rikkyonews031"/>。
新校舎は美しい尖塔を有し、東京見物の人々も訪れるほどであった<ref name="college"/>。校舎は[[煉瓦]]造で、尖塔は[[銀座]]からも見え、当時の学生の大きな誇りとなっていた。また、これまで電気もガスもなく、初めてアセチリン瓦斯燈が輸入された当時であったが、講堂のランプは全て瓦斯燈を扱う商店の寄付により設置され、講堂の聴衆は明るく煌々たる光景に肝をつぶしたという<ref name="rikkyonews031"/>。<br />
カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった<ref name="college"/>。訳読と数学の先生だけ日本人であった<ref name="rikkyonews031"/>。英語の授業は最初は全く理解できなくても、不思議なことに1ヵ月もするとほぼ意味が分かるようになっていったという<ref name="rikkyonews031"/>。
但し、[[ギリシア語]]・[[ラテン語]]に代えて[[漢学]]も課されていたとされる<ref name="shien-1962"/>。代数幾何学、動物学、理科学、地質学、植物学、化学、天文学など多彩な理系・[[自然科学]]科目を教え、文系・[[人文科学]]、[[社会科学]]科目とともにヨーロッパ中世以来の[[リベラル・アーツ]]の伝統を色濃く引き継ぐアーツ・サイエンス教育を行った<ref name="kanoya7"/>。学生は熱心に勉強したとされ、苦学生は東京各所の家の2階を借り、英語の教授をして寄宿代を稼いだ。また紳士が三輪車や手車で大学校へ来て、生徒から英語を教わることもあり、立教の苦学生は日本の英語教育に貢献するところがあった<ref name="rikkyonews031"/>。<br />
当時、最高学府としての大学の名を有する[[高等教育]]機関は、1877年(明治10年)設立の東京大学と立教大学校のみで、「東京に大学校二あり、一は本郷に又た一は築地に在り」と呼ばれ、東京大学と立教大学校の二つをもって大学校の代表とし、日本屈指の教育機関であった。同時期、1877年(明治10年)に工学寮を改称して生まれた[[工部大学校]](のちの東京大学工学部)もあったが、技術者養成の教育機関であった。また、1880年(明治13年)に開校した[[築地大学校]]も存在したが、1883年(明治16年)には横浜の[[先志学校]]と[[東京一致神学校]]へ人材を供給することを目標に統合され、[[東京一致英和学校]]となり、大学という名称から変更している<ref name="college"/>。立教大学校は、欧化主義への反動から国粋主義が広がり出したことによるキリスト教への圧力や、日本の教育制度の変更などから、その後カレッジの進展を断念せざるを得ない状況となったが、1890年(明治23年)10月に日本の教育制度に合わせる対応をするなど、障壁を乗り越え、校名を立教学校として日本での教育活動を維持した<ref name="history2">[https://rikkyo-hs-ob.com/#history 立教中高の歴史]</ref>。また、当時カレッジの進展を断念した別の背景として、これまで中心的な人物であったウィリアムズが、1889年(明治22年)に主教を退任するとともに、チャプレンとして聖書講義を担当していた立教大学校と三一神学校を退任したこと。加えて、1887年(明治20年)9月に、これまで教頭や幹事として立教大学校を支えてきた[[貫元介]]が退任して山口に帰郷したが、貫から学校事務を引き継いだ[[ヴィクター・ロー]][[アーサー・モリス]]は、学校事務の事情に精通していなかったことから、時代の波に乗れず学生が減少したという状況もあった<ref name="ogawa_2015">{{Cite journal|和書 |author=小川智瑞恵 |title=立教大学の形成期における大学教育理念の模索 : 立教学院ミッションに着目して |journal=キリスト教教育研究 |publisher=立教大学 |year=2015-06 |volume=32 |pages=33-62 |url=https://doi.org/10.14992/00021068 }}</ref>。<br />
上記のとおり、日本においてはアメリカ人の経営する大学は厳しい状況に置かれた一方、同じく[[米国聖公会]]によって中国・[[上海市|上海]]に置かれた姉妹校である[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバード大学と呼ばれるまでに成長を遂げた。}}。ミッションスクール第一号として認可を受けた<ref name="trinity-tokyo"/>。これは後の[[帝国大学令]]と[[大学令]]より前に、[[教育令]]によって認可された日本の先駆けとなる大学であった(詳細は[[旧制大学]]参照)<ref name="laws_1880"/>。初代校長に[[ハーバード大学]]出身の[[ジェームズ・ガーディナー]]が就いた。[[1922年]](大正11年)に[[大学令]]により再び[[旧制大学|大学]]となり、[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]、[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|商学部]]、[[大学予科|予科]]を設置{{#tag:ref|大学令としては[[ミッション系大学]]で[[同志社大学]]に次いで認可を受けた<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=306-307頁</ref>}}。|group="注釈"}}。[[第二次世界大戦]]前に英称をSt.Paul's Collegeと変更。現在は正式英称をRikkyo Universityとするが、今もスクール・ニックネームとして「St.Paul's」が使われる<ref>[https://wwwrec.rikkyo.rikkyogakuinac.jp/designguide/g4rifp00000004ze-att/7.pdf 立教学院デザインガイド (7-00)立教学院のセカンダリー・シンボル]</ref>。<!--立教大学公式サイトの英語ページを丹念に探しましたが自校を示すところは全てRikkyo Universityとなっているため、とりあえずこのような表現にしてあります。もし、St.Paul's UniversityからRikkyo Universityを正式に使用するに至った経緯を書いた書籍やページ(ただし個人作成ページ除く)がありましたらノートで教えてください。-->「SPU」の略称もある{{Refnest|group="注釈"|St.Paul's Universityの略称で、体育会応援団チアリーディング部の一部ユニフォームや体育会水泳部のマークなどで使用されている<ref>[https://www.rikkio-ouendan.jp/blank-28 立教大学体育会応援団・チアリーディング部・衣装紹介]</ref><ref>[https://rikkyoswim.com/ 立教大学体育会水泳部]</ref>。<br />[[箱根駅伝]]などに出場する体育会陸上競技部のユニフォームなどにはRikkyo Universityの「R」の文字が使用される。2022年10月にZOZOTOWNとのコラボレーションで発売されたスウェットには「RU」のロゴが施されている<ref name="zozo2022"/>。}}。
 
[[戦間期]]以降、[[慶應義塾大学]]、[[東京大学]]、[[法政大学]]、[[明治大学]]、立教大学、[[早稲田大学]]で構成する[[東京六大学]]の一校である{{Refnest|group="注釈"|東京六大学の括り自体は、日本に現存する[[日本の大学野球|大学野球]]の対校リーグ戦では最も古い[[東京六大学野球連盟]]を発祥とする。}}。1959年には、会長に[[吉田茂]](第45・48-51代[[内閣総理大臣]])、副会長に[[池田勇人]](第58-60代内閣総理大臣)、ほか[[正力松太郎]]([[読売新聞社]]社主)や[[石川一郎]]([[日本経済団体連合会|経団連]]初代会長)らによる立教大学後援会が発足し学部新設など大学が進展した<ref name="rikkyogenshiro"/><ref name="rikkyogakuinshi2013"/>。2001年から、同じ聖公会に属する[[聖路加国際大学]]と単位互換制度を開始。近隣の大学で構成する[[F-Campus]](5大学単位互換制度)も開始した
2001年から、同じ聖公会に属する[[聖路加国際大学]]と単位互換制度を開始。近隣の大学で構成する[[F-Campus]](5大学単位互換制度)も開始した。
 
創立以来、'''国際性やリーダーシップを育む[[リベラル・アーツ|リベラルアーツ]]教育'''を実践し、2023年時点で'''11学部・27学科・10専修・1コース''' [[#Global Liberal Arts Program (GLAP)|Global Liberal Arts Program (GLAP)]]を設置。大学院は'''16研究科'''設置する。[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]と[[立教大学異文化コミュニケーション学部|異文化コミュニケーション学部]]は、入試難易度が高く、現在における看板学部である。経営学部と大学院経営学研究科は、世界における的なビジネス教育の認証評価機関である[[Association to Advance Collegiate Schools of Business|AACSB]]の国際認証を2024年に取得し、学部・研究科単位の取得では私立の総合大学で日本初となる世界トップクラスの教育機関認定を受けている<ref name="rikkyo-202408">立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/08/mknpps000002vo5h.html 『立教大学経営学部・大学院経営学研究科 AACSBによるビジネス教育の国際認証を取得 ―世界水準の教育機関として認定を受ける―』] 2024/08/05</ref>。質の高い先端的な研究を行う[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]も世界における評価で大学を牽引しており、[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]と協同での宇宙関連の研究開発や、[[燃料電池]]、[[人工光合成]]等の[[再生可能エネルギー|クリーンエネルギー]]分野、[[バイオ医薬品|バイオ医薬]]の分野などで高い成果を上げている<ref name="jbpress">[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54847 JBpress 科学の本質に迫る先端的な理学研究で、世界を牽引する]</ref><ref>[https://wwwrec.rikkyo.rikkyogakuinac.jp/pickup/2012-2019/fr9ga20000000h3s.html 『真理を探究する、立教の研究力』理学部が牽引する先端的な研究活動]</ref>。([[#理工学分野]]を参照)
 
[[蔦]]の絡まる[[煉瓦]]造りの歴史的建造物群とガラス張りの近代的な校舎が調和する池袋キャンパスは、都会にありながら緑豊かで、異国情緒ある洗練された美しいキャンパスとして知られる<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/201310045147 『立教大学ロイドホール(18号館)がグッドデザイン賞を受賞』 Kyodo News PR Wire]</ref><ref>[https://www.biz-lixil.com/case/educational/B160840 『立教大学 ロイドホール(18号館)・池袋図書館(外観)』 LIXILビジネス情報]</ref><ref>{{YouTube|fpJ83tiYiHg|RIKKYO UNIVERSITY 空撮 立教大学 - 東京都選定歴史的建造物}}</ref>。[[1918年]](大正7年)竣工の[[#第一食堂(池袋キャンパス)|第一食堂]]は、[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリーポッター]]の世界観があると言われる<ref name="hotozero"/><ref name="ikebro"/>。2012年に開館した池袋図書館は、収蔵可能冊数200万冊、閲覧席数1530席以上を有する、国内の大学でも屈指の規模を誇る図書館である<ref>[https://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/case/new/148.html 『立教大学ロイドホール(18号館)・池袋図書館』 東芝エレベーター株式会社]</ref><ref>[https://school.js88.com/scl_dai/2060700/library 日本の学校『立教大学』 株式会社JSコーポレーション]</ref><ref name="library_conceptbook">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/institution/_asset/pdf/conceptbook.pdf 伝統と革新の新図書館 誕生]}}</ref>。多様なグループワークに対応する学習スペースと充実したICT環境に加え<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/support/learning/library.html 特徴3-グループ学習室の充実、池袋図書館-充実のPC環境]</ref>、リフレッシュルーム、テラス席、ソファ席などが備わり、カフェ併設の滞在型図書館である<ref name="library_conceptbook"/>。ラーニングアドバイザーも常駐し、文献の調べ方はもとより、レポートの書き方や研究構想の纏め方を細かく指導できる体制を整え、「本気で勉強したくなる図書館」を目指して、学生を強力に支援する施設となっている{{Refnest|group="注釈"|「本気で勉強したくなる図書館」とは、大学側が用意したコンセプトではなく、学生のツイートから始まったコンセプトである。図書館の開館前に比べて、利用率は増えており、学習教育と研究の基盤になっている<ref>{{YouTube|cjcFrx2-THc|伝統と革新の新図書館~立教大学池袋図書館開館から1年~}}</ref>。}}<ref>{{PDFlink|[https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/uploads/R1_tlakengakukai2.pdf 立教大学 池袋図書館]}}</ref>。芝生広場や中庭も広がる、穏やかで開放的な雰囲気の新座キャンパスは、近代的な校舎のほか、スタジオ棟、体育施設などが点在している。新座図書館は専門書が多く蔵書され、映像資料も充実する。
 
校友数は20232025年時点で2324万人を数え、全国および世界に「立教会」と呼ばれる校友組織が広がっている<ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/ 立教大学校友会]</ref><ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/disclosure/factbook/mknpps000001pzk2.html 立教大学ファクトブック Ⅷ. 校友]</ref>。経済界を始め、出版、文学、メディアなど多くの分野で卒業生が活躍している。2016年に卒業生ネットワーク組織「GLCネットワーク{{Refnest|group="注釈"|立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワークの略称。}}」が発足し、多様な業界で活躍する卒業生たちが立教生のキャリア形成支援を行っている<ref name="glc">[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/support/career/glc.html 立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワーク]</ref>。「就職偏差値が上がった大学」ランキングでは全国1位<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/edua/article/14239552 |title=「就職偏差値が上がった大学」ランキング |accessdate=2021-10-01 |publisher=朝日新聞EduA}}</ref>、イギリスの教育専門誌「[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]] (Times Higher Education)」による世界大学ランキング20232025年版では、国際性において国内私大1位(3(5年連続)に認定されている<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/20222024/10/mknpps000002200umknpps000002x4rk.html 国際性で5年連続国内私大1位 Times Higher Education (THE)の「世界大学ランキング20232025」が公開] 2024年10月17日</ref>。
 
2007年に日本初の[[持続可能な開発のための教育|ESD]]研究機関である「立教大学ESD研究センター」(現・[[#ESD研究、SDGs、地域創生|ESD研究所]])を設立し、[[持続可能な開発目標|SDGs]]の取り組みを推進する。2020年には、大学院に日本初となる、[[人工知能|AI]]に特化した「[[#AI研究(人工知能科学研究科)|人工知能科学研究科]]」を創設した<ref>[https://ai.rikkyo.ac.jp/ 立教大学大学院人工知能科学研究科]</ref>。同年、先端的な英語教育・研究を担う「[[#立教大学外国語教育研究センター(FLER)|立教大学外国語教育研究センター(FLER)]]」を開設。2022年には、学内の温室効果ガスの排出を2030年までに全体としてゼロにすることを目指し、「カーボンニュートラル宣言」を表明した<ref name="news_20220208">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2022/02/mknpps000001txhn.html 「カーボンニュートラル宣言」を表明 2030年の実現に向けたロードマップを策定](2022年2月8日閲覧)</ref><ref name="carbon-neutral">[https://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/carbon-neutral/ カーボンニュートラル宣言]</ref>。
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=== 国際性、リベラルアーツ教育 ===
[[米国聖公会]]が設立した大学であり、歴史的に外国人教員が多く、国際的な学風である{{Refnest|group="注釈"|立教大学校時代には、教員は主に外国人で、カリキュラムも全て英語の教科書が用いられていた<ref name="college"/>。}}。大学の源流である1859年(安政6年)に[[幕末]]の[[長崎市|長崎]]で設立した私塾において、[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]の要請から公式[[通詞|通事]]([[通訳]])への英学教育を開始し、[[明治維新]]で活躍する[[外交官]]を多く輩出するなど、創設以来長きに渡る国際性の伝統を持つ<ref group="注釈" name="English_studies"/><ref name="ishiryoku"/><ref name="KU-2012"/><ref name="kyoto"/>。その後も、[[朝日新聞社]]初代外報部長の[[米田實]]を始め、[[永井万助]]、[[岡本鶴松]]など同社外報部長を務めた20世紀前半の日本を代表する[[ジャーナリスト]]を輩出した{{#tag:ref|彼らは立教大学出身の新聞雑誌関係者で組織する立教大学の記者クラブである「アルファ會」にも所属し、大学新聞にも寄稿するなど活躍した<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0515_016.pdf 『立教大学新聞 第16号』] 1925年(大正14年)5月15日</ref>。|group="注釈"}}、[[満鉄調査部|満鉄調査課]]長の[[佐田弘治郎]]、[[電通]]外報部長の[[清田龍之助]]([[一橋大学]]教授)らを輩出した19071906年(明治4039年)には清国留学生のための「[[志成学校]]」を[[築地]]に設立し、古くから留学生を受け入れた国際交流を行う。韓国初の英字新聞である[[コリアタイムス|コリア・タイムス]]初代社長の[[:ko:김상용 (시인)|金尙鎔]]も大学の卒業生であり、近年でも日本の女性記者で初めて[[南極地域観測隊|南極観測隊]]に同行取材した[[中山由美 (ジャーナリスト)|中山由美]](朝日新聞報道局記者)も卒業生である。[[ミッション系大学]]の特質もあり、語学教育に定評があるが、近年、国際化戦略である「Rikkyo Global 24」を推進し、教育プログラムも進化する。英語によるディスカッションやプレゼンテーションなど社会に資する実践的なスキルが身につくプログラムがあり、中でも[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]・国際経営学科、[[立教大学異文化コミュニケーション学部|異文化コミュニケーション学部]]、[[#Global Liberal Arts Program (GLAP)|GLAP]]では全員が海外留学研修を行う。2013年にはグローバル教育センターを設置し、[[#リーダーシップ教育|立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)]]を始め、国際協力人材育成プログラムや海外インターンシップ等の科目を設けている。
 
2014年に、[[文部科学省]]「[[スーパーグローバル大学]]創成支援事業」の指定校となる。グローバル化が進展し国際交流の隆盛に伴い、留学生も増え、学内における国際交流と留学情報発信の拠点として、「グローバルラウンジ」池袋、新座の各キャンパスに開設された<ref>{{Cite web |url=https://spirit.rikkyo.ac.jp/international/campus/SitePages/lounge.aspx |title=キャンパスでできる国際交流 - グローバルラウンジ |publisher=立教大学 |date= |accessdate=2025-04-07}}</ref>。日本にいながら留学生と交流し、多様な文化に触れ、語学力を高められる施設で、国際交流イベントやワークショップも多く開かれる。専属の国際交流コーディネーターによる留学相談窓口もあり、留学プログラムの情報提供も行う。より幅広い国の学生に対応するためにイスラム圏の学生が主に利用できる、祈りの部屋を設置するなど、施設面でも充実を図っている。国際交流ボランティア制度もあり、来日した留学生の生活サポートを行い、積極的に国際交流を行うことができる環境が整う。
 
2015年からは、[[スタンフォード大学]]の学生と「[[#国際交流|陸前高田プロジェクト]]」に取り組んでいる。2016年に、全学部生が受講できる「グローバル教養副専攻」を開設。所属する学部学科で修得する専門性に加えて、もう一つの専門性を修得し、多面的に物事を捉え持続的に考える力を養成するプログラムで、大学が認定する海外学習も行う。3コース21テーマの中で興味・関心あるものを選択し、テーマに沿って体系的に学んでいく。中でも2018年には、[[#データサイエンス教育・研究推進|データサイエンス副専攻]]が開設され、データ分析、IT技術、統計学、調査理論などを学び、グローバル人材に必要なデータ活用力を身に着けられる。こうした主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部履修形態は欧米の大学では一般的だが{{Refnest|group="注釈"|例として、[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ主教]]が卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学|ウィリアム&メアリー大学]]でも、主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部課程履修プログラムが設けられており、文系科目、理系科目に問わず、多くの副専攻が用意されている<ref>[https://www.wm.edu/majorsminors/index.php Undergraduate Majors & Minors]</ref>。また別の例として、[[コーネル大学]]では、主専攻とともに多くの副専攻が設置されているのに加え、2つの主専攻を学ぶdual-degree programs(2重学位プログラム)があり、従来の部門の境界を超える学際的な履修プログラムが設けられている<ref>[https://www.cornell.edu/academics/fields.cfm Undergraduate Majors]</ref>。}}、日本では、同じミッション系大学の[[国際基督教大学]]が採用している。グローバル教養副専攻の履修科目は所属学科の卒業単位にも算入でき、修了すると卒業時に修了証が授与され、300以上ある全学共通科目と合わせ、[[リベラルアーツ]]教育が充実化した。また、他学部が開講する専門科目も一部を除き履修可能で、大学全体を通して履修できるプログラムの自由度が高いのが特徴である。2017年には、国や地域を超えて、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する国際教養学部相当の[[#Global Liberal Arts Program (GLAP)|Global Liberal Arts Program (GLAP)]] を設置した。
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2021年11月、[[文部科学省]]「大学の世界展開力強化事業」において、新規採択分として私立大学で唯一の採択校となった<ref name="The_ACE">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2021/11/mknpps000001rpk5.html 令和3年度「大学の世界展開力強化事業~アジア高等教育共同体(仮称)形成促進~」に私立大学では本学のみが採択]</ref>。2014年に採択された「[[スーパーグローバル大学]]創成支援事業」を引き継ぐ大学の中核事業として位置づけ、[[ソウル大学校]](韓国)、[[北京大学]](中国)、[[シンガポール国立大学]](シンガポール)のアジアトップクラスの大学との連携事業である「ACEプログラム(The Asian Consortium for Excellence in Liberal Arts and Interdisciplinary Education)」を開設し、4大学による国際共同副専攻 (ALIS) を設置した{{Refnest|group="注釈"|4大学共同で開発する教育プログラムによる相互質保証の上で、4大学間長期交換留学、インターンシップ、インテンシブプログラム、共同オンライン科目群で構成する「国際共同副専攻 (ALIS)」を開設し、アジア文化圏の学生や多様な人々との協働を通じて、国際社会の諸問題の解決について思考し、行動できる人材を育成することを目的としている。}}<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/global/2023/mknpps0000023q7e.html 立教大学『立教の世界展開力 ― 世界で選ばれる大学へ』2023/01/17]</ref>。
 
海外協定校は、20232024105月現在、世界4546か国・地域に及んでおり、米国の[[コロンビア大学]]、[[コーネル大学]]、[[シカゴ大学]]、[[バージニア大学]]、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]、英国の[[ケンブリッジ大学]]、[[マンチェスター大学]]、[[リヴァプール大学]]、[[シェフィールド大学]]、フランスの[[:en:University of Paris (2019)|パリ大学]]、オーストラリアの[[シドニー大学]]、[[モナシュ大学]]、[[ニューサウスウェールズ大学]]、シンガポールの[[シンガポール国立大学]]、中国の[[北京大学]]、[[清華大学]]、[[南京大学]]、韓国の[[ソウル大学校]]、[[高麗大学校|高麗大学]]、[[延世大学校|延世大学]]など、世界246255の大学と271280の協定を結んでいる<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/support/international/partners.html 『国際交流協定校/Student Exchange Partners』]</ref>。{{-}}
 
=== リーダーシップ教育 ===
[[画像File:立教学院諸聖徒礼拝堂内観Rikkyo All Saints Chapel (2).jpg|250px300px|thumb|立教学院諸聖徒礼拝堂/チャペル<br />{{small|(東京都選定歴史的建造物、池袋キャンパス)}}]]
リーダーシップ教育においては、[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]では少人数の体験・実践的なコアカリキュラムである'''BLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)'''<ref name="blp">[https://cob.rikkyo.ac.jp/cob/blp.html BLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)]</ref> があり、実際に企業と連携し、企業から提示される課題にチームで挑む中で、プロジェクトの進め方を学び、リーダーシップ力が養える環境となっている。[[インターンシップ]]と同じく、社会体験型の[[アクティブ・ラーニング]]である。
BLPは、日本初の学部必修のプログラムとして2006年に開設された{{Refnest|group="注釈"|その頃、日本国内には学部レベルのリーダーシップ教育の科目はなく、社会心理学的、組織行動論的な科目はあったが、学生にリーダーシップを身に付けさせる科目は皆無であった<ref>{{PDFlink|[https://www.seijo.ac.jp/about/approach/fd/jtmo420000004gvb-att/2014katsudohoukoku.pdf 成城大学FD委員会 活動報告 2014年版]}}</ref>。}}<ref>[https://president.jp/list/author/%E6%97%A5%E5%90%91%E9%87%8E%20%E5%B9%B9%E4%B9%9F 日向野 幹也 PRESIDENT Online]</ref>。2011年には、先進的な教育方法を常に取り入れていることが評価され、[[文部科学省|文科省]]・日本学術振興会の「教育GP」(2008─10年度)の成果審査の結果「他(大学)に波及が見込まれるイノベーティブな取組」であるとして最高ランクの評価を受けている<ref name="leadership20160501">[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/leadership-education/2016/0501.html 立教大学リーダーシップ研究所『リーダーシップ研究開発で日本の教育に新しい風を』リーダーシップ研究開発で日本の教育に新しい風を]</ref>。<br />
BLPで培うリーダーシップ力は、これまでの組織内で権限を持つ一部の人が発揮するべきものとされた能力とは異なり、役職に関係なく全ての人が状況に応じて発揮することができるスキルである。質の高い授業と充実した施設環境の中で、能動的で主体性を持った学生が育ち、勉学に本気で取り組む風土となっている。上級生になるとSA(ステューデント・アシスタント){{Refnest|group="注釈"|授業のアシスタントを務める学生。SAを希望する学生は多く、学内応募・選考を経て、研修を行った上で授業のサポートにあたる。}}としてプログラムの運営側に回り、下級生へのコーチングや議事進行、教授のサポートなど[[ファシリテーター]]として運営側の視点も身に付き、相乗効果が生まれている。卒業後に、いかなる企業や組織でも活躍していくことができる力を育成する環境となっている。企業側から見ても、学生([[ジェネレーションZ|Z世代]])の意見を取り込みながら、外部の会社に委託、発注することなく、[[マーケティングリサーチ|市場調査]]を行うことができ、新規事業開発や戦略立案などで企業と社員を活性化させる[[インキュベーター (起業)|インキュベーター]]となり、[[産学連携]]や企業の社会貢献の有効なモデルとなっている。また、参加する社員のリーダーシップ研修の場にもなっている。
 
'''立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)'''<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/education/glp.html 立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)]</ref> は、内外で評価が高い経営学部のBLPのメソッドを全学で展開するために、2013年度に設置された。BLPと同じく、企業や団体の提示するプロジェクト課題に少人数のチームで取り組み、実践的、体系的にリーダーシップを修得できる全学部を対象としたプログラムで、日本語科目のほか英語科目も設けられており、国際性や語学力も高めることができる。英語科目には、グローバル教育センターが指定する海外学習プログラムに参加するリーダーシップ海外体験科目も用意されている。GLPは、今までの受け身の授業とは異なるプログラムで、本気で取り組んでいる人を応援する文化があり、仲間との真剣な取り組みの中で、主体的に考え行動していく力が身に付き、卒業後に様々な業界で活躍する人材を輩出している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/leadership-education/2021/mknpps000001jfu8.html 卒業生たちのインタビュー 立教GLPを履修し、社会で活躍する卒業生の声]</ref>。
 
2016年度からは立教サービスラーニング (RSL) が全学共通科目で始まり、NPO、行政、企業等の受け入れ先での体験学習を通じて、リーダーシップ力を磨くプログラムを用意している。[[延世大学]]・[[復旦大学]]・[[慶應義塾大学]]とは「[[#国際交流|リーダーシップフォーラム]]」を毎年開催している。
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=== 奨学金制度、経済的支援 ===
学生の経済的基盤を整え、学費負担を軽減し、学業継続の機会を保障するために、様々な[[奨学金]]制度が用意されている<ref>[https://spirit.rikkyo.ac.jp/student_affairs/scholarships/SitePages/index.aspx 奨学金]</ref>。立教大学独自の奨学金はすべて返還不要の給与奨学金で、人物、学業ともに優秀な学生の修学を援助するものとなっている。入学前に申し込むタイプ(入学前予約型奨学金)と入学後に申し込むタイプとの2種類がある。入学前予約型奨学金には、親元を離れ、住居費・生活費で経済的負担が増す、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県を除く全国の高等学校出身者対象の「自由の学府奨学金<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/support/scholarship/freedom.html 自由の学府奨学金]</ref>」と、[[#Global Liberal Arts Program (GLAP)|Global Liberal Arts Program (GLAP)]] への入学希望者を対象とした「GLAP奨学金<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/support/scholarship/glap.html GLAP奨学金]</ref>」がある。「自由の学府奨学金」の支給額は年額50万円(理学部入学者は年額70万円)で、採用候補者数は約500名(2023年度現在)と、大きな枠となっており、4年間受給した場合、国公立大学の授業料とほぼ差がない制度となっている。入学後に申し込むタイプの奨学金の中には、経済的理由により修学が困難な学生を支援するための経済支援奨学金や国際化戦略の一環として、学生が積極的に留学プログラムに参加するよう設置された「グローバル奨学金」などがある。
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[[画像:St Pauls Cathedral West Front.jpg|230px|thumb|left|[[イングランド国教会]]ロンドン教区の主教座聖堂「[[セント・ポール大聖堂]]」。]]
 
=== 名称の由来 ===
「立教」の出典については諸説あるが、近年の研究により、最も有力なのは、かつて聖公会の[[聖公会祈祷書|祈祷書]](礼拝時に用いる規則書)にあった「立教師」ということばに由来するのではないかいわれの説が浮上している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/spirit/ 校名の由来 ~立教とSt. Paul~]</ref>。この「立教師」という言葉は、[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ主教]]によって訳出された可能性が高とも考えられてる<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/spirit/ 校名の由来 ~立教とSt. Paul~]</ref><ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、101-105頁</ref>。その他の説として、[[朱熹|朱子]]の『小学』立教篇から採ったとの説<ref name="rikkyo100_152">{{harvnb|『立教学院百年史』|p=152}}</ref>、儒学者高愈が註をした「立教法以治人」から採ったとの説<ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc032.html 立教うんちく話 第32回「校名『立教』と『St.Paul's』の由来」]</ref>、[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー]]が「立教はセント=ポールズの日本名で、それは『教えの建設』を意味する」と記したとの説<ref name="rikkyo100_152"/> がある。
 
応援歌や学園祭の名称などで使用されているスクール・ニックネームの、"St. Paul" についても確かな文献は見当たらないが、ウィリアムズ主教が[[1882年]](明治15年)頃に英名として "St. Paul’s School" と命名したと考えられている<ref name="rikkyo100_151">{{harvnb|『立教学院百年史』|p=151-153}}</ref>。米国聖公会系の学校には全て「守護聖人」が存在しており、St.Paul (SAINT PAUL) =聖パウロは、新約聖書の著者の一人。[[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)ロンドン教区の主教座聖堂は「[[セント・ポール大聖堂]]」と聖パウロを記念して名付けられている{{Refnest|group="注釈"|[[1509年]]に創設された英国の[[パブリックスクール]]の名門校で、[[ラグビースクール]]とともに[[ラグビーフットボール|ラグビー]]競技のルーツ校の一つである「[[セント・ポールズ・スクール (ロンドン)|セント・ポールズ・スクール]]」の名称は、[[セント・ポール大聖堂]]に由来し、同校は大聖堂の主任司祭であった[[ジョン・コレット]]によって創設された<ref>[https://www.stpaulsschool.org.uk/about-st-pauls/history-archives/ History and Archives]</ref><ref>[https://rugby-rp.com/2015/08/20/domestic/highschool-rugby/13361 『RUGBY REPUBLIC』ベースボールマガジン社]</ref>。1904年には、女子校である「[[:en:St Paul's Girls' Schoolセント・ポール女学校|セント・ポールズ・ガールズ・スクール]]」が創設されている。}}。ウィリアムズ主教は自ら遠く東洋へ赴いた伝道者として、偉大な聖パウロを守護聖徒と仰ぎ、その名を本学の名に冠したものと思われる。また、ウィリアムズを支援し、日本初のプロテスタントの教会である[[英国聖公会会堂]]の設立資金を寄金した[[:en:George Smith (Bishop of Victoria)|ジョージ・スミス主教]]は、[[香港]]で最も古くから運営される1851年(嘉永4年)に創設された英国国教会の{{仮リンク|セント・ポールズ・カレッジ (香港)|en|St. Paul's College, Hong Kong}}の校長を務めている。<br />
加えて、1878年(明治11年)には、[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ジョン・パイパー]]司祭が築地居留地52番に「聖保羅教会(セントポール教会)」を創設し、米国聖公会と[[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会福音宣布協会]](SPG)とも連携しており、1882年以前に[[築地]]において既にセントポールの名称が用いられている。この聖保羅教会の名称は、SPGの[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]が1876年(明治9年)に三田松本町に設立した教会([[聖アンデレ教会]]の前身)の名称として既に使われていたが、三田では会堂を有していなかったこともあり、パイパーが築地で創設した教会の礼拝堂(会堂)が落成した際に教会の名称となった<ref name="natori-2004"/><ref>日本聖公会 聖アンデレ教会 [http://st-andrew-tokyo.com/guide/profile/ 『教会のプロフィール』]</ref>。<br />
1892年(明治25年)頃の立教学校(第2次)はセント・ポール英語学校とも呼ばれ、[[杉浦貞二郎]](後の立教大学学長)や、[[アーサー・ロイド]]の斡旋で[[ケンブリッジ大学]]に留学する[[吉田栄右]]らが在籍した<ref name="rikkyonews053"/>。
 
=== 建学の精神 ===
校歌に謳われるように、立教学院は自らを「自由の学府」と呼び、基本理念を端的に示すものとして各所で使用している{{#tag:ref|立教大学元総長の[[松下正寿]]は、『立教は自由の学府である。自由とは信教の自由、思想の自由、表現の自由である。』と語っている<ref name="rikkyonews175">[https://primlibrary.rikkyo.ac.jp/aboutdigitallibrary/historyrikkyonews/pdf/60(S35)0110_175.htmlpdf 立教院の沿革新聞 | 立教小学校第175号』] 1960年(昭和35年)1月10日</ref>、基本理念を端的に示すものとして各所で使用している。|group="注釈"|name="liberty"}}{{Refnest|group="注釈"|京都大学でも立教大学と同じく、創立以来「自由の学風」を基本理念に掲げている。研究の自由と自主の環境の中で、世界的な研究者を生み出してきた。}}<ref>[https://prim.rikkyo.ac.jp/about/history.html 立教学院の沿革 | 立教小学校]</ref>
 
建学の精神を表す言葉が「[[:en:Pro aris et focis|PRO DEO ET PATRIA]](神と国とのために)」で、立教大学では、これを「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」と捉えている。「PRO DEO ET PATRIA」は、立教学校設立から約半世紀を経た[[1918年]](大正7年)、築地から池袋への移転を機に、当時総理であった[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|チャールズ・ライフスナイダー]]が、建学の精神を具体的に表現するものとして定めた立教の「[[#楯のマーク|楯のマーク]]」(現在のオフィシャル・シンボル)の中に書かれている<ref>[[1926年]](大正15年)の年頭における[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]総長の演説によって明確に標語化された(『立教学院百年史』331-332頁)。</ref><ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/spirit/ 創立者と建学の精神]<name="mark2"/ref>。校友会館である「セントポールズ会館」の礎石には、校友会会長であった[[大川又三郎]]の自筆で「神と国との為に」と刻まれている<ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc017.html 立教大学校友会・立教うんちく話『第17回「セントポールズ会館」』]</ref>。{{-}}
 
=== 教育および研究 ===
==== 概要 ====
[[画像:Rikkyo University 06.jpg|250px|thumb|池袋キャンパス]]
[[リベラル・アーツ|リベラルアーツ教育]]に基づき、グローバルな課題と社会的要請に対応し、広い視野に立って課題を発見・解決できる能力を持った「新しい」グローバルリーダーの育成を教育の中心に据えている。「新しい」グローバルリーダーに不可欠な要素として「柔らかなリーダーシップ」と「グローバルな力」を掲げ、教育プログラムを構成している。「柔らかなリーダーシップ」とは、権限やカリスマ性がなくても、チームをまとめ、活性化させ、仲間の力を引き出すことができる誰もがトレーニングによって持つことができ活躍できる能力と捉えている。「グローバルな力」とは単に英語が話せるということではなく、あらゆる国や人種の多様な文化や価値観を受け入れ、認め、社会全体のために行動できる力としている<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/education/ 立教大学の教育の特徴]</ref>。これらの力は、遠い異国の地から日本に渡来し、幾多の壁を乗り越え道を開き活動した創立者や宣教師たちの行動力([[#沿革]]を参照)そのものを表しており、建学以来流れる教育指針といえる。
 
米国[[ニューヨーク]]にある名門[[コロンビア大学]]は、[[ジョージ2世]]の[[勅許]]によって[[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)により設立された立教大学と同じ[[聖公会]]系の大学である。構内には[[:en:St. Paul's Chapel (Columbia University)|セントポールズ・チャペル]]も持つ。創立当初「キングス・カレッジ」としての大学の方針を確立する際に、全ての構成員は、宗教の自由の原則にコミットすることに同意している。立教大学の教育方針は、キリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育であり、多様性を認め、受け入れる「真の国際人」を育てるグローバル教育を特長とし<ref>[https://wwwrec.rikkyogakuinrikkyo.ac.jp/about/integrated_education/global.html グローバル教育]</ref>、
「自由の学府」として、コロンビア大学と同じく、宗教の自由の原則にコミットされている{{Refnest|group="注釈"|コロンビア大学でも学んだ[[元田作之進]](立教大学の初代学長)は、立教中学の校長時代に、立教の教育の方針を「徳育に重きを置き、人格の完全した生徒を養成するといふこと」にあるとして、「聖書クラスなどが設けてあるとは云っても、これは生徒の徳育に資せやうとするので、如何してもこれに加はらねばならぬと云うものではない。生徒各自が宗教に就いての信仰を持つ、持たぬは各自の自由である。従つて普通の宗教学校にやうに、朝祈祷もせなければ礼拝も行はぬ。」と語っている<ref name="college"/>。<br />同じくコロンビア大学で学び、総長を務めた[[松下正寿]]は、「立教大学はキリスト教に基づく教育を施すところである。というのは立教大学はキリスト教を教えるところ(文学部キリスト教学科は別であるが)であるという意味でなく、況んやキリスト教を強制するところではない。直接の強制はもとより間接の強制もしない。クリスチャンであるか否かは入学試験には一切関係ないし入学後もクリスチャンは他の学生に比し何ら特権を持っていない。一切平等である。我々はそれが『キリスト教に基づく教育』であると信じている。(中略)人種の別、男女の別、階級の別、宗教の別等で人間を差別待遇するのは独りの神が人間を平等に造られ、人間を凡で愛し給うというキリストの信条に違反する。」と語っている<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/55%28S30%291205_124.pdf 立教大学新聞 第124号 1955年12月5日]}}</ref>。
}}<ref group="注釈" name="liberty"/>{{Refnest|group="注釈"|米国[[コネチカット州]]の伝統あるリベラルアーツ・カレッジの[[トリニティ・カレッジ (コネチカット州)|トリニティ・カレッジ]]も立教大学と同じく[[米国聖公会]]によって設立された大学であるが、宗教的および学問の自由の原則に根差している。トリニティ・カレッジの憲章は、創立当時の宗教的多様性と寛容性と一致して、学生、教職員、または大学の他のメンバーに宗教的基準を課すこと禁じている。1957年(昭和32年)には、立教大学芸術研究会がトリニティ・カレッジとの美術作品交歓展を企画開催するなど交流の歴史がある<ref name="rikkyonews146">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/57(S32)0925_146.pdf 『立教大学新聞 第146号』] 1957年(昭和32年)9月25日</ref>。立教大学はトリニティ・カレッジと大学間協定を締結している。}}{{Refnest|group="注釈"|[[アイビー・リーグ]]の1校である[[ペンシルベニア大学]]は、初代理事長の[[:en:William Smith (Episcopal priest)|ウィリアム・スミス]]は[[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)の司祭であり、評議員の4分の3が英国国教会の関係者であったが、創設者である[[ベンジャミン・フランクリン]]の先駆的な指導のもと、意図的に特定の宗派と直接関係しないように設立されている<ref>[https://chaplain.upenn.edu/about-us/history/ University of Pennsylvania『HISTORY The Office of the Chaplain』]</ref>。そうした中でも、大学構内には米国聖公会のセント・メリーズ教会([[:en:Saint Mary's Church, Hamilton Village|St. Mary’s Church, Hamilton Village]])があり、セントメリーズ・ハミルトンビレッジの学長は、ペンシルベニア大学のチャプレン事務所のアソシエイトを務めており、聖公会との深い関わりを持っている<ref>[http://stmarysatpenn.org/history/ St.Mary's,Hamilton Vilage『History Campus Ministry』]</ref>。<br />また、幕末の長崎に[[ジョン・リギンズ (宣教師)|リギンズ]]とウィリアムズとともに米国聖公会から派遣された[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]もペンシルベニア大学で学び、医師免許を取得しているが、在学中に米国聖公会と密接な関係を築いたとみられる<ref name="medical2"/>。立教大学学長を務めた[[元田作之進]]、[[杉浦貞二郎]]、[[須藤吉之祐]]はペンシルベニア大学で学んだ。}}。[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ主教]](立教大学創設者)の名前の由来である米国聖公会ヴァージニア教区第2代主教の[[リチャード・チャニング・ムーア]]、ウィリアムズ主教の{{仮リンク|ヴァージニア神学校|en|Virginia Theological Seminary}}時代の恩師であるウィリアム・スパロウもコロンビア大学の出身であり、嚆矢濫觴から繋がっている{{#tag:ref|リチャードがヴァージニア教区主教時代の[[1823年]]に、後に[[ジョン・リギンズ (宣教師)|リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]が学び、海外宣教師になることを決意することとなった{{仮リンク|ヴァージニア神学校|en|Virginia Theological Seminary}}が設立されている。ウィリアムズがヴァージニア神学校で学んでいた時期(1852年-1855年)に、同神学校で専任教授を務めていたのは、ジョセフ・パッカード、ウィリアム・スパロウ、ジェームズ・メイであったが、スパロウは校長であり、組織神学とキリスト教証拠論の担当教授であった。ウィリアムズは卒業論文に『信仰義認』をテーマに選んだが、そこにはスパロウの影響が強くあったと推測されている<ref name="iwaki-2016">{{Cite journal|和書 |author=岩城 聰 |title=<論文>日本宣教の先駆者C・M・ウィリアムズのバックグラウンド --十八、十九世紀の米国聖公会における神学的ダイナミズム-- |journal=基督教学研究 |publisher=京都大学基督教学会 |year=2016-03 |volume=35 |pages=27-52 |url=https://hdl.handle.net/2433/268653 }}</ref>。|group="注釈"}}。ウィリアムズ主教は、[[1867年]](慶応3年)に、コロンビア大学より神学博士号を授与されている。<br>
聖公会の信徒である[[ベンジャミン・フランクリン]]が創設した[[ペンシルベニア大学]]も、初代理事長を始め評議員の大部分が聖公会関係者であったが意図的に特定の宗派と関係しないよう設立されている{{Refnest|group="注釈"|[[アイビー・リーグ]]の1校である[[ペンシルベニア大学]]は、初代理事長の[[:en:William Smith (Episcopal priest)|ウィリアム・スミス]]は[[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)の司祭であり、評議員の4分の3が英国国教会の関係者であったが、同じく[[聖公会]]の信徒であった創設者の[[ベンジャミン・フランクリン]]の先駆的な指導のもと、意図的に特定の宗派と直接関係しないように設立されている<ref>[https://chaplain.upenn.edu/about-us/history/ University of Pennsylvania『HISTORY The Office of the Chaplain』]</ref>。そうした中でも、大学構内には米国聖公会のセント・メリーズ教会([[:en:Saint Mary's Church, Hamilton Village|St. Mary’s Church, Hamilton Village]])があり、セントメリーズ・ハミルトンビレッジの学長は、ペンシルベニア大学のチャプレン事務所のアソシエイトを務めており、聖公会との深い関わりを持っている<ref>[https://web.archive.org/web/20231201123114/http://stmarysatpenn.org/history/ St.Mary's,Hamilton Vilage『History Campus Ministry』]</ref>。ベンジャミン・フランクリンは、[[フィラデルフィア]]の[[:en:Christ Church, Philadelphia|クライスト・チャーチ]]に通う英国国教会(聖公会)の信徒で<ref name="iwaki-2016"/>、墓地は同教会近くの{{仮リンク|クライスト・チャーチ墓地|en|Christ Church Burial Ground}}にある。<br />また、幕末の長崎に[[ジョン・リギンズ (宣教師)|リギンズ]]とウィリアムズとともに米国聖公会から派遣された[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]もペンシルベニア大学で学び、医師免許を取得しているが、在学中に米国聖公会と密接な関係を築いたとみられる<ref name="medical2"/>。立教大学学長を務めた[[元田作之進]]、[[杉浦貞二郎]]、[[須藤吉之祐]]はペンシルベニア大学で学んだ。}}。同大学も、[[元田作之進]]、[[杉浦貞二郎]]、[[須藤吉之祐]]の元学長らが留学するなど立教大学と関係が古いが、1900年(明治33年)には[[築地]]の立教学院においてペンシルベニア大学の入学試験が行われるなどの連携がなされ、同大学へ多くの学生を送り出した<ref name="archives-19000706">立教史データベース 基督教週報第1巻第19号 [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『日本監督基本金会計報告 従三十二年一月至三十三年六月』] 1900年7月6日</ref>。
 
[[画像:Columbia University - Low Library.jpg|316px|thumb|left|[[聖公会]]が設立し、元校長の[[テオドシウス・ティング]]や初代学長の[[元田作之進]]、文学部長の[[小島茂雄]]、学科長の[[落合吉之助]]、総長を務めた[[松下正寿]]が学んだ「[[コロンビア大学]]」。]]
立教大学におけるキリスト教学は他のキリスト教系大学にあるような[[聖職者]]養成を目的とした[[神学]]ではなく、純粋に学問としてキリスト教を研究する[[宗教学]]である。したがって信仰の有無は問われない。文学部キリスト教学科は[[ハーバード大学]][[:en:Harvard Divinity School|神学大学院]]で神学を修めた[[菅円吉]](文学部長)によって1946年4月に創設された{{#tag:ref|キリスト教学科を創設した[[菅円吉]]が学んだ[[ハーバード大学]]神学大学院/神学校([[:en:Harvard Divinity School|Harvard Divinity School]])は、[[ハーバード大学]]の構成校の1つで、ハーバード大学の専門職大学院としては1782年に設立された医学部([[ハーバード大学医学大学院]]/Harvard Medical School)に次いで、1816年に2番目に設立された。ハーバード大学神学大学院/神学校とハーバードにおける神学研究の起源はハーバード大学の創立時の1636年に遡り、当初[[清教徒]]/[[会衆派教会|会衆派]]教会の学校として設立されたハーバード大学は、長年にわたって牧師を養成してきた。1816年に国内初の無宗派の神学部として独立した専門機関となり、「キリスト教の真理を真剣に、公平に、偏りなく研究することを奨励する」ことを目的としてハーバード大学神学大学院/神学校が設立された<ref>HARVARD DIVINITY SCHOOL [https://hds.harvard.edu/about/history-and-mission 『History and Mission』]</ref><ref>HARVARD MEDICAL SCHOOL [https://hms.harvard.edu/about-hms/history-hms 『The History of HMS』]</ref>。|group="注釈"}}。戦前には同大学院に学んだ[[高松孝治]](立教大学1期生)も[[ギリシア哲学]]を教えた<ref name="matsudaira-2019">{{Cite journal|和書 |author=松平 信久 |title=佐々木順三の立教への赴任および大学・学院運営に関する二三の考察 |journal=キリスト教教育研究 |publisher=立教大学総合研究センター |year=2019-03 |volume=36 |pages=111-128 |url=https://doi.org/10.14992/00020971 }}</ref>。
立教大学におけるキリスト教学は他のキリスト教系大学にあるような[[聖職者]]養成を目的とした[[神学]]ではなく、純粋に学問としてキリスト教を研究する[[宗教学]]である。したがって信仰の有無は問われない。文学部キリスト教学科は[[ハーバード大学]]で神学を修めた[[菅円吉]](文学部長)によって創設された。同学科では[[聖書学]]からキリスト教芸術や[[倫理学]]までキリスト教の広範な領域をカバーしており、キリスト教が世界の歴史や文化にどのような影響を与え、受けてきたのかを学び、世界の文化・思想・芸術など、多様な視点から探求することを目的としている。世界人口の約3分の1が信徒とも言われるキリスト教を広く学ぶことができる国際的な学科である。また、全学部生が履修できる全学共通科目では、仏教の世界やイスラームの世界についても学ぶことができる。歴史的にも1894年(明治27年)には、[[仏教学者]]で後に[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学文学部]]を創設し、[[インド哲学]]の泰斗である[[松本文三郎]](京都大学元学長、京都大学名誉教授)が立教学校の教授に就任し、教鞭を執っている<ref name="shien-1962"/>。大学創設者の[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]も仏教研究を行っていたが、[[アーサー・ロイド]](立教学院総理)も仏教研究者としても活躍し、第2次大戦後もロイドが著した仏教研究書は必読書とされた<ref>立教大学 池袋図書館 [http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/arthurlloyd/explain/explain_01.html 『アーサー・ロイドについて』]</ref>。<br />[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]は大学設立当初に設置された文科をルーツとし、商科から続く[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]と[[立教大学経営学部|経営学部]]{{Refnest|group="注釈"|name="College_of_Business"|[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]は、2006年に経済学部経営学科と社会学部産業関係学科を母体として開設された学部である。そのルーツは大学設立当初の商科に遡り、長い歴史と伝統を有している。}}とともに立教大学で最も古い。文学部文学科には、[[英米文学]]、[[フランス文学]]、[[ドイツ文学]]といった伝統と歴史ある国際系学問の専修もあり、外国の文学に加え、映画、音楽、芸術、思想など様々な観点から文化を幅広く学べ、国際的な知性と語学力を高めることができる。[[英文学|英米文学]]においては、[[1883年]](明治16年)に立教学校卒業生で大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)教授の[[河島敬蔵]]が日本初となる[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇の翻訳(『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』の逐語訳)を発表し、[[1886年]](明治19年)には、日本で初めて『[[ロミオとジュリエット]]』の翻訳書を出版し、日本の英米文学史に名を残す功績を上げている<ref>{{Cite journal|和書 |author=吉武好孝 |title=紀州出身の英学者 Shakespeare学者 河島敬蔵と鷲山第三郎 |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1969 |issue=1 |volume=1969 |pages=15-22 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1969.15}}</ref><ref>[https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/kawasima.html 和歌山県ふるさとアーカイブ『紀の国の先人たち 河島 敬蔵』]</ref>。また、[[1889年]](明治22年)にシェイクスピア劇の翻訳を在学中に掲載した[[水田南陽]]は、[[1899年]](明治32年)に日本へ『[[シャーロック・ホームズ]]』を紹介した先駆者である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E7%94%B0%20%E5%8D%97%E9%99%BD-1655768 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)]</ref>。立教学校出身で[[スタンフォード大学]]に留学した[[長沢別天]]は、[[1893年]](明治26年)に[[エドガー・アラン・ポー]]の[[詩]]を日本に初めて紹介し、翌年には[[ジョン・ミルトン]]の評論を著すなど、明治期に[[英文学]]の普及に務めた。<br />
同学科では[[聖書学]]からキリスト教芸術や[[倫理学]]までキリスト教の広範な領域をカバーしており、キリスト教が世界の歴史や文化にどのような影響を与え、受けてきたのかを学び、世界の文化・思想・芸術など、多様な視点から探求することを目的としている。世界人口の約3分の1が信徒とも言われるキリスト教を広く学ぶことができる国際的な学科である。また、全学部生が履修できる全学共通科目では、[[仏教]]の世界や[[イスラム教|イスラーム]]の世界についても学ぶことができる。歴史的にも[[1894年]](明治27年)には、[[仏教学者]]で後に[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学文学部]]を創設し、[[インド哲学]]の泰斗である[[松本文三郎]](京都大学元学長、京都大学名誉教授)が立教学校の教授に就任し、教鞭を執っており<ref name="shien-1962"/>、[[1925年]](大正14年)に文学部に史学科が創設されると、実証的な[[日本仏教史]]を確立した[[辻善之助]](東京大学名誉教授)や[[藤本了泰]]([[仏教学者]]、[[僧侶]]、[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]住職)が教授に就いた<ref name="shien-1967"/>。大学創設者の[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]も仏教研究を行っていたが、[[アーサー・ロイド]](立教学院総理)も仏教研究者としても活躍し、第2次大戦後もロイドが著した仏教研究書は必読書とされた<ref>立教大学 池袋図書館 [http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/arthurlloyd/explain/explain_01.html 『アーサー・ロイドについて』]</ref>。<br>
1903年(明治36年)には、[[ハリー・ポッターシリーズ]]に影響を与えた[[トマス・ヒューズ]]の『[[トム・ブラウンの学校生活]]』の訳書を立教生の[[岡本鶴松]]が『英国学校生活』として出版した。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は[[築地]]・[[明石町 (東京都中央区)|明石町]]にあった立教学院活版部で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であった[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|ヘンリー・タッカー]]が寄稿した<ref>国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース [https://kindai.nijl.ac.jp/kindais/NGSM-00740 『英国学校生活 前編』]</ref>。この作品はヒューズが在学した[[聖公会]]の[[ラグビースクール]]を舞台としており、[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で大人気の作品であったが、日本でも明治時代の高校生に最も人気のある英語圏生まれの教科書となった<ref>Abe, Iko. [http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/09523360600673104 "Muscular Christianity in Japan: The Growth of a Hybrid"]. ''The International Journal of the History of Sport''. Volume 23, Issue 5, 2006. pp. 714-738. Reprinted in: Macaloon, John J. (ed). [https://books.google.com/books?id=jSjcAAAAQBAJ&pg=PA16 ''Muscular Christianity and the Colonial and Post-Colonial World'']. Routledge, 2013. pp. 16-17.</ref>。<br />
[[明治]]期の日本では、宗教や宗派を超えた研究や修学も行われており、[[京都市|京都]]・[[東本願寺]]から[[大谷光瑩]]([[真宗大谷派]]管長)により笠原研寿と[[南条文雄]]が、[[サンスクリット]](梵語)研究のために聖公会の[[オックスフォード大学]]に留学したほか<ref>{{Cite journal|和書 |author=井上 琢智 |title=山辺丈夫滞英時代(1879)の英文・日本語日記 |journal=経済学論究 |issn=02868032 |publisher=関西学院大学経済学部・経済学研究科 |year=2015-12 |volume=69 |issue=3 |pages=133-180 |url=https://hdl.handle.net/10236/14837 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=雲井昭善 |date=1968-05 |url=https://otani.repo.nii.ac.jp/records/7804 |title=<人と業績> 南条文雄先生 -- 近代仏教学研究の先駆者 -- |journal=佛教学セミナー |ISSN=0287-1556 |publisher=大谷大学佛教学会 |volume=7 |pages=60-70 |naid=120006724521 |CRID=1050845763430273792 }}</ref>、[[大西良慶]](京都・[[清水寺]]住職、北[[法相宗]]管長)を始め、[[奈良市|奈良]]の[[東大寺]]や[[興福寺]]の若い[[比丘|僧侶]]も聖公会の[[奈良英和学校]](立教大学の姉妹校)に通うなどの事例も見られた<ref>奈良市 [https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/7311.html 奈良市史・通史四『第三節 文明開化の世相』]</ref>。
上述に加えて、ホームズの著者、[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]に影響を受けた[[江戸川乱歩]]だが<ref>[https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01199/ nippon.com『日本ミステリーを育てた作家・江戸川乱歩の世界―海外でも再評価の動き』]</ref>、長男の[[平井隆太郎]]は[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]教授を務め、立教ミステリクラブ顧問も務めた{{Refnest|group="注釈"|立教ミステリクラブは、編集者で元・[[東京創元社]]社長の[[戸川安宣 (編集者)|戸川安宣]]が学生時代に作ったクラブである<ref>{{Cite journal|和書 |author=戸川安宣 |title=平井隆太郎先生の思い出 |journal=センター通信 |publisher=立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター |year=2016-03 |volume=10 |pages=1-2 |url=http://id.nii.ac.jp/1062/00016401/ }}</ref>。戸川は、編集者としてミステリ作家を多数育成する傍ら、文庫解説等の執筆を行い、2018年からは江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』1‐5巻のリニューアルなどを手掛けている<ref>[http://www.tsogen.co.jp/np/author/507 東京創元社・著作一覧『戸川安宣』]</ref>。}}。大学に隣接する乱歩邸は、2002年に立教大学に寄贈され、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターでは、日本内外の[[大衆文化]]研究の拠点として研究成果の公開と社会還元を行っている<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rampo/ 大衆文化研究センター(旧江戸川乱歩邸)]</ref>。<br />1926年(大正15年)から[[アメリカ文学]]研究の先駆者である[[富田彬]](立教大学名誉教授)が教授に就き、同研究の基盤を築いた。日本における『[[ピーターラビット]]』と[[ビアトリクス・ポター]]研究の第一人者である[[吉田新一]](立教大学名誉教授)は、出身である英米文学科(現・英米文学専修)で講じ、多くの海外[[児童文学]]作品の翻訳を手掛け、[[桂宥子]]([[岡山県立大学]]名誉教授)や[[北野佐久子]](児童文学研究家)らを育てた。<br />
 
<gallery widths="150" heights="200px">
[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]は大学設立当初に設置された文科をルーツとし、商科から続く[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]と[[立教大学経営学部|経営学部]]{{Refnest|group="注釈"|name="College_of_Business"|[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]は、2006年に経済学部経営学科と社会学部産業関係学科を母体として開設された学部である。そのルーツは大学設立当初の商科に遡り、長い歴史と伝統を有している。}}とともに立教大学で最も古い。[[1922年]](大正11年)に文学部が設置されると、英文学科、哲学科、宗教学科の3学科を置き、史学科も開設された[[1925年]](大正14年)に日本の英語教育の第一人者である[[岡倉由三郎]]([[岡倉天心]]の実弟)が教授に就き、英文学科長となり、岡倉の推薦で言語学の権威である[[金田一京助]]も教授として言語学講座を担当した<ref name="rikkyo_shinbun_012">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0220_012.pdf 『立教大学新聞 第12号』] 1925年(大正14年)2月20日</ref>。
 
文学部文学科には、[[英米文学]]、[[フランス文学]]、[[ドイツ文学]]といった伝統と歴史ある国際系学問の専修もあり、外国の文学に加え、映画、音楽、芸術、思想など様々な観点から文化を幅広く学べ、国際的な知性と語学力を高めることができる。[[英文学|英米文学]]における歴史は、文学部の開設より古く、[[1883年]](明治16年)に立教学校卒業生で大阪・[[英和学舎]](立教大学の前身の一つ)教授の[[河島敬蔵]]が日本初となる[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇の翻訳(『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』の逐語訳)を発表し、[[1886年]](明治19年)には、日本で初めて『[[ロミオとジュリエット]]』の翻訳書を出版し、日本の英米文学史に名を残す功績を上げている<ref>{{Cite journal|和書 |author=吉武好孝 |title=紀州出身の英学者 Shakespeare学者 河島敬蔵と鷲山第三郎 |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1969 |issue=1 |volume=1969 |pages=15-22 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1969.15}}</ref><ref>[https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/kawasima.html 和歌山県ふるさとアーカイブ『紀の国の先人たち 河島 敬蔵』]</ref>。また、[[1889年]](明治22年)にシェイクスピア劇の翻訳を在学中に掲載した[[水田南陽]]は、[[1899年]](明治32年)に日本へ『[[シャーロック・ホームズ]]』を紹介した先駆者である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E7%94%B0%20%E5%8D%97%E9%99%BD-1655768 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)]</ref>。立教学校出身で[[スタンフォード大学]]に留学した[[長沢別天]]は、[[1893年]](明治26年)に[[エドガー・アラン・ポー]]の[[詩]]を日本に初めて紹介し、翌年には[[ジョン・ミルトン]]の評論を著すなど、明治期に[[英文学]]の普及に務めた。[[1890年]](明治23年)頃には、日本の英文学の権威で[[坪内逍遥]]と双璧をなした[[増田藤之助]]([[早稲田大学]]名誉教授)が立教学校の教授を務め、その後多年に渡り、[[東京英語専修学校]]、文学部英文学科で英文学を教えた<ref name="rikkyonews011"/>。<br />
[[1903年]](明治36年)には、[[ハリー・ポッターシリーズ]]に影響を与えた[[トマス・ヒューズ]]の『[[トム・ブラウンの学校生活]]』の訳書を立教生の[[岡本鶴松]]が『英国学校生活』として出版した。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は[[築地]]・[[明石町 (東京都中央区)|明石町]]にあった立教学院活版部(Rikkyo Gakuin Press)で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であった[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|ヘンリー・タッカー]]が寄稿した<ref>国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース [https://kindai.nijl.ac.jp/kindais/NGSM-00740 『英国学校生活 前編』]</ref>。この作品はヒューズが在学した[[聖公会]]の[[ラグビースクール]]を舞台としており、[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で大人気の作品であったが、日本でも明治時代の高校生に最も人気のある英語圏生まれの教科書となった<ref>Abe, Iko. [http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/09523360600673104 "Muscular Christianity in Japan: The Growth of a Hybrid"]. ''The International Journal of the History of Sport''. Volume 23, Issue 5, 2006. pp. 714-738. Reprinted in: Macaloon, John J. (ed). [https://books.google.com/books?id=jSjcAAAAQBAJ&pg=PA16 ''Muscular Christianity and the Colonial and Post-Colonial World'']. Routledge, 2013. pp. 16-17.</ref>。この活版部は、[[1900年]](明治33年)に[[アーサー・ロイド]]が私費を投じて苦学生の自活のために設立した印刷所であった<ref name="digitallibrary">立教大学図書館 [https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/arthurlloyd/ 『アーサー・ロイド絵入り英訳書デジタルライブラリについて』] 山田久美子,立教大学異文化コミュニケーション学部</ref>。<br />
上述に加えて、ホームズの著者、[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]に影響を受けた[[江戸川乱歩]]だが<ref>[https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01199/ nippon.com『日本ミステリーを育てた作家・江戸川乱歩の世界―海外でも再評価の動き』]</ref>、長男の[[平井隆太郎]]は[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]教授を務め、立教ミステリクラブ顧問も務めた{{Refnest|group="注釈"|立教ミステリクラブは、編集者で元・[[東京創元社]]社長の[[戸川安宣 (編集者)|戸川安宣]]が学生時代に作ったクラブである<ref>{{Cite journal|和書 |author=戸川安宣 |date=2016-03 |url=https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/16469 |title=平井隆太郎先生の思い出 |journal=センター通信 |publisher=立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター |volume=10 |pages=1-2}}</ref>。戸川は、編集者としてミステリ作家を多数育成する傍ら、文庫解説等の執筆を行い、2018年からは江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』1‐5巻のリニューアルなどを手掛けている<ref>[https://www.tsogen.co.jp/np/author/507 東京創元社・著作一覧『戸川安宣』]</ref>。}}。大学に隣接する乱歩邸は、2002年に立教大学に寄贈され、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターでは、日本内外の[[大衆文化]]研究の拠点として研究成果の公開と社会還元を行っている<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rampo/ 大衆文化研究センター(旧江戸川乱歩邸)]</ref>。<br />[[1920年]](大正9年)3月には、[[デンマーク]]の童話作家の[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|H.C.アンデルセン]]に惚れ込んで、その童話の元に抒情画を描いて一世風靡した英文学科に在学中の[[加藤まさを]](大正期の代表的な抒情画家で「[[月の沙漠]]」の作詞家)が中心となり立教大学の文芸雑誌『塔』が創刊された。[[1922年]](大正11年)には、日本の[[アメリカ文学]]研究の第一人者である[[高垣松雄]]が教授に就き、[[1926年]](大正15年)には同分野の先駆者である[[富田彬]](立教大学名誉教授)も教授となり、アメリカ文学研究の基盤を築いた。高垣の教え子に、[[杉木喬]](立教大学名誉教授)や[[細入藤太郎]](立教大学教授)がいる。[[1927年]](昭和2年)に英文学科を卒業した[[:ko:김상용 (시인)|金尙鎔]]([[梨花女子大学校|梨花女子大学]]教授)は[[朝鮮]]に帰国後、1930年頃から『[[東亜日報]]』などに詩を掲載し、ポーの「[[アナベル・リー]]」(『新生』27、1931年1月)、[[ジョン・キーツ|キーツ]]の「希臘古甕賦(ギリシャの古壺のオード)」(『新生』31、1931年5月)などの英米文学を翻訳・紹介した<ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1280808/1/43 『立教大学一覧 昭和8年3月』] 67頁,1933年</ref>。<br />日本における『[[ピーターラビット]]』と[[ビアトリクス・ポター]]研究の第一人者である[[吉田新一]](立教大学名誉教授)は、出身である英米文学科(現・英米文学専修)で講じ、多くの海外[[児童文学]]作品の翻訳を手掛け、[[桂宥子]]([[岡山県立大学]]名誉教授)や[[北野佐久子]](児童文学研究家)らを育てた。<br />
<gallery widths="120" heights="180px">
Romeo and Juliet Japan 1886.jpg|<small>露妙樹利戯曲 春情浮世之夢(日本初の『ロミオとジュリエット』完訳書)[[河島敬蔵]]訳。</small>
Adventures of sherlock holmes.jpg|<small>[[水田南陽]]が翻訳した原書『シャーロック・ホームズの冒険』(1892年、初版本)。</small>
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Peter Rabbit first edition 1902b.jpg|<small>[[吉田新一]]が研究したビアトリクス・ポター著作の『[[ピーターラビットのおはなし]]』(1902年、初版本)。</small>
</gallery>
文学部史学科は、立教大学教授を務めた[[小林秀雄 (西洋史学者)|小林秀雄]](史学科長、文学部長を歴任)が[[1925年]](大正14年)に立ち上げた学科で<ref>[https://www.kokugakuin.ac.jp/article/275724 國學院大學『立教史学の生みの親、小林秀雄』]</ref><ref>{{Cite|和書|chapter=小林教授略年譜|pages=1-2|title=小林教授還暦記念史学論叢|publisher=立教大学史学会|editor=立教大学史学会|year=1938|ncid=BA33577404 }}</ref>、史学科の最初の教授陣として、[[西洋史]]に小林秀雄、[[東洋史]]に[[原田淑人]](日本近代東洋考古学の父)、[[白鳥清]]([[白鳥庫吉]]の嗣子)、[[日本史]]に[[竹岡勝也]]、[[辻善之助]]([[東京帝国大学]]史料編纂所初代所長)、[[藤本了泰]]、[[中村勝麻呂]](東京帝国大学史料編纂官)という陣容で始まり、1年後には、西洋史に[[野々村戒三]]、東洋史には東洋史学の開拓者である[[市村瓚次郎]]([[國學院大學]]学長、[[東京帝国大学]]名誉教授)が教授陣に加わった<ref name="shien-1967"/>。[[1929年]](昭和4年)には、[[十河佑貞]]([[早稲田大学]]教授、同大学史学会会長)が教授となり、西洋史と[[ドイツ語|獨乙語]]を教えた<ref name="ndl-193303"/>。<br />
[[1959年]]には[[大久保利通]]の孫である[[大久保利謙]]が教授に就任し、日本近代史研究を学問分野として確立した{{Refnest|group="注釈"|大久保利謙は、政治史、行政史、文化史、大学史、洋学史、史学史など多様な分野において学問的基礎を築いたが、大学史の編纂では、[[1932年]]に『東京帝国大学五十年史』を作っている。立教の百年史『立教学院百年史』(1974年)の編纂では、記述はしていないが員外の委員を務めた。また、学習院史の編纂は、戦前には一人で行っていたが、戦後になって若い人に任せている<ref name="ozeki">{{Cite journal|和書 |author=小関昌男 |title=大久保利謙先生をかこんで |journal=史苑 |publisher=立教大学文学部 |year=2002-03 |volume=62 |issue=2 |pages=120-135 |url=https://doi.org/10.14992/00001527 }}</ref>。}}。当時の大久保の教え子に、[[佐々木克]]([[京都大学]]名誉教授)がいる<ref>[https://president.jp/articles/-/2251 PRESIDENT ONLINE『奈良大学教授 佐々木 克「正義感」 PRESIDENT 2009年12月14日号』2011/07/12]</ref>。大久保の1万2千冊を超える蔵書は「大久保利謙文庫」として大学図書館に所蔵されているが<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/events/2017/12/mknpps0000005qgr.html 立教大学『公開シンポジウム「大久保利謙と日本近代史研究 家族・学問・教育」』]</ref><ref>[http://library.rikkyo.ac.jp/archives/collection/individual/ 立教大学・個人文庫『大久保利謙文庫』]</ref>、貴重な資料が多く、学内外からの利用が絶えない第一級の文庫である<ref name="ozeki"/>。大久保は大学史の編纂でも先駆者として知られるが、近年では[[寺崎昌男]](立教大学名誉教授)も日本の大学史研究の進展に大きく貢献した。キリスト教史学では[[海老沢有道]]が活躍し、多くの関連書籍を著すとともに、[[キリスト教史学会]]の創設にも尽力して理事長も務めた。大学図書館には日本キリスト教史関連資料からなる6千冊を超える蔵書が「海老澤有道文庫」として所蔵されている<ref>立教大学図書館 [https://library.rikkyo.ac.jp/archives/collection/individual/ 特別収集資料・個人文庫・哲学・倫理・宗教関係『海老澤有道文庫』 立教大学図書館]</ref>。<br />
また、立教大学の史学研究の歴史は古く、明治期の立教学校(第2次)では、[[岩倉使節団]]の一人として『[[米欧回覧実記]]』を著し、歴史学の先駆者として知られる[[久米邦武]]が[[1894年]](明治27年)から教授として教鞭を執っている<ref>品川区・品川人物伝 第30回 [https://web.archive.org/web/20230217103512/https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/sangyo/sangyo-bunkazai/sangyo-bunkazai-rekisisanpo/sangyo-bunkazai-rekisisanpo-zinbutsuden/hpg000017427.html 『歴史学の先駆け 久米邦武(くにたけ)』] 平成24年8月17日</ref>。[[考古学]]においては、1934年から[[東アジア]]考古学の権威である[[駒井和愛]]([[東京大学]]名誉教授)が教えたほか、1957年から[[博物館学]]の第一人者である[[中川成夫 (考古学者)|中川成夫]]が講じ、長く研究に従事し、[[学芸員]]の養成にも尽力した。中川は、[[近世考古学]]の開拓者としても知られ、立教大学博物館学研究室の[[加藤晋平]](後の[[筑波大学]]教授、モンゴル国考古研究所名誉教授)とともに、近世における考古学的研究に道を開いた。中川の教えを受けた[[森川昌和]]は、後に[[鳥浜貝塚]]において「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる遺物を発掘するなど、考古学界に新見地を開く功績を上げた。
<gallery widths="120" heights="150px">
Portrait of Kunitake Kume.jpg|[[久米邦武]]<small>([[歴史学]]・[[古文書学]]の創始者、[[岩倉使節団]]の一員)</small>
小林秀雄(西洋史学者).jpg|[[小林秀雄]]<small>(初代史学科長、立教大学名誉教授)</small>
Tsuji Zen'nosuke.jpg|[[辻善之助]]<small>(実証的な[[日本仏教史]]の確立者)</small>
Portrait of Dr. Sanjiro Ichimura.jpg|[[市村瓚次郎]]<small>(日本の[[東洋史学]]の開拓者)</small>
Toshiaki Okubo.jpg|[[大久保利謙]]<small>([[大久保利通]]の孫、[[日本近代史]]研究の確立者)</small>
</gallery>
 
経営学の分野では、[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]に前述のBLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)<ref name="blp"/> があり、企業連携プロジェクトを通じてリーダーシップとコミュニケーション力を磨き、それぞれが自分の強みを発揮し、チームの成果を最大化させることを学ぶ。大学院には、「経営学研究科」にリーダーシップ開発に特化した日本初となる「経営学専攻リーダーシップ開発コース(LDC)」(2020年開設)があり<ref>[https://ldc.rikkyo.ac.jp/ 経営学専攻リーダーシップ開発コース]</ref><ref>[https://wwwrec.rikkyogakuinrikkyo.ac.jp/pickup/2012-2019/fr9ga20000000pgx.html 誰もが発揮できる新たなリーダーシップを育む]</ref>、人材開発と組織開発を推進する人材を育成する。金曜夜と土曜日開講で、社会人も受講しやすい。また、リーダーシップ理論と教育技法を研究する「リーダーシップ研究所」(2006年開設)も設置されている。経営学部は[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]長であった[[白石典義]]が創設に尽力して2006年に設置された学部である<ref group="注釈" name="College_of_Business"/><ref>[http://www.mhigano.com/blog/2018/03/post-7e3e.html 日向野幹也の研究室 2018年3月11日]</ref>。経営学部のコアカリキュラムであるBLPの立ち上げは、[[日向野幹也]]が担当し、経営学部教授兼BLP主査としてプログラムの指揮を執り、学生の資質を向上させ、社会的にも高く評価されるリーダーシップ教育プログラムへと育て上げた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/research-n-faculty/2015/0501.html 立教大学・研究活動と教授陣『リーダーシップ教育とアクティブ・ラーニング』2015/05/01]</ref><ref>[https://jinjibu.jp/article/detl/keyperson/1470/ 日本の人事部『権限、役職、カリスマ性がなくても発揮できる 職場と学校をつなぐ「リーダーシップ教育」の新しい潮流(前編)』2016/07/21]</ref>。<br />
2022年には経営学部特任教授に、[[コロンビア大学]][[コロンビア・ビジネス・スクール|ビジネススクール]]で教え、[[一橋大学]]でグローバルリーダーを育成する渋沢スカラープログラムを立ち上げた[[クリスティーナ・アメージャン|クリスティーナ・アメ―ジャン]]が就任した<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/events/2022/07/mknpps000001z05f.html 立教大学『公開講演会「社会的責任経営、持続可能なSDGs経営と渋沢栄一」』2022年7月13日]</ref>。大学院の国際経営学専攻国際経営学コース(MIB)は、国際経営分野の高度な専門性、グローバルな視野と能力、リーダーシップ力を備える人材育成を目的としている<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/graduate/buisiness/major_02.html 経営学研究科・国際経営学専攻]</ref>。企業経営の幅広い知識を提供し多角的な視野を養うMBAビジネススクール型の大学院としては、「[[立教大学大学院ビジネスデザイン研究科|ビジネスデザイン研究科]]」<ref>[https://business-school.rikkyo.ac.jp/index.html ビジネスデザイン研究科]</ref> があり、ビジネスシミュレーションを通じて戦略的意思決定をチームで探究し、論理的な分析力と事業構想を実現する創造的能力を育成する。社会人が受講できる昼夜開講制である。<br />
現在のBLPで育成する新しいリーダシップとは異なり、従来型の経営トップや組織管理者などを主な対象とした[[リーダーシップ]]論においては、[[松井賚夫]]が社会学部産業関係学科(現・[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]])で教授を務めた。松井が1958年に出版した『リーダーシップ』は、初版以来長くロングセラーとなり、日本における[[組織論]]の名著として知られる<ref>[https://logmi.jp/businessmain/articlesmanagement/327345 ログミーBiz『Chapter.4 目標管理 『目標管理の本質』 五十嵐英憲 氏 』1/3 2022-09-26]</ref><ref>『モチベーション』松井賚夫著 ダイヤモンド社 1982年9月</ref>。松井や[[労働経済学]]を教えた[[武澤信一]]が所属した立教大学産業関係研究所をベースとして改組し、現在のリーダーシップ研究所が設置されており、組織研究の歴史を今日まで長く繋いでいる<ref name="leadership20160501"/><ref name="KIMPS">[httphttps://kimps.jugem.jp/?eid=18 神戸大学経営人材研究所『トピック1 組織行動・人的資源(OB/HR)研究にメッカはあるか』2007.05.07]</ref>。
 
非営利・公共分野を研究の主対象とするビジネススクールである「21世紀社会デザイン研究科」<ref>[https://sds.rikkyo.ac.jp/ 21世紀社会デザイン研究科]</ref> は、社会の課題を[[NPO]]/[[非政府組織|NGO]]などの公益法人や[[非営利団体]]で解決する人材を育成する2002年に創設された日本初の大学院専攻である。晩年、非営利組織研究に注力した[[ピーター・ドラッカー]]が伝える「非営利組織とは、一人ひとりの人と社会を変える存在である。」を体現する人材を育成するためのプログラムといえる。ドラッカーを日本に紹介したのは、立教大学教授を務め、多くの経営者が師と仰ぐ[[野田一夫]]である<ref name="topmanagement">[https://topmanagement.co.jp/company/2009/08/post-7.php 『ドラッカーを日本に紹介した人』 トップマネジメント株式会社]</ref><ref name="r-keizaijin20170801">[https://www.r-keizaijin.net/uploads/2019/06/bn072.pdf 立教経済人クラブ会報 2017年8月1日 No.72]</ref>。2006年には、継続的な研究の場として21世紀社会デザイン研究学会(現・社会デザイン学会)が設立され、2008年には「社会デザイン研究所」が設置された<ref>[https://www2.rikkyo.ac.jp/web/social-design/about/ 社会デザイン研究所]</ref>。<br />
2007年から2011年まで、ジャーナリストで「知の巨人」として知られる[[立花隆]]が特任教授を務めた{{Refnest|group="注釈"|講義とともに開講された「立花ゼミ」は、学生が自ら探究する研究テーマも戦争、エロス、[[ヌーヴェルヴァーグ]]、[[学生食堂|学食]]研究など広範に渡り、秘密結社のようなワクワク感があったという。多様さがゆえに、纏まりがないように思えるそれぞれの研究テーマであっても、立花の知識の幅広さとゼミ生の関心事の広さが、双方の好奇心や探究心によって融合し、リアルなゼミとWeb上に各々が発信する情報の中で知識が繋がり、更なる広がりや深みを生み出していった<ref>[https://sds.rikkyo.ac.jp/news/2021/condolence.html 立教大学『立花隆 元特任教授の訃報に接し、心より哀悼の意を表します』2021/06/30]</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|立花は、立教大学セカンドステージ大学(RSSC)でも、立ち上げの段階から尽力し、2008年から2011年にRSSC特任教授、2011・12年にRSSC客員教授を務めた<ref>[https://rssc.rikkyo.ac.jp/news/2021/n20210630.php 立教セカンドステージ大学 ニュース 2021.06.30]</ref>。}}。
また、本研究科は、日経ビジネススクールと共同で社会人であれば誰でも受講できる「ソーシャルデザイン集中講座」も開講しており、幅広い学習環境を提供している。
 
[[画像:Penn campus 2.jpg|316px|thumb|left|[[聖公会]]が設立に携わり、[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]](近世日本布教史における最初の宣教医)や元学長の[[元田作之進]]、[[杉浦貞二郎]]、[[須藤吉之祐]]、元教授の[[伊藤重治郎]]、[[小川徳治]]が学んだ「[[ペンシルベニア大学]]」。立教の築地キャンパスでは同大学の入学試験も行われた。]]
[[立教大学異文化コミュニケーション学部|異文化コミュニケーション学部]]は文化や言語の多様性を理解し、グローバル社会の新しい姿を追究する学部である。外国語で会話する (conversation) だけでなく、他者の行動や心情、文化的背景まで理解し、意思疎通 (communication) する力を身に着け、価値観や意見が異なる中で生じる問題や課題を論理的に把握し、解決していくことができる人材を育成する<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/undergraduate/ic/department_01.html 異文化コミュニケーション学科]</ref>。ここで培われたコミュニケーション力、論理的思考力、問題解決能力は、国家間、民族間、宗教間などの国際舞台や多文化コミュニティで生じる問題に対処し解決していくだけでなく、実社会のあらゆる場面でも役立つ力となる。企業でもダイバーシティが広がり、多様性を理解し合いながら業務を進めていく重要性が高まる中、異国の宣教師たちが異文化を乗り越えて作り上げてきた立教大学であるからこそ、生まれた学部プログラムといえる。同学部では、同じ[[聖公会]]の米国[[コロンビア大学]]大学院ティーチャーズ・カレッジ修士課程で英語教授法を修めた[[鳥飼玖美子]](立教大学名誉教授)が教授を務め、日本の英語教育の最前線を担う第一人者として英語教育の進展と拡充に尽力した<ref name="msz">みすず書房 [https://www.msz.co.jp/book/author/ta/15331/ 『鳥飼玖美子』]</ref>。<br />立教大学の英語教育は、淵源である幕末の長崎の私塾から続く長きに渡る伝統と歴史を持ち、[[明治維新]]で活躍した外交官や通訳を始め多くの人材を輩出してきたが、1883[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]は、1860年(明治16万延元年)に設立された立教大学校長崎は、米国式カレッジ制を採用し、日本人が教えた訳読の先駆けなる英会話書の『英和日用句集』除いて教員は外国人で執筆し授業現行ほとん[[ローマ字]]綴りを編み出すな、その後の日本の英語で開講され教育に大きな影響を与えた<ref groupname="注釈sugimoto"/><ref name="rikkyotokiwa-college2006">東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 [https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2006/428.html 『英学会話書による近代語研究』] 常盤智子</ref><ref name="rikkyomomoyama-ichiran1959"/><ref name="detabase-19391935"/>。リギンズにを教えたんだ[[工藤精一 (地質学者)|工藤精一石橋政方]]([[外務省]][[官吏]]、[[英語に通じ教育者]])は1885[[1861(明治18年)]]に英日対訳学習書の『彙集である「英語訓蒙』箋」を出版するなど[[1876年]](明治期の英語教育の発展に寄与した。1925年(大正149年)には、英語発音練習カードを考案した[[岡倉由三郎アーネスト・サトウ]]([[岡倉天心駐日英国大使|駐日英国公使]]の実弟が教授・と共著で『文学科長に着任語口語辞典』を編纂し、翌年[[ロンドン]]で初版を出版した。その後、ハムデン(Hobart Hampden, E. M.)とパーレット(Harold G. Parlett)よって増補改訂版も出版され、日本の[[ラジオ放送|ラジオ]]語講座(現・[[NHKラジオ]]英語講座)を担当す史に残など優れた辞書として日本の[[英語教育]]と外国人開拓者による先進的な英[[日本語教育が実施され]]に多大な影響を与えた<ref>[https{{Cite journal|和書 |author=丹治 弘昌,伊藤 益基 |title=サトウの『英和口語辞典』における訳語の特徴と日本文化の紹介について |journal=駒澤大学外国語部論集 |issn=03899837 |publisher=駒澤大学外国語部 |year=2002-03 |volume=56 |pages=129-184 |url=http://wwwrepo.shimanekomazawa-art-museumu.ac.jp/uploadopac/repository/all/10406/29177913f3d4cf710c3d48179c57ee4a252184b2.pdf 島根県立美術館『研究紀要』] 第3号 2022年}}</ref>。近年では2006年に開設された[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]においてNHK・[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]やNHKラジオでも活躍する[[松本茂]](立教大学名誉教授)が教授を務め、グローバル教育センター長も歴任した。<br />
1883年(明治16年)に設立された立教大学校では、米国式カレッジ制を採用し、日本人が教えた訳読と数学を除いて教員は外国人で、授業のほとんどが英語で開講された<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/><ref name="rikkyo-ichiran-1939"/>。数学を教えた[[工藤精一 (地質学者)|工藤精一]]も英語に通じ、1885年(明治18年)に英語学習書の『英語訓蒙』を出版するなど、明治期の英語教育の発展に寄与した。1897年(明治30年)には、卒業生の[[大倉本澄]]が東京[[神田錦町]]に[[アーサー・ロイド]]など外国人教師11名を擁して、[[英学]]、[[英語教育]]に注力した[[東京英語専修学校]](立教大学の前身校の一つ)を創設。学生数が約500名の英語教育機関となり、[[永井万助]]や後述の[[小野秀太郎]]など多くの外事専門家を育てた<ref>近代文献人名辞典(β) [https://lit.kosho.or.jp/%E5%A4%A7%E5%80%89%E6%9C%AC%E6%BE%84 『大倉本澄』]</ref>。<br />
1925年(大正14年)には、英語発音練習カードを考案した[[岡倉由三郎]]([[岡倉天心]]の実弟)が教授・英文学科長に着任し、翌年には日本初の[[ラジオ放送|ラジオ]]英語講座(現・[[NHKラジオ]]英語講座)を担当するなど、英語教育の開拓者による先進的な英語教育が実施された<ref>[https://www.shimane-art-museum.jp/upload/29177913f3d4cf710c3d48179c57ee4a252184b2.pdf 島根県立美術館『研究紀要』] 第3号 2022年</ref>。同時期に商学部(現・[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]、[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]])でも、英文通信の権威である卒業生の[[小野秀太郎]]([[朝日新聞社]]外報部記者、[[スタンダード・オイル]]通信員)が商業英語を教えた<ref name="rikkyonews009"/>。近年では経営学部においてNHK・[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]やNHKラジオでも活躍する[[松本茂]](立教大学名誉教授)が教授を務め、グローバル教育センター長も歴任した。
 
[[アメリカ研究]]の機関として1939年に日本で最初に設立された「アメリカ研究所」<ref name="America_research">[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ias/ アメリカ研究所]</ref> は、立教大学の最初の研究所でもある。日本の[[アメリカ文学]]研究の基礎を築いた[[高垣松雄]]の尽力により開設された。設立以来、定期刊行物の発行、研究会や講演会の開催に加え、図書の収集・公開を通して日本におけるアメリカ研究を支援している。近年では[[アメリカ先住民]]研究の第一人者である[[阿部珠理]](立教大学名誉教授)が所長を務めた。また、1963年設立の「ラテンアメリカ研究所」<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ilas/ ラテンアメリカ研究所]</ref> は、[[ラテンアメリカ]]に関する総合的な研究と、研究者、関連分野で活躍する人材の育成を行う。特に「ラテンアメリカ講座」<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ilas/koza.html ラテンアメリカ講座]</ref> は日本の大学教育に欠けていた社会教育の場を提供し始めた日本における市民講座および公開講座の草分け的な存在で、1964年4月から半世紀以上に渡り開講されている。これは「開かれた大学」として大学教育を広く社会に提供することを早くから目指してきた立教大学の姿勢を示すもので、通年で12科目を開講している。中でも多岐の分野を扱う「ラテンアメリカ論」や語学科目の「ラテンアメリカスペイン語」は毎年多くの受講生を集めている。
 
上記に加え、社会に開かれた大学として、「科目等履修生制度」を設けており、多くの学部で開講されている科目を履修することができる<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/target/public/lifelong_study/nondegree/ 科目等履修生案内]</ref>。1978年には受験生向けの[[オープンキャンパス]]を日本の大学で初めて開始した{{Refnest|group="注釈"|name="open-campus"|当時は「進学相談会 on Campus」という名称であった<ref>[https://www.shidaikyo.or.jp/newspaper/online/2402/3_3.html オープンキャンパスの成り立ち]</ref>。}}。[[生涯学習]]としては、50歳以上のシニアのための「立教セカンドステージ大学 (RSSC)」<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/academics/lifelong/secondstage/ 立教セカンドステージ大学]</ref> が設置されている。
 
[[画像:Miyazawa Toshiyoshi.JPG|thumb|220px|[[宮澤俊義]](初代法学部長、憲法学の第一人者)]]
[[立教大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]は、[[日本国憲法]]の制定に深く関わり、[[憲法学]]の権威である[[宮澤俊義]]が、[[菊井維大]]、[[末延三次]]、[[石崎政一郎]]、[[尾形典男]]らと創設に尽力し、初代学部長を務めた学部である。『平和と秩序への叡智』の探究を教育と研究の基本姿勢とし、法学部創設時の宮澤の思いを受け継いでいる<ref name="miyazawa">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/2017_miyazawa.pdf 立教大学・宮沢俊義文庫『日本国憲法起草関連資料』]}}</ref>。1973年には、[[丸山眞男]]と[[柳田國男]]の門下生で、学部創設時から教授を務める[[神島二郎]](立教大学名誉教授、[[日本政治学会]]理事長)が学部長となった。<br />
法学科、政治学科、国際ビジネス法学科の3つの学科で構成され、1978年には昼間部総合大学で日本初となる社会人入試を開始した。学科間の垣根が低いことが特徴で、法学と政治学を一つの学部で学ぶことができる。法学科には、[[法曹]]を目指す学生をサポートする法曹コースがある。また、公務員を目指す学生をサポートするために、公務員の職務内容や職業としての魅力を知ることができる講義や、行政が抱える課題に学生自らが解決案を企画、提案するなどの正課科目プログラムが用意されている。OB・OGをはじめとする現職の公務員との交流の場を設けるなどキャリア支援も行っている。2022年4月には、国際ビジネス法学科内にグローバルコースを開設した。<br />宮澤俊義の蔵書は「宮澤俊義文庫」として立教大学に寄贈され、約9,000冊の旧蔵書は複本として学生たちにも利用されている。図書と共に保管されてきた日本国憲法起草に関する原稿・草案・メモ・ノートなどは、学外も含めた研究者に利用されており、憲法制定にいたる経緯が分かる貴重な資料となっている<ref name="miyazawa"/>。神島二郎の蔵書も大学に寄贈され、「故神島二郎教授旧蔵書」として1,731冊から構成される。コレクションとしてのまとまりで保管されておらず、一般図書は他の蔵書とともに配架されているが、所蔵リストは図書館閲覧課で確認できる<ref>{{PDFlink|国立公文書館アジア歴史資料センター委託調査 [https://www.jacar.go.jp/reports/h19_honbun_ver1.2.pdf 『日本所在の主要アジア歴史資料(第2次調査)』] 神田外語大学,異文化コミュニケーション研究所,2009年3月}}</ref>。<br />
法学部が創設される前の大正期から昭和初期にも、既に法学の教授陣が商学部及びその後の経済学部を主として多数在籍するなど法学部に伍する充実した陣容を擁しており、[[中村進午]]([[一橋大学]]名誉教授)が[[憲法]][[国際法]]、法学通論、[[中野登美雄]]([[早稲田大学]]第5代総長)が[[行政法]][[竹田音治郎]]([[東京控訴院]]判事)や内山良男が[[民法 (日本)|民法]][[三橋久美]]([[大審院]]判事)[[商法]][[細野三千雄]](文部政務次官)や江利喜四郎が[[刑法 (日本)|刑法]]、[[中根不覊雄]]が[[信託法]][[手形法]][[破産法 (1922年)|破産法]]、法学通論、[[渋沢栄一]]の子である[[星野辰雄]]が[[労働法]]制を講じている<ref name="rikkyo_shinbun_029"/><ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1280808/1/29 『立教大学一覧』昭和8年3月版 ] 39頁-44頁 昭和8年3月</ref>。
 
経済学においては、[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]経済学科では基礎理論を学び、経済の本質を見極める力と、事象を定量的に把握する統計分析力を身に着け、時代の動きを読み、問題解決していくことができる人材を育成する。経済政策学科は、理論に加え、[[金融政策]]や都市政策、[[産業政策]]、環境政策など、社会を動かす政策を専門的に学び、社会問題を解決する政策立案力を培う。卒業後、公務員に加え、民間企業やNPOなどの立場でも活かせる公的視点も得ることができる。会計ファイナンス学科には、[[公認会計士]]、[[税理士]]、[[証券アナリスト]]、[[ファイナンシャル・プランナー]]などを目指す学生のために、資格取得を支援するカリキュラムが用意されている。多くの顕学が教鞭を執ってきたが、[[経済史]]では開拓者の[[滝本誠一]]、[[財政学]]では[[阿部賢一]](早稲田大学第8代総長)や[[地方財政]]学の権威である[[藤田武夫]]が講じ<ref>{{Cite journal|和書 |author=宮川 宗弘 |date=1971-01 |title=藤田武夫先生記念号によせて |journal=立教經濟學研究 |issn=0387-3404 |publisher=日本建築学会 |year=1971-01 |volume=24 |issue=4 |pages=1-2 |url=httphttps://idrikkyo.repo.nii.ac.jp/1062/00013588records/13645 }}</ref><ref>公益財団法人 後藤・安田記念東京都市研究所 [https://www.timr.or.jp/research/fujita_award.html 『藤田賞』]</ref>、商業政策や財政学では日本に[[マーケティング]]を紹介し、[[出光佐三]]([[出光興産]]創業者)に大きな影響を与えた[[内池廉吉]]([[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]・現[[一橋大学]]教授)、[[商品学]]では泰斗の[[坂口武之助]](予科部長)が講じ、能率の父として知られる[[上野陽一]](日本初の[[経営コンサルタント]])も学部長を務めた。社会学部産業関係学科(現・[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]の前身の一つ)では、日本を代表する[[自由主義経済]]学者である[[西山千明]]が1962年から教授を務め、日本における[[マネタリスト|マネタリズム]]の樹立や自由主義経済の拡充につくした<ref name="nishiyama01">[https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%8D%83%E6%98%8E-1099340 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』]</ref><ref name="nishiyama02">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2370966020112017CC1000/ 日本経済新聞 2017年11月20日]</ref>。([[#新自由主義、マネタリズム]]を参照)
 
[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]は、社会学科、現代文化学科、メディア社会学科の3学科からなる。1947年に文学部社会科が設置され、1949年には文学部社会学科となる。1958年に[[淡路円治郎]](立教大学名誉教授、[[人事労務管理|労務管理]]学の権威)によって社会学部が設置され、初代学部長を務めた。日本で[[世論調査]]を初めて行った第一人者で、日本の[[新聞学]]と[[マスコミュニケーション]]研究の基礎を築いた[[小山栄三]]も教鞭を執り、1960年には学部長を務めた<ref>日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」 [https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%20%E6%A0%84%E4%B8%89-1645183 『小山 栄三』 ]‐ [[コトバンク]]</ref>。2016年には、国際社会コースが設置され、本コースは学部英語科目を中心に3学科横断で専門科目を履修するカリキュラムとなっている<ref>立教大学社会学部 [https://sociology.rikkyo.ac.jp/undergraduate/about/international.html 『国際社会コース』]</ref>。
 
[[心理学]]の分野も歴史が古く、1894年(明治27年)には日本の心理学の基礎を築いた[[松本亦太郎]]([[日本心理学会]]創設者・初代会長)が教授として講じた<ref name="shien-1962"/>。1927年(昭和2年)に心理学の権威である淡路円治郎が教授となり<ref name="rikkyonews077"/>、1930年(昭和5年)から、[[教育心理学]]の分野で活躍し、[[幼児教育|幼少教育]]の先駆者である[[岡部弥太郎]]が教授となりして、[[教育学]]や[[教育史]]を講じ、心理学演習を担当した<ref name="ndl-193303">国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1280808/1/29 『立教大学一覧 昭和8年3月』] 1933年</ref>。1933年(昭和8年)には、[[米山梅吉]]が次男の母校であった立教大学に寄贈して、心理学実験室が建設されている<ref name="yoneyama"/>。1949年に新制大学が発足した際に、[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]心理教育学科が設置され、1962年には文学部心理学科となり、2006年に現代心理学部心理学科となった。
 
芸術分野では、現代心理学部に映像身体学科があり、映像制作(映画・写真・広告など)やダンス、演劇などが学べる。シアター型教室や撮影スタジオなどの設備も充実している。映画監督を多く輩出しているのも特色である。([[#立教と映画]]を参照)
 
[[画像:Statler Hall, Cornell University, west facade.jpg|316px|left|thumb|[[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学部]](当初・ホテル講座)のモデルとなった「[[コーネル大学]]ホテル経営学部」(SHA: School of Hotel Administration)]]
観光分野では、日本の大学でさきがけとなる1946年の「ホテル講座」開設から始まる70年以上の観光教育の歴史を有するが<ref>[https://tourism.rikkyo.ac.jp/about/history.html 観光学部のあゆみ]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ホテル講座は、当初、[[コーネル大学]]のホテル経営学校をモデルとしたホテル経営業務を主としたカリキュラムであった<ref>{{PDFlink|[http://www.jafit.jp/thesis/pdf/15_02.pdf 『我が国の観光教育機関についての史的研究』工藤泰子 日本国際観光学会論文集 第22号 2015年3月]}}</ref>。1954年(昭和29年)には、コーネル大学講師が授業を受け持った。また、[[慶應義塾大学]]も学生を本講座に派遣し学ばせていた<ref name="rikkyo_shinbun_113">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/54%28S29%291220_113.pdf 立教大学新聞 第113号 1954年12月20日]}}</ref>。}}、ルーツは立教大学の前身の一つである立教学校に遡り、明治期の学校創生期から続く教育の伝統を受け継いでいる{{Refnest|group="注釈"|明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍した[[ジェームズ・ガーディナー]]は、現存する日本最古の[[リゾートホテル]]である「[[日光金谷ホテル]]」の経営者であった金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、善一郎の長男、[[金谷眞一]]はガーディナーが教えていた築地の立教学校に1892年(明治25年)に入学し、英学を学んだ。その後、眞一は、ホテル経営が厳しくなる中、ホテルに戻って経営者として金谷ホテルを改革し、名門ホテルとしての礎を築いた。こうして日光は外国人向け観光地、避暑地として名を馳せることとなった<ref>『ホテルと日本近代』富田昭次 著 青弓社</ref>。<br />善一郎の次男、[[山口正造|金谷正造]]も、立教に進学した。正造は卒業後、イギリスに長期滞在するなど外国を旅したあと、帰国した翌年の1907年(明治40年)に、箱根の[[富士屋ホテル]]の創業者、[[山口仙之助]]の長女と結婚し、山口家に婿入りして、富士屋ホテルの経営に取り組んだ。[[山口正造]]は、『We Japanese』という日本を紹介する記事を発行するとともに、『ホテル実務学校』を開設した。正造は1944年(昭和19年)に亡くなるが、戦後まもなく、『正造記念育英会事業』が始まり、1946年(昭和21年)に、正造の遺族と[[日本ホテル協会]]の人が立教大学を訪ね、正造の遺志を継いで、母校の立教大学でホテル関係の人材育成活動を続けてほしいとする申し出を行った。こうして大学に開設されたのが『ホテル講座』であった<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/it/qo9edr0000006gz4-att/mknpps000001opt3.pdf 立教と観光教育の関わり史 -観光研究所50周年に寄せて-]</ref>。}}。1967年に、社会学部観光学科を設置。この観光学科は、立教大学教授であった[[野田一夫]]が設立に尽力し、初代学科長を務めた。1998年には観光学科を改組し、日本初の観光学部と大学院に観光学研究科を開設した。2000年代には、[[JTB]]会長の[[舩山龍二]]や[[ホテルニューオータニ]]総支配人であった[[甲田浩]]らが教授陣を務めるなど、観光業界の第一人者たちが教鞭を執っている<ref>[http://www.sp-kankoclub.net/previous/sokai2006.html 立教観光クラブ『2006年度総会レポート』]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ホテル講座開設当初から、業界の第一人者たちが教鞭と執っているが、1960年代には[[ソニービル]]や[[東京芸術劇場]]を設計した[[芦原義信]]、日本観光協会外国部長の安居院平八、立教大学卒業生では、[[帝国ホテル]]で支配人を務めた古田直称や[[日本交通公社 (公益財団法人)|日本交通公社]]外国部長であった榎本容二らが講師を務めていた<ref name="rikkyo_shinbun_205"/><ref>[http://www.sp-kankoclub.net/activities/ 立教観光クラブ・立教観光クラブ賞歴代受賞者]</ref>。}}。2022年と2023年には、[[星野リゾート]]代表の[[星野佳路]]が「宿泊産業演習」のゲスト講師として講義を行った<ref>立教大学観光学部 [https://tourism.rikkyo.ac.jp/tourism_info/?p=2016 『星野リゾート代表・星野佳路氏が公開講義に登壇されました(12月14日)』]</ref><ref>立教大学観光学部 [https://tourism.rikkyo.ac.jp/tourism_info/?p=2414 『星野リゾート代表・星野佳路氏が公開講義に登壇されました』] 2023.11.22</ref>。[[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学部]]は観光ビジネスや地域振興を創出する人材の育成を目的とするが、全米で名門として知られる[[コーネル大学]]のホテル経営学部と同様に、卒業生には老舗ホテルや旅館の経営者も多い。特に、日本を代表する[[クラシックホテル]]の多くで立教卒業生が経営に携わっている。([[#立教とクラシックホテル]]を参照)<br />
観光学部では学部独自の[[インターンシップ]]プログラムも充実しており、国内プログラムのほか、台湾の高級ホテルでの6か月間の長期インターンシッププログラムや、アメリカ[[フロリダ州]]の[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート|ディズニーワールド]]でインターンシップ(半年間)を経験しながら、週1日[[セントラルフロリダ大学]]ホスピタリティ経営学部で学ぶ海外プログラムもある{{Refnest|group="注釈"|ディズニーワールド・インターンシップ・プログラムは観光学部に加えて、経営学部の学生も応募可能(2022年度時点)<ref>{{PDFlink|[https://spirit.rikkyo.ac.jp/international/SiteAssets/departure/rikkyo_departure.pdf 立教大学国際センター『2022-2023 立教大学留学案内』]}}</ref>。}}<ref>[https://tourism.rikkyo.ac.jp/career/internship.html 立教大学観光学部・正課インターンシップ]</ref>。
2021年には[[金沢大学]]と観光産業分野の中核人材育成のため、連携・協力に関する協定を締結した。また、地域活性化の一環で、まち歩きマップの制作なども行っている。([[#ESD研究、SDGs、地域創生|#まち歩きマッププロジェクト]]を参照){{-}}
 
==== 理工学分野 ====
[[画像:小惑星探査機 はやぶさ2 CGモデル.jpg|thumb|316px|小惑星探査機 はやぶさ2 CGモデル]]
理工学分野では、[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]の研究グループが[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]のプロジェクトに参画し、小惑星探査機「[[はやぶさ2]]」に搭載した光学航法カメラの開発・運用や、2023年9月に打ち上げられたX線分光撮像衛星(XRISM)の観測装置を開発するなど宇宙関連の研究開発を進めている<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2019/02/mknpps000000szf5.html 「はやぶさ2」が小惑星リュウグウの着地に成功] 2019/02/22</ref><ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2023/09/mknpps000002btif.html 『X線分光撮像衛星(XRISM)打ち上げ成功。軟X線分光装置(Resolve)を共同開発』] 2023/09/07</ref>。理学部物理学科には[[宇宙物理学]]を専門にしている教員が多く在籍し、「素粒子・原子核」分野と「宇宙物理」の分野では、世界トップレベルの研究を行っている。論文の被引用数も多く、質の高い研究力によって世界における立教大学のプレゼンス向上に大きく貢献している<ref name="jbpress"/>。理学部の別の研究グループでは、2020年に[[日本曹達|日本曹達株式会社]]との共同研究で、温室効果ガスとして知られる二酸化炭素を選択的に吸着する新規の多孔性物質(MOF:Metal-organic Frameworks)の開発に成功した。[[燃料電池自動車|燃料電池車]]などに搭載する水素貯蔵ボンベにも応用が可能で、世界的に高い評価を受ける研究を行っている<ref name="news_20200709">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2020/07/mknpps0000019fhn.html 選択的に二酸化炭素を吸着する新規多孔性物質を開発](2022年2月8日閲覧)</ref>。同年には、[[理化学研究所]]や[[物質・材料研究機構]]などとの共同研究により「偽造不可能なマイクロ光認証デバイス」を開発した<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2020/05/mknpps0000017m2p.html 偽造不可能なマイクロ光認証デバイスを開発]</ref> ほか、生命理学科教授の末次正幸が2017年に開発した、細胞を使わずに長い[[デオキシリボ核酸|DNA]]を効率的に合成する世界初の技術「セルフリー長鎖DNA合成技術」が、バイオ医薬の分野で革新的変化をもたらす研究として、「バイオインダストリー奨励賞」を受賞した<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2020/07/mknpps0000019mks.html 立教大学『理学部生命理学科の末次正幸教授が「第4回 バイオインダストリー奨励賞」を受賞』2020/07/15 ]</ref><ref name="illumina">[https://jp.illumina.com/science/customer-stories/icommunity-customer-interviews-case-studies/customer-review-dr-suetsugu.html Illumina『PCR法を超える、セルフリーの長鎖DNA増幅技術を開発』]</ref>。本技術を実用化する目的で大学発バイオベンチャー企業が設立された。([[#大学発ベンチャー]]を参照)<br />
 
[[画像:Matsumura Shonen.JPG|left|thumb|160px|[[松村松年]](日本昆虫学の祖、大阪・[[英和学舎]]出身)]]
2021年には「金属クラスターを用いた近赤外-可視光変換」に世界で初めて成功し<ref name="TTA-UC">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2021/02/mknpps000001io7i.html 立教大発の光アップコンバージョン材料を創製へ]</ref>、[[太陽電池]]や[[光触媒]]の効率を向上させる実用的な光アップコンバージョン材料としての利用が想定されるなど、産業界への貢献が大きく期待される成果を上げている。2023年には、[[神戸大学]]との共同研究で、[[人工光合成]]技術において希少金属を使用しないCO2変換法を開発し、[[カーボンニュートラル]]実現に向けてブレイクスルーとなる技術革新の成果を上げた<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2023/03/mknpps0000025we4.html 『希少金属を使用しないCO2変換法を開発 -カーボンニュートラル実現に期待- 』] 2023/03/24</ref>。<br />また、[[新型コロナウイルス]]の変異株の感染メカニズムを解明するため、[[理化学研究所]]の[[スーパーコンピュータ]]「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」を用いたシミュレーションに、理学部の研究グループが取り組んでいる。2020年度には「富岳」の優先的な試行的利用として「新型コロナウイルス関連タンパク質に対するフラグメント分子軌道 (FMO) 計算」を行い、研究成果を公開するなど活躍している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2021/05/mknpps000001lssv.html スーパーコンピュータ「富岳」を用いた新型コロナウイルス変異ウイルスの感染力の増加をシミュレーション-理学部・望月祐志研究室の大学院学生が変異株の解析で活躍-]</ref>。
 
[[画像:MatsumuraKimura ShonenShunkichi.JPGjpg|left120px|thumb|180px|[[松年駿吉]]{{small|日本昆虫立教の祖校教頭大阪・英和学舎出身[[三六式無線機]]の開発者}}]]
理学部全体としても、[[理化学研究所]]や[[産業技術総合研究所]]といった国内トップクラスの研究機関と密に連携を図る「連携大学院制度」を導入している。産官学連携により研究を高度化・多様化させながら、次代の研究者である学生を育成している<ref name="jbpress"/>。理学部生命理学科では、日本の[[鳥類]]研究の権威で[[日本野鳥の会]]会長を務める[[上田恵介]]が教えた。2016年に[[山階芳麿賞]]を受賞し、2020年には日本動物行動学会「日高賞」を受賞した<ref>[https://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/keieikikaku/kikakusanka/kouhou/koho/hurusatoneyagawa/hurusato29/1515038350516.html 寝屋川市『平成30年1月号 立教大学名誉教授 上田恵介さん』]</ref><ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2020/11/mknpps000001dctv.html 立教大学『上田恵介名誉教授が日本動物行動学会「日高賞」を受賞』2020年11月30日]</ref>。大学院理学研究科生命理学専攻博士後期課程では、世界で初めて動物が言葉を話すことを解き明かした、動物言語学の第一人者である[[鈴木俊貴]]を輩出している<ref>東京大学 先端科学技術研究センター [https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/research/people/staff-suzuki_toshitaka.html 研究者一覧『鈴木 俊貴』]</ref>。
 
大学院理学研究科では、[[順天堂大学]]大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。
 
立教大学の理系教育の淵源は、1859年(安政6年)に来日した[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]が、初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の支援のもと[[長崎奉行]]の要請から開設した聖公会の長崎私塾に遡り、数学を含む[[英学]]を教えた<ref name="sugimotomission2"/><ref name="mission2sugimoto"/>{{Refnest|group="注釈"|1870年(明治3年)にウィリアムズが大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の与力町に設立した英学講義所が、1872年(明治5年)2月21日に[[古川 (大阪市西区)|古川町]]にて男子校として改組し開校すると、ウィリアムズは数学、理化学も教えた<ref name="history7"/>。さらに1879年(明治9年)10月に[[テオドシウス・ティング]]が[[英和学舎]]として開校すると、文系科目に加え、天文学、生理学、[[本草学]](医薬に関する学問)など高度な理系教育も行った<ref name="history5"/>。}}。1883リギンズは英学教育を行いながら、[[ベンジャミン・ホブソン]]の『物理学』や『医学』、[[アレキサンダー・ウィリアムソン (宣教師)|アレキサンダー・ウィリアムソン]]の『植物学』、{{仮リンク|ウィリアム・ミュアヘッド|en|William Muirhead}}の『地文学』などを始めとする科学書を、歴史書や地理書とともに多数流通させ<ref name="ryu-2014"/><ref name="bcmw07_02"/>、ウィリアムズもこれらを日本人に頒布した形跡が認められている<ref name="shien-1967"/>。1874年(明治167年)に築地で開校した立教学校(第一次)では日本[[獣医学]]の祖である[[時重初熊]]([[駒場農学校]]〈現・[[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京大学農学部]]〉教授)が学んだ<ref name="archives-191510">立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『校友会・校友消息』] 立教学院学報第8号,1915年10月</ref>。1883年(明治16年)に創設された立教大学校では、代数幾何学、動物学、理科学、地質学、植物学、化学、天文学など多彩な理系・[[自然科学]]科目を教え、文系・[[人文科学]]、[[社会科学]]科目とともにヨーロッパ中世以来の[[リベラル・アーツ]]の伝統を色濃く引き継ぐ、アーツ・サイエンス教育を実施した<ref name="kanoya7"/>。[[札幌農学校]](現・[[北海道大学]])で教授を務め、演武場(現・[[札幌市時計台]])の時計運用を開始した[[工藤精一 (地質学者)|工藤精一]]も数学を講じた<ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1278546/1/10 『立教大学一覧』昭和14年度 ] 2頁 昭和14年</ref>。こうした学校創設以来の長い伝統を有し、現在の[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]へと続いている。18911890年(明治2423年)設立の立教学校(第2次)では、[[日露戦争]]で[[バルチック艦隊]]の発見を通報し勝利に貢献した[[三六式無線機|三六式無線電信機]]を開発した[[木村駿吉]]([[海軍大学校]]教授、[[木村芥舟]]の三男)が教頭として教えたほか<ref name="shonan-kk">湘南科学史懇話会 [https://shonan-kk.net/20141004docx.pdf 『木村駿吉年表』]</ref>、[[秘密特許]]第1号の[[無煙火薬]]製造法を発明した[[市岡太次郎]](海軍大学校教授、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]技師)も教鞭を執り、[[数学]]の泰斗である[[浅越金次郎]]([[商船学校]]教授)も講じた<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、108頁</ref>。立教大学の前身の一つである大阪・[[英和学舎]]では、1884年(明治17年)に、日本の近代[[昆虫学]]の基礎を築いた先覚者で「日本昆虫学の祖」と称される[[松村松年]]([[北海道大学|北海道帝国大学]]名誉教授)が学んだ<ref name="rikkyonews184"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=長谷川 仁 |title=明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々 |journal=昆蟲 |issn=09155805 |publisher=東京昆蟲學會 |year=1967-09 |volume=35 |issue=3 |pages=1-98 |url=httphttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10650777 }}</ref><ref>{{PDFlink|[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/60(S35)1215_184_1.pdf 立教大学新聞 第184号 1960年12月15日]}}</ref>。松村は昭和に入り立教学院校友会及び立教学院後援会で顧問を務めた<ref>{{PDFlink|[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/28(S03)1205_072.pdf 『立教大学新聞 第72号』] 1928年(昭和3年)12月5日}}</ref>。{{-}}
 
大学には現在、[[工学部]]は設置されていないが、戦時期に[[文部省]]の方針もあり、1944年に理工系教育強化のため「立教理科専門学校」を開設。この理科専門学校は、[[曾禰武]](立教大学教授、後の[[開成中学校・高等学校]]校長)が主幹となって創設され、数学科に[[藤原松三郎]]、化学科に[[久保田勉之助]]、地質学科に[[矢部長克]]と、各学界の泰斗を招聘し、曾禰は物理学科を担当し同校の教頭を務め、理学部の礎を築く<ref name="sone">{{Cite journal|和書 |author=勝木 渥, 近 桂一郎 |title=若き日の魂, ひとよを貫く : 曾禰武(そね・たけ)先生に聞く |journal=日本物理学会誌 |issn=2423-8872 |publisher=日本物理学会 |year=1978 |volume=33 |issue=7 |pages=561-567 |url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.33.7.561 }}</ref>。翌年には「立教工業理科専門学校」と改組し、工科も合わせた教育機関となった。戦後の1948年には、医学部創設のための前段として設置された[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]へと改組し受け継がれた。理学部の創設には、[[理化学研究所]]の[[仁科芳雄]]と並び「日本の[[現代物理学]]の父」といわれる[[杉浦義勝]]が中心メンバーとして尽力し、初代学部長となり、同年には理論物理学研究室も発足した。ほどなくして[[湯川秀樹]]と[[坂田昌一]]の共同研究者であった[[武谷三男]]も着任し、日本の[[素粒子物理学]]界をリードしていく<ref>立教大学理学部・理論物理学研究室 [httphttps://www.rikkyo.ne.jp/grp/itp/jp/jp_history_staff.html 『理論研の歴史』]</ref>。武谷は1957年には、総長であった[[松下正寿]]が誘致した原子力研究所(2001年原子炉運転停止、廃止措置中)の設立にも尽力し<ref>{{Cite journal|和書 |author=鈴木勇一郎 |title=立教大学原子力研究所の設立とウィリアム・G・ポラード |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2014 |volume=11 |pages=2-26 |url=https://doi.org/10.14992/00009278}}</ref>、研究所長には[[中川重雄 (物理学者)|中川重雄]]が就いた。武谷、中川とともに、[[原子力]]に関する日本最初の教科書である『原子力―教養の科学』を執筆し、長きに渡って原子力と平和利用の研究に従事した[[田島英三]](立教大学名誉教授)は、1956年に教授職と兼務で[[原子放射線の影響に関する国連科学委員会]](UNSCEAR)初代科学担当官に就き、日本人として初の[[国際連合|国連]]職員を務めている<ref>{{Cite journal|和書 |author=市川 龍資 |title=国連科学委員会1972年報告 |journal=保健物理 |issn=1884-7560 |publisher=日本保健物理学会 |year=1972 |volume=7 |issue=4 |pages=199-206 |url=https://doi.org/10.5453/jhps.7.199 }}</ref>。<br />
また、大学には[[農学部]]も設置されていないが、明治期の第2次立教学校(1890年10月-、現・立教大学)では、創立から[[聖公会]]と関わりが深い[[札幌農学校]](現・[[北海道大学]])出身の[[農学者]]である[[河村九淵]]が教えた。その後、河村は立教学校の姉妹校である聖公会系の[[奈良英和学校]]で校長を務めたのち、熊本農業学校(現・[[熊本県立熊本農業高等学校]])初代校長に就任するが、後に農聖と称される[[松田喜一]]を育てている<ref>{{Cite journal|和書 |author=中川良和 |title=奈良英学史抄 |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1977 |volume=1978 |issue=10 |pages=121-134 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1978.121 }}</ref><ref>[https://agri-kumamoto.jp/reference/data/%E6%BA%90%E6%B5%81%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6%E3%80%80%E8%BE%B2%E8%81%96%E3%80%80%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%96%9C%E4%B8%80%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%9E/ 熊本県農業情報サイト・AGRIくまもと『源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十六回』2019.07.01]</ref>。奈良英和学校では札幌農学校(現・北海道大学)第1期生で[[ウィリアム・スミス・クラーク|クラーク博士]]の「Boys, be ambitious (青年よ、大志を抱け)」の言葉を後世に残す上で大きな役割を担った[[大島正健]]も校長を務めた。また、前述の立教理科専門学校(1944年開設)の設立構想を提出した際には、農学部の設立構想も提出されている<ref name="medical_mission">{{Cite journal|和書 |author=藤本 大士 |title=近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動 : ミッション病院の事業とその協力者たち |publisher=東京大学 |year=2019-03 |url=https://doi.org/10.15083/0002001823 }}</ref>。
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==== [[人工知能|AI]]研究(人工知能科学研究科) ====
2020年4月に開設された人工知能科学研究科では、[[人工知能]]・[[データサイエンス]]を、人文・社会科学を含む全ての学術分野と掛け合わせることで、社会課題の解決やビジネスチャンスを生み出す力を育成する。これまでの技術ではなしえなかった新しい方法で未来を切り拓き、誰もが快適で活力に満ちた社会の実現に貢献することを使命としている。昼夜開講制で社会人が学びやすい。文系、理系、学部4年生、社会人を問わず、学生が集まり、1期生では社会人が約7割を占め、会計士や弁護士、医師、シンクタンク、マスコミ業、金融業、中学校の教員など多様な人材が集まった<ref>[https://ai.rikkyo.ac.jp/ 人工知能科学研究科]</ref>。<br />
2022年2月から4月にかけて、[[NTTPCコミュニケーションズ]]と[[東京電機大学]]の協力のもと、未来のAI業界を担う大学生・大学院生に向けて、[[人工知能|AI]]の社会・ビジネス実装に関する実践的な「学びの場」を提供するための産学共創イベントである「AIイノベーションアワード2022」を開催した。業界をリードするAI企業による「学生向けAI企業セッション」プログラムに加え、AI企業各社および大学から出題されるテーマに学生が取り組む「ビジネスアイデア&プログラミングコンテスト」が行われ、最優秀賞受賞チームに賞金100万円、優秀賞受賞チームに賞金30万円が贈られた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2022/04/mknpps000001xvfo.html 立教大学『産学共創イベント「AIイノベーションアワード2022」開催』2022年4月21日]</ref>。
 
==== 大学院特別進学制度、5年一貫プログラム ====
5年で修士号が取得できる制度として、経済学部、法学部、観光学部には「大学院特別進学制度」があり、経営学部と異文化コミュニケーション学部には「5年一貫プログラム」が設置されている。それぞれ、大学院の講義を4年次から1年間受講してから、学部卒業後に大学院の前期課程(修士)を1年で修了する制度となっている。多くの場合、学部入学後に実施される選抜試験を通過することでプログラムを履修することが可能だが、異文化コミュニケーション学部の「5年一貫プログラム」の場合は、学部入学前の入試によって選抜する方式も実施している<ref>[https://icc.rikkyo.ac.jp/admissions/fiveyear_integrated_program/ 異文化コミュニケーション学部・5年一貫プログラム]</ref>。
 
==== Global Liberal Arts Program (GLAP) ====
2017年に開設されたGLAPは、人文科学、社会科学、自然科学など、[[リベラル・アーツ|リベラルアーツ]]を英語で学習し、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する[[国際教養学部]]相当のプログラム<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/undergraduate/glap/ Global Liberal Arts Program]</ref>。原則英語のみの授業で学位取得が可能となっている。これらは明治期に開設した立教大学校<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/>のカレッジ構想とカリキュラムの復活と見て取れる。GLAPの1学年の人数は、30名の少人数制であり、希望入寮制により、国際交流寮で留学生と生活を共にすることもできる。2年次秋学期から1年間は、世界的に評価の高いリベラルアーツ大学などへ留学する。現在のところ学部という名称は採用しておらず、他大学が称しているように英名に対する和名(学部名)が付けられていないが、学習内容から実質的に[[国際教養学部]]といってよい。
 
==== 立教大学外国語教育研究センター(FLER) ====
2020年4月に先進的な[[外国語教育]]・研究活動を担う機関として、立教大学外国語教育研究センター(Center for Foreign Language Education and Research:FLER)を開設し、全学部の学生を対象とする外国語教育を行っている。グローバル化が進展し、変化する時代の中で、[[心理学]]、[[社会学]]、[[生物学]]、[[脳科学]]など「多様な分野間の交流」、英語と英語圏文化に加えて複数言語と各言語が内包する文化、価値観、歴史も対象とした「多様な言語間の交流」、研究者と教育者を繋ぐ「理論と実践の交流」の3つを軸として、既存の方法論を超えた新たな言語教育を創出する取り組みを推進している。2024年度には新カリキュラムを導入し、新たな時代を牽引するグローバル・リーダーを育成する外国語教育プログラムを開始する<ref>立教大学外国語教育研究センター [https://fler.rikkyo.ac.jp/message/index.html 『外国語教育研究センターの理念』]</ref>。
 
[[画像:Drucker5789.jpg|250px|thumb|left|[[ピーター・ドラッカー]]]]
 
==== アントレプレナーシップ教育 ====
[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]<ref group="注釈" name="College_of_Business"/>の前身の一つである社会学部産業関係学科が属した[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]では、日本の経営学の開祖の一人で<ref name="tama-u">{{Cite journal|和書|url=httphttps://idtama.repo.nii.ac.jp/1361/00000022records/28 |author=望月照彦 |title=多摩大学におけるベンチャー教育の一つの試み : カレッジ・イノキュレーション私論 |journal=経営・情報研究 多摩大学研究紀要 |ISSN=1342-9507 |publisher=多摩大学経営情報学部 |date=1997-03 |issue=1 |pages=45-63 |naid=110000032546}}</ref>、多くの起業型経営者が師と仰ぐ[[野田一夫]]が経営概論を教え、ゼミでは現代産業企業論としてベンチャー企業の育成を教えた。ゼミの授業では、毎週当時のベンチャー企業経営者を呼んで、ケーススタディを行っていたが、その経営者の中には、[[ソフトバンク]]の[[孫正義]]、[[パソナ]]の[[南部靖之]]、[[ぴあ]]の[[矢内廣]]などがいた<ref>[https://agora-web.jp/archives/2031183.html アゴラ言論プラットフォーム]</ref><ref>[https://prdx.co.jp/philosophy/supporters/noda/ 『野田一夫氏インタビュー』 株式会社パラドックス]</ref>。
野田は、当時の大学教授としては珍しく、[[コンサルタント|コンサルタント業]]を営み、ニュービジネス協議会の初代会長も務めるなど、学生だけでなく当時のベンチャー企業経営者の多くが野田の指導を受けていたのである。授業で行っていたケーススタディもMBAビジネススクールでは一般的な教育プログラムであるが、当時の日本の大学の学部教育においては画期的なものであった。こうしたアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は、1980年代初頭当時の日本ではどこも行っておらず、野田の授業は、日本のアントレプレナーシップ教育のさきがけであった{{Refnest|group="注釈"|当時の1980年代初頭の日本には、野田が教える以外にアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は存在していなかった。日本ではアントレプレナー(起業家)の育成は中小企業で行っており、アントレプレナーの先生はアントレプレナーであり、大学で教授が教えることはなかったのである。当時のアントレプレナーはブルーカラーの世界だったが、徐々にホワイトカラーの方に移っていく契機となったのが、ベンチャー企業であった。知的レベルが上がっていくとビジネススクールでスキルを教える必要性が出てきたのである。1992年になると、[[法政大学]]教授の[[清成忠男]](のちに法政大学総長)の尽力により[[法政大学]]大学院に企業家教育コースが開講し、人気を集め、ほぼ同時期に[[早稲田大学]]教授の松田修一がアントレプレナー研究会を始めて、ようやく起業家教育が全国に広がっていくこととなった。また、立教大学教授を1989年3月に定年退職した[[野田一夫]]は、同年4月に開校した[[多摩大学]]の初代学長として、ベンチャー型起業家を生み出すアントレプレナー教育を開始し、その後、学長となった[[事業構想大学院大学]]でも教育の基本に据え、立教大学でさきがけとして始めたアントレプレナーシップ教育を拡大していった<ref name="tama-u"/><ref>[http://www.venture-ac.ne.jp/award/award_k/2012/ 日本ベンチャー学会『2012年 第7回清成忠男賞 受賞者・受賞論文』]</ref><ref name="tama-u"/>。}}。<br />
また、野田は、[[ピーター・ドラッカー]]を日本へ紹介した人物としても知られ、立教大学に赴任した翌年の1956年にドラッカーの『The Practice of Management 』を翻訳し、『現代の経営』を出版し、日本の経営者たちに大きな影響を与えることとなった。その後も野田はドラッカーと深い親交を持ち続けた<ref name="topmanagement"/><ref name="r-keizaijin20170801"/><ref>[https://diamond.jp/articles/-/104191 『ドラッカーとも親交があった経営学の重鎮が語る卓越したリーダーの条件』 DIAMOND online]</ref><ref name="r-keizaijin20170801"/>。
1980年には、ドラッカーを日本に招き、[[ダイヤモンド社]]主催で特別シンポジウムを開催し、[[京セラ]]社長の[[稲盛和夫]]、[[セゾングループ]]総帥で[[西武百貨店]]会長の[[堤清二]]など日本を代表する経営者らとともに日本企業のあるべき経営について討議し、司会進行を務めた<ref>[https://diamond.jp/articles/-/309618 ダイヤモンド・オンライン『【追悼】稲盛和夫氏が巨人・ドラッカー氏に大反論!「日本のマネジメントは優れている」』2022.9.13]</ref>。
野田はドラッカー学会の顧問を務めたが、同会で学術顧問を務める[[一橋大学]]名誉教授の[[野中郁次郎]]は、ドラッカーの功績の一つとして「マネジメントとは[[リベラル・アーツ]]なのだ」と提唱したことを挙げ、マネジメントを教養と捉えている{{Refnest|group="注釈"|野中は、マネジメントは新たな教養であるとし、以下のようにに述べている。「ドラッカーという人と思想を見ていくときに、哲学・歴史・文学からのとらえ方も有効であろう。それともう一つ、マネジメントとは[[リベラル・アーツ]]なのだということを提唱したのが、ドラッカーの見逃しえない功績と思う。豊かな現実を経験しながら、同時にその現実の背後にある本質を直観する。それを言語化するときの基礎が教養、リベラル・アーツである。生き生きとした現実、プロセスのなかで本質を直観することは、科学のみになしうることではない。人間の生き方に深く関わる洞察であるがために、科学よりはむしろリベラル・アーツである。すなわち、アートとなる。マネジメントを教養とするのはまさにそのためである。」<ref>[http://drucker-ws.org/aboutdrucker/voices/ ドラッカー学会 各界からの声]</ref>}}。立教大学の教育の根本はリベラルアーツ教育であるが<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/topics/2017/mknpps0000007h31.html 特集:深化するリベラルアーツ 「完成期」における教養教育]</ref>、ドラッカーのいうマネジメントを学ぶことはリベラルアーツを学ぶことに他ならないといえる<ref>『ドラッカー 教養としてのマネジメント』ジョゼフ・A・マチャレロ、カレン・E・リンクレター 日本経済新聞出版 2013年3月26日</ref>{{Refnest|group="注釈"|ドラッカーは、1985年に発行した『[[イノベーションと企業家精神]]』の中で、「企業家精神の特性は、性格の問題ではなく、行動様式の問題である。しかも、企業家精神の基礎となるものは、直感的な能力ではなく、じつに論理的かつ構想的な能力なのである。」と述べ、企業家精神は極めて体系的なものであり、学習することで身に着け、実践することができるものとしている<ref>『イノベーションと企業家精神』P.F.ドラッカー 1985年 ダイヤモンド社</ref>。}}。経営学部国際経営学科では、野中郁次郎の下で学んだ西原文乃が2016年から教鞭を執り、野中が提唱した組織的知識創造理論を継承・発展させ、新たな価値を創造するプロセスや仕組みと価値創造を駆動するリーダーシップやアントレプレナーシップに関する研究を行っている<ref>[https://esse-sense.com/articles/49 esse-sense『“謙虚さ”こそが、新しい価値を生み出す源泉。』2022.04.18]</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=西原文乃 |title=アイディア発想手法に見る知識創造プロセス : 組織的知識創造理論からの示唆 |journal=立教ビジネスレビュー |publisher=立教大学経営学部 |year=2019-07 |volume=12 |pages=17-27 |url=https://doi.org/10.14992/00018078 }}</ref>。<br />
野田が創った立教大学のアントレプレナーシップ教育は、現在の経営学部を中心とする経営学教育にも受け継がれ、若手の起業家や[[ベンチャーキャピタル|ベンチャーキャピタリスト]]を生んでいる<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/alumni/2021/mknpps000001r3yh.html 「若手起業家が語る!『起業』という選択」]</ref><ref>一橋ビジネススクール・三枝匡氏経営者育成基金 [https://www.saegusa.hub.hit-u.ac.jp/study5article/ 第5回研究会『村田祐介氏を招き「起業家とベンチャーキャピタリストによる産業創造」をテーマに研究会開催』] 2022年3月17日</ref>。野田は教授を務めた社会学部産業関係学科の後身となる経営学部において、リーダーシップ論などの授業で度々ゲストスピーカーとして講じた<ref>All About ビジネス学習 [https://allabout.co.jp/gm/gc/439989/ 『リーダーシップを高める“場”の重要性』] 2014年02月26日</ref><ref>All About ビジネス学習 [https://allabout.co.jp/gm/gc/291395/ 『経営学者野田一夫先生のキャリア論』] 2007年12月23日</ref>。<br />また、2000年には米[[マイクロソフト]]創業者の[[ビル・ゲイツ]]に名誉博士号を授与し、大学のタッカーホールでゲイツによる立教学院創立125周年記念特別講演が開催されている{{Refnest|group="注釈"|name="Bill"|ビル・ゲイツは、「今日は名誉ある博士号授与だけでなく、皆さんとの対話を楽しみにして来た。私自身は大学を卒業できなかったのでうれしい。父は喜ぶだろう。」と講演の冒頭で語った。}}。2024年にはデロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社と「小中高大大学院一貫アントレプレナーシップ教育の研究と実践」についての契約を締結し、立教大学ビジネスデザイン研究所において起業家育成に向けて経営一貫教育の研究と実践の取り組みを開始した<ref name="rikkyo-20240618">立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/06/mknpps000002ssgz.html 『デロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社と「小中高大大学院一貫アントレプレナーシップ教育の研究と実践」についての契約を締結』] 2024/06/18</ref>。
{{clear}}
 
==== ドラッカー研究 ====
[[ピーター・ドラッカー]]研究では、立教大学[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]教授であった[[三戸公]]が1971年に『ドラッカー 自由・社会・管理』を出版し、ドラッカー理論体系を包括的な理論として再構成する画期をなす研究を行った。三戸は、[[藻利重隆]]([[一橋大学]]教授)による企業管理論としての最初の体系的なドラッカー研究と、[[岡本康雄]]([[東京大学|東大]]教授)が行った初期のドラッカーにまで遡って探究する産業社会論アプローチに、規範論としての自由論を加えることで、ドラッカー理論は規範・理論・政策という統合的・包括的理論体系の「グローバルな理論」へと展開されていくこととなった。また、三戸は1970年代には、院生たちとドラッカー著作の外書輪読を行い、その成果を1979年に『ドラッカー 新しい時代の予言者』として出版し、近年2011年には『ドラッカー、その思想』を出版するなど、永きに渡り真摯に研究を進めた<ref>{{PDFlink|[http://www.ecpr.or.jp/pdf/ecpr42/p64_73.pdf 『ドラッカーとNPO経営 ―POからNPOへ―』水口和壽 (公財)えひめ地域政策研究センター 調査研究情報誌 ECPR 2018 No.2]}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=小林俊治 |title=三戸公 著 『ドラッカー ―自由・社会・管理―』 |journal=早稲田商学(The Waseda commercial review) |issn=0387-3404 |publisher=早稲田商学同攻会 |year=1974-03 |issue=242 |pages=221-227 |url=https://hdl.handle.net/2065/3709}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/07/0c2195a7b3090677e848ee1200f5b44b.pdf 『ドラッカーの遺言 ―知識社会の未来―』第43回世界経済評論フォーラム新春講演 2014年1月21日]}}</ref>。
 
==== 新自由主義、マネタリズム ====
[[画像:Portrait of Milton Friedman.jpg|250px|thumb|[[ミルトン・フリードマン]]]]
社会学部産業関係学科(現・[[立教大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]の前身の一つ)では、[[シカゴ大学]]大学院で[[フリードリヒ・ハイエク]]([[ノーベル経済学賞]]受賞:1974年)に学んだ[[西山千明]]([[経済学者]])が、1962年から母校である立教大学の教授を務めた。西山はハイエクの著作群を監修・監訳し、日本へ紹介した人物として知られ、友人である[[ミルトン・フリードマン]](ノーベル経済学賞受賞:1976年){{Refnest|group="注釈"|[[ミルトン・フリードマン]]は、[[フリードリヒ・ハイエク]]の元で共に学んだ西山にとっての兄弟子。西山とフリードマンは、1977年以降は[[スタンフォード大学]][[フーヴァー研究所]]でも長らく同僚で、2人は「ミルトン」「チアキ」と呼び合うほどの仲だった。また、フリードマンは立教大学と同じ[[聖公会]]が設立した[[コロンビア大学]]で博士号を取得している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO25887460Z10C18A1EAC000/ 日本経済新聞『(追想録)西山千明さん 立教大学名誉教授 チームワークを経済理論に』2018年1月19日 ]</ref>。}}
の『選択の自由』の翻訳を手掛けるなど「[[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]」や「[[マネタリスト|マネタリズム]]」を日本に紹介し、日本における「[[新自由主義]]」の思想の普及と[[市場経済|自由主義経済]]の拡大に大きな貢献を行った<ref name="nishiyama01"/><ref name="nishiyama02"/>。西山は、立教大学教授と兼務で、[[モンペルラン・ソサイエティー]]の会長(1980年‐1983年)も務めている<ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/1338.html 松岡正剛の千夜千冊『ミルトン・フリードマン 資本と自由』2009年12月29日]</ref>。<br />
西山は1962年に米国から帰国してまもなく、自身が中心となって運営する立教大学近代経済学研究会の主催で、1962年11月から1963年6月まで立教大学の学生を主な対象として初心者のために近代経済学全般を解説する「第一期理論経済学セミナー」を開催したが、フリードマンも講師として特別講演を行った。フリードマンが講演した「貨幣理論の現状」は彼自身の講演による「マネタリズム」の日本初上陸であり{{Refnest|group="注釈"|フリードマンのマネタリズムに関する論文はすでに日本で知られていたが、フリードマン自身が直接日本で新貨幣数量説について初めて講演を行い、理論の紹介を行った。}}、このセミナーの成果は講義の速記録が加筆、編集され、1964年に『近代経済学講義』として出版され、近代経済学を体系的に解説する日本語による教科書のさきがけとなった<ref name="wako-u">{{Cite journal|和書 |author=山田久 |date=2018-03 |title=マネタリズムと新自由主義 (山田久教授御退任記念号) |journal=和光経済 |issn=0286-5866 |publisher=和光大学社会経済研究所 |year=2018-03 |issue=3 |volume=50 |pages=1-12 |url=httphttps://idwako.repo.nii.ac.jp/1073/00004552records/4591 }}</ref>。
また、西山が所長を務める立教大学近代経済学研究機構には、「明治以降本邦貨幣基礎統計資料整備委員会」があり、フリードマンが顧問を務めた。貨幣委員会の作業報告会にはフリードマンも参加しゼミ生の指導を行った<ref name="wako-u"/>。フリードマンは研究のため夫妻で日本へ多く訪れたが、休暇を兼ねて日本各地への案内役を務めたのは西山だった<ref name="php-voice">[https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/7091 PHPオンライン衆知『ノーベル賞経済学者が「日本とアメリカは似ている」と分析した理由』2019年11月29日]</ref>。<br />
1963年には、ノーベル経済学賞受賞(1976年)でフリードマンの業績が世界的に評価されるのに先駆け、フリードマンに立教大学から名誉博士号が授与され、翌1964年にはハイエクに名誉博士号を授与されている<ref>[https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/7089 PHPオンライン衆知『進む再評価 ノーベル賞経済学者・フリードマンと日本の「深い関係」』2019年11月28日]</ref><ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/honorary_doctorate/ 立教大学『名誉博士授与者 / Honorary Doctorate』]</ref>。<br />
西山が日本で普及した新自由主義の思想は、[[中曽根政権]]の「民活プロジェクト」や、[[三公社五現業|三公社]]([[日本専売公社|専売公社]]、[[日本国有鉄道|国鉄]]、[[日本電信電話公社|電電公社]])民営化、[[橋本政権]]の「[[金融ビッグバン]]」、[[小泉政権]]の「[[聖域なき構造改革]]」による規制緩和、[[郵政民営化|郵政]]・[[道路関係四公団|道路四公団]]民営化が進められた経済政策の背骨となり、長らく日本政府の経済政策を支える理論として、大きな影響を与えた。また、「[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]が20世紀前半の最も影響のある[[経済学者]]だったとすれば、フリードマンは20世紀後半の最も影響のある経済学者である」と言われるなど、今日も世界の経済学者から高い評価を得る<ref name="php-voice"/>。しかし、新自由主義的政策は評価が分かれ、他の経済政策と同様、景気の変動や国内外の経済状況によっても施策の結果が変わるため、現在も多くの論争的議論が存在する<ref>櫻井宏二郎『日本経済論 史実と経済学で学ぶ』日本評論社 2018年</ref><ref>[https://jinjiseido.com/media/neoliberalism 日本人事経営研究室『人事評価制度の教科書』2018-06-28]</ref>。
 
==== データサイエンス教育・研究推進 ====
*; 社会情報教育研究センター (CSI)
:大学内でデータサイエンス教育・研究の中枢を担う社会情報教育研究センター (CSI){{Refnest|group="注釈"|CSIは2010年3月に開設された。}}では、調査 (Research)・情報 (Information)・統計 (Statistics) という3つのスキルを活用した教育研究活動を行い、「データサイエンス力の高い人材育成」と「データリテラシー高度化支援」を全学的に展開している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/data_science/ データサイエンス教育・研究推進]</ref>。統計・社会調査系科目の提供や社会調査士資格取得支援に加えて、統計学習コンテンツ・ソフトウェア開発や調査・研究コンサルティング{{Refnest|group="注釈"|大学院学生・教職員・学内組織に対して、調査・統計技法を活用して、日々の研究活動を生かしたいというニーズに応じて相談業務を行う。}}を行い、さらには統計関連セミナーを開催している。後述の[[#データサイエンス副専攻|データサイエンス副専攻]]への科目提供も行っている。また、既存データの利活用支援として、全国の大学・研究機関で実施された学術的かつ統計分析可能な社会調査データを収集・整理・保存し、「立教大学 社会調査データアーカイブ RUDA(ルーダ)」 として公開するとともに、公的統計情報の二次的利用支援も行っている。
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:グローバル人材に求められるデータ活用力やIT技術を身につけることを目的として、社会情報教育研究センター (CSI) が提供母体となり、2018年に開設された全学部生対象のプログラムで、グローバル教養副専攻のテーマの一つになっている。具体的には、日本における調査の仕組みや公的統計の利活用を学ぶ科目群、統計学や調査理論、[[多変量解析]]、データ分析実習系科目からなる科目群、さらに英語で展開される科目群で構成され、それぞれの科目群は基礎系科目と先端系科目に分類され修了に必要な単位数が設けられている。
 
==== [[持続可能な開発のための教育|ESD]]研究、[[持続可能な開発目標|SDGs]]、地域創生 ====
*; ESD研究所
日本初の[[持続可能な開発のための教育|ESD]](Education for Sustainable Development)研究機関として、2007年に「立教大学ESD研究センター」として設立され、国内およびアジア太平洋地域におけるESD、即ち「[[持続可能な開発のための教育]]」の普及に努め、国内外におけるハブとしての役割を担ってきた。2012年には「立教大学ESD研究所」と名称を変え、日本におけるESDの第一人者である所長の[[阿部治]]のもとで実践的な調査・研究を展開し、多くの成果を上げてきた。2015年には[[文部科学省]]私立大学戦略的研究拠点形成事業にESDによる地域創生研究拠点として採択され、持続可能な地域創生を果たす人材育成の研究に取り組んでいる<ref>[http://www.rikkyo.ne.jp/~osamu/profile_1.html 立教大学・阿部治研究室]</ref>。2021年度からは、[[上田信 (歴史学者)|上田信]]が所長に就任し、[[持続可能な開発目標|SDGs]](Sustainable Development Goals)への取り組みに研究所としても一翼を担うべく、地域連携を強化し、新たな事業展開を推進する<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/esd/ 立教大学ESD研究所]</ref>。2022年8月には、[[対馬市]]、[[羅臼町]]、[[飯田市]]、[[檜枝岐村]]に加え、新たに[[松崎町]]と覚書を交わし、地域創生を学ぶ学生たちとともに[[フィールドワーク]]を行い、研究活動を進めている<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/197733 東京新聞『松崎町と立教大 地域活性で覚書』2022年8月24日]</ref>。
 
*; まち歩きマッププロジェクト
地域活性化では、[[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学部]]で地域のまち歩きマップ「ぶらってシリーズ」を制作し、学生が地元民への調査で発掘した穴場スポットを学生ならではの目線で紹介し、街の魅力を発信している。"まち歩きマップ"プロジェクトは、[[武蔵野銀行]]との[[産学連携]]で進められ、これまでに[[幸手市]]、[[羽生市]]、[[行田市]]、[[加須市]]、[[氷川参道]]、[[新座市]]、[[小鹿野町]]、[[秩父市]]、[[川越市]]、[[草加市]]、[[朝霞市]]の10つ11作の地域版(2023(2024510月現在)が作られている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79887350U2A200C2L72000/ 日本経済新聞『武蔵野銀と立教大、学生目線「街歩きマップ」』2022年2月5日]</ref><ref>[https://www.nhk.or.jp/shutoken/saitama/article/002/61/ 日本放送協会『地域の隠れた魅力を大学生が発信 埼玉県新座市』2022年03月16日]</ref><ref>立教大学東京新聞 [https://www.rikkyotokyo-np.acco.jp/newsarticle/2023/03/mknpps0000025re0.html359077立教大生9人が朝霞市のまち歩きマップ『ぶらって草加』マップ完成披露・贈呈式 3/20、草加市役所にて開催!MAP』] 2023/3/152024年10月8日</ref>。
 
=== 大学発ベンチャー ===
;オリシロジェノミクス株式会社
理学部生命理学科の末次正幸教授が2017年に発明した、細胞を使わずに長い[[デオキシリボ核酸|DNA]]を効率的に合成する技術(セルフリー長鎖DNA合成技術)を実用化する目的で2018年12月に設立。大学での研究段階で既に技術開発のフェーズまで進んでおり、事業開始から1年半足らずで最初の製品がリリースされた。[[科学技術振興機構]](JST)と[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]](NEDO)による「大学発ベンチャー表彰2021」では科学技術振興機構理事長賞を受賞した<ref>[https://www.jst.go.jp/tt/journal/journal_contents/2021/10/2110-05_article.html 国立研究開発法人 科学技術振興機構『特集大学発ベンチャー表彰2021 科学技術振興機構理事長賞』2021年10月15日]</ref><ref>{{YouTube|JBbhmdRMEPw|科学技術振興機構理事長賞 オリシロジェノミクス株式会社}}</ref>。2023年1月、同社を[[COVID-19ワクチン]]を扱うバイオ医薬企業世界トップの[[モデルナ|米Moderna社]]が評価し、買収すると発表。買収金額は8500万ドル(約110億円)となった<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000081.000064549.html PR TIMES『モデルナ、オリシロジェノミクス株式会社を買収へ』2023年1月4日]</ref><ref>[https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/23/01/05/10298/ 日経バイオテク『米Moderna社が創業後初の買収、オリシロジェノミクスを約110億円で』立教大の末次教授の研究成果を評価 2023.01.06]</ref>。
 
=== 立教とスポーツ ===
==== 概要 ====
[[画像:渡米した立教大学野球部の歓迎会(1932年春).jpg|300px|thumb|ニューヨークの[[タウンホール (ニューヨーク)|タウンホール]]で行われた立教大学野球部の歓迎会(1932年5月11日、中央テーブル奥に[[ベーブ・ルース]]と[[ルー・ゲーリッグ]]の姿が見える)。]]
[[東京六大学野球連盟]]に所属する[[立教大学野球部|野球部]]をはじめ、オリンピックや日本選手権など数々の大会で活躍したことから「水泳立教」と呼ばれ、日本水泳界をリードした水泳部。日本サッカーの父、[[デットマール・クラマー]]に学び、多くの日本代表と日本代表監督を輩出してきた[[立教大学体育会サッカー部|サッカー部]]<ref name="soccer">{{YouTube|NER8PLnisRI|立教大学サッカー部 クラブヒストリー}}</ref>。全日本選手権優勝7回、全日本大学選手権優勝6回の[[立教大学体育会バスケットボール部|バスケットボール部]]、日本の先駆けとして創部され、全日本学生バドミントン選手権で7連覇した[[#バドミントン部|バドミントン部]]など、立教のスポーツは輝かしい歴史と伝統を持つ<ref name="chronicle">{{YouTube|wuZOe-W9jHM|立教大学体育会クロニクル アメリカンフットボール部・バスケットボール部}}</ref>。[[#山岳部|山岳部]]は日本で初めて[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]に遠征し初登頂を果たした<ref name="Alpine">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2017/qo9edr000000pd5g.html 立教大学『81年前の立教大学ヒマラヤ遠征隊の偉業、ナンダ・コート登頂に再び挑戦』2017年7月6日]</ref>。[[#ボクシング部|ボクシング部]]も歴史が古く、1923年に日本ボクシングの母、[[荻野貞行]]([[帝拳プロモーション|帝拳ジム]]創設者)らにより創部された<ref name="rikkyo-boxing"/><ref name="boxingnews">Boxing News [https://boxingnews.jp/news/103979/ 『伝統の名門校 立教大ボクシング部が創部100周年の記念式典開催』] 2023年10月29日</ref>。[[立教大学ラッシャーズ|アメリカンフットボール部]]も日本のアメフトの歴史そのものといえる由緒あるクラブであり、[[アメリカンフットボール]]の普及と1934年の[[関東学生アメリカンフットボール連盟|東京学生アメリカンフットボール連盟]]設立に尽力し、「フットボールの父」と呼ばれる[[ポール・ラッシュ]]博士によって創部された{{Refnest|group="注釈"|日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュ博士(立教大学教授)、ジョージ・マーシャル(立教大学体育主事)、[[松本瀧藏]](明治大学教授)、小川徳治(立教大学教授)、アレキサンダー・ジョージ([[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ大使館]]付[[駐在武官|武官]])、メレット・ブース(アメリカ大使館付武官)、加納克亮(朝日新聞記者)らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まる。ラッシュの尽力により、同年10月28日に東京学生アメリカンフットボール連盟(現・[[関東学生アメリカンフットボール連盟]])が結成され、11月29日には全東京学生選抜チーム(立教、明治、早稲田)と横浜カントリイ・アスレチック・クラブ(YCAC)との間で、明治神宮競技場において日本初の公式試合が開催された。観客は約2万人で、開会式では[[ジョセフ・グルー]]米国大使が祝辞を述べた。同年12月8日には、我が国最初のリーグ戦である東京学生リーグが開幕し、立教大学池袋グラウンドで初戦の立教大学対明治大学戦が開催された<ref name="americanfootball">[https://americanfootball.jp/history/7159 『日本アメリカンフットボールの活動の記録』公益社団法人日本アメリカンフットボール協会]</ref>。}}<ref name="chronicle"/>。<br />
ラッシュはアメリカンフットボール以外にも、多くのスポーツ振興を行うとともに、戦後の日本の復興に大きく貢献した。立教大学野球部が1931年に[[東京六大学野球連盟|六大学野球リーグ]]で初優勝した際には、野球部の米国遠征を大学体育主事であったジョージ・マーシャル教授と企画し、現地アメリカの大学との試合に加えて[[ベーブ・ルース]]や[[ルー・ゲーリッグ|ルー・ゲーリック]]らによる歓迎会も催し、スポーツを通じた日本とアメリカの友好の架橋となった<ref name="kcfaold">[http://www.kcfaold.jp/75th/75th01.html 『75周年記念特集 フットボールの父 ポール・ラッシュの真実』関東学生アメリカンフットボール連盟]</ref>。1933年には、[[立教大学体育会サッカー部|サッカー部]]の2代目部長として、チームを[[関東大学サッカーリーグ戦|関東リーグ]]1部へ昇格に導いた<ref name="soccer"/>。戦後まもなく、再来日したラッシュは、日本の復興には若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、終戦翌年の1946年に[[全国高等学校野球選手権大会|高校野球夏の甲子園大会]]を復活開催させている<ref name="kcfaold"/>。ラッシュに学んだ[[小川徳治]](立教大学経済学部元教授)も、学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職を歴任する傍ら、アメリカンフットボール部、野球部、空手部、スキー部の各部長を歴任し、学生スポーツの振興に尽力した。小川は[[日本アメリカンフットボール協会]]理事長も務めた。2013年には、ラッシュを記念して池袋キャンパスに[[#スポーツ施設|ポール・ラッシュ・アスレティックセンター]]が完成した。
 
1907年(明治40年)に立教大学(旧制専門学校)が設立され、翌年、[[岡野正司]](校友会元会長)らが野球部を再興すると、教授であった[[アーサー・ロイド]](立教学院元総理)がコーチを務めた。ロイドはバッティングケージを考案して自費で設け、築地にあった狭い校庭でも打撃練習できる環境を整備した。また、かつて野球選手でもあったロイドの指導により、野球部は他校よりもインサイド・ワークが進化したベースボールを展開した<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/57(S32)1108_148.pdf 『立教大学新聞 第148号』] 1957年(昭和32年)11月8日</ref>。
 
古くは上述の野球以外でも、海外の大学との交流戦が行われ、バスケットボール部は1924年に、[[上海市|上海]]にあった姉妹校の[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学)と遠征試合を行い{{#tag:ref|上海遠征は1924年12月から翌年1月にかけて実施され、オールホワイト、上海大学、上海アメリカンスクールとも交流試合を行った<ref name="名前なし-20240110212613">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0120_010.pdf 『立教大学新聞 第10号』] 1925年(大正14年)1月20日</ref>。|group="注釈"}}、帰国後の翌年2月1日には、[[上野精養軒]]で各新聞記者も招待し遠征報告会も開催された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0205_011.pdf 『立教大学新聞 第11号』] 1925年(大正14年)2月5日</ref>{{#tag:ref|この遠征は校友で[[日清汽船]]副支配人であった[[山中喜一]](後の[[東亜海運]]社長)が後援した<ref name="名前なし-20240110212613"/>。|group="注釈"}}。1926年には同大学を日本に迎えて試合を行った。戦後も[[大韓民国|韓国]]の[[延世大学校|延世大学]]と定期戦を設けるなど国際交流を進めた<ref>立教大学男子バスケットボール部 チーム紹介 [https://rikkyo-bb1921-mens.com/team 沿革詳細『創部1921年~2022年表』]</ref>。延世大学(当時・延禧専門学校)を経て、立教大学を卒業したバスケットボール選手の[[張利鎮]]は、[[1936年ベルリンオリンピック]]では日本代表選手として出場し、[[1948年ロンドンオリンピック]]では韓国代表として出場するなど国際舞台で活躍した。こうした戦前の時期も全国の名門[[旧制中学校|中学]](旧制)から強い選手が集まり、野球、バスケットボール、ラグビー、サッカーなど全日本クラスが大勢在籍した<ref>Egobnet [https://egobnet.boy.jp/data/ggg121.htm 『山下ゴムとホンダ その1(名将 西本幸雄)』] 木田橋義之 2003年12月29日</ref>。
 
1965年には、初代法学部長で、[[憲法学]]の権威である[[宮澤俊義]]が、教授職と兼務で[[日本野球機構]](プロ野球)[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]を務めた<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/2017_miyazawa.pdf 立教大学・宮沢俊義文庫『日本国憲法起草関連資料』]}}</ref>。
 
立教のスポーツは長い期間、低迷する時代が続いたが、近年になってスポーツ施設が生まれ変わり、アスリート選抜入試など受け入れる制度も整い、有望な選手たちが入学し、立教大学を胸に世界と戦うための環境ができつつある。ボート部は、2016年の全日本選手権において男子フォアで初優勝。2019年には女子エイト、2021年には男子フォアが2度目の優勝を果たした。野球部は、2017年全日本大学野球選手権で1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。同年[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]は、1961年以来56年ぶりに定期戦で[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早稲田大学]]に40‐20で勝利した。陸上競技では、2018年から「箱根駅伝2024事業」が開始し、立教大学の誇りと伝統校復活のため強化を進め、2022年[[第99回東京箱根間往復大学駅伝競走#予選会|第99回箱根駅伝予選会]]で6位となり、55年ぶりに[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]本選出場を決めた。2019年には、剣道部が、第38回全日本女子学生剣道優勝大会で全国優勝し、女子ラクロス部は、第11回ラクロス全日本大学選手権大会で全国優勝し、それぞれ創部初の快挙となった。第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会では、馬術部の杉本瑞生が創部以来初の個人優勝を果たした<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2019/11/mknpps0000011okl.html 馬術部の杉本瑞生さんが「第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会」で個人優勝]</ref>。[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]は、51年ぶりに定期戦で[[明治大学ラグビー部|明治大学]]に38‐24で勝利した<ref name="rikkyo-rugby">[https://www.rikkyo-rugby.com/about-rikkyorugby 立教大学体育会ラグビー部『立教ラグビー部の歴史』]</ref>。2021年、プロボクシング日本女子ミニマム級で、[[鈴木なな子]]が日本チャンピオンに輝いた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2021/12/mknpps000001t8ir.html 立教大学・ニュース&イベント]</ref>。日本学生自転車競技連盟主催の「全日本学生ロードレース・カップ・シリーズ2021」では、自転車競技部の中島渉が総合優勝し、同部史上初の快挙となった<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2022/03/mknpps000001wc7w.html 立教大学・ニュース&イベント]</ref>。2022年、レスリング部が東日本学生リーグ二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした<ref name="japan-wrestling">[https://www.japan-wrestling.jp/2022/05/21/187954/ 日本レスリング協会『立大が61年ぶりの一部昇格を決める』2022年5月21日]</ref>。[[世界ジュニアカーリング選手権]]大会2022では、[[荻原詠理]]が所属する日本代表チームが日本[[カーリング]]界で初の世界一に輝いた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/campuslife/2023/mknpps0000023yxm.html 立教大学『日本カーリング界初の世界一に輝く。競技者とウエルネスの両視点で学びを深め、オリンピックの金メダル獲得を狙う』2023/01/24]</ref>。2023年、陸上部女子長距離パートが、[[全日本大学女子選抜駅伝競走大会|富士山女子駅伝]](2023全日本大学女子選抜駅伝)に初出場した<ref>朝日新聞DIGITAL [https://www.asahi.com/articles/ASRDT4VHBRDQUTQP00X.html 『徹底した自主性、小所帯でつかんだ初切符 立教大が富士山女子駅伝へ』]</ref>。([[#スポーツ]]を参照。)
 
2008年には、[[スポーツ科学]]を総合的に学べるコミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科(現・スポーツウエルネス学部)を開設。2019年からは、同じ[[聖公会]]に属する[[聖路加国際大学]]と協定を締結し、プロ選手や日本を代表するトップ[[アスリート]]の健康維持管理を医学的側面からサポートしてきた[[聖路加国際病院]]スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。2023年4月には、スポーツウエルネス学科を改組し、スポーツウエルネス学部を設置した。同学部では、[[2022 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップカタール2022]]を始め、[[サッカー日本代表|SAMURAI BLUE]](サッカー日本代表)のチームドクターとしてこれまでチームを支えている加藤晴康が教授を務めている<ref>JFA・日本サッカー協会 [https://www.jfa.jp/samuraiblue/news/00030916/ 『【SAMURAI BLUEを支えるスタッフ】チームドクター 加藤晴康氏インタビュー』] 2022年11月09日</ref><ref>立教大学・研究者情報 [https://univdb.rikkyo.ac.jp/view?l=ja&u=1055 加藤 晴康]</ref>。
 
==== 日本の野球のさきがけ ====
[[1883年]](明治16年)に[[築地]]で創設された米国式カレッジの立教大学校には[[立教大学硬式野球部|野球チーム]]があり、立教は日本の野球の率先者であった。その頃、ベースボールチームがあったのは立教と[[東京英和学校]](現・[[学校法人青山学院|青山学院]])と[[鉄道局]]([[平岡凞#新橋アスレチック倶楽部|新橋アスレチック倶楽部]])だけであり、[[東京六大学野球連盟]]に所属するチームの中で最も古い歴史を持つ。当時の試合は[[汐留駅 (国鉄)|新橋停車場]]内の広場で行われた。対抗戦で優勝し、[[山縣雄杜三]](後の立教大学教授、チャプレン)も優勝チームの選手として活躍した<ref name="rikkyonews031">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/26(T15)0425_031.pdf 『立教大学新聞 第31号』3面] (印刷は第36号と誤植)1926年(大正15年)4月25日</ref>。
 
==== 授業科目としてのスポーツの歴史 ====
立教の授業科目としてのスポーツの歴史は、中世ヨーロッパ以来のリベラル・アーツの伝統を受け継いで1883年に開設された、前述の野球チームもつくられた立教大学校において、既に体操が教育プログラムとして設けられており、[[イングランド国教会|英国国教会]]([[聖公会]])の[[パブリックスクール]]やカレッジで行われてきたスポーツを通じた人間育成が実施されている<ref name="kanoya7"/>。2023年開設のスポーツウエルネス学部にも聖公会のスポーツの理念と[[スポーツマンシップ]]教育が活かされている<ref>[https://sw.rikkyo.ac.jp/undergraduate/message.html 立教大学・スポーツウエルネス学部『創設の理念』]</ref>。
 
==== 立教大学とオリンピック ====
立教大学と[[近代オリンピック|オリンピック]]のつながりは古く、[[1924年パリオリンピック|1924年パリ大会]]で、水泳部の学生が100メートル背泳ぎで6位入賞したことに始まり、[[1936年ベルリンオリンピック|1936年ベルリン大会]]では、水泳部の学生2名が競泳男子800m自由形リレーで世界新での金メダルを獲得した。サッカーでは、[[1964年東京オリンピック]]にサッカー部から3名の日本代表選手が出場し、次の[[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年メキシコ大会]]でも3名の選手が活躍し、銅メダルを獲得した。その他競技も含め、立教大学からこれまで60名以上の選手を送り出し、コーチや監督といった選手を支えるスタッフとしても多くの関係者が出場している。競技以外でも、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの選手村食堂運営に、立教大学の「ホテル研究会」の学生が携わった<ref name="tokyo2020"/>。
 
2016年11月には、東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトを発足させた。オリンピック・パラリンピックの開催を契機に、スポーツを通じて多様性を尊重する社会の実現を目指し、スポーツから得られる感動体験とともに活力をもって生きる環境と機会を生み出す教育・研究活動を推進するプロジェクトで、具体的な活動に、立教スポーツの活性化、通訳・ボランティア派遣等大会支援活動、しょうがい者スポーツボランティアの育成、競技への科学的サポートなどがある。ブラジルオリンピックチームとは大学の施設をトレーニングキャンプで利用する覚書を締結した<ref name="tokyo2020">[https://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/tokyo2020/ 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクト]</ref>。
 
[[2020東京オリンピック]]で、池袋キャンパスに設置されたスピードクライミング壁で練習を行っていた[[野中生萌]]が、新競技となる[[スポーツクライミング]]女子[[スポーツクライミング#複合種目|複合]]で銀メダルを獲得した。
 
== 沿革 ==
=== 略歴 ===
[[画像:Canterbury Cathedral - Portal Nave Cross-spire.jpeg|316px|thumb|[[米国聖公会]]の始祖である[[イングランド国教会]]の総本山、[[カンタベリー大聖堂]]]]
西暦[[597年]]、[[ローマ]]から[[イギリス|英国]](イングランド)に派遣された[[カンタベリーのアウグスティヌス|オーガスティン]]が、初代[[カンタベリー大司教]]([[カンタベリー大主教|大主教]])に着座したことを淵源の一つとする[[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)の流れを汲む大学である<ref name="roots"/>{{Refnest|group="注釈"|name="kings-school"|[[カンタベリーのアウグスティヌス|オーガスティン]]は、同年(西暦597年)に、英国の[[パブリックスクール]]であり、世界最古の現役の学校の1つと評される「[[キングズ・スクール|キングス・スクール]]」を創設<ref>[https://www.kings-school.co.uk/about/history/ The History of King's]</ref>。キングス・スクールは[[カンタベリー大聖堂]]に隣接して設置されている。}}<ref group="注釈" name="Celts"/>。<br />
[[画像:William-Adams-before-Shogun-Tokugawa-Ieyasu.png|150px|thumb|left|[[徳川家康]]の前の[[ウィリアム・アダムス]](日本に初めて来た[[イギリス人]]、聖公会信徒)]]
[[米国聖公会]]([[イングランド国教会|英国国教会]]起源の会派)の信徒である[[マシュー・ペリー]]の来航([[黒船来航]])と、初代米国総領事で[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]の創設者でもある[[タウンゼント・ハリス]]の活動により日本の開国に幕が開き、ハリスによって本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えた[[日米修好通商条約]]が調印されたことで、宣教師の来日が可能となった<ref name="k-nakajima"/>。熱心な聖公会会員であった[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]は、[[エドワード・サイル]]ら米国聖公会の遣清宣教師に、聖公会による学校開設と医療活動を提言した<ref name="t-shiga"/>。こうしてハリスとサイルら遣清宣教師による宣教勧告と学校開設の勧奨を受けた米国聖公会は、[[1859年]](安政6年)2月に日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本[[ミッション]]の開設を決定する。この決定を受けて中国(当時、[[清]])で活動していた米国聖公会宣教師の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]が任命され、プロテスタント最初の宣教師{{Refnest|group="注釈"|name="protestant"|[[琉球王国]]で伝道活動した英国聖公会の[[バーナード・ジャン・ベッテルハイム]]を日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とすることもあるが、琉球王国は[[1879年]]になって日本の[[沖縄県]]になることから、正式に日本ミッション開設のために[[米国聖公会]]から派遣された[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]を日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とする。}}として、[[1859年]](安政6年)の5月と6月にそれぞれ[[長崎市|長崎]]に来日した。彼らが開港地となった長崎で[[ミッション]]を開設し、ハリスの支援のもと[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]の要請で立教大学の源流となる私塾を設け英学教育を創始したことを起源とする<ref group="注釈" name="rikkyo-college-02"/>{{#tag:ref|1854年(嘉永7年)の[[日米和親条約]]を端緒として洋学研究と教育の必要性が生じると、[[江戸幕府]]は[[蛮書和解御用|蕃書和解御用]]で行われていた洋書翻訳事業を独立させて、1855年(安政2年)に洋学所を九段下に開設。翌1856年(安政3年)、[[蕃書調所]]([[開成所]]の前身で[[東京大学]]、[[東京外国語大学]]の源流)と改称した。さらに1858年(安政5年)7月の[[日米修好通商条約|日米通商修好条約]]締結により、本格的に英語通訳の養成が必要となった。<br />
[[大航海時代]]が成熟期を迎えていた[[1600年]](慶長5年)に、英国国教会の信徒である[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針/日本に初めて来た[[イギリス人]])が[[リーフデ号]]で日本に渡来し、[[徳川家康]]の外交顧問と[[通訳]]を務めて[[英学]]を教え、西洋式帆船([[ガレオン船]])の[[サン・ブエナ・ベントゥーラ]]の建造や[[平戸市|平戸]]の[[オランダ商館]]の創設に尽力したほか、[[クローブ号]](日本に初めて来航したイギリスの商船)で来日した英国国教会信徒の[[ジョン・セーリス]]と[[リチャード・コックス]]を支え、家康から[[朱印状]]を得て平戸の[[イギリス商館]]の創設に貢献するなど、日蘭、日英外交の懸け橋となった<ref name="StMary's">a church near you [https://www.achurchnearyou.com/church/9897/page/73691/view/ 『William Adams』] St Mary's Gillingham "The Church on the green",The Archbishops’ Council,The Church of England</ref><ref name="sizuoka">静岡市 大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ [https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/05_07.htm 大航海時代の駿府の家康公『ウイリアム・アダムズ』]</ref><ref name="serai">サライ.jp [https://serai.jp/hobby/1153868 『家康の外交顧問に重用された“三浦按針”こと、ウィリアム・アダムスの生涯|日蘭交流のきっかけを作ったイギリス人航海士【日本史人物伝】』] 小学館,2023/10/29</ref>。<br />
既に1857年(安政4年)には、幕府は[[長崎奉行]]に命じ、[[長崎海軍伝習所]]のあった長崎西役所内に語学伝習所を設立していたが、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には英語に特化した[[長崎英語伝習所]]が設立された。<br />
[[画像:Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|150px|thumb|[[マシュー・ペリー]]<br>([[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官 、[[米国聖公会]]信徒)]]
次いで幕府の公式[[通詞]]たちは、長崎奉行から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポウハタン]]付きの牧師[[ヘンリー・ウッド (牧師)|ヘンリー・ウッド]]や、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、[[:zh:玛高温|瑪高温]]、マゴオン)らに英語を学んだ。<br />
[[画像:Townsend Harris Portrait by James Bogle 1855.png|150px|thumb|[[タウンゼント・ハリス]]<br>(初代[[駐日アメリカ合衆国大使|米国総領事]]、米国聖公会信徒、立教の源流となる私塾の創設を支援した主導者)]]
こうした中、1859年(安政6年)4月下旬の米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の長崎入りに合わせて、上海からジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズがそれぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行からの要請で私塾を開設し、公式通詞たちに英学の教授を行うこととなった。|group="注釈"|name="English_studies"}}<ref name="rikkyonews088"/>。この塾は日本における[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]の起りであった<ref name="rikkyonews088"/>。ウィリアムズは私塾に加え、[[グイド・フルベッキ]]とともに幕府の[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]でも教鞭を執る。私塾の教え子として[[高杉晋作]]([[奇兵隊]]創設者)、後に[[早稲田大学]]を創設する[[大隈重信]](第8代・17代[[内閣総理大臣]])、[[外務大臣]]を務めた[[副島種臣]](第4代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、第3代外務卿)、近代郵便制度創設者の[[前島密]](早稲田大学第2代校長)、[[坂本龍馬]]と[[肥後藩]]を[[薩長同盟]]に入れようと画策した[[荘村省三|荘村助右衛門]]<ref group="注釈" name="shoumura"/>、近代教育の礎となる[[学制]]起草者で[[舎密局|大阪理学校]](現・[[京都大学]])校長を務めた[[瓜生寅]]([[海援隊]]士・[[瓜生震]]の兄)など多くの志士を輩出した<ref name="history2"/><ref name="history4"/><ref name="kyoto"/><ref name="Okuma_oldtale"/>。また、私塾の最初の生徒として[[岩倉使節団]]の一員で[[大阪英語学校 (旧制)|大阪洋学校]](現・[[京都大学]])創設者の[[何礼之]]や、幕府の[[長崎英語伝習所|済美館]]学頭を務めた[[平井希昌]](外交官、太政官大書記官)など、後に日本の外交の嚆矢で活躍する名士たちが学んだ<ref name="ishiryoku"/><ref name="KU-2012"/>。
その後、永らく[[鎖国政策]]が採られた日本であったが、[[米国聖公会]]([[イングランド国教会|英国国教会]]起源の会派)の信徒である[[マシュー・ペリー]]の来航([[黒船来航]])と、初代米国総領事で[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]の創設者でもある[[タウンゼント・ハリス]]の活動により開国に幕が開き、ハリスによって本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えた[[日米修好通商条約]]が調印されたことで、宣教師の来日が可能となった<ref name="k-nakajima"/>。熱心な聖公会会員であった[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]は、[[エドワード・サイル]]ら米国聖公会の遣清宣教師に、聖公会による学校開設と医療活動を提言した<ref name="t-shiga"/>。
こうしてハリスとサイルら遣清宣教師による宣教勧告と学校開設の勧奨を受けた米国聖公会は、[[1859年]](安政6年)2月に日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本[[ミッション]]の開設を決定する。この決定を受けて中国(当時、[[清]])で活動していた米国聖公会宣教師の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]が任命され、プロテスタント最初の宣教師{{Refnest|group="注釈"|name="protestant"|[[琉球王国]]で伝道活動した英国聖公会の[[バーナード・ジャン・ベッテルハイム]]を日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とすることもあるが、琉球王国は[[1879年]]になって日本の[[沖縄県]]になることから、正式に日本ミッション開設のために[[米国聖公会]]から派遣された[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]とチャニング・ウィリアムズを日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とする。}}として、[[1859年]](安政6年)の5月と6月にそれぞれ長崎に来日した。彼らが開港地となった長崎で[[ミッション]]を開設し、ハリスの支援のもと江戸幕府の長崎奉行・[[岡部長常|岡部駿河守長常]]の要請で立教大学の源流となる私塾を[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]に設け英学教育を創始したことを起源とする<ref group="注釈" name="rikkyo-college-02"/>{{#tag:ref|1854年(嘉永7年)の[[日米和親条約]]を端緒として洋学研究と教育の必要性が生じると、[[江戸幕府]]は[[蛮書和解御用|蕃書和解御用]]で行われていた洋書翻訳事業を独立させて、1855年(安政2年)に洋学所を九段下に開設。翌1856年(安政3年)、[[蕃書調所]]([[開成所]]の前身で[[東京大学]]、[[東京外国語大学]]の源流)と改称し、[[黒船来航|ペリー来航]]時に米国大統領国書の翻訳を行った[[箕作阮甫]]が首席教授に就いた。さらに1858年(安政5年)7月の[[日米修好通商条約|日米通商修好条約]]締結により、本格的に英語通訳の養成が必要となった。<br />
既に1857年(安政4年)には、幕府は[[長崎奉行]]に命じ、[[長崎海軍伝習所]]のあった長崎西役所内に語学伝習所を設立していたが、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には長崎奉行の[[岡部長常]]によって英語に特化した[[長崎英語伝習所]]が設立された。<br />
次いで幕府の公式[[通詞]](通訳)たちは、長常から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポウハタン]]付きの牧師[[ヘンリー・ウッド (牧師)|ヘンリー・ウッド]]や、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、[[:zh:玛高温|瑪高温]]、マゴオン)らに英語を学んだ。<br />
こうした中、1859年(安政6年)4月下旬の米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の長崎入りに合わせて、上海から[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]がそれぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広徳院に私塾を開設し、公式[[通詞|通事]]([[唐通事]])たちに英学の教授を行うこととなった。|group="注釈"|name="English_studies"}}<ref group="注釈" name="nagasaki-library"/><ref name="rikkyonews088"/>。この塾は日本における[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]の起りであった<ref name="rikkyonews088"/>。ウィリアムズは私塾に加え、[[グイド・フルベッキ]]とともに幕府の[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]でも教鞭を執る。私塾の教え子として[[高杉晋作]]([[奇兵隊]]創設者)、後に早稲田大学を創設する[[大隈重信]](第8代・17代[[内閣総理大臣]])、[[外務大臣]]を務めた[[副島種臣]](第4代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、第3代外務卿)、近代郵便制度創設者の[[前島密]](早稲田大学第2代校長)、[[坂本龍馬]]と[[肥後藩]]を[[薩長同盟]]に入れようと画策した[[荘村省三|荘村助右衛門]]<ref group="注釈" name="shoumura"/>、近代教育の礎となる[[学制]]起草者で[[舎密局|大阪理学校]](現・[[京都大学]])校長を務めた[[瓜生寅]]([[海援隊]]士・[[瓜生震]]の兄)など多くの志士を輩出した<ref name="kyoto"/><ref name="Okuma_oldtale"/><ref name="history2"/><ref name="history4"/>。また、私塾の最初の生徒として[[昌平坂学問所]]([[東京大学]]の源流)教授で[[吉田松陰]]も学んだ[[鄭幹輔]]を始め、[[岩倉使節団]]の一員で[[大阪英語学校 (旧制)|大阪洋学校]](現・[[京都大学]])創設者の[[何礼之]]、幕府の[[長崎英語伝習所|済美館]]学頭を務めた[[平井希昌]](外交官、太政官大書記官)など、後に日本の外交の嚆矢で活躍する名士たちが学んだ<ref name="ishiryoku"/><ref name="KU-2012"/><ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。
 
ウィリアムズは、一旦アメリカに帰国後、米国聖公会第2代中国・日本伝道主教に任命され帰国中に合衆国大統領[[1870アンドリュー・ジョンソン]]と国務長官[[ウィリアム・スワード]]に日本の禁教撤廃を要請した。その後、日本での活動を再開し、[[1869年]](明治32年)に大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の[[外国人居留地]]近くの与力町の自室小礼拝堂(ミッション・チャペル)と私塾(翌年、英学講義所となる。後の[[英和学舎(1887]])を開き、英語礼拝と英語教授を開始し<ref name="ndl-1280808"/><ref name="ndl-1278546"/><ref name="kagawa"/>、翌[[1870]](明治3年)に同じく与力町に英学講義所(1879年に[[英和学舎]]となり、1887年に立教大学校に合併)を設立する。[[1873年]](明治6年)に、キリスト教禁制の高札が撤去されると、 欧米の宣教師が公然と相次ぎ来日することになり、米国聖公会では同年9月にチャールズ・H・ニューマンが来日し、東京での米国聖公会初のミッション拠点として[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の陽泉寺に寓居して在京英米人のための主日礼拝を開始し、同年11月にクレメント・T・ブランシェとウィリアム・B・クーパーも来日して加勢すると、ウィリアムズも東京に活動拠点を移した<ref name="natori-2004"/><ref name="kyoto-denpuro"/><ref name="ooe-2004"/>。[[1874年]](明治7年)2月には東京・[[築地]]の[[外国人居留地]]に[[聖書]]と[[洋学|英学]]の教育を目的とした私塾「立教学校」を設立する<ref group="注釈" name="rikkyo-1874"/>{{#tag:ref|ブランシェ、クーパー、ニューマンの諸氏が主として教授を務めた<ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1278546/1/9 『立教大学一覧』昭和14年度 ] 1頁,昭和14年</ref>。|group="注釈"|name="rikkyo-1874-02"}}。英学を主とする学校ではあったが、創立当初から[[国学|和]][[漢学]]の教授にも比重を置いた{{#tag:ref|英学を主とする立教学校でも創立当初から[[国学|和]][[漢学]]の教授にも比重を置き、[[古瀬清寧]]を始め、[[志村孤雲]]、[[赤尾戒三]]など優れた[[漢学]]教師を擁していた。これは、日本の風土における教育として当然の帰趨といえ、当時の儒教的国家教育を乗り越えるためにも必要であった。同時に、米国のカレッジ制の移植において、宣教師たちが[[ギリシア語|ギリシア]]、[[ラテン語|ラテン]]の古典語に対して、日本では漢学が絶対的に必要であると認めたのは当然のことであった。また、当初ウィリアムズが中国で生活し、長崎でも[[谷口藍田]]や笠戸順節らと交流したほか、その後も中国の教会主教を兼務していたことにより、漢学に深い理解と造詣があったことは言うまでもないが、1883年(明治16年)頃から、築地の立教では漢学が正課として課されるようになった。1892年(明治25年)の[[テオドシウス・ティング|ティング]](立教学校校長)の報告にも、「漢学は必然的にラテン、ギリシア語の代わりになり、[[日本文学]]、言語および歴史の場合は、英語使用国民のラテン、ギリシア語と同様、否、さらに重要であるといえる」と記されている<ref name="shien-1967"/>。立教大学の前身校の一つである[[英和学舎]]でも、戸谷澹斎(戸谷萩堂)らが漢学や[[習字]]を教授した<ref name="r-archives_19031211">立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『雑録/旧英和学舎を憶ふ 元田作之進』] 基督教週報第8巻第15号,1903年12月11日</ref><ref name="rikkyonews089"/>。|group="注釈"|name="wakangaku"}}。長崎の私塾とともに、これらの学校が立教大学へと繋がっている。
 
[[1883年]](明治16年)には米国式カレッジとして日本最高峰の教育機関である立教大学校を設立<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/>。明治政府により[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]第一号として認可された学校であり<ref name="trinity-tokyo"/>、後に公布される[[帝国大学令]]と[[大学令]]より前に、[[教育令]]によって認可された日本の先駆けとなる大学であった(詳しくは[[旧制大学]]参照)<ref name="laws_1880"/>。初代校長には[[ハーバード大学]]出身の[[ジェームズ・ガーディナー]]が就いた。
[[1883年]](明治16年)には米国式カレッジとして日本最高峰の教育機関である立教大学校を設立<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/>。明治政府により[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]第一号として認可された学校であり<ref name="trinity-tokyo"/>、後に公布される[[帝国大学令]]と[[大学令]]より前に、[[教育令]]によって認可された日本の先駆けとなる大学であった(詳しくは[[旧制大学]]参照)<ref name="laws_1880"/>。[[1888年]](明治21年)[[大隈重信]]が築地キャンパスの形成に尽力し<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>、用地の取得に伴いキャンパス規模が拡大していく。しかし、[[欧化主義]]への反動に伴い、[[条約改正]]問題を絡めて[[国粋主義]]が広がり始め、さらにはこれまで学校を支えてきたウィリアムズと教頭・幹事などの要職を務めた[[貫元介]]が退任したこともあり、立教大学校は生徒数が減り、[[1890年]](明治23年)10月には校名を立教学校(第2次)へ戻し、米国式カレッジから日本化が進められることとなった<ref name="kyoto"/><ref name="ogawa_2015"/>。また、同月末には[[教育ニ関スル勅語]](教育勅語)が発布し、翌[[1891年]](明治24年)6月には文部省訓令第4号により、全国の各学校で[[御真影]]礼拝、教育勅語奉読が強制されるようになり、欧米型のキリスト教主義学校への圧力が強まっていった。しかし、そうした状況化においても、[[木村駿吉]]を始め、[[久米邦武]]、[[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]]、[[松本文三郎]]、[[内村達三郎]]([[内村鑑三]]の弟)など、渦中の人物達が教授として講じ、権力に屈せず、[[在野]]的精神、反骨精神による自由な立場に立脚していた<ref name="shien-1962"/>。この明治期を始め、後述の第2次大戦に到るまで、日本ではアメリカ人の経営する学校は度々厳しい状況に置かれた一方、同じく米国聖公会によって中国・[[上海市|上海]]に置かれた立教大学の姉妹校である[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバードと呼ばれるまでに成長を遂げた{{#tag:ref|名門となった[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]]も、[[日中戦争]]などの情勢を受けて厳しい状況となった。その後、1949年の[[中華人民共和国]]の成立に伴い、1950年に米国聖公会の運営を離れ、1952年には解体されて学部ごとに各大学に移管された<ref>上海ビジネスフォーラム異業種交流会 [https://sbf.asia/useful/history/45.html 『東洋のハーバード・聖約翰大学(St. John’s University)』] 2012年01月</ref><ref>たびこふれ [https://tabicoffret.com/article/77241/ 『上海市内からアクセス良好!誰でも入れる歴史的建造物が集まった大学キャンパスをご紹介!』] 2019.10.08</ref>。|group="注釈"}}。
 
[[1887年]](明治20年)には、ウィリアムズと[[イングランド国教会|英国聖公会]]の[[エドワード・ビカステス]]の尽力により、日本における[[イングランド国教会|英国国教会]]と米国聖公会が合同し、[[日本聖公会]]が設立された。[[1888年]](明治21年)には、校友の[[大隈重信]]が築地キャンパスの形成に尽力し<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>、用地の取得に伴いキャンパス規模が拡大していく。しかし、[[欧化主義]]への反動に伴い、[[条約改正]]問題を絡めて[[国粋主義]]が広がり始め、さらにはこれまで学校を支えてきたウィリアムズと教頭・幹事などの要職を務めた[[貫元介]]が退任したこともあり、立教大学校は生徒数が減り、[[1890年]](明治23年)10月には校名を立教学校(第2次)へ戻し、米国式カレッジから日本化が進められることとなった<ref name="ogawa_2015"/><ref name="kyoto"/>。また、同月末には[[教育ニ関スル勅語]](教育勅語)が発布し、翌[[1891年]](明治24年)6月には文部省訓令第4号により、全国の各学校で[[御真影]]礼拝、教育勅語奉読が強制されるようになり、欧米型のキリスト教主義学校への圧力が強まっていった。しかし、そうした状況化においても、[[木村駿吉]]を始め、[[久米邦武]]、[[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]]、[[松本文三郎]]、[[内村達三郎]]([[内村鑑三]]の弟)など、渦中の人物達が教授として講じ、権力に屈せず、[[在野]]的精神、反骨精神による自由な立場に立脚する運営が行われた<ref name="shien-1962"/>。この明治期を始め、後述の第2次大戦に到るまで、日本ではアメリカ人の経営する学校は度々厳しい状況に置かれた一方、同じく米国聖公会によって中国・[[上海市|上海]]に置かれた立教大学の姉妹校である[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバードと呼ばれるまでに成長を遂げた{{#tag:ref|名門となった[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]]も、[[日中戦争]]などの情勢を受けて厳しい状況となった。その後、1949年の[[中華人民共和国]]の成立に伴い、1950年に米国聖公会の運営を離れ、1952年には解体されて学部ごとに各大学に移管された<ref>上海ビジネスフォーラム異業種交流会 [https://sbf.asia/useful/history/45.html 『東洋のハーバード・聖約翰大学(St. John’s University)』] 2012年01月</ref><ref>たびこふれ [https://tabicoffret.com/article/77241/ 『上海市内からアクセス良好!誰でも入れる歴史的建造物が集まった大学キャンパスをご紹介!』] 2019.10.08</ref>。<br />また、この聖ヨハネ大学の関係者・卒業生に加えて同じく上海の[[聖マリア女子中学 (上海)|聖マリヤ女子中学]]の関係者・卒業生で[[国民政府]]とともに[[台湾]]に渡った人々と[[台湾聖公会]]が、共同で1954年に台湾で学校を設立し、1967年に新埔工業専科学校(英文名称:St. John's and St. Mary's Institute of Technology)となり、2005年には[[聖約翰科技大学]](聖ヨハネ科学技術大学)になっている<ref>聖約翰科技大学 [https://www.sju.edu.tw/intro.aspx 『校史』]</ref>。
[[1896年]](明治29年)には、立教学校(第2次)を廃し、立教専修学校(3年制)と立教尋常中学校(5年制)を設置し、[[1899年]](明治32年)1月には同年7月の[[条約改正|改正条約]]の発効を見据えて立教尋常中学校の認可申請を行うが、許可が容易に得られず、[[島田三郎]]([[早稲田大学]]創設メンバー、のち第19代[[衆議院議長]])らの尽力でようやく認可を得られた<ref name="suzuki_2016"/>。同[[1899年]](明治32年)には[[ジョン・マキム]]、[[アーサー・ロイド]]、[[元田作之進]]のもと[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]での宗教教育を禁じる[[私立学校令#制定の背景|文部省訓令第12号]]に対処し、学校を存続させる<ref>立教学院史利用センター 写真で見る立教学院の歴史[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/photo/01.html 第1章『創立者ウィリアムズと立教学校(1874-1907)』]</ref><ref name="shien_50_2"/>。[[1901年]](明治34年)2月には、築地キャンパスの[[#聖三一大聖堂(立教教会)|聖三一大聖堂(立教教会)]]で、日本政府により英国[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の遥葬式が執り行われ、皇族に加えて、[[伊藤博文]]内閣総理大臣以下、政府主要閣僚、各国要人、名士たちが参列した<ref name="r-archives_19010208"/>。同年9月には同聖堂にて米国[[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー大統領]]の遥葬式があり、この時も皇族に加えて、[[桂太郎]]内閣総理大臣以下、主要閣僚と各国要人、名士らが参列するなど、日本の国家行事が執り行われた<ref name="r-archives_19011004"/>。[[1907年]](明治40年)に、[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|タッカー]]の尽力により再び立教大学(専門学校令による旧制専門学校)を設立。[[1918年]](大正7年)には校地を池袋に移し、池袋キャンパスを開設する。
|group="注釈"}}。
 
[[1896年]](明治29年)には、立教学校(第2次)を廃し、立教専修学校(3年制)と立教尋常中学校(5年制)を設置し、[[1899年]](明治32年)1月には同年7月の[[条約改正|改正条約]]の発効を見据えて立教尋常中学校の認可申請を行うが、許可が容易に得られず、[[島田三郎]](早稲田大学創設メンバー、のち第19代[[衆議院議長]])らの尽力でようやく認可を得られた<ref name="suzuki_2016"/>。同[[1899年]](明治32年)には[[ジョン・マキム]]、[[アーサー・ロイド]]、[[元田作之進]]のもと[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]での宗教教育を禁じる[[私立学校令#制定の背景|文部省訓令第12号]]に対処し、学校を存続させる<ref>立教学院史利用センター 写真で見る立教学院の歴史 [https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/photo/01.html 第1章『創立者ウィリアムズと立教学校(1874-1907)』]</ref><ref name="shien_50_2"/>。[[1901年]](明治34年)2月には、築地キャンパスの[[#聖三一大聖堂(立教教会)|聖三一大聖堂(立教教会)]]で、日本政府により英国[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の遥葬式が執り行われ、皇族に加えて、[[伊藤博文]]内閣総理大臣以下、政府主要閣僚、各国要人、名士たちが参列した<ref name="r-archives_19010208"/>。同年9月には同聖堂にて米国[[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー大統領]]の遥葬式があり、この時も皇族に加えて、[[桂太郎]]内閣総理大臣以下、主要閣僚と各国要人、名士らが参列するなど、日本の国家行事が執り行われた<ref name="r-archives_19011004"/>。[[1907年]](明治40年)に、[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|タッカー]]の尽力により再び立教大学(専門学校令による旧制専門学校)を設立。[[1918年]](大正7年)には校地を池袋に移し、池袋キャンパスを開設する。
[[1940年]](昭和15年)、日米関係の悪化により、創立から続く米国聖公会の経営から邦人による経営となる。同年、総長であった[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|チャールズ・ライフスナイダー]]は退任し、翌年には本国政府の指示により米英人教員が帰国し、理事も全員邦人となった。戦時下では、寄付行為を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更し、チャペルは閉鎖し、校歌も『自由の学府』の文言が問題視され斉唱禁止となるなど、当時の軍国主義、国家主義が反映された運営となり、米国を象徴する自由{{Refnest|group="注釈"|アメリカの自由と民主主義の象徴であり、ニューヨーク港内に建つ『[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]』の左手には、ウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]の卒業生で、第3代合衆国大統領を務めた[[トーマス・ジェファーソン]]が起草したアメリカ独立宣言書を持っている。右手には、たいまつを持ち、足元には引きちぎられた鎖と足枷があり、それを踏みつけるような恰好となっている。これは、一切の弾圧や抑圧からの解放を表し、独立宣言書ととともに、『人類は、皆自由で平等である』ことを象徴している。女神像の正式名称は『世界を照らす自由』で、冠の7つのトゲのような突起は、7つの大陸と7つの海に自由が広がることを示している<ref>[https://worldheritagesite.xyz/statue-of-liberty/ 世界遺産オンラインガイド『自由の女神像』]</ref>。また、立教大学の本館(モリス館)の中央にある塔は、大正期において『自由の塔』と呼ばれていた。([[#本館 モリス館(池袋キャンパス)]]を参照)}}を掲げ、モデルとする『自由の学府』から自由が奪われていった<ref name="rikkyo130">[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/qo9edr000000n9ly-att/exhibition_materials.pdf 立教学院創立130周年記念展「立教学院と戦争 揺れた建学の精神」]</ref>。さらに、[[文部省]]が理工系の教育を拡充して戦時体制に即応しようと、文科系の大学に対して理工系への転換、移転整理等を進める方針を出した。そのため、[[1943年]](昭和18年)12月に文学部を閉鎖することとなり、文学部の学生は[[慶應義塾大学]]へ編入し<ref name="keio-history"/>、[[1944年]](昭和19年)4月には立教理科専門学校(翌年、立教工業理科専門学校へ改組)を開設するに至った<ref name="rikkyo130"/>。前述の戦時下の国の方針の中、文科系中心の立教大学は閉鎖される可能性があったが、校友の[[佐伯松三郎]]らが学校存続のために尽力し、[[上野陽一]]([[産業能率大学]]創設者、後の立教大学経済学部長)らとともに支援者を増やし、短期間のうちに理工系学科を創設したものであった。立教大学の父兄であった[[大村一蔵]]([[帝国石油]]副総裁、[[日本地質学会]]会長)らも多額の寄付を取り付け、専門家を派遣するなど大きく支援した。これにより文学部の閉鎖はあったものの、立教の閉鎖を防ぎ、立教大学の名を今日まで残すこととなった。立教理科専門学校(現・[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]])の開設主幹には[[曾禰武]](立教大学予科長、後の[[開成中学校・高等学校]]校長)が就き、各学会の泰斗を招聘し開設された<ref name="toyoda">{{Cite journal|和書 |author=豊田 雅幸 |title=教育における戦時非常措置と立教学院 : 立教理科専門学校の設立と文学部閉鎖問題 |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2004-03 |volume=2 |pages=83-118 |url=https://doi.org/10.14992/00015371 }}</ref><ref name="sone"/>。
 
[[1940年]](昭和15年)、日米関係の悪化により、創立から続く米国聖公会の経営から邦人による経営となる。同年、総長であった[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|チャールズ・ライフスナイダー]]は退任し、翌年には本国政府の指示により米英人教員が帰国し、理事も全員邦人となった。戦時下では、寄付行為を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更し、チャペルは閉鎖し、校歌も『自由の学府』の文言が問題視され斉唱禁止となるなど、当時の軍国主義、国家主義が反映された運営となり、米国を象徴する自由{{Refnest|group="注釈"|アメリカの自由と民主主義の象徴であり、ニューヨーク港内に建つ『[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]』の左手には、ウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]の卒業生で、第3代合衆国大統領を務めた[[トーマス・ジェファーソン]]が起草したアメリカ独立宣言書を持っている。右手には、たいまつを持ち、足元には引きちぎられた鎖と足枷があり、それを踏みつけるような恰好となっている。これは、一切の弾圧や抑圧からの解放を表し、独立宣言書ととともに、『人類は、皆自由で平等である』ことを象徴している。女神像の正式名称は『世界を照らす自由』で、冠の7つのトゲのような突起は、7つの大陸と7つの海に自由が広がることを示している<ref>[https://worldheritagesite.xyz/statue-of-liberty/ 世界遺産オンラインガイド『自由の女神像』]</ref>。また、立教大学の本館(モリス館)の中央にある塔は、大正期において『自由の塔』と呼ばれていた。([[#本館 モリス館(池袋キャンパス)]]を参照)}}を掲げ、モデルとする『自由の学府』から自由が奪われていった<ref name="rikkyo130">[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/qo9edr000000n9ly-att/exhibition_materials.pdf 立教学院創立130周年記念展「立教学院と戦争 揺れた建学の精神」]</ref>。さらに、[[文部省]]が理工系の教育を拡充して戦時体制に即応しようと、文科系の大学に対して理工系への転換、移転整理等を進める方針を出した。そのため、[[1943年]](昭和18年)12月に文学部を閉鎖することとなり、文学部の学生は慶應義塾大学へ編入し<ref name="keio-history"/>、[[1944年]](昭和19年)4月には立教理科専門学校(翌年、立教工業理科専門学校へ改組)を開設するに至った<ref name="rikkyo130"/>。前述の戦時下の国の方針の中、文科系中心の立教大学は閉鎖される可能性があったが、校友の[[佐伯松三郎]]らが学校存続のために尽力し、[[上野陽一]]([[産業能率大学]]創設者、後の立教大学経済学部長)らとともに支援者を増やし、短期間のうちに理工系学科を創設したものであった。立教大学の父兄であった[[大村一蔵]]([[帝国石油]]副総裁、[[日本地質学会]]会長)らも多額の寄付を取り付け、専門家を派遣するなど大きく支援した。これにより文学部の閉鎖はあったものの、立教の閉鎖を防ぎ、立教大学の名を今日まで残すこととなった。立教理科専門学校(現・[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]])の開設主幹には[[曾禰武]](立教大学予科長、後の[[開成中学校・高等学校]]校長)が就き、各学会の泰斗を招聘し開設された<ref name="sone"/><ref name="toyoda">{{Cite journal|和書 |author=豊田 雅幸 |title=教育における戦時非常措置と立教学院 : 立教理科専門学校の設立と文学部閉鎖問題 |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2004-03 |volume=2 |pages=83-118 |url=https://doi.org/10.14992/00015371 }}</ref>。
 
戦時中の1943年(昭和18年)3月には、学内で幅をきかせて威張りちらしていた軍事教官([[配属将校]])を、学生有志6人が呼び出して殴打する痛快な出来事([[軍事教員を殴打した事件]])もあり、戦時下における学生たちの勇気ある果敢な行動として、立教の歴史に刻まれている<ref name="shien-62">{{Cite journal|和書 |author=林 英夫 |title=遠い日の出来事 : 軍事教員を殴打した事件 |journal=史苑 |publisher=立教大学文学部 |year=2001-11 |volume=62 |issue=1 |pages=1-4 |url=https://doi.org/10.14992/00001510 }}</ref>。
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終戦を迎え、[[1945年]](昭和20年)10月15日に、[[ダグラス・マッカーサー]][[連合国軍最高司令官総司令部|連合国最高司令官]](米国聖公会信徒)の命で「文部省訓令第8号」が発布し、[[1947年]](昭和22年)5月3日に施行された[[日本国憲法]]とともに「信教の自由」が保障される。これにより、国内においてキリスト教精神に基づく[[リベラル・アーツ|リベラルアーツ教育]]が正式に認められることとなる。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により、[[第二次世界大戦]]中にキリスト教主義学校としての特色を一掃し、職員の追放、教課の改廃を行い、戦後も回復の手段を講じなかったとして、当時の総長、中学部校長、学生監ほか8人が即時解職、公職追放処分を受けた<ref>学院総長ら八人を罷免(昭和20年10月29日 朝日新聞 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p783 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。理事会は新体制となり、寄付行為も「基督教主義ニヨル教育」に復帰することを可決し、チャペルも再開される。同時に[[ポール・ラッシュ]]により大学の再生が進められ、拡張計画が作られた<ref name="rikkyo130"/>。こうして、奪われた自由を取り戻し、再び発展に向けて『自由の学府』として歩み出していくこととなった<ref name="rikkyo130"/>。
 
[[1955年]](昭和30年)に総長となった[[松下正寿]]の尽力より、[[立教大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]や[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]を新設し、[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]などにも学科を増設するなど、立教大学は発展を遂げていく。[[1956年]](昭和31年)には、35,000坪もの広大な面積を持つ総合グランウンドであるセントポール・グリーンハイツ(現・[[城北中央公園]])が完成。[[1990年]](平成2年)には新座キャンパスを開設。大学創立者であるウィリアムズ主教が先導的な役割を果たし、[[1887年]](明治20年)に日本において英国国教会と米国聖公会が合同して設立された[[日本聖公会]]で洗礼を受けた信徒たちは、立教大学において学びたいと動機づけられ、実際に彼らが立大生になることも少なくない。
 
[[画像:Channing Moore Williams 01.jpg|170px150px|thumb|[[チャニング・ウィリアムズ]]]]
[[画像:John Liggins 01.jpg|150px|thumb|[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]]]
 
=== 年表 ===
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* 597年 - [[ローマ]]から[[英国]](イングランド)に派遣された[[カンタベリーのアウグスティヌス|オーガスティン]]が、初代[[カンタベリー大司教]]([[カンタベリー大主教|大主教]])に着座。[[聖公会]]の起源の一つ<ref name="roots"/><ref group="注釈" name="kings-school/><ref group="注釈" name="Celts"/>。
* 1534年(天文3年)- [[イングランド国教会|英国国教会]](イングランド国教会)が[[ローマ・カトリック教会]]から独立して成立。
* 1600年(慶長5年)4月29日 - 英国国教会の信徒である[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針/日本に初めて来た[[イギリス人]])が[[リーフデ号]]で[[豊後国]]に漂着。[[徳川家康]]の外交顧問と通訳を務め、[[英学]]を教える<ref name="StMary's"/><ref name="serai"/>。
* 1693年(元禄6年)- イングランド王[[ウィリアム3世]]と女王[[メアリー2世]]の勅許により、[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]が[[イングランド国教会]]の機関として創設。
* 1784年(天明4年)11月14日 - アメリカ独立に伴い、[[:en:Samuel Seabury|サミュエル・シーベリー]]{{Refnest|group="注釈"|米国[[コネチカット州]]の聖職者で、スコットランド聖公会によって主教に按手。}}が[[イギリス諸島]]以外で最初の[[聖公会]][[主教]]となり、[[米国聖公会]]が成立。
* 1789年(寛政元年)- 米国聖公会がイングランド国教会から正式に分離され、イギリス諸島以外で最初のイングランド国教会となる{{Refnest|group="注釈"|新しい教会のための[[聖公会]]祈祷書の改訂版が書かれる。}}。
* 1821年(文政4年)9月 - 米国聖公会国内外宣教協会が[[フィラデルフィア]]で組織される{{Refnest|group="注釈"|アメリカ国内で聖公会の教会組織がない地域で教会を設立することと、外国においてもそれを同時に行おうとする機関。}}<ref name="k-hayashi">{{Cite journal|和書 |author=林幸司 |date=2022-03-30 |title=聖公会系ミッションスクールと経済学部設置 : 桃山学院所蔵史料をもとに |journal=成城大學經濟研究 |issn=0387-4753 |publisher=成城大学経済学会 |year=2022-03-30 |issue=236 |pages=177-196 |url=httphttps://idseijo.repo.nii.ac.jp/1109/00006006records/6193}}</ref>。
* 1834年(天保5年)- 米国聖公会国内外宣教協会が[[東アジア]]、[[東南アジア]]地域への宣教ミッションの派遣を決定<ref name="k-hayashi"/>。
* 1837年(天保8年)- [[:en:William Jones Boone (father)|ウィリアム・ブーン]]が米国聖公会から中国への遣清宣教師に任命され、[[ジャワ島]]の[[バタヴィア]]に到着<ref name="mission2">{{cite|url=https://hdl.handle.net/1885/11074 |title=The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. 美國聖公會 With references to Anglican and Protestant Missions |author=Welch, Ian Hamilton |journal=ANU Research Publications|publisher=College of Asia and the Pacific Australian National University |year=2013}}</ref>。
* 1842年(天保13年)- ブーンが、[[廈門市|廈門]](アモイ)で中国伝道を開始<ref name="mission2"/>。
* 1844年(天保15年)10月26日 - ブーンが中国諸地域管轄の主教(米国聖公会初代海外伝道主教)として選出される{{Refnest|group="注釈"|のちにブーンの後任として、[[チャニング・ウィリアムズ]]が中国・日本伝道主教となる。}}<ref name="mission2"/>。
[[画像:James Biddle 1839 by Sully, Thomas, 1783-1872 (page 73 crop).jpg|130px|thumb|[[ジェームズ・ビドル]]<small>(東インド艦隊司令長官 、米国聖公会信徒)</small>]]
* 1846年(弘化3年) - アメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官の[[ジェームズ・ビドル]](米国聖公会信徒)が浦賀に来航し、米国として初めて日本と開国交渉を行う。
[[画像:ラナルド・マクドナルド.jpg|130px|thumb|[[ラナルド・マクドナルド]]<small>(日本最初のネイティブの英語教師)</small>]]
* 1848年(嘉永元年)- [[聖公会]]信徒の[[ラナルド・マクドナルド]]が[[長崎市|長崎]][[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]の末寺、大悲庵で[[長崎奉行]]の要請で英語教室を開き、長崎通詞([[阿蘭陀通詞|蘭通詞]]14)14名に教える<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken14031/index1.html 長崎Webマガジン『長崎発! 辞書のススメ』2/2頁]</ref><ref name="momoyama-1959">{{Cite journal|和書 |author=山口 光朔 |date=1959-01 |title=日本プロテスタント史序説 |journal=桃山学院大学経済学論集 |issn=0286990X |publisher=桃山学院大学 |year=1959-01 |volume=1 |issue=1 |url=httphttps://idstars.repo.nii.ac.jp/1420/00002723records/2766}}</ref><ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken14031/index1.html 長崎Webマガジン『長崎発! 辞書のススメ』2/2頁]</ref>{{Refnest|group="注釈"|崇福寺の広徳院では、1859年(安政6年)に[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]が来日後に滞在し、長崎奉行の要請で英学教育を行うこととなった。崇福寺大悲庵は、長崎村西山郷(現・長崎市上西山町)に所在し、現在、庵が所在した付近にラナルド・マクドナルド顕彰碑が建てられている。<br />マクドナルドは、密入国者として崇福寺大悲庵に収監されながらも、彼の誠実な人柄と高い教養が認められ、長崎奉行の肝入りで英語教室を開き、日本最初のネイティブ(母語話者)による公式の英語教師とされる。マクドナルドが教えた14名の長崎通詞(蘭通詞)の生徒の中には、[[黒船来航|ペリー艦隊]]来航時の日本側の通訳を務めた[[森山栄之助]]もいた。英語教室は、マクドナルドが翌1849年(嘉永2年)4月に送還されるまでの約半年程続けられた<ref>ラナルド・マクドナルド顕彰碑 説明文 長崎市上西山町</ref><ref>[https://serai.jp/tour/1034738 サライ.jp『ペリー来航より5年前、漂流者を装って日本に密入国した北米人ラナルド・マクドナルドの奇妙な情熱と冒険』2021/8/8]</ref>。}}。[[黒船来航|ペリー艦隊]]来航時の日本側通訳となる[[森山栄之助]]も学ぶ。(日本最初のネイティブの英語教師)
* 1850年(嘉永3年)- 立教大学創設者[[チャニング・ウィリアムズ]]がウィリアム・アンド・メアリー大学に入学。
* 1851年(嘉永4年)
* 1852年(嘉永5年)- チャニング・ウィリアムズ、[[:en:Virginia Theological Seminary|バージニア神学校]]に入学。
** [[英国聖公会]]の[[:en:George Smith (Bishop of Victoria)|ジョージ・スミス主教]]が{{仮リンク|セント・ポールズ・カレッジ (香港)|en|St. Paul's College, Hong Kong}}の校長に就任。
{{Triple image aside|right|Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|100|S. Wells Williams (1812-1884).jpg|80|Kurofune.jpg|115|
** 米国聖公会が[[上海市|上海]]で文紀女塾(後の[[聖マリア女子中学 (上海)|聖マリア女子中学]])を創設<ref>{{Cite journal|和書 |author=崔 淑芬 |title=近代中国における教会女子学校 |journal=筑紫女学園大学・筑紫女学園大学短期大学部紀要 |issn=1880-845X |publisher=筑紫女学園大学・筑紫女学園大学短期大学部 |year=2008-01 |issue=3 |pages=75-85 |url=https://chikushi-u.repo.nii.ac.jp/records/174 }}</ref>。
*左:東インド艦隊司令長官 [[マシュー・ペリー]]
* 1852年(嘉永5年)- チャニング・ウィリアムズ、[[:en:Virginia Theological Seminary|ヴァージニア神学校]]に入学。
*中央:ペリー艦隊通訳 [[サミュエル・ウィリアムズ]]
{{Double image aside|right|S. Wells Williams (1812-1884).jpg|80|Kurofune.jpg|115|
*左:ペリー艦隊通訳 [[サミュエル・ウィリアムズ]]
*右:ペリー艦隊 [[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ号]]}}
* 1853年(嘉永6年)
** 7月 - '''[[マシュー・ペリー]](米国聖公会信徒)が浦賀に来航。'''[[サミュエル・ウィリアムズ]]が主席通訳官として帯同。
** 秋 - 初代海外伝道主教のウィリアム・ブーンが母校のヴァージニア神学校を訪れ、チャニング・ウィリアムズは海外伝道を決意する<ref name="history2"/>。
* 1854年(嘉永7年)- '''[[日米和親条約]]が調印。'''
* 1855年(安政2年)
[[画像:Townsend Harris 01.jpg|130px|thumb|[[タウンゼント・ハリス]]]]
** 6月28日 - [[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]とチャニング・ウィリアムズがヴァージニア神学校を卒業<ref name="rikkyo150_pdf1_06">{{PDFlink|[https://chronicle.rikkyo.ac.jp/150/pdf1/06.pdf 『第三節 ヴァージニア教区の復興』]}} 立教学院百五十年史(第1巻),第一章</ref>。
** 6月29日 - リギンズとチャニング・ウィリアムズが[[アレクサンドリア (バージニア州)|アレクサンドリア]]の[[:en:St. Paul's Episcopal Church (Alexandria, Virginia)|セント・ポール教会]]で執事に按手される<ref name="rikkyo150_pdf1_06"/>。
* 1856年(安政3年)
** 6月26日 - [[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]とチャニング・ウィリアムズが米国聖公会宣教師として中国・上海に到着<ref name="ishiryoku">意志力道場ウォーク [https://www.ishiryoku.co.jp/user/cgi_user/s01/s0101120.pl?a1_key_sanpo=740 『日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―』] 丸屋武士 2012年6月1日</ref>。
** 8月21日 - '''[[タウンゼント・ハリス]](米国聖公会信徒)'''{{Refnest|group="注釈"|[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]は、[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]の創設者でもある。来日する以前の1846年にニューヨーク市教育局長となったが、その頃(1840年代)のニューヨークは人口増加にも関わらず、高等教育機関が2校しかなく、経済的に困難な移民や労働者階級の子弟にはほとんど教育の機会が与えられていなかった。ハリスは、ニューヨークの発展に寄与する人材育成を目指し、「社会に開かれた高等教育の場」を理念に、1847年に無償の学校であるニューヨーク市「[[フリーアカデミー]]」(現:ニューヨーク市立大学シティカレッジ)を創設する。当時、このハリスの挑戦に対し、貧困層への無料教育が役に立つのかと周囲の風当たりは相当強いものであったが、学校はのちに[[ニューヨーク市立大学]]へ発展し、多数のノーベル賞受賞者も輩出することとなり、ニューヨークのみならず世界的にもハリスの功績は多大なものとなった。現在のニューヨーク市立大学シティカレッジの学生数は1万6千人ほどであるが、ニューヨーク市立大学群で見ると、学生数は50万人を超え、世界有数の大学群となっている。}}'''が初代米国総領事として下田に来航。'''
* 1858年(安政5年)
** 2月13日 - ブーンが[[函館市|函館]]に寄港した米国軍艦[[:en:USS Portsmouth (1843)|ポーツマス号]]の海軍士官が前年10月3日に書いた日本伝道を勧める手紙を[[上海市|上海]]の宣教師から受け取り、全文を翌3月発行の米国聖公会機関紙に寄稿し、日本伝道開始を要請。これにより、米国聖公会の日本伝道熱が高まり、ニューヨークの[[:en:St. Mark's Church in-the-Bowery|聖マルコ教会]]を始め、各地から日本伝道のための献金が米国聖公会内外伝道協会本部に集まる<ref name="momoyama-1959"/><ref>立教史データベース 基督教週報81巻20号 [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『日本聖公会史上巻 第一篇 第一章 第三節 (続)』] 1941年6月6日</ref><ref name="momoyama-1959"/>。
** 7月29日 - '''[[日米修好通商条約]]が調印。'''ハリスが、本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条の条文を入れ、宣教師の来日が可能となる<ref name="momoyama-1959"/><ref name="k-nakajima">{{Cite journal|和書 |author=中島耕二 |year=2022-03 |url=https://nufs.repo.nii.ac.jp/records/837 |title=フルベッキ博士の生涯と日本の近代化 |journal=新長崎学研究センター紀要 |2436-9195 |publisher=長崎外国語大学 |year=2022-03 |issue=1 |pages=175-193 |urlCRID=http://id.nii.ac.jp/1165/00000813/ 1050011097133567232}}</ref>。調印は[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポウハタン号]]の艦上で行われた<ref>日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館) [https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84-109751 『日米修好通商条約』 ]‐ [[コトバンク]]</ref>。
** 8月 - [[江戸幕府|幕府]][[長崎奉行]]に命じ、[[長崎英語伝習所]]が設立(旧暦7月)<ref>{{Cite journal|和書 |author=大久保 利謙 |date=1978-03 |url=https://k-kentan.repo.nii.ac.jp/records/41 |title=幕末英学史上における何礼之 : とくに何礼之塾と鹿児島英学との交流 |journal=研究年報 1977 |publisher=鹿児島県立短期大学地域研究所 |year=1978-03 |volume=6 |pages=2641_a-4126_a |urlCRID=http://id.nii.ac.jp/1430/00000035/ 1050564288158185088}}</ref>。
** 9月10日 - 米国軍艦ポウハタン号付きの牧師[[ヘンリー・ウッド (牧師)|ヘンリー・ウッド]]が来日。[[長崎奉行]]の要請により[[ジョサイア・タットノール]]から任命を受けたウッドは、英語学校を開設し、長崎[[通詞]](蘭通詞)に2か月間英語教育を行う{{#tag:ref|[[長崎奉行]]から奉行所の長崎[[通詞]]に英語の教授するように要請を受けた[[ジョサイア・タットノール|タットノール]]提督 (Josiah B.Tatnall) は、英語教師としてヘンリー・ウッドを任命した。英語学校は、[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポウハタン号]]艦上で開校。その後、ロシア交易場(Russian Bazaar) の2階の和室へ移った。カリキュラムは、英単語の発音から始まり、リーディング、文法と進み、算術、地理、天文学、キリスト教育など多彩な内容であった。学校名は母校の[[ダートマス大学]]に因み、Dartmouth College, Juniorと命名した<ref name="mission2"/><ref name="wood">{{Cite journal|和書 |author=石原千里 |title=1858年長崎におけるヘンリー・ウッドの英語教育 |journal=英学史研究 |publisher=日本英学史学会 |issn=1883-9282 |year=2000 |volume=2001 |issue=33 |pages=13-27 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.2001.13}}</ref><ref name="mission2"/>。|group="注釈"}}。活動には米国総領事ハリスのサポートがあった<ref name="mission2"/>。
**9月20日 - 米国軍艦ミネソタ号が長崎に入港。[[エドワード・サイル]]([[米国聖公会]]遣清宣教師)と、[[サミュエル・ウィリアムズ]]が日本宣教の可能性を探る目的を持って来日<ref name="wood"/>。サイルはウッドの英語学校を見学。'''サイルが[[長崎奉行]]に英語学校の開設を提案'''<ref name="mission2"/>{{#tag:ref|サイルは長崎奉行の希望によって長崎に英語教師として転任することを企てたが、米国聖公会本部の許可がなく実現しなかった<ref name="momoyama-1959"/>。|group="注釈"}}。
**9月30日 - サミュエル・ウィリアムズが、米国聖公会内外伝道協会外国委員会宛に、江戸か長崎で宣教師が英語を教え、長崎で学校を開設する有効性を伝える{{Refnest|group="注釈"|[[エドワード・サイル]](米国聖公会)、[[サミュエル・ウィリアムズ]](長老派教会)、[[ヘンリー・ウッド (牧師)|ヘンリー・ウッド]](長老派教会)の3名が長崎でオランダ商館長ドンケル・クルチウスとの会談を行ったことにより日本側の対応を知り、それぞれが所属する母国の伝道協会宛てに宣教勧告書簡を送り、日本に派遣する宣教師を任命するように促した<ref name="nagasakigaidai">{{Cite journal|和書 |author=加島 巧 |date=2013-12-30 |title=プロテスタント宣教師 ―幕末、明治、そして長崎― |journal=長崎外大論叢 |publisher=長崎外国語大学 |issue=17 |pages=167-179 |url=httphttps://idnufs.repo.nii.ac.jp/1165/00000089records/96}}</ref>。3名の連名による書簡であったとする資料が多いが、連名による書簡ではなかったようである。事実、ヘンリー・ウッドは、エドワード・サイルとサミュエル・ウイリアムズが長崎に来る前に、既に書簡を送っている<ref name="wood"/>。また、サミュエル・ウイリアムズは宗派を超えて、米国聖公会へ向けて書簡を送っている<ref name="mission">{{Cite journal|和書 |author=大江満 |title=明治期の外国ミッション教育事業 : 立教築地時代の系譜 |journal=立教学院史研究 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2003 |volume=1 |pages=31-92 |doi=10.14992/00015356 |url=https://doi.org/10.14992/00015356}}</ref>。ヘンリー・ウッドの宗派はオランダ改革派であったとする資料もあるが、当初は会衆派の牧師で、のちに長老派の牧師となった<ref name="wood"/>。こうした背景には、会衆派、長老派、オランダ改革派などで結成された無宗派的な海外伝道組織である[[アメリカン・ボード]]の影響も考えられる。}}<ref name="mission"/>。
**11月13日 - '''米国総領事[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]が、[[エドワード・サイル]](米国聖公会遣清宣教師)宛の返書で神奈川で英語教育の学校開設を勧める'''<ref name="mission"/>。
 
[[画像:John Liggins 01.jpg|130px|thumb|[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]]]
[[画像:Sofukuji Sanmon.jpg|130px|thumb|[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]三門(楼門)]]
[[画像:Thomas Blake Glover.jpg|130px|thumb|[[トーマス・グラバー]]]]
[[画像:Guido Herman Fridolin Verbeck.jpg|130px|thumb|[[グイド・フルベッキ]]]]
* 1859年(安政6年)
** 1月 - 長崎に停泊中の米国船内で米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、[[:zh:玛高温|瑪高温]]、マゴオン)に、[[鄭幹輔]]を筆頭とする長崎[[通詞|通事]]([[唐通事]]7)7名が英語を学ぶ{{Refnest|group="注釈"|長崎奉行・[[岡部長常]]の要請でマクゴーワンが2週間ほど英語を教えた後、同月下旬には船が出航したため、それ以後は[[出島]]に滞在する米国人リチャード・J・ウォルシュ(ワルシ、Richard James Walsh、[[ウォルシュ兄弟]]の3番目の弟)が出島にある居宅及び興善町の唐通会所で英語を教えた。}}<ref name="KU-2012mozumi"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=茂住 實男 |title=英語伝習所設立とその後 |英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1979 |volume=1980 |issue=12 |pages=193-206 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1980.193 }}</ref><ref name="KU-2012"/>。
** 2月 - 米国聖公会は、日本が開国する状況下、米国聖公会内外伝道協会外国委員会で日本ミッション開設を決議<ref name="history06">[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 6頁]</ref>。<br />[[米国聖公会]]宣教師として1856年(安政3年)より中国・上海で活動する[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]、[[チャニング・ウィリアムズ]]および医療宣教師の日本への派遣を決定{{Refnest|group="注釈"| ジョン・リギンズは日本における最初のプロテスタント宣教師とされるが、療養のため、チャニング・ウィリアムズより1ヵ月早く来日し、英語教師および伝道師として精力的に活動したが、病気のため来日から1年も経たず1860年2月に日本を離れた。ウィリアムズも、リギンズとともに米国聖公会から同時に派遣を決定された人物であり、来日後長らく日本で活動したことから、日本における最初のプロテスタント宣教師である。リギンズとウィリアムズはヴァージニア聖公会神学校の同級生である<ref name="history2"/>。}}{{Refnest|group="注釈"| 米国聖公会は同行する医療宣教師として、[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]を人選する<ref name="medical">[http://jsmh.umin.jp/journal/35-3/261-276.pdf 幕末の長崎におけるシュミットの医療活動]</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|ミッションの場所は[[エドワード・サイル]]が推奨した長崎となる<ref name="mission2"/>。}}。
** 4月下旬 - タウンゼント・ハリスが長崎を訪問。既に何人かのアメリカ人商人が長崎で開業していた<ref name="us-nagasaki">[https://jp.usembassy.gov/ja/consulate-history-in-nagasaki-ja/ 在日米国大使館と領事館『長崎アメリカ領事館の歴史』2022年4月4日]</ref><ref name="ishiryoku"/>。
** 5月初め - ハリスが、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ([[ウォルシュ兄弟]]の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立{{Refnest|group="注釈"|米国議会はまだ長崎の領事を任命しておらず、ハリスのウォルシュ指名は必要に迫られてのことだった<ref name="us-nagasaki"/>。}}。
** 5月2日 - '''[[ジョン・リギンズ (宣教師)|リギンズ]]が米国船メリーランド号で長崎に来日<ref name="momoyama-1959"/>。米国聖公会日本ミッションを開設し、ハリスの支援のもと[[江戸幕府|幕府]][[長崎奉行]]・岡部長常の要請で立教大学の起源となる私塾を創設'''<ref group="注釈" name="English_studies"/>{{#tag:ref|リギンズは、長崎米国領事ウォルシュの支援もあり、江戸幕府の長崎奉行・岡部長常から美しい場所に建つ3部屋ある家([[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]境内にある広徳院)を提供された。そこで開設した私塾に授業クラスを設けて、翌月末に来日したウィリアムズとともに8人の[[江戸幕府|幕府]]の公式通訳(長崎[[詞]])に英語を指導した<ref name="mission2"/><ref name="sugimoto"/>。最初の8人の生徒の中には、[[鄭幹輔]]、[[何礼之]][[平井希昌]](義十郎)がいた<ref name="ishiryoku"/>。<br />開設されたミッションは伝道に加え、教育活動と医療活動を目的としており、リギンズが要望していた医療・教育活動を行う宣教医の来日は、リギンズが離日後の1860年8月の[[ハインリッヒ・シュミット]]の来日を待つこととなった<ref name="mission2"/>。|group="注釈"}}<ref group="注釈" name="rikkyo-college-02"/><ref group="注釈" name="nagasaki-library"/><ref name="history2"/><ref name="history06"/><ref name="shien-1969">{{Cite journal|和書 |author=遠矢 徹志 |date=1969-03 |title=幕末におけるキリスト教再伝来について |journal=史苑 |issn=03869318 |publisher=立教大学史学会 |year=1969-03 |volume=29 |issue=3 |pages=14-26 |url=httphttps://iddoi.niiorg/10.ac.jp/106214992/00001054/ |doi=10.14992/00001054 }}</ref><ref name="nskk-20090922">[http://www.nskk.org/province/150th.htm 日本聖公会宣教150周年『米国聖公会 キャサリン・ジェファーツ・ショーリ総裁主教説教』2009年9月22日]</ref><ref name="r-archives_19350118">立教史データベース 基督教週報第69巻第19号 [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『◇聖公会 修史夜話◇(其八) 前島生/崇福寺を訪ふ』] 1935年1月18日</ref>。(日本で最初の[[プロテスタント]]ミッションで<ref group="注釈" name="protestant"/>、塾は日本の[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]の起源である<ref name="rikkyonews088"/>。)最初の生徒として[[江戸幕府|幕府]]公式通[[鄭幹輔]]、[[何礼之]][[平井希昌]]らが学ぶ<ref name="ishiryoku"/>。
** 6月4日 - 英国初代駐日公使[[ラザフォード・オールコック]]が長崎に来日(旧暦5月3日)。同月(旧暦5月)長崎大浦の妙行寺に英国領事館が開設され<ref>{{Cite journal|和書 |author=宮本達夫,土田充義 |title=長崎旧居留地の形成と変遷過程について |journal=日本建築学会計画系論文集 |issn=2433-0043 |publisher=日本建築学会 |year=1985-06 |volume=352 |pages=59-68 |url=https://doi.org/10.3130/aijax.352.0_59 }}</ref>、[[クリストファー・ホジソン]]が初代英国長崎領事を務める。英国の初代函館領事に任命されていたホジソンは、長崎領事に就任予定の[[ジョージ・モリソン]]の到着が遅れたため、函館赴任の途中で長崎に滞在し英領事事務取扱として就任<ref name="first"/>。
** 6月25日 - '''[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]が米国軍艦[[:en:USS Germantown (1846)|ジャーマンタウン号]]で長崎に来日'''{{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズは、[[エドワード・サイル|サイル]]の家族の病気のため、サイルは短い旅行を楽しむ必要があり、サイルが不在の中で日本へ出発できず、[[ジョン・リギンズ (宣教師)|リギンズ]]より日本行きが遅れた<ref name="mission2"/>。}}<ref name="mission2"/><ref name="rikkyonews088">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)0515_088.pdf 『立教大学新聞 第88号』] 1930年(昭和5年)5月15日</ref><ref name="history">[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/ 立教学院史資料センター 立教学院の歴史]</ref><ref name="mission2"/>。リギンズとともに私塾で英学を教える<ref name="ishiryoku"/><ref name="shien-1969"/><ref name="shien-1967">{{Cite journal|和書 |author=海老沢 有道,大久保 利謙,森田 優三(他) |title=立教大学史学会小史(I) : 立教史学の創生 : 建学から昭和11年まで (100号記念特集) |journal=史苑 |issn=03869318 |publisher=立教大学史学会 |year=1967-07 |volume=28 |issue=1 |pages=1-54 |url=https://doi.org/10.14992/00004873 }}</ref><ref name="ishiryoku"/><ref name="shien-1969"/>。
** 8月6日 - [[ジョージ・モリソン]]が長崎に到着し、妙行寺に置かれた英国領事館で長崎英国領事として職務を開始<ref>{{Cite journal|和書 |author=中島恭子,ブライアン・バークガフニ |date=2017-02 |title=万延元年(1860)の長崎パノラマ写真と英国領事報告書 |journal=長崎総合科学大学紀要 |issn=2423-9976 |publisher=長崎総合科学大学附属図書館運営委員会 |year=2017-02 |volume=56 |issue=2 |pages=65-76 |url=httphttps://idnias.repo.nii.ac.jp/1101records/00000742/ 783}}</ref>。
** 9月19日 - [[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]](聖公会信徒)が長崎に来日。グラバーは、リギンズやウィリアムズの両宣教師などによって私邸や英国領事館(妙行寺内)を使って始められた外国人のための礼拝に参加する<ref name="名前なし-20230316131139"/>。
** 11月 - [[グイド・フルベッキ]]が長崎へ来日{{Refnest|group="注釈"| [[フルベッキ]]はオランダ改革派の宣教師として来日し、[[早稲田大学]]の建学の祖とされる人物。チャニング・ウィリアムズと親交が深く、子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となる。次男はチャニング・ムーア・ヴァーベックと命名(ウィリアムズは遺産の一部と金時計を与えると遺言状で指示)。二女の[[エマ・フルベッキ]]は聖公会の婦人伝道師となり、立教女学院、立教学校で教えた<ref name="history3">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 7頁]}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=石田三雄 |title=明治の群像・断片[その9]:外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 |journal=近代日本の創造史 |issn=1882-2134 |publisher=近代日本の創造史懇話会 |year=2012 |volume=14 |pages=35-54 |naid=130003354414 |doi=10.11349/rcmcjs.14.35 |url=https://doi.org/10.11349/rcmcjs.14.35}}</ref><ref>『立教女学院百年史資料集』</ref>。}}。[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広徳院に居住するリギンズ、ウィリアムズに迎えられ同居{{Refnest|group="注釈"|フルベッキはリギンズ、ウィリアムズと同居した後、崇福寺近くの住居に引っ越した。しかし、妻が神経痛となり、1860年8月に来日した[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]医師から、神経痛の原因は寝室の湿度の高さにあると説明され、シュミットの薦めで、1860年11月15日に環境の良い崇福寺広福庵へ転居した。広福庵は、最初の住まいであった崇福寺広徳院と同じ境内の高台にあった<ref name="NGA">[httphttps://www.asahi-net.or.jp/~un4h-tkfj/katsudou.html 『長崎フルベッキ研究会レポート』一般社団法人長崎親善協会]</ref>。}}<ref name="history3nagasakigaidai"/><ref name="nagasakigaidaihistory3"/>。フルベッキも[[何礼之]]に英語を教える<ref name="KU-2012">{{Cite journal|和書 |author=許 海華 |title=幕末明治期における長崎唐通事の史的研究 |publisher=関西大学 |date=2012-09-20 |doi=10.32286/00000332 |url=https://doi.org/10.32286/00000332}}</ref>。
** 12月 - 長崎米国領事館の建物が火事にあい、ウォルシュは東山手十二番館の自宅を領事館として使用{{Refnest|group="注釈"|長崎米国領事館は1860年から1865年、1902年から1921年まで東山手十二番館に所在した<ref name="us-nagasaki"/>。}}。
* 1860年(万延元年)
** リギンズが日本の先駆けとなる英学会話書の『英和日用句集』を執筆し、現行の[[ローマ字]]綴りを編み出す<ref name="tokiwa-2006"/><ref name="detabase-1935"/>。
** 2月13日 - 日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府の[[万延元年遣米使節]]が[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポウハタン号]]で米国へ向け横浜から出航。先に同年2月9日には護衛名目の[[咸臨丸]]が横浜から出航。
** 4月7日 - [[英国聖公会]]の[[:en:George Smith (Bishop of Victoria)|ジョージ・スミス主教]]が長崎に来日<ref name="history06"/><ref>[https://www.koran.ed.jp/topics/458 香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(4)]</ref><ref name="first">{{Cite journal|和書 |author=木村信一 |date=1970-03-30 |title=我国最初のプロテスタント教会について |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学総合研究所 |date=1970-03-30 |issue=6 |pages=59-74 |naid=110000215470 |url=httphttps://idstars.repo.nii.ac.jp/1420/00002159records/2202}}</ref><ref>[https://www.koran.ed.jp/topics/458 香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(4)]</ref>。スミスは5月15日まで滞在するが、ウィリアムズの住む崇福寺に滞在<ref name="r-archives_19350118"/>。
** 7月 - ウィリアムズが[[出島]]から[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]に書簡を送る<ref>{{Cite journal|和書 |author=石山禎一 |author2=宮崎克則 |date=2012-10 |title=シーボルトの生涯とその業績関係年表Ⅲ(1856年‐1862年) |journal=西南学院大学国際文化論集 |issue=1 |volume=27 |publisher=西南学院大学学術研究所 |issn=0913-0756 |url=http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/431}}</ref>。
** 8月 - '''[[米国聖公会]]宣教医[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]が長崎に来日。診療所と私塾を開設し、医療活動および医学、英語教育を行う'''{{Refnest|group="注釈"|[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|シュミット]]は来日してから2か月後には診療を開始している。翌年7月に東山手居留地四番館に引っ越した際には、診療所が整備されたと考えられる。<br />医学と英語教育については、日本人医師たちに英語で現代医学を教えるクラスと、医学とは関係なく英語だけを教えるクラスを持っていた。}}<ref name="medicalhistory06"/><ref name="history06medical"/>。'''近世日本の布教史における最初の宣教医<ref name="medical2">{{Cite journal|和書 |author=Wolfgang Michel-Zaitsu |date=2019-03 |title=野中烏犀円文庫収蔵の諸洋医書について |journal=伊藤昭弘篇『佐賀藩薬種商・野中家資料の総合研究ー日本史・医科学史・国文学・思想史の視点から |publisher=佐賀大学地域学歴史文化研究センター |doi=10.13140/RG.2.2.12581.55522 |url=https://hdl.handle.net/2324/2231634}}</ref>。'''
* 1861年(文久元年)
** 4月 - [[南北戦争|アメリカ南北戦争]]開戦。1865年4月の終戦までの間は、米国人は日本伝道への母国からの援助が途絶え、米国宣教師たちの一部は退職の余儀なきに到った<ref name="first"/>。
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* 1862年(文久2年)
** 5月 - [[高杉晋作]]がウィリアムズから政治制度や国際情勢を学ぶ{{Refnest|group="注釈"|name="shinsaku"|高杉晋作はチャニング・ウィリアムズから「アメリカでは、階級間に差別がなく一般人から大統領が生まれ、また大統領も、辞めれば一般人となること」などアメリカの政治制度や民主制度を学び、[[奇兵隊]]の発想の元になったと言われる。あわせて、アメリカの南北戦争や清国の内乱などの国際情勢や欧米の状況を聴いて教示を受けた。高杉晋作の手記『遊清五録』のうち「長崎淹留雑録」の一部に「私は彼(米人牧師)にたずねた。日本は士官と土民とに階級が分かれているが貴国はどうか、と。ムリヤムス(ウィリアムズ)いわく、わが国は土民が分かれるということはない。国王となっても、また土民に帰る者がおり、逆に土民から国王になる者もいる。すなわち合衆国の元祖親頓([[ジョージ・ワシントン|ワシントン]])は、はじめは土民であり、ついには大統領となり、のちまた土民に帰り、また再び国王となる。これは一例にすぎないが、要するに士官と土民が区別されるということはないのである。」とある。このことによって、身分をこえた軍隊の編成を思いつき、その後、上海にいた頃に、清国王朝が外国の軍隊を導入したことによって清国の主権が侵され植民地のようになった状況をみて、放っておくと日本もいずれ植民地化されると危惧し、郷土防衛意識が高まっていった。これらが晋作に奇兵隊を結成させた理由であると考えられる<ref>{{PDFlink|[https://blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0040-02.pdf 前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40 1984年 16頁]}}</ref><ref name="shinsaku-m"/>。}}<ref name="kyoto">{{Cite journal|和書 |author=大江満 |title=パネル展示報告 立教創立者の遺品 : 京都教区寄贈ウィリアムズ資料 |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2014 |issue=11 |pages=140-154 |naid=120005445074 |doi=10.14992/00009283 |url=https://doi.org/10.14992/00009283}}</ref><ref name="history4">[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 8頁]</ref>。この時期、長崎で英会話の勉強もしていたとされる<ref name="shinsaku-m">高杉晋作Museum [https://shinsaku-m.com/history-cat/nagasaki/ 『崇福寺』]</ref>。
** この年より[[大隈重信]]、[[副島種臣]]、[[前島密]]らがウィリアムズの私塾で英学を学ぶ{{Refnest|group="注釈"|チャニング・ウィリアムズの元で学んだ[[大隈重信]][[早稲田大学]]を設立し、[[前島密]][[早稲田大学]](当時東京専門学校)の校長を務め、建学にも大きく関わっており、ウィリアムズが設立した立教大学と教え子が設立した早稲田大学は歴史的に深い関係がある。大隈重信は[[アメリカ独立宣言]]を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者である[[トーマス・ジェファーソン]]はウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。ウィリアムズの同僚の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]が長崎に持ち込んだ書籍の中に[[イライジャ・コールマン・ブリッジマン|ブリッジマン]]の『聯邦志略』も含まれているが、この本にはアメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、これを教材として大隈や前島を始め多くの志士が影響を受けた<ref name="shien-1967"/><ref name="postalmuseum"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=坂本 恵子 |title=『聯邦志略』を読む |journal=新島研究 |issn=02875020 |publisher=同志社大学同志社社史資料センター |year=2019-02 |issue=110 |pages=120-143 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000621 }}</ref>。1888年(明治21年)、大隈はウィリアムズからの要請により築地キャンパスの拡張のため尽力する<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。大隈は、1919年(大正8年)5月31日に開かれた池袋校舎落成式にも来賓として出席し、大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から立教大学との縁故に及ぶ大演説を行った<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。前島密はチャニング・ウィリアムズから郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立につながった<ref name="history4"/>。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けた。また、早稲田大学建学の祖である[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]とウィリアムズは深い親交で結ばれた盟友であった。}}{{Refnest|group="注釈"|name="doc_Okuma"|大隈はウィリアムズ、並びに[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]等の元で、講義の聴講や英書の質問をするなど英学を学んだ。その側らで、キリスト教の事も研究しようと思い、当時の日本ではキリスト教は厳禁であったが、学問上の理論や原理として、研究するのはいささかも問題がないと信じて、[[副島種臣]]とともに約1年半の間、研究を行った。大隈はその後、駆け出しの外交官として[[浦上四番崩れ]]についてのイギリス公使[[ハリー・パークス|パークス]]との交渉を成功させ、新政府内で頭角を現し、その後政治家として大成していく契機となったが、これはウィリアムズとフルベッキから、一通りキリスト教の教義を学び会得していたことによる成果であった<ref name="Okuma_oldtale">[https://dl.ndl.go.jp/pid/1908934 『大隈侯昔日譚』] 大隈重信 著 円城寺清 編 新潮社 1922年 127-129頁</ref>。}}<ref name="history2kyoto"/><ref name="history4history2"/><ref name="kyotohistory4"/><ref name="shien-1969"/><ref>[https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/founder/index02.html 日本郵政『前島密年譜』]</ref>。
** 8月 - 英国聖公会の[[マイケル・ベイリー]]が来日し、横浜英国領事館のチャプレンに着任<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus([[講談社]])『[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC-130256 ベーリー]』- [[コトバンク]]</ref>
** 10月26日 - 長崎・山手居留地内(東山手11番地)に外国人のための[[英国聖公会会堂]](日本で最初のプロテスタントの教会)が完成{{Refnest|group="注釈"|土地は928坪、借地名義人は英国領事[[ジョージ・モリソン]]、所要経費は整地費を含め銀1782分。ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって献堂された<ref name="first"/>。}}<ref name="history06"/><ref name="nias">[https://nias.ac.jp/news/detail.php?id=999 『日本初のプロテスタント教会のスケッチ図をバークガフニ環境・建築学部長が発見』 長崎総合技術大学]</ref>。ウィリアムズが教会の初代[[チャプレン]]となる<ref name="history06"/>。2代目チャプレンは[[フルベッキ]]<ref name="first"/>。教会の管理人の一人を[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]が務める<ref name="nias"/>。
** 11月 - 旧暦10月、ウィリアムズやフルベッキが暮らした[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]内の空地に[[何礼之]]、[[平井希昌|平井義十郎]]らの[[唐通事]]たちが長崎奉行の許可を得て、長年積立てた資金で、その子弟のための訳家学校が設置され、中国語と英語の学習教授が行われる{{Refnest|group="注釈"|教師として、中国語を教える「本業教授方」として、呉泰蔵、鄭右十郎、潁川保三郎、「洋学世話掛」として、彭城大次郎、何礼之助、平井義十郎が務めた。ウィリアムズやフルベッキも英語を教えたと考えられる。}}<ref name="KU-2012"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=杉本つとむ |title=幕末の洋学事情-近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育 |journal=早稲田大学図書館紀要 |issn=02892502 |publisher=早稲田大学図書館 |date=1995-03 |issue=41 |pages=1-31 |naid=120006349576 |url=https://hdl.handle.net/2065/00055503}}</ref><ref name="momoyama"/>。
 
* 1863年(文久3年)
** [[荘村省三|荘村助右衛門]](省三)がウィリアムズの元で学ぶ{{Refnest|group="注釈"|name="shoumura"|荘村助右衛門は[[肥後藩]]士で、長崎でウィリアムズに学んだ。1866年(慶応2年)2月にはウイリアムズより洗礼を受ける(日本における聖公会初の受洗者)。荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、[[佐久間象山]]の塾や、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、[[フルベッキ]]や[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]に加え[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[坂本龍馬]]とも親交を持ち、坂本龍馬とは肥後藩を[[薩長同盟]]に参加させようと画策した<ref name="history4"/><ref name="nakajima_2019">{{Cite journal|和書 |author=中島一仁 |title=日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門 : その人物像とウィリアムズとの交友をめぐって |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2019 |issue=16 |pages=2-20 |naid=120006715214 |doi=10.14992/00018017 |url=https://doi.org/10.14992/00018017}}</ref><ref name="history4"/>。}}。
** [[原口針水]]([[破邪学]]の[[僧侶]])や[[スパイ|密偵]]がウィリアムズとフルベッキの私塾で学ぶ<ref>{{PDFlink|[http://meijiseitoku.org/pdf/f49-16.pdf 『明治仏教と西洋文明 ―西本願寺の西洋視察―』] 戸浪裕之,351頁-379頁,明治聖徳記念学会}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.brotherhood-st-andrew-japan.org/VISION/VISION167.pdf 『ウィリアムズ主教に学ぶ ―BSAセミナーに85人―』] BSA会報 VISION,167号(通算338号),3頁,2019年7月29日,一般社団法人日本聖徒アンデレ同胞会}}</ref>。
** [[マイケル・ベイリー]]が横浜で英語塾を開き、日本人に英語を教える<ref name="yamate-anglican"/>。
** 10月 - プロテスタントとして横浜で最初の教会である横浜クライストチャーチ([[横浜山手聖公会]])の初代聖堂が完成。[[マイケル・ベイリー]]が初代チャプレンとして司祭に任命される<ref name="yamate-anglican">[https://yamate-anglican.jpn.org/%e8%81%96%e5%a0%82%ef%bc%88%e7%a4%bc%e6%8b%9d%e5%a0%82%ef%bc%89%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6 横浜山手聖公会公式Web『聖堂(礼拝堂)について』]</ref>。
** 12月 - [[長崎奉行]]の要請もあり、幕府の[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]でウィリアムズとフルベッキが英学を教える<ref name="sugimoto"/><ref>{{Cite journal|和書 |authorname=茂住 實男 |title=英語伝習所設立とその後 |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1979 |volume=1980 |issue=12 |pages=193-206 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1980.193 }}<"mozumi"/ref>。
* 1864年(文久4年、元治元年)
** 春 - ウィリアムズ門下の[[何礼之]]が、長崎の自邸(大井手町使屋敷)で英語の私塾を開く。塾長は[[前島密]]<ref name="momoyama">{{Cite journal|和書 |author=村瀬寿代 |date=2000-03 |title=長崎におけるフルベッキの人脈 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学総合研究所 |date=2000-03 |issue=36 |pages=63-94 |naid=110000215333 |url=httphttps://idstars.repo.nii.ac.jp/1420/00002595records/2638}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|これより10年前の1854年(安政元年)、[[福澤諭吉]](当時21歳)が長崎に遊学し光永寺と高島流砲術家山本宅に1年間寄宿し蘭学・砲術を学んだが、その山本宅は、私塾が置かれた大井手町使屋敷の一部にあった<ref name="NGA"/>。}}。
** 9月 - 同じくウィリアムズ門下の[[瓜生寅]]と前島密が、[[何礼之]]の許可を得て、苦学生のために私塾「[[培]]」をフルベッキが以前寓居していた[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広福庵に開く<ref name="momoyama"/>。
* 1865年(元治2年)
** グラバー邸でイギリスへの渡航を頼んだ高杉晋作と[[伊藤博文]]にイギリス長崎領事の[[ジョン・F・ラウダー]]が自宅で英語を教える<ref>高杉晋作Museum [https://shinsaku-m.com/history-cat/nagasaki/ 『グラバー邸』]</ref>。
** 何礼之の私塾が、[[長崎奉行]]から支援を受けて塾舎を新設。準官立となり、塾生は百数十名を数えた<ref name="momoyama"/>。
* 1866年(慶応2年)
** 1月 - ウィリアムズが[[谷口藍田]]に師事し漢学を学び、藍田はウィリアムズに師事し英学を学ぶ{{#tag:ref|ウィリアムズは、[[佐賀藩]]の碩学、谷口藍田に加えて、長崎の漢方医、笠戸順節とも交流している。笠戸順節は、漢文に長けた人物で、リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキに、日本語や日本に関する書籍を供給した。リギンズ、ウィリアムズは中国で漢文を習っていたため、笠戸とコミュニケーションが取りやすかったと思われる。笠戸順節は、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]にも資料を提供していたとされる。<br />ウィリアムズは、谷口藍田に英語や海外事情を教え、藍田からは和漢の学について教えを受けた。谷口藍田は[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](のちの[[早稲田大学]])でも教鞭を執っている<ref name="sugimoto">{{Cite journal|和書 |author=杉本つとむ |title=続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育 |journal=早稲田大学図書館紀要 |issn=02892502 |publisher=早稲田大学図書館 |date=1995-12 |issue=42 |pages=1-55 |naid=40003930216 |url=https://hdl.handle.net/2065/00055868}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=西岡淑雄 |title=細川潤次郎とフルベッキ |journal=英学史研究 |issn=0386-9490 |publisher=日本英学史学会 |year=1991 |volume=1992 |issue=24 |pages=43-54 |naid=130003624871 |doi=10.5024/jeigakushi.1992.43 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1992.43}}</ref><ref>[http://e-zaigai.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/201607歴博国際シンポジウム%E3%80%80シーボルト本文.pdf 歴博国際シンポジウム『シーボルト・コレクションから考える』国立歴史民俗博物館(2016年7月30日)]</ref><ref name="sugimoto">{{Cite journal|和書 |author=杉本つとむ |title=続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育 |journal=早稲田大学図書館紀要 |issn=02892502 |publisher=早稲田大学図書館 |date=1995-12 |issue=42 |pages=1-55 |naid=40003930216 |url=https://hdl.handle.net/2065/00055868}}</ref>。|group="注釈"}}{{#tag:ref|1866年1月は慶應元年十二月。|group="注釈"}}<ref>井手誠二郎『谷口藍田 : 旅に生きた儒学者の生涯』ショップアリタ 1995 11頁-12頁</ref>。藍田はウィリアムズの私塾で学ぶ大隈重信と会い交遊していく<ref name="名前なし_2-20240110212613">森田正『近代国家「明治」の養父 : G.F.フルベッキ博士の長崎時代』長崎外国語大学 2016年3月</ref>。
** 3月 - ウィリアムズ、米国へ帰国の途に就く{{Refnest|group="注釈"|長崎を去る直前の2月には、ウィリアムズは肥後熊本藩士荘村助右衛門に洗礼を授けた(プロテスタントとして日本で二番目、聖公会としては初の受洗者)<ref name="NGA"/>。}}<ref name="history2"/><ref>[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 9頁]</ref>。
** 10月3日 - ウィリアムズ、米国聖公会第2代中国・日本伝道主教に任命される<ref name="history"/>。
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* 1868年(慶応4年、明治元年)
** ウィリアムズは再び[[清]]に渡り、[[湖北省]][[武昌]]に拠点を置き、伝道の旅を続ける<ref name="history2"/><ref name="history7">[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 10頁]</ref>。
** ウィリアムズの盟友である[[フルベッキ]]が長崎の佐賀藩英学校「[[致遠館]]」で英語を教え、教え子の[[大隈重信]]が教頭格、[[副島種臣]]が舎長(督学)として指導にあたる<ref name="momoyama2">{{Cite journal|和書 |author=村瀬寿代 |date=2001-03 |title=フルベッキ研究の新たな可能性 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学総合研究所 |date=2001-03 |issue=37 |pages=19-43 |url=httphttps://idstars.repo.nii.ac.jp/1420records/000026062649}}</ref>。
** 11月 - ウィリアムズが住む場所を探すため大阪を訪問{{Refnest|group="注釈"|フルベッキも1868年10月に大阪を訪れており、ウィリアムズとフルベッキは大阪でも親密に情報交換をしていたと考えられる<ref name="momoyama2"/>。}}<ref name="concession_williams"/>。
[[File:Holy trinity under re-decorating.JPG|thumb|200px|{{仮リンク|上海聖三一大聖堂|en|Holy Trinity Church, Shanghai}}]]
* 1869年(明治2年)
** 1月 - ウィリアムズの長年の要請が実り、[[英国聖公会宣教協会]](CMS)(CMS)の宣教師[[ジョージ・エンソル]]がCMS最初の日本宣教師として長崎に来日{{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズは日本に着任後、同じ聖公会として、[[イングランド国教会|英国国教会]]に伝道協力を求めていた。}}<ref name="k-hayashi"/>。エンソルはCMSの日本で最初の英学塾である「英学稽古所」を開設
** 7月 - ウィリアムズ、大阪に活動拠点を移す(日本と中国間を往来){{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズが当初居を構えた与力町は、川口居留地に程近い雑居地(のちの本田三番町付近、現在の川口3丁目付近)にあった。川口居留地は、当初わずか26区画しかなく、競売で土地を落札することができなかった外国人は隣の梅本町、与力町等の雑居地に住むようになった<ref>{{PDFlink|[http://www.ocec.jp/center/index.cfm/31,3615,c,html/3615/20070507-144255.pdf 大阪市教育センター 多文化共生の教育に関する研究(Ⅳ)―「大阪開港と川口居留地」の教材化― 大阪市教育センター 研究紀要 第179号 2007年3月]}}</ref>。そのため、ウィリアムズは与力町に居を構えたと考えられる。住居は日本人の協力を受け、得られたものだった<ref name="concession_williams"/>。}}<ref name="kyoryuchi_ayumi">学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 [https://www.andrew.ac.jp/nenshi/kyoryuchi_ayumi.htm 『川口居留地の歩み』]</ref><ref name="history6">[https://takakoym4112289.wixsite.com/kawaguchi/blank-8 川口居留地研究会 川口居留地略年表 『大阪川口居留地の研究』79-82頁]</ref><ref name="kagawa">{{Cite journal|和書 |author=香川孝三 |title=政尾藤吉伝(1) : 法律分野での国際協力の先駆者 |journal=国際協力論集 |issn=0919-8636 |publisher=神戸大学大学院国際協力研究科 |year=2001-02 |volume=8 |issue=3 |pages=39-66 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00074108 }}</ref><ref name="history7"/><ref name="kyoryuchi_ayumi">学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 [https://www.andrew.ac.jp/nenshi/kyoryuchi_ayumi.htm 『川口居留地の歩み』]</ref><ref name="history6">[https://takakoym4112289.wixsite.com/kawaguchi/blank-8 川口居留地研究会 川口居留地略年表 『大阪川口居留地の研究』79-82頁]</ref>。
** 中国・日本伝道主教のウィリアムズのもとで{{仮リンク|上海聖三一大聖堂|en|Holy Trinity Church, Shanghai}}が献堂される。
** ウィリアムズが大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の[[外国人居留地]]近くの与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)を開き、英語礼拝を開始<ref name="concession_williams">学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 [https://www.andrew.ac.jp/nenshi/concession_williams.htm 『C.M.ウィリアムズ師と米国聖公会』]</ref><ref name="kagawa"/>。
** '''ウィリアムズが大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の[[外国人居留地]]近くの与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)と私塾'''(翌年、英学講義所となる。後の大阪・[[英和学舎]])'''を開き、英語礼拝と英語教授を開始'''<ref name="ndl-1280808"/><ref name="ndl-1278546"/><ref name="kagawa"/><ref name="concession_williams">学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 [https://www.andrew.ac.jp/nenshi/concession_williams.htm 『C.M.ウィリアムズ師と米国聖公会』]</ref>。
** 11月 - ウィリアムズが主教座を武昌から大阪に移す<ref name="kanoya3">{{Cite journal|和書 |author=平沢信康 |title=近代日本の教育とキリスト教(3) |journal=学術研究紀要 |publisher=鹿屋体育大学 |year=1994-09 |volume=12 |pages=79-91 |url=https://nifs-k.repo.nii.ac.jp/records/212 }}</ref>。
[[画像:聖テモテ教会と英和学舎.jpg|200px|thumb|聖テモテ教会と英和学舎]]
[[画像:J.H. クインビー.jpg|130px|thumb|ジェームズ・クインビー]]
* 1870年(明治3年)
** 1月 - ウィリアムズが大阪・川口の与力町に礼拝堂(ストリート・チャペル)を設置<ref name="kyoryuchi_ayumihistory2"/><ref name="history2kyoryuchi_ayumi"/>。
** 同年、'''ウィリアムズが大阪・川口の与力町に'''英学講義所'''を開設(のちの大阪・[[英和学舎]]'''<ref name="kagawa"/><ref name="shien-1967"/><ref name="history2"/><ref name="history6"/><ref name="kanoya3"/><ref>[https://web.archive.org/web/20210428140738/http://www.heian.ac.jp/head/history/01.php 平安女学院 学院の沿革 照暗女学校の時代]</ref><ref name="kagawa"/><ref>[https://www.sankei.com/article/20211103-YB2SF75FHFJURPU2VPLUU2MGW4/ 産経新聞『旧居留地の教会150周年 大阪、記念碑除幕し礼拝』2021/11/3]</ref><ref name="shien-1967"/><ref name="kanoya3"/>。
** ウィリアムズが大阪で最初の堅信式を行う<ref name="concession_williams"/>。
** 12月 - ウィリアムズの熱心な呼びかけに応えて、[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]教区の[[アーサー・モリス|アーサー・ラザフォード・モリス]](Arthur Rutherford Morris<ref>『American Missionaries, Christian Oyatoi, and Japan, 1859-73』 Hamish Ion, 2009 UBS Press, Canada</ref>)が日本へ派遣する宣教師に任命される{{Refnest|group="注釈"|アーサー・ラザフォード・モリスは米国聖公会の宣教師で、立教大学池袋キャンパスの本館(1号館)はモリスが遺した寄付により建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれ、立教大学のシンボルになっている。}}<ref name="Project Canterbury">[httphttps://anglicanhistory.org/asia/japan1891.html Project Canterbury『An Historical Sketch of the Japan Missionof the Protestant Episcopal Church in the U.S.A. Third Edition.』] New York: The Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the United States of America, 1891.]</ref>。
* 1871年(明治4年)
** 5月 - モリスが大阪に到着<ref name="kyoryuchi_ayumi"/><ref name="Project Canterbury"/>。
** 9月 - [[清|清国]](現・中国)武昌に中国初の聖公会主教である[[:en:William Jones Boone (father)|ウィリアム・ブーン]]を記念するブーン主教記念学校(後のブーン大学、現・[[:en:Huachung University|華中大学]])が開設。
** 12月 - モリスが大阪・[[古川 (大阪市西区)|古川町]]に私塾と診療所のための家屋を入手し、ウィリアムズが与力町の英語塾を古川町(2丁目)に移転<ref name="kyoryuchi_ayumi"/><ref name="history6"/><ref name="concession_williams"/>。
** 12月 - モリスが大阪・[[古川 (大阪市西区)|古川町]]に私塾と診療所のための家屋を入手し、ウィリアムズが与力町の英語塾を古川町(2丁目)に移転<ref name="concession_williams"/><ref name="kyoryuchi_ayumi"/><ref name="history6"/>。
* 1872年(明治5年)
** 2月21日 - ウィリアムズが大阪・古川町に私塾(男子校)を開設{{Refnest|group="注釈"|午後2時間のみの男子学校で<ref name="history2"/>、英語に加えて数学や理化学なども教える私塾として開設。ウィリアムズは数学、理化学を教えた。また、ウィリアムズが担当する聖書は選択であったが、初級クラスは全員が履修し、上級生も多数が履修した<ref name="history7"/>。モリスが英語の教師として教壇に立った<ref name="Project Canterbury"/>。<br />また、1930年(昭和5年)の「立教大学新聞第89号」には、学校は聖テモテ学校という名称で明治4年6月に設立されたとの記載もあり、学校の設立年と名称には複数説がある<ref name="rikkyonews089">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)0618_089.pdf 『立教大学新聞 第89号』] 1930年(昭和5年)6月18日</ref>。}}<ref name="history2"/><ref name="history7"/><ref name="concession_williams"/>。
** 私塾は開設からわずか4ヵ月で大阪当局により閉鎖させられる<ref name="history2"/>。
** 9月 - 禁教にあってバイブルクラスを開く<ref name="kanoya3"/>。
** 9月4日 - ウィリアムズ門下の[[瓜生寅]](立教の源流の私塾出身)が起草に携わった「[[学制]]」が[[太政官]]より発令。
** 12月3日 - ジェームズ H. クインビー(James Hamilton Quinby)がウィリアムズの要請によりC.D.B. ミラーと共に夫人を伴って大阪に着任<ref name="Project Canterbury"/>。
* 1873年(明治6年)
** 2月24日 - [[岩倉使節団]]の海外訪問と[[不平等条約]]改正の予備交渉に伴い、キリスト教徒への非人道的な行為が非難され、信仰の自由を認めることを求められたことにより、政府は太政官布告第68号によりキリシタン禁制の高札を撤去<ref>{{PDFlink|国土交通省 環境庁 [https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553820.pdf 『高札撤去―信教の自由獲得へ―』]}} 地域観光資源の多言語解説文データベース</ref><ref>国立公文書館 公文書にみる日本のあゆみ [https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m06_1873_02.html 『キリスト教禁止の高札が撤廃される』]</ref>。
** 2月24日 - 政府がキリシタン禁制の高札撤去。
** 3月4日 - 閉鎖していた大阪・古川町の私塾を改称し、聖テモテ学校が開校(モリスが初代校長)<ref name="history6kyoryuchi_ayumi"/><ref name="kyoryuchi_ayumihistory6"/>{{#tag:ref|明治6年に校名(和名)を英和学舎と改めたともされる<ref name="rikkyonews089"/>。|group="注釈"}}。
** 9月 - 米国聖公会の司祭チャールズ・ニューマン(Charles H. Newman)が来日して東京に入る<ref name="natori-2004">{{Cite journal|和書 |author=名取 多嘉雄 |title=日本聖公会横浜教区におけるC.M.S.の房州宣教 (1) |journal=立教女学院短期大学紀要 |issn=2432-3195 |立教女学院短期大学 |year=2004 |volume=36 |pages=51-74 |url=https://doi.org/10.20707/stmlib.36.0_51 }}</ref>。赤坂の陽泉寺に寓居して在京英米人のための主日礼拝を開始<ref name="kyoto-denpuro">日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編 [https://denpuro.blogspot.com/2015/10/1025.html 『世界の聖公会 10月25日 日本聖公会 東北教区 東京教区』] 2015年10月25日</ref><ref name="ooe-2004">{{Cite journal|和書 |author=大江 満 |title=異文化理解か異端嫌疑か : 解雇された米国聖公会遺日宣教師(上) : C・T・ブランシェーの信仰治癒運動 |journal=立教学院史研究 |立教学院史資料センター |year=2004-03 |volume=2 |pages=38-60 |url=https://doi.org/10.14992/00015369 }}</ref>。(米国聖公会初の東京拠点で日本聖公会東京教区の起源<ref name="kyoto-denpuro"/>。)
** 11月 - ウィリアムズ、東京に活動拠点を移す<ref name="suzukake2019-p11">[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 11頁]</ref>。
** 9月25日 - [[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会福音宣布協会]](SPG)の宣教師[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]、[[ウィリアム・ライト (宣教師)|ウィリアム・ライト]]がSPG最初の日本宣教師として横浜に来日。その後、ニューマンも寓居する赤坂の陽泉寺に仮寓し、日本語の学習を始め、本堂内に礼拝堂を設ける<ref name="kyoto-denpuro"/><ref name="tezuka-1966"/>。
** クレメント・T・ブランシェ(Clement T. Blanchet)が日本へ派遣する宣教師に任命される<ref name="Project Canterbury"/>。
** 11月 - 米国聖公会のクレメント・T・ブランシェ(Clement T. Blanchet)とウィリアム・クーパー(William B. Cooper)が来日して東京に入る<ref name="natori-2004"/>。2人はニューマンが寓居する陽泉寺に同居し、同月18日には日本語教師を雇用して、日本語の習得を開始<ref name="ooe-2004"/>。
** 11月 - ウィリアムズ、東京に活動拠点を移す<ref name="Project Canterbury"/><ref name="suzukake2019-p11">[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日 11頁]</ref>。
** 米国[[ピッツバーグ]]のセント・アンドリュー教会から、東京にミッションの図書館を設立するための寄付を受ける<ref name="Project Canterbury"/>。
[[画像:立教大学校校舎.jpg|200px|thumb|立教大学校校舎{{small|(1882年竣工、築地居留地37番、ガーディナー設計)}}]]
[[画像:Clement T. Blanchet.jpg|120px|thumb|クレメント T. ブランシェ]]
[[画像:HSParkes.jpg|120px|thumb|[[ハリー・パークス]]([[駐日英国大使|駐日英国公使]])]]
* 1874年(明治7年)
** 2月3日 - '''ウィリアムズが東京・[[築地]]の[[外国人居留地]]に私塾を開設'''{{Refnest|group="注釈"#tag:ref|築地の私塾は1874年2月3日に、築地の外国人居留地界隈にあった詩人[[ヘンリー・ロングフェロー]]の子息C・A・ロングフェロー(Charles A. Longfellow)の居宅を借用して塾を開設した<ref name="college"/><ref>立教学院創立150周年記念サイト [https://150th.rikkyo.ac.jp/history/tsukiji_story/ 『築地ストーリー』]</ref>年末までに立教学校と命名された。その開校地は、築地居留地19番(後の明石町19番地で、トイスラー記念館が建てられた場所)であったとする旧説(近年では川崎晴朗も主張)があるほか、[[鈴木範久]](立教大学名誉教授)は、[[和田秀豊]]に1874年9月14日に堅信礼が施された教室(32番の向かい)(「ウイリアムス文書」)があった新栄町5丁目9番あたり、あるいは和田が語る「今の入舟町の洗熊の近所」(『基督教週報』5巻3号)の可能性を認めている。後者は移転後かもしれず、いずれにせよ特定はされていない<ref name="college"/>。<br />またその他の説として、この建物は、昭和14年と15年に出版された『立教大学一覧』によると、築地居留地70番館とあるが、築地居留地は後から造成された土地を含め60番地までの地図しか確認できていない点も踏まえて、正確な場所は判明していない<ref name="rikkyo-ichiran-1939">国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1278546/1/9 『立教大学一覧』] 昭和14年度</ref><ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1277335/1/9 『立教大学一覧』] 昭和15年度</ref>。昭和8年3月版の『立教大学一覧』では、築地居留地70番は、現明石町17番地との記載もある<ref name="rikkyo-ichiran-1933">国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1280808/1/10 『立教大学一覧』] 昭和8年3月版 昭和8年3月</ref>。この明石町17番地は、旧築地居留地17番地であり、1877年(明治10年)に隣接する築地居留地6番地の旧長老教会六番神学校の校舎で開設された[[東京一致神学校]](現・[[学校法人明治学院|明治学院]])が、1879年(明治12年)秋に、移転して赤レンガの新校舎を開設した場所である<ref>明治学院歴史資料館/明治学院歴史資料館デジタルアーカイブス [https://adeac.jp/meijigakuin-sch-arch/catalog/mp02008960-200020 『東京一致神学校(築地居留地17番)』]</ref>。|group="注釈"|name="rikkyo-1874"}}<ref group="注釈" name="rikkyo-1874-02"/>{{Refnest|group="注釈"|立教学校卒業生の[[河島敬蔵]]の経歴書によると、ウィリアムズとともに[[エドワード・サイル]]も立教学校の設立に関与していたと思われる。河島は、1873年(明治6年)3月から大阪の聖テモテ学校(後の大阪・英和学舎)で学んだ後、立教学校が設立された翌年の1875年(明治8年)2月から立教学校で学び、後に大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で教授を務めた<ref name="kawashima">[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Keizo_Kawashima_personal_history.jpg 河島敬蔵 履歴書 1885年9月24日]</ref>。}} <ref name="history"/>。<br />年末までに'''立教学校'''と命名する<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/photo/01.html 写真で見る立教学院の歴史 第1章]</ref>。<br />初代校長はクレメント T. ブランシェ{{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズが最初に任命した実際の初代校長は[[ジェームズ・ガーディナー]]である。ブランシェ(初代立教学校長)やクインビー(立教学校長)は、統括者ウィリアムズが不在時の主任者として位置づけられる<ref>{{PDFlink|[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/qo9edr000000mjcr-att/04b.pdf 立教学院歴代首脳者 旧制大学・大学・工業理科専門学校]}}</ref>。ブランシェ、クーパー、ニューマンの諸氏が主として教授を務めた<ref name="rikkyo-ichiran-1939"/>。}}<ref>『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』2頁</ref>。
** 4月 - CMSの宣教師[[ジョン・パイパー]]、[[フィリップ・ファイソン]]が来日し東京に入る<ref name="natori-2004"/>。
** 4月末または5月初め - [[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ公使館]]が築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の[[聖路加ガーデン]]の場所)に開設<ref group="注釈" name="friendship"/>。
** 12月 - 東京の塾は築地入舟町5丁目1番地(内外人雑居地)に移転<ref name="history"/>。
** ジェームズ・クインビーがモリスの後任として大阪の聖テモテ学校の校長となる<ref name="rikkyogakuin">学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 [https://www.andrew.ac.jp/nenshi/rikkyogakuin.htm 『立教学院』]</ref>。
** [[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会福音宣布協会]](SPG)の[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]が[[福澤諭吉|福沢諭吉]]家の家庭教師になり、[[慶應義塾]]の英語教師となる。
** ウィリアムズ、この年に初代日本伝道専任主教となる<ref name="history"/>。
* 1875年(明治8年)
** 1月 - エレン・ガードルード・エディ(1874年11月、大阪に着任)が手伝っていた聖テモテ学校の女子生徒を引き取り{{Refnest|group="注釈"|先に来日(1872年)して指導していたJ.H. クインビー夫人の生徒3名を引き受けた。}}、大阪でエディの学校を開校<ref name="history2"/><ref name="history5">[https://www.andrew.ac.jp/nenshi/osaka_kawaguchi_concession_hyoshi.htm 学校法人桃山学院・桃山学院史料室『大阪川口居留地・雑居地跡』]</ref><ref name="history6"/>。
** 6月14日 - [[島田弟丸]]とライトが後に麹町区となる第三大区三小区中六番町40番地に英語と洋算の私塾「乙亥学社」(SPGの日本で最初の英学塾)を創設。
** 7月11日 - 日本人のための[[聖公会]]最初の教会「長崎出島教会」が設立。[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ヘンダーソン・バーンサイド]]が設立に尽力<ref name="kimura1967">{{Cite journal|和書 |author=木村信一 |title=C・M・Sの日本開教伝道 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学経済学部 |date=1967-05-30 |issue=3 |pages=29-62 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00002102/}}</ref><ref name="cms">{{Cite journal|和書 |author=木村信一 |title=C・M・S・の日本初期伝道 : 忘れられた宣教師モンドレルの教育事業 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学経済学部 |date=1969-02-15 |issue=5 |pages=153-175 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00002144/}}</ref>。
** 7月11日 - 日本人のための[[聖公会]]最初の教会「長崎出島教会」が設立。[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ヘンダーソン・バーンサイド]]が設立に尽力<ref name="kimura1967">{{Cite journal|和書 |author=木村信一 |date=1967-05-30 |title=C・M・Sの日本開教伝道 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学経済学部 |issue=3 |pages=29-62 |url=https://stars.repo.nii.ac.jp/records/2145}}</ref><ref name="cms">{{Cite journal|和書 |author=木村信一 |date=1969-02-15 |title=C・M・S・の日本初期伝道 : 忘れられた宣教師モンドレルの教育事業 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学経済学部 |issue=5 |pages=153-175 |url=https://stars.repo.nii.ac.jp/records/2187}}</ref>。
** 9月 - エディの学校が照暗女学校(のちの[[学校法人平安女学院|平安女学院]])と改称{{Refnest|group="注釈"|この改称と同時に学校の場所を川口居留地14番に移したと考えられる。照暗女学院は、1879年6月には川口居留地6番の元オーサカホテルを購入し移転<ref name="history5"/><ref name="history6"/>。}}{{Refnest|group="注釈"|日本で初めて制服にセーラー服を採用した学校は諸説あるが、[[学校法人平安女学院|平安女学院]]は、その内の一つである。}}{{Refnest|group="注釈"|明治8年、照暗女学校のミス・エディの記録では、生徒に讃美歌を歌わせているとき、日本の子供たちはオルガンのどこから音が出るのか不思議がっていたという<ref>『オルガンの文化史』赤井励 著 青弓社 22頁</ref>。}}。
** 12月 - [[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ公使館]]が築地居留地(現在の[[聖路加ガーデン]]の場所)で新築し形容を整えた<ref group="注釈" name="friendship"/>。
415 ⟶ 427行目:
** 6月 - 大阪の聖テモテ学校が廃校となる<ref name="rikkyogakuin"/>。
** 11月29日 - 東京市街地の大火により立教学校は校舎など焼失。立教学校はこの後2年間余り休眠状態となる<ref name="history"/>。
[[画像:Kinsaku-Yokoyama-Isaac-1877.jpg|120px|thumb|[[横山錦柵]]<small>(日本人初のプロテスタント聖職者、米国聖公会伝道協会の[[新島襄]]。)</small>]]
* 1877年(明治10年)
** 1月15日 - 中島彬夫が大阪・北浜五丁目風雲館に英学私塾「'''[[風雲館]]'''」を開く<ref group="注釈" name="katahama-fuuunkan"/><ref name="koubun1877-1881">大阪市立図書館 明治前期大阪編年史綱文データベース [https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1823 『2.1877(明治10)年から1881(明治14)年』]</ref>。
** 2月3日 - 風雲館において第六回目の演説会が開かれ、浦谷義春の「自由論」をめぐってその後論争となる<ref name="koubun1877-1881"/>。
** [[横山錦柵]]がヴァージニア神学校を卒業し、同校出身の初の[[アジア人]]となり、米国聖公会の執事按手を受け日本人初のプロテスタント及び聖公会初の日本人聖職者となる<ref name="vts">VIRGINIA THEOLOGICAL SEMINARY [https://vts.edu/timeline/ 『Explore Our 200 Years of History』] 1870s</ref>。
** 6月 - ウィリアムズとクレメント T. ブランシェにより湯島に立教女学校(現:[[学校法人立教女学院|立教女学院]])が設立される{{Refnest|group="注釈"|立教女学校は、1877年(明治10年)6月に、湯島天神町(現在の文京区湯島二・三丁目)にあったブランシェ夫妻の仮住居で始められた生徒わずか6名の私塾として開始。初代校長はブランシェ(ブランシェ夫人だと思われる)。米国聖公会から派遣され、来日したばかりの宣教師ミス・[[フローレンス・ピットマン]]がブランシェの働きを支え、生徒数は15名となり、2代目校長を務める。学校創設当初、設置場所が居留地外であったので、外国人教師は校主、[[若山儀一]]に雇用されるという形をとっていた。<br />立教女学校は翌1878年(明治11年)には神田川を渡った神田駿河台東紅梅町(現:[[神田淡路町]])のブランシェ夫妻の新居に移る。ピットマンも同居した。<br />さらに生徒数が21名に増えたことから、1879年(明治12年)12月に隅田川に近い築地(京橋南小田原町「現:中央区築地7丁目」)へ移っている。<br />1882年(明治15年)には、ピットマンは立教学校の校長として築地の校舎などを設計したガーディナーと結婚。同年6月には、ガーディナー夫妻が住む築地居留地26番の住居の2部屋が女学校の教室として使用された。1884年(明治17年)にはガーディナーの設計で、築地居留地内26番に念願の新校舎を建設。校舎は洋風三階建ての美しい建物で、居留地内でも評判の建物であったといわれている。}}<ref>[https://home.hiroshima-u.ac.jp/komiyama/gen-dai-kyou-ken/NL/gen-dai-kyou-ken-nl_42.pdf 『月刊ニューズレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』第42号2018年6月15日]</ref><ref>[http://www.cc.aoyama.ac.jp/~soperprog/pdf/RikkyoJogakuin.pdf 青山学院大学ソーパー・プログラム 「創立の礎」 立教女学院]</ref><ref>『立教女学院90年史資料集』</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=手塚竜麿 |title=築地居留地と東京の英学 |journal=日本英学史研究会研究報告 |publisher=日本英学史学会 |issn=1883-9274 |year=1964 |volume=1964 |issue=5 |pages=1-10 |url=https://doi.org/10.5024/jeiken1964.1964.5_1}}</ref>。
** 9月 - [[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ハーバート・モーンドレル]]が長崎東山手居留地に長崎神学校(日本最古のプロテスタントの神学校)を開設<ref name="cms"/>。翌月ウィリアムズが開設した三一神学校とともに[[聖公会神学院]]の起源。)
** 10月 - ウィリアムズ、入船町の邸内に三一神学校を開設<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=629頁</ref>}}。校長に就任<ref name="history2"/>。
** 11月 - 米国聖公会宣教師[[フローレンス・ピットマン]]が来日し<ref name="Project Canterbury"/>、立教女学校の2代目校長を務める。
[[画像:Theodosius Stevens Tyng.jpg|120px|thumb|[[テオドシウス・ティング]]]]
* 1878年(明治11年)
** 2月12日 - 風雲館が天満若松町七番地に移転し、夜学を開始する<ref name="koubun1877-1881"/>。
** 5月5日 - [[ジョン・パイパー]]が築地居留地52番に「'''聖保羅教会'''(セントポール教会)」を創設し、献堂式が開催。総勢220名による盛大な祝会となり、[[香港]]から迎えた{{仮リンク|ジョン・バードン|en|John Burdon (bishop)}}主教の説教があり、駐日英国公使[[ハリー・パークス]]や、米国全権公使夫妻も来場<ref name="natori-2004"/>。
** 10月 - 風雲館で夜学を再開<ref name="koubun1877-1881"/>。
** 11月1日 - 大阪から上京した宣教師ジェームズ・クインビーによって東京の私塾、立教学校が京橋区新栄町5丁目で再開<ref name="history"/><ref name="ndl-1280808"/>。[[横山錦柵]]が教授に就任<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、89頁</ref>。
** 11月2425日 - [[テオドシウス・ティング]]が大阪東京に来日<ref name="rikkyo150_pdf1_07">{{PDFlink|[https://chronicle.rikkyo.ac.jp/150/pdf1/07.pdf 『第一節 長崎通詞への英語教育と大阪の英和学舎』]}} 立教学院百五十年史(第1巻),第二章</ref><ref>[https://www.andrew.ac.jp/library/search/geatcs000000165q.html 『CMSの日本伝道史関係論文・資料一覧』桃山学院資料室 西口忠 (2003年10月18日)]</ref>。
** 12月13日 - ティングが大阪に到着し、モリスに迎えられる。
[[画像:Former Dejima Protestant Seminary and Headquarters of the Eighteenth Bank.JPG|200px|thumb|<small>今も長崎出島和蘭商館跡に現存する旧出島神学校(旧出島英和学校、旧長崎神学校)(左)と十八銀行本店ビル(右)/大阪にあった英和学舎の校舎と同じく青色で塗られている。</small>]]
[[画像:St Johns College Shanghai.jpg|200px|thumb|[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](上海)<br /><small>中国初の高等教育機関とされ、「東方のハーバード大学」と呼ばれた。</small>]]
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** 2月3日 - モーンドレルが長崎出島教会に隣接する出島10番・11番に「出島・英和学校」(小学科、英語塾、裁縫塾)を開く<ref name="cms"/><ref>[http://www.being-nagasaki.jp/ab%20miura.html 長崎パブテスト教会 長崎聖三一教会原爆被害報告書 一、教会の沿革]</ref>。 [[イライザ・グッドオール]]が校長兼教師。英語・裁縫を教える<ref name="cms"/>。
** 6月4日 - SPGのショーと[[ウィリアム・ライト (宣教師)|W.B.ライト]]が東京・芝栄町12番地に[[聖公会神学院|聖教社]]を設立(1883年休業)。
** 6月27日 - 立教学校を京橋区築地1丁目23番地の福澤英吉が経営する学校が廃校するの際して校舎を購入し、6月に立教学校を移転し、本格的に再興する<ref name="ndl-1280808"/><ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1278546/1/10 『立教大学一覧』昭和14年度 ] 2頁,昭和14年</ref>。[[貫元介]]名義で「立教学校」として私学開業願を提出<ref name="history2"/><ref name="history"/>。
** 9月1日 - 風雲館が大阪・北浜三丁目に分塾を設け、女学専門の課を教授する<ref name="koubun1877-1881"/>。
** 10月16日 - ティングが大阪で廃校になった聖テモテ学校の再開に力を注ぎ、新たに大阪北区上福島村668番地に'''[[英和学舎]]'''として開校<ref name="history5"/>。但し、入学希望者が多く、英語初心者に限っては翌月初旬までに来学するよう伝えられる<ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。[[聖バルナバ病院]]創設者の[[ヘンリー・ラニング]]も学校の創設に携わり<ref>講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 [https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0-1120535 『ラニング』 ]‐ [[コトバンク]]</ref>、同校で教える<ref name="rikkyonews089"/>。学校は4年制とし、生徒数の増加に伴い経費が増すことから、無料であった授業料を月30銭徴収するようになる<ref name="rikkyonews089"/>。
** 11月 - 英和学舎が江戸掘北通1丁目4番地旧三田藩邸に移転<ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。
** 12月 - ジョン・パイパーが聖保羅教会の隣に「明教学校」を創設<ref name="natori-2004"/>。
** 12月 - 東京で再び火事があり、立教学校の校舎は無事だったものの、ウィリアムズの家が焼失<ref name="history2"/>。
** ウィリアムズの後任の米国聖公会中国・上海主教の{{仮リンク|ジョーゼフ・スケレシュースキー|en|Samuel Isaac Joseph Schereschewsky}}が、[[上海市|上海]]に聖ヨハネ書院(後の[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]])を設立。
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[[画像:James McDonald Gardiner.jpg|130px|thumb|[[ジェームズ・ガーディナー]]]]
* 1880年(明治13年)
** 1月 - 大阪・英和学舎が'''風雲館'''{{#tag:ref|{{Anchors|風雲館}}1877年(明治10年)1月15日に大阪・北浜五丁目で中島彬夫により創設された英学私塾の[[風雲館]]は立教大学の源流の一つと考えられる。当時、風雲館では演説会がよく開催され、論議も盛んであった。1878年(明治11年)2月12日に、天満若松町七番地に移転された際には夜学も開校し、さらに1879年(明治12年)9月1日には北浜三丁目に分塾を設け、女子専門課を置いた。1880年(明治13年)1月に大阪・英和学舎と合併して閉校するが、1881年(明治14年)3月には、大阪上等裁判所を辞した中島氏彬によって風雲館は再興された<ref name="koubun1877-1881"/>。<br />日本英文学会の会長を務め、同志社でも教鞭を執った[[清水泰次郎]]の経歴によると、1877年(明治10年)11月より1878年(明治11年)9月まで、「大阪の北浜風雲館にて独逸学・漢学を修めた」とあり、風雲館は、当時大阪・北浜にあり、独逸学・漢学も教えていた。清水は1878年(明治11年)11月より1879年(明治12年)3月までは、風雲館の館主・中島彬夫の請求に応じ英学部の教頭を務めており、風雲館には英学部も設置されている。1881年(明治14年)7月より1883年(明治16年)12月までは、大阪川口の英和学舎で論理心理学を講授しており、英和学舎では論理心理学も教えていた。出典資料の付記によると、「明治十年以降、大阪に於て北浜風雲館英語部教頭、英和学会教頭、ヘール氏塾(ウィルミナ女学校、現:[[大阪女学院中学校・高等学校|大阪女学院]])主任、照暗女学校(平安女学院前身)教頭を歴任し、なお関西英学校、開成学館、専修学校の教頭を兼ね、私立日本英文学会を創立しその会長となる。」とあり、清水は風雲館だけでなく、英和学舎でも教頭を務めており、立教創成期での関わりが大きい。また、清水は英国留学で休職する[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]](現:[[熊本大学]])教授であった夏目漱石の後任として第五高等学校で教授を務めた<ref>{{Cite journal|和書 |author=本井康博 |title=清水泰次郎について : 同志社、浪華女学校時代を中心に |journal=英学史研究 |issn=0386-9490 |publisher=日本英学史学会 |year=1987 |volume=1988 |issue=20 |pages=123-135 |naid=130003624821 |doi=10.5024/jeigakushi.1988.123 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1988.123}}</ref>。|group="注釈"|name="katahama-fuuunkan"}}と合併<ref name="history5"/>。新たに夜学課を設置<ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。
** 1月 - 東京・芝栄町13番地に[[聖公会神学院|聖教社]]分校女学校を設立(1883年閉校)。
** 2月 - ウィリアムズ、第五回築地[[外国人居留地]]の区画競貸(せりがし)で私財を投じ、[[外国人居留地#築地居留地|築地居留地]]37番区画(のちの「立教大学校」敷地)、38番区画を購入<ref name="kyoto"/><ref name="tsukiji-land">{{Cite journal|和書 |author=川崎晴朗 |title=築地外国人居留地の「予備地」 : 米国聖公会が入手するまで |journal=史苑 |year=2003 |volume=64 |issue=1 |pages=120-131 |doi=10.14992/00001549 |url=https://doi.org/10.14992/00001549}}</ref>。[[米国聖公会]]から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、この土地にアメリカのカレッジのようなキャンパス施設群を計画<ref name="history2"/>。
** 3月 - [[ジョン・マキム]]が妻とともに来日<ref name="Project Canterbury"/>。大阪、大和地方で活動する。
** 4月 - 大阪・英和学舎が、正教師にモリス、ラニング、ティング、マキム、補教師に谷井正道、中島虎次郎(後の[[奈良基督教会]]伝道師、[[奈良英和学校]]支援者)、漢学に中島彬夫、小笠原字一良、数学に立花義誠という教師陣で運営される<ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。
** 6月 - ショーが福沢諭吉の援助を受け、芝に[[聖アンデレ教会]]を設立。
** 7月 - この頃、立教学校は京橋区築地1丁目22番地に拠点を置いていた<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/779945/1/120 『東京商人録』] 百三十一頁(コマ番号120),横山錦柵 編,大日本商人録社,明13.7</ref>。
** 10月 - ウィリアムズの要請{{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズは度重なる校舎の損失を踏まえ、米国聖公会に、建築家で、文学と化学にも造詣が深い人物の派遣を要請し、[[ジェームズ・ガーディナー]]が人選された<ref name="history2"/>。}}により[[ジェームズ・ガーディナー]]が来日し、立教学校の初代校長に就任<ref name="history"/><ref>『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』4頁</ref>。
** 大阪・英和学舎が'''風雲館'''{{#tag:ref|{{Anchors|風雲館}}1877年(明治10年)1月15日に大阪・北浜五丁目で中島彬夫により創設された英学私塾の風雲館は立教大学の源流の一つと考えられる。当時、風雲館では演説会がよく開催され、論議も盛んであった。1878年(明治11年)2月12日に、天満若松町七番地に移転された際には夜学も開校し、さらに1879年(明治12年)9月1日には北浜三丁目に分塾を設け、女子専門課を置いた。1880年(明治13年)に大阪・英和学舎と合併して閉校するが、1881年(明治14年)3月には、大阪上等裁判所を辞した中島によって風雲館は再興された<ref name="koubun1877-1881"/>。<br />日本英文学会の会長を務め、同志社でも教鞭を執った[[清水泰次郎]]の経歴によると、1877年(明治10年)11月より1878年(明治11年)9月まで、「大阪の北浜風雲館にて独逸学・漢学を修めた」とあり、風雲館は、当時大阪・北浜にあり、独逸学・漢学も教えていた。清水は1878年(明治11年)11月より1879年(明治12年)3月までは、風雲館の館主・中島彬夫の請求に応じ英学部の教頭を務めており、風雲館には英学部も設置されている。1881年(明治14年)7月より1883年(明治16年)12月までは、大阪川口の英和学舎で論理心理学を講授しており、英和学舎では論理心理学も教えていた。出典資料の付記によると、「明治十年以降、大阪に於て北浜風雲館英語部教頭、英和学会教頭、ヘール氏塾(ウィルミナ女学校、現:[[大阪女学院中学校・高等学校|大阪女学院]])主任、照暗女学校(平安女学院前身)教頭を歴任し、なお関西英学校、開成学館、専修学校の教頭を兼ね、私立日本英文学会を創立しその会長となる。」とあり、清水は風雲館だけでなく、英和学舎でも教頭を務めており、立教創成期での関わりが大きい。また、清水は英国留学で休職する[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]](現:[[熊本大学]])教授であった夏目漱石の後任として第五高等学校で教授を務めた<ref>{{Cite journal|和書 |author=本井康博 |title=清水泰次郎について : 同志社、浪華女学校時代を中心に |journal=英学史研究 |issn=0386-9490 |publisher=日本英学史学会 |year=1987 |volume=1988 |issue=20 |pages=123-135 |naid=130003624821 |doi=10.5024/jeigakushi.1988.123 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1988.123}}</ref>。|group="注釈"|name="katahama-fuuunkan"}}と合併して江戸堀北通に移転<ref name="history5"/>。
* 1881年(明治14年)
** 1月 - 大阪・英和学舎で学則改正と学課増設が行われる<ref name="rikkyo150_pdf1_07"/>。
** 3月 - 中島氏彬が大阪上等裁判所を辞し、前年に大阪・英和学舎と合併して閉校した風雲館を再興する<ref name="koubun1877-1881"/>。
** 8月 - 大阪・英和学舎の新校舎を川口居留地21番に新築<ref name="history5"/>。
** 10月 - 大阪・英和学舎が新校舎に移転し開校<ref name="history5"/>。
** 10月 - 大阪・英和学舎{{Refnest|group="注釈"|英和学舎は天文学、生理学、論理学、歴史学、[[本草学]](医薬に関する学問)など高度な学問を教授し、のちに立教大学の初代学長となる[[元田作之進]]、日本聖公会大阪教区主教となった名出保太郎、南海鉄道の社長を務めた[[大塚惟明]]などの人材を輩出した<ref name="history5"/>。}}が新校舎に移転し開校<ref name="history5"/>。
** 在日米国聖公会宣教師会議が東京で開かれ、ティングが東京大学の文学コースと並ぶ学習課程を持つ米国式のカレッジを日本に創設することを訴え、カレッジ(立教大学校)の設立が決定<ref name="ogawa_2015"/>。
* 1882年(明治15年)
** 2月 - 築地居留地25番、26番、39番、40番を購入<ref name="tsukiji-land"/>。
** 5月 - 大阪で英和学舎の付属礼拝堂として聖テモテ教会を川口居留地21番に設置(現:[[川口基督教会]])<ref name="history5"/>。設計はガーディナーで、工事管理にティングが加わり設計・建築技術を学ぶ<ref name="iga-2023">{{Cite journal|和書 |author=伊賀 正隼 |title=大阪・川口居留地における都市空間の機能転換 |journal=大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻修士論文梗概集 |publisher=大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻 |year=2023-04 |volume=2022 |pages=1-6 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111G0000009-2022-21-002 }}</ref>。
** 6月 - 立教学校の英称を「St. Paul's School」とする<ref name="history2"/><ref name="rikkyo100_151"/>。
** 10月 - ウィリアムズの教え子の[[大隈重信]]が[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](のちの[[早稲田大学]])を設立。
** 12月 - [[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]校長の設計による新校舎(立教大学校)が東京・築地居留地37番に完成。ゴシック風の3階建煉瓦校舎<ref name="history"/>。
** 主教館が竣工(築地居留地38番)。
* 1883年(明治16年)
** 1月 - '''立教大学校(St. Paul's College, 6年制)設立<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/>。後の[[帝国大学令]]と[[大学令]]に先駆け[[教育令]]により認可され<ref name="laws_1880"/>、明治政府により[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]第一号として認可<ref name="trinity-tokyo"/>。'''[[アメリカ合衆国]]式のカレッジで、[[東京大学]]とともに日本最高峰の教育機関。カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった('''第1次学政改革''')<ref name="college"/>。校長にはガーディナーが就任<ref name="history"/>。教頭には[[貫元介]]が就任<ref name="kanoya7">{{Cite journal|和書 |author=平沢信康 |date=1997-09 |title=近代日本の教育とキリスト教(7) |journal=学術研究紀要 |publisher=鹿屋体育大学 |year=1997-09 |volume=18 |pages=31-42 |url=httphttps://idnifs-k.repo.nii.ac.jp/1609/00000291records/297 }}</ref>。大学校内に三一神学校を併置<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=630頁</ref>}}。大学校の傍らに築地1丁目の旧校舎も移されて舎監兼食堂となる<ref name="kanoya7"/>。大学校設立にともない立教学校は閉校<ref name="history2"/>。
** 6月 - [[エマ・フルベッキ]](グイド・フルベッキの次女)が立教大学校で英語(訳読)と音楽を教え始める<ref name="kanoya7"/>。
** 大阪・英和学舎で、徽章、制帽、制服が規定される{{#tag:ref|英和学舎の徽章は、桜を形どった模様に英の字が入った金色のもの、制帽は昔の海軍帽に似て、立教大学新聞記載の1930年(昭和5年)当時では慶應生の帽子に似たもの、制服は、黒色で金ボタンがついたものであった。それらを身に纏い、得意の英語を誇る学生たちは直輸入の洋書を手にして、大阪・川口居留地にそびえ立つ青色に塗られた木造洋館の2階校舎を中心に、当時の[[自由民権運動|自由民権論]]を盛んに論じて、肩で風を切る素振りで賑やかであった<ref name="rikkyonews089"/>。|group="注釈"|name="oosaka-eiwa"}}。英和学舎の月謝が50銭に値上げされる{{#tag:ref|月30銭であった授業料が、この年に月50銭に値上げされたが、その他費用は一銭も不用で50銭玉1個で、当時として米国人が経営する一流の学校に通うことができた<ref name="rikkyonews089"/>。|group="注釈"}}。
466 ⟶ 487行目:
[[画像:Arthur Lloyd (1852-1911).jpg|130px|thumb|アーサー・ロイド]]
* 1884年(明治17年)
** [[アーサー・ロイド]]が来日し、[[福澤諭吉]]の家で家庭教師をし、1885年より[[慶應義塾]]で教鞭を執る。また、慶應義塾の敷地内に喜望教会を創設{{Refnest|group="注釈"|[[ケンブリッジ大学]]を優秀な成績で卒業したロイドは、学士、文学修士を取得、15か国語に通じていたといわれ、来日わずか7か月目には早くも日本語で説教を行っている。福澤諭吉から慶應義塾の教員の中で唯一真の学者と当初から認められていたロイドは、慶應義塾で11年にわたり(1885年-1890年、1893年-1898年、1904年)教鞭を執った<ref>[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/arthurlloyd/explain/explain_01.html アーサー・ロイドについて(立教大学)]</ref>。<br />慶應義塾で教えるかたわら、福沢諭吉はロイドに三田キャンパス内の西洋館を与えるなど厚遇し、ロイドは慶應義塾の敷地内に喜望教会を創設した。福沢諭吉と聖公会の関わりは、[[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会福音宣布教会]] (SPG) の宣教師[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]との関わりからあり、福沢の三女と四女と孫の清岡暎一(慶應義塾大学名誉教授)は日本聖公会の信徒となっている<ref>「福沢諭吉と宣教師たち」 白井堯子著(未來社・1999年)</ref><ref>「慶應義塾史事典」 慶應義塾史事典編集委員会編(慶應義塾・2008年)</ref>。}}{{#tag:ref|1912年(大正元年)11月2日に、喜望教会は、聖ステパノ教会と聖十字教会を合わせた3つの教会で合同して芝・[[白金三光町]]の地で三光教会となった。三光教会は、1940年(昭和15年)に現在の[[品川区]][[旗の台]]に移転し、翌1941年(昭和16年)には、隣接して[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校]]が移転している<ref>日本聖公会東京教区 三光教会 [https://www.nskk.org/tokyo/church/sanko/stephen/ 『三光教会とは』]</ref>。|group="注釈"}}。
** [[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]の設計による立教女学校の新校舎が築地居留地26番に完成<ref name="history2"/>。
** ガーディナー夫妻が米国へ一時帰国。
476 ⟶ 497行目:
[[画像:2013 Christmas Nara Episcopal Church.jpg|130px|thumb|現在の[[奈良基督教会]](1930年竣工)]]
* 1886年(明治19年)
** 3月 - 大阪・英和学舎で学生運動による騒動が起り、生徒の多くが共同学館へ転校し、一時閉校となった{{#tag:ref|1886年(明治19年)3月に、日曜以外に土曜日も休みである事が学生の間で論議され、その結果、学校に対して2つの要求が出された。1つは官立学校と比べて勉強が1週に1日ずつ遅れ、これが到底我慢できないこと、2つは治外法権等をたてに取って、何となく外国人が生徒を軽視していることが甚だ、けしからんこと、この2つの理由が徐々に熱を帯びて、同年の始めに[[小林彦五郎]](後の立教女学校校長)、[[元田作之進]](後の立教大学初代学長)が急先鋒となり、総退学の決意で[[テオドシウス・ティング]]校長に要求を突きつけ、改善を求めた。しかし、要求は得るところがなく、明治政府成立以来の学校騒動が持ち上がり、学生50有余名のうち38名が、自由党志士が経営する共同学館へ転校し、英和学舎は一時閉校せざるを得ない状況となった。こうしたこともあって、翌年の1887年(明治20年)に築地の立教大学校と合併する事となり、第3期東京時代が改めてスタートを切っていくこととなった<ref name="rikkyonews089"/>。<br />英和学舎の閉校については諸説あり、上記以外の理由として、1887年(明治20年)2月に、[[日本聖公会]]が成立し、英米ミッションの教会と学校は整理されることとなったこと<ref name="rikkyogakuin"/>、また、英和学舎の次期校長に就任予定であったジョン・H・モリニュー(John H. Molineux)が夫人が病のために医師から帰国を命じられたことに加え、次に英和学舎を管理できる者がいなかったことから、学校を廃止することが判断されたという理由もある<ref name="kagawa"/><ref name="Project Canterbury"/>。|group="注釈"}}。
* 1887年(明治20年)
** 2月 - ウィリアムズと[[英国聖公会]]の[[エドワード・ビカステス]]の尽力により、日本における英国国教会(イングランド国教会)と米国聖公会が合同し、[[日本聖公会]]設立。
** 2月27日 - 大阪・英和学舎が閉校<ref name="history5"/><ref>大阪市立図書館 明治前期大阪編年史綱文データベース [https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1823 『4.1887(明治20)年から1889(明治22)年』]</ref><ref name="history5"/>。
** 3月 - 閉校した'''大阪・英和学舎が東京の立教大学校と合併<ref>'''{{sfn|『立教学院百年史』|p=187-188頁</ref>}}<ref name="history5"/>。
** 6月 - [[ジョン・マキム]]と日本人信徒らによって[[奈良基督教会]]が完成。
** 9月 - [[前島密]]が東京専門学校の校長に就任。
487 ⟶ 508行目:
** 3月 - 立教大学校、[[明治学院大学|明治学院]]、[[東京英和学校]]、[[東洋英和学校]]の4校で同盟文学会結成。
** 4月 - ビカステスにより、[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校]]が開校。
** 6月29日 - ウィリアムズが築地居留地の予備地を求めて、[[駐日アメリカ合衆国大使|米国公使]]のハバードに書簡を送り、土地を競売に付すよう日本側に求めるよう要請{{Refnest|group="注釈"|name="tsukiji-land2"|[[大隈重信]]は、立教築地キャンパスの形成に大きく貢献をした。築地居留地は、「狭義の居留地」と「相対借り地域」に分けられるが、1884年までに狭義の居留地に造成された計52の地所は外国人の手で全てせり落とされていた。米国聖公会はスタッフが増加し、居留地に建設した建物に収容できなくなったことと、さらなるキャンパスの拡張を行うため、敷地の拡充が必要となっていた。1888年6月29日にウィリアムズは、築地居留地の予備地の購入を求め、米国公使のハバードに要請した。要請を受けたハバードは、1888年7月3日、大隈重信外相に書簡249号を送り、ウィリアムズの書簡のコピーを付して、大隈の長崎時代の恩師であるウィリアムズの要請を伝達した。当時[[駐日アメリカ合衆国大使館|米国公使館]]は、ウィリアムズが住む築地居留地にあったので、ウィリアムズとハバードは事前に何回か会って打ち合わせを行ったと思われる。<br />大隈は、1888年7月17日にハバード宛に予備地を築地居留地の拡張部分として日本の行政権から切り離す用意があると回答し、ただちに[[山縣有朋|山県有朋]]内相、東京府の高崎知事にその内容を通知した。1888年11月2日には、大隈は山県に書簡を送り、おそくとも同年12月15日までに予備地を居留地に充用するために競売に付するべく準備するよう訓令することを求めた。1888年11月28日には訓令が出され、住人には移転料が支払われたが、ある住人は1889年4月までの立ち退き延期が認められた。この年の4月1日、高崎知事は、1889年5月16日に造成する53番から56番までの4つの地所を競売に付したい旨、上申した。同年5月16日に予定通り競売が行われ、4つの地所をいずれもウィリアムズが競り落とした。こうして大隈の尽力により米国聖公会は、キャンパス拡張用地として住宅用1つ、病院用2つ、神学校用1つの土地を既にある居留地の拠点に隣接して、入手するに至ったのである<ref name="tsukiji-land"/>。}}。
** 7月 - 外相であった[[大隈重信]]がハバード米国公使からの要請を受け、長崎時代の恩師であるウィリアムズの土地取得のために尽力<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。
[[画像:Holy Trinity Cathedral, Tsukiji.jpg|200px|thumb|聖三一大聖堂{{small|(1889年竣工、ガーディナー設計)}}]]
* 1889年(明治22年)
** 3月11日 - [[大日本帝国憲法]]発布祝賀夜会が[[渋沢栄一]]らを発起人として[[鹿鳴館]]で開催され、内外名士1200名が参集し、ウィリアムズが[[プロテスタント]]の長として招待され、ガーディナー夫妻も招待される<ref>デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 [https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK280100k_text 『〔参考〕明治二十二年三月十一日夜会ニ於テ招待シタル外国人名前書』] 第28巻,p.615-622</ref>。
** 4月20日 - マーサ・アルドリッチにより姉妹校の[[静修女学校]]が開校。
** 5月16日 - ウィリアムズが[[大隈重信]]が尽力して予備地を造成するに至った築地居留地53番、54番、55番、56番を競売により取得<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。
496 ⟶ 518行目:
** 10月8日 - ウィリアムズ、米国聖公会日本伝道主教を辞任する(60歳)<ref name="kyoto"/>{{Refnest|group="注釈"|ウィリアムズ主教は辞表を提出し、主教団は十分な審議の後、彼の長年の奉仕に感謝の意を表し、10月8日に辞表を受理した。この情報を日本で受け取った常任委員会は、全会一致で、「正当に資格を与えられた後継者がその職務に就くまで、主教としての職務を継続すること」をウィリアムズ主教に要請し、ウィリアムズ主教はこれに同意した<ref name="Project Canterbury" />。}}。
** 12月1日 - 築地居留地39番に[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]設計の築地・聖三一大聖堂(立教教会)が完成する{{Refnest|group="注釈"|name="organ_history"|聖別式には日本人を中心に700人が出席した。音楽を担当したのは、フルベッキの二女[[エマ・フルベッキ]]とミセス・フォールスだった。エマは築地の立教女学院でも音楽を教えていた。大聖堂は、ゴシック様式、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、フランス製のステンドグラスがあり、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)だったという。オルガン部屋はコワイヤー(聖歌隊席)の北側にあって11×12フィートだったと記録されている。ガーディナーは日本音楽協会会員でもあったので、音楽的にも注意が払われていたらしく、その音響効果は立派だったと記録されている<ref>『オルガンの文化史』赤井励 著 青弓社 206頁</ref>。}}。
** この頃、立教大学校で学生による改革運動が起こる{{#tag:ref|[[明治]]後期に[[国粋主義]]が拡がり、[[欧化主義]]への反発が生じると、立教大学校では学則があまりにも外国的で、学校運営が外国人主導で、学生の希望が反映されていないとの改革運動が学生たちから起こった。[[小林彦五郎]]、[[石井亮一]]、[[早川喜四郎]]、[[杉浦貞二郎]]、[[岩佐琢蔵]]、[[阪井徳太郎]]ら在学生らに加え、[[名出保太郎]]、[[杉浦義道]]、[[皆川晁雄]]ら三一神学校の学生もこの運動を支援した。彼らは改革のため、大阪・[[泰西学館]]教頭の[[左乙女豊秋]]を招聘することを決め、杉浦義道が[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]校長と交渉し、石井亮一が大阪で左乙女にこれらを伝えた<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、107頁</ref>。|group="注釈"}}。
[[画像:立教学校生(1890年).jpg|thumb|200px|right|立教学校生(1890年)]]
* 1890年(明治23年)
** 3月 - [[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ公使館]]が築地居留地から[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の現在地([[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ大使館]])へ移転<ref group="注釈" name="friendship"/>。
** 10月 - [[国粋主義]]が広がり始め、[[欧化主義]]への反動的な時代風潮もあり、立教大学校の生徒数が半減。校内にも日本化の機運が高まり、カレッジ構想を一旦断念し、立教大学校は[[左乙女豊秋]]ほか日本人教師を多数採用し、校名を'''立教学校'''に戻す('''第2次学政改革''')<ref name="kyoto"/>。
** 10月30日 - [[教育ニ関スル勅語]](教育勅語)が発布(30日作成、31日官報公表)<ref name="shien-1962"/><ref>文部科学省 学制百年史 資料編 [https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317936.htm 『教育ニ關スル勅語(明治二十三年十月三十日)』]</ref><ref name="shien-1962"/>。
* 1891年(明治24年)
** 6月 - 文部省訓令第4号により、全国の各学校に[[御真影]]礼拝、[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]奉読が強制されるようになり、[[キリスト教主義学校]]への圧力が強まる<ref name="shien-1962"/>。
508 ⟶ 531行目:
** 11月 - 東京・芝栄町13番地に[[聖公会神学院|聖安得烈学院]]を設立(1903年閉校)。
** 築地居留地53番に三一神学校(新校舎)・附属図書館が竣工。築地居留地54番に三一会館が竣工。
** この頃の立教学校(第2次)はセント・ポール英語学校とも呼ばれ、[[杉浦貞二郎]](後の立教大学学長)や、ロイドの斡旋で[[ケンブリッジ大学]]に留学する[[吉田栄右]]が在籍した<ref name="rikkyonews053">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/27(S02)0615_053.pdf 『立教大学新聞 第53号』] 1927年(昭和2年)6月15日</ref>。
[[画像:築地校舎 六角塔.jpg|200px|thumb|築地校舎群と六角塔{{small|(1895、1896年竣工、ガーディナー設計)}}]]
[[画像:Meiji-Mura 3881372647 2c41e47a3d.jpg|170px|thumb|{{small|博物館明治村に移設した京都聖ヨハネ教会堂(1907年竣工)}}]]
* 1893年(明治26年)
** 6月 - [[ジョン・マキム]]、ウィリアムズの後任の米国聖公会日本伝道主教となる<ref name="history"/>。
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* 1894年(明治27年)
** 6月 - [[明治東京地震]]により校舎の一部倒壊<ref name="history"/>。
** 7月 - 「立教学校教育の趣旨」を発表<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=202-206頁</ref>}}
** 9月 - '''補充科'''(1年制)・'''普通科'''(5年制)・'''専修科'''(3年制)を設ける('''第3次学政改革''')。新任教授に[[久米邦武]]、[[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]]、[[松本文三郎]]、[[内村達三郎]]([[内村鑑三]]の弟)、[[松本亦太郎]]らに加え、遅れて[[塩井雨江]]らが就任し、権力に屈せず、[[在野]]的精神、反骨精神に立つ自由な立場において、渦中の人物達が教鞭を執る<ref name="shien-1962">{{Cite journal|和書 |author=海老澤 有道 |title=明治反動期におけるキリスト教教育の一齣 : 立教学校文学会刊『八紘』紹介を兼ねて |journal=史苑 |publisher=立教大学文学部 |year=1962-01 |volume=22 |issue=2 |pages=1-19 |url=https://doi.org/10.14992/00000967 }}</ref>。
* 1895年(明治28年)
** 1月 - [[奈良英和学校]]を奈良尋常中学校と改称し開校。
** 3月 - 立教学校文学会機関誌『八紘』発刊(1897年まで){{Refnest|group="注釈"|雑誌『八紘』は、教授、学生の研究論文や文学的作品を載せたが、この雑誌を通じてキリスト教思想も宣揚された。当時の『早稲田文学』、東京帝国大『芸文』と肩を並べたものであった<ref name="rikkyo_shinbun_205">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/62%28S37%291201_205_1.pdf 立教大学新聞 第205号 1962 年12月1日]}}</ref>。}}<ref>『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』15頁</ref>。
** 12月 - 立教尋常中学校寄宿舎竣工(築地居留地59番、60番)<ref>{{Cite journal|和書|author=菊池重郎 |title=J. M. ガーデナー |journal=日本英学史研究会研究報告 |publisher=日本英学史学会 |year=1966 |volume=1966 |issue=45 |pages=a1-a8 |naid=130004028319 |doi=10.5024/jeiken1964.1966.45_a1 |url=https://doi.org/10.5024/jeiken1964.1966.45_a1|issn = 1883-9274 }}</ref>。
[[画像:Saburo Shimada.jpg|130px|thumb|[[島田三郎]]<small>(早稲田大学創設メンバー、第19代[[衆議院議長]])</small>]]
* 1896年(明治29年)
**立教尋常中学校校舎(六角塔)竣工(築地居留地57番、58番)<ref name="history2"/>。
** 4月 - 立教学校を廃し、'''立教専修学校'''(3年制)と'''立教尋常中学校'''(5年制)を設置('''第4次学政改革''')。同時に創立以来の慣行であった新年度始業を9月から4月に移行<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、113頁</ref>
** 6月13日 - 聖公会の愛恵病院が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設<ref name="tsukuba-ggakuin"/>。
** 7月 - [[札幌農学校]](現・[[北海道大学]])第1期生で[[ウィリアム・スミス・クラーク|クラーク博士]]から指導を受けた[[大島正健]]が私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)の校長に就任<ref>NPO法人地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ [http://www.mmdb.net/usr/digiken/boysbeambitious/page/A0005.html 『大島正健略伝』]</ref>。
* 1897年(明治30年)
** 9月 - '''[[東京英語専修学校]]'''を神田錦町に開校(1903年閉校)。立教学校ミッションを結成(翌年3月から機関誌『築地の園』創刊{{Refnest|group="注釈"|月刊として1931年(昭和6年)5月の300号まで続いた。その時々の立教のキャンパス全体の状況を知る唯一の雑誌として貴重である<ref>『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』</ref>。}})<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=634頁</ref>}}
** 10月 - [[牧師]]の[[左乙女豊秋]]が日本人初の4代目校長として就任<ref name="president">[https://www.rikkyo.ac.jp/about/president/history.html 歴代代表者(総長・学長・校長)] 立教大学</ref>。
* 1898年(明治31年)
** 5月 - 京都市に[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]設計の聖三一大聖堂(現:[[聖アグネス教会]])が完成する([[学校法人平安女学院|平安女学院]]京都キャンパス内に所在)。
** 10月 - [[ジョン・マキム]][[主教]]により献堂式が行われる。
** 11月 - 立教尋常中学校に文武会成立。
[[画像:Saburo Shimada.jpg|130px|thumb|[[島田三郎]]<small>([[早稲田大学]]創設メンバー、第19代[[衆議院議長]])</small>]]
[[画像:The Rt. Rev. Henry St. George Tucker.jpg|130px|thumb|[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー]]]]
[[画像:Motoda Sakunoshin.jpg|130px|thumb|[[元田作之進]]]]
* 1899年(明治32年)
** 1月 - 同年7月の改正条約の発効に先立ち、立教尋常中学校の認可申請を行うが、許可がすんなり得られず、[[島田三郎]][[早稲田大学]]創設メンバーの一人、[[衆議院]]議員、のち第19代[[衆議院議長]])らの尽力で認可を得る<ref name="suzuki_2016">{{Cite journal|和書 |author=鈴木 勇一郎 |title=元田作之進と立教学院 : 立教中学校との関わりを中心に |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2016 |volume=13 |pages=2-25 |url=https://doi.org/10.14992/00015141 }}</ref>。
** 2月 - 中学校令改正にともない、立教尋常中学校を[[立教池袋中学校・高等学校|立教中学校]]と改称。
** 9月 - '''立教学院成立'''。[[アーサー・ロイド]]が総理に就任。'''ロイドはマキムと共に[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]での宗教教育を禁じる[[私立学校令#制定の背景|文部省訓令第12号]]に対処し、学校を存続させる'''<ref name="law">「文部省訓令第12号」は1899年(明治32年)8月3日の発布から、その後も長く存続し続けたが、1945年(昭和20年)10月15日「文部省訓令第8号」(下記)の発布によってようやく無効となった。この発布は[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]連合国軍最高司令官の命によるものと伝えられている。<br /><文部省訓令第8号><br /> 私立学校ニ於テハ自今明治32年文部省訓令第12号ニ拘ラズ法令ニ定メラレタル課程ノ外ニ於テ左記条項ニ依リ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ得
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#右実施ノ為生徒ノ心身ニ著シキ負担ヲ課セザル様留意スベシ</ref>。
** 10月 - [[バージニア大学]]と[[:en:Virginia Theological Seminary|バージニア神学校]]で学んだ[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー]]が来日<ref>『思い出の静かな岸辺を探ねて H.S.タッカー回想録』ヘンリー・セントジョージ・タッカー、松平信久、北條鎮雄 2021年03月 丸善プラネット</ref>。
[[画像:ErnestSatow-face-1903.jpg|130px|thumb|[[アーネスト・サトウ]]<small>([[駐日英国大使|駐日英国公使]]、立教大学の父兄、聖公会信徒)</small>]]
* 1900年(明治33年)2月2日 - [[ジョン・マキム]]の[[米国聖公会]]本部への要請が実り、[[ルドルフ・トイスラー]]が夫妻で来日<ref name="tsukuba-g">{{PDFlink|[https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2018/23KAWASAKI.pdf 聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して― 筑波学院大学紀要第13集 川崎晴朗]}}</ref>。
* 1900年(明治33年)
** 2月2日 - [[ジョン・マキム]]の[[米国聖公会]]本部への要請が実り、[[ルドルフ・トイスラー]]が夫妻で来日<ref name="tsukuba-gakuin">{{PDFlink|[https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2018/23KAWASAKI.pdf 聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して― 筑波学院大学紀要第13集 川崎晴朗]}}</ref>。築地・聖三一大聖堂で{{仮リンク|シドニー・パートリッジ|en|Sidney Catlin Partridge}}の京都監督聖別式を挙行。[[アーネスト・サトウ]]駐日英国公使、{{仮リンク|アルフレッド・バック|en|Alfred Eliab Buck}}駐日米国公使、[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ]][[日本ハリストス正教会|日本正教会]]初代日本大主教らが参集<ref name="r-archives_19000302"/>。
** 7月 - 築地の立教学院おいて、聖公会が設立した米国[[フィラデルフィア]]の[[ペンシルベニア大学]]の入学試験を9日、10日の2日間に渡って実施。この日本での入学試験委員を[[杉浦貞二郎]]が務めた<ref name="archives-19000706"/>。
** [[アーサー・ロイド]]が私費を投じて苦学生の自活のために築地で活版印刷所である『立教学院活版部』(Rikkyo Gakuin Press)を設立<ref name="digitallibrary"/>。
 
==== 20世紀 ====
* 1901年(明治34年)
** 2月2日 - 築地・聖三一大聖堂で英国[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の遥葬式を挙行。[[伊藤博文]]内閣総理大臣を始め閣僚、名士が参列<ref name="r-archives_19010208"/>。
** 2月12日 - 米国聖公会宣教医[[ルドルフ・トイスラー]]が築地病院を前身とする聖路加病院(現:[[聖路加国際病院]])を開設する(築地居留地37番)<ref name="tsukuba-ggakuin"/>。
** 3月 - 立教専修学校閉校。
** 9月26日- 築地・聖三一大聖堂で米国[[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー]]大統領の遥葬式を挙行。[[桂太郎]]内閣総理大臣を始め閣僚、名士が参列<ref name="r-archives_19011004"/>。
* 1902年(明治35年) - [[静修女学校]]の閉鎖にともない、校舎や生徒を[[石井筆子]]の盟友である[[津田梅子]]の『女子英学塾』(現・[[津田塾大学]])に譲渡<ref>滝乃川学園 [https://www.takinogawagakuen.jp/guide/timeline/ 『沿革』]</ref>。
* 1903年(明治36年)
* 1903年(明治36年)4月 - [[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|タッカー]]が総理に就任。[[アーサー・ロイド|ロイド]]が[[小泉八雲]]の後任として、[[東京大学|東京帝国大学]]英文学科で[[夏目漱石]]、[[上田敏]]とともに[[英文学]]を教える。
** 4月 - [[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|タッカー]]が総理に就任。[[アーサー・ロイド|ロイド]]が[[小泉八雲]]の後任として、[[東京大学|東京帝国大学]]英文学科で[[夏目漱石]]、[[上田敏]]とともに[[英文学]]を教える。
* 1904年(明治37年)6月 - 東京三一神学校、[[専門学校令]]により認可される<ref>『立教学院百年史』636頁</ref>。
** 東京英語専修学校が立ち退きを余儀なくされ閉校<ref name="history2"/>。
* 1904年(明治37年)6月 - 東京三一神学校、[[専門学校令]]により認可される{{sfn|『立教学院百年史』|p=636}}。
* 1905年(明治38年) - 米国人医師[[ウィリス・ホイットニー]]の『Notes on the History of Medical Progress in Japan』の単行本を出版{{#tag:ref|この本の元は、ウィリス・ホイットニーが1884年(明治17年)5月21日にアジア協会で演説したものを、翌1885年(明治18年)の会報「Transsaction of the Sciatic Society of Japan」第12号に掲載したもので、その別刷には自署して[[ハインリヒ・フォン・シーボルト]]に進呈するなど日本の医学史に名を残す書である。巻頭には剃髪した[[杉田玄白]]の長衣姿の立像絵が描かれ、日本と西洋の医学進歩の関係、影響を与えた主要な事件、比較表などがあり、英対語の日中医書目録だけでも52頁1594部あげている。1905年(明治38年)に立教学院から、280頁からなる、本書の単行本が出版された<ref>{{Cite journal|和書 |author=白鴎 漁史 |title=本草綱目の版種 |journal=医学図書館 |issn=1884-5622 |publisher=日本医学図書館協会 |year=1961 |volume=8 |issue=5 |pages=101-104 |url=https://doi.org/10.7142/igakutoshokan.8.101 }}</ref><ref>wellcome collection [https://wellcomecollection.org/works/qxkxyvmg 『Notes on the History of Medical Progress in Japan』]</ref>。|group="注釈"|name="Notes1905"}}。
[[画像:Meiji-Mura 3881372647 2c41e47a3d.jpg|130px|thumb|{{small|博物館明治村に移設した京都聖ヨハネ教会堂(1907年竣工)}}]]
* 1906年(明治39年)
** 4月 - 清国人留学生のための私立[[志成学校]]を築地に開設。
** ウィリアムズ、[[博物館明治村#聖ヨハネ教会堂|京都聖ヨハネ教会]]の創立資金を出す。[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]に設計依頼<ref name="story"/>し、翌年教会堂が完成(現在、[[博物館明治村]]に移築展示されている)。
** ウィリアムズ、[[博物館明治村#聖ヨハネ教会堂|京都聖ヨハネ教会]]の創立資金を出す。[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]に設計依頼<ref name="story"/> し、翌年教会堂が完成(現在、[[博物館明治村]]に移築展示されている)。
** [[奈良基督教会]]を母体として女学校の[[奈良育英学校]]が開校。
[[画像:Motoda Sakunoshin.jpg|130px|thumb|[[元田作之進]]]]
* 1907年(明治40年)
** 3月15日 - 志成学校が[[東京府]]に認可される。
** 8月 - '''[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|タッカー]]の尽力により立教大学を設立'''(法令上は専門学校令による[[旧制専門学校]])。
** 9月 - 立教大学が開校。3年制の本科(文科、商科)、1年半制の[[予科]]を設置。[[元田作之進]]が初代学長就任。
 
** 清国人留学生のための私立志成学校を築地に開設。
* 1908年(明治41年)
** 4月 - ウィリアムズがアメリカに帰国。
** 10月 - 立教大学英語会成立。
* 1909年(明治42年) - [[立教大学硬式野球部|野球部]]が公認される<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1909.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>。
[[画像:立教大学校舎 1909.jpg|200px|thumb|立教大学校舎(1909年)]]
[[画像:立教大学商科第1回卒業記念写真(1911年).jpg|200px|thumb|立教大学商科第1回卒業記念写真(1911年)]]
[[画像:立教大学移転前の池袋校地(1916年).jpg|200px|thumb|立教大学移転前の池袋校地<br>(1916年)]]
* 1910年(明治43年)
** 1月 - タッカーが大学移転用地として[[北豊島郡]][[西巣鴨町|巣鴨村]]大字池袋(現:[[豊島区]][[池袋]])の土地1万7千坪を購入<ref>{{Cite journal|和書 |author=鈴木勇一郎 |title=立教のキャンパスとその立地について |journal=立教学院史研究 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2019 |volume=16 |pages=21-46 |doi=10.14992/00018018 |url=https://doi.org/10.14992/00018018}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|実際に買収交渉にあたったのは日本聖公会の会計責任者[[多川幾造]]と東北学院創立者[[押川方義]]であった(『立教学院百五十年史』 第一巻、285頁)。}}
** 12月 - ウィリアムズ永眠。
* 1911年(明治44年)
** 6月 - 東京三一神学校と聖教社神学校が合併し、[[聖公会神学院]]を設立<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=637頁</ref>}}
** 8月 - 財団法人日本聖公会教学財団設立。
* 1912年(大正元年)
** 予科を1年制とする。
** 聖公会神学院の校舎が池袋に竣工。
** 9月 - [[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|チャールズ・ライフスナイダー]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBS.%20%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC-1634526 チャールズ・S. ライフスナイダーとは - コトバンク]</ref> が総理に就任。
* 1914年(大正3年)11月 - ウィリアムズの伝記『老監督ウィリアムス』を[[元田作之進]]が著し、[[早川喜四郎]]宅に置かれた京都地方部故ウィリアムス監督記念実行委員事務所より発行される{{#tag:ref|この書は主に織間小太郎が編纂、吉村大次郎が重要な文書を翻訳して、元田作之進が監修したもので、本書に記載の一部には、有富虎之助が別に著した内容が記されている。有富は翌1915年(大正4年)7月に、『老監督』と題して、日本組合基督教会の機関紙『基督教世界』(紅潮社)に寄稿している<ref name="shien_50_2">{{Cite journal|和書 |author=海老澤 有道 |title=ウィリアムズ伝雑記 |journal=史苑 |publisher=立教大学文学部 |year=1990-05 |volume=50 |issue=2 |pages=1-7 |url=https://doi.org/10.14992/00001273 }}</ref>。|group="注釈"}}。
* 1915年(大正4年)4月 - 大学学友会結成。
* 1916年(大正5年)5月29日 - 池袋キャンパスのチャペルの定礎式が行われ、レンガ校舎群の建築を開始<ref name="closeup20181128">立教大学 CLOSE UP RIKKYO [https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/chapel/2018/mknpps000000nq64.html 池袋キャンパスへの移転 チャペル豆知識 『キリスト教とチャペル』] 2018/11/28</ref>。
* 1917年(大正6年) - [[文部省]]から医学部設立の要請があり、医学部開設の計画を進めるが、欧州での[[第一次世界大戦]]の影響から募金が集まらず、翌年2月12日に計画を断念し設置に至らなかった<ref name="tomoda-tmu-201104"/><ref name="tomoda-tmu-201107"/><ref name="tokyo-med">[https://www.tokyo-med.ac.jp/univ/history.html 東京医科大学 沿革・学祖 高橋琢也 略年表]</ref>。
* 1918年(大正7年)9月 - '''[[北豊島郡]][[西巣鴨町]]の新校地(池袋)に移転'''。本館、図書(現・1号/モリス館)、寄宿舎(現2号館、3号館)、食堂(現・第一食堂)が竣工し、授業を開始<ref name="closeup20181128"/>。
[[画像:立教大学の落成式(『東京朝日新聞』 1919年6月1日付5面).jpg|230px|thumb|[[大隈重信]]が演説を行った池袋校舎落成式『東京朝日新聞』(1919年6月1日付5面)]]
[[画像:立教大学バスケットボール部(1922年).jpg|200px|thumb|立教大学バスケットボール部(1922年)]]
* 1919年(大正8年)
** 4月 - 「立教大学設立の趣意書」を発表<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=289-292頁</ref>}}
** 5月 - 図書館(現・メーザーライブラリー記念館)竣工<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、295頁</ref>。
** 5月31日 - '''池袋校舎落成式を挙行'''、来賓として[[大隈重信]]出席。大隈の追懐談を交えた演説は、大学創設者[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]と結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く大演説であった。来賓は1500名を数え、会場正面には大型の日米国旗を交差し、場内装飾に善美を盡した中で行われた<ref name="tokyo-asahi19190601">[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%88%90%E5%BC%8F%EF%BC%88%E3%80%8E%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%8F_1919%E5%B9%B46%E6%9C%881%E6%97%A5%E4%BB%985%E9%9D%A2%EF%BC%89.jpg 『東京朝日新聞』1919年6月1日]</ref>。大隈の演説に続いて、[[金子堅太郎]]、[[渋沢栄一]]の演説もあった{{Refnest|group="注釈"|文部大臣(代理)、内務大臣(代理)、外務各大臣、米国大使、井上府知事等の祝辞に次ぎ、大隈重信、金子堅太郎、渋沢栄一の演説があった<ref name="shibusawa">[https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK460067k_text デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第46巻(DK460067k) 本文]</ref>。}}。
* 1920年(大正9年)
** 1月 - 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス)聖別式挙行。
** 3月 - 英文学科に在学中の[[加藤まさを]](大正期の代表的な抒情画家で「[[月の沙漠]]」の作詞家)が中心となり立教大学の文芸雑誌『塔』が創刊。
** 4月 - 文科を文学部、商科を商学部とし、[[予科]]を2年制とする。
** [[ハロルド・スパックマン]]が教授及び新図書館館長に就任し、日本の大学で先駆けて[[図書館学]]を講じる<ref>立教大学池袋キャンパス・図書館百周年記念展示 [https://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/2018_100th.pdf 『スパックマン・オーヴァトン文書』・『武藤重勝史料』・『図書館旧事務用品史料』展 立教大学図書館100周年にあたって ] 中村百合子 2018年</ref>。
* 1921年(大正10年)
** 2月 - 体育館竣工(1998年に閉館・解体され、跡地に8号館が建てられた)<ref name="名前なし-20250106194510">『立教学院百五十年史』 第一巻、297頁</ref><ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/time/tim047.html 立教タイムトラベル 第47回 「1998(平成10)年 赤レンガ体育館閉館」] 2024年10月22日閲覧。</ref>。
** 6月 - 財団法人日本聖公会教学財団を財団法人聖公会教育財団と改称。
** 6月 - 財団法人日本聖公会教学財団を財団法人聖公会教育財団と改称(翌年4月7日認可)<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、282-283頁</ref>。
** 10月 - [[立教大学硬式野球部|野球部]]、四大学野球連盟に加盟。
** 10月 - [[立教大学野球部|野球部]]、四大学野球連盟に加盟。
** 校友会館が竣工(のちの診療所)。
** 1922年(大正11年)51228日 - [[大学令]]による[[旧制大学|大学]]へ昇格。[[認可申請を行う<ref>『立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]](英文学科百五十年史』 第一巻哲学科、宗教学科)、[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|商学部]]、[[大学予科|予科]]を発足313-315頁</ref>
** 校友会館が竣工(のちの診療所。2009年にマキムホール建設のため解体された<ref name="名前なし-20250106194510"/>)。
* 1922年(大正11年)
** 5月 - 大学令により再び大学へ昇格。[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]](英文学科、哲学科、宗教学科{{Refnest|group="注釈"|「神学科」と名乗らなかったのは日本聖公会の聖職者養成を行う[[聖公会神学院]]に配慮したためとされる(『立教学院百五十年史』 第一巻、342-345頁)。}})、[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|商学部]]、[[研究科 (旧制)|研究科]]、[[大学予科|予科]](2年制)を発足{{Refnest|group="注釈"|認可条件として専任教員の確保と、独仏語の専門書籍2,000部以上を備えることが求められた(『立教学院百五十年史』 第一巻、315頁)}}。
** 6月10日 - 大学「昇格祝賀会」を挙行<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、318頁</ref>。
[[画像:Nitobe Inazo.jpg|130px|thumb|[[新渡戸稲造]]<small>([[国際連盟]]事務次長)</small>]]
* 1923年(大正12年)
** 1月 - [[教授会]]を設置<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、329-330頁</ref>。
** 9月 - [[関東大震災]]により築地校地が壊滅<ref>地震そのものの被害は軽微だったが、直後の火災により築地の聖公会関連施設もろとも灰燼に帰した{{harv|『立教学院百年史』|p=314-316頁)}}。</ref>。池袋の大学も被害を受ける。
** 10月 - [[立教池袋中学校・高等学校|立教中学校]]が池袋の大学内に移転<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=316-318頁</ref>}}。大学は10月15日に、中学校は10月18日に授業再開。立教女学校(現:[[学校法人立教女学院|立教女学院]])の校舎も焼失したため、池袋の立教大学内に学校事務所を設け、[[滝乃川学園]]の校舎にて授業再開。[[志成学校]]が震災による校舎倒壊により閉校。
** 11月 - 震災で校舎を失った[[専修大学]]が池袋の立教大学内の7教室を借用(翌月22日まで)<ref>[[学校法人専修大学]] 『専修大学百年史』 下巻、1981年、1125-1127頁</ref>。
** 12月11日 - [[#国際連盟立教大学支部|国際連盟立教大学支部]]の発会式が[[東京第二師範学校|豊島師範]]講堂にて開催され、[[国際連盟]]事務次長の[[新渡戸稲造]]([[札幌農学校]]2期生)が演説を行う。会場は満席で立錐の余地なく、聴衆約600名の共鳴と拍手喝采で満たされた<ref name="rikkyonews009">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0105_009.pdf 『立教大学新聞 第9号』] 1925年(大正14年)1月5日</ref>。
** 12月 - 築地訣別式を挙行<ref>『立教学院百年史』317頁</ref>。
** 12月 - 築地訣別式を挙行{{sfn|『立教学院百年史』|p=317}}。
* 1924年(大正13年)
** 3月 - 専門学校令による立教大学は全在籍者の卒業により自然消滅<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、326-329頁</ref>。
** 4月 - 商学部に商学科と経済学科を設置。
** 水泳部の[[斎藤巍洋]]が、[[1924年パリオリンピック|パリオリンピック]]に出場。競泳男子100m背泳ぎで6位入賞。(立教初の[[オリンピック選手]])
** 11月15日 - 『立教大学新聞』が立教・早稲田・東京帝大の三大学新聞による[[学校教練|軍事教練]]反対の共同宣言を掲載<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、441-445頁</ref>。
** 11月 - この頃、立教幼稚園が築地にあった<ref name="rikkyonews_06">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/24(T13)1105_006.pdf 立教大学新聞 第6号 立教校商同盟会広告 大正13年11月5日]}}</ref>。
** [[校旗]]を制定する<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/spirit/ 創立者と建学の精神|立教大学]</ref>。
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[[画像:立教大学野球部初優勝記念写真(1931年).jpg|200px|thumb|立教大学野球部初優勝記念写真(1931年)]]
* 1925年(大正14年)
** 1月 - 総理を総長と改称、ライフスナイダーが初代総長に就任<ref name="president"/><ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc035.html 第35回「歴代総長」] 立教大学校友会</ref>。
** 4月 - 文学部に史学科を設置。
** 5月 - [[ポール・ラッシュ]]が関東大震災後の[[キリスト教青年会|YMCA]]会館再建のため来日。
** 8月 - 立教大学で軍事教練が始まる<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、446-447頁</ref>。
** 9月 - [[東京六大学野球連盟]]結成。
** 秋 - 東長崎グラウンド開設<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1925.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>(現在の[[東京都立千早高等学校|都立千早高校]]の場所)。
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* 1926年(大正15年)
** 1月 - ライフスナイダー総長、「神と国との為に ([[:en:Pro aris et focis|Pro Deo et Patria]])」と題する演説を行う。
** 3月 - 校歌『栄光の立教』(作詞:諸星寅一 補作 : [[杉浦貞二郎]]・作曲 : [[島崎赤太郎]])制定<ref> 立教大学校友会、 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc003.html 立教うんちく話]</ref>。
** 3月 - 校歌『栄光の立教』制定。
** 5月 - 池袋に中学校の新校舎が完成し、落成式挙行。
** ポール・ラッシュ、立教大学教授に就任。
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** 12月 - 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス・チャペル)で[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]記念礼拝式が開かれる。同日記念銘板除幕式、図書館で肖像画([[石橋和訓]]画)除幕式。
* 1927年(昭和2年)
** 4月 - [[大学予科|予科]]を3年制とする<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、358-363頁</ref>
** 11月 - [[ポール・ラッシュ]]により立教大学に米国聖アンデレ同胞会日本支部(後の日本聖徒アンデレ同胞会)を結成<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=347-348}}<ref>一般社団法人日本聖徒アンデレ同胞会 [http://www.brotherhood-st-andrew-japan.org/p3.html 『BSA略年表』]</ref>。
** ポール・ラッシュが、慶應、東京商科(現・一橋)、明治、立教、早稲田の5大学で個別に活動していた英語会(ESS)の学生たちに呼びかけ、英語会大学連盟が設立される<ref name="kcfaold"/>。
[[画像:ルドルフ・トイスラー.jpg|130px|thumb|[[ルドルフ・トイスラー]]]]
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** 1月 - [[立教大学史学会]]設立。
** [[聖路加国際病院]]設立者、[[ルドルフ・トイスラー]]{{Refnest|group="注釈"|ルドルフ・トイスラーは米国聖公会の宣教医で、[[聖路加国際病院]]の設立者。1927年から1934年まで立教の経営法人の理事を務めた。}}の依頼により、ポール・ラッシュが関東大震災後の聖路加の新病院建設募金活動に尽力(1931年まで)。
* 1929年(昭和4年)5月1日 - [[元田作之進]](前学長)の記念銘板(タブレット)の除幕式を挙行<ref name="rikkyonews077"/>。
* 1930年(昭和5年)
** 5月26日 - ライフスナイダー総長が、[[駐日アメリカ合衆国大使館|米国大使館]]の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行う<ref name="shibusawa_doc40">[https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK400140k_text デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第40巻(DK400140k) 本文]</ref>。
** 11月1日 - ウィリアムズの記念碑が京都若王子山上教会墓地に建てられ除幕式が行われる<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)1115_093.pdf 『立教大学新聞 第93号』] 1930年(昭和5年)11月15日</ref>。
* 1931年(昭和6年)
** 3月21日 - 卒業式が行われたが、立教の専門学校認可から21回、立教学校開設から43回、長崎時代から数えて78回目の卒業式となった<ref name="rikkyonews098"/>。
** 4月 - 商学部を[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]に改称。
** 8月 - 財団法人聖公会教育財団を分離し、財団法人立教学院(8月7日認可)と財団法人[[聖公会神学院]]を設立。立教学院の理事長にマキム、学院総長にライフスナイダーが就任。
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** 12月30日 - [[J・V・W・バーガミニー]]設計の宣教師館(のちの立教学院校宅11号館・12号館)が竣工する<ref>{{PDFlink|[https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/070717-1.pdf 社団法人日本建築学会 保存に関する要望書]}}</ref>。
* 1932年(昭和7年)
** 3月 - 寄宿舎(現:2・3号館)を閉鎖{{Refnest|group="注釈"|その後寄宿舎の建物は教室や研究室などに転用された(『立教学院百五十年史』 第一巻、576-580頁)。}}。
** 4月7日 - 野球部がアメリカ遠征。7月2日まで試合を行う(10勝10敗)。5月10日には[[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で[[アイビー・リーグ|アイビーリーグ]]優勝校の[[イェール大学]]と対戦。8-1で勝利。翌日には遠征のハイライトである[[ニューヨーク]]へ移動し、[[ベーブ・ルース]]や[[ルー・ゲーリッグ|ルー・ゲーリック]]が出席して歓迎会が開催された<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.14992/00009281 |author=宮本 正明 |title=百瀬和夫「アメリカ遠征日誌」(1932年4月7日~7月2日) |journal=立教学院史研究 |date=2014 |volume=11 }}</ref><ref name="kcfaold"/>。
** 4月7日 - 野球部がアメリカ遠征。7月2日まで試合を行う(10勝10敗)。5月10日には[[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で[[アイビー・リーグ|アイビーリーグ]]優勝校の[[イェール大学]]と対戦。8-1で勝利。翌日には遠征のハイライトである[[ニューヨーク]]へ移動し、[[ベーブ・ルース]]や[[ルー・ゲーリッグ|ルー・ゲーリック]]が出席して歓迎会が開催された<ref name="kcfaold"/><ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.14992/00009281 |author=宮本 正明 |title=百瀬和夫「アメリカ遠征日誌」(1932年4月7日~7月2日) |journal=立教学院史研究 |date=2014 |volume=11 }}</ref>。
** 10月 - 立教学院クリスチャン・アーミーを結成<ref>『立教学院百年史』348頁</ref>。
** 10月 - 立教学院クリスチャン・アーミーを結成{{sfn|『立教学院百年史』|p=348}}。
** 寄宿舎(現:2・3号館)を閉鎖。
* 1933年(昭和8年)
* 1933年(昭和8年)- [[米山梅吉]]が次男の母校であった立教大学に心理学実験室一棟を寄贈<ref name="yoneyama">[https://yoneyama-umekichi.jp/houshi.html 米山梅吉記念館『奉仕の人 米山梅吉 ~その生い立ちと人となり~』]</ref>。
** 1月 - [[学生食堂]]が開店<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、437頁</ref>。
** 1月 - 講堂の建設計画など大学の発展のため総長裏の空地(約2千坪)を買収する<ref name="rikkyonews119">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/33(S08)0123_119.pdf 『立教大学新聞 第119号』] 1933年(昭和8年)1月23日</ref>。
** [[米山梅吉]]が次男の母校であった立教大学に心理学実験室一棟を寄贈<ref name="yoneyama">[https://yoneyama-umekichi.jp/houshi.html 米山梅吉記念館『奉仕の人 米山梅吉 ~その生い立ちと人となり~』]</ref>。建物は籠球部コートがあった場所に前年に竣工した<ref name="rikkyonews119"/>。
** 6月24日 - 東長崎の野球部グラウンドの隣に[[阿部三郎太郎]](予科教授)の尽力でプールを開設<ref name="名前なし_2-20250106194510">『立教学院百五十年史』 第一巻、458頁</ref>。
* 1934年(昭和9年)
** 10月28日 - [[ポール・ラッシュ]]の尽力により、[[早稲田大学米式蹴球部ビッグベアーズ|早稲田]]・[[明治大学グリフィンズ|明治]]と共に[[関東学生アメリカンフットボール連盟|東京学生米式蹴球競技連盟]]を結成。初代理事長にラッシュが就任<ref name="americanfootball"/>。
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** 8月 - 水泳部の[[田口正治]]と[[新井茂雄]]が[[ベルリンオリンピック]]、競泳男子800m自由形リレーで世界新での金メダル獲得。
** 10月5日 - 立教大学山岳部の登山隊([[堀田弥一]]隊長、隊員計5人)が日本初のヒマラヤ遠征隊として、インド北部のナンダ・コート(標高6867メートル)に初登頂。
** 10月26日 - [[御真影]]を奉戴<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=356-357頁</ref>}}
** 11月30日 - 日本聖徒アンデレ同胞会の創設5年周年記念式典が、[[早稲田大学]][[大隈講堂]]において挙行{{#tag:ref|[[早稲田大学]][[大隈講堂]]において日本聖徒アンデレ同胞会の創設5周年を記念して例年の再宣誓式及び感謝大礼拝を開催。礼拝に先立ち大隈会館にて理事会会議が開催された。午後7時からの大礼拝には会員会衆1千名を数え、聖職者80名、[[聖歌隊]]150名の大行進が左右両道より[[聖歌]]を歌いながら聖壇に進む姿は偉観であった<ref name="archives-19361218">立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『日本聖公会五十年記念運動(55)/日本聖徒アンデレ同胞会再宣誓式並感謝大礼拝 十一月卅日 於大隈講堂』] 基督教週報73巻15号,1936年12月18日</ref>。|group="注釈"}}。
** 板橋区[[赤塚 (板橋区)|赤塚町]]に陸上競技専用の成増グラウンドを開設(借地)<ref name="名前なし_2-20250106194510"/>。
* 1937年(昭和12年)
** 3月 - [[J・H・モーガン]]の設計による予科新校舎(現:4号館)竣工<ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/time/tim043.html 立教タイムトラベル 第43回]</ref>。
** 旧寄宿舎(現:2・3号館)を文学部と経済学部の研究室に転用。
** タッカー元総理が日本を訪問。6月28日付で「立教大学に関する報告書」を米国聖公会全国協議会に提出<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、556-559頁</ref>。
* 1939年(昭和14年)9月 - アメリカ研究所開設<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ias/ アメリカ研究所|立教大学]</ref>。
[[画像:遠山郁三.jpg|130px|thumb|[[遠山郁三]]]]
* 1940年(昭和15年)
** 2月 - [[学位規則]]認可<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=364頁</ref>}}
** 8月 - 日米関係の悪化により8月から9月にかけて日本聖公会が米国聖公会からの経済的独立を決定。
** 10月 - 上記影響より、ライフスナイダーが学院理事長・総長を退任し、総長事務取扱となる。後任の学院理事長に松井米太郎が就任。
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* 1942年(昭和17年)
** 2月 - [[遠山郁三]]の尽力により[[文部省]]へ医学部設置の認可申請を行い、5月に[[厚生省]]へも認可申請を行う。文部省の了承を得たが、聖路加の施設が戦時下の医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因から厚生省の了承が得られず設置に至らなかった<ref name="history_of_rikkyo_university">『立教大学の歴史』立教学院史資料センター編 2007年1月25日初版発行</ref>。
** 4月10日 - 学部断髪令により戦時体制に即した質実剛健を旨として学生たちの頭を断髪させる<ref>週刊MDS [http://www.mdsweb.jp/doc/1416/1416_06m.html 【非国民がやってきた!(226)尹東柱(7)】] 1416号,2016年2月19日</ref>。
** 6月 - 日本に最後まで留まっていた[[ポール・ラッシュ]]教授が[[交換船]]により強制送還される<ref>終戦後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の一員として再来日した(『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』102-103頁)。</ref>。ラッシュは米国送還後、米国陸軍日本語学校に志願し日系2世兵を指導し、米国各地の教会で戦争後の日本救済への支援協力を訴えるため講演活動を行う。
** 9月 - 理事会が[[寄付行為]]目的を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」への変更を決議し、11月に申請(翌年2月15日認可)<ref name="history"/>。
** 9月 - [[阿部三郎太郎]](立教大学教授)の強い支配下にあったボクシング部の学生が、阿部や[[辻荘一]](文学部教授)らと対立して立教からキリスト教の追放を主張していた小沢淳男(立教大学教授)を襲撃する(学生暴行事件)が起こる<ref name="suzuki-2018"/>。
** 9月 - 修業年限短縮に伴い卒業式を挙行。
** 10月 - [[チャペル]]を閉鎖し、「修養堂」と改称。一般教職員・学生の礼拝等に用いないといった内規も理事会で決定した。
** 立教大学文学部宗教学科と聖公会神学院の二重学籍制度を完全廃止<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、743-744頁</ref>。
** 校歌「栄光の立教」の「自由の学府」の文言が問題視され斉唱禁止{{Refnest|group="注釈"|第二応援歌の『St.Paul's will shine tonight』も敵性語であるとして斉唱禁止となった<ref name="rikkyo_shinbun_205"/>。}}。12月10日に戦時下の状況が反映される準校歌が制定される<ref>[http://www.ozaki.mann1952.com/hoka/kouka.html#02 尾崎喜八による校歌作詞]</ref>。戦後になって、準校歌は制定を解除され、校歌「栄光の立教」を再び斉唱できるようになった。
** 校歌「栄光の立教」の「自由の学府」の文言が問題視され斉唱禁止{{Refnest|group="注釈"|第二応援歌の『St.Paul's will shine tonight』も敵性語であるとして斉唱禁止となった<ref name="rikkyo_shinbun_205"/>。}}。12月10日に戦時下の状況が反映される準校歌が制定される<ref name="ozaki">[http://www.ozaki.mann1952.com/hoka/kouka.html#02 尾崎喜八による校歌作詞]</ref>。戦後になって、準校歌は制定を解除され、校歌「栄光の立教」を再び斉唱できるようになった。
* 1943年(昭和18年)
** 1月 - [[日本基督教団]]との合同の是非をめぐって[[日本聖公会]]は分裂し、約3分の1の教会が日本基督教団に加わる<ref>『日本キリスト教歴史大事典』 [[教文館]]、1988年、382-383頁および1060頁</ref>。[[八代斌助]]などの非合同派は単立教会として日本聖公会を守り通した。
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* 1944年(昭和19年)4月 - 立教理科専門学校設置。
[[画像:DouglasMacArthur.jpg|130px|thumb|[[ダグラス・マッカーサー]]連合国軍最高司令官<br />([[米国聖公会]]信徒)]]
[[画像:Andover Hall, Harvard Divinity School - general view.JPG|200px|thumb|キリスト教学科を創設した[[菅円吉]]、チャプレンと教授を務めた[[高松孝治]](立教大学1期生)が学んだ「[[ハーバード大学]][[:en:Harvard Divinity School|神学大学院]]」]]
[[画像:女子学生の入学(立教大学、1946年).jpg|thumb|200px|right|女子学生の入学(1946年)]]
[[画像:佐々木順三.jpg|thumb|130px|right|[[佐々木順三]]]]
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** 10月15日 - '''「文部省訓令第8号」の発布。'''これによって1899年(明治32年)から存続し続けた「[[私立学校令#制定の背景|文部省訓令第12号]]」が無効になった<ref name="law"/>。この発布は[[ダグラス・マッカーサー]][[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]]の命によるものと伝えられている。1947年(昭和22年)5月3日に施行された[[日本国憲法]]とともに、[[信教の自由]]が保障される。
** 10月20日 - GHQから2人の係員が立教大学を視察。一人はかつて立教大学で教鞭を執っていた[[ポール・ラッシュ]]であった<ref name="rikkyo130"/>。ラッシュはマッカーサーの理解を得ながら、立教大学、[[日本聖公会]]、[[聖路加国際病院]]の再生とともに、アメフトや清里の復興にも多大な貢献をすることになる。
** 10月24日 - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の覚書『[[信教の自由]]侵害の件』により3代目総長の[[三辺金蔵]]ほか11名が追放される<ref name="rikkyo130"/><ref name="president"/><ref name="suzuki-2018">{{Cite journal|和書 |author=鈴木勇一郎 |title=立教関係者一一名の追放とその後 |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2018 |issue=15 |pages=31-59 |naid=120006483454 |doi=10.14992/00016382 |url=https://doi.org/10.14992/00016382}}</ref><ref name="president"/><ref name="rikkyo130"/>。
** 11月7日 - 理事会は寄附行為目的を「基督教主義ニヨル教育」に復帰することを可決。
* 1946年(昭和21年)
** 4月 - 女子学生4名が初めて入学<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=416-417頁</ref>}}
** 5月 - [[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]復活(キリスト教学科・英米文学科)。
** 6月 - [[佐々木順三]]が総長に就任し、戦後の本格的な再建が行われていくこととなる<ref name="rikkyo130"/>。
* 1947年(昭和22年)4
** 4月 - 文学部社会学科設置。新制「立教中学校」開設。
** 6月 - チャプレン兼予科講師の[[西村敬太郎]]がGHQにより追放となり、西村の排斥運動を行った4人の学生も停学となる{{#tag:ref|[[高松孝治]](チャプレン兼教授)が戦時中の迫害の影響で1946年(昭和21年)2月13日に亡くなると、そのあと[[西村敬太郎]]がチャプレン兼講師として着任し、同年9月にチャプレン室が設けられると西村はチャプレン室主任となり、学生部長にも任じられた。しかし、戦時中の西村の行動と発表した論文が学生の問題となり、学内で西村を糾弾する張り紙が掲示されるに至った。これを受けて、西村は辞職し、排斥運動を行った学生4人も停学処分となった。その後、処分を受けた学生は全員の復学が認められたほか、西村の追放も1952年(昭和27年)に連合国軍からの日本の占領が終了した後、自然解除となった<ref name="matsudaira-2019"/>。|group="注釈"}}。
* 1948年(昭和23年)
** 4月 - 工業理科専門学校を改組、[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]を設置(数学科・物理学科・化学科)。新学制に基づき「立教小学校」と「立教高等学校」を開設。
** 6月19日 - 1890年(明治23年)から続く[[教育ニ関スル勅語]](教育勅語)が、国会によって排除、失効が確認される。
** [[八代斌助]]が、友人で[[米国聖公会]]の信徒でもある[[連合国軍最高司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]の特別許可を得て、戦後日本人として初めて渡航する{{Refnest|group="注釈"|八代斌助は、イギリス国王ジョージ六世宛の天皇陛下のメッセージを伝達し、ロンドンで開催された全世界の聖公会の会議である[[ランベス会議]]に出席した。}}。
* 1949年(昭和24年)
** 4月 - [[新制大学]]として認可・発足。文学部(基督教学科、英米文学科、社会学科、史学科、心理教育学科)、経済学部(経済学科、経営学科)、理学部(数学科、物理学科、化学科)が開設。理学部設置には[[杉浦義勝]]が尽力。医学部の開設も決定されたが、[[聖路加国際病院|聖路加]]の病院施設が1956年までGHQの接収を受けており、実現には至らなかった<ref name="Luke">[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/chapel/2018/mknpps00000088cu.html 立教と聖路加のつながり]</ref>。
740 ⟶ 797行目:
* 1956年(昭和31年)
** 4月 - 文学部日本文学科を開設
** 11月 - [[板橋区]]と[[練馬区]]にまたがる土地を東京都から借り受け、セントポール・グリーンハイツ(総合グラウンド)竣工<ref group="広報" name="green">[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/time/tim048.html 立教大学校友会 立教タイムトラベル 第48回「1956(昭和31)年、セントポール・グリーンハイツ完成」] </ref>。
* 1957年(昭和32年)
** 5月 - 米国聖公会の寄付により原子力研究所設立([[神奈川県]][[横須賀市]])<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ifae/ 原子力研究所] 立教大学</ref>。
747 ⟶ 804行目:
** 1月 - 名誉博士規程を制定。
** 4月 - 文学部社会学科が[[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]に昇格。
** 5月 - アジア地域研究施設を開設<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=425頁</ref>}}
** 7月 - 新座校地を[[東武鉄道]]より譲り受ける。
** 9月23日 - 日本聖公会宣教百年記念祝典が日本聖公会東京教区主催でタッカーホールで開催。2千余人が参加<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/58(S33)0920_158.pdf 『立教大学新聞 第158号』] 1958年(昭和33年)9月20日</ref>。
** 野球部が六大学リーグ戦で4連覇を達成。
[[画像:Geoffrey Fisher by RG Eves.jpg|130px|thumb|第99代[[イングランド国教会]][[カンタベリー大主教]][[:en:Geoffrey Fisher|ジェフリー・フィッシャー]]]]
[[画像:Shigeru Yoshida suit.jpg|130px|thumb|[[吉田茂]](第45・48-51代[[内閣総理大臣]]、立教大学後援会会長)]]
* 1959年(昭和34年)
** 4月 - 総長である[[松下正寿]]の尽力により[[立教大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]を設置。5号館・6号館開館。
757 ⟶ 815行目:
** 4月9日 - フィッシャーと第21代米国聖公会首座主教[[:en:Arthur C. Lichtenberger|アーサー・リクテンバーガー]]に名誉博士号を授与。
** 6月 - 総長公選制を採用。
** 9月 - 会長に[[吉田茂]]、副会長に[[池田勇人]]、ほか[[正力松太郎]]や[[石川一郎]]([[日本経済団体連合会|経団連]]初代会長)ら17名が発起人として立教大学後援会が発足<ref name="rikkyogenshiro">立教大学の原子炉 [https://sites.google.com/site/rikkyogenshiro/home/2-li-jiao-da-xue-yuan-zi-li-yan-jiu-suono-kai-she 『歴史2.原子炉設置の経緯』]</ref>。
* 1960年(昭和35年)
** 4月 - 立教高等学校を新座へ移転。
** 12月 - 旧:図書館本館・新館新築落成(現:メーザーライブラリー記念館新館)。
* 1961年(昭和36年)12月 - 立教大学原子炉、臨界試験成功<ref>鈴木 勇一郎「[https://doi.org/10.14992/00009278 立教大学原子力研究所の設立とウィリアム・G・ポラード]」『立教学院史研究』11巻、2014年</ref>。
* 1962年(昭和37年)4月 - 文学部心理教育学科を心理学科・教育学科に分割。キリスト教教育研究所を設置<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=437頁</ref>}}
* 1963年(昭和38年)
** 4月 - 文学部ドイツ文学科、フランス文学科設置。立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパス)聖別式、落成式挙行。
768 ⟶ 827行目:
* 1964年(昭和39年)
** 3月25日 - [[フリードリヒ・ハイエク]](シカゴ大学名誉教授、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルグ大学]]教授、ノーベル経済学賞受賞者:1974年)に名誉博士号を授与。
** 4月 - 社会学部産業関係学科設置。ラテンアメリカ研究所を開設<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=483頁</ref>}}
** 10月 - [[サッカー日本代表]]として、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に[[鈴木良三 (サッカー選手)|鈴木良三]]、[[渡辺正]]、[[横山謙三]]が出場。ベスト8(当時、横山は在学中)。
* 1966年(昭和39年)6月 - 新座グラウンド開設。東長崎グラウンドを売却<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1966.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>。
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** 1月 - 大学計算センターを設置。
** 4月 - [[立教英国学院]]開校。
* 1973年(昭和48年)9月 - [[大場啓仁|大場事件]]起こる<ref>{{sfn|『立教学院百年史』|p=660頁</ref>}}
* 1974年(昭和49年) - 創立100周年記念式典を挙行。
* 1975年(昭和50年)7月 - 最初の非信徒総長・[[尾形典男]]就任。
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** 11月 - 9号館竣工。昼間部総合大学で日本初となる社会人入試を法学部で開始。
** 日本初となる受験生を対象とした[[オープンキャンパス]]を開始<ref group="注釈" name="open-campus"/>。
[[画像:Masayoshi Ohira 1978120719790120.jpg|130px|thumb|第68・69代[[内閣総理大臣]] [[大平正芳]]]]
* 1980年(昭和55年)
** [[聖公会]]のクリスチャンであった第68・69代[[内閣総理大臣]]、[[大平正芳]]の葬儀が池袋キャンパスの立教学院諸聖徒礼拝堂で営まれる<ref>[[内閣]]・[[自由民主党 (日本)|自民党]]合同葬儀は7月9日に[[日本武道館]]で行われた。[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oohira_m.html 大平正芳]</ref><ref>[https://jaa2100.org/entry/detail/044195.html ジャパンアーカイブズ 大平正芳総理大臣の葬儀]</ref>。
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==== 21世紀 ====
* 2001年(平成13年)
** 4月 - [[聖路加国際大学]]との単位互換制度を開始。[[学習院大学]]、[[学習院女子大学]]、[[日本女子大学]]、[[早稲田大学]]との5大学単位互換制度 ([[F-Campus]]) を開始。
** 7月 - 12号館竣工。
** 12月 - 立教大学原子炉、運転停止。第1食堂耐震補強工事施工。
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** 6月 - 江戸川乱歩記念大衆文化研究センター開設。
* 2007年(平成19年)
** 2月20日 - リーダーシップ研究所の発足にともないシンポジウム「21世紀のリーダーシップ」を開催<ref name="KIMPS"/><ref>『入門ビジネス・リーダーシップ』 日向野幹也、アラン・バード、立教大学リーダーシップ研究所共著 日本評論社 2007年12月1日</ref><ref name="KIMPS"/>。
** 3月 - 日本初の[[持続可能な開発のための教育|ESD]](持続可能な開発のための教育)研究機関である立教大学ESD研究センター(現・ESD研究所)を設立<ref>[https://www3.rikkyo.ac.jp/research/initiative/initiative_center/news/2007/07/8252/ 立教大学ESD研究センター設立記念講演会「持続可能な社会をめざすESDへの期待」 開催のお知らせ 2007.07.02]</ref>。
** 4月 - 法学部の国際・比較法学科を国際ビジネス法学科に名称変更。
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** 4月 - 文学研究科組織神学専攻募集停止、キリスト教学研究科設置。
** 9月21日 - [[日本聖公会]]宣教150年を記念して来日した第104代[[イングランド国教会]][[カンタベリー大主教]][[ローワン・ウィリアムズ]]師に名誉博士号を授与。[[カンタベリー大主教]]による記念講演を開催<ref>[https://www.christiantoday.co.jp/articles/4063/20090914/news.htm Christian Today『立教大学、カンタベリー大主教に名誉博士学位を授与』2009年9月14日]</ref>。
** 9月22日 - 第26代米国聖公会総裁主教キャサリン・ジェファーツ・ショーリがタッカーホールで説教<ref name="nskk-20090922"/><ref>[http://www.nskk.org/province/program150/program.htm 日本聖公会創立150周年記念プログラム]</ref><ref name="nskk-20090922"/>。
** 9月23日 - 日本聖公会宣教150年記念礼拝が[[カトリック関口教会|東京カテドラル聖マリア大聖堂]]で開催され、カンタベリー大主教が説教<ref>[https://www.christiantoday.co.jp/articles/4132/20090924/news.htm Christian Today『カンタベリー大主教が説教 日本聖公会宣教150周年記念礼拝』2009年9月24日]</ref>。
* 2010年(平成22年)3月 - 7号館B棟竣工。社会情報教育研究センター (CSI) を開設。
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** 4月 - 社会学部に「国際社会コース」、異文化コミュニケーション学部に「Dual Language Pathway」を設置。
** 11月 - 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトが発足。
[[画像:Rikkyo University-9.jpg|230px200px|thumb|野球部、全日本大学野球選手権で59年ぶり4回目の日本一]]
* 2017年(平成29年)
** 2月 - ポールラッシュ・アスレティックセンターがパラリンピック水泳競技のナショナルトレーニングセンター競技別強化拠点施設に指定。
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** 4月 - 大学院理学研究科に[[順天堂大学]]大学院医学研究科と連携した医学物理学副専攻を設置。
** 5月 - 2018年度以降の法科大学院の学生募集の停止を決定<ref name="asahi2017527"/>。
** 6月 - [[立教大学硬式野球部|野球部]]が[[全日本大学野球選手権]]で優勝。1958年以来59年ぶり4回目の日本一の栄冠。
** 6月 - ブラジルオリンピック委員会と施設利用等に関する覚書を締結。
** 7月 - [[西武ライオンズ]]と地域社会の発展、教育振興への寄与を目指し「連携協力に関する基本協定」を締結。
** 7月 - [[豊島区]]と「2020年の東京オリンピック・パラリンピック事業における連携協力に関する協定」を締結。
** 11月 - 理学部生命理学科教授(当時准教授)の末次正幸が、世界初となる「セルフリー長鎖DNA合成技術」を開発<ref name="illumina"/>。
[[画像:Kawaguchi Church Osaka JPN 001.jpg|230px170px|thumb|[[川口基督教会]](大阪市、1920年竣工、[[ウィリアム・ウィルソン (建築家)|ウィリアム・ウィルソン]]設計)]]
* 2018年(平成30年)
** 4月 - 初代総長のライフスナイダー以来初の外国籍総長[[郭洋春]]就任。
924 ⟶ 983行目:
** 4月 - [[ソウル大学校]]、[[北京大学]]、[[シンガポール国立大学]]と「ACEプログラム」を開設。
** 10月15日 - 陸上競技部が[[第99回東京箱根間往復大学駅伝競走#予選会|第99回箱根駅伝予選会]]で6位となり、55年ぶりに[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]本選出場を決める。
* 2023年 (令和5年)4月 - コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科を改組し、「スポーツウエルネス学部」を設置。同学部の設置に伴い、コミュニティ福祉学部を福祉学科とコミュニティ政策学科の2学科に改編<ref>{{Cite web|和書|title=【大学受験2023】立教大「スポーツウエルネス学部」設置 |url=https://resemom.jp/article/2021/10/25/64085.html |website=リセマム |accessdate=2021-11-10}}</ref>。
[[画像:Willer Express 106 IKEBUS eCOM-10 for Training Car.jpg|200px|thumb|創立150周年記念で池袋キャンパス内を特別に走行した「[[IKEBUS]]」]]
* 2024年 (令和6年)
** 3月26日 - スポーツウエルネス学部が[[RB大宮アルディージャ|大宮アルディージャ]]と「相互協力・連携に関する包括協定」を締結<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/03/qo9edr000000pbzz.html 『スポーツウエルネス学部と大宮アルディージャが「相互協力・連携に関する包括協定」を締結』] 2024/03/27</ref>。
** 4月 - 21世紀社会デザイン研究科を社会デザイン研究科へ名称変更。
** 5月7日 - [[同志社大学]]と相互協力・連携に関する協定を締結。
** 5月7日 - [[アジアサッカー連盟]](AFC)が、立教大学メディカル&コンディショニング・センターならびに[[日本サッカー協会]]診療所、JFAメディカルセンター整形外科クリニックの3施設をAFCメディカルセンター(AFC Medical Centre/CLINIC of Excellence)に認定し、[[高円宮記念JFA夢フィールド]]で式典を開催<ref name="rikkyo-20240510"/>。
** 5月11日 - 立教学院創立150周年記念式典を開催{{#tag:ref|立教大学の前身の一つである[[築地]]の立教学校の開設から150周年を迎え、池袋キャンパスで記念式典が開催された。来賓として[[:en:Virginia Theological Seminary|ヴァージニア神学校]]の[[:en:Ian Markham|イアン・マーカム]]学長を始め、[[聖公会大学校]]から[[:en:Lee Jae-joung|李在禎]]元総長(元[[統一部]]長官)、金勍汶総長、国内から同月7日に協定を締結した[[同志社大学]]の[[小原克博]]学長、早稲田大学の[[田中愛治]]総長([[日本私立大学連盟]]会長)、[[慶應義塾]]の[[伊藤公平 (物理学者)|伊藤公平]]塾長らが出席した。当日の最初のイベントとして150周年を記念する植樹と[[長嶋茂雄]]氏顕彰モニュメントの除幕式が行われたほか、[[コミュニティバス]]の[[IKEBUS]]が特別に池袋キャンパス内を走行した。夜、[[ホテルメトロポリタン]]に会場を移して開かれた祝賀会では、[[大野元裕]][[埼玉県]]知事、[[高際みゆき]][[豊島区]]長、[[並木傑]][[新座市]]長らも来賓として出席した<ref>立教学院創立150周年記念サイト [https://150th.rikkyo.ac.jp/memorialproject/23 『【開催報告】立教学院創立150周年記念式典を開催』]</ref><ref name="christiantoday-20240515">Christian Today [https://www.christiantoday.co.jp/articles/33620/20240515/rikkyo-gakuiin-150th-anniversary.htm 『立教学院が創立150周年、感謝礼拝で創立者ウィリアムズ主教の出身神学校学長が奨励』] 2024年5月15日</ref>。|group="注釈"}}。
** 6月 - デロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社と「小中高大大学院一貫アントレプレナーシップ教育の研究と実践」についての契約を締結<ref name="rikkyo-20240618"/>。
** 8月 - 経営学部・大学院経営学研究科が[[Association to Advance Collegiate Schools of Business|AACSB]]によるビジネス教育の国際認証を取得<ref name="rikkyo-202408"/>。
* 2025年 (令和7年)
** 1月29日 - 9号館竣工(新座)。
** 2月21日 - [[酪農学園大学]]と環境学分野における相互協力・連携に関する協定を締結。
* 2026年 (令和8年)
** 4月 - 環境学部を開設予定。{{-}}
 
== 創成期の歴史 ==
=== 最初の私塾が創設された長崎・崇福寺と高杉晋作 ===
[[画像:Sohfukuji nagasaki.jpg|250px|thumb|崇福寺山門(手彩色絵葉書)]]
1859年(安政6年)、初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の支援により、[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]・[[岡部長常|岡部駿河守長常]]の要請で、[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]が、立教大学の源流となる私塾を[[長崎市|長崎]]に創設し、最初の生徒である幕府の8人の公式[[詞]]に英学を教えた<ref name="ishiryokumission2"/><ref name="mission2ishiryoku"/>。この塾が日本における[[キリスト教主義学校|ミッションスクール]]の起りであり、立教大学及び立教学院の濫觴であった<ref name="rikkyonews088"/>。
リギンズが来日した同年5月2日と、ウィリアムズが来日した同年6月25日は[[日米修好通商条約]]の発効前(発効は同年7月4日)であり、外国人の中には来日したものの住居を手に入れることができずに日本を離れるものいたが、米国聖公会の学校開設を推進していたハリスと彼によって初代米国長崎領事に選任されたジョン・G・ウォルシュ([[ウォルシュ兄弟]]の2番目の弟)がサポートし、リギンズは長崎奉行の長常から、高台の良好な場所にある住居として[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広徳院を手に入れることに成功し、遅れて到着したウィリアムズと英学教育を創始するに至ったのであった<ref name="mission2"/>。この崇福寺は、1629年(寛永6年)に創建された中国様式として日本最古の寺院であるが、長崎への来日前に中国[[上海市|上海]]で3年間過ごしてきたリギンズとウィリアムズにとって、生活のしやすさやセキュリティ面に加えて、中国語と漢字を修得していた両名にとって好都合でもあった<ref name="mission2"/>。昭和初期に前島生(前島潔)が発見したアメリカに送られたリギンズとウィリアムズが寓居した崇福寺広徳院が描かれた写真銅版絵では、建物は2階家であったとい<ref name="rdetabase-archives_193501181935"/><ref>立教史データベース 『聖公会 修史夜話 (其四)前島生/ヘボン式羅馬字の始 ―リギンズ長老の業績―』 基督教週報第69巻第18号 1935年01月11日</ref><ref name="r-archives_19350118"/>、基督教週報81巻35号(1941年10月10日)に掲載された前島潔の『日本聖公会史 上巻』の連載稿にある以下の住居図(広徳院)も同じく2階家である<ref name="archives-19411010">立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『日本聖公会史 上巻』連載稿 ] 前島潔,基督教週報81巻35号,1941年10月10日</ref>。リギンズは滞在期間中、中国から持参したり、取り寄せた漢訳の聖書や歴史書、科学書等を日本の知識階級に積極的に販売、頒布するが、[[アメリカ独立宣言]]を含む合衆国の政治、行政、文化、教育等が具体的に書かれている『聯邦志略』など、日本の志士たちに大きく影響を与えることとなる書物を流通した<ref name="shien-1967"/>。ウィリアムズも来日後、短期間で日本人から日本の宗教、文化、生活習慣、時事情報を吸収し、日本語も習得して、来日から2年半で主祷文、使徒信教、十戒の三要文を翻訳した<ref>青山学院大学ソーパー・プログラム [http://www.cc.aoyama.ac.jp/~soperprog/pdf/RikkyoGakuin.pdf 創立の礎『立教学院』]</ref>。日本の文化や思想をより深く理解しようと儒学者の[[谷口藍田]]らとも交流し、英学を教えながら、[[漢学]]の学びを得ていた。また、ウィリアムズは[[仏教]]についての研究も行っており、ウィリアムズが記した研究ノートや仏教図が残されている<ref name="kyoto"/><ref>立教学院展示館オンラインミュージアム {{YouTube|IPsyyZgzC_I|立教・時空旅行(7)}}</ref>。<br />1859年に9月19日に来日した[[トーマス・グラバー]]は、[[英国聖公会]]の信徒で、リギンズやウィリアムズの両宣教師などによって崇福寺広徳院の私邸や長崎英国領事館(当時、大浦の妙行寺内)を使って始められた長崎在住の外国人のための礼拝にも参加した<ref>長崎バプテスト教会 Being-Nagasaki [http://www.being-nagasaki.jp/kankou/b3.htm お薦め散策コース Bコース-3『6グラバー園と南山手の周辺 旧グラバー邸』]</ref>。<br />
[[画像:崇福寺(長崎市) 大雄宝殿Nagasaki-soufukuji-1859.jpg|250px|thumb|left|立教大学の源流の私塾が置かれたリギンズ、ウィリアムズ両長老の長崎時代の住居図(崇福寺大雄宝殿(国宝広徳院、1859年)]]
1859年(安政6年)11月に長崎に来日した[[グイド・フルベッキ]]もリギンズとウィリアムズ両名に迎えられ、住居が見つかるまでの間、この崇福寺広徳院に同居している<ref name="history3nagasakigaidai"/><ref name="nagasakigaidaihistory3"/>。フルベッキは、その後寺院の近くに住居が見つかり転居するが、妻マリアが住居の湿気から神経痛となり、[[ハインリッヒ・シュミット]]医師の勧めで、同じ崇福寺の境内にあった広福庵に転居している<ref name="NGA"/>。1860年(万延元年)4月7日に英国聖公会の[[:en:George Smith (Bishop of Victoria)|ジョージ・スミス主教]]が長崎に来日した際には、ウィリアムズの住む崇福寺に同年5月15日まで滞在した<ref name="r-archives_19350118"/>。この来日したスミス主教からの寄金を元に後に日本で最初のプロテスタント教会である[[英国聖公会会堂]]が建てられている。その後、長崎では、外国人居留地の宅地造成の整備が進み、1861年(文久元年)7月にウィリアムズ、フルベッキ、シュミットは、当初暮らした崇福寺から幕府によって整備された東山手居留地に居を移すこととなった<ref name="medical2"/>{{Refnest|group="注釈"|1862年(文久2年)に、藩命により[[上海市|上海]]へ渡航する前に長崎に滞在していた[[高杉晋作]]が、崇福寺に居たウィリアムズとフルベッキに欧米事情を学んでおり、ウィリアムズとフルベッキ両名は東山手居留地が整備された後も崇福寺でも教えた<ref>立教史データベース 基督教週報第37巻第19号 『雑録 高杉晋作とウイリヤム監督』 1918年07月05日</ref>。}}。
1862年(文久2年)11月には、リギンズとウィリアムズの私塾の最初の生徒であった[[何礼之]]、[[平井希昌|平井義十郎]]らの[[唐通事]]たちが長崎奉行の許可を得て、この崇福寺境内の空地に子弟のための訳家学校を設置し、中国語と英語の学習教授が行われた<ref name="KU-2012"/><ref name="momoyama"/>。また、1864年(文久4年、元治元年)9月には、崇福寺広福庵に同じくウィリアムズ門下の[[瓜生寅]]と[[前島密]]が、何礼之の許可を得て苦学生のために私塾「[[培]]」を開いた<ref name="momoyama"/>。<br />
[[画像:RanaldMacDonaldMonument.jpg|180px|thumb|[[ラナルド・マクドナルド]]顕彰碑(長崎市)]]
明治に入って、崇福寺第一峯門前に、通たちの英語教育を推進し、教育体制を整えて指導を行った[[鄭幹輔]]を讃える顕彰碑が建てられるなど、幕末から[[明治維新]]後にかけて活躍した通訳者、外交官を育んだ場所としての歴史を伝えている<ref name="KU-2012"/><ref>杏林大学大学院国際協力研究科 [https://www.kyorin-u.ac.jp/univ/graduate/international/student/report/no13.pdf 『大学院論文集』] 第13号 2016年3月</ref><ref name="KU-2012"/>。その顕彰碑の傍らには、門下の[[頴川重寛]]([[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]教授、後の[[東京外国語大学]])の顕彰碑もある。また、長崎遊学中の[[吉田松陰]]が鄭幹輔を幾度も訪ねて学んだが、崇福寺にも訪れている<ref>特定非営利活動法人・長崎史談会 [http://nagasaki-shidankai.org/old/2011/shidankai_dayori/2014/201502_shidandayori.pdf 史談会だより『吉田松陰の長崎遊学と地役人』] 日宇孝良 平成27年2月号 2頁 No.90</ref>。さらに、崇福寺の末寺である西山郷(現・長崎市上西山町)にあった大悲庵は、1848年(嘉永元年)に[[聖公会]]会員であった[[ラナルド・マクドナルド]]が英会話教室を開き、日本初のネイティブの英語教師として幕府の公式通詞14(蘭通詞)14名に教えた場所であり、日本の英語教育史において重要な位置を占めている。庵が所在した付近には、ラナルド・マクドナルド顕彰碑が建てられている<ref name="momoyama-1959"/>。隣にはマクドナルドに学び、[[黒船来航|ペリー艦隊来航]]時の日本側通訳を務めた[[森山栄之助]]の顕彰碑もあり、日本の対外交渉に大きな貢献をした両名の功績を讃えている<ref>4travel.com [https://4travel.jp/dm_shisetsu/11375626 『ラナルド マクドナルド 顕彰碑』]</ref>。<br />
立教大学の源流である最初の私塾が置かれた崇福寺広徳院は、現在は建物が存在せず、跡地は個人のお墓となっている<ref>立教経済人クラブ会報 No.77 [https://www.r-keizaijin.net/uploads/2019/04/bn077.pdf 『ウィリアムズ主教が召し上がった日本茶を訪ねて』] 2019年4月15日</ref>。崇福寺は、1862年(文久2年)に[[高杉晋作]]がウィリアムズから政治制度や国際情勢を学んだ[[高杉晋作]]が場所であり、潜伏していた場所とされるが<ref group="注釈" name="shinsaku"/><ref name="shinsaku-m"/>、2010年に放送された[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]「[[龍馬伝]]」でロケ地となり、[[伊勢谷友介]]演じる高杉晋作が、[[福山雅治]]演じる[[坂本龍馬]]と対面するシーンとして登場している<ref>長崎旅ネット [https://www.nagasaki-tabinet.com/course/location19 『大河ドラマ「龍馬伝」ロケ地巡りモデルコース』]</ref><ref name="ryomakaido">おーい!龍馬街道 [http://www.ryomakaido.com/2010/05/3930 『「龍馬伝」第3部長崎ロケスタート!』] 2010.5.27</ref>。坂本龍馬も実際に崇福寺を訪れていたことが分かっており<ref name="ryomakaido"/>、ウィリアムズ門下で社塾長を務めた瓜生寅の弟・[[瓜生震]]は、崇福寺にあった社で学び、龍馬とともに[[海援隊]]士としても活躍している<ref name="NGA"/>。また、社では龍馬の友人である林謙三(のちの[[安保清康]])も学んでいる<ref name="postalmuseum">井上卓朗 [https://www.postalmuseum.jp/publication/research/research_11_05.pdf 『日本文明の一大恩人』前島密の思想的背景と文明開化] 郵政博物館 研究紀要 第11号 2020年3月</ref>。
 
[[画像:崇福寺(長崎市) 大雄宝殿.jpg|250px|thumb|left|崇福寺大雄宝殿(国宝)]]
高杉晋作は、崇福寺に潜伏していた際に英語も学んでいるが、1865年(元治2年)に[[伊藤博文]](俊輔)と[[下関市|下関]]に寄港した英国商船ユニオン号に便乗して来崎した際にも、ウィリアムズがチャプレンを務める[[英国聖公会会堂]]の管理人であった英国商人の[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]と邸宅で接触してイギリス渡航を頼み、準備が整うまで間に長崎英国領事の[[ジョン・F・ラウダー]]に英語を学んだ。当時の長州の状況からラウダ―の説得で渡航を断念したが、下関の開港を勧められ、ラウダ―から貿易関連の書類を受け取り、下関に戻っている<ref name="shinsaku-m"/>。1865年(慶應元年7月27日)に伊藤博文が[[木戸孝允]](桂小五郎)に送った書簡では、ウィリアムズ門下の瓜生寅(三寅)と[[荘村省三]](助右衛門)が長崎で連携して活動していること伝えている<ref name="nakajima_2019"/>。その後、伊藤博文は、1867年(慶応3年)に長崎でグラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、薩摩藩士吉村荘蔵という仮名を使って[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]が居住した大徳寺に寓居した。この際、近くの[[長崎養生所|養生所]](小島養生所、日本最初の西洋式近代病院)にいた[[芳川顕正]](何礼之門下生、倍社塾生)に依頼して英語を学んでいるが、養生所と大徳寺は崇福寺と[[丸山 (長崎市)|丸山]]を挟んで近隣にあり、東山手居留地とも程近い場所にあった<ref>一般社団法人 長崎親善協会 [http://www.asahi-net.or.jp/~un4h-tkfj/katsudou.html 長崎フルベッキ研究会レポート『芳川顕正と伊藤博文』]</ref>。この養成所は精得館となった後、[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]](現・[[長崎大学]]医学部、および[[長崎大学病院]])の源流となり、精得館の理化学部門は、[[舎密局|大阪舎密局]]となった後、理学校などを経て、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]([[京都大学]]の前身校)の源流となっている<ref>livedoor News [https://news.livedoor.com/article/detail/23476347/ 『京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【前編】』] 2023年1月2日</ref>。
高杉晋作は、崇福寺に潜伏していた際に英語も学んでいるが、1865年(元治2年3月)に[[伊藤博文]](俊輔)と[[下関市|下関]]に寄港した英国商船ユニオン号に便乗して来崎した際にも、ウィリアムズがチャプレンを務める[[英国聖公会会堂]]の管理人であった英国商人の[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]と邸宅で接触してイギリス渡航を頼み、準備が整うまで間に長崎英国領事でウィリアムズとも親交の深い[[ジョン・F・ラウダー]]に英語を学んだ。当時の長州の状況からラウダ―の説得で渡航を断念したが、下関の開港を勧められ、ラウダ―から貿易関連の書類を受け取り、下関に戻っている<ref name="shinsaku-m"/><ref>国立国会図書館デジタルコレクション [https://dl.ndl.go.jp/pid/1234258/1/166 『世外井上公伝』] 第1巻,205-206頁,井上馨侯伝記編纂会 編,内外書籍,昭和8年</ref>。1865年(慶應元年7月末)に、伊藤博文(俊輔)と[[井上馨]](聞多)が長崎に赴いた際には、[[海援隊]]の周旋により薩摩藩蔵屋敷に潜伏し、夜になるとグラバー邸を訪ね、「薩摩の留守居役」として小銃と蒸気船の購入交渉を行い、長州藩は薩摩藩の名義によりグラバーから銃器や艦船を買い入れた<ref name="morikawa-2015">{{Cite journal|和書 |author=森川 潤 |title=青木周蔵の渡独前の修学歴(4)─長崎遊学時代 その一 蘭学一変の時節─ |journal=広島修大論集 |publisher=広島修道大学ひろしま未来協創センター |year=2015-09 |volume=56-1 |pages=1-24 |url=https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/2323 }}</ref>。この時、伊藤は吉村荘蔵、井上は山田新助と変名し薩摩藩士と称した<ref name="momoyama"/>。1865年(慶應元年7月27日)に伊藤博文が[[木戸孝允]](桂小五郎)に送った書簡では、ウィリアムズ門下の瓜生寅(三寅)と[[荘村省三]](助右衛門)が長崎で連携して活動していること伝えている<ref name="nakajima_2019"/>。その後、伊藤博文は、1867年(慶応3年10月)にも長崎でグラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、同様に薩摩藩士吉村荘蔵という仮名を使って旧暦11月下旬まで[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]が居住した大徳寺の別坊に寓居し潜伏した。この際、近くの[[長崎養生所|養生所]](小島養生所、日本最初の西洋式近代病院)にいた[[芳川顕正]](旧姓高橋、何礼之門下生、培社塾生)に依頼して同宿させ英語を学んでいるが{{#tag:ref|[[伊藤博文]]は1863年(文久3年)に、[[井上馨|井上聞多]]ら[[長州五傑]]の一員として[[ロンドン]]に半年間ほど留学していたため、英会話は相当の巧者であったが、読書力の素養に乏しかったので、芳川から習ったとのことである。芳川は伊藤の推挙により1870年(明治3年)に大蔵省に出仕し、その後文部、司法、内務、逓信各大臣を歴任した<ref>一般社団法人 長崎親善協会 [https://www.asahi-net.or.jp/~un4h-tkfj/katsudou.html 『芳川顕正と伊藤博文』] 長崎フルベッキ研究会レポート</ref>。|group="注釈"}}、養生所と大徳寺は崇福寺と[[丸山 (長崎市)|丸山]]を挟んで近隣にあり、東山手居留地とも程近い場所にあった<ref name="morikawa-2015"/><ref>一般社団法人 長崎親善協会 [https://www.asahi-net.or.jp/~un4h-tkfj/katsudou.html 長崎フルベッキ研究会レポート『芳川顕正と伊藤博文』]</ref>。この養成所は精得館となった後、[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]](現・[[長崎大学]]医学部、および[[長崎大学病院]])の源流となり、精得館の理化学部門は、[[舎密局|大阪舎密局]]となった後、理学校などを経て、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]([[京都大学]]の前身校)の源流となっている<ref>livedoor News [https://news.livedoor.com/article/detail/23476347/ 『京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【前編】』] 2023年1月2日</ref>。<br />
フルベッキが寓居した大徳寺は、後述のウィリアムズの私塾で学んだ[[大隈重信]]がフルベッキからも学んだ場所の一つでもあり、現在大徳寺跡地(大徳寺公園、梅香崎神社)には、「大隈重信公揺籃の地」と「フルベッキ博士寓居の地」の案内碑が立っている<ref>FOURSQUARE CITY GUIDE [https://ja.foursquare.com/v/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1%E5%85%AC%E6%8F%BA%E7%B1%83%E3%81%AE%E5%9C%B0%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E5%AF%93%E5%B1%85%E3%81%AE%E5%9C%B0/5924ec36780eee0a068bf64e 『大隈重信公揺籃の地・フルベッキ博士寓居の地』]</ref>。また、大徳寺の程近くには、[[薩摩藩]]蔵屋敷と屋敷に隣接して[[浜崎太平次]]のヤマキ長崎店があり、同屋敷は[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]、[[小松清廉|小松帯刀]]、[[五代友厚]]、[[寺島宗則]]らの薩摩藩士の活動に加えて、上述の薩摩藩名義で物資購入を行う長州の伊藤博文、井上馨と、[[亀山社中]]の坂本龍馬も屋敷に匿われて活動したとされる{{#tag:ref|[[西郷隆盛]]は[[勝海舟]]から[[坂本龍馬]]を託された際、進んで[[亀山社中]]の支援を成し、薩摩藩は亀山社中に資金援助を行っていた<ref>長崎よかナビ! [https://www.nagasaki-yokanavi.net/is/ryoma/meguri/meguri13.html 『薩摩藩蔵屋敷跡』] 龍馬をめぐる小旅行,龍馬と長崎</ref>。|group="注釈"}}<ref>一般社団法人 長崎親善協会 [https://www.asahi-net.or.jp/~un4h-tkfj/katsudou.html 『野村盛秀日記』] 長崎フルベッキ研究会レポート</ref><ref>鹿児島県観光サイト かごしまの旅 [https://www.kagoshima-kankou.com/feature/segodonguide/history 長崎「長崎薩摩藩 蔵屋敷跡」] 日本全国で活動した西郷隆盛,公益社団法人鹿児島県観光連盟</ref><ref>長崎市史跡案内板 [http://tokyosuicatree.web.fc2.com/douzamachi.htm 『鹿児島(薩摩)藩蔵屋敷跡案内板』] 幕末維新の現場を歩く,No.06 長崎</ref>。
 
==== ラナルド・マクドナルド研究 ====
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=== 築地キャンパス(立教と聖路加) ===
立教大学の前身の一つである立教学校は、1874年(明治7年)2月3日に築地居留地に開設された。1878年(明治11年)10月には、前年10月にウィリアムズが東京・入船町の邸内で家塾のかたちで始めた東京三一神学校を母体に、[[イギリス海外福音伝道会|英国聖公会福音宣布協会]](SPG)と[[米国聖公会]]の共同神学校として形容が整い、新たな「東京三一神学校」([[聖公会神学院]]の前身の一つ)が開設されたほか<ref>{{Cite journal|和書 |author=平沢信康 |title=近代日本の教育とキリスト教(4) : 明治初期・欧化主義の時代におけるキリスト者の教育活動 |journal=学術研究紀要 / 鹿屋体育大学 |publisher=鹿屋体育大学 |date=1995-10-01 |issue=14 |pages=63-80 |url=http://id.nii.ac.jp/1609/00000227/}}</ref>、同1878年(明治11年)には、[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ジョン・パイパー]]が築地居留地52番に「聖保羅教会(セントポール教会)」を創設して、同年5月5日に献堂式を迎えると、翌1879年(明治12年)12月には教会の隣に「明教学校」が開校した<ref name="natori-2004"/>。[[湯島]]で設立された[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学校]]も1879年(明治12年)12月に築地に移転した。こうした築地居留地への拠点の集積には、これまで居留地以外への外国人の居住にわりと寛大であった明治政府が、1877年(明治10年)に、外国人に対する居留地外居住の許可を取り消し、外国人はすべて居留地内に住むよう厳密に求めるようになり、市内に居住していたほぼすべての宣教師たちが居留地に引き揚げることとなったことも影響した<ref name="natori-2004"/>。<br />
==== 概要 ====
立教大学の前身の一つである立教学校は明治初期に築地居留地に開設されたが、1880年(明治13年)になると、[[米国聖公会]]から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、ウィリアムズは築地居留地に学校、教会、病院からなるアメリカのカレッジ型のキャンパス施設群を計画した<ref name="history2"/>。その後、拡張計画を踏まえ施設を構築するため、居留地の区画競売で新規に土地を入手し、立教大学校<ref group="注釈" name="rikkyo-college"/>、聖三一大聖堂などを建設。[[湯島]]で設立された[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学校]]も築地に移転し、築地居留地に聖公会の拠点を増やが拡大していく。明治中期には、[[大隈重信]]の尽力もあり、総計約2万1476平方メートル、築地居留地全体の約22.2%を聖公会の土地とし、立教と[[聖路加国際病院|聖路加]]の聖公会関連の建物が立ち並ぶ築地キャンパスを構成することとなった<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。
 
==== 慶應義塾発祥の地 ====
[[画像:Keio University Tokyo 1869.jpg|230px|thumb|[[江戸]][[築地]]鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学塾「一小家塾」(画面中央左側築山下の平地、慶應義塾発祥の地および立教大学校創設の地)]]
築地居留地37番~40番の「立教大学校校舎、主教館、聖三一大聖堂、ガーディナー邸」(現在の[[聖路加国際病院]]の敷地内)は、[[岡見彦三]]が開設していた[[慶應義塾]]の起源となる[[蘭学塾]]「一小家塾」の講師として招かれた[[福澤諭吉]]が、1858年(安政5年)に講師に着任した場所([[中津藩]][[江戸藩邸|中屋敷]]跡地)であり、立教大学と[[慶應義塾大学]]は同じ地で創生期が形づくられた<ref name="keio-tsukiji">[https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/relation/entry/relation_064701.html 慶應義塾大学「慶應義塾発祥の地記念碑」]</ref><ref>ウィンベル教育研究所 [http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/fukuzawa/win0050001.html 『西洋事情』初編 解説]</ref>。慶應義塾大学はこの福澤が講師に着任した1858年(安政5年)を創立の年としている。福澤諭吉が講師に着任する前には、岡見彦三に招かれた[[杉亨二]]や[[寺島宗則|松木弘庵]](のちの寺島宗則)が福澤の前任の講師として、この一小家塾で教えた<ref>慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション [https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a52/116 『福翁自傳』] 時事新報社 百五十三頁 1899年</ref>。杉亨二は1853年(嘉永6年)に塾講師に着任し<ref>三田評論 福澤諭吉をめぐる人々 [https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201702-1.html 『杉 亨二』中津藩中屋敷で教える]</ref>、松木弘庵は1855年(安政2年)に塾講師に着任している<ref>岩倉使節団 米欧亜回覧の会 歴史部会:10月度開催報告「使節団が外国で会った日本人」[httphttps://web.archive.org/web/20230614005753/https://www.iwakura-mission.gr.jp/archives/3718 『3.寺島宗則』] 2021年10月26日</ref>。1866年(慶應2年)には、この中津藩中屋敷内に[[紀州藩]]が費用を負担して開設した「紀州塾」も置かれている<ref>慶應義塾大学 通信教育課程 [https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/relation/entry/relation_064727.html 『和歌山県「紀州塾」』]</ref>。<br />
また福澤は、この鉄砲洲の中津藩中屋敷に居住し、その一小家塾で蘭学の講師をしていた時に、[[日米修好通商条約]]によって新たな外国人居留地となった[[横浜市|横浜]]へと出かけ、以前から学んできた[[オランダ語]]が外国人に通じないことに衝撃を受けて、英語の必要性を痛感している。そこで、福澤は、前述の[[ラナルド・マクドナルド]]の教え子で、[[黒船来航|ペリー来航]]時の日本側通訳を務めた[[森山栄之助]]が江戸[[小石川]]で開いていた英語塾で学ぶために、この鉄砲洲の屋敷から日参で通うなど、その後英語学習をしていくこととなった<ref>{{Cite journal|和書 |author=飯田 鼎 |title=福地桜痴と福沢諭吉 : 『懐往事談』と『福翁自伝』をめぐって |journal=三田学会雑誌 |issn=00266760 |publisher=慶應義塾経済学会 |year=1990 |volume=82 |issue=4 |pages=669-693 |url=https://doi.org/10.14991/001.19900101-0001 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=石原 千里 |title=ラナルド・マクドナルドの生徒たち |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1990 |volume=1991 |issue=23 |pages=57-82 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1991.57 }}</ref>。さらに福澤は、後に、この築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で預かっていた「一小家塾」<ref name="moralogy">{{PDFlink|公益財団法人モラロジー道徳教育財団 道徳科学研究センター特別研究会 [https://www.moralogy.jp/admin/wp-content/files/themes/mor/img_research/79_5-32.pdf 『福澤諭吉の近代社会構想と中津』] 西澤直子,慶應義塾福澤研究センター,2016年10月26日}}</ref> を芝新銭座(現・[[港区 (東京都)|港区]][[浜松町]])へ移転し、1868年(慶應4年)4月に新しい近代学塾として「[[慶應義塾]]」を創設することになるが、塾の創設に際し、1862年5月(文久2年4月)に[[文久遣欧使節]]として[[イギリス]]滞在中の福澤が、医師の{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}の案内で訪問した[[英国国教会]]の[[パブリックスクール]]である[[キングス・カレッジ・スクール]]をモデルとした<ref name="mita-hyoron-201008">三田論評 [https://web.archive.org/web/20230331080510/https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1008_1.html 『ロンドン(その四)―キングス・コレッジ・スクールとロイヤル・アーセナル』] 加藤三明,第49回 2010年8・9月合併号掲載</ref><ref name="mita-hyoron-201801">三田論評ONLINE [https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201801-1.html 『【福澤諭吉をめぐる人々】ドクトルチャンブルスとドクトルジョンソン』] 山内慶太,2018/1/1</ref>。
 
築地の当地にある「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に聖路加国際病院敷地内に建立されたが、1982年(昭和57年)に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の交差点ロータリー(現在の場所)に移転されている<ref name="keio-tsukiji"/><ref>慶應義塾大学 [https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2023/6/ Keio Times(特集)『各地に建立された慶應義塾「記念碑」』] 2023/06/28</ref>。またこの地は、1774年(安永3年)に中津藩医で蘭学者でもあった[[前野良沢]]が、[[杉田玄白]]らと共にオランダ解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「[[解体新書]]」を著した場所でもある<ref name="japan47go">公益財団法人日本観光振興協会・JAPAN 47GO [https://www.japan47go.travel/ja/detail/2304ffa3-b71a-4d5b-b9b2-7305687ed935 『蘭学事始の地』]</ref><ref>viva!edo [https://www.viva-edo.com/kinenhi/tukiji2/rangaku.html 『蘭学事始の地』]</ref>。慶應義塾発祥の地記念碑の隣には、近代医学発祥の基礎を築いた解体新書を記念した「蘭学事始の地」の石碑も建てられている<ref name="japan47go"/>。
 
==== 築地居留地鳥瞰図 ====
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上記絵図は、[[ジェームズ・ガーディナー]]立教学校初代校長が描いたもので、1894年(明治27年)のSpirit of Missionsに掲載され、当時の立教築地キャンパスと築地居留地の全体像がよく分かる貴重な資料となっている。中央部に立教大学校校舎(築地居留地37番)、主教館(築地居留地38番)、聖三一大聖堂(築地居留地39番)、三一神学校(築地居留地53番)、三一会館(築地居留地54番)などが確認できる。1894年(明治27年)以前に描かれた絵図のため、それ以後(1895年以後)に竣工した立教中学校寄宿舎(築地居留地59番、60番)、立教中学校校舎「六角塔」(築地居留地57番、58番)などは完成予想図として実際に建てられた建物とは異なる構造物として描かれている。また、聖三一大聖堂の横に描かれている居留地内でもひと際高い尖塔は、その他の写真資料でも確認できず、実際には建築されなかったものと考えられる。<br />
[[画像:立教中学校寄宿舎と校舎 六角塔.jpg|230px|thumb|立教中学校寄宿舎(左)、立教中学校校舎「六角塔」(右)]]
1894年(明治27年)6月の[[明治東京地震]]で、立教大学校校舎などの初期のガーディナー設計の作品が被害にあった。そのため、以後ガーディナーは耐震性に配慮した設計を行うことになるが、絵図中に完成予想図として描かれた立教中学校寄宿舎、立教中学校校舎「六角塔」は、実際には、当初の設計・構造を変更し、建物上部に軽量の木材を利用し、絵図とは異なる形状の建物として建築されることとなったと考えられる。ガーディナーの当時の設計変更が汲み取れる資料ともいえる。1896年(明治29年)には、聖公会の愛恵病院{{Refnest|group="注釈"|愛恵病院(英語名:Tokyo Dispensary)は、1890年(明治23年)ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に開設<ref name="tsukuba-gakuin"/>。}}が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院と改称して開設され、その後1899年(明治32年)に一度は閉院するが、1901年(明治34年)には、[[ジョン・マキム]]の要請により来日した[[ルドルフ・トイスラー]]が、同じ築地居留地37番に築地病院を前身とする聖路加病院(現在の[[聖路加国際病院]])を開設し、病院を再建した<ref name="tsukuba-gakuin">{{PDFlink|[https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2018/23KAWASAKI.pdf 聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して― 筑波学院大学紀要第13集 川崎晴朗]}}</ref>。こうして当初のウィリアムズの計画通り、学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス施設が整備されていったのである。
[[画像:三一会館と三一神学校・付属図書館.jpg|230px|thumb|left|三一会館(左)と三一神学校・付属図書館(右)]]
1910年(明治43年)には、学生数の増加に伴いさらなる設備拡充が求められたことから、北豊島郡巣鴨村大字池袋(現在の池袋)に大学移転用地を購入。1919年(大正8年)に池袋キャンパスを開設し、大学施設は築地から池袋へ移転することになるが、その後も築地キャンパスには立教中学校や立教女学校、清国留学生のための[[志成学校]]、聖路加の病院施設等は所在しつづけていた。1920年(大正9年)には築地に[[聖路加国際病院]]付属高等看護婦学校が設立された。しかし、1923年(大正12年)の[[関東大震災]]により築地の校舎群が損壊、焼失したことから、中学校と女学校は築地から移転、志成学校は閉校し、築地キャンパスには看護学校以外の学校施設は姿を消すこととなった。聖路加の病院施設も倒壊するが、入院患者80名を[[学校法人青山学院|青山学院]]の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。また、震災後も築地には立教幼稚園があった<ref name="rikkyonews_06"/>。
 
現在、築地の立教の関連施設があった場所には[[聖路加国際病院]]と[[聖路加国際大学]]に加え、隣接して建っていた[[駐日アメリカ合衆国大使館|米国公使館]]跡には[[聖路加タワー]]などが所在している。聖路加国際病院礼拝堂、トイスラー記念館、聖路加国際病院旧病棟の建物は、池袋の立教学院公宅(旧宣教師館、解体材が倉庫保存)や立教女学院高等学校校舎、聖マーガレット礼拝堂等も設計した[[J・V・W・バーガミニー]]の作品である。
 
[[画像:Josiah-Conder-Portrait-1.jpg|170px|thumb|left|[[ジョサイア・コンドル]]<br><small>立教教会の内装装飾のほか、[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校]]、[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学校]]、[[聖アンデレ教会]]、[[横浜山手聖公会]]聖堂など聖公会関連の建物も多く手掛けた。</small>]]
==== 聖三一大聖堂(立教教会) ====
[[画像:築地三一教会内部 1900.jpg|230px|thumb|聖三一大聖堂(立教教会)内部]]
築地キャンパスにあった1889年(明治22年)12月1日竣工のガーディナー設計の築地・聖三一大聖堂(築地居留地39番)は、建物はゴシック様式で、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)あり、フランス製のステンドグラスが設けられていた<ref group="注釈" name="organ_history"/>。1893年(明治26年)に内部装飾をガーディナーの親友の[[ジョサイア・コンドル]]が手掛けた<ref>産業技術史資料データベース [https://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=102210261577 『築地トリニティ教会室内装飾(図面8枚)』]</ref><ref>京都大学 貴重資料デジタルアーカイブ [https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00020086 『築地トリニティ教会室内装飾』]</ref>。コンドルは、1899年(明治32年)に立教女学校の新校舎・寄宿舎(築地居留地38番)も設計している。<br />
1901年(明治34年)2月2日には、日本政府により英国[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の遥葬式が執り行われた。参列者には皇族に加えて、[[伊藤博文]]内閣総理大臣、[[加藤高明]]外務大臣、[[末松謙澄]]内務大臣、[[渡邊國武]]大蔵大臣、[[山本権兵衛]]海軍大臣、[[金子堅太郎]]司法大臣、[[松田正久]]文部大臣、[[林有造]]農商務大臣、[[原敬]]逓信大臣、[[鮫島武之助]]内閣書記官長など日本政府の閣僚(第4次伊藤内閣)と[[大隈重信]]、[[青木周蔵]]、岩倉公、近衛公を始めとする名士たちが各国公使らとともに一同に列席した<ref name="r-archives_19010208">立教史データベース 基督教週報第2巻第22号 [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『教報/英国女皇遥葬式』] 1901年2月8日</ref>。
また、1901年(明治34年)9月26日には、米国[[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー]]大統領の遥葬式があり、米国特命全権公使{{仮リンク|アルフレッド・バック|en|Alfred Eliab Buck}}を喪主として、この時も皇族に加え、[[桂太郎]]内閣総理大臣を始めとする主要閣僚と名士たちが参集した。米国の要人の護衛としてハッチ大佐率いる米国水兵二小隊がつき、日本側からも近衛騎兵半小隊が要人の護衛の任務についた。参列者は各国公使や領事を含め400名を超えたという<ref name="r-archives_19011004">立教史データベース 基督教週報第4巻第5号 [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『教報/東京三一大会堂に於ける故米国大統領遥葬式』] 1901年10月4日</ref>。このように、築地キャンパスと聖三一大聖堂は、英米両国と日本の友好関係を象徴する場所であり、日本の国家行事にも使われた。<br />
1900年(明治33年)2月2日には、日本キリスト教界で未曽有の盛典として{{仮リンク|シドニー・パートリッジ|en|Sidney Catlin Partridge}}の聖公会京都監督(主教)の聖別按手式が、聖公会各監督及び聖職者ら80余名により各派キリスト教界の名士や市内聖公会会員ら500人余りの来賓者を迎えて聖三一大聖堂で行われた。来賓の中には、[[アーネスト・サトウ]]([[駐日英国大使|駐日英国公使]]、立教大学の父兄/[[武田栄太郎]]の父)、アルフレッド・バック([[駐日アメリカ合衆国大使|駐日米国公使]])、[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ]]([[日本ハリストス正教会|日本正教会]]創建者、初代日本大主教)がいた。式ではパイプオルガンの音色が堂内に響き渡り、[[賛美歌]]が予てから準備していた[[学校法人立教学院|立教学院]]と[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学校]]の生徒たちによって歌われ威儀厳然の様相だった<ref name="r-archives_19000302">立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『京都監督パートリッヂ博士聖別式紀念附録』] 基督教週報第1巻第1号付録,1900年3月2日</ref>。
聖三一大聖堂(現在に続く東京聖三一教会)は、1883年(明治16年)に創設された立教大学校の学生と、同じ校舎に併設された東京三一神学校(現・[[聖公会神学院]])の学生、および築地を中心とする周辺の信徒、求道者が当初は教室で、翌年からは講堂で立教教会の名称で集会を開いたことに始まる。先述した1889年(明治22年)12月には、立教大学校に隣接する築地居留地39番に大聖堂が竣工し、築地の各集会所の会衆と深川聖三一教会(後の真光教会)から分かれた会衆により教会が発足すると、従前どおり、立教教会と呼ばれた<ref name="trinity-tokyo"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=鵜川 馨 |title=神学者の軌跡 : 落合吉之助博士 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学 |year=1981-02 |issue=17 |pages=89-111 |url=https://stars.repo.nii.ac.jp/records/2366 }}</ref>。
 
聖三一大聖堂(現在に続く東京聖三一教会)は、1883年(明治16年)に創設された立教大学校の学生と、同じ校舎に併設された東京三一神学校(現・[[聖公会神学院]])の学生、および築地を中心とする周辺の信徒、求道者が当初は教室で、翌年からは講堂で立教教会の名称で集会を開いたことに始まる。先述した1889年(明治22年)12月には、立教大学校(築地居留地37番)に主教館(築地居留地38番)を挟んで隣接する築地居留地39番に大聖堂が竣工し、築地の各集会所の会衆と深川聖三一教会(後の真光教会)から分かれた会衆により教会が発足すると、従前どおり、立教教会と呼ばれた<ref name="trinity-tokyo"/><ref>{{Cite journal|和書 |author=鵜川 馨 |title=神学者の軌跡 : 落合吉之助博士 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学 |year=1981-02 |issue=17 |pages=89-111 |url=https://stars.repo.nii.ac.jp/records/2366 }}</ref>。
==== トイスラー記念館 ====
 
1933年(昭和8年)に、明石町19番地(前・築地居留地19番)に[[聖路加国際病院]]の宣教師館(後のトイスラー記念館)建てられた。設計はJ・V・W・バーガミニーで、施工は清水組(現・[[清水建設]])が行った<ref name="settlements">居留地ものがたり [http://www.settlements.sakura.ne.jp/pages.htm 『トイスラー記念館』] 中央区教育委員会 平成18年3月</ref>。この築地居留地19番は、フランス人のハアボール・ブラントが所有した後に[[米国聖公会]]の手に渡り、[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]関連の建物があったと思われ、そこに新しく宣教師館が建てられたものであった<ref>越谷市郷土研究会 [http://koshigayahistory.org/709.pdf 第243回『史跡めぐり』資料] 平成9年7月27日</ref>。トイスラー記念館は1989年(平成元年)に解体され、1998年(平成10年)2月に現在地へ移築復元された<ref name="settlements"/>。
==== トイスラー記念館と立教学校の開校地 ====
1933年(昭和8年)に、明石町19番地(前・築地居留地19番)に[[聖路加国際病院]]の宣教師館(後のトイスラー記念館)建てられた。設計はJ・V・W・バーガミニーで、施工は清水組(現・[[清水建設]])が行った<ref name="settlements">居留地ものがたり [http://www.settlements.sakura.ne.jp/pages.htm 『トイスラー記念館』] 中央区教育委員会 平成18年3月</ref>。この築地居留地19番は、フランス人のハアボール・ブラントが所有した後に[[米国聖公会]]の手に渡り、[[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]関連の建物があったと思われ、そこに新しく宣教師館が建てられたものであった<ref>越谷市郷土研究会 [http://koshigayahistory.org/709.pdf 第243回『史跡めぐり』資料] 平成9年7月27日</ref>。また、築地居留地19番は、立教学校の開校地とされる詩人[[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー|ロングフェロー]]の子息C・A・ロングフェロー(Charles A. Longfellow)の居宅があった場所とする説もある<ref group="注釈" name="rikkyo-1874"/>。<br />
その後、トイスラー記念館は1989年(平成元年)に解体され、1998年(平成10年)2月に現在地へ移築復元された<ref name="settlements"/>。<br />
さらに、この築地居留地19番地の北側に隣接する築地居留地18番地は、ウィリアムズと親交のあった[[スコットランド一致長老教会]]の医療宣教師で[[築地病院]](健康社)の創設者である[[ヘンリー・フォールズ]]が居住した宣教師館があった場所である<ref>{{Cite journal|和書 |author=長尾 史郎,高畑 美代子 |title=ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観』[第14章] |journal=明治大学教養論集 |issn=0389-6005 |publisher=明治大学教養論集刊行会 |year=2021-12 |volume=559 |pages=171-203 |url=https://hdl.handle.net/10291/22149 }}</ref>。フォールズが1886年(明治19年)に帰国して、築地病院(健康社)も1888年(明治21年)に閉院したのち、この築地居留地18番地は築地病院(健康社)で働いていたイギリス人薬剤師トンプソン(Arthur W. Thompson)の所有地となっていたが、1890年(明治23年)3月11日に米国聖公会の宣教医師の[[ジョン・セルウッド]]が来日すると、この地で医療宣教に従事し、同年5月5日からトンプソンとともに診療活動を開始した<ref name="medical_mission"/>。現在この地には「ヘンリー・フォールズ住居の跡」の碑が建てられている<ref>明治学院 日本はじめて物語 [https://shiryokan.meijigakuin.jp/wp-content/uploads/hajimete2_pdf.pdf 『世界初の指紋研究者 フォールズ博士』]</ref>。
 
=== 立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史) ===
[[画像:Ōkuma Shigenobu.jpg|thumb|180px|大隈重信]]
[[大隈重信]]は、幕末に[[長崎市|長崎]]で[[チャニング・ウィリアムズ]]から英語、数学など英学を学び、[[致遠館]]督学となる[[副島種臣]](第4代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、第3代[[外務大臣 (日本)|外務卿]])や、のちに[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現・[[早稲田大学]])の2代目校長となる[[前島密]]らとともに立教大学創設者ウィリアムズに師事した最初の弟子の一人であった<ref group="注釈" name="doc_Okuma"/><ref name="history2kyoto"/><ref name="history4history2"/><ref name="kyotohistory4"/>。<br />大隈はウィリアムズの盟友の[[グイド・フルベッキ]]にも師事し英学を学んだ。ウィリアムズとフルベッキは私塾での教授に加えて共に[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]で教鞭を執った<ref>{{Cite journal|和書 |author=杉本つとむ |title=続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育 |journal=早稲田大学図書館紀要 |issn=02892502 |publisher=早稲田大学図書館 |year=1995 |month=dec |issue=42 |pages=1-55 |naid=40003930216 |url=https://hdl.handle.net/2065/00055868}}</ref><ref>[https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%8D%81%E7%AB%A0 『早稲田大学百年史』 第一巻 第一編 第十章 フルベッキ来朝]</ref>。当時の教材は[[新約聖書]]や[[アメリカ合衆国憲法|合衆国憲法]]に加え、[[アメリカ独立宣言]]であった。独立宣言の「人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利である。」との声明は、近世封建社会下にあった日本の青年の心に火をつける。かくして、大隈は日本の政治上の近代化のために大志を抱くこととなり、生涯に渡って大きな影響を受けることとなった<ref name="waseda_100_Jefferson">[https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80%E7%AB%A0 『早稲田大学百年史』 第一巻 第一編 第十一章 ジェファソンと大隈重信]</ref>。アメリカ独立宣言起草者の[[トーマス・ジェファーソン]]はアメリカで[[ハーバード大学]]に次いで2番目に古い歴史を持つ、ウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学|ウィリアム&メアリー大学]]の卒業生でもあり、ウィリアムズにとっても同郷[[バージニア州|バージニア]]出身の立志伝中の英雄であった。<br />
大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じて[[バージニア大学]]を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語っている<ref name="waseda_100_Jefferson"/>。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、[[早稲田大学]]では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている<ref name="waseda_100_Jefferson"/>{{Refnest|group="注釈"|リギンズとウィリアムズとともに幕末の長崎に[[米国聖公会]]から派遣され、英語と医学を教えた[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]、現在の立教学院の基礎を築いた[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|ヘンリー・タッカー]]は、バージニア大学で学んでいる。}}。<br />
また、大隈は、[[浦上四番崩れ]]についてのイギリス公使[[ハリー・パークス|パークス]]との交渉で、一時的に問題を解決し、新政府内で頭角を現し政治家として大成していく契機となったが、交渉が成功を収めたのはウィリアムズとフルベッキから英学とともに、キリスト教の知識を学び会得していたからであった。大隈は、キリスト教の教義から知りえた、等しく社会の人心に向かって道徳を保持する目的があると心得ていたことにより、日本の外交官の中にも無学無智ではなく、一通りキリスト教の教義を勉強したものがいるものだと親しみを持たれ交渉が進められたのは、全てその時に学んだ経験の恩恵であったと述懐している<ref name="Okuma_oldtale"/>。<br /><br />
 
[[画像:Oranda Zaka Nagasaki Japan07s5.jpg|thumb|left|300px|現在の長崎・東山手(英国聖公会会堂跡・C.M.ウィリアムズ宣教師館跡付近)]]
立教大学も[[早稲田大学]]も、ともに[[長崎市|長崎]]に源流を持つ。大隈は、[[聖公会]]が設立した私塾や[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]でウィリアムズとフルベッキから英学を学んだ後、1867年(慶応3年)、同じく長崎で早稲田大学の源流となる佐賀藩の英学校「蕃学稽古所(翌1868年に[[致遠館]]と改称)」をフルベッキを教師に迎えて[[副島種臣]]とともに開設のために尽力したのち、教頭格として指導にあたったが<ref name="momoyama2"/>、立教大学の源流も1859年(安政6年)に[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]とウィリアムズが、プロテスタント初のミッションとして長崎で初代米国総領事[[タウンゼント・ハリス]]の支援のもとに開設した私塾にあり、両大学ともに幕末の長崎からの歴史をこれまで繋いできたのである<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/499275 |title=『東洋経済ONLINE』 大隈重信没後百年「早稲田の源流」は長崎にあった |accessdate=2022-01-12}}</ref>。ウィリアムズもフルベッキも来日後、同じ[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]に住み<ref name="history3nagasakigaidai"/><ref name="nagasakigaidaihistory3"/>、その後、外国人のために整備された長崎・[[東山手]]外国人居留地でも、それぞれ五番館と三番館と近所に居を構えた<ref name="medical2"/>{{Refnest|group="注釈"|三番館に隣接する四番館には、[[米国聖公会]]宣教医の[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]が住んだ<ref name="medical2"/>。}}。1862年(文久2年)に、東山手居留地内(11番地)に設立された日本で最初のプロテスタントの教会である[[英国聖公会会堂]]の初代チャプレンをウィリアムズが務め、2代目チャプレンはフルベッキが務めた<ref name="history06"/><ref name="first"/>。[[坂本龍馬]]が中心となって結成した[[亀山社中]]や、[[長州藩]]の[[伊藤博文]]や[[井上馨]]とも取引を行った[[グラバー商会]]も隣接する大浦居留地の2番にあり<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0909/index.html 『長崎Webマガジン』幕末の勇者が歩いた道 ]</ref>、[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]は英国聖公会会堂の管理人の一人であった<ref name="nias"/>。大隈も他の志士と同じようにウィリアムズとフルベッキの私塾に通い、教えを乞うたのである<ref name="Okuma_oldtale"/>。大隈はウィリアムズの私塾で儒学者の[[谷口藍田]]と親しくなり、盟友になっていくこととなった<ref name="名前なし_2-20240110212613"/>。ウィリアムズを訪れる日本の志士は、公式な訪問を避けるために夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をすることもあった<ref name="mission2"/>。その中には、[[熊本藩|肥後藩]]の海軍司令官で、[[坂本龍馬]]と肥後藩を[[薩長同盟]]に加えようと画策した[[荘村省三]](助右衛門)も含まれていた<ref group="注釈" name="shoumura"/>。<br /><br />
 
後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。演説の中で大隈は、「我輩が青年時代、ウィリアムズ師が長崎在住時代に同師から親しく教えを受けたことがある。この意味で私も立教大学同窓生の一人である。」と述べ、かっさいを博した<ref name="rikkyo_shinbun_205"/><ref name="rikkyo_shinbun_239">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/65(S40)1215_239_1.pdf 立教大学新聞 第239号 1965年12月15日]}}</ref>。<br />
後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。演説の中で大隈は、「我輩が青年時代、ウィリアムズ師が長崎在住時代に同師から親しく教えを受けたことがある。この意味で私も立教大学同窓生の一人である。」と述べ、かっさいを博した{{#tag:ref|大隈と親交のあった[[元田作之進]]も、大隈が亡くなった際に寄稿した基督教週報の記事の中で、「ウィリアムズの一弟子であった大隈侯は常に立教学院のために大なる同情を有していたが、立教大学落成式の席上において行った熱弁は今もなお同列者の記憶するところとなった」と伝えている<ref>立教史データベース [https://archives.rikkyo.ac.jp/ 『大隈侯の薨去を悼む 元田作之進』] 基督教週報第44巻第21号,1922年1月27日</ref>。|group="注釈"}}<ref name="rikkyo_shinbun_205"/><ref name="rikkyo_shinbun_239">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/65(S40)1215_239_1.pdf 立教大学新聞 第239号 1965年12月15日]}}</ref>。<br />
大隈が立教[[#築地キャンパス(立教と聖路加)|築地キャンパス]]の形成に尽力したことは立教大学との縁故の一つである<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。アメリカ合衆国式のカレッジを日本に建設するとの計画のもと、新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる[[米国聖公会]]のキャンパス拡張に大きく貢献したのである。大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても同窓生の一人であり、創成期の発展に貢献した功労者で重要な人物であった。
 
また、大隈重信は[[聖路加国際病院|聖路加病院]]の国際病院化と新病院建設計画を支援するため、1914年(大正3年)に聖路加国際病院設立評議会を設立し会長に就任した。評議会の実行委員として立教大学校出身の[[阪井徳太郎]]も活躍し、政財界の有力者たちによる支援の輪が広がっていく。こうしてウィリアムズの元で学んだ大隈と阪井の尽力により、聖路加病院はトイスラーのもとで新病院を建設し、聖路加国際病院へと発展していくこととなった<ref>{{PDFlink|[http://www.business-creator.org/wp-content/uploads/2011/01/gakkaishi1-06.pdf ビジネスクリエーター研究・創刊号『病院組織の発展段階モデルの検証―聖路加国際病院の事例研究』羽田明浩 立教大学大学院 2009年11月]}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=藤本大士 |title=医療宣教師トイスラーの文化外交 : 1911‐1917年の聖路加病院国際病院化計画における日米政財界の協力 |journal=アメリカ太平洋研究 |issn=1346-2989 |publisher=東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター |year=2020-03 |issue=20 |pages=75-91 |url=https://doi.org/10.15083/00079696}}</ref>。
 
 
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=== 聖公会ミッションの医療活動の歴史 ===
==== ミッションの医療活動 ====
[[画像:Episcopal Church Missionary Headquarters.jpg|thumb|230px|米国聖公会伝道本部のチャーチ・ミッション・ハウス]]
立教大学は、開設以来、幾度と医学部の開設を構想してきた<ref name="history_of_rikkyo_university"/>。立教大学を創設した[[米国聖公会]]の[[ミッション]]は、教会を設立して伝道を行うとともに、教育活動と医療活動を展開していくことが活動の本質であった([[#年表]]を参照)。ミッションにおいて教育活動の中心となるのが学校や寄宿舎で、医療活動の中心となるのが病院や診療所であり、米国聖公会は1859年(安政6年)、幕末の長崎で日本ミッションを開設した当初から、これらの開設と運営を進めてきた<ref name="mission2"/><ref name="chapel-news">立教大学 CHAPEL NEWS [https://www.rikkyo.ac.jp/about/introduction/chapel/news/mknpps000001dht6-att/CN619_P2-3.pdf 「立教」と「セント・ポールズ」] べレク・スミス 2022年1月</ref>{{Refnest|group="注釈"|禁教化の幕末において、英学教育と医療活動、在日外国人向けの礼拝は行うことができた。}}。米国初代総領事で熱心な聖公会員であった[[タウンゼント・ハリス]]が、米国[[全権委員|全権代表]]として締結した[[日米修好通商条約]]に本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えることで宣教師の来日が可能になったが、ハリスも米国聖公会の遣清宣教師であった[[エドワード・サイル]]に対し、英語を教える学校の開設と医師による医療事業の開始を伝道上の良策として提言し、聖公会の教育と医療を軸とする伝道施策展開の基本姿勢として活かされ、現在に続く教育事業と医療事業として実を結んでいる<ref name="t-shiga">{{Cite journal|和書 |author=志賀 智江 |title=明治・大正期におけるキリスト教主義保育者養成 |journal=青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 |issn=0919-5939 |publisher=青山学院女子短期大学 |year=1996-12 |volume=4 |pages=67-108 |url=https://doi.org/10.34321/995 }}</ref>。<br />
 
{{Cquote|日本人は条約上の義務を極めて慎重に遵守するであろう。将来の伝道の成功は一に最初に派遣される宣教師の行為にかかっており、もし彼が慎重堅忍よく慮って、熱心に駆られて行き過ぎることのない様に自制して働くならば、必ずや最後の栄冠を受けるだろう。英語を教える学校を開き、あるいは医師が診療事業を開始するなどは伝道上の良策であろう。読み書きが日本ほど普及しているところは世界のどこにもないであろう。|20px|空引数|タウンゼント・ハリス|日本聖公会百年史}}
 
[[画像:St.-Mark's-in-the-Bouwerie exterior HABS NY,31-NEYO,3-1.jpg|left|thumb|米国聖公会の日本伝道を支援したニューヨークの[[:en:St. Mark's Church in-the-Bowery|聖マルコ教会]]]]
ハリスやサイルらの活動の結果、米国聖公会伝道本部から[[宣教師]]に任命された[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]は、日本で[[プロテスタント]]初となるミッションを開設し、早速二人は私塾を設けるなど教育活動を始めるが、リギンズは多くの医学書を日本に流通させた<ref name="bcmw07_02">監督ウイリアムス師傳 第七編 長崎時代(中)[https://www.nskk.org/province/bishop_williams/bcmw_body/bcmw07.html#bcmw07_02 『二、同勞者リギンス氏』] 元田作之進著</ref>。同時に医療宣教師(宣教医)である[[ハインリッヒ・エルンスト・シュミット|ハインリッヒ・シュミット]]医師が任命され、日本で医療活動と医療従事者向けに教育活動を始めた。シュミットは長崎に診療所と私塾を開設し、治療活動を行うとともに、地元の医師に[[西洋医学]]と英語を教え、近世日本の布教史における最初の宣教医となったのである<ref name="medicalmedical2"/><ref name="medical2medical"/>。その後、米国聖公会の活動の中心は、のちに初代日本伝道専任主教となるウィリアムズの動きに伴い、長崎から、大都市の大阪、東京へと移っていく。<br />
大阪では、1869年(明治2年)にウィリアムズが、[[川口 (大阪市)|川口]]居留地近くの与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)、翌1870年(明治3年)に礼拝堂(ストリート・チャペル)と英学講義所を開設したことを足掛かりにミッション拠点を構築していくと<ref name="concession_williamshistory2"/><ref name="kyoryuchi_ayumiconcession_williams"/><ref name="history2kyoryuchi_ayumi"/>、1873年(明治6年)に、米国聖公会伝道本部から宣教医に任命された[[ヘンリー・ラニング]]医師が診療所を開設し、医療活動を始めた。1883年(明治16年)には、大阪・川口居留地8番に木造2階建ての病院が新築され、ラニング医師が院長を務めたが、この病院が現在の[[聖バルナバ病院]]となった<ref name="Project Canterbury"/>。<br />
東京では、1874年(明治7年)に、築地居留地にウィリアムズが私塾(立教学校)を開設し拠点を築いていくと、1883年(明治16年)に、[[フランク・ハレル]]医師が宣教医に任命され、翌1884年(明治17年)に来日し、同年5月に築地居留地38番館の自宅に診療所(のちに、築地診療所と呼ばれた)を開院し、翌6月には深川聖三一教会の裏に「大橋診療所」を開設する<ref name="suzukake2019-p11medical_mission"/><ref name="Project Canterbury"/><ref name="medical_missionsuzukake2019-p11"/>。ハレル医師の医療活動は進展し、患者数も増えていくが、1887年(明治20年)にハレルは日本政府へ赴任し[[第二高等学校 (旧制)|第二高等中学校]](現・[[東北大学]])の英語教師になることが決まり、宣教医を辞職しミッションから退くこととなった<ref name="Project Canterburymedical_mission"/><ref name="medical_missionProject Canterbury"/>。しかし、1890年(明治23年)になるとウィリアムズの要請により、医師で[[聖公会]]信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を新たに開設して院長となり、医療活動を再開する。その後、前項「[[#築地キャンパス(立教と聖路加)]]」の記述の通り、愛恵病院は、立教大学校校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設。一旦閉鎖した後、[[ジョン・マキム]]の要請により来日した[[ルドルフ・トイスラー]]が1901年(明治34年)、同地に「聖路加病院」(英語名は同じくSt. Luke's Hospital)を設立して、閉鎖していた病院を再興し、現在の[[聖路加国際病院]]へ繋がっていくこととなった<ref name="tsukuba-gakuin"/>。<br />
このように[[聖公会]]のミッションの教育事業と医療事業はセットであり、学校の開設とともに医師を育成する医学部開設構想の流れはミッションにおいて自然なことであった。ウィリアムズが、伝道の働きのために学校と医療事業の両方が協力しあうことによって日本の人々に働きかけていこうとしたヴィジョンそのものでもあった<ref name="chapel-news"/>。<br />
1905年(明治38年)には、米国人医師[[ウィリス・ホイットニー]](ウィリアムズや[[勝海舟]]と親交が深かった[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]の長男)の『Notes on the History of Medical Progress in Japan』の単行本を出版するなど、医学関連書籍の流通も進めた。同書の巻頭には、前述の築地の同地で「[[解体新書]]」を著した[[杉田玄白]]の姿が描かれ、日本医学の進歩の歴史が綴られている<ref group="注釈" name="Notes1905"/>。<br />
近年では2024年5月の立教学院創立150周年記念式典に招かれた[[:en:Virginia Theological Seminary|ヴァージニア神学校]]の学長[[:en:Ian Markham|イアン・マーカム]]は、チャペルでの感謝礼拝で教育機関の重要性を強調し、イエスの弟子たちが奉仕することで教会が生まれ、その教会から教育や医療など、さまざまな機関が生まれてきた歴史を語り、ウィリアムズが立教学院だけでなく、[[日本聖公会]]や聖路加国際病院、神学校、各種学校、そして数多くの教会の創立にも携わったことを話した<ref name="christiantoday-20240515"/>{{#tag:ref|[[:en:Virginia Theological Seminary|ヴァージニア神学校]]の学長[[:en:Ian Markham|イアン・マーカム]]は、2021年2月上旬からヴァージニア神学校のチャペルを[[新型コロナウイルス]]のワクチン接種会場として開放し、2021年4月6日には[[ジョー・バイデン]][[米国大統領]]が、同校を訪問した。バイデンはこの日に行った[[ホワイトハウス]]での演説で、訪問について触れ、全米で行われている宗教施設と医療機関の連携の一つだとして、「米国の最高の例」だと称賛した<ref>Christian Today [https://www.christiantoday.co.jp/articles/29330/20210409/biden-visits-seminary-for-covid-19-vaccine-clinic.htm 『米神学校、チャペルをワクチン接種会場として開放 バイデン大統領が訪問』] 2021年4月9日</ref>。|group="注釈"}}。
 
==== 医学部開設構想 ====
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こうしたことから、文部省管轄へ移管となる医学部開設に伴う病院の大学附属病院化に反対したものと考えられる<ref name="medical_mission"/>。|group="注釈"}}。医学部設置のために精力を傾けてきた遠山は、学院総長・理事、大学学長というすべての職を辞し、立教を去ることになった<ref name="history_of_rikkyo_university"/>。(戦後になって、遠山は聖路加国際病院顧問として皮膚科診療に従事している。)<br />
戦後の学制改革による新制大学の設置(1949年)に際しても、医学部の開設が決定され、[[立教大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]がその前段階教育を担うものとされた。しかし、肝心の聖路加の病院施設が、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による接収(1956年まで)を受けていたこともあり、実現に至らなかった<ref name="Luke"/>。<br />
20222024年 (令和46年)現在、医学部は開設されていないが、[[スポーツ医学]]の分野では2019年(令和元年)から[[聖路加国際大学]]と協定を締結し、聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。また、[[立教大学大学院理学研究科・理学部|大学院理学研究科]]では、[[順天堂大学]]大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。2017年(平成29年)には、[[聖路加国際大学]]に日本で5番目となる[[公衆衛生大学院]](専門職大学院公衆衛生学研究科)が開設されている<ref>[https://medicalnote.jp/contents/170410-002-OE 『聖路加国際大学公衆衛生大学院の開設にあたって』メディカルノート]</ref>。2024年5月7日には、立教大学メディカル&コンディショニング・センターが、[[アジアサッカー連盟]](AFC)からAFCメディカルセンター(AFC Medical Centre/CLINIC of Excellence)に認定された<ref name="rikkyo-20240510">立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/05/mknpps000002ja0f.html 『立教大学メディカル&コンディショニング・センターがAFC(アジアサッカー連盟)メディカル・センターに認定』] 2024年5月10日</ref>。
 
=== 国際連盟立教大学支部 ===
1924年(大正13年)12月11日に立教大学に[[国際連盟]]の支部が設立され、支部長には杉浦貞二郎が就いた。発会式講演会は[[東京第二師範学校|豊島師範]]講堂で行われ、国際連盟事務次長の[[新渡戸稲造]]([[札幌農学校]]2期生)、青木節一(国連[[ジュネーヴ]]本部事務員、[[リットン調査団]]一員、後の[[ヤナセ]]常務)、[[米田實|米田実]](立教大学教授、[[朝日新聞社]]初代外報部長)、大学雄弁会に所属する[[今村忠助]](後の[[衆議院]]議員)らが演説を行った。会場は満席で立錐の余地なく、聴衆約600名で満たされた。演説の中で新渡戸は、「国際連盟の使命は戦争を全く根絶することではなく、戦いの方法を更えることにあり、すなわち武器を用いず国際マインドを以って戦わせようとすることにあり、連盟の将来は青年に俟つものが多し」と熱弁し満場の拍手と共鳴を呼んだ<ref name="rikkyonews009"/>。
 
== 立教とスポーツ ==
=== 概要 ===
[[画像:渡米した立教大学野球部の歓迎会(1932年春).jpg|300px|thumb|ニューヨークの[[タウンホール (ニューヨーク)|タウンホール]]で行われた立教大学野球部の歓迎会(1932年5月11日、中央テーブル奥に[[ベーブ・ルース]]と[[ルー・ゲーリッグ]]の姿が見える)。]]
[[東京六大学野球連盟]]に所属する[[立教大学野球部|野球部]]をはじめ、オリンピックや日本選手権など数々の大会で活躍したことから「水泳立教」と呼ばれ、日本水泳界をリードした水泳部。日本サッカーの父、[[デットマール・クラマー]]に学び、多くの日本代表と日本代表監督を輩出してきた[[立教大学体育会サッカー部|サッカー部]]<ref name="soccer">{{YouTube|NER8PLnisRI|立教大学サッカー部 クラブヒストリー}}</ref>。他大学に先駆けて創部され全日本選手権優勝7回、全日本大学選手権優勝6回の[[立教大学体育会バスケットボール部|バスケットボール部]]<ref name="kotani-2018">{{Cite journal|和書 |author=小谷 究 |title=日本の大学における体育会バスケットボール部の成立過程に関する研究 |journal=運動とスポーツの科学 |issn=2435-9912 |publisher=一般社団法人 日本運動・スポーツ科学学会 |year=2018 |volume=24 |issue=1 |pages=9-18 |url=https://doi.org/10.34611/jpess.24.1_9 }}</ref>、同じく日本の先駆けとして創部され全日本学生バドミントン選手権で7連覇した[[#バドミントン部|バドミントン部]]など、立教のスポーツは輝かしい歴史と伝統を持つ<ref name="chronicle">{{YouTube|wuZOe-W9jHM|立教大学体育会クロニクル アメリカンフットボール部・バスケットボール部}}</ref>。[[#山岳部|山岳部]]は日本で初めて[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]に遠征し初登頂を果たし<ref name="Alpine">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2017/qo9edr000000pd5g.html 立教大学『81年前の立教大学ヒマラヤ遠征隊の偉業、ナンダ・コート登頂に再び挑戦』2017年7月6日]</ref>、スキー部に所属した[[猪谷千春]]([[国際オリンピック委員会|IOC]]元副会長)は、[[アルペンスキー]]で日本人初のオリンピック入賞(銀メダル獲得)を達成し、日本人初の[[冬季オリンピック|冬季五輪]]メダリストとなった<ref>笹川スポーツ財団 {{PDFlink|[https://www.ssf.or.jp/files/story_06.pdf 『日本人初の冬季五輪メダル 猪谷千春』]}} スポーツ歴史の検証,オリンピアンかく語りき,第6回</ref><ref name="rikkyo-spur">立教大学体育会スキー部OB・OG会 [http://rikkyo-spur.jp/70ob/index2.html 『70周年祝賀会 スキー部クイズ』]</ref>。[[#ボクシング部|ボクシング部]]も歴史が古く、1923年に日本ボクシングの母、[[荻野貞行]]([[帝拳プロモーション|帝拳ジム]]創設者)らにより創部された<ref name="rikkyo-boxing"/><ref name="boxingnews">Boxing News [https://boxingnews.jp/news/103979/ 『伝統の名門校 立教大ボクシング部が創部100周年の記念式典開催』] 2023年10月29日</ref>。[[立教大学ラッシャーズ|アメリカンフットボール部]]も日本のアメフトの歴史そのものといえる由緒あるクラブであり、[[アメリカンフットボール]]の普及と1934年の[[関東学生アメリカンフットボール連盟|東京学生アメリカンフットボール連盟]]設立に尽力し、「フットボールの父」と呼ばれる[[ポール・ラッシュ]]博士によって創部された{{Refnest|group="注釈"|日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュ博士(立教大学教授)、ジョージ・マーシャル(立教大学体育主事)、[[松本瀧藏]](明治大学教授)、小川徳治(立教大学教授)、アレキサンダー・ジョージ([[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ大使館]]付[[駐在武官|武官]])、メレット・ブース(アメリカ大使館付武官)、加納克亮(朝日新聞記者)らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まる。ラッシュの尽力により、同年10月28日に東京学生アメリカンフットボール連盟(現・[[関東学生アメリカンフットボール連盟]])が結成され、11月29日には全東京学生選抜チーム(立教、明治、早稲田)と横浜カントリイ・アスレチック・クラブ(YCAC)との間で、明治神宮競技場において日本初の公式試合が開催された。観客は約2万人で、開会式では[[ジョセフ・グルー]]米国大使が祝辞を述べた。同年12月8日には、我が国最初のリーグ戦である東京学生リーグが開幕し、立教大学池袋グラウンドで初戦の立教大学対明治大学戦が開催された<ref name="americanfootball">[https://americanfootball.jp/history/7159 『日本アメリカンフットボールの活動の記録』公益社団法人日本アメリカンフットボール協会]</ref>。}}<ref name="chronicle"/>。<br />
ラッシュはアメリカンフットボール以外にも、多くのスポーツ振興を行うとともに、戦後の日本の復興に大きく貢献した。立教大学野球部が1931年に[[東京六大学野球連盟|六大学野球リーグ]]で初優勝した際には、野球部の米国遠征を大学体育主事であったジョージ・マーシャル教授と企画し、現地アメリカの大学との試合に加えて[[ベーブ・ルース]]や[[ルー・ゲーリッグ|ルー・ゲーリック]]らによる歓迎会も催し、スポーツを通じた日本とアメリカの友好の架橋となった<ref name="kcfaold">[http://www.kcfaold.jp/75th/75th01.html 『75周年記念特集 フットボールの父 ポール・ラッシュの真実』関東学生アメリカンフットボール連盟]</ref>。1933年には、[[立教大学体育会サッカー部|サッカー部]]の2代目部長として、チームを[[関東大学サッカーリーグ戦|関東リーグ]]1部へ昇格に導いた<ref name="soccer"/>。戦後まもなく、再来日したラッシュは、日本の復興には若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、終戦翌年の1946年に[[全国高等学校野球選手権大会|高校野球夏の甲子園大会]]を復活開催させている<ref name="kcfaold"/>。ラッシュに学んだ[[小川徳治]](立教大学経済学部元教授)も、学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職を歴任する傍ら、アメリカンフットボール部、野球部、空手部、スキー部の各部長を歴任し、学生スポーツの振興に尽力した。小川は[[日本アメリカンフットボール協会]]理事長も務めた。2013年には、ラッシュを記念して池袋キャンパスに[[#スポーツ施設|ポール・ラッシュ・アスレティックセンター]]が完成した。
 
明治期に旧制立教中学に入学した[[浅沼誉夫]](後の[[早稲田大学野球部]]第9代主将、東京六大学野球リーグ初代首位打者)が同校に野球部を創設し、かつて[[バージニア大学]]の野球選手であったハーバート・ロイド(聖公会の司祭、立教大学教授)の下で立教の野球が活発化する。1907年(明治40年)には立教大学(旧制専門学校)が設立され、翌年、[[岡野正司]](校友会元会長)らが野球部を再興すると、青年教授のハーバート・ロイドが旧制立教中学のチームに続いてコーチを務めた。ロイドはバッティングケージを考案して自費で設け、築地にあった狭い校庭でも打撃練習できる環境を整備した。また、ロイドの指導により、野球部は他校よりもインサイド・ワークが進化したベースボールを展開した{{#tag:ref|立教大学新聞第148号(1957年11月8日)にある、[[アーサー・ロイド]]([[立教学院]]元総理)が野球部コーチを務めたとの記述は誤った記述であり、立教大学新聞第244号(1966年5月30日)に、ハーバート・ロイド(アーサー・ロイドとは無関係)がコーチを務めたとある。ハーバート・ロイドは、後に日本聖公会京都教区で司祭を務めたジェー・ロイドの厳父であるとされる<ref name="rikkyonews244">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/66(S41)0530_244.pdf 『立教大学新聞 第244号』] 1966年(昭和41年)5月30日</ref><ref name="rikkyonews148">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/57(S32)1108_148.pdf 『立教大学新聞 第148号』] 1957年(昭和32年)11月8日</ref>。|group="注釈"}}。1918年(大正7年)に立教大学が池袋に移転すると専用グラウンドができ、コーチとして野球部を指導した[[飛田穂洲]](早稲田大学野球部監督)の尽力で、1921年(大正10年)4月に四大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)に加入した。
 
[[画像:立教大学バスケットボール部(1922年).jpg|250px|left|thumb|立教大学バスケットボール部(1922年)]]
古くは上述の野球以外でも、海外の大学との交流戦が行われ、バスケットボール部は1924年に、[[上海市|上海]]にあった姉妹校の[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学)と遠征試合を行い{{#tag:ref|上海遠征は1924年12月から翌年1月にかけて実施され、オールホワイト、上海大学、上海アメリカンスクールとも交流試合を行った<ref name="名前なし-20240110212613">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0120_010.pdf 『立教大学新聞 第10号』] 1925年(大正14年)1月20日</ref>。|group="注釈"}}、帰国後の翌年2月1日には、[[上野精養軒]]で各新聞記者も招待し遠征報告会も開催された<ref name="rikkyonews011">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0205_011.pdf 『立教大学新聞 第11号』] 1925年(大正14年)2月5日</ref>{{#tag:ref|この遠征は校友で[[日清汽船]]副支配人であった[[山中喜一]](後の[[東亜海運]]社長)が後援した<ref name="名前なし-20240110212613"/>。|group="注釈"}}。1926年2月には同大学を日本に迎えて試合を行った<ref name="rikkyo_shinbun_029"/>。戦後も[[大韓民国|韓国]]の[[延世大学校|延世大学]]と定期戦を設けるなど国際交流を進めた<ref>立教大学男子バスケットボール部 チーム紹介 [https://rikkyo-bb1921-mens.com/team 沿革詳細『創部1921年~2022年表』]</ref>。延世大学(当時・[[延禧専門学校]])を経て、立教大学を卒業したバスケットボール選手の[[張利鎮]]は、[[1936年ベルリンオリンピック]]では日本代表選手として出場し、[[1948年ロンドンオリンピック]]では韓国代表として出場するなど国際舞台で活躍した。こうした戦前の時期も全国の名門[[旧制中学校|中学]](旧制)から強い選手が集まり、野球、バスケットボール、ラグビー、サッカーなど全日本クラスが大勢在籍した<ref>Egobnet [https://egobnet.boy.jp/data/ggg121.htm 『山下ゴムとホンダ その1(名将 西本幸雄)』] 木田橋義之 2003年12月29日</ref>。
 
1956年には、35,000坪もの広大な面積を持つ総合グランウンドであるセントポール・グリーンハイツ(現・[[城北中央公園]])が竣工し、充実した競技環境が整備された。1965年には、初代法学部長で、[[憲法学]]の権威である[[宮澤俊義]]が、教授職と兼務で[[日本野球機構]](プロ野球)[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]を務めた<ref name="miyazawa"/>。{{-}}
 
立教のスポーツは長い期間、低迷する時代が続いたが、近年になってスポーツ施設が生まれ変わり、アスリート選抜入試など受け入れる制度も整い、有望な選手たちが入学し、立教大学を胸に世界と戦うための環境ができつつある。ボート部は、2016年の全日本選手権において男子フォアで初優勝。2019年には女子エイト、2021年には男子フォアが2度目の優勝を果たした。野球部は、2017年全日本大学野球選手権で1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。同年[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]は、1961年以来56年ぶりに定期戦で[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早稲田大学]]に40‐20で勝利した。陸上競技では、2018年から「箱根駅伝2024事業」が開始し、立教大学の誇りと伝統校復活のため強化を進め、2022年[[第99回東京箱根間往復大学駅伝競走#予選会|第99回箱根駅伝予選会]]で6位となり、55年ぶりに[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]本選出場を決めた。2019年には、剣道部が、第38回全日本女子学生剣道優勝大会で全国優勝し、女子ラクロス部は、第11回ラクロス全日本大学選手権大会で全国優勝し、それぞれ創部初の快挙となった。第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会では、馬術部の杉本瑞生が創部以来初の個人優勝を果たした<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2019/11/mknpps0000011okl.html 馬術部の杉本瑞生さんが「第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会」で個人優勝]</ref>。[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]は、51年ぶりに定期戦で[[明治大学ラグビー部|明治大学]]に38‐24で勝利した<ref name="rikkyo-rugby">[https://www.rikkyo-rugby.com/about-rikkyorugby 立教大学体育会ラグビー部『立教ラグビー部の歴史』]</ref>。2021年、プロボクシング日本女子ミニマム級で、[[鈴木なな子]]が日本チャンピオンに輝いた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2021/12/mknpps000001t8ir.html 立教大学・ニュース&イベント]</ref>。日本学生自転車競技連盟主催の「全日本学生ロードレース・カップ・シリーズ2021」では、自転車競技部の中島渉が総合優勝し、同部史上初の快挙となった<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2022/03/mknpps000001wc7w.html 立教大学・ニュース&イベント]</ref>。2022年、レスリング部が東日本学生リーグ二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした<ref name="japan-wrestling">[https://www.japan-wrestling.jp/2022/05/21/187954/ 日本レスリング協会『立大が61年ぶりの一部昇格を決める』2022年5月21日]</ref>。[[世界ジュニアカーリング選手権]]大会2022では、[[荻原詠理]]が所属する日本代表チームが日本[[カーリング]]界で初の世界一に輝いた<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/campuslife/2023/mknpps0000023yxm.html 立教大学『日本カーリング界初の世界一に輝く。競技者とウエルネスの両視点で学びを深め、オリンピックの金メダル獲得を狙う』2023/01/24]</ref>。2023年、陸上部女子長距離パートが、[[全日本大学女子選抜駅伝競走大会|富士山女子駅伝]](2023全日本大学女子選抜駅伝)に初出場した<ref>朝日新聞DIGITAL [https://www.asahi.com/articles/ASRDT4VHBRDQUTQP00X.html 『徹底した自主性、小所帯でつかんだ初切符 立教大が富士山女子駅伝へ』]</ref>。([[#スポーツ]]を参照。)
 
2008年には、[[スポーツ科学]]を総合的に学べるコミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科(現・スポーツウエルネス学部)を開設。2019年からは、同じ[[聖公会]]に属する[[聖路加国際大学]]と協定を締結し、プロ選手や日本を代表するトップ[[アスリート]]の健康維持管理を医学的側面からサポートしてきた[[聖路加国際病院]]スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。2023年4月には、スポーツウエルネス学科を改組し、スポーツウエルネス学部を設置した。同学部では、[[2022 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップカタール2022]]を始め、[[サッカー日本代表|SAMURAI BLUE]](サッカー日本代表)のチームドクターとしてこれまでチームを支えている加藤晴康が教授を務めている<ref>JFA・日本サッカー協会 [https://www.jfa.jp/samuraiblue/news/00030916/ 『【SAMURAI BLUEを支えるスタッフ】チームドクター 加藤晴康氏インタビュー』] 2022年11月09日</ref><ref>立教大学・研究者情報 [https://univdb.rikkyo.ac.jp/view?l=ja&u=1055 加藤 晴康]</ref>。
 
=== 日本の野球のさきがけ ===
[[1883年]](明治16年)に[[築地]]で創設された米国式カレッジの立教大学校には[[立教大学野球部|野球チーム]]があり、立教は日本の野球の率先者であった。その頃、ベースボールチームがあったのは立教と[[東京英和学校]](現・[[学校法人青山学院|青山学院]])と[[鉄道局]]([[平岡凞#新橋アスレチック倶楽部|新橋アスレチック倶楽部]])だけであり、[[東京六大学野球連盟]]に所属するチームの中で最も古い歴史を持つ。当時の試合は[[汐留駅 (国鉄)|新橋停車場]]内の広場で行われた。対抗戦で優勝し、[[山縣雄杜三]](後の立教大学教授、チャプレン)も優勝チームの選手として活躍した<ref name="rikkyonews031">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/26(T15)0425_031.pdf 『立教大学新聞 第31号』3面] (印刷は第36号と誤植)1926年(大正15年)4月25日</ref>。
 
=== 授業科目としてのスポーツの歴史 ===
立教の授業科目としてのスポーツの歴史は、中世ヨーロッパ以来のリベラル・アーツの伝統を受け継いで1883年に開設された、前述の野球チームもつくられた立教大学校において、既に体操が教育プログラムとして設けられており、[[イングランド国教会|英国国教会]]([[聖公会]])の[[パブリックスクール]]やカレッジで行われてきたスポーツを通じた人間育成が実施されている<ref name="kanoya7"/>。2023年開設のスポーツウエルネス学部にも聖公会のスポーツの理念と[[スポーツマンシップ]]教育が活かされている<ref>[https://sw.rikkyo.ac.jp/undergraduate/message.html 立教大学・スポーツウエルネス学部『創設の理念』]</ref>。
 
=== 文武両道 ===
文武両道は立教の誇りとされ、アスリート選抜入試では競技成績だけでなく学業成績も一定以上の成績が求められる。このハードルの高さは文武両道を重んじる立教大学らしさが根底にあるからであるが<ref>{{PDFlink|[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/stpaul/pdf/414/414-1web.pdf 『文武両道は立教の誇り』]}} 白石典義体育会長インタビュー,立教大学校友会報 第414号,2011年2月1日</ref>、戦前においても立教大学教授の[[曾禰武]](後の[[開成中学校・高等学校]]校長)は、文武両道による校風の向上について以下を語っている<ref>{{PDFlink|[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/40(S15)0625_003.pdf 『校風に就て』]}} 曾禰武,立教学院学報 第6巻第3号,3頁,1940年6月25日</ref>。
 
{{quotation|大学にはどこの学校にも特有の校風があるが、英国のケンブリッジ、オックスフォード両大学を始めイートン、ラグビー等の高等学校、米国のエール、ハーバードなど各大学には伝統的に優れた校風が数百年に亘って継承されて居り、青年はこれらの学校の校風の慕い、競ってそこに学び、美しい校風の下に幾年のカレッジ生活を送る間に、何時しか立派な人格の基礎を作り上げるのである。(中略)校風とは人間に例えれば人柄と云うべきもの、花であれば香りである。香りが花の美を一段と増す様に麗しい校風はその学校の教育に一段の美を添へる。(中略)立教は一高、早稲田よりも古い歴史を持って居り、自然に立教の学風といふものが出来上がっている。(中略)校風の母体は何んと云っても学生生徒諸子でなければならぬ。校風の発達には歳月を要するが、寄宿舎制度の存在はその為に非常に役立つことは勿論、その他外国の大学・高等学校に於て実際多く見られることは運動競技の団体的訓練と有力なる教授から教室以外で智育徳育両方面の指導感化を享けることが校風の必須の条件とされて居ることである。我立教は学校の規模と学生数の点に於て都下の各大学に劣って居るに拘らず幸にして運動競技の方面に於ては他の大学に伍して堂々覇を争って少しも遜色がない。運動の盛なることは一校盛なる印として非常に喜ぶべき現象であり、我が麗しき校風の運動団体の眞剣なる猛特訓によって養成されたところ尠なからざる事を思ふのである。立教の校風が運動競技の上に於ける紳士的なスポーツマンシップの代表的なものとして認められて居るのは愉快なことであるが、今一段とファイトを旺盛にして進取の気魂を之に加へる事が望ましい。(中略)智徳両方面の有力な訓練が實行されるならば、必ずや期年ならずして、我校風の向上眞に見るべきものがあろうことを信じて疑わぬ。|曾禰武/校風に就て(立教学院学報 第6巻第3号、1940年6月25日)}}
 
=== 立教大学とオリンピック ===
立教大学と[[近代オリンピック|オリンピック]]のつながりは古く、[[1924年パリオリンピック|1924年パリ大会]]で、水泳部の学生が100メートル背泳ぎで6位入賞したことに始まり、[[1936年ベルリンオリンピック|1936年ベルリン大会]]では、水泳部の学生2名が競泳男子800m自由形リレーで世界新での金メダルを獲得した。サッカーでは、[[1964年東京オリンピック]]にサッカー部から3名の日本代表選手が出場し、次の[[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年メキシコ大会]]でも3名の選手が活躍し、銅メダルを獲得した。その他競技も含め、立教大学からこれまで60名以上の選手を送り出し、コーチや監督といった選手を支えるスタッフとしても多くの関係者が出場している。競技以外でも、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの選手村食堂運営に、立教大学の「ホテル研究会」の学生が携わった<ref name="tokyo2020"/>。
 
2016年11月には、東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトを発足させた。オリンピック・パラリンピックの開催を契機に、スポーツを通じて多様性を尊重する社会の実現を目指し、スポーツから得られる感動体験とともに活力をもって生きる環境と機会を生み出す教育・研究活動を推進するプロジェクトで、具体的な活動に、立教スポーツの活性化、通訳・ボランティア派遣等大会支援活動、しょうがい者スポーツボランティアの育成、競技への科学的サポートなどがある。ブラジルオリンピックチームとは大学の施設をトレーニングキャンプで利用する覚書を締結した<ref name="tokyo2020">[https://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/tokyo2020/ 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクト]</ref>。
 
[[2020東京オリンピック]]で、池袋キャンパスに設置されたスピードクライミング壁で練習を行っていた[[野中生萌]]が、新競技となる[[スポーツクライミング]]女子[[スポーツクライミング#複合種目|複合]]で銀メダルを獲得した。
 
== 基礎データ ==
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[[画像:Sugiura Teijiro.JPG|120px|thumb|left|杉浦貞二郎]]
: 作詞:[[諸星寅一]]、補作詞:[[杉浦貞二郎]]、作曲:[[島崎赤太郎]]。
:[[1921年]](大正10年)に[[立教大学硬式野球部|野球部]]が[[東京六大学野球連盟#連盟結成までの経緯|五大学リーグ]]に加わったのをきっかけに、従来からの英語の校歌に代わって新しい校歌が求められるようになり、[[1924年]](大正13年)6月の立教大学学友会予算総会の席上、大学歌を一般学生から募集することが満場一致で決まるこうして歌詞学内より募集されたが、集まった歌詞に名作がない中、同年11月に商学部2年永井一郎の草案が三等として採用された<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/24(T13)1124_007.pdf 立教大学新聞 第7号 大正13年11月24日]}}</ref>。しかし充分大学の精神を表現していないとのことで、当時の学長事務取扱・[[杉浦貞二郎]]が改めて立教中学校教諭の諸星寅一に依頼した<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0105_009.pdf 立教大学新聞 第9号 大正14年1月5日]}}</ref>。出来上諸星に作詞依頼なされる中、朝木直枝によっても、校歌『わが僚友』が作詞され、[[1925年]](大正14年)2月20日の「立教大学新聞第12号」に歌詞が掲載されたが、採用には至らなかった<ref name="rikkyo_shinbun_012"/>。
その後、[[1926年]](大正15年)になり、諸星が作った歌詞の各節末尾に杉浦学長の発案で「自由の学府」の文句を付け加えて、多年の懸案であった大学歌が完成した。歌詞の中には、当初の三等の草案にあった語彙も含まれており、諸星が草案に配慮して作詞したと思われる。当時の立教大学新聞にも、歌詞は学内より募集したものを改定、修正したとあることから、草案から修正を加え作詞したものと考えられる<ref name="rikkyo_shinbun_029">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/26(T15)0315_029.pdf 立教大学新聞 第29号 大正15年3月15日]}}</ref>。作曲は、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]])教授の島崎赤太郎{{Refnest|group="注釈"|島崎赤太郎は杉浦学長の夫人ちか(旧姓高木)の東京音楽学校時代の先輩であることから作曲を依頼した<ref>『オルガンの文化史』赤井励 著 青弓社 131頁</ref>。}}が行い、[[1926年]](大正15年)2月27日、大学歌発表会が開催され、[[校歌]]栄光の立教が披露された<ref name="rikkyo_shinbun_029"/>。その年の[[卒業式]]で初めて公に歌われた。校歌は、[[スマートフォン]]や[[携帯電話]]の[[着信メロディ]]としても[[ダウンロード]]できる。{{-}}
; 旧校歌の存在
: 初期の立教大学新聞である『ムサシノ第4号』(1923年1月26日刊行)に、大学には英語の校歌があるが、学生の間にあまり知られていないとの記述があり、[[1926年]](大正15年)に校歌「栄光の立教」が作られる以前に英語の校歌が存在していたことが分かっている<ref name="musashino04">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/23(T12)0126_004.pdff 『ムサシノ 第4号』] 1923年(大正12年)1月26日</ref>。[[1919年]](大正8年)5月31日に開催された池袋校舎落成式に来賓として参加した[[渋沢栄一]]の伝記資料にも、『校歌を合唱して閉会したるは晩景なりき。』との記述があり、別の校歌が存在していたことを裏付けている<ref name="shibusawa"/>。また、立教大学新聞第29号(1926年3月15日刊行)に「栄光の立教」が作られる以前に英語の校歌や数種のカレッジソングがあったとの記述がある<ref name="rikkyo_shinbun_029"/><ref>卒業生の証言によれば「All St. Paul's」という、「[[蛍の光]]」のメロディの英語の校歌のようなものがあったという(『立教学院百年史』335-336頁)。</ref>。
 
; 準校歌『あゝ立教の旗の下』
: [[1941年]](昭和16年)、従来の上記校歌『栄光の立教』がメロディーがその優雅さの故にか、野外、特に神宮外苑等では調子が弱く、かつ学生の士気にも関係するという説もあることから、活発明朗な校歌の誕生が強く要望され、立教大学学友会で校歌の募集を行うこととなった。これにより従来の『栄光の立教』が廃止される訳ではなく、今後は両校歌を適宜併用することとした<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/41(S16)0210_006.pdf 『立教学院学報 第6号』] 1941年(昭和16年)2月10日</ref>。応募の結果、[[武藤重勝]](立教大学図書館員)の作詞した校歌が選ばれた。武藤は、寮歌『荊道遠くたどり来て』の作詞者でもあり、準校歌当選時の抱負として、私は詩作を始めてから10年となり、学校に近代的で新鮮な優秀な詩を残したいということはかねてからの希望であったことから、準校歌を書いたことを嬉しいと語った。作品は近代的行進曲に準じるとともに、格調技巧音感等にも苦労して書いたが、技巧は自作の中でも自信のあるものとなったといい、歌詞は立教学院学報第7号(1941年5月6日)に現存する。作曲についても作詞同様に募集され、武藤は作曲も優秀なものを望み、さらに今後立教の学生からもっと優秀な作品を生ませたいと語った<ref name="rikkyogakuin_news_007">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/41(S16)0506_007.pdf 『立教学院学報 第7号』] 1941年(昭和16年)5月6日</ref>。
: この準校歌は現在、存在が忘れられ歌われていないが、歌詞にある『あゝ立教の旗の下』の言葉は、戦後([[1946年]])に作られた第一応援歌『行け立教健児』の2番にも使われている<ref>立教大学体育会応援団OB・OG会 [https://rikkyo-ouendan-obog.net/gallery/ 『校歌・応援歌紹介』]</ref>。
: こうした準校歌など複数の校歌がある例は他の学校にもあるが、校歌が制定されていない[[東京大学]]では、運動会歌の『大空と』や、応援歌の『ただ一つ』が校歌の代わりとして演奏・斉唱されるなどの例もみられる{{#tag:ref|東京大学では2024年には新応援歌『美しく夜は明けて』も生まれている<ref>東京大学運動会応援部 [https://www.todai-ouen.com/activity/song.html 『応援歌紹介』]</ref>。|group="注釈"}}。
 
; 戦時中の別の準校歌
: [[1942年]](昭和17年)には、校歌『栄光の立教』の「自由の学府」の文言が問題視され斉唱禁止となり、同年12月10日には、戦時下の状況が反映された準校歌(作詞:[[尾崎喜八]]、作曲:[[小松平五郎]])が制定された<ref name="ozaki"/>。第二応援歌の『St.Paul's will shine tonight』も敵性語であるとして斉唱禁止となった<ref name="rikkyo_shinbun_205"/>。戦後となり、この準校歌は制定を解除され、再び校歌『栄光の立教』を斉唱できるようになった。
 
==== 寮歌 ====
; 『荊道遠くたどり来て/棘路(いばらじ)とおくたどり来て』<ref>立教大学体育会水泳部 [https://www.rikkyo.ne.jp/sgrp/swim/song3.html 『立教大学寮歌』]</ref>
: 作詞:[[武藤重勝]]<ref name="rikkyogakuin_news_007"/>。近年では体育会応援団により団祭でたまに披露される程度で普段は披露されず、一般学生からは忘れ去られ歌唱されることがない曲であるが、名曲として知られる<ref>立教大学体育会応援団 [https://www2.rikkyo.ac.jp/sgrp/spsports/mail/131218.html 『1年の集大成 団祭「十字の下に」』] 2013年12月18日</ref><ref>サモジロー [https://ameblo.jp/samocronin/entry-12602431946.html 『歌い継がれる大学の歌 立大編』] 2020年6月7日</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=久保田 順 |title=井上周八教授の人と学問 |journal=立教經濟學研究 |publisher=立教大学経済学部・経済学研究科 |year=1990-01 |volume=44 |issue=2 |pages=229-233 |url=https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/2219}}</ref>。
 
==== 留別歌『懐かしの立教』『オールド立教』 ====
[[1925年]](大正14年)3月に、立教大学が1922年(大正11年)に[[大学令]]により再び大学となった後の第一期卒業式が予定された際、そこで合唱する大学留別歌(別離歌、卒業式歌)が必要とされ、前月の[[1925年]]2月5日付の立教大学新聞第11号にて中村恭二郎の試作による別離歌(卒業式歌)『…踏花共惜少年春…』が掲載された<ref name="rikkyonews011"/>。そうした中、1925年(大正14年)3月21日に第一期卒業式が行われたが、式の終わりに、作られた大学留別歌『懐かしの立教』が合唱され閉会した。式では、先ず[[君が代]]が歌われ、[[杉浦貞二郎]]学長による式辞と卒業証書授与、[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]総長と[[岡田良平]]文部大臣の祝辞、前学長[[元田作之進]]博士の来賓演説、在校生総代による英語による送別の辞、在校生の謝辞があり、最後に留別歌が歌われた。その後、夜には[[上野精養軒]]にて晩餐会が開催された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0405_014.pdf 『立教大学新聞 第14号』] 1925年(大正14年)4月5日</ref>。
<br />
[[1930年]](昭和5年)3月25日に行われた卒業式でも、ウッド博士らの祝辞のほか、[[井上準之助]]蔵相、[[ウィリアム・リチャーズ・キャッスル]]駐日米国大使、[[ジョン・ティリー]]駐日英国大使の来賓演説等のあと、最後に大学留別歌で式が閉会している{{#tag:ref|当時の立教大学新聞の記事タイトルには「盛大だった卒業式 蔵相、米大使の顔も見れて」とあるが、記事内で米国大使はチレーとなっている。しかし、当時の米国大使は[[ウィリアム・リチャーズ・キャッスル]]が正しく、記事内のチレー(ティリー)は実際には英国大使が正しい<ref name="rikkyonews087"/>。|group="注釈"}}。
また、蔵相の井上準之助は、仙台の[[第二高等学校 (旧制)|第二高等中学校]](後の旧制二高、現・[[東北大学]])時代に、同級の[[高山樗牛]]らと米国聖公会の宣教医であった英学教師の[[フランク・ハレル]](仙台の野球開拓者)に野球を1期生として教わるなど、学生の時から立教大学の[[聖公会]]と繋がりを持っていた<ref>朝日新聞宮城版 [http://www.asahi.com/area/miyagi/articles/MTW20190403041130001.html 「ハーレル」が伝えた熱狂] みやぎ野球史再発掘,伊藤正浩,2019年4月3日付</ref>。[[1931年]](昭和6年)3月21日の卒業式では、{{仮リンク|ウィリアム・フォーブス|en|William Cameron Forbes}}駐日米国大使を来賓に迎え、英語による在校生と卒業生の送辞と答辞があり、最後に留別歌『懐かし立教』の正式な曲名になったと思われる『オールド立教』が唄われた。また、この年の卒業式は立教が専門学校に認可されてから21回、立教学校開設から43回、長崎時代から数えて78回目の卒業式であった<ref name="rikkyonews098">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/31(S06)0405_098.pdf 『立教大学新聞 第98号』] 1931年(昭和6年)4月5日</ref>。現在、これらの留別歌は存在が忘れられて歌われていない。
<gallery widths="120" heights="150px">
OKADA Ryohei.jpg|[[岡田良平]](文部大臣)
Junnosuke Inoue.jpg|[[井上準之助]](大蔵大臣)
William Richards Castle Jr (1878-1963), by Philip de László (1869-1937).jpg|[[ウィリアム・リチャーズ・キャッスル|ウィリアム・キャッスル]](駐日米国大使)
</gallery>
 
==== 応援歌 ====
; 第一応援歌『行け!立教健児』
: 作詞:[[小藤武門]]、作曲:[[土橋啓二]]。応援団に入ったばかりの小藤武門(後の[[応援団]]長)は、当時の草壁哲雄団長(応援歌「栄光立教」の作詞者)から、新しい応援歌を作るようにとの依頼を受けた。しかし、曲作りも戦争でいったん中断する。戦後となり[[1946年]](昭和21年)、太平洋戦争で中断していた[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]が復活した。「新しい時代には、新しい[[応援歌]]を」と当時の[[応援団]]団長・復員後、本学を卒業した小藤武門がは仕事の傍ら再び曲の制作に取り組み、作曲家・土橋啓二の尽力を得て、古今聖歌集の[[賛美歌|聖歌]]300番を基に作詞し、6年ぶりに完成した曲である<ref>立教大学校友会 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/service/songs/ 『校歌・応援歌』]</ref>
 
; 第二応援歌『St.Paul's will shine tonight』
: 作詞・作曲:不詳
: [[1927年]](昭和2年)、米国[[カリフォルニア州]][[フレズノ]]で[[二世 (日系人)#アメリカ|日系二世]]を中心に結成された野球チーム「the Fresno Athletic Club」が来日し、本学バスケットボール部とバスケットボールの親善試合を行った。試合後、フレズノ側が自チームの応援歌「セント・フレズノ ウィル シャイン…」を「リッキョー ウィル シャイン…」と歌い、勝った立教を祝福した。この歌はバスケ部歌となり、やがて大学の[[応援歌]]となった。授業開始・終了時のチャイムとしても使われている。詳細は「[[フレスノ野球団]]」を参照。
; 第三応援歌『若き眉』
: 作詞:[[清水みのる]]、作曲:[[利根一郎]]
; 第四応援歌『栄光立教』
: 作詞:草壁哲雄、作曲:土橋啓ニ
; 第五応援歌『勝ちて歌わん』
: 作詞:[[佐伯孝夫]]、作曲:[[灰田有紀彦]]
; 第六応援歌『輝く栄光』
: 作詞:小藤武門、作曲:土橋啓ニ
; 学生歌『紫の旗』
: 作詞・作曲:不詳、補作・編曲:井上義之
 
; 幻の応援歌『力のアポロ
: 昭和の初め、野球部に応援歌がないことが、チームの志気をひき立たせる上にも、一般野球ファンの間にも非常に遺憾とされていた。そこで、1930年(昭和5年)4月に立教大学グリー・クラブの斡旋により、姉妹校の[[奈良英和学校]]で学んだ校友でもある[[西條八十]]が作詞し、[[弘田龍太郎]]が作曲した野球応援歌が作られた。歌詞は当時の立教大学新聞紙上に公開され現存する<ref name="rikkyonews087">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)0415_087.pdf 『立教大学新聞 第87号』] 1930年(昭和5年)4月15日</ref>。西條八十は、「[[青い山脈 (曲)|青い山脈]]」や「[[東京行進曲]]」も生み出した著名な[[作詞家]]で、母校・[[早稲田大学]]の「紺碧の空」の募集審査を行ったり<ref>ぷけっこブログ [https://pukecco.com/konpekinosora/ 『早稲田大学応援歌「紺碧の空」の誕生秘話と朝ドラ・エールとの違いや共通点は?』] 2020-05-19</ref>、「明治大学校歌」を補作して生み出すなど、校歌や応援歌の作者としても名の知れた人物である<ref>{{Cite journal|和書 |author=飯澤文夫 |title=明大校歌歌詞の成立 : 補論 : 西條八十補作の裏付け資料 |journal=図書の譜:明治大学図書館紀要 |publisher=明治大学 |year=1998-03 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/8693172 }}</ref>。
: 1930年(昭和5年)5月6日に、本応援歌の第1回練習会が体育館前広場でグリー・クラブ員の指揮の下に行われ、時ならぬ賑わいを見せ、翌7日に宿敵慶應を遂に撃破したため、学生の意気は大いにあがった。5月8日には翌9日の対早稲田戦1回戦を控えて、再度練習が行われ、[[久保田正次|久保田]]、[[根岸由太郎|根岸]]、坂東、[[富田彬|冨田]]、矢野の諸教授も熱がこもった大声を張り上げた。歌はテンポが遅く他校の応援歌に圧倒される懸念がないわけでもないが、一般には好評を博したとされた<ref name="rikkyonews088"/>。
: しかし、作られた応援歌はその後ほとんどの学生に顧みられることなく、闇へ葬られる形となったが、作成に奔走したグリークラブのあるメンバーは、応援歌として不適当であることを認めて、名誉回復のため再度、立派な応援歌を作り上げる計画を立てることとなったと伝えている<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/31(S06)0122_095.pdf 『立教大学新聞 第95号』] 1931年(昭和6年)1月22日</ref>。
: 類似例として、同じく[[アポローン|アポロン]]をテーマとした応援歌が、[[東京大学]]において1966年に『燃ゆる獅子』として作られ、現在も演奏されている<ref>東京大学 [https://www.u-tokyo.ac.jp/student/b01_05_12_j.html 『燃ゆる獅子』]</ref>。
: また、戦後初のヒット曲である「[[リンゴの唄]]」や、「[[ちいさい秋みつけた]]」「[[うれしいひなまつり]]」などの作詞を手掛けた[[サトウハチロー]](旧制立教中学出身)は西條八十の弟子であり、第三応援歌『若き眉』の作詞を行った[[清水みのる]]の先輩としても知られる。
 
==== 創立記念日 ====
立教学院は創立記念日を5月5日としているが、いつから、なぜその日を創立記念日としたか分かっていなかった<ref name="unc069">立教大学校友会・立教うんちく話 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc069.html 第69回『立教学院創立記念日』]</ref>。米国聖公会の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]が1859年(安政6年)5月2日に[[長崎市|長崎]]に来日し、まもなく[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]広徳院に設立した立教の源流となる私塾や、[[チャニング・ウィリアムズ]]が1870年(明治3年)に大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の与力町に設立した英学講義所(のちの大阪・英和学舎)の設立日は分かっておらず、ウィリアムズが1874年(明治7年)に東京・[[築地]]に開設した立教学校の設立は2月3日である<ref name="historymission2"/><ref name="mission2history"/>。<br />
明治の頃には1月末から2月にかけて、創立記念式を挙げていたようだが、その後いつの頃からか5月5日を創立記念日とするにようなったと考えられている。立教学院百年史では、この日の由来として「男子の学校だから(創立当時は“Boys school”と称していた) 男子の節句に祝うことにしたもののようである。」との推測を記載している<ref name="unc069"/>。<br />
そうした中で1930年(昭和5年)4月15日発行の立教大学新聞(第87号)に、もともと[[聖金曜日|グッド・フライデー]]をもって創立記念日として定められていたが、この日が年によって毎年異なってくるため、一般に5月5日を記念日として決定されたとあり、記念日設定の理由が記載されている。しかし、これも丁度金曜日に巡り合わない年は無意味な休校となることから、この1930年(昭和5年)は、4月18日金曜日をグッド・フライデーとして臨時休校としている<ref name="rikkyonews087"/>。<br />
そのほか、1878年(明治11年)5月5日には、[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の[[ジョン・パイパー]]が築地居留地52番に創設した「聖保羅教会(セントポール教会)」の献堂式が盛大に開催されている<ref name="natori-2004"/>。
 
==== 楯のマーク ====
[[画像:Rikkyo University Coat of arms 1918.jpg|120px|thumb|楯のマーク]]
オフィシャル・シンボルである[[楯]]のマークは、建学の精神を具体的に表現するものとして、1918年(大正7年)にライフスナイダー総理が定めたものといわれている。楯のマークには「立」の文字の下に[[十字架]]と[[聖書]]がデザインされている。現在のマークは[[紫]]と[[白]]の2色が基本デザインで、紫は「王の色」、白は「清純の象徴」、白色の十字架は「キリストの純潔」を意味している{{Refnest|group="注釈"|2009年(平成21年)の創立135周年を機に、立教学院各校のシンボルデザインの一体化を図り、現在の2色のデザインが基本デザインとなった。チャペルのステンドグラスにある楯のマークなど別のカラーリングのデザインもある。当初のデザインは、紫・白・金の3色によるデザインで、金色は「真正の価値」を表している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/topics/2016/0603.html 立教学院展示館]</ref>。}}。楯の中に書かれている「PRO DEO ET PATRIA」という言葉は「神と国とのために」という[[ラテン語]]で、「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」ととらえ、立教学院の目的として位置づけている<ref name="markmark2">[https://www.rikkyogakuinrikkyo.ac.jp/about/symbol.htmlintroduction/spirit/ シンボルマーク創立者と建学の精神]</ref><ref name="mark2mark">[https://wwwrec.rikkyo.ac.jp/about/introduction/spirit/symbol.html 創立者と建学の精神シンボルマーク]</ref>。
 
==== ユリの紋章 ====
[[ファイル:Rikkyo University Baseball Club players in 1931.jpg|thumb|150px|right|フルール・ド・リスのマークが付いた帽子をかぶった[[立教大学硬式野球部|野球部]]選手(1931年秋)]]
立教の学生や生徒、児童、各校の卒業生に広く愛用されている[[ユリ|百合]][[紋章]]([[フルール・ド・リス]])は、[[1932年]](昭和7年)、学生キリスト教団体「立教大学ローバース」によって使用され始めた。立教ローバースは、2021年で創設97周年を迎えた歴史ある団体で、学内では学生キリスト教団体、山岳関係団体にも所属し、[[ボーイスカウト日本連盟|日本ボーイスカウト]]東京連盟城北地区豊島第8団に所属する、[[ボーイスカウト]]団体である。世界各国のスカウト章にはフルール・ド・リスが用いられている<ref>ボーイスカウト日本連盟 [https://www.scout.or.jp/download/brandguide.pdf 『スカウト章について』]</ref>。
 
[[立教大学硬式野球部|野球部]]でも昭和初期には[[野球帽]]にフルール・ド・リスのマークが加えられた<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/uniform/history.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>。
 
ユリは純潔の象徴とされ、キリスト教と深いつながりを持つ。元来、ユリの紋章は神の三位一体性を象徴したもので、キリスト教国では勝利の記号に用いられるが、立教大学では知・徳・善あるいは、愛・正義・誠を象徴するものとして使用されてきた。ユリの紋章は、[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[セントルイス]]をはじめ、都市のシンボルマークとしても使われているが、教育機関でも英国の[[パブリックスクール]]の名門校で、立教大学と同じ[[イングランド国教会|英国国教会]]系の[[イートン・カレッジ]]の紋章などにも使用されている<ref>FIRENZE IN TASCA [https://firenzeintasca.com/blog/giglio 『フィレンツェの紋章とは?』]</ref>。
 
[[学校法人立教学院]]では[[2009年]]4月にフルール・ド・リス(セントポールズ・リリー)を楯のマークに次ぐセカンダリ・シンボルとして採用し、デザインを精緻化するとともに、St.Paul’sの文字を加えた<ref>[https://wwwrec.rikkyogakuinrikkyo.ac.jp/about/symbol.html シンボルマーク | 学校法人 立教学院] 2023年3月29日閲覧</ref>。
 
==== スクールカラー ====
[[スクールカラー]]は[[紫]]色。[[楯]]のマークの色に由来する<ref name="mark"/>。紫色は「王の色(ロイヤル・パープル)」を意味する<ref name="mark2"/>。また紫は、校歌の歌詞に「紫匂える武蔵野原」とあり、[[武蔵野]]の代表的植物「[[ムラサキ]]」としても歌われる{{Refnest|group="注釈"|ムラサキの花自体は白色だが、根は古くから紫色の染料として用いられてきた。紫色とはもともとムラサキの根を原料として染め上げた色である。}}。カラーコードは紫紺「DIC226」が採用されている<ref>{{PDFlink|[https://rec.rikkyo.ac.jp/designguide/g4rifp00000004ze-att/2.pdf 『立教学院のオフィシャル・シンボル』]}}</ref>。<br />
[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]の襷の色は、「[[江戸紫]]」であるが、これは立教大学体育会陸上競技部のカラーであり、スクールカラーではない<ref name="rikkyo-news20230103"/>。
 
==== 校旗 ====
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; 旧校旗の存在
[[画像:立教大学卒業式(1912年).jpg|200px|thumb|立教大学卒業式(1912年)]]
1912年(明治45年、大正元年)に行われた立教大学卒業式の写真の向かって右上に、[[サクラ|桜]]花が入った旗が配置されており、当時の校旗であったと思われる<ref name="rikkyo_1912"/>。桜花のデザインは[[学習院]]でも1877年(明治10年)の創立当初から徽章に採用され、[[学校法人学習院]]の院章・校章となっており、[[学習院大学]]の校旗にも用いられている<ref>学校法人学習院・学習院について [https://www.gakushuin.ac.jp/houjin/kikaku/visualidentity.html 『院章・校章・ロゴ』]</ref>。<br />
また、1883年(明治16年)に大阪・[[英和学舎]](立教大学の前身の一つ)で、制帽、制服とともに徽章が規定された際に、徽章のデザインとして桜を形どった模様が用いられている<ref group="注釈" name="oosaka-eiwa"/>。
{{-}}
 
==== 本館 モリス館(池袋キャンパス) ====
[[画像:正面から見たモリス館.jpg|200px|thumb|創建当時のモリス館と建物群(1919年頃)]]
1918年(大正7年)、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスが遺した寄付によって建てられた本館(1号館)は「モリス館」と呼ばれている。ニューヨークのマーフィー・アンド・ダナ建築事務所によって設計された。かつて米国で流行っていたカレッジ・ゴシック様式であり、米国の[[セントルイス・ワシントン大学]]や[[プリンストン大学]]、聖公会が設立に携わった[[ペンシルベニア大学]]や[[トリニティ・カレッジ (コネチカット州)|トリニティ・カレッジ]](コネチカット州)などでも見ることができる。立教大学と同じルーツを持つ英国国教会に属する英国の[[パブリックスクール]]の名門[[イートン・カレッジ]]の建物「ラプトンの塔」も同様式である。また、立教大学の国際協定校である韓国の名門、[[延世大学校|延世大学]]のメインビルディングの「アンダーウッド館」(1924年・大正13年竣工)も同じマーフィー・アンド・ダナ建築事務所によって設計された建物で、隣接する左右にある建物の配置を含めて、立教大学とよく似た雰囲気を持ち合わせている<ref>立教大学校友会・立教うんちく話 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc071.html 『第71回 延世(ヨンセ)大学』]</ref><ref>YONSEI UNIVERSITY [https://www.yonsei.ac.kr/en_sc/intro/building.jsp History of the Campus Buildings『Main Building』]</ref>。立教大学卒業生の[[岡見如雪]]が理事長を務めた[[頌栄女子学院中学校・高等学校|頌栄女子学院]]の校舎も、モリス館をモデルに設計されている。岡見は同じ聖公会系の{{仮リンク|ウィンチェスター大学|en|University of Winchester}}との協同により、世界で初めての合弁大学であるウィンチェスター頌栄カレッジも創設している。
1918年(大正7年)、米国聖公会宣教師[[アーサー・モリス|アーサー・ラザフォード・モリス]]が遺した寄付によって建てられた本館(1号館)は「モリス館」と呼ばれている。ニューヨークの{{仮リンク|マーフィー&ダナ建築事務所|en|Henry Murphy (architect)#Murphy & Dana Architects}}によって設計され、現場監督は[[コロンビア大学]]出身の建築家の[[ウィリアム・ウィルソン (建築家)|ウィリアム・ウィルソン]]が務めた{{#tag:ref|マーフィー・アンド・ダナ建築事務所の経営者の一人である{{仮リンク|ヘンリー・マーフィー|en|Henry Murphy (architect)}}は[[イェール大学]]出身の建築家で、もう一人のリチャード・ヘンリー・ダナ・Jrは[[ハーヴァード大学]]を卒業した後、[[コロンビア大学]]で建築学を修めた建築家である。池袋の立教大学での建設工事の現場監督は当初、[[ジョン・マキム]]の支持もあり日本での建築経験が長く、築地キャンパスの設計者でもある[[ジェームズ・ガーディナー]]が務めたが、途中から新たに派遣されたコロンビア大学出身で[[聖公会]]会員でもあった建築家の[[ウィリアム・ウィルソン (建築家)|ウィリアム・ウィルソン]]が務めた。このウィルソンの赴任は、元々、マーフィーから工事を円滑に進めるために米国から監督建築家を派遣して現地に常駐させたい要望があったことに加え、[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]の意見によるものであった。しかし、ウィルソンは、自身の立場や権限が曖昧なうえ、伝道局やアメリカの請負業者、費用の問題、設計事務所との連絡などで多く困難があり、契約途中で現場を去っている。その後、ウィルソンはしばらく日本に留まり、[[日本聖公会熊谷聖パウロ教会|熊谷聖パウロ教会]]2代目礼拝堂、[[日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂|川越キリスト教会]]3代目礼拝堂、大阪・[[川口基督教会]]2代目礼拝堂、[[聖バルナバ病院]]2代目院舎(基本設計)の設計を手掛けており、モリス館を含む池袋キャンパスが[[関東大震災]]で被災した後の復興工事にも携わっている<ref>{{Cite journal|和書 |author=鈴木 勇一郎 |title=立教大学池袋キャンパスの建設とヘンリー.K.マーフィー |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2012 |volume=9 |pages=56-80 |url=https://doi.org/10.14992/00015222 }}</ref><ref>二つの教会をめぐる石の物語 [http://u-moa.jp/event/church2023/1932/index.html 『人物略歴5 ウィリアム・ウィルソン』] 2023年3月4日</ref><ref>関根要太郎研究室@はこだて [https://fkaidofudo.exblog.jp/29997843 『東京立教大学池袋キャンパス(大正モダン建築探訪)』] 2018-08-18</ref><ref>立教大学校友会 立教タイムトラベル [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/time/tim037.html 『1923(大正12)年、関東大震災と立教学院』] 第37回</ref>。|group="注釈"}}。かつて米国で流行っていたカレッジ・ゴシック様式であり、米国の[[イェール大学]]や[[プリンストン大学]]を始め、[[セントルイス・ワシントン大学]]、聖公会が設立に携わった[[ペンシルベニア大学]]や[[トリニティ・カレッジ (コネチカット州)|トリニティ・カレッジ]](コネチカット州)など多くの大学で見ることができる。これらは英国の伝統的なカレッジの建築様式の流れを組んでおり、[[オックスフォード大学]]や[[ケンブリッジ大学]]にルーツを見ることができ、同じく[[古代の大学]]である[[エディンバラ大学]]などでも様式が見られる。立教大学と同じルーツを持つ英国国教会に属する英国の[[パブリックスクール]]の名門[[イートン・カレッジ]]の建物「ラプトンの塔」も同様式である。また、立教大学の国際協定校で立教大学卒業生の[[:ko:김윤경 (언어학자)|金允經]]<ref>{{Cite journal|和書 |author=小澤 実 |title=小林秀雄の時代―戦前戦中の立教史学科、史学会、『史苑』 |publisher=勉誠出版 |year=2022-05 |pages=419-465 |url=https://researchmap.jp/read0131911/published_papers/34013685 }}</ref> も院長を務めた韓国の名門、[[延世大学校|延世大学]]のメインビルディングである「アンダーウッド館」(1924年・大正13年竣工)も同じマーフィー&ダナ建築事務所によって設計された建物で、隣接する左右にある建物の配置を含めて、立教大学とよく似た雰囲気を持ち合わせている<ref>立教大学校友会・立教うんちく話 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc071.html 『第71回 延世(ヨンセ)大学』]</ref><ref>YONSEI UNIVERSITY [https://www.yonsei.ac.kr/en_sc/intro/building.jsp History of the Campus Buildings『Main Building』]</ref>。立教大学卒業生の[[岡見如雪]]が理事長を務めた[[頌栄女子学院中学校・高等学校|頌栄女子学院]]の校舎も、モリス館をモデルに設計されている。岡見は同じ聖公会系の{{仮リンク|ウィンチェスター大学|en|University of Winchester}}との協同により、世界で初めての合弁大学であるウィンチェスター頌栄カレッジも創設している。
 
創建当初のモリス館は、中央の[[時計台|時計塔]]が現在よりも荘厳な3層構造の建物で、周囲よりも高層なシンポリックな「塔」であったが、1923年(大正12年)の[[関東大震災]]で塔の上層が被害を受けたため、その後、修復する際に1層低い現在の2層構造で再建されることとなった。屋根も再建時に[[チューダー様式]]の特徴の一つであった[[切妻造|切妻]]から[[寄棟造|寄棟]]に変更された<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/topics/2019/mknpps000000ssx4.html 池袋キャンパスの100年を見守り続ける本館(1号館/モリス館)]</ref><ref>[http://arch-hiroshima.main.jp/main/a-map/tokyo/rikkyo_morris.html 『立教大学本館(モリス館)』 ARCHITECTURAL MAP・建築マップ]</ref>。
創建当時の姿である3層構造の建物で比較すると、[[アーサー・ロイド]]も学んだ英国ケンブリッジ大学の[[:en:St John's College, Cambridge|セント・ジョンズ・カレッジ]]や、[[ジョージ・エンソル]]が学んだ[[:en:Queens' College, Cambridge|クイーンズ・カレッジ]]の建物に酷似しており、マーフィー・アンド・ダナ建築事務所が設計の際に参考にしたものと思われる。時計塔の時計は、南北の文字盤を親時計が動かしている。動力には分銅(重り)が使われており、現在も担当者が分銅を引き上げる作業を行っている。当初は1週間に1度程度行っていたものが、3層構造から2層構造への減築時に塔の高さが短くなったことから、現在の3~4日に1度の作業となった。親時計は、イギリスの国会議事堂に付属する[[ビッグ・ベン]]と同じ、E・デント社製である。製作から100年を超える古時計のために図面がなく、今後の保存やメンテナンスのためにも、専門家である世界古時計協会の日本支部に時計の図面化を依頼したことがあったが、分解して図面化して組み立てなおすのに1年かかるとのことで、図面化を断念した経緯がある。そのため、時計の造りは単純ではあるが、2022年現在もどういう仕組みで時計が動いているか完全には解明されていない。また、屋上テラスには、時計と連動して定時の時刻を知らせるため池袋キャンパスに鳴り響いていたと思われる鐘が残っているが、今は動いておらず鐘の音を聴くことはできない<ref>{{YouTube|-9ksFBlSZj0|立教大学校友会「立教探訪」~100年前からのメッセージと秘密の部屋~ 第60回ホームカミングデー(2022年度)}}</ref>。大正期において、時計塔は立教の誇りであり、「'''自由の塔'''」と呼ばれていた<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0405_014.pdf 立教大学新聞 第14号 大正14年4月5日]}}</ref>。
 
モリス館は2012年に耐震補強と内装改修が行われたが、3層の時計塔「自由の塔」の再建はなされなかった。モリス館は[[東京都選定歴史的建造物]]に選定されている建物であるが、選定基準にある保存状態について、「外観・敷地の状況が建設当時の状態で保存されているもの」とされていることに加え、近年、[[三菱一号館]]や[[東京駅]]丸の内駅舎{{Refnest|group="注釈"|1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。1945年(昭和20年)、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎で復元し長らくそのままの建物であった。しかし、2017年に、戦災で失われた箇所を復元し、創建当時の美しい3階建てのレンガ造りの姿が見事に再現された。特にドーム部分の復元は大きな話題となった<ref>[https://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/index-j.html 東京駅丸の内駅舎保存・復原工事]</ref>。}}など明治期や大正期の建物を創建当時の姿に蘇らせる復元プロジェクトが全国的に進んでいることから、今後立教大学のシンボルとして鐘の音とともに復元される可能性がある<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kenchiku/keikan/keikaku34.pdf 東京都景観計画 第3章 第3歴史的建造物の保存等による景観形成]</ref>。また、明治期には、築地の立教大学校校舎に、学生の大きな誇りとなる美しい尖塔が建っていた。(詳細は[[#立教大学校校舎と尖塔(1883年‐1890年)|立教大学校校舎と尖塔]])
<gallery widths="150" heights="120px">
建設中のモリス館.jpg|建設中のモリス館(1917年12月19日)
立教大学池袋校舎東側面.jpg|東側面から見た光景(1918年)
正面から見たモリス館.jpg|創建当時のモリス館と建物群(1919年頃)
立教大学全景 モリス館.jpg|時計設置後のモリス館(1923年以前)
立教大学池袋校舎東側面.jpg|東側面から見た光景
</gallery>
震災直後のモリス館.jpg|震災直後のモリス館(1923年)
 
[[画像:震災直後のモリス館.jpg|150px|thumb|震災直後のモリス館(1923年)]]
創建当初のモリス館は、中央の[[時計台|時計塔]]が現在よりも荘厳な3層構造の建物で、周囲よりも高層なシンポリックな「塔」であったが、1923年(大正12年)の[[関東大震災]]で塔の上層が被害を受けたため、その後、修復する際に1層低い現在の2層構造に[[建築行為#減築|減築]]されることとなった。また、時計塔の四囲の小塔も3基は減築されたが、南西部(第一食堂側)の1基は[[煙突]]としての機能を兼ねていたため、本来の高さで修復された<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、399-400頁</ref><ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc039.html 立教うんちく話 第39回 「モリス館の塔の長さ」] 2024年10月22日閲覧。</ref>。屋根も再建時に[[チューダー様式]]の特徴の一つであった[[切妻造|切妻]]から[[寄棟造|寄棟]]に変更された<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/topics/2019/mknpps000000ssx4.html 池袋キャンパスの100年を見守り続ける本館(1号館/モリス館)]</ref><ref>[http://arch-hiroshima.main.jp/main/a-map/tokyo/rikkyo_morris.html 『立教大学本館(モリス館)』 ARCHITECTURAL MAP・建築マップ]</ref>。
 
創建当時の姿である3層構造の建物で比較すると、[[アーサー・ロイド]]や[[ウォルター・アンデレス]]も学んだ英国ケンブリッジ大学の[[:en:St John's College, Cambridge|セント・ジョンズ・カレッジ]]や、[[ジョージ・エンソル]]が学んだ[[:en:Queens' College, Cambridge|クイーンズ・カレッジ]]の建物に酷似しており、マーフィー・アンド・ダナ建築事務所が設計の際に参考にしたものと思われる。時計塔の時計は、建物の竣工当初には取り付けられていなかったが、後に設置された。時計は南北の文字盤を親時計が動かしているが、動力には分銅(重り)が使われており、現在も担当者が分銅を引き上げる作業を行っている。当初は1週間に1度程度行っていたものが、3層構造から2層構造への減築時に塔の高さが短くなったことから、現在の3~4日に1度の作業となった。親時計は、イギリスの国会議事堂に付属する[[ビッグ・ベン]]と同じ、[[Dent (時計)|E・デント社]]製である。製作から100年を超える古時計のために図面がなく、今後の保存やメンテナンスのためにも、専門家である世界古時計協会の日本支部に時計の図面化を依頼したことがあったが、分解して図面化して組み立てなおすのに1年かかるとのことで、図面化を断念した経緯がある。そのため、時計の造りは単純ではあるが、2022年現在もどういう仕組みで時計が動いているか完全には解明されていない。また、屋上テラスには、時計と連動して定時の時刻を知らせるため池袋キャンパスに鳴り響いていたと思われる鐘が残っているが、今は動いておらず鐘の音を聴くことはできない<ref>{{YouTube|-9ksFBlSZj0|立教大学校友会「立教探訪」~100年前からのメッセージと秘密の部屋~ 第60回ホームカミングデー(2022年度)}}</ref>。大正期において、創建当時に存在していた3層の時計塔は立教の誇りであり、「'''自由の塔'''」と呼ばれていた<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0405_014.pdf 立教大学新聞 第14号 大正14年4月5日]}}</ref>。1920年(大正9年)3月には、英文学科に在学中の[[加藤まさを]](大正期の代表的な抒情画家で「[[月の沙漠]]」の作詞家)が中心となり立教大学の文芸雑誌が創刊されたが、雑誌名は『'''塔'''』と命名され、装紙にはアーチ型の星空に聳え立つ立教の塔(震災で崩れる前の自由の塔)と、その頂上に高く翻る校旗が、シルエット風にペン画で印象的に描かれ、創建当初に存在した自由の塔は立教生たちの誇りであった<ref>{{PDFlink|千葉県御宿町役場 おんじゅく 広報 [https://www.town.onjuku.chiba.jp/content/files/kikakuzaiseika/magazine/koho/archives/1961-1970/1969/74.pdf 月の沙漠の作者を語る『一世を風びした抒情詩人 加藤まさを氏』] 楜沢龍吉,10頁-11頁,No.74,1969年5月}}</ref>。また、このモリス館に加え、寄宿舎、食堂等を完備しているカレッジ・ゴシック様式の校舎群は、「東京に在りて、心は遠く牛津(オックスフォード)、剣橋(ケンブリッジ)にある感あり」と言われた<ref name="rikkyonews011"/>。英国の詩人[[エドマンド・ブランデン]]が大学を訪れた際には、時計塔のある本館、チャペル、図書館で構成される建物の様式と煉瓦の赤色をこの上なく賞賛し、故国の旧家をみるような感慨にうたれたと述懐した<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/archives/exhibition/exhibition1/100/seikatu/index_e.php 『或る日の学園』] 立教生活,文学部100周年記念展示,立教大学図書館</ref>。
 
モリス館は2012年に耐震補強と内装改修が行われたが、3層の時計塔「自由の塔」の再建はなされなかった。モリス館は[[東京都選定歴史的建造物]]に選定されている建物であるが、選定基準にある保存状態について、「外観・敷地の状況が建設当時の状態で保存されているもの」とされていることに加え、近年、[[三菱一号館]]や[[東京駅]]丸の内駅舎{{Refnest|group="注釈"|1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。1945年(昭和20年)、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎で復元し長らくそのままの建物であった。しかし、戦災で失われた箇所を2017年に復元し、創建当時の美しい3階建てのレンガ造りの姿が再現された。特にドーム部分の復元は大きな話題となった<ref>[https://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/index-j.html 東京駅丸の内駅舎保存・復原工事]</ref>。}}など明治期や大正期の建物を創建当時の姿に蘇らせる復元プロジェクトが全国的に進んでいることから、今後立教大学のシンボルとして鐘の音とともに復元される可能性がある<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kenchiku/keikan/keikaku34.pdf 東京都景観計画 第3章 第3歴史的建造物の保存等による景観形成]</ref>。また、明治期には、築地の立教大学校校舎に、学生の大きな誇りとなる美しい尖塔が建っていた。(詳細は[[#立教大学校校舎と尖塔(1883年‐1890年)|立教大学校校舎と尖塔]])
<gallery widths="150" heights="120px">
St John's College Second Court, Cambridge, UK - Diliff.jpg|ケンブリッジ大学<br />St John's College Second Court
Cambridge Queens' Gatehouse.JPG|ケンブリッジ大学<br />Queens' College Gatehouse
UK-2014-Oxford-All Souls College 03.jpg|オックスフォード大学<br />オール・ソウルズ・カレッジ
Magdalen College New Quad and Founders Tower, Oxford, UK - Diliff.jpg|オックスフォード大学<br />Magdalen College Founders' Tower
New College on the Mound, Edingburgh.jpg|エディンバラ大学<br />ニュー・カレッジ
UniversityOfPennsilvaniaQuadrangle.JPG|ペンシルベニア大学<br />Quadrangle(学生寮)
TrinCollHartford.jpg|トリニティ・カレッジ<br />ダウンズ記念時計台
Eton College front 4.jpg|イートン・カレッジ<br />Lupton's Tower/ラプトンの塔
Yonsei University in Spring - panoramio.jpg|延世大学校<br />アンダーウッド館/本館
Shoei Girls' Jr. & Sr. High School.jpg|頌栄女子学院中学校・高等学校校舎
</gallery>
 
==== クロイスター(回廊) ====
大学の起源は中世ヨーロッパに見いだすことができ、[[英国国教会]]([[聖公会]])系である[[オックスフォード大学]]は11世紀から12世紀、[[ケンブリッジ大学]]は13世紀に創立されたが、それ以前の学問研究は[[キリスト教]][[修道院]]で行われ、そこから派生してカレッジが生まれた。そのため、オックスフォード大学のカレッジを始め、初期のカレッジはほぼ例外なく、修道院としての様式を備えていた。これらの古いカレッジには、[[チャペル]]、[[寄宿舎]](学生寮と職員寮)、教室、図書館、[[クロイスター]](回廊)があり、立教池袋キャンパスも、これらが配置されたキャンパス設計がなされている。クロイスターは、もともと[[修道士]]たちが[[瞑想]]するために四角い中庭に設けられ、四つの側面に沿って作られた通路であるが、池袋キャンパスにも、このクロイスターの様式を見ることができる<ref>Y-SAPIX [https://y-sapix.net/n/n3688d57ca759 『大学歴訪録 5 立教大学』] 2021年8月25日</ref><ref>大学ジャーナONLINE [https://univ-journal.jp/column/2024246890/ 『立教大学~150周年を迎え「立教ヴィジョン」を策定。Global Liberal Arts & Sciencesを究め、世界を読み解き、変えていく力をつける』] 2024年8月23日</ref>。<br />新座キャンパスにもチャペルとチャペル会館で囲われた空間にクロイスターが設けられているが、こちらは[[アントニン・レーモンド]]が設計したチャペルに合わせてデザインされ、上空から見ると「立」の文字となるよう、五角形のクロイスター(回廊)となっており、一般的な様式とは異なる独特な様式を見ることができる<ref>立教新座中学校・高等学校 [https://niiza.rikkyo.ac.jp/aboutus/chapel.html 『チャペルについて』]</ref>。
 
<gallery widths="150" heights="120px">
Cloister saints 21.jpg|オックスフォード大学[[:en:New College, Oxford|ニュー・カレッジ]]のクロイスターと中庭<small>([[ハリー・ポッター (映画シリーズ)|ハリーポッター]]のロケ地として知られる。)</small>
New College Cloisters Oxford.jpg|オックスフォード大学ニュー・カレッジのクロイスター内部
</gallery>
 
==== 各記念ホール ====
前項のモリス館を始め、立教大学には学校の発展に貢献した人物の名前のついた建物が多く、タッカーホール、ウィリアムズホール、マキムホール、ロイドホールなどがある。大学への寄付者を記念するメーザーライブラリー記念館や、太刀川記念館も存在する。<br />
こうした貢献者の名を冠するメモリアルホールは欧米の大学でも多く見られ、立教大学創設者であるウィリアムズが学んだアメリカの[[ウィリアム・アンド・メアリー大学|ウィリアムズ&メアリー大学]]においても、同大学で学んだ初代[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]を記念するワシントンホールを始め、ジェファーソンホール、モンローホール、タイラーホールなど、建物の多くに卒業生など偉人の名がつけられている<ref>William & Mary [https://www.wm.edu/about/visiting/campusmap/___location/washington.php 『Washington Hall』]</ref>。アメリカで現存する最古のロースクールであるマーシャル-ワイス法科大学院({{仮リンク|William & Mary Law School|en|ウィリアム・アンド・メアリー大学ロースクール|en|William & Mary Law School}})も[[アメリカ独立宣言]]の署名者で、[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]](第3代アメリカ大統領)も学んだバージニア州最高裁判所判事の[[ジョージ・ワイス (独立宣言署名者)|ジョージ・ワイス]](アメリカ法律学の父、アメリカ最初の法律学教授)と、彼に同大学で学んだ第4代連邦最高裁判所長官の[[ジョン・マーシャル (政治家)|ジョン・マーシャル]]を記念した名である。大学構内には立教大学にある建物と同じ名称のタッカーホールもあるが、これは[[学校法人立教学院|立教学院]]総理である[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー]]の曽祖父で、ワイスの後継者として法学教授を務めた{{仮リンク|St. George Tucker|en|St. George Tucker}}を記念した建物である<ref>William & Mary [https://www.wm.edu/about/visiting/campusmap/___location/tucker.php 『Tucker Hall』]</ref>。
 
[[画像:1 christ church hall 2012.jpg|200px|thumb|オックスフォード大学クライストチャーチ Christ Church Hall(食堂)]]
 
==== 第一食堂(池袋キャンパス) ====
本館(モリス館)と同じく1918年(大正7年)に竣工した第一食堂は、英国の寄宿舎を思わせるクラシカルな雰囲気で、[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリーポッター]]の世界観があると言われ、学外からの訪問者も多い食堂である<ref name="facilities">[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/ 立教大学・池袋キャンパス施設紹介]</ref><ref name="hotozero">[http://hotozero.com/enjoyment/rikkyo_daiichishokudo/ ほとんど0円大学『まさかのワンコイン以下!立教大学のハリー・ポッター感満載の「第一食堂」で食べるお得ランチ!』2019.6.6]</ref><ref name="ikebro">[https://ikebro.tokyo/rikkyo_daiichi_syokudo/ イケブロ 2019.10.24]</ref>。立教大学と同じルーツを持つ[[イングランド国教会|英国国教会]]([[聖公会]])系大学である[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライストチャーチ]]にある「Christ Church Hall(食堂)」は、実際に映画ハリーポッターのモデルとなった食堂で、階段などはロケで利用されている。第一食堂とは窓の構造や配置が類似しており、天井の梁の造りは同一構造となっている<ref>[https://gotrip.jp/2018/01/78480/ GOTRIP!『ハリー・ポッターの風景がここに!オックスフォード、クライスト・チャーチの幻想的な世界を楽しむ旅』2018/01/12]</ref>。<br />
第一食堂入口の扉の上にはラテン語で「APPETITVS RATIONI OBEDIANT」とあり「食欲は理性に従うべし」と書かれている。これは哲学者[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものである<ref name="facilities"/>。
 
[[画像:Morris Hall (モリス館) in Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) - panoramio - phosphor.jpg|200px|thumb|ツタと赤レンガ]]
==== ツタと赤レンガ ====
本館正門から見て右側の[[ツタ]]は、1924年に[[聖公会神学院]]のチャペルから移植されたキヅタで、一年中緑色をしている。左側は、[[フランク・ロイド・ライト]]が設計した目白・[[自由学園明日館]]から1925年に移植された。本館全体に這っているのはナツヅタで、秋には葉を落とす。池袋キャンパスを象徴するレンガ建造物は、「フランス積み」と呼ばれる、一段に長手面と小口面が交互に並ぶ組積法で構築されている。非常に手間がかかる施工方法で明治中期以降はほとんど用いられていないが、大正期になってあえてこの方法を採用したのは、装飾面でより優れている点を見越してのことだったと言われている<ref name="honkan">[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/01.html 本館(1号館・モリス館) 立教大学]</ref>。
 
[[画像:Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) in Advent - panoramio.jpg|200px|thumb|クリスマスイルミネーション]]
==== クリスマスイルミネーション ====
本館前の2本の[[ヒマラヤスギ|ヒマラヤ杉]]は、1920年ごろ植林された。高さは約25メートルで、現在も成長を続けている。このヒマラヤ杉を用いたクリスマスイルミネーションはクリスマスの時期、池袋のランドマークとなる。イルミネーションの始まりは、戦後間もない1949年ごろ。当時、400個余り取り付けられていた色電球は、現在は1,000個以上である<ref name="honkan"/>。
 
<gallery widths="180" heights="120px">
Morris Hall (モリス館) in Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) - panoramio - phosphor.jpg|ツタと赤レンガ
Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) in Advent - panoramio.jpg|クリスマスイルミネーション
</gallery>
 
==== 第一食堂(池袋キャンパス) ====
[[画像:1 christ church hall 2012.jpg|200px|thumb|オックスフォード大学クライストチャーチ Christ Church Hall(食堂)]]
本館(モリス館)と同じく1918年(大正7年)に竣工した第一食堂は、英国の寄宿舎を思わせるクラシカルな雰囲気で、[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリーポッター]]の世界観があると言われ、学外からの訪問者も多い食堂である<ref name="hotozero">[http://hotozero.com/enjoyment/rikkyo_daiichishokudo/ ほとんど0円大学『まさかのワンコイン以下!立教大学のハリー・ポッター感満載の「第一食堂」で食べるお得ランチ!』2019.6.6]</ref><ref name="ikebro">[https://ikebro.tokyo/rikkyo_daiichi_syokudo/ イケブロ 2019.10.24]</ref><ref name="facilities">[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/ 立教大学・池袋キャンパス施設紹介]</ref>。立教大学と同じルーツを持つ[[イングランド国教会|英国国教会]]([[聖公会]])系大学である[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライストチャーチ]]にある「Christ Church Hall(食堂)」は、実際に映画・ハリーポッターのモデルとなった食堂で、階段などはロケで利用されている。第一食堂とは窓の構造や配置が類似しており、天井の梁の造りは同一構造となっている<ref>[https://gotrip.jp/2018/01/78480/ GOTRIP!『ハリー・ポッターの風景がここに!オックスフォード、クライスト・チャーチの幻想的な世界を楽しむ旅』2018/01/12]</ref>。<br />第一食堂入口の扉の上にはラテン語で「APPETITVS RATIONI OBEDIANT」とあり「食欲は理性に従うべし」と書かれている。これは哲学者[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものである<ref name="facilities"/>。{{-}}
 
==== 旧図書館本館旧館(現・メーザーライブラリー記念館/池袋キャンパス) ====
[[画像:立教大学旧図書館本館内部(1918年).jpg|200px|thumb|旧図書館本館内部(1918年)]]
1919年(大正8年)に米国聖公会の{{仮リンク|サミュエル・メーザー|en|Samuel Mather}}の寄付により竣工した旧図書館本館も、第一食堂と同様に、その伝統的な様相からハリーポッターの映画のシーンのようと言われた趣のある図書館であった<ref>立教大学校友会 [https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc038.html 『第38回「生まれ変わった図書館」』] 立教うんちく話</ref>。<br />2012年11月に新しく池袋図書館(新中央図書館)が開館すると、旧図書館本館旧館は図書館としての役割を終えた<ref>立教大学ラテンアメリカ研究所便り [https://late-ken-rikkyo.blogspot.com/2012/10/blog-post_5218.html 『さようなら立教旧図書館、こんにちは池袋図書館」』] 2012年10月24日</ref>。その後、2013年に立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパスチャペル)のパイプオルガン設置工事に伴い、一時的に旧館の2階がチャペルとして利用されたのち<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2013/04/12555.html 『立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパスチャペル)一時移転のお知らせ』] 2013/04/15</ref>、2014年に立教の歴史と伝統、教育と研究の取り組みを発信する『メーザーライブラリー記念館』(立教学院展示館)になっている<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/hfr.html 『立教学院展示館 メーザーライブラリー記念館』] 池袋キャンパス 施設紹介</ref>。2階の展示スペースは、当時と比べて図書館時代の書架などは取り払われており、図書が陳列した往時の図書館の雰囲気とは異なっている<ref>建築リノベーションアーカイブ.com [https://renovation-archive.com/2023/07/05/post-2515/ 『立教大大学展示館 Before:立教大学図書館 → After:立教学院展示館』]</ref>。<br />また、前項の食堂と同じく、英国国教会(聖公会)系大学であるオックスフォード大学の[[ボドリアン図書館]]を構成する{{仮リンク|ハンフリー公図書館|en|Duke Humfrey's Library}}は映画・ハリーポッターのロケ地となっている<ref>CREA [https://crea.bunshun.jp/articles/-/14318 『ハリポタ映画で見たのはこの空間!オックスフォードのロケ地巡り』] 文藝春秋,2017.12.26</ref>。{{-}}
 
==== 立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル/池袋キャンパス) ====
1916年に定礎式が行われ、191919201月25日他のレンガ建物群とともに落成[[聖別|聖別式]]が挙行された<ref>『立教学院百五十年史』 第一巻、296-297頁</ref>。[[東京都選定歴史的建造物]]に選定されている。1923年の関東大震災後に改修され、1998年に免振工事が施された。日々の礼拝をはじめ、創立記念やクリスマスなどさまざまな礼拝が行われている。また、[[パイプオルガン]]や[[ハンドベル]]などのコンサートや、結婚式も行われている。
 
==== 立教学院聖パウロ礼拝堂(チャペル/新座キャンパス) ====
1,150 ⟶ 1,324行目:
==== パイプオルガン ====
[[画像:Edward and Tsuneko Gauntlett.JPG|left|thumb|200px|[[エドワード・ガントレット]]/妻の[[ガントレット恒|恒]]([[山田耕筰]]の姉)とともに]]
池袋キャンパスにあるチャペル「立教学院諸聖徒礼拝堂」には、2013年にイギリスのティッケル社が製作したイギリス・ロマン派様式の新[[パイプオルガン]]が導入されている。導入に伴い、それまで設置されていたドイツ・バロック様式のベッケラート社製のパイプオルガンは2013年に竣工した池袋キャンパス・チャペル会館2階にあるマグノリア・ルームに2014年6月末に移設された。新座キャンパスにあるチャペル「立教学院聖パウロ礼拝堂」には、2014年にアメリカのフィスク社が製作したフランス・ロマン派様式の新パイプオルガンが導入されており、立教大学には3つの異なるタイプのパイプオルガンが設置されている。また、大学には[[教会音楽]]の研究・教育活動を行う「教会音楽研究所」<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/icm/ 教会音楽研究所]</ref> があり、日本における教会音楽の充実と発展のため、研究に加え資料収集や教会音楽に携わる方との交流や研修を行い、一般の方向けにもオープンなプログラムを提供している。
 
歴史的には、池袋キャンパスが落成式を迎えた1919年から、日本のオルガン界に大きな功績を残した[[エドワード・ガントレット]]が教えた。ガントレットは、池袋キャンパスのチャペルにアメリカのエスティ社(Estey)製のパイプオルガンを設置した。設置には学生も手伝わせている。また、築地キャンパスの聖三一大聖堂には既にパイプオルガンが設置されており、立教では複数のオルガンを所有していた。ガントレットは、立教大学最初の聖歌隊長も務めた。当時生徒であった山鹿博によると、ガントレットはパート楽譜を自分で印刷してきて生徒に配り、練習した後でパイプオルガンを弾きながら指揮したという。1900年に[[瀧廉太郎|滝廉太郎]]の堅信式を行い、音楽にも知見のあった[[ジョン・マキム]]もガントレットの指揮する[[キリスト教音楽|教会音楽]](英国のアンセム)に感激したと言われている。東京府立第一高等女学校(現・[[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|都立白鵬高等学校]])の4、5年生全員が、音楽教師に引率されて池袋キャンパスのチャペルを訪れ、ガントレットの演奏を鑑賞したこともあったという<ref>オルガンの文化史 赤井励 青弓社 1995年 175頁</ref>。加えて、ガントレットは経済学部教授としてタイプライティングも教えている<ref name="rikkyo-ichiran-1933"/>。
1,160 ⟶ 1,334行目:
==== 角帽・モルタルボード型 ====
[[画像:Mortarboard (PSF).png|right|200px|thumb|モルタルボード(角帽)]]
築地にあった米国式カレッジである立教大学校の学生が、[[学生帽|角帽]]([[アカデミックドレス|モルタルボード型]])を日本で最初に着用して都内を闊歩したと言われる。この米国式の大学帽は、頂に赤と黒の絹の房があり、学生たちはそれをたらして意気揚々と都大路を闊歩していたという。当時の学生たちは西洋の大学に入学したような心持であった。制服は金ボタンがついた制服であった<ref name="college"/><ref name="rikkyonews031"/><ref name="rikkyo_shinbun_239"/><ref name="rikkyo_shinbun_194">{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/61(S36)1215_194_1.pdf 立教大学新聞 第194号 1961年12月15日]}}</ref><ref name="rikkyo_shinbun_239"/><ref name="rikkyonews031"/>。
 
==== 立教大学校校舎と尖塔(1883年‐1890年) ====
[[画像:立教大学校校舎 築地.jpg|left|200px|thumb|立教大学校校舎]]
1883年(明治16年)1月に築地で設立された立教大学校の校舎(1882年12月竣工、[[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]設計、築地居留地37番)は、ゴシック風の煉瓦造りの3階建てで、外容は煉瓦の朱色に対し、帯青色の石材をもって窓および棟の装飾に用い、中央には20メートル近い大尖塔がそびえ立っていた。その頂には金色の十字架が輝き、東京見物の人々も訪れる観光名所となっていた<ref name="college"/><ref name="rikkyo_shinbun_194rikkyo_shinbun_239"/><ref name="rikkyo_shinbun_239rikkyo_shinbun_194"/>。尖塔は銀座からも見え、当時の学生の大きな誇りになっていた。また、これまで電気やガスがなく、初めてアセチリン瓦斯燈が輸入された当時であったが、講堂のランプは全て瓦斯燈を扱う商店の寄付により設置され、講堂に集う聴衆は明るく煌々たる光景に肝をつぶしたという<ref name="rikkyonews031"/>。校舎の1階を教室とし、2階・3階を寄宿舎としていた<ref name="rikkyo-ichiran-1933"/>。傍らには築地1丁目にあった旧校舎も移設して、舎監室および食堂とした<ref name="rikkyo-ichiran-1939"/>。{{-}}
 
=== 立教グッズ、アパレル ===
立教のロゴが入ったグッズやアパレルなどのオリジナルグッズが池袋キャンパスにある『池袋セントポールプラザ』や『立教オンラインショップ』などで販売されている。「立教水」の愛称で親しまれるオリジナルのミネラルウォーターも人気商品となっている。グッズの中には体育会応援グッズもあり、[[立教大学硬式野球部|硬式野球部]]のレプリカユニフォームや立教箱根駅伝応援のポロシャツやタオルマフラーなども扱っている<ref>[https://www.st-paulsplaza.com/goods/ セントポールプラザ『立教グッズ』]</ref>。オンラインの『Rikkyo Alumni Shop』では、校友会オフィシャルグッズも販売されている。これら以外にも[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]やアメリカンフットボールチームである[[立教大学ラッシャーズ|Rushers]](ラッシャーズ)などは、チーム独自のサイトでグッズ販売を行っている。<br />
また、経営学部のゼミでは、[[ZOZO|株式会社ZOZO]]やアパレルブランド「nano・universe」などと連携して、大学とアパレルブランドのコラボレーション企画としてパーカーを製作している<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2017/11/mknpps000000729y.html 立教大学×nano・universeでコラボパーカーを制作 2017/11/06]</ref>。2022年10月にはZOZOTOWNとのコラボレーションで「Rikkyo University」の頭文字のロゴを施したスウェットを製作した<ref name="zozo2022">[https://www.fashionsnap.com/article/2022-10-18/zozo-college/ FASHIONSNAP『ZOZOTOWNが青学など4大学とコラボ カレッジロゴスウェットを発売』2022年10月18日]</ref>。<br />
こうしたグッズ販売や取り組みは、アメリカの大学では伝統的に盛んに行われており、大学スポーツの人気とともに、大学のブランド力向上や収益に繋がっている。[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]](UCLA)においては、1919年にロサンゼルスのウエストウッドにキャンパスを設立して以来、グッズを販売している。UCLAのキャンパス内には街中のアパレルショップさながらの『UCLAストア』などの大型ショップが複数展開して豊富な商品を扱っており、在校生のみならず多くの観光客が購入している。UCLAの学生スポーツチームである[[UCLAブルーインズ]]の名称が入ったグッズも多くある。また、オンラインの『UCLAstore.com』の収益はすべて、UCLAコミュニティのための商品やサービス、最先端のキャンパス施設、学生活動のための資金など、さまざまな方法で再投資されており、大学の運営に寄与している<ref>[https://www.uclastore.com/ The UCLA Store]</ref>。
 
== 組織、教育および研究支援プログラム ==
=== 組織 ===
==== 学部 ====
1,196 ⟶ 1,370行目:
*** 初等教育専攻 - 小学校の[[教育職員免許状|教員免許]]が取得できる
**** 3年次に各専攻に分かれる
 
* [[異文化コミュニケーション学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学異文化コミュニケーション学部}}
** 異文化コミュニケーション学科{{Refnest|group="注釈"|専門科目群として、言語研究関連科目群、通訳翻訳研究関連科目群、コミュニケーション研究関連科目群、グローバル・スタディーズ研究関連科目群がある<ref group="広報" name="2016異文化案内">2016年入学生用の「大学案内」 [https://www.rikkyo.ac.jp/feature/brochure/book/eb_ufc/]異文化コミュニケーション案内」][https://www.rikkyo.ac.jp/feature/brochure/book/eb_ibk/「異文化コミュニケーション学部案内」] による</ref>。また、2012年度以降の入学生に対しては、選択科目の領域専門科目として、複合地域文化領域、異文化コミュニケーション領域、言語教育領域がある<ref group="広報" name="異文化履修要項">履修要項[https://sy.rikkyo.ac.jp/kyomu/risyu/16ibun/pdf/16_ibunka_097-172.pdf#page=3 履修要項] による</ref>。}}
 
* [[経済学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学大学院経済学研究科・経済学部}}
** 経済学科
1,207 ⟶ 1,379行目:
***: 2年次から各コースに分かれる
** 経済政策学科{{Refnest|group="注釈"|
学科選択科目は「公共サービスと生活」「競争と規制」「グローバル化と地域」「政策関連科目」に分かれている<ref group="広報" name="2016経済学部案内">2016年入学生用の経済学部案内 [https://www.rikkyo.ac.jp/feature/brochure/book/eb_eco/] による</ref><ref group="広報" name="経済履修要項">履修要項 [https://sy.rikkyo.ac.jp/kyomu/risyu/02keizai/pdf/02_keizai_097-290.pdf#page=123] による</ref>。}}
** [[会計ファイナンス学科]]{{Refnest|group="注釈"|学科選択科目は「アカウンティング」「ファイナンス」「マネジメント」がある<ref group="広報" name="2016経済学部案内"/><ref group="広報" name="経済履修要項"/>。}}
 
* [[経営学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学大学院経営学研究科・経営学部}}
*: 「リーダーシップの育成」を目標に掲げ、グローバル化する社会に資する人材を育成すべく、独自のプログラムを展開している。学外の高校や企業とのコラボレーションも盛んで、学部生は一年生の段階から、授業を通して企業から提示されたプロジェクト課題に取り組み、問題解決やプレゼンテーションなど実践的なスキルを身につけていく。
** 経営学科{{Refnest|group="注釈"|選択科目の一つで、2年次から始まるコンセントレーション科目は、マーケティング領域、マネジメント領域、アカウンティング&ファイナンス領域、コミュニケーション領域に分かれている<ref group="広報" name="経営履修要項">履修要項 [https://sy.rikkyo.ac.jp/kyomu/risyu/14keiei/pdf/14_keiei_105-170.pdf#page=3] による</ref>。}}
** 国際経営学科<ref group="広報" name="経営履修要項"/>
 
* [[理学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学大学院理学研究科・理学部}}
** 数学科{{Refnest|group="注釈"|代数系研究室、解析系研究室、幾何系研究室、計算数学系研究室がある<ref group="広報" name="2016理学部案内">2016年入学生用の理学部案内 [https://www.rikkyo.ac.jp/feature/brochure/book/eb_sci/] による</ref>。}}
** 物理学科{{Refnest|group="注釈"|理論物理学研究室、原子核・放射線物理学研究室、宇宙地球系物理学研究室がある<ref group="広報" name="2016理学部案内"/>。}}
** [[化学科]]{{Refnest|group="注釈"|教員は「反応解析化学グループ」「構造解析化学グループ」「物性解析化学グループ」に分かれている<ref group="広報" name="2016理学部案内"/>。}}
** 生命理学科{{Refnest|group="注釈"|分子生物学系の研究室、生物化学系の研究室、分子細胞生物学系の研究室がある<ref group="広報" name="2016理学部案内"/>。}}
 
* [[社会学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学大学院社会学研究科・社会学部}}
** 社会学科{{Refnest|group="注釈"|「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「理論と方法」「自己と関係」「生活と人生」「公共性と政策」「構造と変動」の5領域に分かれている<ref group="広報" name="社会履修要項">履修要項 [https://sy.rikkyo.ac.jp/kyomu/risyu/04sha/pdf/04_shakai_115-156.pdf#page=3] による</ref>。}}
** 現代文化学科{{Refnest|group="注釈"|「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「価値とライフスタイル」「環境とエコロジー」、「グローバル化とエスニシティ」「都市とコミュニティ」の4領域に分かれている<ref group="広報" name="社会履修要項"/>。}}
** メディア社会学科{{Refnest|group="注釈"|「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「情報社会」「マス・コミュニケーション」「メディア・コミュニケーション」の3領域と、「メディア実習科目群」に分かれている<ref group="広報" name="社会履修要項"/>。}}
** 国際社会コース
*: 国際社会コースは、1学年各学科15名、計45名により構成される。1年次に書類を提出し、志望理由、全般的な成績、英語力等に基づく選抜の上、2年次からコースを選択することができる(なお、国際社会コース入試による入学者は、国際社会コース選択があらかじめ決定している)。
 
* [[法学部]](池袋キャンパス){{main|立教大学大学院法学研究科・法学部}}
** 法学科
** 国際ビジネス法学科
** 政治学科
 
* [[観光学部]](新座キャンパス){{main|立教大学大学院観光学研究科・観光学部}}
*: 前身の[[社会学部]]観光学科の初代学科長は[[野田一夫]]。[[1998年]]度に日本初の独立した観光専門の学部となる。
** 観光学科
** 交流文化学科
 
* [[コミュニティ福祉学部]](新座キャンパス)
** コミュニティ政策学科
1,243 ⟶ 1,409行目:
*** コミュニティ学専修
*** 政策学専修
** 福祉学科{{Refnest|group="注釈"|専門科目は、(1)理論・制度・サービスの理解、(2)援助の方法や技術の理解、(3)実習・演習等による理解という3つの柱に基づき配置<ref group="広報" name="コミュニティ履修要項">履修要項 [https://sy.rikkyo.ac.jp/kyomu/risyu/06comu/pdf/06_comu_095-248.pdf#page=3] による</ref>。}}
 
* [[心理学部|現代心理学部]](新座キャンパス){{main|立教大学大学院現代心理学研究科・現代心理学部}}
*: [[2006年]]度に文学部心理学科から独立した。
** 心理学科
** [[映像学部|映像身体学科]]
 
* スポーツウエルネス学部(新座キャンパス)
*: [[2023年]]度にコミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科から独立した。
** スポーツウエルネス学科{{Refnest|group="注釈"|学部専門科目は「環境・スポーツ教育領域」、「ウエルネススポーツ領域」、「アスリートパフォーマンス領域」、の3つの教育研究領域を柱に配置。専門科目群としては、導入期のスポーツマンシップ論、スポーツリーダーシップ論に加え、スポーツ科学科目群、ウエルネス科学科目群、専門英語科目群、データサイエンス科目群で構成される。}}
 
* グローバルリベラルアーツプログラム(池袋キャンパス)
*: 2017年より開設。原則、英語で授業が行われる科目の履修だけで学位の取得が可能となっている。2年次の秋学期から始まる留学までは、GLAP生全員が寮で生活する。その上で、2年次の秋学期から3年次の春学期までの1年間、全員が海外の協定校に留学する。帰国後は「Humanities」「Citizenship」「Business」という3分野から専門領域を選択し、4年次には「Final Year Seminar」を履修しつつ、卒業論文を執筆する。[[文部科学省]]「[[スーパーグローバル大学]]創成支援」採択を受けて開設された。
1,322 ⟶ 1,485行目:
** ビジネスデザイン専攻
**: 社会人のためのビジネススクール型大学院で、就業経験が2年以上あることが応募要件となっている。
* 21世紀社会デザイン研究科(博士前期課程・後期課程)
** 比較組織ネットワーク社会デザイン学専攻
**: 研究領域には「コミュニティデザイン学」「危機管理学」「社会組織理論」がある。
* 異文化コミュニケーション研究科
1,341 ⟶ 1,504行目:
[[画像:立教大学池袋キャンパス 3号館 11号館 マキムホール(15号館).JPG|250px|thumb|池袋キャンパス3号館(左、旧寄宿舎、東京都選定歴史的建造物)と11号館(右、法科大学院)、マキムホール(奥、15号館)]]
[[画像:Reifsnider House (ライフスナイダー館) in Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) - panoramio.jpg|250px|thumb|ライフスナイダー館<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/ 池袋キャンパス 施設紹介 | 立教大学]</ref>]]
*===== 総合研究センター =====
** アメリカ研究所
**: 立教大学における最初の研究所として1939年に設立。
** キリスト教教育研究所
** [[ラテンアメリカ]]研究所
** 社会福祉研究所
** 観光研究所
** アジア地域研究所 (CAAS)
** 英語教育研究所
** 教会音楽研究所
** 日本学研究所
** ウエルネス研究所
** ビジネスロー研究所
** グローバル都市研究所
** [[持続可能な開発のための教育|ESD]]研究所
 
===== 学部・研究科附置研究所 =====
* 理学研究科附属機関
** 先端科学計測研究センター
** 未来分子研究センター
** 生命理学研究センター
** 数理物理学研究センター
* 社会デザイン研究科附属機関
** 社会デザイン研究所
* 経済学部附属機関
** 経済研究所
* コミュニティ福祉学部附属機関
** コミュニティ福祉研究所
* 経営学部附属機関
** リーダーシップ研究所
* 経済学部附属機関
** 経済研究所
* 法務研究科附属機関
** 法曹実務研究所
* 理学研究科附属機関
** 先端科学計測研究センター
** 未来分子研究センター
** 生命理学研究センター
** 数理物理学研究センター
* 現代心理学部附属機関
** 心理芸術人文学研究所
* スポーツウエルネス学部附属機関
* 心理教育相談所
** 立教大学メディカル&コンディショニング・センター
* 原子力研究所(神奈川県横須賀市長坂2-5-1)
:: スポーツウエルネス学部に所属する日本国内で高水準のメディカルスタッフが、立教大学体育会所属学生の希望者に対してメディカルおよびコンディショニングのサポートを行うスポーツウエルネス学部附置の機関で、AFC([[アジアサッカー連盟]])から「AFCメディカルセンター(AFC Medical Centre/Clinic of Excellence)」に認定されている。また、高いレベルのメディカルサポートに興味があるスポーツウエルネス学部および本学体育会所属の学生に、その詳細を伝え、同学部と体育会のメディカル・コンディショニングサポートを底上げしていくことを目的として設立されている<ref name="rikkyo-20240510"/>。
*: 1957年に設立。米国聖公会から寄贈された原子炉は1961年に初臨界に達したが、2001年に稼働を停止。現在は廃止措置中。
 
===== その他の研究機関 =====
* 立教学院史資料センター
* 大衆文化研究センター(旧[[江戸川乱歩]]邸)
* [[ジェンダー]]フォーラム
* 立教学院史資料センター
* ビジネスクリエイター創出センター
* 平和・コミュニティ研究機構
* [[江戸川乱歩]]記念大衆文化研究センター
* 共生社会研究センター
*: 「住民図書館」から寄贈された[[非政府組織|NGO]]・[[NPO]]関連資料等を所蔵、一般公開している。[[埼玉大学]]共生社会教育研究センターと連携。
* 原子力研究所(神奈川県横須賀市長坂2-5-1)
: 1957年に設立。米国聖公会から寄贈された原子炉は1961年に初臨界に達したが、2001年に稼働を停止。現在は廃止措置中。
 
===== その他の機関 =====
* 立教学院展示館
* 心理教育相談所
* 社会情報教育研究センター
* 観光ADRセンター
* ビジネスクリエイター創出センター
 
===== 全学共通カリキュラム運営センター =====
* 全学共通カリキュラム運営センター
** 英語教育研究室
** 全学共通カリキュラム運営センター
*** ドイツ語教育研究室
*** ドイツフランス語教育研究室
*** フランペイン語教育研究室
*** スペイン中国語教育研究室
*** 中国諸言語教育研究室
* 総合教育科目構想・運営チーム
*** 諸言語教育研究室
** 人文学系サポートグループ
** 総合教育科目構想・運営チーム
*** 人文自然・情報科学系サポートグループ
*** 自然・情報社会科学系サポートグループ
*** 社会スポーツ人間科学系サポートグループ
 
*** スポーツ人間科学系サポートグループ
===== その他 =====
* ランゲージセンター
* 英語ディスカッション教育センター
1,421 ⟶ 1,595行目:
* グローバル教育センター
* 立教セカンドステージ大学
*: 50歳以上を対象とした生涯学習機関で、[[修業年限]]は1年。カリキュラムは「エイジング社会の教養科目群」「コミュニティデザインとビジネス科目群」「セカンドステージ設計科目群」「ゼミナール・修了論文」で構成されている。文部科学省認可の大学ではないが、修了者は[[学校教育法]]105条の規定に基づく「履修証明書」が交付される。
[[画像:立教大学池袋キャンパス図書館本館(旧館)02.JPG|250px|thumb|メーザーライブラリー記念館 (旧図書館本館旧館)東京都選定歴史的建造物]]
[[画像:立教大学池袋キャンパス図書館本館(新館).JPG|250px|thumb|メーザーライブラリー記念館新館(旧図書館本館新館)]]
* 礼拝堂
** 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス)
** 立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパス)
* 図書館
** 池袋図書館
**: 2012年、本館、池袋メディアライブラリー、人文科学系図書館、社会科学系図書館、自然科学系図書館が統合して誕生。
** 新座図書館
** 新座保存書庫
* 旧江戸川乱歩邸
* 立教大学出版会
 
===== 教育礼拝堂 =====
* 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス)
* 立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパス)
 
===== 図書館 =====
* 池袋図書館
: 2012年、本館、池袋メディアライブラリー、人文科学系図書館、社会科学系図書館、自然科学系図書館が統合して誕生。
* 新座図書館
* 新座保存書庫
 
=== 教育支援プログラム ===
1997年から始まった全学共通カリキュラムは一般教養科目の新しい展開方法として導入された仕組みであり、このカリキュラムに含まれている「立教科目」と呼ばれる科目群は「特色ある大学教育支援プログラム」に採択されている。<!--
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すこともできる。-->
1,480 ⟶ 1,655行目:
;「立教スポーツ」編集部
:体育会本部の情報宣伝部として体育会機関紙「立教スポーツ」を発行している立教大学公認団体。体育会51部55団体の情報を体育会各部やOB・OG、一般読者に伝え、立教大学体育会の発展と向上に寄与するという目的の下日々取材を行っている。
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;学生保険委員会・献血運動の会
:1962年に設立した学生健康保険組合(現在の学生健康保険互助組合)の執行機関として発足。組合員(学生)から公募により信任された委員よって構成される。献血運動の会は1964年に当時問題となっていた[[売血]]を解決するために、学生保険委員会の外郭団体として発足。主な活動は[[日本赤十字社]]の献血車での学内献血会の運営や歯科検診の運営補助など、学生の健康に関する活動を行っている。
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:広告に関する研究を行うとともに、学園祭のイベントであるミス立教、ミスター立教コンテストなどを企画・運営する。
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[[File:Rikkyo costume procession.jpg|thumb|220px|right|学友会主催の第3回陸上運動大会での仮装行列/英語会の銀座行進曲(1928年)]]
;立教大学英語会(E.S.S)
:2018年に100周年を迎えた歴史あるクラブで、[[ポール・ラッシュ]]も運営に携わった。1953年(昭和28年)から四大学一橋早稲、立教塾と連合)、慶應、一橋)立教、早稲田からなる[[四大学英語劇大会]]で4連覇するなど、トップクラスの英語力を誇る伝統を持つ<ref name="rikkyonews146"/>。Debate・Discussion・Drama・Speechの4つのセミナーのどれかに属し、それぞれのセミナーにおいて専門的な知識を深める。
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;立教大学茶道部
1,600 ⟶ 1,779行目:
 
=== スポーツ ===
'''体育会'''
体育会の各種目において[[同志社大学]]との定期戦が古くから行われているほか、[[明治大学]]との定期戦([[立明戦]])も歴史がある。また、六大学による対抗戦が野球以外の種目でも行われているのに加え、水泳部の[[日本大学]]、立教大学、[[明治大学]]による日立明三大学水泳対抗戦、[[法政大学]]・[[明治大学]]・立教大学による三大学定期戦、ボート部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学レガッタなど、各種目によって多くの大学と定期戦を行っている。
 
<gallery widths="180" heights="150px">
立教大学体育会は、立教大学における最大の自治組織である。学生によって組織された体育会本部によって運営がなされている。
 
体育会の各種目において[[同志社大学]]との定期戦が古くから行われているほか、[[明治大学]]との定期戦明立戦([[立明戦]])も歴史がある。また、六大学による対抗戦が野球以外の種目でも行われているのに加え、水泳部の[[日本大学]]、立教大学、[[明治大学]]による日立明三大学水泳対抗戦、[[法政大学]]・[[明治大学]]・立教大学による三大学定期戦、ボート部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学レガッタなど、各種目によって多くの大学と定期戦を行っている。
 
8月には各部の1年生全員に向けたフレッシャーズキャンプ、12月には各部の幹部に向けたリーダースキャンプ、2月には各部の2年生に向けたステップアップキャンプが開催される。<gallery widths="180" heights="150px">
Rikkyo University-5.jpg|硬式野球部
Rikkyo University Rugby Football Club Players.JPG|ラグビー部
</gallery>
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;[[立教大学硬式野球部|硬式野球部]]
:1909年(明治42年)に大学から正式に部として認められたが<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1909.php 立教大学野球部 寮・グラウンドの歴史]</ref>、1883年(明治16年)創設の立教大学校には既において、日本の野球の先駆けとなる野球チームがあり、[[東京六大学野球連盟]]に所属するチームの中で最も古い歴史を持つ<ref name="rikkyonews031"/>。1909年(明治42年)には当時として大学から正式に部として認められた<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1909.php 立教大学野球部 寮・グラウンドの歴史]</ref>。多くの卒業生が[[プロ野球]]へ進んでいるが、創生期の[[全日本大学野球選手権大会]]で3回優勝している。ユニフォームは上下とも白地に紺色の縦ストライプが入ったシンプルなデザインで、[[ニューヨーク・ヤンキース]]のユニフォームを模して作られている。帽子には[[ユリ|百合]][[紋章]]([[フルール・ド・リス]])が[[マーク]]として用いられている。胸の校名の表記は「RIKKIO」となっており、ローマ字表記と異なるが、戦前のローマ字表記では「きょう」は「KIO」と表したことに加え、IとKが左右対称 (IKKI) になるようにデザインされた[[ロゴタイプ|ロゴ]]である。2017年には東京六大学野球春季リーグで優勝し、続いて出場した第66回[[全日本大学野球選手権]]で、1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。
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;陸上競技部
:1920年(大正9年)に創部し、2020年に創部100周年を迎えた伝統ある団体である<ref>[https://rikkyoekiden.1net.jp/greetings.html 立教大学体育会陸上競技部男子駅伝チーム ごあいさつ]</ref>。OB・OG会である紫聖会と協力して活動を行っている。男子長距離は[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]で第33回大会総合3位を最高位に27回出場の記録があるが、1968年(昭和43年)を最後に箱根路から遠ざかっている。2018年から立教箱根駅伝2024事業が開始し、創立150周年を迎え第100回大会となる2024年の箱根駅伝出場を目標に立教の誇りと伝統校復活のため強化を進めており、2022年10月15日に行われた[[第99回東京箱根間往復大学駅伝競走#予選会|第99回箱根駅伝予選会]]で6位となり、目標としていた2024年よりも1年早く55年ぶりに箱根駅伝への出場を決めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/202210150001507.html|title=【箱根駅伝予選会】立教大18年に始まった「箱根駅伝2024」改革実った 大学一丸で低迷打破|publisher=日刊スポーツ|date=2022-10-16|accessdate=2022-10-16}}</ref>。大学のスクールカラーは「[[紫]]色」であるが、陸上競技部カラーは同部OBの口伝によると代々江戸紫であるこからされており、駅伝のタスキの色には「[[江戸紫]]」が使用されている<ref>[https://hochi.news/articles/20221016-OHT1T51169.html タスキの色は「江戸紫」 55年ぶり箱根駅伝復活の立大・上野裕一郎監督「いつか赤のタスキに勝ちたい」] name="rikkyo- スポーツ報知</ref><refnews20230103">[https://www.rikkyo.ac.jp/news/2023/01/mknpps0000023mnf.html 立教大学『【第99回箱根駅伝】男子駅伝チームが55年ぶり出場。「江戸紫」の襷をつなぎ、10区間を完走』] - 立教大学公式ホームページ 2023/01/03</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20221016-OHT1T51169.html タスキの色は「江戸紫」 55年ぶり箱根駅伝復活の立大・上野裕一郎監督「いつか赤のタスキに勝ちたい」] - スポーツ報知</ref>。
:2023年には、女子長距離パートが[[全日本大学女子選抜駅伝競走大会|富士山女子駅伝]](2023全日本大学女子選抜駅伝)に初出場した。第103回関東インカレにおいては、男子がトラック総合優勝するなど、短距離・中距離種目も力を伸ばしている。2024年に男子駅伝チームが[[全日本大学駅伝対校選手権大会|全日本大学駅伝]]に初出場で7位となりシード権を獲得した<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/11/mknpps00000308f3.html 『全日本大学駅伝で7位!初出場でシード権獲得の快挙』] 2024年11月3日</ref>
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;水泳部
1,617 ⟶ 1,801行目:
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;[[立教大学ラッシャーズ|アメリカンフットボール部 (St.Paul's Rushers)]]
: 関東学生アメリカンフットボール連盟の1部リーグTOP8TOP8に所属、立教大学には珍しい学生最高峰リーグで日本一を目指すクラブ。日本のアメリカンフットボールの歴史は、立教大学教授であった[[ポール・ラッシュ]]の尽力により1934年12月8日に実施された日本発の公式戦、立教大学対明治大学との対戦から幕を開けた。以来、立教ラッシャーズは、日本最古のアメリカンフットボールチームとして学生日本一を争う甲子園ボウルに6回出場、内優勝4回という輝かしい成績を残している伝統のある強豪クラブである<ref name="chronicle"/>。また、ポール・ラッシュは「日本アメリカンフットボールの父」と呼ばれ、[[ライスボウル]](日本選手権)の最優秀選手には、氏の名を冠したポール・ラッシュ杯が授与される。ラッシャーズの愛称もラッシュに因んでいる。
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;[[立教大学ラグビー部|ラグビー部]]
1,623 ⟶ 1,807行目:
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;[[立教大学体育会サッカー部|サッカー部]]
:1922年(大正11年)創部。初代部長は[[ハロルド・スパックマン]]が務めた。1933年(昭和8年)、2代目部長[[ポール・ラッシュ]]の下、[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学サッカーリーグ]]1部昇格。1953年度[[全日本大学サッカー選手権大会]]で優勝。関東大学サッカーリーグ1部で過去3回優勝(1954年、1959年、1970年)。多くの日本代表選手を輩出し、メキシコオリンピック銅メダル獲得に貢献。OBも日本代表監督を複数名が務めた伝統あるチーム<ref name="soccer"/>。現役の学生選手が日本代表チームに選出されていたことから、日本サッカーの父と呼ばれる[[デットマール・クラマー]]は大学関係者の家に寄宿し、クラマーもサッカー部の発展に寄与した。クラマーは[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]監督時代には[[UEFAチャンピオンズカップ]]でチームを優勝へと導いている。サッカー部は1970年の天皇杯では、準優勝。現時点(2020年度大会終了時)で学生チームによる最後の天皇杯決勝進出である。1990年代には第14代[[日本サッカー協会]]会長の[[田嶋幸三]]がサッカー部コーチを務めていた。長らく低迷していたが、2018年に41年ぶりに関東大学サッカーリーグに復帰した。20212024年現在、関東大学サッカーリーグ2部に所属。
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;[[立教大学体育会バスケットボール部|バスケットボール部]]
1,637 ⟶ 1,821行目:
;山岳部{{Anchors|山岳部}}
:1922年(大正11年)に創部した歴史ある部で、[[堀田弥一]]が隊長を務め日本人として初めて[[ヒマラヤ]]山脈での登頂(ナンダ・コート 標高6867メートル)を果たすなど、海外でも大きな功績を残している。1956年(昭和31年)には、OBの[[小原勝郎]]が副隊長を務める[[マナスル]]登山隊が初登頂を果たし、日本人として初めて8000M峰登頂の快挙を上げた。山岳部は一年を通じてオールラウンドに活動しており、登山を中心に、[[ロッククライミング]]、[[沢登り]]、雪山登山、[[アイスクライミング]]など季節に応じた活動を行っている。2017年には「ナンダ・コート初登頂80周年記念事業」として、[[堀達憲]]ら立教大学OB2人を含む少数精鋭5名の登山隊を編成し、81年ぶりにナンダ・コートへの遠征を行った<ref name="Alpine"/>。その模様は[[日本BS放送|BS11]]の開局10周年の特別番組として放送された。また、日本の山岳登山の歴史は[[英国聖公会]]の[[ウォルター・ウェストン]]が切り拓き、[[聖公会]]のスポーツを通じた教育を今に伝えている。([[#日本アルプスの父、日本アルプスの開拓者]]を参照)
:2024年10月12日には、山岳部の2名を含む日本山岳会学生部遠征隊の5人がヒマラヤの未踏峰「プンギ」(標高6524メートル)に初登頂を果たした<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/10/mknpps000002zksp.html 『ヒマラヤの未踏峰「プンギ」の歴史的初登頂!山岳部が遠征隊メンバー』] 2024年10月28日</ref>。
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;[[立教大学相撲部|相撲部]]
: 1919年(大正8年)創部。1964年の[[全国学生相撲選手権大会]]にて、立教大学から初の[[学生横綱]]を輩出した。1980年~1990年代前半、部員不足に陥り、他の部から「助っ人」も多く出場していた。その様子は、映画「[[シコふんじゃった。]]」(1992年 脚本・監督 周防正行)のモデルになり、第16回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品になった。2018年には、学生相撲の男子相撲部にて、初の女性主将が誕生し、話題になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www9.nhk.or.jp/ohayou/digest/2018/05/0529.html |title=NHKニュース『おはよう日本』|accessdate=2018-05-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180410/dde/041/070/050000c |title=毎日新聞 憂楽帳 |accessdate=2018-04-10}}</ref>。この年、インカレ団体戦Bクラス(2部リーグ)にて、40年ぶりにベスト8に進出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rikkyo-sports.com/2018/12/02/%E3%80%90%E7%9B%B8%E6%92%B2%E9%83%A8%E3%80%91%E3%81%A9%E3%81%99%E3%81%93%E3%81%84%EF%BC%81%E5%8D%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%BF%AB%E6%8C%99%E3%81%A0%EF%BC%81/ |title=立教スポーツ『【相撲部】どすこい!半世紀ぶりの快挙だ!』 |accessdate=2019-04-03}}</ref>。2024年には相撲部の石井さくらが「[[世界女子相撲選手権大会]]」軽重量級で金メダルを獲得した<ref>立教大学 [https://www.rikkyo.ac.jp/news/2024/10/mknpps000002wlbe.html 『相撲部の石井さくらさんが「世界女子相撲選手権大会」軽重量級で金メダルを獲得』] 2024年10月4日</ref>。
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;ボート部
1,663 ⟶ 1,848行目:
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;レスリング部
:1938年(昭和13年)創部。2018年に80周年を迎えた伝統と歴史のあるクラブで、日本の大学レスリング界において5番目に古い歴史を持つ。長らく東日本学生リーグ二部リーグに所属していたが、2022年、二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした<ref name="japan-wrestling"/><ref>[https://rikkyowrestling.club/information.html 立教大学体育会レスリング部・クラブ紹介]</ref><ref name="japan-wrestling"/>。2016年の慶應義塾大学の「45年ぶり」を上回り、最長の期間を乗り越えての一部昇格となった<ref name="japan-wrestling"/>。
<!----------------------------------------------------------------------------->
;自転車競技部
1,670 ⟶ 1,855行目:
;スキー部
:1937年(昭和12年)創部。学連にも参加し、翌年の[[小樽市|小樽]]で開催されたインターカレッジより参加。1940年(昭和15年)の第13回野沢大会で2部で優勝し、同年に大学の正規体育会として公認された。1953年(昭和28年)第26回大会で優勝し1部へ昇格。1958年(昭和33年)の第31回大会では1部優勝者を輩出。1962年(昭和37年)に2部へ降格すると、以後低迷し、部員減少にも耐えながら存続を続けた。近年、復活を遂げ、2022年度は男子は2部、女子は1部で活動している。スキー部の創部には、[[頌栄女子学院中学校・高等学校|頌栄女子学院]]元理事長でOBである[[岡見如雪]]が携わっている<ref>[http://www.rikkyo-spur.jp/ 『立教大学体育会スキー部OB・OG会』]</ref><ref>[https://rikkyoskiteam.jimdofree.com/ 『立教大学体育会スキー部』]</ref>。
:スキー部に所属した[[猪谷千春]](スキー部名誉OB会員、[[国際オリンピック委員会|IOC]]元副会長)は、[[アルペンスキー]]で日本人初のオリンピック入賞(男子回転で銀メダル獲得)を果たし、日本人初の[[冬季オリンピック|冬季五輪]]メダリストである<ref name="rikkyo-spur"/><ref>立教大学体育会スキー部OB・OG会 [http://www.rikkyo-spur.jp/ 『活動報告』] 2020年2月27日</ref>。
<!----------------------------------------------------------------------------->
;アイスホッケー部
1,684 ⟶ 1,870行目:
: また、全国と世界に「'''立教会'''」と呼ばれる校友組織が広がっており、各地域立教会と海外立教会に加えて、企業・職域の立教会、立教経済人クラブ、立教大学体育会OB・OGクラブなどが組織されている。
 
: 1907年(明治40年)に立教学院校友会が設立され、1939年(昭和14年)に立教大学同窓会として独立。1960年(昭和35年)に立教大学校友会と改称。以来、校友会は立教大学(立教学校、立教大学校、大阪[[英和学舎]]、立教専修学校、[[東京英語専修学校]]、立教工業理科専門学校および立教大学大学院)全卒業生・修了者で組織・構成されている。
 
: 1922年(大正11年)2月には旧校友会館(後の旧診療所)が竣工したが、その建設は[[三菱財閥|三菱]]四天王の一人で校友である[[末延道成]]([[東京海上日動火災保険|東京海上火災保険]]取締役会長、[[東武鉄道]]創立発起人、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員)の寄付によるところが大きかったとされる<ref>{{Cite journal|和書 |author=鈴木勇一郎 |title=立教学院の校友組織と寄附行為 |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2018-01 |volume=15 |pages=93-114 |url=https://doi.org/10.14992/00016384 }}</ref>。また、氏の養嗣子である[[末延三次]]([[立教大学大学院法学研究科・法学部|立教大学法学部]]元教授)によって、末延道成の雅号から名付けた「鳥洞奨学金」が設けられている<ref>末延財団 [https://www.suenobu-zaidan.or.jp/profile/about.php 『末延財団の概要』]</ref>。
 
: 1923年(大正12年)から1932年(昭和7年)にかけて、校友である[[杉浦貞二郎]]が大学学長を務めていた時期には、美術品コレクターとして[[松方コレクション]]の名で知られる校友の[[松方幸次郎]]([[川崎重工業]]社長、当時[[川崎造船所]]、[[衆議院]]議員)が大学と学長の杉浦を支援した<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/32(S07)0922_115.pdf 『立教大学新聞 第115号』] 1932年(昭和7年)9月22日</ref><ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/26(T15)0425_031.pdf 『立教大学新聞 第31号』] 1926年(大正15年)4月25日</ref>。松方は校友会の幹事役員も務めたが<ref name="rikkonews051">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/27(S02)0415_051.pdf 『立教大学新聞 第51号』] 1927年(昭和2年)4月15日</ref>、同時期の校友会幹部には、立教学院理事長と校友会会長を務めた[[松崎半三郎]]([[森永製菓]]社長)、醤油王として知られる[[濱口梧洞]]([[ヤマサ醤油]]社長、貴族院議員)、[[東京川崎財閥]]当主の[[川崎八右衛門 (2代目)|川崎八右衛門]]([[三菱UFJ銀行]]頭取、[[三菱UFJ信託銀行]]頭取)、[[前田多門]]([[ソニーグループ|ソニー]]初代社長、第59代[[文部大臣]])、[[田邊宗英]]([[日本テレビ放送網]]会長、[[新東宝]]社長)、[[星野辰雄]]([[渋沢栄一]]の子、立教大学教授)、[[高橋貞三郎]]([[王子製紙]]専務取締役、[[三井物産]]大阪支店長)などが名を連ねている<ref name="rikkonews051"/><ref name="rikkonews072">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/28(S03)1205_072.pdf 『立教大学新聞 第72号』] 1928年(昭和3年)12月5日</ref>。
 
: 1928年(昭和3年)に今後の立教学院のさらなる発展に向けて、立教大学において医学部の新設や文学部、商学部の充実化などが計画された際には、それらの実現への原動力となるべく既存の立教学院校友会とは別に'''立教学院後援会'''が組織され、会長に松崎半三郎、副会長に星野辰雄、顧問に末延道成、[[松村松年]]、[[大塚惟明]]、[[阪井徳太郎]]、濱口梧洞、高橋貞三郎、[[吉田栄右]]らが、理事には前田多門、[[水田南陽]](栄雄)、田邊宗英、[[生駒粂蔵]]、[[根岸由太郎]]、[[須藤吉之祐]]らが名を連ねた<ref name="rikkonews072"/>。後援会事務所は[[芝区]]・桜田本郷町(現・[[港区 (東京都)|港区]][[西新橋]]1丁目・[[新橋 (東京都港区)|新橋]]1丁目)に置かれた<ref name="rikkyonews80">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/29(S04)0815_080.pdf 『立教大学新聞 第80号』] 1929年(昭和4年)8月15日</ref>。当時、東京英語専修学校の校友会組織である「'''錦町會'''」も組織されていた<ref name="rikkyonews064">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/28(S03)0515_064.pdf 『立教大学新聞 第64号』] 1928年(昭和3年)5月15日</ref>。
 
: 昭和初期には、卒業式後の夜に、[[丸の内]]の[[日本工業倶楽部]]会館で恒例の校友会主催の新校友歓迎会が催され<ref name="rikkyonews087"/>、1931年(昭和6年)の歓迎会は[[東京ステーションホテル]]で開かれた<ref name="rikkyonews098"/>。1951年(昭和26年)には、東京・[[銀座]](銀座西3-1建築会館7階/読売新聞社隣)に同窓生のためのセントポールクラブ・ルームが開設された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/51(S26)0720_079.pdf 『立教大学新聞 第79号』] 1951年(昭和26年)7月20日</ref>。
 
: 1959年(昭和34年)9月には、会長に[[吉田茂]](第45・48-51代[[内閣総理大臣]])、副会長に[[池田勇人]](第58-60代内閣総理大臣)、ほか[[正力松太郎]]([[読売新聞社]]社主)や[[石川一郎]]([[日本経済団体連合会|経団連]]初代会長)ら17名が発起人として「'''立教大学後援会'''」が発足し、[[松下正寿]](立教大学総長)が推進する新学部設置、原子力研究所の設置と運営、新キャンパスの取得など、立教大学の進展拡大を目的とする募金活動がなされた<ref name="rikkyogenshiro"/><ref name="rikkyogakuinshi2013">{{Cite journal|和書 |author=鈴木 勇一郎 |title=立教大学総長としての松下正寿 |journal=立教学院史研究 |publisher=立教学院史資料センター |year=2013-01 |volume=10 |pages=2-25 |url=https://doi.org/10.14992/00009145 }}</ref>。
 
: 1977年(昭和52年)11月に落成したセントポールズ会館は、校友各位の募金により建築されたもので、クラス会や[[OB・OG]]会の会場や恩師や友人との語らいの場として利用され、レストランとして日比谷[[松本楼]]の「立教大学 セントポール会館店」も置かれている。
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=== 大学関係者一覧 ===
{{See|立教大学の人物一覧|Category:立教大学出身の人物}}
 
== 施設 ==
===キャンパス===
[[File:Rikkyo school bus.jpg|thumb|立教学院のスクールバス]][[画像:立教大学池袋キャンパス第一食堂.JPG|250px|thumb|池袋キャンパス第一食堂(東京都選定歴史的建造物)]]
[[File:Main Dining Hall in Rikkyo University.jpg|250px|thumb|池袋キャンパス第一食堂内(東京都選定歴史的建造物)]]
[[画像:All Saints Chapel (諸聖徒礼拝堂) in Rikkyo (St. Paul's) University (立教大学) - panoramio - phosphor.jpg|250px|thumb|立教学院諸聖徒礼拝堂/チャペル<br />{{small|(東京都選定歴史的建造物、池袋キャンパス)}})]]
====池袋キャンパス====
* 所在地:東京都豊島区[[西池袋]]3-34-1
** [[池袋要町駅]]西6番出口より大学正門まで徒歩約76分。
** [[池袋駅]]西口より大学正門まで徒歩約7分。
** [[椎名町駅]]北口よりマキム門まで徒歩約12分。
* 学部(文学部、経済学部、理学部、社会学部、法学部、経営学部、異文化コミュニケーション学部)
* 大学院(文学研究科、経済学研究科、理学研究科、社会学研究科、法学研究科、経営学研究科、ビジネスデザイン研究科、21世紀社会デザイン研究科、異文化コミュニケーション研究科、法務研究科(法科大学院)、人工知能科学研究科)
* 敷地面積:70,339.1㎡
* 池袋駅西口の商店街では立教大学のスクールカラーである紫のペナントが使用されている。
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[[画像:Rikkyo University Niiza.JPG|250px|thumb|新座キャンパス]]
 
====新座キャンパス====
[[File:Rikkyo Building no.1 & 7 Niiza 01.jpg|thumb|立教大学新座キャンパス1号館と7号館]] [[File:Rikkyo Building no.5 Niiza.jpg|thumb|立教大学新座キャンパス5号館]][[File:Rikkyo Building no.6 Niiza.jpg|thumb|立教大学新座キャンパス6号館]][[File:Rikkyo Building no.9 Niiza.jpg|thumb|立教大学新座キャンパス9号館]]
 
* 所在地:埼玉県新座市[[北野 (新座市)|北野]]1-2-26
**[[志木駅]]南口より徒歩15分、[[スクールバス]]4分、[[西武バス]]<所沢駅東口行>または<清瀬駅北口行>「立教前」下車。
** [[新座駅]]南口より徒歩20分、スクールバス6分、西武バス<志木駅南口行(北野入口経由)>「立教前」下車。
* 学部(観光学部、コミュニティ福祉学部、現代心理学部、スポーツウェルネス学部)
* 大学院(観光学研究科、コミュニティ福祉学研究科、現代心理学研究科)
* 敷地面積:101,271.0 ㎡
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<!----------------------------------------------------------------------------->
;野球部グラウンド
{{See also|立教大学野球部#本拠地}}
:1966年に完成し、8,400平方メートルの人工芝を備えた野球部の専用グラウンド。2016年に改修され、全面人工芝化、バックスクリーン張替、観覧席増改築などが行われた。人工芝は2015年3月に改修された[[明治神宮野球場]]と同じ、ハイブリッドターフExcitingが使用されている。近くには、硬式野球部の選手たちが生活する智徳寮や、人工芝が整備された全天候型の室内練習場も置かれている。室内練習場にはトレーニングルームやブルペンも併設されている。
<!----------------------------------------------------------------------------->
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====旧施設====
;東長崎グラウンド
1925年(大正14年)秋に竣工した[[立教大学硬式野球部|野球部]]グラウンド。それまでのグラウンドは、現在の池袋キャンパスの4号館付近にあったが、[[関東大震災]]で校舎を焼失した築地の[[立教池袋中学校・高等学校|立教中学校]]がそこに移転することとなり、野球部グラウンドは[[東京府]][[北豊島郡]][[長崎町 (東京府)|長崎村]](現・[[豊島区]][[千早 (豊島区)|千早]])に移転することとなった。この校地は、もともと1924年(大正13年)7月に、中学校の建設用地として購入されたものであったが、計画変更により、野球部グラウンドとして活用されることとなった。その後、1966年に埼玉県新座市に球場が移転するまでの間、幾多の名選手を世に送り出した歴史的なグラウンドであった<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1925.php 立教野球部『寮・グラウンドの歴史』1925年(大正14年)東長崎にグラウンド移転]</ref>。現在は[[東京都立千早高等学校]]の校地となっている。
 
;セントポール・グリーンハイツ
[[画像:Johoku-Chuo-Park-2010.jpg|200px|thumb|現在の[[城北中央公園]]]]
;セントポール・グリーンハイツ(現・{{See also|城北中央公園}}
1956年11月13日に、上板橋から練馬にわたる緑地帯に竣工した総合グラウンドで、35,000坪もの広大な面積を擁した。それ以前には、大学には野球部が持つ東長崎グラウンド以外にグラウンドは一つしかなく、面積も約2,000坪と狭く、陸上競技、ラグビー、ホッケー、サッカー部など各部が共用し混雑する状況であった。他の部は、民間会社のグラウンドを借りて練習していた<ref group="広報" name="green"/>。
セントポール・グリーンハイツは、1968年1月に東京都へ土地と工作物を返還し、その役目を1969年に埼玉県入間郡富士見町(現:富士見市)に竣工した現在の富士見総合グラウンドへ受け渡すこととなった<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/topics/2019/mknpps000000vdnx.html 立教大学『立教大学の総合グラウンド ①「富士見総合グラウンド」への道』]</ref>。
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; 延世・慶應・立教・復旦リーダーシップフォーラム
: [[2002 FIFAワールドカップ]]の日韓共催をきっかけとして、[[延世大学]]の発案により実現し、延世大学・[[慶應義塾大学]]・立教大学の3大学が協力して始まったプログラム。グローバル化の進む社会で活躍するリーダー育成を目的として毎年開催されている。2006年度には、中国の[[復旦大学]]が加わり、東アジア地域の学生が集い、真剣に政治・経済・社会・文化を議論する貴重な機会となっている。
 
=== 地方自治体との協定 ===
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=== 他大学との協定 ===
* [[F-Campus]]
*: 2001年より開始した5大学間([[学習院大学]]、[[学習院女子大学]]、[[日本女子大学]]、[[早稲田大学]]、立教大学)による単位互換制度。
* [[聖路加国際大学]]
** 単位互換制度(2001年度開始)
1,890 ⟶ 2,086行目:
* [[金沢大学]](2021年協定締結)<ref>[https://www.kankokeizai.com/金沢大学と立教大学、協定締結式を加賀屋で開催/ 金沢大学と立教大学、協定締結式を加賀屋で開催](2021年4月9日、[[観光経済新聞]])2021年5月20日閲覧</ref>
*: 連携と協力に関する協定(観光を中心とする学術研究、教育、人材育成)
* [[同志社大学]](2024年協定締結)
*: 相互協力・連携に関する協定(キリスト教の諸活動における相互協力及び連携、教育・学術研究における相互協力及び連携、学生の正課外活動における相互交流、教職員の人事交流、FD及びSDにおける相互協力及び連携、教育研究施設・装置及び設備の共同利用)
* 図書館閲覧協定締結校
** [[山手線沿線私立大学図書館コンソーシアム]]加盟校
** [[学習院大学]](上記、山手線沿線私立大学図書館コンソーシアムも加盟)
** [[埼玉大学]]
** [[埼玉県大学・短期大学図書館協議会]]加盟校(新座キャンパスのみ)
* [[東京12大学広報連絡協議会]]
* [[大学情報サミット]]
*: 2005年に発足させた情報機関協定。他の加盟校は、五十音順に[[慶應義塾大学]][[中央大学]]、[[法政大学]]、[[明治大学]][[早稲田大学]]
* [[全国私立大学FD連携フォーラム]]
*: 2008年に発足させた[[ファカルティ・ディベロップメント|FD]]に関する日本で初の私立大学連携協定。発足当初からの連携校は[[関西大学]]、[[関西学院大学]]、[[慶應義塾大学]][[中央大学]]・[[同志社大学]]、[[法政大学]][[明治大学]]、[[立命館大学]]、[[早稲田大学]]
* [http://www.nskk.org/school/index2.htm 日本聖公会関係学校協議会]
* [https://cuac.anglicancommunion.org/ 世界聖公会大学連合 (Colleges & Universities of the Anglican Communion)]
 
== 系列、姉妹関係校 ==
=== 系列校 ===
[[学校法人立教学院]]では、設置している教育機関を全て同格に扱っており、大学を頂点とする[[附属学校]]は設置していない。そのため、本節にてまとめている。
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=== 姉妹校 ===
[[画像:Rikkyochoolcountryhouse.jpg|200px|thumb|立教英国学院<br />Country House]]
*[[学校法人立教女学院]]とは、
:創立者が同じであることから基本的な信条を同じにしている。
:* [[立教女学院小学校]]
:* [[立教女学院中学校・高等学校]] - 2024年度から立教大学への推薦入学制度が、受け入れ総数201名となる。
* [[香蘭女学校中等科・高等科]] - 2025年度から立教大学への推薦入学制度が、受け入れ総数160名となる。現在は聖公会系の学校法人香蘭女学校が運営するが、立教大学と同じ経営母体が運営していた時期がある。
* [[立教英国学院]] - 立教大学元教授、立教高校(現・[[立教新座中学校・高等学校]])元校長の[[縣康]]が1972年に創設。立教大学へ25名(学年の半数以上)の推薦入学枠があったが、2025年度より大学と定めた推薦条件を満たせば、人数の制限なく進学可能となった<ref>[https://www.rikkyo.co.uk/new/cat43/2025-rikkyo-university-recommendation/ 立教英国学院・お知らせ 2022年10月29日]</ref>。
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=== 旧姉妹校 ===
* [[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]](セント・ジョンズ大学) - [[チャニング・ウィリアムズ|ウィリアムズ]]の後任である[[米国聖公会]]中国・上海主教の{{仮リンク|ジョーゼフ・スケレシュースキー|en|Samuel Isaac Joseph Schereschewsky}}が聖ヨハネ書院として設立した中国初の高等教育機関で、東方の[[ハーバード大学]]と呼ばれた。
* [[聖マリア女子中学 (上海)|聖マリア女子中学]] - 上海にあった米国聖公会のミッションスクール
 
=== 関係校 ===
立教大学はキリスト教の一派である[[日本聖公会]]に所属している。
* [[聖路加国際大学]]
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== 社会との関わり ==
=== 立教と映画 ===
* 立教大学は、多数の[[映画]]人を輩出してきた。1970年代から1980年代にかけて、大学の一般教養科目に「映画表現論」の講義があり、映画好きの学生たちは、講師をしていた[[蓮實重彦]](のちの東大総長)に影響を受け、一定の思想性、党派性を持った活動を行った。サークル活動としては、映画制作サークルである立教SPP(セント・ポールズ・プロダクション)やSPPから独立した自主映画制作サークル「[[パロディアス・ユニティ]]」などがあった。<br />一連の映画活動は、立教[[ヌーヴェルヴァーグ]]ともいわれ、日本映画に記憶を残す作品を発表する監督たちが多数卒業生の中から生まれている。当時の立教大学には映画関係の学部や学科がなかったにも関わらず、多くの映画人を輩出してきたのは蓮實重彦の影響力の大きさに加え、蓮實に呼応した学生たちの自主的な活動が生み出したものといえる<ref>[https://www.rikkyo.ac.jp/closeup/alumni/2021/mknpps000001imt7.html 立教での出会いがその後の人生を決定付けた 映画監督 黒沢 清]</ref>。<br />2006年には、新座キャンパスに現代心理学部・映像身体学科が設置され、映画・映像制作が学べる環境が整っており、気鋭の若手映画監督も生まれている。
* 1925年(大正14年)には、立教大学文学部英文学科に在学中の[[清水みのる]](作詞家)が、「ブレーブ映画研究会」を組織し、そこに集まった映画研究生とともに、[[小笠原プロダクション]]の別流としての映画を制作し、[[浅草]][[大勝館]]で封切の一般上映を行うなど、古くから大学では映画のサークル活動が行われ、映画制作を行う土壌があった<ref name="rikkyonews011"/>。
* 1929年(昭和4年)には、立教大学文学部に在学中の[[旗一兵]](後の[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[テレビプロデューサー|プロデューサー]]、[[吉本興業]]企画課長、[[映画評論]]家)が、『立教大学文学』(立教大学雑誌部出版)に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表するなど、戦前の文学部においても映画や[[演劇]]に関する研究が行われていた<ref>日本の古本屋 [https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=6676350 『立教文学 2号』]</ref>。
* 昭和初期には大学で[[演劇]]の研究もなされていたことが分かっており、[[番匠谷英一]](立教大学名誉教授)が立教大学劇研究会の会長を務めた<ref name="rikkyonews077">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/29(S04)0515_077.pdf 『立教大学新聞 第77号』] 1929年(昭和4年)5月15日</ref>。
* 1952年(昭和27年)秋に開催された立教大学の文化祭では、フランス映画「[[自由を我等に]]」が[[飯島正]]([[映画評論|映画評論家]])の解説で上映された<ref name="rikkyonews091">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/52(S27)1020_091.pdf 『立教大学新聞 第91号』] 1952年(昭和27年)10月20日</ref>。
 
=== 池袋モンパルナス ===
* 大学が本部を構える池袋は、大正末期から昭和初期にかけて芸術家が多く暮らし、[[パリ]]の[[モンパルナス]]に因んだ「[[池袋モンパルナス]]」を形成し、大学のキャンパスも作品に描かれた。[[トキワ荘]]においても[[手塚治虫]]、[[寺田ヒロオ]]、[[藤子不二雄]]、[[石ノ森章太郎]]、[[赤塚不二夫]]をはじめ多くの漫画家たちが育った<ref>三井住友トラスト不動産 [https://smtrc.jp/town-archives/city/ikebukuro/p05.html 東京都・池袋『文化・芸術の拠点として』]</ref><ref>豊島区・IKE CIRCLE [https://www.city.toshima.lg.jp/ike-circle/culture/spot/montparnasse.html 『池袋モンパルナスとよばれたまち』] 2021年3月9日</ref>。<br />現在では周辺地域で池袋モンパルナス回遊美術館が開かれ、大学でもアート作品の企画展示など行っている<ref>[https://kaiyu-art.net/ 池袋回遊美術館]</ref>。
 
=== 立教大学に関連する映画、TVドラマなどの作品 ===
* 『[[榎本健一|エノケン]]の青春酔虎伝』(1934 映画)
* 『[[資生堂]] ベネフィーク グレイシィ シリーズ』(1980 CM)- [[カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル|カンヌ国際広告祭]]銅章受賞作品、出演・[[浅野温子]]、脚本・[[石上三登志]]
* 『[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]]』(1983 映画)- 新井直美が通う大学
* 『[[シコふんじゃった。]]』(1992 映画)- 立教大学相撲部がモデル
* 『[[あすなろ白書]]』(1993 TVドラマ)
* 『[[ロングバケーション (テレビドラマ)|ロングバケーション]]』(1996 TVドラマ)- 瀬名秀俊の母校、奥沢涼子の通う日本芸術大学として登場
* 『[[テニスの王子様]]』(1998-2008 漫画)- 立教中学校(現・池袋キャンパスなど)がモデル
* 『[[チープラブ]]』(1999 TVドラマ)- 琴塚七海が通う大学
* 『[[やまとなでしこ (テレビドラマ)|やまとなでしこ]]』(2000 TVドラマ)
* 『[[天才柳沢教授の生活]]』(2002 TVドラマ)- 柳沢教授が勤める国際文化大学として登場
* 『[[カミュなんて知らない]]』(2006 映画)
* 『[[輪舞曲 (テレビドラマ)|輪舞曲]]』(2006 TVドラマ)- 風間琴美が通う大学
* 『[[テニスの王子様 (アニメ)|テニスの王子様]]』(2006 実写映画)
* 『[[EXILE]]/道』(2007 PV)
* 『[[東京喰種トーキョーグール]]』(2017 映画)
* 『[[米津玄師]]/カナリヤ』(2020 PV)
* 『[[七人の秘書]]』(2020 TVドラマ)
* 『[[ウチの娘は、彼氏が出来ない!!]]』(2021 TVドラマ)- 水無瀬空が通う大学(新座キャンパス)
* 『[[声春っ!]]』(2021 TVドラマ)
* 『[[大和ハウス工業]] かぞくの群像#1「矛盾」篇 』(2021 TVCM)
* 『[[ガリレオ (テレビドラマ)|ガリレオ 禁断の魔術]]』(2022 TVドラマ)
* 『[[リーバイス]] OUTERWEAR COLLECTION』(2022 コレクション)
* 『[[すずめの戸締まり]]』(2022 劇場版アニメ)
* 『[[First Love 初恋]]』(2022 Netflixドラマ)
* 『[[有吉の壁]] 選んだ先輩と壁を越えろ!おもしろ大学の人選手権』(2023 TV番組)
* 『[[富士通]] [[FMV]] 神パソコン』(2023,2024 TVCM)
* 『ケイスケ ヨシダ 2024-25年秋冬コレクション』(2024 コレクション)
* 『[[アンサンブル (テレビドラマ)|アンサンブル]]』(2025 TVドラマ)
* 『[[私の夫と結婚して]](日本版)』(2025 Amazon Prime Videoドラマ)
 
=== 立教と避暑地リゾート ===
* '''日本の避暑地リゾートを開拓した立教大学ゆかりの人物'''
:[[日光市|日光]]を生涯にわたって愛した[[ジェームズ・ガーディナー]](立教学校初代校長)をはじめ、[[聖公会神学院]]の前身の一つである聖教社神学校を設立した[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]は、[[軽井沢]]に教会([[軽井沢ショー記念礼拝堂]])を設立し、地域を有名にしたことから「軽井沢の父」と呼ばれ親しまれている<ref>[http://www.st-andrew-tokyo.com/web/guide/profile.html 聖アンデレ教会 教会のプロフィール]</ref>。また、立教大学教授を務めた[[ポール・ラッシュ]]は、[[清里高原|清里]]を開拓し、[[キープ協会]]を創設した。彼ら、立教大学ゆかりの人物たちによって、日本の避暑地リゾートが開拓されている。[[聖路加国際病院]]の基礎を造った[[フランク・ハレル]]も、仙台の[[第二高等学校 (旧制)|第二高等中学校]](現・[[東北大学]])で教えていた時期に、[[七ヶ浜町]]の[[高山外国人避暑地]]を開拓した<ref name="ueda-2019">{{PDFlink|[https://www.seiryo-u.ac.jp/u/research/gakkai/ronbunlib/j_ronsyu_pdf/no48/01_ueda_48.pdf 『キリスト教各宗派と日本の避暑地の関わりについて ─「日本聖公会人物史」等による新たなアプローチ─』] 上田 卓爾, 金沢星陵大学, 星稜論苑, 第48号, 2019年12月}}</ref>。<br />
:軽井沢ショー記念礼拝堂は現存し、日光にはガーディナーが設計した[[日光真光教会礼拝堂]]やエマーソン邸(上赤門)が現存する。清里にはキープ協会により運営されている宿泊研修施設「清泉寮」とラッシュを中心に設立された清里聖アンデレ教会がある。七ヶ浜町には外国人避暑地が開かれた歴史を背景とした地域の国際化拠点である七ヶ浜国際村が避暑地近くに設けられている。
<gallery widths="190" heights="130px">
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=== 日本アルプスの父、日本アルプスの開拓者 ===
[[イングランド国教会|英国聖公会]]の宣教師[[ウォルター・ウェストン]]は、日本の山々や[[上高地]]を世界中に紹介した登山家でもあり、「[[日本アルプス]]の父」、「日本近代登山の父」と称されている<ref>[https://www.kamikochi.or.jp/learn/spot/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E7%A2%91 『スポット紹介 ウェストン碑』 上高地公式ウェブサイト]</ref><ref>[https://thejapanalps.com/charm/waltera-weston/ 日本近代登山の父 W・ウエストン]</ref>。ウェストンは、まだ登山という概念がなかった明治時代に日本人に先駆けて各地の山に登り、1894年(明治27年)には、H.J.ハミルトン(日本聖公会中部教区初代主教)、[[浦口文治]](後の立教大学教授)とともに日本アルプス連山の初登頂に成功し、多くの山岳写真を撮影した<ref name="ueda-2019"/>。その体験を1896年(明治29年)に「日本アルプスの登山と探検」という本にまとめ、ロンドンで刊行し世界に紹介した。ウェストンは、英国の歴史ある[[パブリックスクール]]の名門[[:en:Derby School|ダービー校]]の卒業生で、スポーツを通じた人間教育を受けており、スポーツとしての登山の醍醐味を日本人に教えた<ref>[https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/biblmain.htm 『日本とその山々の姿を著した宣教師ウォルター・ウェストンの話』奥正敬 京都外国語大学・GAIDAI BIBLIOTHECA 216号 p23-25 平成29年3月20日発行]</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/sports/goto/sports-adventure/2006/goto_sa_061105.html 『ウェストンの歩みを辿る』 2006年11月5日 日刊スポーツ新聞社]</ref>。また、[[日本山岳会]]の設立を提唱し、[[ロッククライミング|ロック・クライミング]]を日本で初めて行った人物でもある。上高地にある彼のレリーフの前で毎年「ウェストン祭」が開かれている<ref>日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)</ref>。<br />
立教学院総理の[[ヘンリー・セントジョージ・タッカー|ヘンリー・タッカー]]と立教学院理事で[[聖路加国際病院|聖路加病院]]院長の[[ルドルフ・トイスラー]]も登山を好み、明治時代に日本アルプスの踏破を幾たびも試みた日本アルプスの開拓者として名を連ねている。1903年(明治36年)8月には、タッカーとトイスラーは[[槍ヶ岳]]に登山している<ref name="rikkyo_shinbun_205"/><ref>[https://www.luke.ac.jp/related-facilities/pdf/teusler.pdf 聖路加国際大学『トイスラー小伝』大学史編纂・資料室]</ref>。
<gallery widths="200" heights="150px">
1,977 ⟶ 2,212行目:
*[[蒲郡クラシックホテル]] - [[山下智司]](社長)
 
建物の維持状況など文化財や産業遺産指定外のため、上記の会には所属していないが、[[帝国ホテル]]([[古田直弥]]・元支配人)や、日光南間ホテル(南間栄・元経営者){{Refnest|group="注釈"|皇太子時代の[[明仁|上皇]]が戦時中、[[奥日光]]に疎開していた時に滞在していた日光市湯本にあったホテルで、1973年に[[栃木県]]の[[益子町]]に移築され、2020年2月から「ましこ悠和館」として新たに営業を開始<ref>[https://yuwakan.net/history/ ましこ悠和館の歴史]</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM1J740RM1JUUHB014.html 朝日新聞『栃木)旧南間ホテル改築中 新名称は「ましこ悠和館」』2019年1月18日 ]</ref>。}}、[[鬼怒川温泉ホテル]]([[金谷鮮治]]・元社長)などの創業が古い老舗ホテルや、[[伊香保温泉]]で創業から400年以上続く「福一」や、「ホテル木暮」などの老舗旅館・ホテルも卒業生が経営に携わっている<ref>{{PDFlink|[http://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/65(S40)1215_239_1.pdf 立教大学新聞 第239号 1965年12月15日]}}<name="rikkyo_shinbun_239"/ref>。
 
=== ポーター賞受賞企業 ===
[[画像:Michael porter.jpg|200px|thumb|left|[[マイケル・ポーター]]]]
[[一橋大学大学院経営管理研究科・商学部|一橋大学大学院経営管理研究科]]が運営するイノベーションによって独自性ある戦略を実行し、高い収益性を達成している企業を表彰する「[[ポーター賞]]」を立教大学の卒業生が経営する企業が受賞している<ref>[https://www.porterprize.org/pastwinner/index.html PORTER RRIZE・受賞企業・事業レポート]</ref>。ポーター賞は、[[ハーバード大学]]教授の[[マイケル・ポーター]]の名前に由来し、2001年7月に創設された<ref>[https://www.porterprize.org/about/index.html PORTER RRIZE・ポーター賞とは]</ref>。
 
 
{| class="wikitable sortable"
2,003 ⟶ 2,237行目:
{{clear}}
 
== 大学発ベンチャー ==
== 企業からの評価 ==
=== オリシロジェノミクス株式会社 ===
=== 出世力 ===
理学部生命理学科の末次正幸教授が2017年に発明した、細胞を使わずに長い[[デオキシリボ核酸|DNA]]を効率的に合成する技術(セルフリー長鎖DNA合成技術)を実用化する目的で2018年12月に設立。大学での研究段階で既に技術開発のフェーズまで進んでおり、事業開始から1年半足らずで最初の製品がリリースされた。[[科学技術振興機構]](JST)と[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]](NEDO)による「大学発ベンチャー表彰2021」では科学技術振興機構理事長賞を受賞した<ref>[https://www.jst.go.jp/tt/journal/journal_contents/2021/10/2110-05_article.html 国立研究開発法人 科学技術振興機構『特集大学発ベンチャー表彰2021 科学技術振興機構理事長賞』2021年10月15日]</ref><ref>{{YouTube|JBbhmdRMEPw|科学技術振興機構理事長賞 オリシロジェノミクス株式会社}}</ref>。2023年1月、同社を[[COVID-19ワクチン]]を扱うバイオ医薬企業世界トップの[[モデルナ]]が評価し、買収すると発表。買収金額は8500万ドル(約110億円)となった<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000081.000064549.html PR TIMES『モデルナ、オリシロジェノミクス株式会社を買収へ』2023年1月4日]</ref><ref>[https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/23/01/05/10298/ 日経バイオテク『米Moderna社が創業後初の買収、オリシロジェノミクスを約110億円で』立教大の末次教授の研究成果を評価 2023.01.06]</ref>。
*[[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/|title=小樽商大を経済誌が高評価!出世できる大学全国第5位!|newspaper=[[小樽ジャーナル]]|publisher=小樽ジャーナル社|date=2006年11月6日}}</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、立教大学は、2006年時点で存在する全国の744大学中、第38位にランキングされた<ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 出世できる大学ランキング] 2024年2月8日閲覧</ref>。
 
== 脚注 ==
2,017 ⟶ 2,251行目:
 
== 関連文献 ==
* [[菅円吉]]{{cite [https://dl.ndl.go.jp/pid/9580250book|和書|author=立教学院 |title=立教学院設立沿革誌』] |publisher=立教学院八十年史編纂委員会 |year=1954 |id={{NDLJP|9580250}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000949486 |ref={{harvid|『立教学院設立沿革誌』}}}}
* {{cite book|和書|author=立教学院 |title=立教学院八十五年史編纂委員 [|publisher=立教学院事務局 |year=1960 |id={{NDLJP|9543953}} |url=https://dlndlsearch.ndl.go.jp/pidbooks/9543953R100000002-I000001019804 |ref={{harvid|『立教学院八十五年史』] 立教学院事務局、1960年}}}}
* {{cite book|和書|author=立教学院百年史編纂委員会, [立教学院, 海老沢有道 |title=立教学院百年史 |publisher=立教学院 |year=1974 |id={{NDLJP|12110238}} |doi=10.11501/12110238 |url=https://dlndlsearch.ndl.go.jp/pidbooks/12110238R100000002-I000001190514 |ref={{harvid|『立教学院百年史』] [[学校法人立教学院]]、1974年}}}}
* 立教学院百二十五年史編纂委員会 『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』 学校法人立教学院、2000年
* 立教学院百五十年史編纂委員会 『立教学院百五十年史』 第一巻、立教大学立教学院史資料センター、2023年<!--第二巻と第三巻は未刊行-->
 
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* [https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/ 立教学院史資料センター|立教大学]
 
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