「久米田の戦い」の版間の差分
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: ''この時の状況は[[将軍山城#将軍地蔵山の戦い|将軍地蔵山の戦い]]も参照。''
また12月25日、飯盛山城の支城となっていた[[三箇城]]の城主・[[三好政成]]が畠山軍の武将・宮崎隠岐守の奇襲にあい戦死した。三好政成は三好宗渭の兄で、[[堺公方|堺幕府]]の時から[[
そのような緊張状態の中、翌永禄5年([[1562年]])正月、三好義興、松永久秀らは足利義輝への謹賀の挨拶に訪れている。この間も小さな戦闘は何度かあり、特に三好実休軍は長い対陣で疲労しつつあった。
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もう一方の主戦場であった京都は、三好義興が撤退を主張、京西院小泉城、梅津城、郡城にいた京都防衛隊を[[勝竜寺城]]まで引き揚げさせ、将軍足利義輝には[[岩成友通]]を警護につけ[[石清水八幡宮]]へ移した。翌3月6日、六角義賢は[[京都市|洛中]]に進軍し、同月8日に[[徳政令]]を敷き京を掌握した。
2年ぶりに高屋城に入城した畠山高政は、数日兵馬に休息を与えると、同年3月中頃、三好長慶がいる飯盛山城を
その後、5月19日から20日の[[教興寺の戦い]]へと続いていく。
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[[ファイル:Nyosenji3.jpg|thumb| 三好実休の墓/妙泉寺]]
* この戦いは、長慶が細川晴元・昭元父子を普門寺城に幽閉したのがきっかけとなるが、「一存は永禄四年四月か五月かに死に、堺南宗寺に葬られた。これが畠山・根来勢の岸和田攻勢を誘発したというから、一存の存在の大きさがわかる」とされている{{Sfn|中井|1986|pp=34-37}}。十河一存は猛将で「鬼十河」と恐れられていた。十河一存の死が畠山高政が出軍したきっかけともなった。
* またこの戦いは総兵力が定かではない。『続応仁後記』、『厳助大僧正記』、『長享年後畿内兵乱記』、『細川両家記』等諸書によって記述される兵数は異なるが、畠山側が1万から3万、三好側が7千から2万とされる。多い
* 三好実休の死去の状況について『足利李世紀』によると「実休当千鉄炮死去、数白余討死、即敗軍」とあるので鉄砲によって討ち取られたようであるが、「記録によっては実休の死因を「流矢」もしくは「自殺」と記しているものもある」としているので、鉄砲ではなく「矢」や最後には「自害」したという説もある<ref>{{Cite journal|和書|author=白石博則|authorlink=白石博則|title=湯河の城・玉置氏の城|journal=和歌山城郭研究|year=2005|issue=4|pages=49-50}}</ref>。
* また三好実休が討ち取られてから、堺への退陣は困難であったらしく、手に負えない難しいことを「久米田の退き口」と言われている。
* また総退陣し阿波に帰還した武将達は
== 脚注 ==
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