「砂の器」の版間の差分
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|刊行の出版元 = [[光文社]]
|刊行の出版年月日 = [[1961年]][[7月5日]]
|装幀 = [[伊藤憲治]]
|装画 =
|題字 =
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== エピソード ==
[[File:亀嵩駅の蕎麦屋「扇屋」さんから駅のホームを望む - panoramio.jpg|thumb|250px|right|亀嵩駅構内で営業する蕎麦屋「扇屋」では、松本清張が亀嵩駅を訪問した時の写真や、俳優など映像化作品関係者のサインが掲示されている。]]
* 雑誌『[[旅 (雑誌)|旅]]』1955年4月号に掲載されたエッセイ「ひとり旅」で、著者は以下のように記している。「[[備後落合駅|備後落合]]というところに泊った(中略)。朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が醒めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけている」。この経験が、のちに本作の着想に生かされたと推定されている<ref>{{Cite journal |和書 |journal=週刊 松本清張 |issue=2 |year=2009 |publisher=[[デアゴスティーニ・ジャパン]] |pages=26-27 |ref={{SfnRef|デアゴ|2009}} }}</ref>。このエッセイで書かれた旅は、著者が父・峯太郎の故郷・[[鳥取県]][[日南町]]を初めて訪問した[[1948年]]1月に行われたとみられ<ref>{{Cite book|和書|author=足羽隆|title=松本清張と日南町|publisher=非売品|year=2013|pages=54-57}}</ref>、亀嵩の地名を著者が知ったのはこの時期のことと推測されている<ref>{{Cite book|和書|author=村田英治|title=『砂の器』と木次線|publisher=ハーベスト出版|year=2023|pages=154-155}}</ref>。
* 本作を担当した読売新聞の編集者・山村亀二郎の回想によれば、本作は[[ズーズー弁]]・[[超音波]]・犯人および刑事の心理を3本の柱として連載が始められた<ref name="山村">{{Cite book |和書 |year=1971 |title=松本清張全集 |volume=第5巻 砂の器 |publisher=[[文藝春秋]] |chapter=山村亀二郎「“砂の器”のころの清張さん」 |id={{全国書誌番号|75011919}} }}</ref>。超音波については[[實吉純一]]の著書『電気音響工学』(1957年)が参考にされ、實吉の当時勤務していた[[東京工業大学]]を取材で訪問した<ref name="山村"/>。
* 小説中の登場人物の出雲地方の方言の記述に関しては、正確を期すため、読売新聞松江支局の依頼を通じて、亀嵩地域の方言の話者による校正が行われた。その際、[[亀嵩算盤]]合名会社の代表社員・若槻健吉も協力したが、この縁から、著者と若槻家の交流が始まった。亀嵩の記念碑への清張による文字の[[揮毫]]は、若槻家の客間で行われ、健吉の息子・慎治が上京した際には著者がひいきの店を案内するなど、付き合いが続いた<ref>{{Harvnb|デアゴ|2009|loc=pp. 11, 20-21}}</ref>。1992年に
* カッパ・ノベルス版刊行の約2年後『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』に掲載された著者の創作ノートには「いま、超音波で手術ができるわけです。メスの代りに超音波によって切るんですが、メスでは届かないところでも、超音波だと届く。[[順天堂大学医学部附属順天堂医院|順天堂]]でやっていますが、そういうことから考えれば、殺人だってできるんじゃないか、というのが一つの発想。それから「ヌーボー・グループ」と書いてあるけれども、いわゆる「[[ヌーヴェルヴァーグ]]」の波に乗って、いろいろと景気の良い若い人たちが出てきたでしょう、今までの芸術を一切否定するとか...そういう人たちをちょっとカリカチュアライズして書いた」<ref>「ある作家の周囲 その23 松本清張篇」『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』1963年6月号、宝石社。または『松本清張推理評論集 1957-1988』[[中央公論新社]]、2022年、98頁</ref>と記されている。このうち超音波発生器の設定に関しては、映画では採用されず、以降の映像化作品でも省略されている。<!--海野十三「振動魔」との人物設定および殺人手段の類似については「誰それが指摘している」の形で、出典付きで記述して下さい-->
* 小説中の「ヌーボー・グループ」のモデルに関して、音楽評論家の[[小沼純一]]は、1951年に結成された[[実験工房]](作曲家の[[武満徹]]などが参加)と推定している<ref>{{Cite book |和書 |author=小沼純一|authorlink=小沼純一 |year=2005 |title=武満徹 その音楽地図 |publisher=[[PHP研究所]] |series=[[PHP新書]] |chapter=第六章「併行する時代」 |isbn=4-569-64213-6}}</ref>。また、文芸評論家の[[郷原宏]]は、1958年頃から運動の始まった[[若い日本の会]](作曲家の[[黛敏郎]]などが参加。正式な創立集会は1960年5月)がモデルと推定している<ref>{{Harvnb|デアゴ|2009|p=7}}</ref>。
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