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しかし、勢力を伸ばした比企氏は、[[北条氏]]と対立することになる。『[[吾妻鏡]]』によれば、[[建仁]]3年([[1203年]])に頼家が病に倒れると、頼家の長男・一幡を擁する比企氏と頼家の弟・[[源実朝|千幡]]を擁する北条氏との間で後継者争いが起こった。一幡と千幡の分割相続と決定すると、それに不満を抱いた能員は北条氏征伐を図った。しかし、それを知った[[北条時政]]は能員を自邸に呼び出して謀殺し、比企一族のいる一幡の小御所を攻撃した。一方、『[[愚管抄]]』によると、病に倒れた頼家が後を全て一幡に譲ろうとしたため、比企氏の全盛時代になることを恐れた時政が、能員を呼び出して[[暗殺|謀殺]]し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けたとある。小御所は炎上し、一幡と能員の息子らも殺され、比企氏は族滅した([[比企能員の変]])<ref name=":0" />。比企一族の滅亡を知った頼家は、時政征伐を[[和田義盛]]と[[仁田忠常]]に命じるが、最終的には伊豆国[[修禅寺]]に幽閉され、頼家の側近の多くは[[拘禁]]あるいは[[流罪#日本における流罪|配流]]された<ref name=":1" />。
 
乱の翌日、比企能員の妻妾([[渋河兼忠]]の娘か)とその2歳の男子が和田義盛に預けられ、後に安房国に流刑になった{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。『吾妻鑑』に見える比企氏の記事はこれが最後(讃岐局にまつわる怪異譚を除く)である{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。
[[比企能本]]は、比企氏族滅後、唯一生き残った人物である。『[[新編鎌倉志]]』によると、能本は[[おじ|伯父]]の伯蓍上人に匿われて[[出家]]し、京で[[順徳天皇]]に仕え、[[承久の乱]]後に順徳天皇の[[佐渡国]]配流に同行した。後に4代将軍[[九条頼経]]の[[御台所]]となった頼家の娘の[[竹御所]]の計らいによって、鎌倉に戻ったという。鎌倉に[[妙本寺]]を建立し、比企一族の[[菩提寺]]となった<ref>{{Cite book|和書|title=An English Guide to Kamakura's Temples & Shrines|url=https://www.worldcat.org/oclc/244564274|publisher=Ryokufūshuppan|date=2008|isbn=978-4-8461-0811-3|oclc=244564274|others=ヘザー・ウイルソン|first=|last=|last2=|page=Myōhon-ji|author=神尾賢二}}</ref>。[[建長]]5年([[1253年]])には[[日蓮]]に[[帰依]]している。
 
[[比企能本]]は、比企氏族滅後、唯一生き残った人物である。江戸時代成立の『[[新編鎌倉志]]』によると、鎌倉に[[妙本寺]]の前身となる竹御所法華堂を建立したのは「比企判官能員が末子」[[比企能本|比企大学三郎能本]]である{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。比企能本は、安房国に流された男子に比定される{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。能本は[[おじ|伯父]]の伯蓍上人に匿われて[[出家]]し、京で[[順徳天皇]]に仕え、[[承久の乱]]後に順徳天皇の[[佐渡国]]配流に同行した。後に4代将軍[[九条頼経]]の[[御台所]]となった頼家の娘の[[竹御所]]の計らいによって、鎌倉に戻ったという。鎌倉に[[妙本寺]]を建立し、比企一族の[[菩提寺]]となった<ref>{{Cite book|和書|title=An English Guide to Kamakura's Temples & Shrines|url=https://www.worldcat.org/oclc/244564274|publisher=Ryokufūshuppan|date=2008|isbn=978-4-8461-0811-3|oclc=244564274|others=ヘザー・ウイルソン|first=|last=|last2=|page=Myōhon-ji|author=神尾賢二}}</ref>。[[建長]]5年([[1253年]])には[[日蓮]]に[[帰依]]している。
 
== 一族 ==
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== 後裔を称する一族 ==
比企能本に子孫があったかは不明であり{{sfn|細川重男|2022|p=136}}、比企氏は「比企の乱」にともなって事実上族滅した{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。比企氏の後裔を称する家系はあるが、[[細川重男]]は「史料的には真偽を確認出来ない」と述べている{{sfn|細川重男|2022|p=136}}。
 
=== 旗本比企家 ===
江戸幕府に仕えた旗本に、比企能員の子孫を称する比企氏がある<ref name="kanseifu1125_kokumin861-862"/>。『寛政重修諸家譜』がその家伝として載せるところによれば、比企能員には遺腹の子があり、比企の岩殿観音堂([[正法寺 (東松山市)|正法寺]])の別当が養育して成長し、のちに[[順徳天皇]]に仕えて越後に移った<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。以後14代を重ねたが、この間の系譜を失っており不明という<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。
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家康は比企家の由緒にかんがみ、比企義久に対して比企郡で知行地を与える意向を示したが、義久の病気や家康の死去が重なって実現しなかったという<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。義久の子・比企重員(次兵衛・藤左衛門)は寛永2年(1625年)より徳川秀忠に仕えて大番を務め、最終的に武蔵国内で400石を知行した<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。重員の子・比企久員(藤十郎・次左衛門)は大番組頭を務めて蔵米200俵が加賜された<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。久員の子・比企藤十郎も大番を務めたが、元禄9年(1696年)に[[生類憐みの令]]に抵触したために追放処分を受け、旗本としては系譜が絶えている<ref name="kanseifu1125_kokumin862-863"/>。
 
中山の金剛寺には、「比企系図」が伝えられているほか<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/>、則員から久員まで4代(則員が比企家15代目とされている)の墓がある<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/><ref name="higashimatsuyama-kanko_kongouji"/>。『寛政譜』によれば、この比企家の家紋は「丸に割菱」とある<ref name="kanseifu1125_kokumin863"/>。
 
なお、『寛政譜』には上記の比企家以外に2家、「比企」を名字とする旗本の家が掲載されているが、いずれも比企能員とは無関係である{{efn|1家は神田御殿(館林藩主)時代の徳川綱吉に仕えてのちに[[支配勘定]]を務めた比企勝信(佐左衛門・喜左衛門)に始まる家で、源氏を称する<ref name="kanseifu1323_kokumin968-969"/>。『寛政譜』当時の当主は比企勝猛(栄太郎、蔵米150俵取り)<ref name="kanseifu1323_kokumin968-969"/>。もう1家は[[比企長左衛門]](はじめ儀左衛門。蔵米150俵)に始まる家であるが、氏族は不明(「未勘」)<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024"/>。比企長左衛門も神田御殿時代の綱吉に仕えた人物で、のちに勘定から代官に転じ<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024"/>、元禄15年(1702年)に[[烏山藩]]主[[永井直敬]]が転出した後の旧藩領を預かる<ref>{{cite web|和書 |url=https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1615024938_doc_3_0.pdf |title=烏山城|publisher=那須烏山市教育委員会|format=pdf|accessdate=2024-08-09}}</ref>、宝永3年(1706年)に[[元荒川]]・[[古利根川]]などの改修に関わる<ref>{{cite web|和書|url=https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/texthtml/d000010/mp000010-100010/ht002630|title=第四編>第五章>第二節 徳川幕府の河川支配>享保期以前の河川掛り|work=越谷市史 通史上|accessdate=2024-08-09}}</ref>といった事績を残しているが、子孫が処分を受けたために旗本としては絶家となった<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024"/>。}}。
 
== 石碑と法要 ==
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<ref name="kanseifu1125_kokumin862">『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082716/1/440 国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.862]。</ref>
<ref name="kanseifu1125_kokumin862-863">『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082716/1/440 国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』pp.862-863]。</ref>
<ref name="kanseifu1125_kokumin863">『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082716/1/440 国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.863]。</ref>
 
<ref name="kanseifu1323_kokumin968-969">『寛政重修諸家譜』巻第千三百二十三「比企」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082721/1/495 国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』pp.968-969]。</ref>
<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024">『寛政重修諸家譜』巻第千五百十一「比企」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082720/1/523 国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』pp.1023-1024]。</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{citation|和書|author=細川重男|authorlink=細川重男|title=鎌倉幕府抗争史 御家人間抗争の二十七年|publisher=光文社|series=光文社新書|year=2022|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
* [[比企能員の変]]
* [[妙本寺]]{{ndash}}比企一族の[[菩提寺]]
 
 
{{DEFAULTSORT:ひきし}}