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寛弘6年(1009年)正月に中宮と敦成親王に対する呪詛事件が発生する<ref>『日本紀略』寛弘6年正月30日条</ref>。まず、厭符を製作したとして[[円能]]が捕縛・訊問を受け、[[高階光子]]([[佐伯公行]]の妻)、[[民部省|民部大輔]]・[[源方理]]、[[播磨国#国司|播磨介]]・[[高階明順]]らが追及を受けた<ref>『日本紀略』寛弘6年2月5日条</ref><ref>『栄花物語』巻8 はつはな</ref>。結局、朝廷は事の根元は伊周にありと断じ、正二位への叙位を受けたばかりの伊周の朝参を禁じた<ref>『公卿補任』</ref>。6月になって伊周の朝参が再び許されるが<ref>『日本紀略』寛弘6年6月13日条</ref>、嫌疑を受けた伊周は精神的に大きな打撃を受けたらしく、翌寛弘7年([[1010年]])正月に失意の内に没した。
 
さらに、翌寛弘8年([[1011年]])6月には病床に臥した一条天皇は東宮[[三条天皇|居貞親王]](冷泉天皇の皇子)に譲位し、剃髪出家した後に崩御した。一条天皇と道長・彰子は信頼関係にあった<ref>『[[権記]]』</ref>。その一方で後世の記録で『[[古事談]]』や『[[愚管抄]]』には、道長・彰子が天皇の遺品を整理している際、「王が正しい政を欲するのに、讒臣一族が国を乱してしまう」という天皇の手書を見つけ、道長が怒って破り捨てたという逸話が記載されているが、平安同時期の書物には一切みられず信憑性は薄い。
 
同時代の記録である藤原行成の日記『[[権記]]』には、一条天皇が死の直前に側近の行成に定子が生んだ敦康親王の次期東宮擁立の相談を行ったが、行成が天皇に、道長の外孫である彰子が生んだ敦成親王の次期東宮擁立を認めさせたという経緯や、その一方で彰子自身も一条天皇の意を尊重して、定子亡き後、我が子同然に養育した敦康親王の次期東宮擁立を望んでいたが、父道長がそれを差し置いて敦成親王の立太子を後押しした事を怨んだと言う経緯等が記述されている。