「織田信長」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Richknight (会話 | 投稿記録) |
編集の要約なし タグ: 差し戻し済み |
||
936行目:
上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という[[印章]]を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」{{efn|武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。}}という為政者の[[徳]]を説く内容の「武」であったと解釈されている{{sfn|矢部健太郎編|2016|p=74}}。
[[ファイル:織田信長禁制.jpg|サムネイル|290x290ピクセル|「天下布武」印が押された織田信長禁制<ref>{{Cite web |title=東寺百合文書の「織田信長禁制」 – 東寺百合文書WEB |url=https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=279 |date=2018-01-22 |access-date=2024-02-09 |language=ja}}</ref>。京都府立京都学・歴彩館所蔵。]]
また最近ではこの「天下布武」の語源を[[礼記]]の「堂上接武,堂下布武」の「堂下布武」に求める見解も散見される。
これは「天下布武とは堂下布武の捩り」、つまり信長一流の諧謔とする説である。従来、日本の学会ではこの「布武」の「布」を布教などと同義の「世間に広める」という意味の動詞と捉え、さらに「武」をその目的語として「軍事(征服)」という意味の名詞と捉えてきた。つまり「天下」の語義を日本全土と錯覚したうえで「日本全土に武力を広める=日本征服」などとした陶酔的に解釈してきた。しかし中国古典には「布武」という出典がすでに存在しておりここでの「布」はあくまで衣服をさす名詞に過ぎず、動詞は「武」のほうであり用法は厳密に「歩く」に限定されている。そしてその意味するところは「皇居の外では(皇居の内における接武=摺り足ほどではないにせよ)布=衣服が乱れぬように節度をもって歩け」というものである。この出典説では天下布武の意味を「畿内において(幕府政治が乱れぬよう)節度をもった政治を行う(すなわち将軍権力の補佐)」と解釈する。この説は一般に「織田信長不良説」から敷衍しており、この立場ではたとえば一斉に国境線を拡大するために行ったとされる有名な「方面軍制度」も、実は行き当たりばったりにその都度、敵対してしまった敵と片っ端から戦争していただけとして天才による非凡な独創という解釈をただの後世の陶酔として否定するものである。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され{{sfn|谷口克広|2002|p=58}}、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の<!--- 脇田修や朝尾直弘の頃から言われていたことで、それを神田千里が改めて強調したという流れだそうで「2010年代の歴史学」と言えるかは微妙なようです(金子拓 2014による)。--->歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした[[畿内|五畿内]]([[山城国|山城]]、[[大和国|大和]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[摂津国|摂津]]の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている{{sfn|神田千里|2013b}}{{sfn|神田千里|2014|p=103-111}}。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり{{sfn|金子拓|2014|p=110}}、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
| |||