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*日本と米英関係が悪化した昭和15年暮れ、3人のインド人独立運動家が香港の監獄へ脱走し、広東の日本軍司令部に駆け込んだ。3人はバンコクまでの亡命を希望し、扱いに迷った広東軍司令部は参謀本部に連絡、神戸行きの船に乗せた。この時3人の世話を命じたのが藤原だった。藤原は希望通り3人を三井丸に乗せバンコクへ送ると、彼らはタイ国通材武官の田村浩大佐のもとを訪れ謝礼し、秘密結社、[[インド独立連盟]]の存在を明かした。
 
*太平洋戦争開戦が迫る昭和16年9月、東京でF機関(藤原機関)が編成された。メンバーは藤原機関長、[[山口源]]中尉、[[中宮悟郎]]中尉、[[土持則正]]大尉、[[米村弘]]少尉、[[瀬川清治]]少尉(後に戦死)、[[滝村正巳]]軍曹(後に戦死)、民間志士として東京外語供御大学の学生[[石川義吉]]通訳(インド語)、[[岩田重遠]](マレー在住30年)、[[神本利男]](ハリマオ工作担当、後に戦死)、更に追加要員として[[国塚一乗]]中尉、 太田黒通訳<ref>田中正明『光また還える : アジア独立秘話』(223頁)1958年</ref>、大田、山下、橋本、長野、石井ほか台湾人青年2名が現地参加した。彼らは商社員、ホテルのボーイに扮して各種工作を準備し、開戦後ただちに軍服に着替えて戦地に赴いた<ref>恒石重嗣 『心理作戦の回想 : 大東亜戦争秘録』(96‐97頁)1978年</ref>。この時石川は、初対面の藤原に合流すべくバンコクの隠れ家へ向かったが、白いパンツ姿で現れた藤原を見て「暴力団のボスではないか」と驚愕した<ref>藤原岩市追憶(30‐31頁)1988年</ref>。
 
*F機関が編成されると、藤原は直ちにバンコクへ着任した。そこで田村大佐から[[インド独立連盟]]の存在を知らされ、漬物小屋の二階に本部を置くインド独立連盟の本部を訪問し、プリタム・シン書記長とアマール・シンに出会う。その組織はタイ・マレー、シンガポールシンガポール、上海、香港、ベルリン、ニューヨークにも支部があり、チャンドラ・ボースの革命理論を実践する組織であった。そして数度の会合と折衝の後、12月1日に田村とプリタム・シンの間で反英独立闘争のメモランダムが署名された<ref>田中正明『雷帝東方より来たる』(308₋309頁)1979年</ref>。