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'''薛 登'''(せつ とう、[[647年]] - [[719年]])は、[[唐|唐代]]の[[官僚]]・[[文学者]]。もとの名は謙光。[[本貫]]は[[常州]][[宜興市|義興県]]{{Sfn|旧唐書|1975|p=3136}}{{Sfn|新唐書|1975|p=4169}}。
 
== 経歴 ==
[[貞観 (唐)|貞観]]初年の[[閩州|泉州]][[刺史]]薛士通([[薛安都]]の玄孫)の子として生まれた。文学や史書を広く渉猟し、人と前代の[[故事 (先例)|故事]]を談論するたびに、必ず広く典拠を引用してみせた。若くして[[徐堅]]や[[劉知幾]]と名声を等しくし、互いに仲が良かった。[[文明 (唐)|文明]]([[684年]])、[[閬中市|閬中県]]主簿を初任とした。[[天授 (武周)|天授]]2([[691年]])、左補闕となった。ときに官吏の選挙がみだりに行われていたため、謙光は上疏してこれを諫めた。また周辺民族の首長の子を人質に取る制度を禁絶するよう求めたが、[[武則天]]に聞き入れられなかった{{Sfn|旧唐書|1975|pp=3136-3141}}{{Sfn|新唐書|1975|pp=4169-4171}}。
 
ほどなく謙光は水部員外郎に転じ、[[給事中]]・[[検校 (中国)|検校]][[常州]]刺史を歴任した。[[宣州]]の朱大目<ref>『[[旧唐書]]』薛登伝による。『[[新唐書]]』薛登伝は「鍾大眼」とする。</ref>が反乱を起こすと、謙光は防備を厳重にして民衆を安撫し、州内を落ち着かせた。[[刑部]][[侍郎]]に転じ、銀青光禄大夫の位を加えられた。二度異動して尚書左丞となった。[[景雲 (唐)|景雲]]2([[711年]])、[[御史大夫]]に抜擢された。ときに僧の恵範が[[太平公主]]の権勢をたのんで、民間の商店から略奪して、州県も取り締まることができなかった。謙光は殿中の慕容玽とともに上奏してこれを弾劾した。このため太平公主と反目し、[[岐州]]刺史として出された。恵範が殺害されると、謙光は太子賓客となり、刑部尚書に転じ、金紫光禄大夫・昭文館学士を加えられた。[[開元]]初年、東都留守となり、さらに太子賓客に転じた。謙光は太子[[李瑛 (唐)|李嗣謙]]の[[避諱|諱を避ける]]ため、登の名を賜った。ほどなく子の薛悦が憲司に弾劾されると、薛登もその罪に連座して郷里に帰された。開元7年([[719年]])死去した。享年は73。[[晋州]]刺史の位を追贈された。編著に『四時記』20巻があった{{Sfn|旧唐書|1975|p=3141}}{{Sfn|新唐書|1975|pp=4171-4172}}。
 
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:せつ とう}}
[[Category:唐代の人物]]
[[Category:河東薛氏|とう]]
[[Category:647年生]]
[[Category:719年没]]